時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

壁は越えられる

2018年02月27日 | 移民政策を追って

 


平昌オリンピックも終り、TVや新聞のニュースも以前の軌道に戻りつつある。懸念された朝鮮半島での突発事件もなく、スポーツの祭典の目的をほぼ達成し得たのではなかろうか。オリンピックを政治的な目的に利用しようとの動きは見られたが、大きな進展があったとは思えない。

人々はオリンピック以前から続く環境の軌道へと戻ってゆく。前回記したように、いまは人の移動に適した時期ではないが、本格的な春の訪れとともに、移民・難民は目的達成のためにふたたび動き出し、問題は一段と深刻化するだろう。

前回はヨーロッパの最近の事情をみたが、今回はアメリカに目を移してみたい。しばらくメディアから離れていたあのDACA(Deferred Action for Childhood Arrivals)問題に再び注目が集まりつつある。2012年オバマ大統領が行き詰った移民制度改革の中、大統領令で事態改善を図った問題だ。

対象は、子供の頃、親に連れられてアメリカへ何も知らないで不法入国していた子供たちのその後の処遇だ。幼い子供の頃、両親などとアメリカ国境を渡った子供たちが今やティーンエイジャーになっている。しかし、気づいてみると、彼(女)たちは自動車の運転免許証も持てないし、友達と海外旅行をすることもできない。アメリカ入国時に必要な書類を保持していないので、旅券も交付されない。入国審査官や警察官に身分証などの確認を求められた場合、強制送還される恐れがある。

こうした状況に、オバマ前大統領は事態の是正を図り、アメリカ在住の間、犯罪を犯すことなく、規定の学習水準を達成することを条件に、2年毎に更新できる救済策を設定した。これらの救済の対象となる「ドリーマーズ」Dreamers と呼ばれる人たちは70万人くらいと推定される。しかし、トランプ大統領になって彼らの将来は保証されなくなってしまった。オバマ大統領が議会で新たな支出なく制度を実施する手続きを踏んでいないからだとの理由である。

2017年2月、トランプ大統領はこの制度を本年3月5日で廃止すると発表した。しかし、サンフランシスコ連邦地裁などが本年1月、政権のDACA撤廃の大統領令に差し止め命令を出していた。
トランプ政権側は、判断を急ぐ必要があるとの理由で控訴裁判所(高裁)を通り越し、最高裁に上訴していた。これについて2月26日、アメリカ連邦最高裁はDACAの撤廃を審理しないとの判断を行なった。トランプ政権の訴えでは3月5日に打ち切られる予定だったが、現行制度は当面存続することになった。改めて包括的な移民制度改革が必要とされるが、トランプ大統領はかねて主張してきた国境壁の延長増築を具体化する動きに出るだろう。

壁で人の移動(不法移民)を阻止できるだろうか
専門機関(Pew Research Center) の世論調査(2018/1/19)では、「ドリーマーズ」には合法的永住権を与えるべきだとの考えを持つ人々は、調査対象者の74%近く、共和党支持者でも50%近くに達している。
さらに興味深いのは「壁」の増築問題への反応だ。「ドリーマーズ」へ合法資格を与えるべきだとし、「壁」の増築には反対と考える人々は、全体の54%、民主党系の人々では80%に達する。
論及すべき点は多いのだが、直裁にいえば、物理的な壁では不法移民(越境者)の十分な規制は期待できないとの考えが少しずつ増えているようだ。

その理由は、壁はより包括的な出入国管理政策の一部にすぎないからだ。かなり多くの人が今では、国境の壁の構築はそれに要する膨大な費用、必要な時間、管理コストを考えると、非現実だと思うようになっている。アメリカに入国している不法滞在者の実態が明らかになるにつれて、彼らのおよそ40%はアメリカに旅行者などで合法的に入国し、査証の定める期限を越えて滞在しているいわゆる「overstayers」であることが分かっている。

「壁」では不法越境者の流れを阻止できないとなると、何がなされるべきなのか。国境の存在を認める限り、真にあるべき出入国管理政策の構築が焦眉の課題となっている。実はアメリカ以上にこの重大な課題に迫られているのは、人手不足が多くの経営を脅かしつつあるこの国、日本であることに国民はまだ気がついていない。2020年は目前に迫っている。

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旅の終わりはどこに

2018年02月19日 | 移民政策を追って

 「長い旅路の果ては」
シリアで戦火に追われ難民となった三つの家族、母親、父親と子供との旅の経路をTIMEの記者が追う。
彼女たちはいずれも旅の途上で出産し、子供と共に苦難の道をたどった。
いずれの家族も現在の地に到達するまでに他の家族以上に制約も多く、苦難な旅であった。
3つの家族のケースは、赤、青、黄色の3色で分別されている。 

”Journey’s End” TIME Dec.25, 2017




オリンピックの開催中だけは、流石に北朝鮮もアメリカも危うい行動は控えているようだ。世界的な異常気象の影響もあって、とりわけ北半球は悪天候、豪雪などで、人の動きにも支障が出ている。移民・難民が目指す地域も、移動が困難になっている。とりわけエーゲ海、地中海などでの冬の海上移動は事実上不可能だ。

“TIME” 誌が昨年3家族について、シリアからの子供連れの家族の長い旅の過程を追う記事を連載してきた。その最終回は、彼らが現在の場所までたどり着いた経路のストーリーであった。

第一の家族(青色)は、ギリシャの都市テサロニキに滞在していたシリア人家族の話だ。彼らが長い旅を始めたのは2012年10月のことだった。内線で危険になった母国シリア国内を2年近く転々とした後、ギリシャへ入国し、難民申請をした。今まではUNHCRが管理する家で、月額Euro550[$646)を生活費として給付されてきた。しかし、この家族の父親は29 歳、とりたてて特技もない農民として生きてきた。失業率が21% にもなるギリシャで今後まともな職につける当てはない。そこで彼は決断を迫られる。ドイツへ行くしかないと。そして、再び難民の集団に身を投じる。2015 年にギリシャの浜辺へたどり着いて以来、2年間も難民でいた彼らにはもうそれしか考えられなくなっていた。

この時はEU側にとっても決断の時だった。国際的には最初の到着國が難民の受け入れ国となる取り決めだったが、ギリシャをはじめとして受け入れ不能を訴える国が続出した。ドイツのメルケル首相が人道主義の観点から寛容な対応を見せ、多数の難民・移民を受け入れて急場を凌いだ。しかし、EU諸国の間にも断裂は深まり、イギリスは2016年にBREXITに関する国民投票を行い、結果として現在イギリスはEUから分離の過程の最中にある。オランダ、フランス、ドイツなどでもこれまで例を見ない国民的亀裂が生まれ、国民それぞれが自分の足元、そして世界をどう見るかという試練にさらされている。

危機は過ぎ去ったわけではない。各国の様々な措置の結果として、難民・移民の数は2015年と比較すると、2017年には海路経由だけに限っても、ヨーロッパに到着した難民・移民は163,000人に達した。その途上で3,000人以上が死亡している。現在でもおよそ200,000人の庇護申請者、移民希望者が認可を求めて、トルコやイタリアの不完全な収容施設で過ごしている。

2017年末までの18ヶ月に渡って、”TIME” 誌はシリアからの難民3家族と行動を共にし、その間の推移を報道してきた。彼らがトルコの沿岸からヨーロッパに向かった時は、少なくも自分たちはヨーロッパにすでに受け入れられている50万人近い同胞の中に含まれると考えていた。しかし、彼らを含めておよそ6万人がギリシャで足止めされ、それ以上先へ進むことを拒まれてしまった。

こうして目標達成途上で、阻止された難民・移民は、EUが定めた「再配置計画」’realocation program’なる方針に沿って、受け入れが認められた国へ移動することになる。これまでのように難民が希望する国(ドイツやイギリスなど)へ移住できるわけではなくなり、不満も多い。こうして混乱したEUの対応で難民たちはいかなる運命を辿ったのだろうか。

問題のシリア人の3家族はそれぞれ、異なる道を進むことになる。第一のケースの家族は若い夫婦と幼い娘の三人だが、7月にドイツへ割り当てられた。しかし、ドイツへ到着後仮設住宅で半年を過すが、何も進展がなかった。2015年、ちょうどメルケル首相が政治面で移民受け入れ反対の極右政党AfDと対決していた頃である。連立政党のCDUまでもがシリア内戦はほぼ終結しつつあるのだからと、難民の送還に賛同していた。今は送還される不安を抱えながら、ドイツ国内の収容施設にいる。

第二のケースの家族(赤色)は、最初リトアニアに割り当てられたが、最終的には受け入れを拒否され、結局最初に入国したギリシアへ戻され、改めて難民申請をしたが、最終的判定は未だ得られていない。ギリシャのテサロニキに近い難民収容施設にとどまっている。

第三の家族(黄色)は、バルト3国のエストニアに受け入れられたが、環境に満足できず、シリア人の大きなコミュニティーがあるドイツへ移住してしまった。今はドイツ国内で不法滞在の状態にあり、彼らの今後は不透明なままだ。バルト3国へ割り当てられたシリア難民の多くは、環境に満足できず、他国へ流出してしまっている。移民それぞれに様々な理由・背景があり、国籍などで一律に行く先を割り当てることもうまく機能しないことが多い。EU加盟国の間でも、ハンガリーやポーランドは、難民・移民の受け入れ政策をベルリンやブラッセルから指示されることを拒否し、国境管理を厳しいく制限する方向へ移行した。ここに例示した3つの家族の場合も、難民として希望する行き先へはなかなか認められず、国際機関、受け入れ国などの指示するままに流浪の旅の途上にある。

現在実施されている難民・移民政策は関係者それぞれにとって満足できるものではない。難民の流れは短期的には山を越えたが、International Organization for MIgration 国際移住機構のように、世界的な気象変動が地球規模での人々の移動を増加させるとする見解もあり、長期的・安定的な政策の構築が望まれている。難民・移民政策はEU,ILOなどの国際機関、受け入れ国政府などが長年にわたり検討しているが、関係国の利害、見解の相違などもあり、十分適切な難民・移民政策と言える段階に至っていない。

冬季五輪が終わり、春の日が射してくると、世界中で人の動きが活発になることは目に見えている。国際政治の世界も厳しさを増すだろう。祭りの後にはまた苦難の道が続く。




References

”Journey’s End” TIME Dec.25, 2017
Unwelcome choices
The Economist July 22nd-28th 2017

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HOKUSAIの偉大さ:大英博物館展の迫力

2018年02月10日 | 午後のティールーム

 

 Hokusai, Choshi in Soshu province, from the series A Thousand Pictures of the Sea
About 1983, Chiba City Museum of Art
千絵の海、総州銚子、1983年、千葉市美術館

全十図からなる名所絵揃物である「千絵の海」は、「富嶽三十六景」が発表された後の1833年頃に制作されたと推定されている。日本各地の海や川を舞台に、変幻する波や水と、漁業に携わる人々が織り成す情景がいきいきと描かれている。『富嶽36景」のダイナミックさとは異る構図である。藍のグラデーション、ダイナミックな構図が印象深い作品で、波や水しぶきといった、北斎が追求し続けたモチーフである。

葛飾北斎 総州七里ヶ浜,1831年、British Museum
鎌倉の南西に当たる浜辺からの富士山遠望

上と下の作品を比較しても一目瞭然、「動」と「静」の対比が見事に描き分けられている。  

このところ世界的に葛飾北斎の評価が高まっているようだ。ジャポニズムの観点からの企画展が日本で開かれる前に、昨年大英博物館で『HOKUSAI』の企画展(5/25-8/13)があった。日本でもあべのハルカス美術館で開催された(10/6-11/19)。大英博物館の方はコミッショナーがイギリス人美術史家によるもので、ジャポニズムをテーマとした国立西洋美術館展とは異なった視点、Beyond the Great Wave(大浪『神奈川沖波裏』を超えて)で企画されている。北斎の作品はこれまでかなり見てきたと思っていたが、改めて日英両国の企画展に出展された作品を見て、その数と多彩さに驚かされる。ジャンルの広さにおいてもほとんど比肩する画家は見当たらない。世界レヴェルで見て、ダントツな画家といえる。大英博物館展では、前売り券はすぐに売り切れ、当日券も長い行列が続いたようだ。イギリス人の好む植物画も大変人気だったようだ。

北斎の制作活動はきわめて長かったこともあり、生涯における制作点数はきわめて多い。北斎の研究者でも数え方などもあって正確な作品数は分からないようだが、1,000点を越えるとみられる。木版画が一つのジャンルということもあって、作品の浸透度は油彩画などの比ではない。愛好者は日本国内に止まらないだけに所蔵先は広範に渡り、ブログ筆者も実物を見たことがない作品がかなりある。北斎の作品イメージが頭の底に集積されて行くにつれて、日本が世界に誇りうる偉大な画家であることを一段と実感できる喜びがある。

 

HOKUSAI: BEYOND THE GREAT WAVE, Edited by Timothy Clark
Thomas & Hudson, in collaboration with The British Museum, 2017
Cover 

 

 

 

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映画『デトロイト』が語るもの

2018年02月04日 | 特別トピックス



アメリカの200年にわたる人権をめぐる騒乱と勝利の歴史
200年記念号、LIFE Fall Special 1991


映画『デトロイト』

街灯も少なく薄暗く、見るからに荒れ果てた街中。凄まじい暴動が展開し、市街戦のような緊迫した状況が冒頭から映し出される。観客は状況を把握する間もなく、その中へ投入されて行く。犯罪、ヴァイオレンス、そして殺戮につながる緊迫した状況である。あたかも自分が現場に居合わせた当事者のような感じさえ抱かせる。

1967年夏、デトロイトで起きた暴動。市街は瞬く間に危険に溢れた戦場のような状況へと変わって行く。ほとんど半世紀前に遡るが、ブログ筆者は、この年アメリカにいた。TVなどのメディアが伝える凄まじい光景を見ていた。最近話題の映画『デトロイト』を見ながら、記憶は瞬く間に蘇り、半世紀前のアメリカに連れ戻された。

暴動発生から2日目の夜、デトロイトの下町、アルジェ・モーテルの別館で一発の銃声が響いた。実際は銃弾の出ない発砲音だけのモデル・ガンだった。飲酒も手伝い、常軌を逸した黒人(African American)宿泊者の悪ふざけから事態は急展開する。銃弾が自分たちに向けられたと思った警察などは、狙撃者探しのために、手段を選ばない捜索、鎮圧活動に出た。デトロイト警察、ミシガン州警察、陸軍州兵、地元の警備隊などが次々に乗り込み、警官が狭い視野と偏見、目先の問題処理に人間性を喪失し、モーテルの宿泊客たちに不当な強制尋問を始めた。人間性を無視して暴力的に脅迫、自白を強要する。普通の人間なら目をそらす残酷な暴行が進む。これは映画なのだからと納得するしかないのだが、現実もこれに近かったのだろう。

複雑極まる人種差別の実態
基調にあるのは人種問題なのだが、単純な黒人対白人の構図ではない。黒人の警官もおり、黒人への差別的対応を嫌悪する白人もいる。人間ひとりひとりが何を考え、何をするかという複雑な心の内が見事に描かれる。極限状況に追い込まれた人間はどんなことになるか。事態は容疑者探しのための殺人行為にまでエスカレートする。そして犯罪隠蔽のための口裏づくり・・・。登場する人物それぞれの苦悩、怒り、悲嘆、悪意、煩悶・・・などが包み隠さず映し出される。

そして、お定まりのような法廷裁判の場面、多くの黒人傍聴者の怒りの表明にもかかわらず、被告の白人警官3人には無罪の判決。法廷の弁論過程をもう少し克明に写してくれたらと筆者は思ったが、アメリカではこれで十分なのだ。映画全体が、女性のビグロー監督の作品とは、思えない衝撃に満ちている。2時間近い映画に、これだけの内容を組み込んだ監督の力量には真に脱帽する。

’熱い夏’:ニューアーク
実は1967年という年は、都市暴動はデトロイトに止まらなかった。ほとんど同時期の7月ニュージャージー州ニューアーク, プレーンフィールドなどでも勃発していた。ブログ筆者は、暴動発生後10日くらいした時に友人と現場へ行き、一瞬にして言葉を失った。暴動の起きた街の一帯があたかも被災地のように瓦礫の光景に変っていた。暴動鎮圧のために戦車も出動した。砲撃、火災などであたり一帯は破壊し尽くされていた。そこは黒人の増加を嫌った白人たちが、別の地域へと移住した後に入ってきた低所得層の黒人たちの居住地域だった。この時、ニューアークは全米で最初の黒人居住者が最大比率を占める都市になっていた。しかし、市政を支配していたのは旧来の白人政治家たちだった。

警官に黒人を採用するという点でも抜きんでた都市でもあった。しかし、上層部は白人が掌握し、黒人の患部への昇進の道はほとんど閉されていた。当時はさしたる雇用の機会もなく、地域は極貧の世界であった。

こうした中で、デトロイトと同様、事件は2人の白人警官がジョン・スミスという黒人のタクシー運転手を不当に逮捕し、殴打するということから始まった。その後、黒人たちを中心として生まれた暴動は、一挙に拡大し、デトロイト同様に全米の注目を集めることになる。

市街地商店街での無差別な略奪、火炎瓶や道路の敷石、そして威嚇の銃弾が暴徒と化した黒人たちと警官の間を飛び交った。そして、ついに警察側の「必要とあらば発砲やむなし」との判断で、実弾が使われ事態は多数の殺傷者を生む最悪の事態へ突入した。

デトロイトと同様に、この暴動事件はその後1997年に小説化され、映画にもなった。1967年夏は「熱い夏」hot summer として記憶されている。

ニューアーク暴動、1967
mage ownership: public domain


現代アメリカを理解するためにも
このデトロイトやニューアーク暴動で起きた事態は、今なお形を変えて続いており、昨年だけでもかなりの黒人が白人警官に射殺されている。まさに映画『デトロイト』は過去の問題ではなく、現代アメリカの一つの縮図と言える。特にオバマ政権で、大統領を悩ました多くの銃砲による不条理な殺傷事件は、人種間衝突、地域問題、とりわけ警察と地域住民の関係が解消することなく、形を変えて今日まで執拗に続いていることを示した。そして、生まれたトランプ政権は人種問題を極めて倒錯した形で再燃させ、アメリカ社会を分裂の危機へと追い詰めている。

映画のテーマの一部を構成する人種差別問題。「差別」という現象はブログ筆者の研究課題のひとつとなってきたが、「差別」という現象が、単なる好き嫌いとか、考えの違いといった単純な要因から生まれるものではないことを改めて思い知らされる。1964 年公民権法の成立以来、進むべき方向が見えてきたようなアメリカであったが、トランプ政権となって、再び深い混迷の闇へと向かいつつあるかに思われる。人種、地域、教育など様々な点で、断裂と格差の拡大は進行しており、1967年のような暴動などが勃発する可能性も否定できない。アメリカ社会に深まる分裂をこれ以上進行させないために何がなされるべきか。現代のアメリカを理解する上で、多くの問題点を提示してくれる迫真の映画だ。
 


 LIFE誌は2007年廃刊になったが、ブログ筆者はいくつかの記念号を断捨離するに忍びなく、保持してきた。今回も記憶を新たにする上で大変助かった。

追記(2018/2/6) : 朝日新聞朝刊文化・文芸欄には「人種差別の闇 正面から描く。映画は社会問題 問う道具」と題して、キャサリン・ビグロー監督とのインタビューが掲載されている。

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シャーデンフロイデ :日本語は?

2018年02月01日 | 午後のティールーム

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』メトロポリタン美術館、部分


最近訪れた書店で、脳科学者・中野信子氏『シャーデンフロイデ』なる新書に目が止まった。この表題で何をテーマとした書籍かすぐ分かる日本人はどのくらいいるだろうかと一瞬思った。実はブログ筆者はこのテーマにかなり関心を呼び覚まされ、5年ほど前に「他の人に良くないことが起きたとき」という短い記事を掲載している。2000年に刊行されたJohn Portmann, When Bad Things Happen to Other People というこの分野の力作を話題としたものだ。

この書物の表紙には、またもやラ・トゥールの作品『女占い師』が使われていることに読者の注意を促した。世事に疎い貴族の若者がジプシーの占い師に手相を見てもらっている間に、高価な装身具などをハサミで切り取られて盗まれるという光景を描いた作品だ。この画家の作品制作に際しての熟考、検討には何度見ても感嘆する。画家は「シャーデンフロイデ 」を意識して、見る人が貴族の若者が不幸な目に出会う不運を密かに喜ぶものか、あるいは俗界に溢れるリスクに警告を促したものか。画家は制作の意図を明らかにせず、描写に徹して見る人の解釈に委ねている。「深謀遠慮」([文選、賈誼、過泰論] ずっと先のことまで深く考えて計画を練ること:『広辞苑』)の好例と言えるかもしれない。ほぼ同時代のフェルメールなどとは、全く異なる人間の深層心理についての深い精神的 (心理的) 探索がある。いうまでもなく、’Schadenfreude’ などという表現は、この画家が生きた17世紀ロレーヌには存在しなかった。

この言葉、’Schadenfreude’ は改めて述べるまでもなく、元来ドイツ語である。「意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと」(self-harm)という特別の含意がある。18世紀半ば頃に使われるようになったらしい。しかし、この言葉には英語やフランス語の直訳(同義語)がない。一説では、19世紀イギリス国教会の大主教が英語化されるのを執拗に拒んだともいわれる。彼はどんな言葉でもある特有の文化的意味 ‘culture’ を持つと主張した。イギリス、とりわけ宗教界にこうした含意の概念が持ち込まれることを懸念したのだとの推測もあるが定かではない。結果として今日の英語環境でも、ドイツ語表示のままで使われており、大文字で始まっている。今では英語やフランス語にも多少似た類語はあるが、このドイツ語を念頭に作られたものではない。


こうした背景には、このような人間心理は、ドイツ人特有のものでイギリス人は持ち合わせないとでも言いたいのだろうか。しかし、少し考えてみれば分かることだが、こうした心理状態がかなり普遍的な人間心理であり、とりたててドイツ人に限ったものではないことはほとんど自明なことだ。上述のPortmann が明言していることでもある。


最近のひとつの例を挙げると、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン女史がトランプ氏に敗退した時、この言葉を使ったメディアもあった。しかし、その結果がどうなったか。シャーデンフロイデ を感じた人はなにか得をしたのか。あるいは「糠喜び」(あてがはずれて、よろこびが無駄になること。またそのようなつかの間の喜び:『広辞苑』) に終わったのか。なかなか興味深い含意と広がりを持つ言葉だ。言い換えると、人間に固有な影を秘めた特性ともいえる。


ブログ筆者が以前の記事で記したように「バナナの皮で滑って転んだ人を見て笑う」程度ならば許容できるが(?)、「正義」「道義」「節操」justice の領域に踏み込むと多くの難しい問題が生まれる。


他方、日本語では「判官贔屓」(源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓(ひいき), 『広辞苑』)という表現もある。同じような一語での表現が英語、ドイツ語、フランス語などにあるかと少し考えてみたが、思いつかなかった。


「シャーデンフロイデ 」という概念の難しさ、広がりを改めて思い知らされる。

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