時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「数は力なり」の強さと怖さ

2010年09月30日 | 移民政策を追って


 移民の流れは、いつも決まった方向に流れる平静なものではない。しばしば波風が立ち、時にはせき止められ、逆方向に押し戻されることもある。このところ、アメリカ、EUの主要国などでは反移民の動きが高まっている。

 今回はアメリカについて管理人の記憶の断片を含め、少し記すことにしたい。振り返ってみると、1960-70年代のアメリカにあって、その後のアメリカ政治・社会の行方を定めるのは、African-American と呼ばれる、祖先がアフリカ系のいわゆる黒人といわれた人たちの動向次第とされていた。公民権運動が盛り上がっていた時代だ。彼らは主として南部諸州に居住していた。ニューヨークやシカゴなどの大都市ではともかく、当時過ごしたニューイングランドの大学町などでは、彼らはまだ明らかに少数派だった。それでも1960年代末には学生ホールを黒人学生が占拠し、メディアが大きく取り上げる事件も起きた。白人対黒人の対立は、都市を中心に激化の度を加えていた。とりわけ1966-67年の夏は「熱い夏」といわれ、いくつかの都市暴動も起きた。

 しかし、その後、アメリカの人種問題をめぐる焦点は大きく変わった。その対象は、急速に増加したメキシコ人を始めとする「ヒスパニック」Hispanic あるいは「ラティーノ」と呼ばれる中南米系の人たちである。より個別的には「メキシカン」、「チカーノ」、と呼ばれることもある。他方、過半数を占めていた旧ヨーロッパ大陸からの移民の子孫が多い非イスパニック系の白人は、強いて区別するとすれば「アングロス」Angros などと呼ばれるようになった。いわゆるWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の系脈につながる人たちである。

 ヒスパニック増加の最大の要因は、アメリカとメキシコが地続きであり、長らく農業労働者を受け入れていたことにある。「ブラセロ・プログラム」といわれる短期の農業労働者受入れ策は、J.F.ケネディ大統領の時代に廃止されたが、その後も南部諸州、カリフォルニアなどの農園は、彼らの季節労働に大きく依存し、彼らなしには存立できなくなっていた。メキシコを中心とする中南米諸国からの入国者は、査証など入国に必要な書類を保持することなく国境を越え、次第にアメリカ国内に居住し、不法滞在者として、一時は1200万人近くに達した。

 アメリカのヒスパニック系不法移民をめぐる問題は、歴代大統領が有効な実効策を講じることがないままに、政治の行方を左右する重みを持つまでになってしまった。オバマ政権としても中間選挙を目前にしては、得票を左右しかねない政策は打ち出せない。民主党の大敗すら予想されている現在、ヒスパニックの票田をつなぎとめておくことは、オバマ政権には最重要な要件のひとつだ。

 オバマ大統領は、大統領選の間、移民法改革を重要課題と公言しておきながら、就任後今日までほとんど着手してこなかった。中東撤兵、医療改革、メキシコ湾石油流出問題など、想定外の大問題が台頭したとはいえ、移民改革に本格的に取り組んでいるとはいえない。現在のところでは、ひたすら国境の壁を高くし、国境パトロールを強化するなど、包括的移民改革とはほど遠い、一時しのぎの策に終始してきた。これはブッシュ政権末期の政策の踏襲にすぎない。

着実に増えるヒスパニック
 他方、アメリカ・メキシコ国境の壁の高まりにもかかわらず、アメリカ国内に居住するヒスパニック系の数は着実に増えてきた。2009年時点で、アメリカ国内に居住するヒスパニック系は合法・不法を問わず約4840万人、アメリカの総人口のおよそ16%に達すると言われている。ピュー・リサーチ・センターによると、2050年までに、ヒスパニックの比率は人口の29%、他方で白人は47%と過半数を割ると予測されている。「白人のアメリカ」の時代は終わりを告げることになる。個別の都市や学校についてみると、すでに非白人の比率が過半を占める例は珍しくない。

 ヒスパニックが内在する問題は、大多数がアメリカ国内に不法に滞在していることだ。現在、およそ1110万人と推定される不法移民の80%近くは、中南米諸国から移住してきたとされる。そのうち、60%はメキシコからと推定されている。彼らの多くは、米国社会では日陰の存在である。しかし、アメリカの農業、建築・土木、清掃、ベビーシッターなど、アメリカ人がやりたがらない仕事を引き受け、実質的に支えているのは彼らなのだ。しかし、彼らの多くは自動車の運転免許すら取得できず、社会給付の対象にもならない。

 ラティーノの数が少なかった頃は、彼らの州や地域レベルでの政治面の影響力も限度があった。しかし、その数が増加するとともに、カリフォルニア、テキサスなどいくつかの州では大きな政治問題の火だねとなった。しかし、近年、ヒスパニック系が多数居住する州はアリゾナ、ジョージア、ノース・カロライナ州などへと拡大している。それに伴って、それまでの住民と新たに移動してきたヒスパニック系の移民たちとの間に、さまざまな軋轢が生まれている。

新たな人種問題の台頭
 ヒスパニックばかりではない。イスラム系住民への感情も急速に悪化している。あの9.11の悪夢が直接的背景であることはいうまでもない。中東撤兵に踏み切ったアメリカだが、「内なる戦い」が激しさを増している。建国以来のアメリカの伝統的精神構造は明らかに引き裂かれつつある。アメリカが目指した「人種の坩堝」は、遠いものになってしまった。アメリカの知人、友人たちと話をしていると、彼らの行き場のない悩みがひしひしと伝わってくる。近い将来、アメリカにヒスパニック系住民の特別州やイスラム系住民の居住州が生まれることになるだろうか。現実にはそれに近い地域も生まれている。  

 かつて、「数は力となる」とこのブログに記したことがあったが、最近ではアメリカのジャーナリズムまでもがそう言い出した。今はアメリカ国内で不法滞在者として、厳しい環境に耐えているヒスパニックやイスラム系住民も、数が増えれば、発言力も増えると信じている。それが実現するまでの道程は厳しく遠い。しかし、黒人霊歌 We shall overcomeの心は、ここにも生きている。ヒスパニック系の運動でも、歌われるようになった。かつてはじっと耐え、発言をしなかった人々が、アメリカの行方を左右する日が近づいている。


 

References 
'The law of large numbers' The Economist September 11th 2010.

『クローズアップ現代 アメリカ:激化する”反移民”』2010年9月30日(追記)

大学院のクラスメートだった黒人学生のTは、偶然にも寄宿舎でも隣室だったが、西インド諸島トリニダッド・トバコからの留学生だった。彼自身はアメリカ人ではないだけに、かえって率直にアメリカにおける黒人の実態と彼らの考えを、客観的に聞くことができた。当時、白人には到底聞かせられないような心の深部に立ち入った話だった。余談だが、その後、TはUniversity of West Indies の学部長となった。この大学は平和賞を別にすると、黒人で初めてノーベル経済学賞を授与された著名な経済学者アーサー・ルイスが教鞭をとっていた名門大学である。Tとは、約20年後にブリュッセルで開催された國際会議で偶然にも感激の再会をすることになる。Tのたどった人生は、開発途上国からの留学生が母国に貢献するにたどった道として、大変興味深いのだが、本題を外れるので別の機会を待ちたい。

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遠い共生への道:EUのロマ人

2010年09月23日 | 移民政策を追って

Jacques Callot. Les Bohemiens: Le départ



  移民について、EUのフランス、イタリア、スペイン、さらにアメリカなどの受け入れ国で、急速に制限的、内向き志向への転換が目立つ。フランスは、ついにイスラム系住民の公的生活でのブルカ着用禁止を定めた。

 最近、大きな関心を集めているのは、ロマ人(従来ジプシーと呼ばれていた) に関するフランスの対応だ。フランスは国内に不法滞在しているロマ人などのキャンプを撤去する措置に出た。その対象になるのは国内に滞在しながら、法の定める3ヶ月の間に定職に就けなかった者だ。国内労働者でも、就職が厳しい状況で、この措置は強制退去に等しい。ヨーロッパ全体に居住するロマ人は、1100万人近くになる。

 西欧諸国の中には、これまでも、自国内のロマ人不法滞在者に強制送還という直接手段に訴えてきた国もある。たとえば、イタリアなどはそれに近い対応をとってきた。このたびは、フランスが類似した手段に訴えようとしている。フランス国内に滞在するロマ人に、現金の移住費用を与えて、「自主送還」という形で国外退去させるという方法である。 

 フランス人の反外国人感情は高まっており、世論調査などでは、フランス人の半数近くが送還に賛成しているという。フランス内務省の当初の通達内示では、警察が率先して300近いロマ人のキャンプを撤去せよということになっていたようだ。しかし、これがEU司法部などの目にとまったようで、フランス側は急遽該当部分を抹消したが、一時はかなりの政治的論駁の的となった。なにしろ、今はEUが「ロマ人と共生する10年」と定めて、努力の最中なのだから。

 ロマ人の問題は、彼らが単に貧困であることに加えて、さまざまな形で迫害の対象とされてきたことにある。これについては旧大陸ヨーロッパで、長い歴史の中でつくり出され、固定化したという事情もある。ヨーロッパから新大陸アメリカへ渡ったロマ人は、こうした迫害や差別をほとんど意識していない。

 自由と平等、人権重視を標榜しながらも、フランスはしばしば言行不一致な行動に出る。それもかなり強圧的と思われる手段に訴える。ヨーロッパを放浪するロマ人と彼らが滞在する地におけるさまざまな軋轢は、10世紀頃から本質的に変わることなく続いてきた。まるでブレヒトの『肝っ玉おっ母と子供たち』の世界だ。相変わらず、わずかな家財道具を積んだ荷馬車を牽いて、ヨーロッパ国内放浪の旅を続けている。EUが成立する以前は、ロマ人の問題は主として東欧側の諸国に限られていた。しかし、EUの成立・拡大とともに、問題は全ヨーロッパへと拡大した。すなわち、彼らの西方への移動とともに、貧困、犯罪、塵芥放棄などのマイナス面が持ち込まれるという問題が生じた。こうした問題は、定住の地を持たない彼らが放浪の旅を続ける過程で生まれたものだ。東欧諸国で続いた国家分裂、内戦が、彼らの置かれた立場を深刻化させた事情もある。

 現在起きていることは、EUが加盟国を拡大すれば必然的に起きる問題だ。定職につくことが出来ず、国境を越えて流浪の旅を繰り返すロマ人たちは、少しでも豊かさの期待できる地へやってくる。しかし、彼らがつける職はなく、定住の地も与えられない。結局、不況などを契機に社会的軋轢が高まると、出身国への強制送還措置などが実施されてきた。人口比でロマ人が多いルーマニアやブルガリアなどに追い戻される。しかし、そこにも永住の地はない。定住の地が保証されないために、教育を受ける機会も十分ではない。安定した職業に就く者も少なく、現代の産業が要求するような熟練も身につかない。建築現場での下働き、鍋釜の修理、刃物研ぎなどの簡単な仕事だ。それもしばしば歓迎されない。結局、彼らはこれまでのように放浪の旅を続けることになる。何ら進歩のない同じことの繰り返しが続いてきた。

 「教育」と「仕事」はここでも事態改善のための最重要な政策手段と考えられている。しかし、ながらく大家族での生活に慣れているロマ人、とりわけ母親は、子供の「教育」よりも「仕事」を最優先しがちだ。しかし、彼らが就くことが多い低質、低賃金の仕事は、不熟練労働であり、将来性がない。義務教育への就学率はきわめて低い。  

 最近発表されたEU統計局の2009年1月現在のEU域内居住の外国人は3186万人、全人口の6.4%、前年比で0.2%増加している。外国人比率の高いのは、ルクセンブルグの約44%、ラトビア、キプロスの16-17%、スペインの12%、イタリアの6.5%などだ。域内外からの人口移動は、さまざまな規制や差別の壁を乗り越えて増えている。人のグローバル化は、止めることは不可能に近い。 

 EUが域内の人の移動を認める限り、同じことは繰り返し起こる。ブラッセルがいかに強硬な指令を出そうとも、実態はほとんど変わることはない。彼らに安定した生活の場を保証できないかぎり、彼らの間に深く浸透した貧困と差別の実態は基本的に改善されることがない。定住の場と教育の機会を十分に与える以外に解決の道はない。しかし、その道がいかに困難であるかは、これまでの歴史が明白に示している。「共生」は言うはやすくして、実現にはとてつもない努力が求められる。

 日本においても日系

  ブラジル人などの間で、未就学児童が多い。外国人に対する閉鎖性が強い日本だが、人口構造の変化を考えれば、少しずつでも「共生」の経験を積み重ねる以外に、この国の活力を維持して行く道はない。「共生」経験の不足は、閉鎖性の強化につながる悪循環を生むだけだ。

Reference

'Hot meals for hard cases.' The Economist September 18th 2010

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もう一枚の『羊飼いの礼拝』

2010年09月16日 | 絵のある部屋


Jean Le Clerc. Adorations of the Shepherds. oil on canvas, 180 x 137 cm.

「すべての人を照らす そのまことの光が来ようとしていた」
                           (ヨハネ福音書第1章第9節)  


 17世紀前半、ロレーヌ公国が繁栄の時を享受していた頃、ロレーヌには多数の画家が活躍していた。1580年から1635年の間でも、ロレーヌにはおよそ260人の画家と20人の版画家たちがいたといわれる。その半数以上がナンシーに拠点を置いていた。彼らがいかなる活動をし,作品を生み出していたか。そのくわしい実態を知ることは今日になるときわめて難しい。400年を超える年月が経過するうちに、作品や記録の多くは滅失したり、行方不明になってしまった。  

  残された記録から推察するかぎり、こうした状況で画家が生き残るためには、画家として生まれついての天賦の才、画業修業、とりわけローマでの修業経歴、有力なパトロン、貴族階級などとの人的付き合いなど、時代の求めるものへの対応力がさまざまに要求された。

 それでも、時代を超えて燦然たる光芒を放っている画家たちもいる。生存中から華々しい名声を得ていた画家もいる反面、ラ・トゥール、ルナン兄弟などのように、生前は著名な画家であったが、その後長らく忘れ去られ、近年急速に再評価(再発見)された画家もいる。しかし、当時活動していた多く画家は、今日では名前すらほとんど知られていない。たとえば、前回記した
ポウル・ラ・タルテという画家などは、美術史家の間ですら知る人は少ないだろう。

 さらに17世紀ヨーロッパ美術の研究者や愛好者の間では知られていても、その他の人々にはほとんど無名である画家もいる。ナンシー生まれのジャン・ルクレール Jean LeClerc(1587/88ー1633)もそのひとりだが、17世紀ロレーヌ公国のバロック画家として活躍し、テネブリスト(カラヴァジェスキ風の明暗を強調した画家)として知られる。  

 ルクレールは1600年代の初期イタリア、ヴェネティアに行き、その地のカルロ・サラチェーニに学んだ。1615年、支倉常長の建長遣欧使節団を描いた画家としても知られる。彼らは当時のローマ教皇パウルス五世に謁見したといわれる。残念ながら、この画家の才能をうかがい知る作品(油彩画)もわずかしか残っていない(版画は多く残っている)。『羊飼いの礼拝』 The Adoration of the Shepherds はその数枚のうちの一枚だ。このテーマは人気があり、数多くの画家が手がけている。

 ルクレールはロレーヌ出身の画家だが、イタリアで学んだだけにその影響は明らかに感じられる。上に掲げる作品ばかりでなく、ナンシーに現存する『インド人に説経する聖フランシス・ザヴィエル』 St. Francis Xavier preaching to the Indians などを見ると、明らかに
イタリアの光が射している。それもローマとは少し異なるヴェネティアの光だ。素朴な農民の姿そのままのラ・トゥールの『羊飼いの礼拝』とも違った光だ。

 

 

 

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小さなことから広がる世界

2010年09月08日 | 絵のある部屋




ポール・ラ・タルテ(?-1636) 
『演奏会』ロレーヌ、1600-1630年頃
130.0 x 152.0cm
ヴァヴァル城

Paul La Tarte(died in 1636). Concert, Lorraine 1600-1630, Cracow, Wawel Royal Castle, inv.no. 2172.

 先日、『ポーランドの至宝 レンブラントと珠玉の王室コレクション』を見ていた時に、思いがけないことに気づいた。上掲の一枚の作品である。なんとなくどこかで見たような気もするのだが、作者名にはまったく記憶がない。楽士と思われる4人の男が、楽譜を持つ女性を囲んで、楽しげに演奏している光景が描かれている。楽器はリュート、フルート、ルネッサンス・ヴァイオリン、ハープのようだ。17世紀のこの頃には比較的よく見られた主題や構図でもあり、作品の水準としてもとりたてて印象に残る作品ではない

 しかし、短い記述だが、カタログには北方カラヴァジェスキの影響を受け、ロレーヌのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの周辺で活動していた、あまり知られていない画家(a little-known painter from Lorraine)の作品とある。この点に興味を惹かれて、多少文献などを調べてみたが、主要な専門書にこの画家についての言及はなく、わずかに短い一編の論文に出会った程度だ。ラ・トゥールの周辺は謎の部分が多いだけに、今後も新たな情報が付け加えられる可能性は高い。これから少し注意して見てみよう。

 この時代の画家の作品は、古い民家や修道院などに、埃にまみれ忘れられた作品として残っているようなことも十分起こりうる。
最近のひとつの例が、今年ルーブルが購入したルナン兄弟の作品とされる『ペテロの否認』を主題とした絵画(下掲)だ。ルーブルには購入資金がなく、篤志家の援助で購入された。購入価格は1150万ユーロと伝えられている。Web上でしか見る機会がないが、一瞬これがあのルナン兄弟の作品?と思ったくらい、見慣れたルナンの作品とは趣をかなり異にしている。いずれ実物を見る機会があればと思う。この主題は17世紀前半のカトリック宗教改革の中で、好んで取り上げられており、ラ・トゥールも作品を残している

 

  ルーブルが取得に際して発表した内容は、フランス文化省とルーブルが17世紀ロレーヌ派の画家アントワーヌあるいはルイ ルナン Antoine or Louis Le Nain の作と見られる『聖ペテロの否認』1点を取得したというものだ。取得価格は11,500,000 ユーロ(16,560,000USドル)だが、個人の篤志家の資金で購入したとのこと。

 驚いたことは、作品はあのラ・トゥールが工房を置いていたリュネヴィルのある家の屋根裏部屋で見つかったということだ。リュネヴィルは1638年フランス軍の攻撃によって、徹底的に破壊された町だが、どこに残っていたのだろうか。興味は深まるばかりだ。かくして発見された作品は、2000年3月、ナンシーでのオークションで推定20万フランくらいの作品とされていたが、パリの画商シャルル・ベイリーが920万フランで入手していた。作品は直ちに輸出許可の対象から除外され、保険会社AXAの保険が付されている。

 最初気づいたことは小さな問題だったが、考えているうちに想像の世界はとめどなく広がってきた。ささやかな消夏法だ。

 

 *
 2009年4-7月にフランクフルトのシュテーデル美術館が企画した特別展は、この主題をとりあげたものだった。
Caravaggio in Holland: Musik und Genre bei Caravaggio und den Utrechter Caravaggistern, Städel Museum, 2009.

 

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レンブラントに酷暑を忘れる

2010年09月02日 | 絵のある部屋

Cover: Ernst van de Wettering. REMBRANT: Quest of a Genius. Ed. by Bob van den Boogert. The Waanders Publishers, Zwolle, Rembrandt House Museum, Amsterdam, 2006.  

  日本列島が亜熱帯と化した今夏の一日、酷暑を避ける場所を求めて、少し遠出をする。思いついたのが、かねてから頭の片隅にあった『ポーランドの至宝:レンブラントと珠玉の王室コレクション』なる企画展である。いつもはあまり足を運ぶことはない美術館だが、これまでにも訪れているなじみの場所ではある。

 この美術館、知名度はいまひとつだが、常設展の方にも、どうしてここにこれほどの名品がと思うような作品がさりげなく展示されている。ちなみに、日本に2点しか(2点もというべきか)ないジョルジュ・ド・ラ・トゥールの1点も展示されていることは、このブログでも記したことがある。  

 今回、思い立ったのは新聞紙上の展覧会の広告に、上掲のレンブラントの『額縁の中の少女』が使われていたことがひとつのきっかけだった。このブログでも、何度か記しているが、レンブラントの家系について興味を抱き、少し追いかけたことがあった。そのひとつにレンブラントの娘コルネリアCornelia van Rijnのことがあった。そうしたこともあって、一時期、この『額縁の中の少女』のモデルは、コルネリアかと思いかけたこともあった。しかし、すぐに別人であることが分かる。さらに最近の研究では、この作品の下地には別の女性のデッサンが描かれていることも分かっている。詳しい由来 provenanceは不明だが、謎めいたものを含む作品だ。 作品は大変美しい出来映えだ


 さらに、この作品には、だまし絵 trompe-l'œilの技法がされげなく使われており、その点でも興味深い作品だ。レンブラントは新しい試みを、ことさら目立つようには行っていない。静かに試みて、見る側の反応をみているようなところもある。

  この作品、一時期自分の仕事場にポスターを置いていたこともあり、レンブラントの中でもなじみ深い一点になっていた。 作品は1641年アムステルダムで制作され、レンブラントの署名と年記が入っている。著名なレンブラント研究者であり、あの「レンブラント調査プロジェクト」の責任者をつとめたWetering の業績を記念する論文集の表紙(上掲)にもなっている。



Rembrandt, Girl in a Picture Frame, 1641, oil on panel, 105.5 x 76.3 cm, Royal Castle, Warsaw.  (Ernst van de Wettering の編著のカヴァーとかなり色調が異なりますね。どちらが本物に近いでしょう?)。


 この企画展にはもう1点、レンブラントの作品『机の前の学者』 Scholar at His Writing Desk, 1641, Royal Castle, Warsaw が出展されている。いずれ詳細も記したい。両者とも大変素晴らしい作品で、この2点だけを見ることができただけでも、酷暑の中、ここまで出かけてきた甲斐があったとおもうほどだ。これ以外にかなり興味深い美術作品やコペルニクス、ショパン、キュリーなどポーランドが誇る有名人にかかわる展示もあり、きわめて異色の展覧会となっている。夕刻、美術館を出ると、そこは厳しい炎天の世界だった。




『ポーランドの至宝:レンブラントと珠玉の王室コレクション』東京富士美術館、2010年8月29日ー9月26日

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