移民の流れは、いつも決まった方向に流れる平静なものではない。しばしば波風が立ち、時にはせき止められ、逆方向に押し戻されることもある。このところ、アメリカ、EUの主要国などでは反移民の動きが高まっている。
今回はアメリカについて管理人の記憶の断片を含め、少し記すことにしたい。振り返ってみると、1960-70年代のアメリカにあって、その後のアメリカ政治・社会の行方を定めるのは、African-American と呼ばれる、祖先がアフリカ系のいわゆる黒人といわれた人たちの動向次第とされていた。公民権運動が盛り上がっていた時代だ。彼らは主として南部諸州に居住していた。ニューヨークやシカゴなどの大都市ではともかく、当時過ごしたニューイングランドの大学町などでは、彼らはまだ明らかに少数派だった。それでも1960年代末には学生ホールを黒人学生が占拠し、メディアが大きく取り上げる事件も起きた*。白人対黒人の対立は、都市を中心に激化の度を加えていた。とりわけ1966-67年の夏は「熱い夏」といわれ、いくつかの都市暴動も起きた。
しかし、その後、アメリカの人種問題をめぐる焦点は大きく変わった。その対象は、急速に増加したメキシコ人を始めとする「ヒスパニック」Hispanic あるいは「ラティーノ」と呼ばれる中南米系の人たちである。より個別的には「メキシカン」、「チカーノ」、と呼ばれることもある。他方、過半数を占めていた旧ヨーロッパ大陸からの移民の子孫が多い非イスパニック系の白人は、強いて区別するとすれば「アングロス」Angros などと呼ばれるようになった。いわゆるWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の系脈につながる人たちである。
ヒスパニック増加の最大の要因は、アメリカとメキシコが地続きであり、長らく農業労働者を受け入れていたことにある。「ブラセロ・プログラム」といわれる短期の農業労働者受入れ策は、J.F.ケネディ大統領の時代に廃止されたが、その後も南部諸州、カリフォルニアなどの農園は、彼らの季節労働に大きく依存し、彼らなしには存立できなくなっていた。メキシコを中心とする中南米諸国からの入国者は、査証など入国に必要な書類を保持することなく国境を越え、次第にアメリカ国内に居住し、不法滞在者として、一時は1200万人近くに達した。
アメリカのヒスパニック系不法移民をめぐる問題は、歴代大統領が有効な実効策を講じることがないままに、政治の行方を左右する重みを持つまでになってしまった。オバマ政権としても中間選挙を目前にしては、得票を左右しかねない政策は打ち出せない。民主党の大敗すら予想されている現在、ヒスパニックの票田をつなぎとめておくことは、オバマ政権には最重要な要件のひとつだ。
オバマ大統領は、大統領選の間、移民法改革を重要課題と公言しておきながら、就任後今日までほとんど着手してこなかった。中東撤兵、医療改革、メキシコ湾石油流出問題など、想定外の大問題が台頭したとはいえ、移民改革に本格的に取り組んでいるとはいえない。現在のところでは、ひたすら国境の壁を高くし、国境パトロールを強化するなど、包括的移民改革とはほど遠い、一時しのぎの策に終始してきた。これはブッシュ政権末期の政策の踏襲にすぎない。
着実に増えるヒスパニック
他方、アメリカ・メキシコ国境の壁の高まりにもかかわらず、アメリカ国内に居住するヒスパニック系の数は着実に増えてきた。2009年時点で、アメリカ国内に居住するヒスパニック系は合法・不法を問わず約4840万人、アメリカの総人口のおよそ16%に達すると言われている。ピュー・リサーチ・センターによると、2050年までに、ヒスパニックの比率は人口の29%、他方で白人は47%と過半数を割ると予測されている。「白人のアメリカ」の時代は終わりを告げることになる。個別の都市や学校についてみると、すでに非白人の比率が過半を占める例は珍しくない。
ヒスパニックが内在する問題は、大多数がアメリカ国内に不法に滞在していることだ。現在、およそ1110万人と推定される不法移民の80%近くは、中南米諸国から移住してきたとされる。そのうち、60%はメキシコからと推定されている。彼らの多くは、米国社会では日陰の存在である。しかし、アメリカの農業、建築・土木、清掃、ベビーシッターなど、アメリカ人がやりたがらない仕事を引き受け、実質的に支えているのは彼らなのだ。しかし、彼らの多くは自動車の運転免許すら取得できず、社会給付の対象にもならない。
ラティーノの数が少なかった頃は、彼らの州や地域レベルでの政治面の影響力も限度があった。しかし、その数が増加するとともに、カリフォルニア、テキサスなどいくつかの州では大きな政治問題の火だねとなった。しかし、近年、ヒスパニック系が多数居住する州はアリゾナ、ジョージア、ノース・カロライナ州などへと拡大している。それに伴って、それまでの住民と新たに移動してきたヒスパニック系の移民たちとの間に、さまざまな軋轢が生まれている。
新たな人種問題の台頭
ヒスパニックばかりではない。イスラム系住民への感情も急速に悪化している。あの9.11の悪夢が直接的背景であることはいうまでもない。中東撤兵に踏み切ったアメリカだが、「内なる戦い」が激しさを増している。建国以来のアメリカの伝統的精神構造は明らかに引き裂かれつつある。アメリカが目指した「人種の坩堝」は、遠いものになってしまった。アメリカの知人、友人たちと話をしていると、彼らの行き場のない悩みがひしひしと伝わってくる。近い将来、アメリカにヒスパニック系住民の特別州やイスラム系住民の居住州が生まれることになるだろうか。現実にはそれに近い地域も生まれている。
かつて、「数は力となる」とこのブログに記したことがあったが、最近ではアメリカのジャーナリズムまでもがそう言い出した。今はアメリカ国内で不法滞在者として、厳しい環境に耐えているヒスパニックやイスラム系住民も、数が増えれば、発言力も増えると信じている。それが実現するまでの道程は厳しく遠い。しかし、黒人霊歌 We shall overcomeの心は、ここにも生きている。ヒスパニック系の運動でも、歌われるようになった。かつてはじっと耐え、発言をしなかった人々が、アメリカの行方を左右する日が近づいている。
References
'The law of large numbers' The Economist September 11th 2010.
『クローズアップ現代 アメリカ:激化する”反移民”』2010年9月30日(追記)
*大学院のクラスメートだった黒人学生のTは、偶然にも寄宿舎でも隣室だったが、西インド諸島トリニダッド・トバコからの留学生だった。彼自身はアメリカ人ではないだけに、かえって率直にアメリカにおける黒人の実態と彼らの考えを、客観的に聞くことができた。当時、白人には到底聞かせられないような心の深部に立ち入った話だった。余談だが、その後、TはUniversity of West Indies の学部長となった。この大学は平和賞を別にすると、黒人で初めてノーベル経済学賞を授与された著名な経済学者アーサー・ルイスが教鞭をとっていた名門大学である。Tとは、約20年後にブリュッセルで開催された國際会議で偶然にも感激の再会をすることになる。Tのたどった人生は、開発途上国からの留学生が母国に貢献するにたどった道として、大変興味深いのだが、本題を外れるので別の機会を待ちたい。