時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遠くて近い響き:「ブンガワンソロ」

2008年05月31日 | 雑記帳の欄外

  このところ宵っ張り、夜更かし気味だ。別にがんばって起きている必要はないのだが。見るともなしに見たTV画面に思わず引きつけられた。どこかで聞いた懐かしい響きが伝わってきた。インドネシア、クロンチョン・モルスクといわれる民俗音楽の由来をたどる番組らしい。途中から見たので番組の全容は分からない。

  ただ、聞こえてきたのは、「ブンガワン・ソロ」だった。団塊世代以上の日本人は、おそらくどこかで耳にしたのではないか。心の琴線に触れるようなノスタルジックな響きだ。

  TVの登場人物の主役は、なんとなく西欧人の血筋を引いているような容貌だ。ポルトガルからインドネシアのジャカルタへ移住した遠い祖先の9代目とのこと。カトリック信仰を継承するポルトガル人とインドネシア人が混血して今日にいたったらしい。この人にとっては、今や祖先の国、ポルトガルは伝え聞くだけの遠い存在になっている。

  1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。支配者となったオランダ人たちは、前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや競争相手のイギリスを追いやって、この地域における主導権を握る。長い時間をかけて、支配の版図をほぼ現在のインドネシア全土へと拡大していった。

  主人公の祖先は、この時代になんらかの理由で、ポルトガルへ帰国しなかったのだろう。インドネシアは、1661年ポルトガルからオランダの支配下に移った。カトリックであった祖先は、当時は住むところすら与えられず、プロテスタント改宗を条件にジャカルタの町はずれにやっと居住が認められた。

  望郷(リンドウ)の思いはつのるが、ポルトガルへ戻るすべもない。せめて、故郷への思いを鎮めようと、ブルンカ、マチナというギターの一種でクロンチョンを演奏する。クロンチョン(Kroncong)は、インドネシアを代表する大衆音楽のジャンルだ。「ブンガワン・ソロ」もそのひとつで、ソロの大河という意味らしい。ソロ河はインドネシア国内を540キロにわたって流れる大河だ。クロンチョンは、故郷へ帰ることもないクグーの人々が400年間にわたって伝えてきた響きだ。

  欧米や東アジアのポピュラー音楽が存在感を増しつつある今日のインドネシアの大衆音楽界においても、クロンチョンの人気は依然として高いようだ。

  長い間オランダの植民地となっていたインドネシアにも独立への大きなうねりが来る。 1928年10月27日に開催されたインドネシア青年会議における「青年の誓い」採択で、独立を求める人々は、オランダ領東インドの国名として、「インドネシア」の名を選んだ。

   オランダの植民地支配は、日本の侵攻で瓦解、1943年から日本の軍政が始まる。日本軍は統治政策の一環として、クロンチョンなどの民族音楽なども活用した。クロンチョンの作者であるグサン・マルトハルトノさんは、今も80歳台で生きている。ブンガワン・ソロは、オランダ占領下のインドネシアで作られた。

   1945年8月15日に日本が降伏すると、独立派は直ちにジャカルタでインドネシア独立を宣言、スカルノが大統領に選出された。しかし、日本軍の武装解除を行ったイギリス軍および植民地支配再開を願って戻って来たオランダ軍と4年にわたってインドネシア独立戦争が展開された。この戦争で疲弊したオランダ軍はようやく再植民地化をあきらめ、1949年12月国連の斡旋によるハーグ円卓会議でオランダは正式にインドネシア独立を承認した。

  ブンガワンソロに代表されるクロンチョンは、こうした歴史の激動の中で、人々のさまざまな思いをこめて歌い継がれてきた。哀愁の響きを込めながら、今も歌われているクロンチョンを聞いていると、17世紀、東インド会社設立の時代へと飛んで行きそうだ。バタヴィアへ行ったレンブラントの娘はどうしたのだろう。いつとはなしに、心はあのテル・ブルッヘンの「フルート・プレイヤー」の世界へ戻ってゆく。


BS番組 2008年5月28日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアの光・オランダの光(4):ユトレヒトへの旅

2008年05月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  17世紀前半、南のイタリア、北のネーデルラントは共に躍動していた。とりわけ、ネーデルラントは「17世紀の危機」をほとんど経験することなく、「黄金の世紀」といわれる繁栄の時代を享受していた。とはいっても、1568年から1648年は、ネーデルラント諸州 United Provinces が宗主国スペインに対して起こした反乱の時期であり、「80年戦争」とも呼ばれた緊張の時代でもあった(1609年から1621年の間の12年間は休戦)。
 
  ネーデルラント文化は、ハールレム、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグなど、
いくつかの拠点都市を中心に展開していた。その中で、ユトレヒトは、カトリック色の濃い都市だった。地図では現在のオランダのほぼ中央部に当たるところに位置している。現在のオランダとベルギーを合わせた地域は「低地の国々」 Low Countries と知られ、その形から「ベルギーの獅子」とも呼ばれたが、それによると獅子の耳の下の部分にある。一度だけ訪れたことがあるが、運河に映った緑陰の濃さが記憶に残る。

最盛期のユトレヒト
  17世紀前半のユトレヒトが注目される理由はいくつかある。16世紀後半から17世紀前半にかけて北方文化の中心でもあったが、多くの画家が、この地からイタリアへ修業に出かけ、戻ってきた。このブログごひいきのテル・ブルッヘン、ホントホルスト、バビュレン(バブレン)など、ユトレヒト・カラヴァジェスティ(カラヴァッジョの信奉者)が活動した所だ。  

  17世紀の30-40年代の最盛期にユトレヒトでは、50~60人の親方画家たちが工房を営み、年間数千枚の作品を作り出していたといわれる。地域経済への貢献も無視できないものだった。数の上でもユトレヒトの独自性を刻むに十分なほどの文化集積を形成していた。当時のヨーロッパでも特筆すべき規模だ。  

  1611年に画家のギルド「聖ルカ・ギルド 」の結成があり、それまで所属していた鞍作り職人のギルドから分離し、美術家集団として結束も深めた。さらに1644年には画家学校が結成され、聖ルカ・ギルドは彫刻家と木彫家の団体となった。ユトレヒトには、1612年頃に作られた画家アカデミーもあった。  

戻ってきたカラヴァジスティ
  ユトレヒトの画家たちがイタリアを目指した背景には、カトリック教徒の多かったユトレヒトとローマのつながりがあったと思われる(この関係は、新教国としてユトレヒトが独立することで大きく変貌する)。イタリアへ行き腕を磨いた画家たちは、ユトレヒトへ戻って活動を始めた。なかでも、バビューレン Dirck van Baburen(ca.1594・5ー1624)、テル・ブルッヘン Hendrick ter Brugghen(1588ー1629), ホントホルスト Gerrit van Honthorst(1592-1656)の3人が傑出していた。彼らはユトレヒトなどで徒弟修業などを終えた後、いずれもイタリアで10年近い年月を過ごした。ローマで古い時代、そしてルネッサンスの作品を見て、創作の糧としたことに加えて、最新の流行を持ち帰った。  

  特に、彼らに影響を与えたのは、カラッチ Annibale Carracci (1560-1609) とカラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610)だった。カラヴァッジョのローマでの活動期間は短かったが、カラヴァジスティと呼ばれる信奉者たちが、それまで深く浸透していたマネリスト・スタイルのイタリア美術を変革しつつあった。  

大きかったカラヴァッジョの影響
  カラヴァッジョについては改めて記すまでもないが、イタリア美術に革新の風を吹き込んだ。彼のジャンル絵画は、ネーデルラントなど北ヨーロッパの画家たちと共鳴するものがあったと思われる。というのは、当時のイタリアの画家たちは、しばしば伝統的なオランダの画風を「現代化」し、再解釈していたからだ。流行の流れは南から北への一方通行ではなかった。  

  他方、ローマへ行ったこれらのネーデルラント画家は程度の差はあるが、カラヴァッジョの生み出したスタイリスティックでシェマティックな画風を取り入れていた。そしてそれを帰国後、故郷の地で組み立て直し、創作活動に生かした。彼らは後年、ユトレヒトのカラヴァッジスティと呼ばれるようになる。

ユトレヒトのテル・ブルッヘン 
  この3人、いずれも興味深い画家たちであり、相前後してユトレヒトへ戻ってきた。前回からの続きもあり、テル・ブルッヘンをもう少し見てみたい。最近、新たな研究も進んでいるようであり、大部な研究書も刊行されるようになった*。  

  テル・ブルッヘンはユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で最も特異で才能に恵まれた画家だ。1604年頃にイタリアへ行き、ローマで10年近く過ごした後、ユトレヒトに1614年秋に帰国した。テル・ブルッヘンは、ユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で唯一カラヴァッジョを見知っていた可能性があるが、確認されていない。カラヴァッジョは、1606年5月殺人を犯し、ローマから逃亡した。 

  カラヴァジォの影響がヨーロッパに広まったのは、かなり特異な経路であったといえる。当時の巨匠といわれるマスターたちが、次世代への正統な技術伝達の経路としていた徒弟養成を通しての経路がない。信奉者たちはすべて、この破天荒な人生を過ごした画家の作品に接するか、コピーを見る、あるいは自らひたすら模写するなどの形で継承し、その結果を伝達、拡散していった。 

  今日では、カラヴァジェスキの一人といわれるテル・ブルッヘンのローマでの作品はなにも確認されていない。もし、彼の初期の作品 「エマウスの晩餐」 A Supper at Emmaus (Toledo Museum of Art)が真作とすれば、28歳の時である。17世紀の標準からは、画業に入るにはかなり遅いといわざるをえない。ただ、彼が晩熟であったか否かは別として、この画家が並々ならぬ腕を持っていたことは確かだ。  

  ユトレヒトへ戻ったブルッヘンは、1616年にルカ・ギルドに入り、宗教画を制作し続けた。しかしながらバビューレンとホントホルストの帰国で、テル・ブリュッヘンも影響を受け、このようなジャンル画の制作に着手した。

  今日まで残るテル・ブルッヘンの作品は数少ないが、画面から清爽感が漂ってくるような絵がある。この「フルートを吹く男」 Flute Player(下掲)もそのひとつだ。同じ作家の宗教画とはきわめて異なった印象を、見る人に与える。左右一対(pendant)になっているが、テル・ブルッヘンの作品の中でも好きなテーマだ。「イレーヌと召使いに介抱される聖セバスティアヌス」St Sebastian Tended by Irene and her Maid, 1625 よりも少し前に制作されている。

Hendrick ter Brugghen, Flute Player, 1621 (oil on canvas, 71.3 x 56cm upper , 71.5 x 56cm lower) Kassel, Gemaldegalerie Alte Meister, Sttatliche Kunstsammlungen.

    依頼者など制作の来歴は、ほとんどなにも分かっていないが、この明らかに一対の作品「フルート・プレイヤー」は、一見してイタリアの光ともいうべき輝きを持っている。ユトレヒトの出身の画家でありながら、この時代の多くのオランダ人画家の作品とは明らかに違った印象を与える。作品自体も大変人気を呼んだようだ。いつも日の光に満ちた遠い南の国の空気を運んでくるような、清涼感に満ちて美しい。


 左側の若い男の青と白の模様の衣装は、当時のドイツやスイスの傭兵が着ていたものを思い起こさせる。今でもヴァティカンなどで見かける衣装だ。17世紀、ナンシーの宮殿でもスイスの傭兵たちが同じような衣装を着ていた。
楽器も当時の軍楽隊が使っていたものと同じ種類のファイフ fifeと呼ばれるものだ。

  右側の男が着ている赤色の外衣は、カラヴァッジョの作品などにも描かれている古代ローマ人のトガと呼ばれるものに似ている。上の作品の背景、右上の壁の穴は、対にしてみると、単調さを回避させる、かなり効果的なアクセントとなっている。

  フルート・プレイヤーというテーマは、16世紀後半から継承されてきたものだ。北イタリアではカラヴァッジョやマンフレディが試みている。 ブルッヘンのフルート弾きは、そのイコノグラフィ、半身の構図、光の効果、珍しい衣装などで、これらの先行者の解釈を思い出させる。テル・ブルッヘンは、バグパイプ、ヴァイオリンなどの演奏者を描いた作品も残しているが、このフルート・プレイヤーはとりわけ美しい。明るい色彩、背景、構図の斬新さなど、イタリアでの画業研鑽の成果を感じさせる。

  しかし、カラヴァッジョの影響を受けながらも、その絵画世界とは明らかに異なるものを感じさせる。ユトレヒトに育ち、そこで最初の画業の手ほどきを受けた画家であることをしっかり継承し、北方文化の基調を漂わせている。 ユトレヒトともイタリアとも違うある距離と空間を維持した作品だ。見ていると、なんとなく柔らかなフルートの音色が聞こえてきそうな感じがする。誰もがきっと身近に置きたいと思うだろう。大作というわけではないが、見ているだけで幸せになってくる作品だ。



Reference
Leonard Stakes and Wayne Frantis. The Paintings of Hendrick Ter Brugghen 1588-1629: Catalogue Raisonne (Oculi: Studies in the Arts of the Low Countries) (Hardcover)
John Benjamins Pub Co., 2007,
471pp
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローマ対ロマ

2008年05月28日 | 移民の情景

  5月27日、深夜に見たBS番組*が、現代のロマ人(ジプシー)の放浪の旅を伝えていた。予定していたわけでもなく、すでに番組の最終部分に近かったが、一見してロマ人と分かった。かつて仕事で2度ほど訪れたルーマニアが舞台で、見覚えのある光景だからだった。あのチャウシェスクまで映像に出てきた。最初、ブカレストへ行ったのは、チャウシェスクが独裁者として権勢を誇示していた時だった。カルダラリと呼ばれるロマ人は、ルーマニアだけで20万人はいるという。

 番組で取り上げていたのは、ヨーロッパを横断して旅するロマ人の一団である。17世紀、
カロの版画とほとんど同じ状況が今でも続いている。驚くべき光景だ。旅の途上で、村の結婚式で楽士をつとめたり、拾い集めた材料から鍋を作って売り歩いたり、したたかな振る舞いを見せる。民族の習性が変わらないことを実感させられる。ロマに対する他民族の差別も厳しい。旅の途上、宿泊のために村落へ入るのもかなり難しい。滞在を拒否され、村の外でみずぼらしいテントを張り、宿営する。結婚披露宴での演奏を頼まれても、客が望むまでは会場にも入れない。じっと屋外で深夜まで待っている。

 最近、EUでこのロマ人労働者に注目が集まっている。イタリアのベルルスコーニ新内閣のロマ人移民労働者への厳しい対応が焦点だ。ベルルスコーニが選挙活動で強調した点のひとつは、犯罪と移民へ強硬な対応だった。イタリアのメディアもかなりセンセーショナルに、移民、とりわけ不法移民と犯罪の関係を伝えていた。ベルルスコーニ大統領は、国内で犯罪にかかわる移民労働者には国外追放などの強い姿勢で臨むことを口にしてきた。

厳しい対応を見せるベルルスコーニ
 5月21日、新内閣の最初の閣議をわざわざナポリで開催したのは、いまや国外からも批判されるまでになってしまった同市のゴミ処理の不手際への対応とともに、不法移民に対する強硬姿勢をあっピールする意図があったとされる。しかし、事態は予期した方向とは違った方へ動き出したようだ。ベルルスコーニ内閣は自分たちの不法移民対策は、すでにブリテン、フランス、ドイツなどが実施している内容と変わらないとしている。たとえば、庇護申請をたやすく認めない。移民が家族を招き寄せることに厳しくあたるなどの政策だ。

 しかし、ベルルスコーニ内閣が注目され、非難されてもいるのは、警察力を使った規制である。不法移民のチェックが始まり、特にロマ人の居住地区で摘発が強化された。たとえばナポリでは、ロマ人女性による子供の誘拐の嫌疑で、ロマ人居住区の一部が強制撤去されるなどの事態が生まれた。ロマ出身の欧州議会委員モハクシ女史はイタリアのロマ人居住地域を視察し、ヨーロッパで最悪の状況だとイタリア政府を非難した。ロマ人側からも批判は高まり、欧州議会もイタリア政府のやり方を問題としている。

不法移民を必要とする分野
 イタリア政府は不法移民を犯罪行為として、漁船などでの入国を厳しく取り締まるとともに、すでに入国し滞在している外国人労働者の国外退去を目指している。他方、彼らはイタリア人が働きたがらない老人介護や家事労働に従事しており、犯罪者ではないという人権団体やメディア、教会なども盛んに活動している。だが、これだけでは、今まで何度となく繰り返され、見慣れてしまった光景だ。

 しかし、今回のイタリア政府の新たな対応は、欧州委員会との紛争を引き起こしかねないリスクを含んでいる。ひとつの問題は、犯罪を犯したとして国外追放されるEU構成国の市民にかかわる。もうひとつは、各地域の市長に、適切な所得と住宅がないEU市民には管轄地域内に居住を認めない権限を付与したことである。これらの措置は、犯罪の源と関連づけられることが多い。イタリア国内にいる推定5万人のロマ人を目標にしていることは歴然としている。

言動不一致?
 国外追放が規則通り行われることを政府は望んでいるとし、それはEUのルールとも合致するものだと述べている。しかし、EUのある国が他の国の国民を排除するという行動は、域内移動の自由に関する2004年のEU指令で厳しく制限されている。フラティニ大臣はかつては正義と国内問題に関するEUのコミッショナーをつとめた人物だ。

 ロマ人の問題は歴史も長く、容易には解決できない。長らく漂泊の旅に生きてきた民族だ。定住化政策の対象としても、きわめて難しい存在となっている。
フランスの「郊外」問題とも異なっている。この事態に実効ある政策が提示できるか、不法移民問題の試金石といえる。しばらく成り行きを注目したい。
 


Reference
"Rome v Roma" The Economist May 24th 2008

 ハイビジョンスペシャル−はるかなる音楽の道(1)− 「さすらいのバイオリン〜流浪の民・ロマの道」. 放送日時:: 5月26日(月) 23:40~1:40



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の怒り、悲しみ、そして

2008年05月24日 | 雑記帳の欄外

 親しい中国人の友人が、現代中国の最大の問題は頼るべき神や仏が存在しなくなったことだと語った。生活は物質面では豊かになったが、心の喪失感も大きいという。1960年代の文化大革命当時、まだ学生であった彼は、貴川省の農場へと下放されていた。その経験は、あまり語りたがらない。世代を問わず同じ経験をした人は、ほとんど誰もがそうである。この時代に生きた中国の知識人は、文化大革命がもたらした深い闇を知っている。儒教を始めとするあらゆる宗教的拠りどころが根底から破壊された。多くの人が荒涼とした精神風土を共有することになる。そして、時代は移り、開放・改革へと大転換する。発展する沿海部の都市などを中心に、無神論、そして拝金主義が多くの人々の心に忍び込んだ。中国自体がグローバリズムの根源のひとつとなるにいたって、「皆が等しく豊かになる」考えは完全に消え失せてしまった。

 他方、中国を旅してみると、宗教は少しずつその本来の力を取り戻しているのかもしれないという光景を目にする。それは、古くから伝わる民間信仰や祖先崇拝だけでなく、仏教、道教、少数民族に多いイスラム教、そしてキリスト教においても見られる。文化大革命の破壊にも耐えて永らえてきた農村の寺の実態にも接した。人々はそれぞれに線香を手にして、昔通りの礼拝をしていた。
孔子廟などへ詣でる人々の姿にも認識を新たにした。  

 四川省大地震の救済活動が続く中で、中国政府は5月19-21日を「全国哀悼日」と定め、地震発生時刻の午後2時28分に、全国各地で国民が黙祷を捧げた。中国にとって、今年は北京五輪開催という記念の年となるはずであり、13億人を擁する中国全土が熱狂する夏となることが予想されていた。この高揚感こそ、指導者を始めとして多くの人が描いていたことではないか。日本を始めとする多くの国が、オリンピック開催を次の発展への足がかりとしたように、中国の指導者そして国民も同様な効果が生まれることを願っていたに違いない。スポーツの祭典は、経済発展への踏み台となってきた。  

 しかし、年の前半も過ぎていないというのに、文字通り青天の霹靂ともいうべき激変がこの国を襲った。進む環境汚染、食品問題などへの海外からの批判に加えて、チベット暴動に端を発した中央政府への反発は、世界をめぐる北京五輪聖火リレーの路程で、中国政府、そして中国国民にとって見たくない光景を生み、 ナショナリズム意識に火をつけた。 多事多難な年、息つく間もなく、まさに天変地異ともいうべき四川省大地震が発生した。「怒れる中国」*は、一瞬にして「悲しみの中国」へと転じた。北京五輪まであと120日という時点での出来事だ。

 しかし、この悲劇は、広大な国土に13億という巨大な人口を擁することもあって、いまひとつ結束力を欠いた中国国民の間に、被災した同胞への同情と支援という形で精神的絆を強めているようにもみえる。これまであまり見えなかった姿だ。同胞愛そして人間愛への回帰は、悲惨な傷跡を癒すためにも喜ぶべきことだ。指導者が描いていたような理想的環境で、五輪を開催するという夢は潰えた。小国なら中止もやむないほどの大災害である。しかし、もし苦難を超えて人々の思いがまとまるならば、狭くなった地球上で共に生きねばならない人間への愛と協力を確かめる五輪大会になりうる可能性を残している。
「災いを転じて福となす」ために、なにをなすべきか。北京への道は大きく変わった。


*
"Angry China." The Economist May 3rd 2008.

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーネスト・サトウと日光

2008年05月20日 | 午後のティールーム

  災害など暗い話題が多い昨今、少しやすらぎを感じることがあった。以前に、このブログで、緑陰の美しい日光中禅寺湖畔のあまり知られざる景観について記したことがあった。

  その中で、読まれる機会の少ない日光東照宮発行の年報誌『大日光』に掲載された、
工藤圭章氏の「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」という論文に言及した*。このアーネスト・サトウは、明治の日英外交史で大きな役割を果たした英国公使アーネスト・サトウ Earnest SATOW である。蛇足ながら、このサトウの名は、日本人に多い佐藤ではなく、SATOWという英語であり、イギリスの方である。

  サトウは幕末、生麦事件のあった年、1862年(文久2年)に、19歳で通訳官として初めて来日し、明治維新を通して滞在、その後度々の日本勤務を含めて、1895年(明治28年)からは公使として、通算では実に23年ほどの長きにわたり日本に滞在され、大変日本を愛した外交官である。

  このサトウ公使と日光、そして英国との関係について、フライ・豊子駐日英国大使夫人が講演をされた記録が、『大日光』78号に収録されている。サトウが中禅寺湖畔に建て、その後英国大使館別荘となっている建物について觸れられながら、サトウが愛した日本と桜について、そしてサトウの遺児のその後などを含めて、大変興味深い内容である。とりわけサトウが建てた湖畔の別荘は、大使館別荘としてすでに同じ場所に111年間建っていることに改めて驚かされる。

  英国大使館別荘は、現在も使用されているので見学はできないが、この湖畔には少し先きにある旧イタリア大使館別荘を栃木県が取得し、整備して一般公開している。これも英国大使館別荘と同様に基本的に日本家屋であり、湖に面したテラスのガラス戸には、最近の新しいガラスではなく、少し景色が歪んで見えるような鉛分の多い昔のガラスがはめこまれている。

  このあたり、新緑から夏、紅葉の頃までは大変素晴らしい。美しい夏は短く、9月になると暖房がほしい日も出てくる。そして、冬は長く厳しい。中禅寺湖は、男体山の噴火活動でできた湖で遠浅ではない。はるか昔、このあたりで何度かの夏を過ごし、泳いだことがあった。岸辺には格好な広さの砂地が湖に向かってなだらかに続いているが、2-30メートル先から急に深くなっている。中禅寺湖は冬も結氷しないが、水に落ちたら心臓麻痺を起こすほどの冷たさである。この砥沢といわれるあたりは、半月峠へ向かう自動車道路なども整備され、さすがに人の手が入っているが、半世紀ほど前の光景はあまり変わっていない。

  湖面には男体山がその雄大な山容を映し、湖畔からは文字通り見上げるような感じである。湖畔の二荒山神社中宮祠から山頂まで続く、大崩落によるガレ場が印象的であり、夏の晴れた日などは頂上へ向かう人たちの姿が見えるほどだ。

  大使館など湖畔の別荘は、岸から湖に向けて木造の桟橋を設けていることが多く、ポールに国旗が掲げられていたこともあった。早朝、鱒釣りに出かける大使などのボートが、朝靄が立ちこめる湖面へ向かう光景なども記憶の片隅にある。

   旧イタリア大使館別荘公園として整備されてから訪れる人も増えつつあるが、このままに残っていてほしい隠れた憩いの場である。

 

 

* 工藤圭章「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」『大日光』 77号、2007年
 大変残念なことに、この論文の著者工藤圭章氏は、その後お亡くなりになったが、ブログを読まれたご家族からのご連絡などもあり、不思議な縁を感じている。

** フライ 豊子「日光と英国 アーネスト・サトウ公使の桜」『大日光』78号、2008年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアの光・オランダの光(3)

2008年05月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

17世紀半ばのネーデルラント共和国の地図(干拓以前で複雑な国土であることがわかる)

  
  16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパの画家たちにとっての憧憬の地は、なんといってもローマだった。ローマで修業したというだけで、画家の評価が変わったといわれた。

  ロレーヌ公国の首府ナンシーの宮殿でも、フランス宮廷文化を基本としながらも、イタリア風のファッションが幅をきかせていた。きらびやかな衣装をまとい、片言のイタリア語を話し、気の利いた詩句のいくつかを弄するだけのいかがわしい若者が宮廷に出入りしていた。彼らは貴婦人の格好なお遊び相手だったらしい。

  それはともかく、このブログごひいきの画家ラ・トゥールが、イタリアへ行ったか否かは、画家の研究史上、かなり重みのあるテーマとなってきた。しかし、この画家のイタリア行きを立証する証拠のたぐいは未だなにも発見されていない。そればかりか、修業時代がほとんど闇に包まれている謎の画家だ。しかし、この修業あるいは遍歴の時代、具体的には画家が12-3歳から23歳頃、1605―1616年頃までの時期は、画家のその後を推測するにきわめて重要な意味を持っている。ラ・トゥールがどこかの工房で画業のための修業をし、ヴィックを経てリュネヴィルに移住するまで、まったく手がかりのない時期である。画家はこの年月にどんな遍歴修業をしたのだろうか。ここまでくると、やはり知りたくなってくる。

南ではなく北では 
    この画家の作品を見詰め、わずかに残る記録を手がかりに、当時のヨーロッパの地政学的な観点を含めて、この画家のたどった人生を考えてみた。かなり以前から、少なくとも多感な青年時代、遍歴の時期にこの画家がほぼ間違いなく訪れたのは、イタリアよりもユトレヒトなどの北方の地ではないかという気がしていた。こちらも記録はなにも発見されていないのだから、あくまで推測にすぎない。  

    もちろん、多くの美術史家が暗黙にも前提とするようにイタリアにも行ったかもしれない。だが、それ以上に可能性の高いのはヴィックやナンシーから距離的にもはるかに近いユトレヒト、アムステルダムなどのネーデルラントの地ではなかったかと思われてくる。   

ネーデルラント絵画の底流
    長らくこの画家の作品を見てきたが、イタリアン・バロックの印象は、画面からあまり強く伝わってこないのだ。むしろ、同時代ネーデルラントの画家たちの作品を見ていると、その根底に共通に流れているものを感じる。たとえば、レンブラントの弟子であったエリット・ダウ Gerrit (Gerard) Dou (1613 Leiden,―Leiden 1675) やゴッドフリード・シャルッケンGodfried Cornelisz Schalcken (1643 near dordrecht – the Hague 1706)などのネーデルラント画家の作品(下掲)を見ていると、その感はさらに強まってくる。年代としては、ラトゥールよりは少し若い世代だ。

 


Gerrit Dou Old woman with a candle Oil on panel, 31 cm x 33 cm Wallraf-Richartz Museum, Cologn



Godfried Cornelisz Schalcken. Girl with a candle late 1660s Pitti Gallery, Florence 

    これらの作品を眺めていると、この時代に共有されていたネーデルラント文化の基調のようなものを感じる。いずれ記すことがあるかもしれないが、イタリア修業から帰国したテル・ブリュッヘンなどにもその残照のようなものが感じられる。ラトゥールの作品とも近いものがある。

    当時の芸術文化の世界は、アルプスを境に「南」と「北」に分けられ、「南」はイタリアを意味していた。より具体的には、ローマであり、フィレンツエ、ヴェネツイアなどの都市であった。「南」は青い空に太陽が輝き、芸術が花開き、文化が栄える憧憬の地であった。 これに対して「北」は、元来「南」を前提に考えられた存在だった。地域的にも漠然としていたが、ドイツ、ネーデルランド(オランダ、フランドル)、広くはフランスなどを含めて想定されていた。イタリアのような華やかさはないが、地味ながら確固とした文化が展開していた。「北方ルネッサンス」ともいわれるように、この地にも独自の文化が花開いていた。実際、「北」から「南」への文化の流れも着実にあったのだ。   

    こうした中で、レンブラントやリーフェンスのように南を目指す流れに安易に身を任せない画家たちもいた。自らの技量に自信を持ち、イタリアまで行かなくてもアムステルダムでイタリアは分かると豪語していた。ネーデルラントの地には、それを支える文化の基盤がしっかりと形成されていた。とりわけ、ユトレヒト、アムステルダムなどはその中心的位置を占めていた。あのテル・ブルッヘンもイタリア帰りでユトレヒトで活動したカラヴァジェスキの一人だ。次回は、ユトレヒトに行ってみるか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北京への道を修復する(3)

2008年05月14日 | 雑記帳の欄外

Photo Y.KUWAHARA 

   
    中国で5月12日に起きた「四川省大地震」は、文字通り驚天動地の出来事だ。このブログで予想した「壊れ始めた北京への道」が、まさかこんな形に展開するとはさすがに考えもしなかった。五輪聖火リレーの騒ぎは、どこかへ消えてしまった。

  中国の友人の薦めもあり、できれば臥竜へ行ってみたいと思っていただけに今は言葉もない。もしかしたら、現地にいたかもしれない。不幸にも亡くなった方々には哀悼の意を表し、ただ一人でも多くの人命が救われることを祈るのみ。国際緊急救助隊の受け入れを中国政府は断ったようだが*、人命のために政治や国境の壁があってはならない。「災い転じて福となす」ためには、一人でも多く目前の命を救うことではないだろうか。それだけが、北京へつながる道だ。


* 5月15日、急遽受け入れに転換。胡錦涛主席の訪日効果をなんとか維持したい現れか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアの光・オランダの光(2)

2008年05月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

マルタ騎士団の紋章

  
  最近日本でも、レンブラント、フェルメール、カラヴァジォ、ラ・トゥールなどのファンがかなり増えてきたようだ。イタリア・ルネッサンスやフランス印象派の愛好者は非常に多いのに、17世紀の画家や作品はあまり知られていないので、大変喜ばしい。2001年にカラヴァジォの展覧会が東京都庭園美術館で開催された時、どうしてもっと大きな会場を選ばないのかと思った。しかし、当時の状況ではあの程度の規模が適当だったのかとも思う。

    画家と作品も、時代の流行や嗜好から無縁ではいられない。今は巨匠といわれる画家でも、活動していた時代には評価が低かったことも珍しくない。もちろん、その逆もしかりだ。

17世紀美術への関心 
  フェルメールやカラヴァジォは、いまでこそ企画展の目玉商品になるほどの人気だが、かつては「忘れられ」、「関心を惹かなかった」画家でもあった。それでも欧米ではかなり早くから再評価もされ、巨匠の中に入れられ関係出版物も多数存在していたが、日本で人気が生まれたのは比較的近年のことだ。しかし、このところ、小林頼子、若桑みどり、石鍋真澄、岡田温司、宮下規久朗氏など美術史専門家の力作が次々生まれて、一般の美術愛好者の間でも理解は格段に進んだようだ。美術に限ったことではないが、言語の関係でどうしても避けがたい翻訳文化のバイアスが、少しでも正されることは望ましい。

  ラ・トゥールについても、2005年国立西洋美術館での特別展もあって、かなり知られるようにはなった。しかし、知名度調査によるわけではないので、まったくの憶測にすぎないが、その名を聞いて作品が思い浮かぶ人の比率は依然としてかなり少ないのではないか。
日本ではかなり美術に関心のある人でも、すぐに作品が思い浮かぶのは10人のうちで一人か二人ではないかと思うほどだ。田中英道氏の先駆的労作は燦然と輝いているが、今では図書館か古書でしか利用できない。それでも、ローザンベール=ブルーノフェルトの画集(邦訳)、2005年東京展カタログが出版されたのは大きな救いだ。 

  昨年パリのオランジェリー美術館で、ラ・トゥール、ル・ナン兄弟などに関する歴史的な展覧会が、同じ館内で開催されているのに、この画家の名を知らず、常時展示のモネが目当てで、それしか見なかったという日本人に会った。もう2度と見られない企画であっただけに、大変残念なことだ。  

  美術史家でもないのに、いつの間にか17世紀画家の世界にかなりのめりこんでいた。理由がないわけでもない。ラ・トゥールは作品、画家に関わる記録がきわめて少ない。それでも、これまでの人生の間に、偶然や幸運にも恵まれて、日本人がほとんど見ていなかった頃の特別展に接したり、ラ・トゥールが生涯の大部分を過ごしたロレーヌの地を再三追体験する機会があったりして、脳細胞に深く刻まれた断片がいつの間にかかなり蓄積された。これまでの自分の仕事とはまったく関係がない分野なのだが、不思議と思うくらいの縁が、この画家や時代を結んでいるような気がしている。思い出すままに断片を記しているが、まだかなり残っているようだ。ということで、この変なブログが続いている。

カラヴァッジョとラ・トゥール 
  ラ・トゥールに惹かれるようになった頃から、疑問に思ったことのひとつは、この画家とイタリア美術、とりわけカラヴァジォとの関係だ。美術史家の間で、テネブリズム的な特徴を持つカラヴァジストとしてさしたる説明もなく直結してしまう見方が目立つが、すぐには飲み込めないものを感じてきた。カラヴァジォの影響をどこかで受けていることは、否定しがたいのだが、いかなる脈絡で、その関係を推理するのかが気になっていた。たまたま、マルタ島ヴァレッタ(マルタ騎士団、カラヴァジォ「洗礼者ヨハネの斬首」を描いたサン・ジョヴァンニ大聖堂で著名)への旅から戻ったばかりの人が近くにいることもあって、少し考えてみた。  

  ラ・トゥールが、その生涯の間にカラヴァジォの名前や作品を知らなかったとは思えない。ヴィックもリュネヴィルも、そしてロレーヌ公国の首府ナンシーも、当時のヨーロッパのさまざまな地域を結ぶ文化の十字路であった。主導的な画家たちは、時代の風向きに敏感だったはずだ。カラヴァジォは38歳という短い人生を波瀾万丈、疾風のように駆け抜けた画家だが、作品数は多く、幸いにもかなりの作品が現存している。

  しかし、17世紀当時は、現実に評判となっている作家の作品を目にする機会は、今と違って大きな制約があった。たとえば、ラ・トゥールはどこでカラヴァジォの作品を見ることができたのだろうか。ひとつの可能性は、今日ナンシー美術館が所蔵する「受胎告知」だ。もしかすると、ラ・トゥールが最初に見たカラヴァジォかもしれない。カラヴァジォ晩年の作品であり、ロレーヌ公妃の父親マントヴァ公がカラヴァジォの庇護者であった縁で仲介し、ロレーヌ公が1909年、ナンシー首座司教座聖堂の完成を祝って主祭壇画として贈ったと推定されている。この時期はラ・トゥールが徒弟などの画業修業中あるいは遍歴の時に相当し、地理的関係からも、この作品に対面した可能性はきわめて高い。


Michelangelo Merisi da Caravaggio (September,1571-July 1610)
1608-09
Oil on canvas, 285 x 205 cm
Musée des Beaux-Arts, Nancy

  この「受胎告知」については、色々と思い浮かぶことが多い。ともすると、リアルすぎて辟易する作品も多いカラヴァジォだが、この作品は落ち着いた色調で美しい。構図もかなり凝っている。ここでは、とても書き尽くせないので別の機会にしよう。

  来歴についてだけ一言。この作品、一時はミケランジェロの作とされたり、興味深い点がある。現在のところ、カラヴァジォの最晩年に近い作品で、画家の2回目のナポリ滞在の時に制作されたらしい(1959年、ロベルト・ロンギの推定)。ナポリからナンシーへ輸送されたようだ。この点も興味を惹く。

  作品の構成にも、ラ・トゥールとのつながりを感じさせるものがあるが、これも別の機会としよう。真作、模作を含めて、今日残るラ・トゥールの作品には、「受胎告知」の主題は残念ながら存在しない。生涯にはおそらく描いたに違いないのだが、作品の残存点数は40点余で、きわめて少ない。

 カラヴァジォのヴァレッタ滞在との関連では、「書き物をする聖ヒエロニムス」がある(下掲)。暗い室内でなにごとかを書きつけている聖ヒエロニムスの背後は、ほとんど闇のように見えるが、よく見ると左側の壁に掛けられている枢機卿帽など、アトリビュートが確認できる。



Michelangelo Merisi da Caravaggio
St. Jerome Writing, 1607 Oil on canvas, 117 x 157 cm St John Museum, La Valletta

この作品をラ・トゥールが見た可能性はきわめて少ないが、コピーなどが流布されていた可能性はある。ラ・トゥールの「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」(下掲)を想起させる作品だ。

 Georges de La Tour, Saint Jerome, c.1630-1632, Nationalmuseum, Stockholm


 北方を目指すはずの旅がどうやら南へ来てしまったようだ。やはりイタリアの引力は大きいのか。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアの光・オランダの光(1)

2008年05月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour. St Sebastien Attended by St Irene c. 1649 Oil on canvas, 167 x 130 cm Musée du Louvre, Paris 

    暗い闇の中に浮かび出た、矢に貫かれた瀕死の若者と、介護する若い女性の立像。キュービズムを思わせる美しい様式で、モダーンな感じを与える大変美しい作品で何度見ても感動する。

    ルーブル美術館が所蔵する上掲の作品「イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」(
「縦長の聖セバスティアヌス」と略称)は、真贋論争*を超えて、見る人の心に深く響くものがある。古典的な様式美を保ち、装飾的部分を最小限にとどめて描かれた素晴らしい作品だ。闇の中に映し出された悲しみの光景が見る人の胸を打つ。落ち着いた色調で描かれ、静謐な感じがする。
  
  他方、同じ主題で描かれたこの作品(下掲)を見てみる。これもごひいきの画家
テル・ブルッヘン(あるいはブルッヘン) Hendrick ter Brugghen(The Hague?1588-1629 Utrecht) の名品だ。大変好きな作品だが、ラ・トゥールの作品と対比すると、きわめてダイナミックな感じがする。一見して、その違いに瞠目する。




St Sebastian Tended by Irene and her Maid, 1625, Oil on canvas, 130.2 x 120, Allen Memorial Art Museum, Oberlin College, Ohio     

  
こちらは夕日を背景に、構図も壮大で凝りに凝っている。テル・ブルッヘンは、オランダ、ユトレヒトの画家だが、その前半の経歴はほとんど分かっていない。1588年頃、おそらくハーグに生まれ、ユトレヒトの近くに移り、地元の画家工房で修業の後、1604年頃(15歳?)からイタリア(主にローマ、ミラノ)に滞在した後、1614年秋**に故国へ戻ってきた。この時代、記録が残るわずかな数のオランダ画家の中で、ルーベンスそしてカラヴァッジォに会っていたかもしれないといわれる唯一の画家だ。しかし、テル・ブルッヘンがローマ滞在中に制作したと思われる作品は、一点も見出されていない。   

  この作品は、画家の持つ絶妙な技量と抑制された情緒の下で、制作された傑作といえる。上に掲げたラ・トゥール(工房)の場合と同様に、矢に貫かれ、瀕死の状態にある若者、聖セバスティアヌスを救おうと介護する若い女性イレーヌと召使の姿が、考え抜かれた見事な構図で画面一杯に描かれている。悲壮な場面にもかかわらず、画家は陰鬱あるいは残酷な印象を与えないよう極力配慮している(これはラ・トゥールの作品についてもあてはまる)。描かれた人物には彫刻のような立体感があり、その抑えられた色彩とともにイタリアン・バロックの華麗さが画面全体にみなぎっている。そして、ユトレヒト・カラヴァッジストと云われる躍動的な印象が伝わってくる。   

  テル・ブルッヘンがイタリアでの修業の成果を存分に発揮した作品であり、この画家の面目躍如たるところがうかがえる。(ちなみに、この作品も大西洋を渡り、1953年からアメリカのオベリン・カレッジの美術館が所蔵している。)

  ラ・トゥールのテネブリスト tenebrist ***的特長をもって、カラヴァジェスキと即決するような評価も多いが、テル・ブルッヘンのようなイタリア的バロックの影響を受け、オランダ的風土で活躍した画家との距離は、もっと立ち入って考える必要がありそうだ。
北方への旅を少し続けてみよう。



* 1972年にパリ・オランジェリーで見た最初の特別企画展では、ラ・トゥールの作品とされていた。その後、失われた真作の模作、コピーともいわれたが、2005年の東京での企画展カタログでは再び真作リストに含められている。ベルリン所蔵の作品はコピーとされているようだ。「横長」の作品はコピーが複数残るが、真作は失われたとみられている。

** 1614年夏、テル・ブレッヘンはユトレヒトの画家ファン・ガレン Thijman van Galen と連れだってミラノにいたことが判明している。その後、彼らはスイスを通り、アルプスをセント・ゴッタルド峠を通って帰国した。ユトレヒトの画家Michiel van der Zandeと彼の徒弟が同行していた。ユトレヒトではテル・ブルッヘンとファン・ガレンは、1616年に親方画家として登録された。同年10月、テル・ブルッヘンは義兄で宿屋の主人Jan Janszの義理の娘とカルヴァン派教会 Reformed Church で結婚した。 後年、彼の8人の子供のうち、少なくも4人がこの教会で洗礼を受けたことが判明している。テル・ブレッヘン自身は、この教会員ではなかったようだ。自らはプロテスタントと思っていたようだが、正統なカルヴィニストの教えは斥けていた。他方、この作品が典型的に示しているように、テル・ブルッヘンが、カトリックの主題を明白に扱っていることは、その教義に共感していないわけではなかったことを示している(この点は、ラ・トゥール研究にとっても重要な示唆を与えている。)

*** イタリア語の「暗闇」tenebraに由来。17世紀に流行した、背景を暗くし、人物など主要モティーフに強い光を当て、明暗を強調した絵画の傾向。カラヴァジォの影響を受けたいわゆるカラヴァジェスキと呼ばれる画家たちの手法を指すことが多い。


Reference
Seymour Slive. Dutch Painting: 1600-1800, Yale University Press, (1966), 1999.

George de La Tour. ORANGERIE DES TUILERIES, 12 mai - 25 septembre 1972. .

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする