時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロボットから税金をとる時代は来るか:「RUR」への連想

2005年07月31日 | 仕事の情景

カレル・チャペック、「RUR」への連想


奇妙な言葉の氾濫
 少子・高齢化の予想を上回る速度での進行、「2007年問題」といわれるまでになった「団塊の世代」の大量退職、そしてついにやってきた「大学全入時代」。さらに、「フリーター」、「ニート」と他の国ではほとんど使われない言葉を多数の人が口にする日本はかなり奇妙な国である。 

「フリーター」はメードイン・ジャパン
 ある辞書の執筆にかかわった時に知ったのだが、実際、「フリーター」は日本製?なのだ。語源はどうやら、「フリー」と「アルバイター」を接合させたものらしい。これでは英語freeとドイツ語Arbeiterの接着である。「アルバイト」は、昨今では「バイト」である。ドイツ人もびっくりでしょう。他方、いまや知らないと常識を疑われそうな?「ニート」NEET(Not in Education, Employment or Training)の語源はイギリスといわれているが、しばらく暮らしたイギリスではほとんど聞いたことがなかった。イギリス人でも知っている人は少ないが、日本ではティーンエイジャーがニートで困っているという話を聞かされると、強いヘアローションと細かい櫛で髪をきちんと(ニート neat, 発音も異なる)固めている若者を思い浮かべるというから、かなりの落差がある

 こうした状況で、日本から例のごとく視察団がやってきて、イギリスは「ニート」の先進国?だそうだがと聞かれれば、大変面食らうだろう(ちなみに、日本は視察団の大変好きな国である。「ニート」問題でも多数イギリスへ出かけたらしい。)


深刻なのは労働力不足
 ところで、人口激減時代に入った日本では、最近は公表される失業率もやや低下し、これでフリーターやニートも救われると報じているメディアもあるが、とても手放しで喜ぶ気にはなれない。現実に起きていることは、これまで経験したことのない深刻な労働力不足の先駆けである。とりわけ、土木建設や介護に携わる労働者が不足するだけである。失業者が多くの職種について、大幅に減少するわけではない。多くの若者がフリーターや失業状態でありながら、その裏側では日本人が誰も働こうとしない職場が確実に増えて定着してしまった。そこでは多数の外国人が働いている。

 すでに10年ほど前のことになるが、まだ不況から脱却していなかった頃、静岡県の浜松市で、フィールド調査をしていた時、ある小企業の経営者が嘆いていたことを思い出す。「日本人の若者は半日もいませんよ。それに比べて・・・」と彼が手で示した先には中東系と思われる若者が3人ほど、真剣な顔つきで、油まみれで小さな機械を動かしていた。バブルで見せかけの豊かさを経験してしまった日本人には、もう見られなくなってしまった顔であった。

先が見えない日本
 なぜ、こんなことになってしまったのか。思い当たる点は多々ある。しかし、過ぎ去ってしまったことを嘆いてもしかたがない。日本はこれからどうやって労働力不足に対応していくのか。このごろの政府は、目先の問題に追われてか、日本の将来についての構想はほとんど示さなくなった。少子高齢化対策は、根本的なヴィジョンに欠け、部品の寄せ集めのような印象である。これで、出生率が目立って回復し、子供が増えるとはとても思えない(実際、その後10年近く経過しても、出生数は激減一方である。

移民かロボットか
 労働力不足に対応する道のひとつとして国際的な場で提示されてきた政策のひとつに移民受け入れがある。国連人口部が提案した先進国の人口減を開発途上国からの移民で補充する案は、ほとんどまともに議論されることなく忘れ去られている。これは人口減少の数の点だけをみた提案ではあったが、それを契機に質を含めて、日本のあり方をもっと議論すべきであった。
  
 外国人の受け入れを増やして共存の道を模索することは、最近のテロ事件などをみても、かなりけわしい道のりとなる。10年近くも住んでいて隣人と思っていた人たちが、事件を起こしたとなると、どの国も開放政策には二の足を踏む。しかも、実効ある選択肢は限られている。国民的議論が必要である。


RURの時代?
  もうひとつの道は、ロボットに手助けをお願いすることである。世界ではおよそ80万台の産業用ロボット(アミューズメント・ロボットなどは除く、2003年末)*2 が稼働している。その内、実に34万8千台は日本で動いている。ドイツの11万3千台、アメリカの11万2千台をはるかにしのいでいる。しかも、1台で何人分もの仕事をこなしている。

  日本は世界でも突出した「ロボット王国」である。ロボットにはニートもフリーターもいない。文句もいわずに昼夜を問わず働いている。いずれ「国勢調査」の人口にロボット人口?を数える時代が来るかもしれないと思うのは、炎天下でのあながち妄想ではない。「ロボット」という言葉を初めて使ったチェッコの国民的劇作家カレル・チャペックは、その名作「RUR」(ロッサム・万能ロボット製造会社、1920年)の中で登場人物に次のように云わせていた。


バスマン ははは、こいつはいいや! ロボットはなんのために作るのか、だってさ!

ファブリー 労働のために、ですよ、グローリーさん。一人のロボットは二人半前の働きをします。人間の労働者ってのはね。グローリーさん、恐ろしく不完全なしろものでした。早晩その地位から追われるべき運命にあったんですよ。

バスマン そのうえ費用ばかりかかってね。

ファブリー
 能率的じゃなかったんです。人間の労働者はもう近代産業の要求には応じきれません。しかるに自然のほうでは近代的労働と歩調を合わせる考えなどすこしもありませんからね。たとえば、技術的見地からすれば子供時代なんてものはまったく愚の骨頂でね、えらい時間の浪費でしかありません。そしてまた――

カレル・チャペック「RUR」『海外SF傑作選 華麗なる幻想』所収(深町真理子訳)、講談社文庫

Reference

*  Neet generation Education Guardian.co.uk
*2  International Federation of Robotics (IFR)

 2014年現在、「フリーター」も「ニート」もほとんど使われなくなった。もしかすると、意味も忘れられているかもしれない。

  

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グローバル化に追いつけない労働組合:AFL・CIO分裂の危機

2005年07月26日 | グローバル化の断面

労働組合はどこへ行くのか

  グローバル化が進み、企業の海外移転、リストラ、パート化などが日常化している今日の働く世界で、侵蝕される一方の労働者の立場を擁護してきたのが労働組合であった。しかし、その基盤は急速にもろくなっている。リストラ旋風が吹きすさんだ日本の90年代後半、しかし、反対する争議もほとんど起こらなかった。70年代には、8000件を越えたこともあった争議件数だが、2003年には全国で872件、そのほとんどは、争議行為も伴っていない。争議をすることが良いといっているのではない。働く人たちの権利は、正当に守られているのかということが問題である。

分裂不可避なAFL-CIO 
  アメリカでAFL-CIO(米労働総同盟産別会議)の年次大会がシカゴで開かれている。1955年にAFL(労働総同盟)とCIO(産業別組織会議)が合併して発足したアメリカ最大の労働組合の全国組織である。組合員数は1300万人を越える。58にわたる産業別組織をひとつの傘の下に擁してきた。アメリカの政治においても、一大勢力であった。
  AFL・CIOは「ビッグ・ビジネス」の国アメリカにおいて、一時は「ビッグ・レイバー」と呼ばれ、巨大企業を相手に労働者の労働条件改善に多大な政治的・経済的力をふるった。ワシントンD.C.のホワイトハウスの前に本部があり、一時は新大統領が就任すると、すぐに挨拶に出向いたというほどの力を持っていた。

民主党の付属物?
  10年前の1995年、AFL-CIOの新委員長に選出されたジョン・スィーニ委員長は「われわれは民主党のラバースタンプ(深く考えずに承認する)ではない」と宣言したが、いまや事態は逆に近く、民主党の付属物のようになっている。昨年のケリー大統領候補の擁立過程でも、形通り民主党側に立ち、動員をしてきた。
  しかし、その組織率(労働者全体に占める組合員数)は、過去10年間で15.5%から12.5%へと低下、民間企業部門だけみると8%になってしまった。1950年代は、全米労働者の3分の1以上を組織化していたのだが。衰退の原因はひとつではない。これまで組合員の多かった製造業が地盤沈下に、組合側の対応は遅れた。政治に資金を使いすぎたとの批判もある。

離反する加盟組合  
  さらに、今回の年次大会で、サービス従業員労組(SEIU)、トラック運輸労組、食品・商業労組、縫製・繊維労組など4つの産別労組が欠席し、AFL-CIOからの離脱を図っている。内部対立の原因のひとつは、スィーニー委員長が今年5月、組合員の獲得のために年2250万ドルを使うという予算案を公表したことにある。 他方、今回欠席したSEIUのスターン委員長は「組合員獲得には年6千万ドルを投じ、このうち2500万ドルを巨大企業の組織化に集中投入すべきだ」と主張、対立が激化した。
  対立の具体的焦点のひとつは、小売り最大大手のウォールマート・ストアーズの組織化である。同社は全米最大の小売業で170万人の従業員を抱えるが、労組がない。そのため、低賃金で医療費福利厚生が不十分と指摘されてきた。同社が進出してくると、地域の賃金率が下降するともいわれている。分裂はいまや不可避の段階に来ているが、別の背景として、産別労組の連合体というAFL-CIOの組織自体が行き詰まったという指摘もある。

変化に対応できない組合
   インターネット技術の進歩で、夜間は仕事をアメリカからインドへ送って委託生産させるという「24時間企業」まで現れる時代となった。「仕事の世界」は激変の途上にある。かつては労働者の力強い味方であり、民主勢力の基盤の一角を構成したAFL-CIOだが、時代の動きについていけないという感じもする。

  経営側は、(たとえば、組合の扇動家になりそうな人物を雇用しない、職場の人員配置をティーム制にして不満を表面化させないなど)労働者に組合を必要と感じさせないような対応を巧みにとっている。かつて1970―80年代には、アメリカ労使関係の調査のために何回も訪れ、強大な力に圧倒される思いもしたAFL-CIOだが、いまや老大国と化したのだろうか。1955年、AFLとCIOの統合の時からの推移を見つめてきた者の一人として、多くのことを考えさせられる。このまま分裂が進んでも、労働者を支える基盤は脆弱化するばかりでグローバル化の進行の前に見通しは暗い。「仕事の世界」が大きく変わっていることへの認識と新しい労働運動のヴィジョンが必要な時である。日本の組合にとっても、「対岸の火事」ではない(2005年7月26日記)。


*この記事を投稿してまもなく、AFL-CIO参加のサービス従業員労働組合(SEIU)とトラック運輸労組が、AFL-CIOからの脱退を表明した。このふたつの組合の組合員数は320万人と、AFL-CIO全体の25%に達する。さらに、他の産別組合が同調し、脱退する可能性がある。しかし、残存側と脱退側の組合の間には、労働組合運動についての基本的なヴィジョンや方針に大きな差はなく、労働運動全体の一段の地盤沈下は不可避である(7月27日記)。

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レンヌの赤ちゃんは誰の子守歌を

2005年07月23日 | 書棚の片隅から

Les Berceuses des grands musiciens (1 livre + 1 CD audio) de Paule Du Bouchet, Johannes Brahms, Franz Schubert, Wolfgang-Amadeus Mozart, Collectif, Callimard Jeunesse Musique, France Inter, 1999 


    暑中お見舞い申し上げます。異常気象や同時多発テロで、世界は大変騒がしくなっています。今日はちょっと一休み。前回に続き、お子様向きの本の紹介をしましょう。数年前に、フランスの子どもたち(大きくなった子ども?も含む)向けの本として評判になった小さな本がありました。それがこの『大音楽家の子守歌』です。

  表紙に描かれた絵は、レンヌ美術館にあるあの「生誕」(Georges de La Tour, The New Born Child,c.1645, Musée des Beaux-Arts, Rennes)です。「世界一可愛らしい赤ちゃん」ともいわれていますが。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名を聞いたことがない人でも、この絵を見たことのある人は多いでしょう。私の仕事部屋の壁にも、ポスターですが、外されることなくかけられています。
  
  さて、この本には20曲の子守歌が、楽しい絵やストーリーとともに掲載されています。ブラームス、モーツァルト、シューベルト、フォーレ、ウエーバー、ショパン、グリーク、ヴォルフ、ドヴォルザークなど、大人にも大変楽しめる内容です。ところで、ラ・トゥールの「生誕」の赤ちゃんは、誰の子守歌を聴いて眠っているのでしょうか。答は、下にあります。


Flies, Bernhard (attribué á Mozart)

Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein,
Es ruhn nun Schäfchen und Vöglein,
Garten und Wiese verstummt,
Luna mit silbernem Schein
guckert zum Fenster herein,
Schlafe beim silbernen Schein,
Schlafe mein Prinzchen, schlaf ein !
Alles in Schlosse shchon liegt.
Alles in Schlummer gewiegt;
Reget kein Mäuschen sich mehr,
Keller und Küche sind leer,
Nur in der Zofe Gemach
tőnet ein schmachtendes Ach!
Was für ein Ach mag dies sein?
Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein!
Wer ist beglückter als du ?
Nichts als Vergnügen und Ruh !
Spielwerk und Zucker vollauf,
Und noch Karossen im Lauf,
Alles besorget und bereit,
Daß nur mein Prinzchen nicht schreit,
Was wird da künftig erst sein ?
Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein !
Schlaf ein, schlaf ein !


          Friedrich Willhelm Gotter


参考

作詞者 堀内敬三 作曲者 フリース

眠れ よい子よ 庭や牧場(まきば)に
鳥も羊(ひつじ)も みんな眠れば
月は窓から 銀(ぎん)の光を
そそぐ此(こ)の夜眠れ よい子よ 眠れや

家の内外(うちそと) 音(おと)は静まり
棚(たな)のねずみも みんな眠れば
奥(おく)のへやから 声のひそかに
ひびくばかりよ眠れ よい子よ 眠れや

いつも楽しい 仕合(しあわ)せな子よ
おもちゃいろいろ 甘(あま)いお菓子(かし)も
坊(ぼう)のお目覚(めざ)を みんな待つゆえ
夢に今宵(こよい)を眠れ よい子よ 眠れや

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仕事のよろこび

2005年07月20日 | 書棚の片隅から

『仕事ばんざい ランベルト君の徒弟日記』


ランベルト バンキ (著), 小泉 和子 (編集), 中嶋 浩郎 (翻訳), パオラ ボルドリーニ (中央公論社、1992年)

  中世以来、職人を養成する場としての工房の世界については、断片的には資料がないわけではない。さまざまな職業について、それぞれの国々でかなり膨大な記録が残されてきた。だが、ほとんどの記録は、徒弟から職人、そして親方にいたるまでの制度あるいは生活の叙述が主となっている。特に、私が知りたいと思うのは、画家の工房における熟練・技能の伝承、形成の過程である。未だ幼い年齢の徒弟が、工房において、使い走りやさまざまな日常の雑事に走りながら、兄弟子の職人や親方から熟練・技能の機微をどうやって教えてもらうかという部分は、ほとんど明らかではない。
  たとえば、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代には、画家を志す徒弟は、工房で顔料の選び方、調合、配色の仕方、デッサン、キャンバスの準備、下地塗りなどを、どんな時に、いかなる方法で教わったのだろうか。多少なりとも、体系だった伝承の方法が社会的に成立していたのだろうか。もし、そうであるとすれば、いつごろ、どのあたりの工房が先駆だったのだろうか。
  ラ・トゥールの時代の工房についても、徒弟契約などの内容はかなり記録が残っており、徒弟の保護者や親方との契約の内容について、概略は知ることができる。しかし、それは契約上の文言にすぎない。実際の工房の日常は、ほとんど分からない。こうした中で、職種も異なり、時代もずっと新しいのだが、未だ歳も幼い徒弟が残した日記が公刊されている。しかも、日本語訳で読むことができる。とても興味をひいたのは、当の日記の筆者がフィレンツェで金具職人として現役で働いておられ、そのインタビューが含まれている点である(実は、本書は私の愛読書のひとつでもあるのだが、残念ながら今は絶版になってしまっている)。

小さな愛すべき本
  この小さな本は、イタリアのフィレンツエェ市に住む金具職人であるランベルト・バンキさんが、初めて徒弟になった時にお母さんから、学校で習った字を忘れてしまわないようにといわれてつけた日記である。日記の最初に「ママが間違いをなおしたランベルト・バンキの日記」とほほえましい記述がある。実際には直されなかったそうだが。バンキさんは、1946年、13歳で小学校を卒業するとすぐに、金具職人のヴァスコ・カップッチーニさんのところに弟子入りした。そして弟子入りした1946年9月16日から、翌年の5月30日までの8ヶ月(3ヶ月病気で休んだので正味は6ヶ月)の記録である。

徒弟の日々
  なによりも、興味があるのは、未だ10代の年若い少年の目線で、日々の生活が描かれていることにある。予想したとおり、親方にいわれて使い走りをしたり、掃除をしたりしながら、仕事を覚えていく徒弟の日常が伝わってくる。ヴァスコ親方は、“チェルリーニ”(16世紀の有名な金銀細工師)とあだなされていたような名人だった。
  この親方の下で、バンキさんは17歳まで4年間徒弟としての修業をしていた。当時の標準的なキャリア形成のあり方だった。その間、15歳から17歳までの3年間、国立の「職人のための夜間のデザイン学校」に通った。1年目は装飾デザインやデッサンなどの基礎的な勉強で、2年目から専門のコースを選んでいる。(私も、かつてミラノにあるブレラ美術館付属の同様なコースを見学に行って、こうしたことができるのは、実にうらやましいなと思ったことがあった。)

親方の仕事を継ぐ
  さて、バンキさんは17歳で学校を終えると、徒弟から一人前の職人「オペライオ」になった。そして、25歳で結婚している。これも、当時としては、職人として身を立てる普通のイメージに沿っているといえよう。職人になってからは、親方を助けて仕事をしていた。ところが、1965年にヴァスコ親方が急死してしまう。親方の息子は、すでに医者になっていたので、バンキさんが仕事と仕事場を引き継ぐことになった。そして、今やヴァンキ親方と同じように名人といわれ、文化財の修理とか、美術品の制作など難しい仕事を頼まれ、今も忙しく働いているそうだ。

大人にとってのカタルシス
  日本語訳のこの本には、バンキさんの日記に挿入されている可愛らしい挿絵を含めて、仕事場や町の様子が挿絵化されて彩りを添えている。これは、一見すると、子ども向けの絵本であるかに見える。しかし、「フリーター」や「ニート」といった言葉で、難しく現実を「分析」したり「解釈」しようとする大人たちに読んでほしい仕事の世界の素朴な原点が描かれている。多少なりとも、カタルシスの役割を果たしてくれるだろう。   

  なによりも、感動するのは、徒弟という少年の目線で、毎日起こったことが淡々と綴られていることだ。仕事の難しさ、親方にほめられた時のうれしさなどが、感性豊かに残されている。仕事の楽しさ、厳しさ、仕事をすることの楽しみと生き甲斐――これらは、すべて現代社会において失われつつあり、その再生を求めて様々な努力も行われている内容である。「ものづくり大学」がつくられ、「13歳のハローワーク」がベストセラーになったが、そうした試みが伝えきれていない素朴なメッセージがここにはあるように思われる。


目次
1 弟子入り
2 初めての給料
3 仕事を覚える
4 小さいけが
5 白い猫
6 僕の傑作
7 夢
8 かなしいできごと
9 足ぶみ式旋盤機
10 ねずみ退治
11 お使い
12 クリスマス
13 親方の手術
14 細工場のこと
15 掃除
16 仕事になれて

(2005年7月20日記)

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仲間がいれば怖くない! アメリカ社会に定着した不法滞在者

2005年07月18日 | 移民の情景

力強いヒスパニック系移民:アメリカの未来を決める  

  アメリカの移民政策は、これまで数多くの転機を経験してきた。現在、新たな移民法案The McCain-Kennedy immigration billが議会で検討の過程にあることは、2005年6月8日「政治的存在としての国境」に紹介した通りである。

  その後、7月7日ロンドンで同時多発テロが発生した。犯人像が次第に浮かび上がり、一般市民としてイギリス国内に定着していた移民の可能性が高いとして、イギリスのみならず先進国の出入国管理・移民受け入れ政策は、大きな衝撃を受けて揺れ動き、方向性の立て直しにとまどっている。移民・外国人労働者についての論評も急激に増加している。今回のロンドン・同時多発テロで移民大国アメリカでもあの9.11の衝撃は、再び人々の心に迫真力をもってよみがえっている。

膨大な数に達した不法滞在者
  しかし、同時にアメリカでは事実としての不法移民の大きさが無視できない規模に達し、新たな対応の必要が急務となってきた。アメリカ国内には正規の入国許可に必要な書類を保持していない「書類不保持者」undocumentedとよばれる不法滞在者が、その家族をあわせると推定で1100万人を超えて居住している。
  その源をたどると、ほとんどがアメリカ・メキシコ国境を合法的な入国に必要な書類を持たずに越えた人々である。そのために、アメリカ市民、合法的な入国をした者ならば必ず持っている社会保障番号Social Security numberなどを持っていない。そのため、これまではアメリカ経済の表面に出ることはできず、いわば隠れた存在であった。

Matrículaは地上の世界に出るための切符となるか 
  しかし、しかし、最近ではこれらの主としてヒスパニック系の越境者の間に、「半合法化」のような世界で生きるためような手段を求めることが行われている。それは、不法入国後、近くのメキシコ領事館へ出向き、領事館登録matrícula consular といわれる証明書にサインする。この証明書の申請をする者の半数以上が不法入国者であるといわれている。そして8百万以上(多くは不法)の労働者が個人の納税確認番号を内国歳入庁から発行されている。彼らは社会保障カードは受給されていないが、なにかの仕事についていたり、資産を所有しており、アメリカの税金を支払うことが可能である。ある程度の経済力を蓄えた不法滞在者が生まれてきたといえる。
   エスニック・ビジネスといわれる主として同じ移民たちを対象とするさまざまなビジネス・チャンスが生まれてきた。たとえば、モバイルトレイラーを使ったメキシコ系のタコスの販売店などである。 こうした状況が展開するにつれて、アメリカ南部や西部の金融機関などで、この証明書matrículaを銀行口座、クレディット・カード、車のローンなどの開設にあたって、正式証明書と認めるようになった。ここまで到達した不法滞在者は、その次のステップとして、内国歳入庁に個人税確認番号(ITINs)を請求する。運良くこれが認められると、一般のアメリカ市民並みに税金を支払うことになる。

不法移民を対象とするビジネスの発展
  そうなると、住宅の抵当権設定などもできるようになる。従来からヒスパニック系に好意的なウエルズ・ファーゴ銀行のロスアンジェルス支店などでは銀行口座が開けるようになった。小切手を使ったり、貯蓄もできるようになる。企業はこれまで隠れていた不法滞在者の潜在的経済力に目を付けたのである。そして、これらの隠れた消費者をビジネスの対象にし始めた。 ウエルズ・ファーゴ銀行には50万人近いヒスパニック系の口座があるが、その半分以上は不法滞在者の名義であると推定されている。他の銀行・企業もこの隠れた市場に目をつけ始めた。ある調査では、不法移民の84%は18-44歳層の働き盛りである。合法的な市民の場合は60%である。これまで、地下に隠れていた労働力が活力をもって地表に出てきたといえる。ビジネス側からみると、相手が不法滞在者であっても、かれらがいまや所有するにいたった膨大な貯蓄や消費力の魅力には抗しがたくなっている。

市民の反発も
  こうした不法移民を消費者とみるビジネス主導の展開については、一般市民の根強い反発もある。過去20年以上、ヒスパニック系はアメリカ市民の賃金水準を引き下げ、学校、病院その他の公共サービスを使って、その質を劣化させていると批判され、マイナスのイメージがつくられてきた。 しかし、3200キロにもなるアメリカ・メキシコ国境は、メキシコ側からみると進入しようとすれば危険も多いが、抜け穴も多い。越境者を助け、それを商売とする悪辣なコヨーテも活躍している。国境警備をいかに強化しようとも、越境者が波のように押し寄せてくる。はてしないせめぎ合いが繰り返されてきた。そして、年月の経過とともに、アメリカ国内に次第にヒスパニック系の大きなコミュニティが形成されてきた。

アメリカ人がやらない仕事の構造化
  そして、アメリカ人労働者がほとんど就労しなくなってしまった職業が多数生まれている。たとえば、農業労働、レストランの皿洗い、芝生の刈り取りなど枚挙にいとまがない。ヒスパニック系労働者なしには、機能しない産業分野も多くなった。 しかし、アメリカ・メキシコ間には、大きな所得・賃金格差が存在している。
  現在の段階では、移民で国家を形成してきたアメリカといえども、国境を全開してヒスパニック系労働者を大量に受け入れることは、諸般の情勢からも不可能である。現在議会に上程されている法案に含まれる短期環流型の「ゲストワーカー」プログラムを導入しても、年間40万人くらいの受け入れが限度とみられている。 さらに、ゲストワーカー・プログラムを導入したとしても、アメリカで稼ぎ得た貯金などが、母国へ環流する仕組みが確立されねばならない。とりわけ、貧困に悩むメキシコ南部へ資金が流れ、活性化が図られるためには、想像を絶する努力と年月を要するといわれている。 
  現在進行しているアメリカの移民法改正は、多くのアメリカ人にとっては、にわかに受け入れがたい内容も含んでいる。しかし、NAFTA成立後の世界にとって、国境の不分明化は当然予想された変容ともいえる。 根付いた不法移民ヒスパニック系の住民の32%は、銀行口座を持っていないと推定されており、不法移民となるとその比率はもっと低くなる。
  企業は不法滞在者を商売の対象とすることに不安も抱いている。それは、公共財を浪費しているとの従来から続く批判を再燃させることにつながりかねないからだ。 他方、現在は不法に滞在しているヒスパニック系移民や家族にも一種の開き直りのような状況が定着しつつある。ヒスパニック系を中心とする外国人労働者やその家族が社会に広く定着し、彼らなしには地域の産業・企業が成立しないという状況の形成である。移民研究者たちは時に「構造的定着」structural embedednessと称している。

   これだけ増えてしまったヒスパニック系不法滞在者をアメリカ政府が、強制的に大量送還するということは、現実的にはほとんどありえなくなった。不法移民にとってみると、「仲間がいれば怖くない」という状況が形成されている。アメリカの移民政策がいかなる方向に転換するか、大変注目される決断の時が迫っている(2005年7月18日記)。

References:
Brian Crow.“Embracing Illegals” Business Week, July 18, 2005

Wayne A. Cornelius & Kuwahara Yasuo, Changing Ways of Utilizing Foreign Labor in the U.S. and Japanese Economies, Final Report Submitted to the Japan Foundation/Center for Global Partnership, 1998.

桑原靖夫編著『グローバル化時代の外国人労働者:どこからきてどこへ』東洋経済新報社、2001年

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ラ・トゥールを追いかけて(31)

2005年07月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ラ・トゥールのデッサン?* 

ラ・トゥールは誰に師事したか:徒弟の時代(II)
  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた現在のフランス北西部に位置するヴィック・シュル・セイユの町は、今でもあまり知られてはいないが、16世紀には多くの芸術家を生んだ豊かな風土を誇っていた。その片鱗は今に残る教会その他の建物の装飾、残された絵画などから推測できる。ラ・トゥールを記念してこの町に設立された美術館Musée départemental Georges de la Tourの所蔵品などにも、往時の豊かな精神風土を感じるものがある。

   
    ラ・トゥールと同時代に、ヴィックの近くのナンシーでは、美術史家の間にもよく知られたベランジェBellange やコンスタンConstantが活躍していた。特にベランジェは、1595年にロレーヌへ移り住み、17世紀の最初の20年間はナンシーにおいて卓越した存在であった。ラ・トゥールが徒弟という形で師弟関係にはならなかったとしても、影響を受けたという意味では、最も可能性の高い教師とみられてきた。ラ・トゥールが彼の下で徒弟として学んだ証拠は残っていないが、そうした推測をする研究者はいる。少なくも大きな影響を受けていることは、いくつかの点からうかがい知ることができる(この点については、いずれ触れることにしたい)。

   
ラ・トゥールが当時の職業の多くがそうであったように、徒弟としての道を選んだとすれば、年代、その他の点を考慮すると、次の二人のいずれかが最も可能性の高かった画家であると思われている。

画家クロード・ドゴス  
最も有力と考えられてきたのは、クロード・ドゴス Claude Dogoz or Dogueであり、スイスのローモンに生まれ、1605年に比較的若い年齢で、ロレーヌに移り住んだと推定されている。彼は、ヴィックに移り住み、まもなく徒弟を採用したことが知られている(Thillier 22)。そして、かなり豊かな家族から1611年に妻をめとっている。そして、1632年の段階で、およそ300点というかなり多数の作品を残したと伝えられる。しかし、残念なことに、ドゴスの作品と確認されるものが残っていない。だが、ラ・トゥールの家族とドゴスの間には、親しい関係があったと推定される。実際、後年1647年にジョルジュの息子であるエティエンヌがヴィックの富裕な商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚しているが、彼女はドゴスの姪であった。
  
 たとえ自他ともに認める才能に恵まれていたとしても、ラ・トゥールの出自からすれば画家になるために通常の過程である徒弟の道を選んだことは、ほぼ確実であろう。年代としては1605―1611年くらいの間に、誰かの工房、アトリエで修業をしたと考えられる。最もあり得るケースとしては、ジョルジュの生地でもあるヴィックで、ドゴスの下で修業した可能性であり、多くの学者がそのように推定している。 

ドコスの工房と徒弟  

画家ドゴス親方は、ヴィックで1605年頃、20歳近くで工房を開設したとみられる。スイスから移住した直後であるが、小さな町ヴィックで、当初からかなり名が売れていたのだろう。1607年5月に、フランソワ・ピアソンFrançois Piersonという僧院長のおいを最初の徒弟としている。さらに、1610年にも法律家の息子を徒弟にしている。しかし、一般には、同時期に二人の徒弟を抱えることは、教会の壁画などのように大きな仕事を抱えていた時などの他は稀であった。ヴィックは小さな町で、それほど大きな仕事が常時あるわけではなかった。となると、ラ・トゥールは彼の10-15歳しか年上でなかった若いドゴス親方の下で徒弟をした可能性はあるが、普通の徒弟期間である4年近い年月をそこで過ごしたと考えるのは無理かもしれない。当時の徒弟制度では親方の家に住み込むのが普通であった。ドゴスはせいぜい、ラ・トゥールに画法や顔料の調合、選択などを手ほどきしたくらいではないかとも思われる。

画家バーセレミー・ブラウンの可能性  
 ジョルジュが徒弟として師事した可能性のあるもう一人の画家は、バーセレミー・ブラウンBarthélémy Braunといわれる画家であった。彼は現在のドイツ、ケルンからロレーヌに来た画家で、公爵シャルルIII世のお抱え絵師として貴族の称号も認められていた。

  
彼の肩書きは、後年ラ・トゥール自身が同様な肩書きを切に求めたことなどを考えると、ジョルジュや両親の好みに合致したかもしれない。ブラウンは、1605-11年頃は、メッスに住んでいたが、ヴィックとも関係があったようだ。事実、彼の妻とはヴィックで結婚している。そして1605年頃にはヴィックで画家として知られていた。ブラウンがメッスに住んでいたことが、ラ・トゥールの徒弟入りを否定することにはならない。画家にかぎらず、多くの職業で生家を離れて、親方の家に住み込むことは徒弟修業では通常のことであった。   
 

ラ・トゥールの両親は比較的裕福で、息子の才能を伸ばそうとしたのだろう。もしラ・トゥールが30-50年後に生まれていれば、彼は間違いなく芸術の都パリへ行き、誰かの工房かアカデミーで修業したに違いない。実際、ラ・トゥールの親戚にもパリで仕立屋をしていた者がいたことも知られている。しかし、ジョルジュが徒弟を考える頃のパリは、戦乱からの復興途上であり、両親が幼い息子をパリまで送り出したともにわかに思えない。

ラ・トゥールはパリにいたのか  
しかし、近年、パリのギルドの記録から、1613年12月12日付けでメンバーを受け入れたとの興味深い史料が発見されている。これは、フォーブルグ・サントノレFaubourg Saint-Honoré のギルドに所属するGeorge de La Tour なる者を含む人々の面前で、Jean L'hommeなる一人の若者をメンバーに迎える式を行ったという記録だが、文書の余白に乱雑に書かれていたものであり、われわれが問題にしている当の本人か否かは不明である (Tuillier 1972, p25)。ということで、今日の研究史では、ひとつの可能性、検討課題にとどまっている。   
 

他の可能性は、クロード・アンリエClaude Henrietという画家で、シャルルIII世の庇護の下で、当時は著名であった。結婚によって、あの貴族で知識人であったランベルヴィレール  Rambelvillersの家系とも関係が生まれたといわれるが、1606年末頃に死亡している。となると、これも実際に徒弟となった可能性は少ない。

ベランジェに師事した可能性も  
 当時のロレーヌでで高く評価されていたのは、ジャン・サン・アウルJean Saint-Oaulとう画家であったが、ジャン・デイ Jean de Heyという若者を徒弟に採用したことは記録に残っている。それ以上に、著名なのは前にも記したベランジェJacques de Bellangeであったが、1595年2月、きわめて裕福な家の息子クロード・デルエClaude Deruet(ca.1588年頃の生まれ)を徒弟に採用した記録が残っている。デルエよりも4-5歳若かったラ・トゥールを同様に徒弟にすることを、ラ・トゥールの両親が考えなかったとは思えない。しかし、これも可能性にすぎない。

  
もしかすると、ラ・トゥールは当時ラテン語の教育で知られた地元の学校で上級まで進み、14-15歳までいたかもしれない。ベランジェは、当時は画家としての盛時を迎えていた。デルエは1609年4月に徒弟を終了している。ラ・トゥールは他の有名な画家につく前にベランジェに習ったか、デルエの後、徒弟になったかもしれない。しかし、確証はない。
 
ラ・トゥールとベランジェの作品には類似点がある。たとえば、《ヴィエル弾き》hurdy-gurdy playersはラ・トゥールのお気に入りでもあった。ラ・トゥールはベランジェに似たサインを残してもいる。ベランジェはラ・トゥールにとって実際に徒弟となったかは別としても、作風などで最も影響を受けた可能性の高い教師であったとみられる。さらに、ベランジェは画家であるとともに、著名な銅版画家として知られていた。偉大なマネリストでもあり、チャールズII世とも芸術上で密接な関係を保っていた。しかし、残念なことに、今日まで残っている作品は少ない。

ラ・トゥールと同時代の画家  
 二人の画家がラ・トゥールと同時代人であった。その一人、クロード・セリー Claude Celleeは、ローマで名をあげた。また、あの戦争の悲惨さを赤裸々に描いたジャック・カロJacques Callotは、フローレンスとパリで名をあげた(国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」にも出品されていたのでご覧になった方も多いでしょう)。

   
 こうしてみると、ラ・トゥールの徒弟修業の可能性について、断片的な情報はかなり存在するのだが、残念ながら決定的な史料に欠けている。だが、こうした情報を積み重ねると、誰に師事したかは確認できないにしても、ラ・トゥールは、1611年頃に画家としての基礎的な修業を終えたのではないか。年齢にして18歳頃であり、当時の画家のキャリアとしては標準的なものであった。この形は、レンブラントRembrandtなどの場合と近似している。彼はローカルな師匠について4年間画業を学んだ後、アムステルダムで6ヶ月修業をした。

   
もしかすると、ラ・トゥールは1613年頃、(不思議な記録が残っているように)パリで過ごしたかもしれない。そうすれば、パリにいたという記録と合致もする。   
    他方、当時のロレーヌの画家にとって、ローマに行くことも、かなり定着した慣行になっていた。ロレーヌ公爵はイタリア、特にフローレンスのメディチ家と深いつながりがあった。カロはそこで仕事をした(1612-20年頃)記録がある。

明らかな北方絵画の影響  
 ラ・トゥールが通常の年月で徒弟を終わり、大体1606-10年の何年かをベランジェと共に過ごし、パリへも行き、ローマへも行ったことは可能性としては十分ありうる。そして、1616年に洗礼の代父としてヴィックの地方史の記録に再登場してくる。 しかし、コニスビーなどの現代の美術史家は、そうだとしてもラ・トゥールにローマ行きの影響はほとんど見受けられないとしている。オランダとフレミシュの絵画の影響は顕著に見て取れる。私もどちらかというとこうした北方画家の影響を強く感じる。

   
かくして、ラ・トゥールの修業時代は、霧に包まれたままに、1917年貴族の娘との結婚という華やかな舞台でスポットライトを浴びる。既に、彼はロレーヌにおける実力ある画家としての確たる地歩を築いていたと思われる。   

そして、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯において、1617年の結婚はさまざまな意味で彼の人生を定める意味を持っていた。その点については、改めて検討しよう(2005年7月15日記)

*クリストファー・カマーChiristopher Comerとポーレット・ショネPaulette Chonéが1696年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールによるデッサンではないかと発表した「若い女性」Jeune Femmeを描いた作品。ラ・トゥールのデッサンと推定される作品はきわめて少ない。ラ・トゥールは、あまりデッサンをしなかったのかもしれない。なお、カマーはプリンストン大学博士論文で、これらのデッサンとラ・トゥールとの関連性を指摘、注目された。

よけいな想像:小説家デイビッド・ハドルは「おおかみ娘」wolf girlの発想をどこから得たのでしょう?「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」(7月4日)

Major Souce: Tuillier (1992, 1997)

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ラ・トゥールを追いかけて(30)

2005年07月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

アトリエの情景

ラ・トゥールは誰に師事したか:
徒弟の時代(I)
    

    ラ・トゥールの作品や画家としての人生を知ることは、ミステリーを読み解くような面白さがある。パン屋の息子ラ・トゥールは、画家を志すについて、いったい誰に師事したのだろうか。彼に天賦の才があったことは疑いもないが、画家として身を立てるにはそれなりの経路をたどらねばならないのは、当時も今も変わりはない。

画家になるには  
  16-17世紀においては、画家になるためには他の多くの職業と同様、基本的には二つの道があった。そのひとつは、画家の家に生まれ、父親なり家族の職業を継承することである。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子、エティエンヌは親の職業を継いで画家になったが、父親の工房(アトリエ)で仕事を体得したようだ。   
    もし、ジョルジュが父親の職業を継いでパン屋になることを志したならば、幼い頃から見よう見まねでパンの作り方を身につけ、成人してから、地元のパン屋のギルド(同業組合)で、職人あるいは親方として認められればよかった。職業によっては、どこか別の親方について、徒弟修業をすることもないわけではなかった。

徒弟を志す道   
    もうひとつの道は、すでに親方masterとして認められている人の工房へ徒弟apprenticeとして弟子入りし、絵画の技法などを身につけることである。徒弟制度はヨーロッパでは、すでに中世以来、ギルドともいわれる社会的、法的制度として確立していた。多くの伝統的職業tradeはこの制度を背景に成立していた。徒弟の時期を経て、職人journeymanとして認定されると、のれん分けのように、親方masterとして独立することもあった(蛇足ながら、ギルドとの継承性論争は別として、労働組合trade unionはその名の通り、元来職業別組合として存在した)。

社会的制度としての徒弟修業  
    そのため、徒弟になるに際しては、当時すでに弁護士がつくった規定の契約書を取り交わしている(後年、ラ・トゥールが画家としてすでに名声を得ていたと思われる1626年には、徒弟シャルル・ロワネを自分の工房へ受け入れている。その際にラ・トゥールは、彼に「誠実にそして熱心に絵画の技を教示し、教育する」ことを約束している。)職業によって異なるが、大体、小学校に相当する学校を終えた後、11-13歳くらいで(時にはもっと歳をとって)徒弟になり、3-5年の修業をした。たとえば、ラ・トゥールとほぼ同時代の有名画家ブーエVouet はパリで、ル・ブラン Le Brun は地元のタッセル Tassell で徒弟修業をしている。 徒弟の生活  画家の場合、徒弟は、親方や兄弟子のために、親方の家で使い走りのような仕事をしつつ、指示に従って顔料を挽いたり、キャンヴァスを準備したりしながら、画法を真似したり、教わったりしながら、画家としての技能を文字通り体得していった。生家が近い場合は、自宅から通うということもあったが、多くは親元を離れて、親方の家へ住み込んだ。徒弟の親は、画家の親方と契約をして息子を徒弟修業に出すわけだが、家賃や食費は決して安くはなかった。   
    徒弟の間は、賃金のたぐいは支払われない。それどころか、飲食、暖房、ベッド、部屋、光源などの費用として一定額が保護者である親から親方に支払われた、その額は当然ながら、親方の画家としての名声、評判などによって大きく異なった。また、親方の生活様式(徒弟は屋根裏のベッドか1部屋かなど)、徒弟の両親の希望、画家の経済事情などによって差異があった。このように、徒弟に出すのはかなりのお金がかかり、誰でもなれるわけではなかった。ラ・トゥールの生家は、地元では裕福な家であったと思われるから、おそらくジョルジュは徒弟修業をしたのではないか。   
    当時の職業として、画家は必ずしも喜んで選択された職業ではなかった。今日でもそうであるように、才能が大きくものをいう職業であり、生計を立てるリスクが大きかったからである。作品が社会で評価されれば、豊かで尊敬される職業ではあるが、評価されなければ画家の手伝い、下ごしらえなど、恵まれない仕事で生きなければならなかった。徒弟を終えても、画家として独立できなかった例は数多い。実際、ジョルジュの息子のエティエンヌも、父親ほどの才能・才覚に恵まれず、途中で画業を放棄し、貴族の生活に甘んじた?ようである。

画家の運命  
    家が裕福で、別に画家にならなくてもいいのに、子供が強く志望し、画家になって成功した場合もある。ラ・トゥールと同時代では、プッサン Poussin、 ドフレスノイ Du Fresnoyなどがその例とされている。たとえば、プッサンの母親は、ギリシャ、ラテン語が達者な息子が画家になりたいというのが理解できなかったらしい。プッサンは同時代で徒弟制を経由するというしきたりから外れた道を選んだほとんど唯一の画家といわれているが、これも本当にそうであったかは不明である。   
    徒弟の過程を終了し、独立の職人画家journeymanとして自立できるか否か、前途が不透明であるのは今日と同様である。他方、浮浪児のような生活をしながら、マルセイユのミッシェル・セレMichel Serreのように、才能が認められ、有名な絵描きになった例もないわけではなかった。   

    さて、われらのジョルジュはどんな道をたどったのだろうか。前回、ラ・トゥールの家系を追いかけた結果では、パン屋や石工は近くにいたが、家族・親戚の間に画家はいなかったと思われる。そのため、おそらく誰かの工房へ徒弟として弟子入りしたか、パリなどへ修業に出かけたはずである。   
    1593年に生まれ、1616年には23歳で自らが洗礼式の代父を務め、翌年には結婚した記録があることから推測すると、この頃までには明らかに画家としての修業時代は終わっているはずである。次回は、この謎に包まれた時期に接近してみたい(2005年7月13日記)。


Source: J. Tuillier, Georges de La Tour, Paris: Framannion, 1992, 1997 ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『Georges de La Tour』東京国立西洋美術館、2005(このサルモン論文も、年譜は、ほとんどテュイリエの前著によっている。) 16世紀前の中世画家の技法を継承し、研究を継承するために、The Painters and Limners Guild of LochacというGuildのサイトが今日でも運営されている。リンクはできないが、サイトは存在する http://www.sca.org.au/peyntlimeners/

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鎮魂曲となった「カヴァレリア・ルスティカーナ」

2005年07月09日 | グローバル化の断面





ありし日のマルコ・ビアッジ

  2001年、9月11日の同時多発テロ事件以来、なにが起きてもおかしくない世界となってしまった。その後も世界を衝撃的な事件が襲った。そして、今回7月7日のロンドンの同時爆破テロ。たまたまロンドンに行っていた友人からのメールを読んだ直後のことであった。本人は幸い無事だったが、なんともやりきれない。

  世界が狭くなると、時に信じられないようなことも起きる。2002年3月のことであった。郵送されてきたばかりの経済誌 The Economist (March 23rd, 2002) を読んでいて、イタリアの欄に友人の写真が掲載されているのに気がついた。そして、本文を読むなり、言葉を失った。

マルコを偲んで
 記事は、イタリア、モデナ大学の労働法担当教授のマルコ・ビアッジ (Marco Biagi)が、2002年3月19日夜、ボローニャで二人の極左分子によって射殺されたことを告げていた。52歳の働き盛りで、仕事から自転車で帰宅の途上であった。労使関係・労働法研究者を中心に日本にも友人が多く、見識も広い親切で立派な人物であった。友人・知人は皆マルコを信頼していた。"The International Journal of Comparative Labour Law and Industrial Relations"の編集者でもあった。 2000 年の国際労使関係学会 (IIRA) がボローニャで開催され、マルコは開催責任者として八面六臂の活躍をした。その次の開催地は東京であったこともあり、プログラム委員長であった私はマルコに相談したことも多かった。

 ビアッジ教授は、当時ベルスコーニ首相が率いる中道右派連立内閣の福祉労働大臣の顧問として、イタリアの硬直的となった雇用法制を、時代に対応して緩和するための法案作成に力を貸していた最中であった。彼が殺害された日の新聞 Il Sole 24 Oreに、ビアッジ教授はイタリアはヨーロッパで最も硬直的な労働市場を持つ国であり、改革する以外に生き残る道はないと寄稿していた。マルコ・ビアッジは、この労働改革の原案作成にあたった最重要人物とみられたのである。

 ロイターによると、この事件のため、内務大臣はアメリカへの出張途中で引き返し、緊急議会を招集するという騒ぎになった。マルコ・ビアッジを殺害したのは、1999年にも労働法の教授で、政治家でもあったマッシモ・ダントニアを暗殺した「赤い旅団」Red Brigadesと呼ばれる極左テロリストではないかと推定されたが、決着はついていないようである。イタリア政府は国葬でその非業な死と功績を悼むことにしたが、家族は断った。マルコは帰ってこない。

ボローニャの夕べ
  マルコとは世界のさまざまな場で出会った。今、思い出すのは、ボローニャでの IIRA世界会議終了後、ボローニャ・オペラ劇場でヴェリズモ・オペラの代表作のひとつ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を共に楽しんだことである。「会議は終わった。さあ、オペラだ!」と言った時の笑顔が未だに目に浮かぶ。文字通り、劇的な生涯であった。この時以来、「カヴァレリア・ルスティカーナ」は私にとって鎮魂の曲となった。今日もあの美しくも哀しい間奏曲を聴いた。





Source: The Economist、March 23rd, 2002


旧大学HP(2002.3.21)の一部を転載・使用

Marco Biagiの業績
Marco Biagi Selected Writings, edited by Michele Tiraboschi, Kluwer, 2003
マルコ・ビアッジの追悼記念。




 

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グローバル化と労働時間

2005年07月07日 | グローバル化の断面
ご注意:長いので、時間とご関心のお有りの方だけお読みください。

  土日も仕事を家に持ち帰って働くという、仕事自体が楽しみであり、生活の中心的存在となっている「ワーカホリック」(働き中毒?)の人々を別にすれば、ほとんどの人は週末が来るのを楽しみにしているではないだろうか。週末の土日は働くことをやめて休息にあてるという慣行は、世界、といってもほとんどが先進国だが、かなり広く浸透しているといえる。

  ところが経済学者の中には、週末休日のあり方について疑問を持つ人がいることも分かった*。どうして、人は毎週同じ曜日に休む必要があるのか。経済の観点からすると、休日を分散して交替制度を導入するなど工夫すれば、今の時代に高額な機械設備を2日も休ませる必要はないのではという考えである。

失敗に終わったスターリン時代の実験
  かつてソ連の独裁者であったスターリンは、こうした考えの持ち主だった。ソヴィエットのカレンダーは、1929年に書き換えられた。労働者は5日ごとに休日を与えられた。しかし、シフト(交替制)は固定できないため、休日は、土日とは限らなくなった。一寸考えると、工場は中断することなく操業でき、効率的であるように思えた。しかし、休日の曜日が定まらないことについて、労働者は歓迎しなかった。

  1991年、 経済学者の リプチンスキー Witold Rybcynski は、余暇についての著作「週末を待ちかねて」で、スターリンが導入した4日働き1日休むこの方式は、それ以前に試みられた週6日働き1日休む方式よりも人気がなかったと記している。新しい労働・休日制では、家族も友人も同じ休日をとれなかった。行政スタッフは同じ時に働くことが少なくなった。結果として、不人気がつのり、3年経過することなく、この方式は放棄されてしまった。

文化や制度の力
  多くの人々は自分が週あるいは月にどれだけの時間働くかについて、自己中心的な行動をしていない。他の人々の行動に相互依存して働いたり、休んだりしている。他の人が同じことをすれば、傷跡は小さい。失業している青年は、友人も同様に失業していれば、耐え難いとは必ずしも思わない。
広い意味では、労働時間の長さは、文化が生み出した産物と見られる面がある。アメリカとヨーロッパでは、労働時間はかなり異なっている。

  ある調査では、1980年頃でも製造業・生産労働者の年間総実労働時間は、日本は約2162時間、アメリカは1893時間、ドイツ1719時間、フランス1759時間という統計がある。アメリカはその後、労働時間が伸び始め1997年には2000時間を上回り、統計上は日本よりも長時間労働の国となった。そして、2002年時点で両国はおよそ1950時間でほとんど肩を並べる長時間労働の国である。他方、ドイツは1525時間、フランスは1,539時間である。このように、フランス、ドイツとアメリカ、日本の差異は驚くほど大きい(厚生労働省『労働統計要覧』平成16年度版)。
  こうした違いが発生するのは、ある経済学者は、税金の違いという。また、MITの経済学部ブランシャール教授のように、アメリカとヨーロッパに住む人の生活に関わる好みの違いだという人もいる。彼はヨーロッパでは余暇の時間が高いという。

労働組合の力?
  他方、時間短縮は、労働組合の功績とする見方もある。ヨーロッパでは労働組合の力は1970年代に最も強く発揮された。労働時間はその頃から短縮され始めた。1973年の石油危機以降、ドイツの労働組合は「働く時間は短く、十分に働く」work less, work allのスローガンをかかげていた。フランスでは、組合は1981年に労働時間を39時間に下げることに成功している。さらに政府と抗争を続け、2000年には35時間にまで短縮した。EUの労働時間指令は、1993年に採択され48時間が上限とされてきた。2004年12月には欧州委員会が改正案を発表しているが、競争力についての政府の認識や労使の立場に、大きな差異がありまとまらない。

労働時間の収斂は可能か
  ヨーロッパの状況が十分理解されれば、経営者やワーカホリックスを別にすれば、多分アメリカ人も家族や友人たちの間では余暇を増やす時間短縮に賛成するのではないか。第一次石油危機の前であったが、ニュージャージーの友人の家にホームステイしていた頃、ニューヨーク市内の大銀行の支店長(クライスラー社担当)であった父親が毎日、6時30分には帰宅し、家族と食事を共にするのを知って、大変驚いたことがあった。当時の日本人は6時頃からまた仕事が始まるのではないかと思われる長時間労働の国であったからだ。日本の総実労働時間は年間2000時間をはるかに上回っていた。

ワーク・ライフ・バランスの考えは根付くか
  日本でも少しずつ知られるようになった「ワーク・ライフ・バランス」の運動は、実はこのアメリカから出発している。

  近年のヨーロッパの組合は、収入は減少させることなく、時短を要求してきた。しかし、結果として、労働コストを引き上げ、他国との競争で雇用機会を失った。

  昨年、フランス政府は35時間労働を後退させることにした。国民の間でも、「就労」より「余暇」に大きな価値が置かれてきた国だが、雇用不安や競争力維持にも配慮しなければならなくなっている。グローバルな競争は、時間短縮を労働運動の大きな目標とし、短く働き、沢山稼ぐというフランスやドイツの考えを改めさせようとしている。

注目されるジーメンス労使の今後
  イツの雇用不安は年を追って高まってきた。最近のドイツの組合は、ジーメンスやダイムラー・クライスラーの場合のように、賃上げなしで長時間働くことに同意している。たとえば、ジーメンスの労使が締結し、本年4月1日に発効した新労働協約では、2009年9月まではすべての事業所の閉鎖は回避され、解雇も実施されないが、年間所定労働時間を1575時間にまで延長することになっている。週35.8時間に相当し、金属産業における協約上の週35時間を少し上回る。旧東ドイツの東部の事業所では、年間1672時間で、同地域金属産業協定上の週38時間に同調している。

  ジーメンスの新労働協約で注目される点は他にもある。そのひとつは、ドイツ西部の事業所が対象だが、年間の所定労働時間とは別に、年50時間の労働時間を導入し、個々の従業員が自分の職業能力を向上することを目指す技能訓練に当てる仕組みである。

  そして、もうひとつの注目点は、賃金スケールの最下部に新たなグループを設定したことである。これはアウトソーシング(外注)されてしまった作業を再び事業所に取り戻そうとする条件作りとも考えられ、深刻化した雇用状況に対応しようとするものである。

  グローバル化は雇用の危機を介在して、労働時間短縮の歯車の進行を押しとどめ、逆転させそうな力を持っている。長すぎる労働時間を漸く改めようとするアメリカ、そしてグローバル競争に押されて時間短縮の歩みを止めねばならないフランスやドイツ。日本はいったいどこを目指しているのだろうか。日本は相変わらず先の見えない国である。(2005年7月7日記)


主な参考資料:
Relax! It’s the law, The Economist May 21st 2005/06/10

*Alberto Alesina and Edward Glaeser and Bruce Sacerdote, “Work and leisure in the US and Europe”: papers, nber.org/papers/w1278.pdf. Prepared for the NBER Macroeconomic Annual 2005.

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「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」

2005年07月04日 | 書棚の片隅から

  ラ・トゥールの絵画に啓発された芸術作品は、おそらくかなりの数に上るだろう。日本では知名度がいまひとつであるが、世界的にはさまざまな意味で注目を集めてきた。そのうち、絵画の世界への影響については、先日東京で開催された特別展のカタログに収録されているディミトリ・サルモンの論文「ラ・トゥールに基づいて」*において、考察されている。しかし、その他の分野でもラ・トゥールは、多くの人の想像を超える広い範囲に影響を及ぼしている。ラ・トゥールの名前や作品が使われている文献はとてもかぞえきれない(あの『ダヴィンチ・コード』にも出てきましたね)。

小説になったラ・トゥール
  ところで、ここで取り上げるのは、日本ではほとんど知られていないと思われるラ・トゥールをテーマとした小説である。残念ながら、邦訳はない。原著のタイトルは次の通りである。 David Huddle, La Tour Dreams of Wolf Girl, New York: Houghton Mifflin, 2002. (仮題『おおかみ娘を夢見るラ・トゥール』)   作者のデイヴィッド・ハドルDabid Huddleは、アメリカ、ヴァージニア州生まれで、長年にわたり短篇や詩、エッセイ作家として名声を得てきた。そして、1996年の『ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』に収録された短篇をもとにした、処女長編The Story of a Million Years(岡田葉子訳『百万年のすれ違い』早川書房、2002年)は、1999年に出版され、その年の最高傑作と各紙誌で絶賛された。この著作は邦訳もある。ハドルは現在、執筆のかたわら、ヴァーモント大学で創作を教えている。 

同時に展開する二つの世界  
    ここで紹介する「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」は、ハドルの長編小説としては第二作に当たる。「百万年のすれ違い」が主題としていた学生時代から仲のよい二組の夫婦が、いつしか広がっていた溝に愕然とするという心理のすれ違い、そして中年期のかすかな不協和音を巧みに描く、大人の味わいの恋愛小説という流れを受け継ぎながらも、思いもかけないような世界を描き出している。   
    ニューイングランドのヴァーモント大学で美術史を教える38歳の女性助教授スザンネ・ネルソンは、結婚につまづき、大学で主として想像と研究の世界に引きこもりがちな生活を送っている。彼女が出版を予定する作品のタイトルは、まったくの小説の中での話だが、なんとEuropean Background: Peripheral Symbolism in Caravaggio, Terbrugghen, and La Tour (Cornell University Press)である。

ヴァーモントとロレーヌが舞台  
  小説のストーリーは、スザンヌのこれまでの生活にかかわる知人・友人、パートナーたちとの微妙な心理的な葛藤の世界と、それに同時並行して、(まったくの想像の産物ではあるが)17世紀、ラ・トゥールの晩年におけるリュネヴィルの町の靴屋の娘で、愛すべき若い女性ヴィヴィエンヌとの不思議な関わりの世界という、時空を超えた二つの世界の話が巧みに交錯して現れる。実に読者の意表をついた構成であるが、違和感はない。現代のアメリカ、ニューイングランドのヴァーモント州と17世紀のロレーヌという、普通では結びつきがたい次元で物語は並行しつつ進行して行く。

発想の根源はラ・トゥール展  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品世界については、かなりのことが分かってきたが、謎に包まれた部分も多い。とりわけ、富と名声とを手中にした晩年における利己的そして粗暴な行動についての断片的記録と、農民や旅の音楽師、使徒たちなどを描いた精神性の高い非凡な作品との間に存在する大きなギャップについて、さまざまな推測や解釈を生んできた。   
    ハドルの小説でのラ・トゥールに関わるプロットの展開は、ひとつの歴史的な文書記録からスタートする。ハドルは、アイディアを1996年にワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー・オブ・アート(NGA)で開催されたラ・トゥールの特別展とその後、手にしたスミソニアン博物館が発行した画家の生涯に関する論文**からヒントを得て、作品化したと語っている。   

    ハドル自身は美術史に特に関心を持っているわけではないが、着想を得たのはラ・トゥールの作品に接したことと謎の多い断片的な経歴からであり、美術は彼にとっては新たな発想を生む「力」であると述べている。(私自身もこのNGAでの展示を見る機会があり、カタログなども保有しているが、新たな作品を見て認識を改めたり、啓発された点も多かった。)さて、本題の小説の話に移ろう。

ラ・トゥールは強欲、粗暴な人間だったのだろうか  
    ハドルは、スミソニアンの論文に記載されているラ・トゥールの人生における歴史的記録に興味を惹かれる。それは次のような背景と内容である。   1946年7月18日、 画家が47歳の時に、そのころ、一時的にルクセンブルグに身を落ち着けていたが、未だ権勢を保っていたロレーヌ公に宛てて、リュネヴィルの住人から嘆願書が出されている。これは、ほこりに埋もれていたリュネヴィルの市庁舎の記録から発見された。   
    その内容は特権を享受するラ・トゥールを含めた何人かの富裕なリュネヴィル市民を非難するもので、そのうちの何人かが戦争や軍隊の宿営に関わる負担への協力を拒否したと告発している。問題の嘆願書は、こうした公共の費用を負担しようとしない人への抗議である。記録は次のような情景を伝えている。   

「これらの修道僧、修道女たちは辺り一帯の耕地を所有しており、フールとシャルジェーの貴婦人たち、画家のラ・トゥール殿は、彼らだけで合わせて当該のリュネヴィルで見られる3分の1の家畜を所有しております。その人たちの所有する土地は、残りのリュネヴィルのすべての人たちより多く、そこで耕し、種を蒔いております………前述のシャルジェーの貴婦人とラ・トゥール(彼は、スパニエル犬とグレーハウンド犬を同じくらい多く飼い、まるでこの土地の領主であるかのように、種蒔きした畑の中で野兎を狩らせ、踏み荒らし駄目にしてしまうので、人々にとって憎むべき人物です)は、ナンシーの総督殿下により、兵隊の宿舎の提供義務から免除されており、同様にすべての負担金の免除を得ています」(Tuillier 1992、212)   

    これを読む限り、画家ラ・トゥールにきわめて厳しい内容だが、そのまま鵜呑みにすることも必ずしも客観的理解でないかもしれない。すでに、この時期にはパン屋の息子として生まれたラ・トゥールは、画家としての名声をほしいままにし、宮廷画家という富裕な階層に到達していた。それは彼の際だった天賦の才能に加えて、さまざまな世俗の世界における世渡りのうまさのもたらしたものであったろう。それらが、貧窮に苦しむリュネヴィルの住民の反感につながっていたことも、想像に難くない。(ラ・トゥールの農民などに対する尊大あるいは粗暴な人格を思わせる他の記録もある。)   
    他方、1618年に始まった30年戦争後、フランス国王とロレーヌ公の間で決裂した政治的情勢を背景に、リュネヴィルの住民たちは板挟みとなり、極端に悲惨な状況に陥っていた。他方、上層階級にとっては、一時パリその他安全な場所へ避難するなど、さまざまに危険を回避する術もあった。嘆願書の背景となっている情景もそのひとつの断面と思われる***。この時期の背景については、別に記すこともあろう。   
   
    小説の面白さは、ラ・トゥールが明らかにプロット展開の軸となっていることである。年老いた画家が関心を寄せ、モデルになってほしいと靴屋の両親に依頼した少女ヴィヴィエンヌとラ・トゥールの心理的やりとりは、大変興味深い。「ウルフ・ガール」(おおかみ娘)とはいったい何を意味するのか。これは小説家ハドルの創造の産物である。私も読んでいて、あっと思わされた。小説を読む人の楽しみを損なわないよう、ここではこれ以上触れないでおこう。ちなみに、この空想の世界でラ・トゥールが飼っていた犬の一匹の名前は、「カラヴァッジョ」であった。

現代の世界は?  
    他方、現代の世界で展開するスザンヌやパートナー、ジャックの生活も興味深い。なぜ、一時はうまく進んでいたかに思えた夫や友人との関係に、すれ違いが生まれて行くのか。この心理描写は大変絶妙である。小説自体には、重厚さや深みといったものは感じられないが、日常の生活における心理描写の巧みさには感心する。実は、およそ良い役柄とはとてもいえないが、この小説には日本人までも登場する。人間の心理や感情の微妙な陰影を描き出すという点では、前作の方が構想も巧みであり、書き込まれていると思われる。しかしながら、この作品も、主たる登場人物の子供の頃の経験が成人した大人の心理をいかに規定しているかという問題などを含めて読むと、大変興味深い。さらに、主として舞台となるヴァーモントの小さな町には、私も多くの思い出があるが、これもここでは書き尽くせない。日を改めて記すことがあるかもしれない。   

    こうしてみると、ラ・トゥールという画家は、小説家にとっても豊かな発想の材料を提供してくれる実に不思議な存在となっている(2005年7月4日記)。



参考文献
*ディミトリ・サルモン「ラ・トゥールに基づいて」『国立西洋美術館ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展カタログ』、2005年

**Helen Dudar, "From Darkness into Light: Rediscovering Georges de La Tour," Smithonian, December 1996. ***ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『国立西洋美術館ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展カタログ』、2005年、146頁。原典は、Jacques Tuillier, Georges de La Tour, Paris: Flammarion, 1992, 1997.

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激変する仕事の世界

2005年07月02日 | グローバル化の断面
オフショアリングへの不安
  2004年2月、アメリカ議会下院で世界的に著名な経済学者の発言が、議員から相手にされないという、ほとんど例がない光景が展開した。前大統領経済諮問委員会委員長、グレゴリー・マンキュー氏が「人件費が安く優秀なインドの放射線技師にX線写真をインターネットで送り、翌日に検査結果をアメリカの病院に送り戻してもらえば、大変経済的だ。海外で物やサービスをアメリカより安く提供できるなら、国内で生産することをやめて輸入した方が、アメリカはより豊かになれる」と発言し、海外調達(オフショアリング)を弁護したとたん、騒然たる非難の的となった。   
  同氏は、かつてハーヴァード大学の最年少教授で、世界的なベストセラーの経済学テキストの著者でもある。国際貿易理論上、十分に確立された比較生産費の法則が教える通りを述べたにすぎなかったのだが、政治の世界は大学の教室のようにはいかなかった。「仕事の機会の輸出」を擁護するのかなど、議員ばかりか労働組合その他から、轟々たる非難が寄せられた。

「24時間企業」の誕生?  
  インターネットの発達は、「仕事の世界」を劇的に変化させつつある。アメリカの消費者が購入した製品の使い方について知りたいと思い、サービスセンターへ電話したところ、うまく話が通じないのでセンターの所在を尋ねたところ、なんとフィリピンのマニラ郊外だったというような話もある。シリコンヴァレーの企業で、社員が帰り際にインドのバンガローの企業へ仕事を委託し、翌朝出社して、その結果をインターネット上で確認するというような「24時間企業」の話も、大分誇張されて広がっている。   
  重要な個人や企業のデータが流出し、不正に使用されるという問題は、日本でも最近の事件もあって、よく知られるようになった。6月23日、イギリスのタブロイド紙Sunが、1000人分のイギリス人の銀行預金データが、銀行が外注しているインドの企業を通して流出するというニュースを報じた後、2日後にはワシントンポスト紙が「インドへのアウトソーシングの危機」という大見出しを掲げた記事を掲載した。   
  企業が自社の仕事を外部へ委託するアウトソーシング、とりわけ海外企業へ移転するオフショアリングについては、アメリカやイギリスではメディアの関心はきわめて高い。しかし、いったいどのくらいの量の仕事が海外へ移転しているのか、信頼できる統計数値はない。大きな問題だが、正確なところは分からないというのが、最近のOECDレポートの内容でもある。なにしろ、インターネット上で一瞬にして仕事が他国へ移転してしまい、その実態は第三者にはまったく分からない。   
  それでも、多くの企業がアウトソーシング、オフショアリングをしていることは周知のことであり、その範囲も広がっている。消費者サービスを受け持つコールセンター、給与計算、ソフトウエア開発、R&Dなど、事務サービス労働者、ホワイトカラーの仕事で、かなりの部分を占めつつある。世界的に著名なマッキンゼー・グローバル・インスティテュートのReport:The Emerging Global Labour Marketも、「これまでのところ、オフショアリングについての議論は事実より逸話で過熱している」と述べている。

確かな証拠を求めて  
  それでも、マッキンゼー社は、8産業部門の調査から2003年には、150万人相当の仕事が先進国から海外へ委託されたと推定し、2008年までには410万人分になろうと推測している。他方、OECDはオフショアリングで失われた仕事量は最大に見積もっても一般的な労働移動より小さいと見ている。   
  インドがオフショアリング先としては大変著名だが、OECDの調査ではオフショアリングの相手先には、先進国も入っている。OECDは1995-2000年のビジネス・サービスの輸出をオフショアリングの代理変数とすると、インドの成長規模が最大であったとする。しかし、伸び率の高かったのはエストニア、アイルランド、スエーデン、中国、モロッコなどの諸国である。ヨーロッパ企業はイギリスを除くと、今のところヨーロッパ内部にオフショアリングの相手先を求めているようである。   
  他方、海外へ流出した仕事を取り戻す試みも進んでいる。銀行は自動化コールセンターを設置しようとしている。たとえば、イギリスの銀行ロイズ/TSB, ハリファックスなどはアデプトラ社によって開発されたシステム使用している。これは消費者に連絡し、クレディットカードの不正使用がないかをチェックするシステムだが、人間の音声は使わない。

激変する「仕事の世界」  
  先のマッキンゼー社は、オフショアリングへの現在の需要が継続するならば、イギリスとアメリカだけでも中国、インド、フィリピンにおける英語力があり、顧客に対応できる労働力は使い切ってしまうと警告している。   インドがアメリカ、イギリス企業にとって、人気があるのはいうまでもなく英語を話す人口が多いためである。中国は人口は多いが、英語を話す人材という点に制約がある。言語がオフショアリングの範囲を定めていることは注目すべき点である。いずれにせよ、アウトソーシングは、大きなコスト節約と価値創出の効果があり、世界の労働コストの驚くべき格差を考えると、さらに拡大するだろう。このインターネット上でのヴァーチュアルな労働移動は、移民労働というフィジカルな移動にも影響を与えつつある。   
  
  英語圏でない日本では、あまり話題となっていないが、こうしたグローバル・ソフトウエア・ワークという動きは、伝統的な仕事の世界を大きく変えることは間違いなく、その動向は今後も引き続き注視したい(2005年7月2日記)。 Source: "Getting the measure of it," The Economist, July 2nd-8th, 2005その他。
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