時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

東北都は創れないのか

2011年11月29日 | 特別トピックス




危機の時代には大きな構想・変革を

 タイトルに惹かれて、「若者に仕事がない:先進国の雇用危機」NHKBS20111126日放映)を見る。インターネットの力を活用して日本、アメリカ、ヨーロッパ(イギリス)を結んでのディスカッションとなっている。当事者間のやりとりがあり、臨場感がある。

 取り上げられたいずれの国も雇用状況はかなり深刻化しており、実態は複雑だ。番組に登場した関係者の問題の把握の仕方、提示される政策の方向も一様でなく混迷を極めている。発言している識者といえる人たちでも、将来に確信を持った発言はできていない。世界がかつてなく不透明・不安定な状況では、多くの留保をつけざるをえない。

 短い表現ながらさまざまな意見が、世界中から寄せられた。しかし、自由貿易主義の支持者と反対者も入り交じり、いずれも十分説得的な提案となりえていない。問題の複雑さだけが伝わるばかりだ。実際に著しい効果が期待できる政策は提示されていないと感じた。

 深刻な経済格差を生み出す震源地となっていると考えられるニューヨークのウォール街を占拠しようという若者のデモが映し出される。1%の超富裕層を守るのではなく、99%を救済せよというスローガンが見える。

 
 だが、デモ隊がウオール街に溢れても、問題が解決するわけではない。デモの先になにが必要かのヴィジョンが見えないからだ。しかし、こうした象徴的なプロテストの活動は、人々に問題の深刻さを訴え、政治家や銀行家などの関係者に、なんとかしなければとの動きを促す。いわば起爆剤の意味を持っている。

存在感の希薄な日本
 議論を聞きながら、危惧を感じたのは、番組からは当の日本が直面している深刻さがあまり伝わってこないことだ。たとえば、
国際比較でみると、日本の失業率は比較された先進国の中では、一見最も低い(4.5%、2011年10月)。この国は東北大震災によって歴史的にも例のない大きな危機の時代を迎えているのだが、現実の深刻さとの間に埋められていない深い溝があると感じる。

 これまで求職者の支援活動などを通して、仕事を求める人たちの現場に接してきた一人としての実感は、日本の労働市場は一般の人々が想像する域を超えて悪化しており、失業率の比較だけでは到底理解できない深刻さがある。

 現実には、良質な雇用基盤が次第に浸食され、崩落の危機を迎えているといってもよい。とりわけ、質的劣化が目立つ。しかし、日本
の若者は他国のように抗議活動などで、問題を先鋭に社会に提示するほどのエネルギーを失っている。全体として無力感・脱力感がかなり浸透している。

 問題の根源にはアメリカ、イギリスなどの実態が示しているように、彼らが求める良質な雇用機会が十分にないという共通点がある。一部のジャーナリストなどが、仕事がないと訴える若者に、より賢明にそして勤勉であれば、仕事の機会は多数あるはずだと強調しても、その域に到達するのは至難なことだ。高度な専門性とそれを支える広い視野が、今まで以上に必要になっていることは確かなのだが。

 授業料など高等教育を受けるための支出も増加している。大学を卒業しても、彼らが望むような仕事の機会が直ちにあるわけではない。多くの人々に厳しい試行錯誤の次元が待っている。

後手に回る政策
 日本の雇用政策を観察してきた一人の目から見ると、本来の「雇用」政策としてあるべき流れから逸脱し、ネガティブな流れへ傾斜しすぎていると感じる。失業者への失業給付、再訓練という受け皿の次元に力点が置かれ過ぎて、本来あるべき積極的な雇用創出という政策視点が感じられない。「産業」と「雇用」の次元を結びつける政策視点と連携がきわめて乏しい(関連記事)。

 「求職者支援制度」などの実態を見る限り、時代のニーズに対応できる職業再訓練の仕組みは、はなはだ脆弱だ。プログラムを作っても、実際に訓練に当たる人材も不足している。かくして、6ヶ月の給付期間は瞬く間に経過し、生活保護申請などの最後のネットへと脱落して行かざるをえない人々が増加している。本来、そこにいるべきでない、あるいは社会の基軸としてはるかに力強く生きているはずの若い人たちまでが、生産的な次元に戻る意欲を失っていることに、政府や政策立案者はもっと目を向けるべきだと思う。

 失業問題の先には「幸福とはなにか」という、このブログで以前から取り上げてきた哲学的課題までつながっている。来日されたブータン国王夫妻のお話に感銘を受けた人々も多いだろう(関連記事)。

 


真に創造的なプランを
  番組で有力な政策として提案されている「ワークシェアリング」にしても、その効果は限定的だ。失業率の高い国では、すでに雇用されている人々の間での「賃金シェアリング」に近い状況を生み、失業者の救済には効果が薄い。導入するには時宜を失した状態の国もある。

 良質な仕事の機会を増やす必要がある。そのためには経済成長が欠かせないし、新たな仕事の次元の構想が必要だ。より現実的な雇用創出の必要性が緊急の課題といえる。日本に限ったことではないが、「アウトソーシング」、「頭脳流出」などが進み、雇用機会が国内に生まれにくくなっている。昨今の日本のように円高が進行した環境では、経営者にとって国内での雇用創出はかなり困難かもしれない。

 しかし、資本のように簡単に海外へ移動できない労働者のことを考えるならば、国内の雇用基盤をしっかりと維持する努力が欠かせない。自分が生まれ育ちあるいは最も愛着を感じる地の近くに仕事の場が存在することが最も幸せではないだろうか(移民が生まれる動機のひとつは、それが欠けていることにある)。

 企業にその余裕がないとすれば、やはり政府の積極的な活動が欠かせない。雇用の創出者として東北に中央政府の3分の1くらいを移転するぐらいの覚悟で大転換が必要ではないか。被災地では住民のみならず、NPO、ヴォランティアなどを含めて多くの人々が日夜懸命な努力を続けている。だが、地域間の統一性に欠け、次第に息切れしてきた感がある。精神的な励ましも必要だが、実質的な雇用基盤の創出が最重要課題だ。雇用の創出の面からも、政府がもっと現場に近づく必要がある。

 「大阪都」の構想が話題になっている。なぜ、その前に「東北都」の構想がないのかと思わざるをえない。東北に「都」が生まれるとなれば、復興への大きな革新的支えになるだろう。いうまでもなく、そこでは被災者を中心とする民意の反映が必須であり、NPO、ヴォランティアや被災者自らが働き、仕事への対価を得る「キャッシュ・フォー・ワーク(CFW)」のような従来からの活動も正当な場所を与えられやすい。地域外へ避難・流出した被災者のみならず、多くの人々の新しい流れが生まれ、再生・復興の基盤がより確固なものとなるはずだ。「災い転じて福となす」機会は今しかない。「首都」がどこになるかは、そのはるか先の課題ではないかと思う。

 

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門戸を閉ざす国々:イギリスの政治風景

2011年11月23日 | 移民政策を追って




17世紀ロレーヌ、リュネヴィルの城砦(町は城門のある高い城壁で守られていた)。

 

 世界的な経済停滞の下で、ヨーロッパ、アメリカなどの主要国で移民(受け入れ)問題が深刻化している。日本のマスコミが提供する移民に関する情報量は、自国、他国ともにきわめて少なく、掘り下げも浅い。結果として、「木を見て森を見ず」の議論も多い。

 移民(外国人)問題の研究は、多くのことを明らかにしてきた。ブログではとても記せないが、ひとつの歴史的な経験則として、経済が拡大、活況を呈している時は移民(外国人)労働者はあまり問題にされない。人手不足で移民労働者を受け入れることに抵抗が少ないからだ。しかし、ひとたび停滞局面に入ると、事態は深刻化し、各国とも門戸を閉ざし始める。1980年代のバブル期に日本では「開国」対「鎖国」という妙な議論が行われていたが、経験を積んでいたヨーロッパなど移民労働者の受け入れ側国の政策は、決して単に国の門を開くか、閉ざすかという一方的なものではなかった。さまざまな理由で、門の開き具合(移民の受け入れ)を加減してきたというのが実態に近い。しかし、現実には門の開閉だけではコントロールはできない。壁(国境)の抜け道も多々残されている。

イスラムの力
 近年、難しさを加えたのが移民の宗教、とりわけイスラム教の問題だ。ドイツ連邦共和国のメルケル首相が「多文化主義は失敗した」と明言したように、イスラム信者の移民が多くなると、「数は力なり」の圧力が増して、対応ができなくなってくる。宗教的価値観に根ざした人間の心まで、受け入れ国の価値観に「同化」させることを求めたり、異なった価値観の生活面での共存を期待することは、理念上はともかく、現実の社会的次元では多大な軋轢を生む。数の力は、アメリカにおけるヒスパニック系移民が、その増加とともに政治的発言力を急速に拡大したことに典型的に示されている。
 
 アメリカ/メキシコ国境はブッシュ政権末期以降、物理的な障壁強化を含めて、閉鎖性が急速に強まった。保守的な共和党は移民受け入れに総じて反対色を強めている。今年初め、オバマ大統領が、共和党は不法移民の流入を阻止するには、国境にアリゲーター(北米南部に生息する鰐、ワニ)が多数泳いでいる堀割を作るまで満足しないだろうとジョークをとばしたほどだ。大統領自身、公約としてきた包括的移民法改革にいまだ手をつけられずにいる。

 高齢化の重圧が年々厳しくなる日本だが、政府もマスコミも移民受け入れ問題には深入りしない。いつも表面的な議論だけで、本質的な次元へは踏み込むことを回避しているとしか思えない。1980年代以降、ほとんど同じレヴェルでの議論の繰り返しである**

内務大臣も窮地に
 しかし、国によっては移民政策への対応いかんが、大統領の地位を揺るがしたり、担当大臣の更迭問題など、重大な政治責任のレベルにまで達する。最近イギリスの内務大臣が直面している問題はその一例だ。長い話だが、少しだけ要点を記そう。*
 
 イギリスでは11月3日、ヒースロー空港その他で、危険な状況になりかねないほどに長くなった行列に対応しようと、入国管理官が入国審査基準を緩めて運用していたことが判明した。彼らはテロリストなど「(入国が)望ましくない人物」についても、常に指紋照合を行ったり、その他の「危険人物情報」などの詳細部分を確かめていたわけではなかった。

 移民担当国務大臣(Minister of State for Immigration)として独自の権限を持ちながら、組織上は内務大臣の管掌下にあるブロディ・クラーク と他の二人の管理者は職を解かれ、クラーク氏は間もなく辞任に追い込まれた(その後、クラーク氏はアンフェアな解職だとして、政府を相手取り告訴している)。イギリスにとって「望ましくない人物」が実際に入国管理の規制をくぐり抜けて入国したか否かは分からない。しかし、この問題をめぐる政争は激しくなり、移民政策を管掌する内務大臣(Home Secretary)のテレサ・メイ女史の進退問題までに発展した。メイ女史は、クラーク氏が内務大臣の指示したガイドラインを超えて、入国審査を緩めて運用してきたのが問題という見解だ。クラーク氏は指針の範囲内だと反論している。しかし、議会、世論は騒がしい。デイヴィッド・キャメロン首相は、数少ない(現在5人)女性閣僚を辞任させて新たな論争の火種は作りたくない。

移民減少を目指す
 ちなみに昨年イギリスが受け入れた(出入国を調整後の)ネットの移民はおよそ24万人だった。現政権はこの数を減らすことを明言してきた。マリー大臣はイギリスが導入した「ポイント・システム」だけでは、この目的に十分有効ではないとして、労働、学生ヴィザなどを含めて、総体として入国管理を厳しく運用すると述べている。そして、使用者が自国民の失業者および外国人ですでにイギリス国内に居住している人々の雇用を優先するよう指示してきた。

 内務大臣の発言の裏には、保守党として年間のネットの移民数を20万人台から10万人台へ減らすと公約していた事実がある。イギリスの移民受入数は10年ほど前から急速に上昇してきた。その後、抑制されてはいるが、さほど減少していない。イギリスの人口を2027年時点で、7千万人まで増加させるべきではないとの署名も増加してきた。その結果、EU域外からの入国希望者、家族の再結合を求める人々などへの風当たりは厳しくなった。

 内務大臣は入国管理にあたる係官が、より疑わしい人物に集中して審査するために、両親に伴われて入国する子供を含めて、ヨーロッパ域内の人々には軽い審査を実施することを認めていた。女史によると、EU域外などの国からの入国希望者にはそうした権限を認めていなかった。こうした目標を定めた審査はいうまでもなく、ほとんど内密に行われ、全体に同じ努力をする方法よりは効率が高い。

 現在の暫定推定値では、2010年末でイギリス国内の移民は575千人としている。国外への人口流出は336千人で2008年の427千人より減少している。結果として、ネットの移民は前年の20%減の239千人である。

 政府構想が進めば移民数は少し減少するだろう。しかし、目標値の達成はかなり難しいと見られている。なかでも、イギリスで就学したい若者の数は多く、その中のかなりの部分は目的を達した後でもイギリスから離れない。不法あるいは隠れた移民を排除することはきわめて難しい。

 状況は混迷しているかに見えるが、明瞭なことは開かれた国を標榜してきたイギリスもいまや門戸を閉ざしつつあることだ***。しかし、その道は険しい。自由貿易主義への批判が強まる中で、人の移動には明らかな変化が生まれている。働き手が少なくなり、活力を失ってゆく日本は、どうしてもこの問題に正面から対してゆかねばならないはずだ。



*  「シリーズ イスラム激動の10年 第3回 ドイツ 移民社会“多文化主義”の敗北 」 
NHK BS 2011年11月20日

** 'He says, she says’ The economist November 19th 2011

"Waving them in" The Economist November 12th 2011

***1990年代中頃、管理人がイギリスに滞在した折、(あらかじめ書類を整えていたこともあるが)ヒースローの入国審査は1分くらいで、係官から笑顔で「ウエルカム、エンジョイ UK ステイイング」と言われ、ちょっと驚いた。長い行列に並んでいる間に、10分以上にわたり係官と深刻な顔で質疑を交わしても許可が下りないようで、別室に連れて行かれる人たちをかなり見ていたからだ。その時渡された滞在要件に6ヶ月以上滞在する家族は、1ヶ月以内に居住地の警察に本人自らが届け出るように(登録費用30ポンド?)との記載があった。そこで、警察へ行ってみると、「あなたは来なくてもよかった」といわれあぜんとしたが、しばらく別室で係官とにこやかに世間話?をして出てきたことを思い出した。後になって、この国らしい巧妙な管理だなあと思わされた。このたびのイギリスの論争の経緯を追いながら、思い当たることが多い。


#  このトピックスについて、その後の事態、詳しい説明をお知りになりたい方は、とりあえず下記BBCのサイトをご覧ください。

  

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クラブが先かダイヤが先か

2011年11月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『ダイヤのエースを持ついかさま師』(部分)

Tricheur (à l'as de carreau)) 1635-1638年頃、106×146cm、 油彩・画布、ルーヴル美術館
1972年に同美術館で開催された美術史上最初のラ・トゥールのほぼ全作品を集めた企画展カタログ(裏表紙)。当時のカタログは表紙のみカラー、本文中の作品紹介はモノクロだった。印刷技術はその後飛躍的に進歩した。


 これまでほとんど立ち入ったことのない専門外の領域だが、ふとしたことから、関心を持つようになったジャンルがある。17世紀のヨーロッパ美術は趣味の範囲でそれなりに関心を抱いてきたが、「フランス・イギリス演劇」の世界という、これまでほとんど関わったことのない領域が浮上してきた。本業としてきた仕事の副産物(?)として多少の知識はあったが、ほとんど耳学問の部類であった。しかし、その後自分の自由となる時間が増えたことが幸いしてか(?)、いつの間にか予想外に深入りしてしまっていた。自分の専門とはおよそ関係ない分野だけに、好奇心も手伝って、興味が生まれた面もある。
 最近刊行されたこの領域の最良の手引きともいえるかなり分厚い事典のページを
繰っている間に、気づいたことがあった。事典の内容に惹かれて、いくつかの項目を読んでいる間に偶然ある小さな記事に惹かれた。

ルネイユの『ル・シッド』へのつながり
 
事典の監修者で、執筆者の一人でもある伊藤洋氏が書かれている『『ル・シッド』とトランプ』(pp38-39)と題された小さなコラムである。伊藤氏ご自身がラ・トゥールの作品を意識され、書かれている。
  このブログを訪れてくださる方は、17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについて、多少ご存じのことだろう。話はラ・トゥールの『いかさま師』と題する作品に関わる。この画家は、同じ主題を異なった視点から繰り返し描いたことでも知られている。そのため、しばしば真贋論争、あるいは複数の作品について制作年次の後先が、専門家の間で議論を生んできた。
 この作品にはフランスのルーブル美術館とアメリカの
キンベル美術館が、微妙に異なる作品(ダイヤのAとクラブのAが焦点)を各1点所蔵している。両者の差異は主題として描かれたいかさま師が隠し持つカードが、ダイヤのA(エース)か、クラブのAかの違いと、作品の微妙な構図と色彩にある。制作年についても1635-1638年頃とする説のほか、1632-35年頃とする説など研究者によって見解が異なっており、決着がついていない。ちなみに、『ル・シッド』の初演は1637年だった。




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『クラブのエースを持ったいかさま師』(部分)

キンベル美術館(フォトワース、アメリカ)
同美術館カタログ表紙

 

 さて、伊藤氏はほぼ半世紀前の同氏のフランス留学時代のエピソードを引きながら、トランプのハートとダイヤの問題が、17世紀フランスの古典劇の大作家コルネイユ(Pierre Corneille)の代表作、悲劇『ル・シッド』(1637年初演)の名台詞をパロディ化した小話を紹介されている。詳細は、出典をご覧いただきたいが、ドン・ゴメス伯爵から平手打ちで侮辱された年老いた父親が、息子ロドリーグに向けての「ハート(勇気)があるか」(Rodrigue,as-tu du coeur?)という問いに対して、劇中では息子はもちろん親の仇(実は自分が愛する女の父親)を討つ勇気は当然抱いていると応じる。これを、「(トランプの)ダイヤだけです」(Je n'ay que du carreau.)とはぐらかした答で、パロディにしたものだ。17世紀半ばのパリで大変受けていたジョークのようだ。パロディの作者は宰相リシュリューの秘書で作家でもあったボワロベールらしい(そのため、話はさらに面白くなるのだが、省略)。
 当時、パリのうわさ話は直ちにロレーヌにも伝わっていたから、ラ・トゥールもどこかで聞き知っていたに違いない。『いかさま師』の画題はカラヴァッジョの作品に源があると思われるが、ラ・トゥールは最初、「クラブのエース」で制作し、その後まもなく上述のパロディにヒントを得て、「ダイヤのエース」での作品を制作したのかもしれない。「ハートのエース」が現存していないことも、新たな想像を生む。ラ・トゥールという画家は、実にさまざまなことを考えさせる不思議な存在である。

   
* オディール・デュスッド/伊藤洋監修 エイコス;17世紀フランス演劇研究会編『フランス17世紀演劇事典』 中央公論新社、2011年、pp813。

  ちなみに、本書は17世紀のフランス演劇の領域にとどまらず、当時の社会・文化環境を想像するにきわめて有益な資料になっている。悲喜劇のそれぞれについて、行き届いた解説、年表などが、遠く離れた現代の読者の理解を深めてくれる。

 

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時は移ろい流れて

2011年11月02日 | 書棚の片隅から

 

 

 

   思いがけないことから、マーガレット・サッチャーを知らない人々の時代にいることに気づかされた。その折、ふと思い出したのは、ヴァージニア・ウルフの名作『ダロウエイ夫人』 Mrs Dalloway1925年)だった。これまで文学とはおよそほど遠い分野で仕事をしてきたが、いわば人生の舞台の幕間に出会い、印象に残る文学作品のひとつであった。加えて、最近、ロンドンのビッグベンの内部見学を初めて許された日本人(40年以上にわたり京都大学時計塔守をしていた方)の話が『朝日新聞』(2011年10月29日夕刊)で報じられ、思い浮かんだこともある。

 ウエストミンスターに20年以上にわたって住む主人公ダロウエイ夫人は、鐘の音を聞くたびにさまざまなことを思い浮かべる。鐘の音は帰らぬ時を告げる響きでもある。この作品の象徴的なシーンだ**

 1997年
に映画化され、こちらも大変感銘を受けた。ダロウエイ夫人を演じたヴァネッサ・レッドグレイヴが素晴らしかった。さすがに両親、家族などの多くがスターである家系に咲いた大輪の花だ。舞台、スクリーン上では、すでに数々の栄誉に輝いていた大女優だが、この作品では特に大きな受賞はしていない。しかし、光と陰影が深く混じり合った役柄を見事に演じていた。ウルフの原作が忠実に描かれていたと思う。ヴァネッサ・レッドグレイヴには、個人的にも不思議と思い浮かぶことが多いのだが、ブログではとても書ききれない。

 
最初の出会い
 この作品を初めて手を取ったのは40歳代の頃だったろうか。大変緻密に考え抜かれた構成だが、なんとなく女性作家らしい繊細さを含みつつも憂鬱な作品だなあという読後感だった。これは同じ時に前後して読んだ『灯台へ』 To the Lighthouse についてもそうだった。それが、変わってきたのは、1990
年代半ばにイギリスにしばらく滞在した頃からだった。

 
せわしない日本の日々から解放され、人生に幾度もない貴重な幕間の時間を楽しんだ。ケンブリッジやロンドン市内の書店や画廊に時には週に2-3度足を運んだ。その折、書店のモダーン・クラシックスの棚で目にとまり、違った環境でもう一度読んでみようかと思い、手にした一冊だった。ヴァージニア・ウルフが、経済学者J.M. ケインズも属していたブルームズベリー・グループの一員であったことも、再読を促した背景にあった。

 第一次世界大戦後のロンドンでのクラリッサ・ダロウエイの一日が描かれている。イギリスの6月は光溢れ、爽やかで大変美しい。花々も一斉に咲き誇る。人々は、その時を待って薄暗く陰鬱な長い冬を耐えているかのようだ。政治家を夫に持つダロウエイ夫人は、その日、夫のためにパーティを開く予定を立てている。その一日の中に、彼女の人生の過去、現在、そして避けがたく忍び寄る老いと死が実に見事に重層的に描かれている。


すべてを一日の中に

 一日の中に人生を描き出す構成は、今まさに国家破綻の瀬戸際にあるギリシャの名映画監督テオ・アンゲロプロスによる『永遠と一日』(1998年、ギリシャ・フランス・イタリア合作)でも使われていたアイディアでもある。イギリスの政治家の夫人、バルカン半島の現代移民の前線と、背景はまったく異なる。唯一共通しているのは、作品を鑑賞する側の人生の年輪次第で印象が大きく異なってくることではないか。これほど人間の熟成度が問われる作品に出会うことは、そう頻繁にあることではない。

 
生来かなりの「本好き人間」であることは自認するのだが、近頃の書店で平積みにされている書籍のほとんどは手に取ることはない。書棚であまり人目につかない分野や片隅に押しやられているようなタイトルに関心を持ってきた。

 
この作品『ダロウエイ夫人』には実は多くのversions、そして翻訳があるようだ。最初に手にしたのは、Penguin Modern Classics に含まれた一冊だった。邦訳もいくつか存在するが、手元にあるものは、下記の丹治愛氏翻訳による一冊である。きわめて丁寧な翻訳に加えて、「訳者あとがき」には、作品ならびにヴァージニア・ウルフとその時代環境について、詳しい解説も付されている。混迷と不安に覆われる今日、人生の持つ意味、そしてその微妙に流れゆく世界にしばし浸ってみたいと思う方に、お勧めの一冊である。

 

 

 

 ヴァージニア・ウルフ(丹治愛訳)『ダロウエイ夫人』集英社、1998年。

 
そういえば、ケンブリッジでこの名作を翻訳された丹治ご夫妻にも、お会いしていた。せっかくの環境にいながら、ウルフについて詳しいお話をうかがう機会を逸したことを悔やんでいる。


**
 Mrs Dalloway STIFFENED on the kerb, waiting for Big Ben to strike. There! Out it boomed. She loved life;all was well once more now the War was over.

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