17世紀前半、南のイタリア、北のネーデルラントは共に躍動していた。とりわけ、ネーデルラントは「17世紀の危機」をほとんど経験することなく、「黄金の世紀」といわれる繁栄の時代を享受していた。とはいっても、1568年から1648年は、ネーデルラント諸州 United Provinces が宗主国スペインに対して起こした反乱の時期であり、「80年戦争」とも呼ばれた緊張の時代でもあった(1609年から1621年の間の12年間は休戦)。
ネーデルラント文化は、ハールレム、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグなど、いくつかの拠点都市を中心に展開していた。その中で、ユトレヒトは、カトリック色の濃い都市だった。地図では現在のオランダのほぼ中央部に当たるところに位置している。現在のオランダとベルギーを合わせた地域は「低地の国々」 Low Countries と知られ、その形から「ベルギーの獅子」とも呼ばれたが、それによると獅子の耳の下の部分にある。一度だけ訪れたことがあるが、運河に映った緑陰の濃さが記憶に残る。
最盛期のユトレヒト
17世紀前半のユトレヒトが注目される理由はいくつかある。16世紀後半から17世紀前半にかけて北方文化の中心でもあったが、多くの画家が、この地からイタリアへ修業に出かけ、戻ってきた。このブログごひいきのテル・ブルッヘン、ホントホルスト、バビュレン(バブレン)など、ユトレヒト・カラヴァジェスティ(カラヴァッジョの信奉者)が活動した所だ。
17世紀の30-40年代の最盛期にユトレヒトでは、50~60人の親方画家たちが工房を営み、年間数千枚の作品を作り出していたといわれる。地域経済への貢献も無視できないものだった。数の上でもユトレヒトの独自性を刻むに十分なほどの文化集積を形成していた。当時のヨーロッパでも特筆すべき規模だ。
1611年に画家のギルド「聖ルカ・ギルド 」の結成があり、それまで所属していた鞍作り職人のギルドから分離し、美術家集団として結束も深めた。さらに1644年には画家学校が結成され、聖ルカ・ギルドは彫刻家と木彫家の団体となった。ユトレヒトには、1612年頃に作られた画家アカデミーもあった。
戻ってきたカラヴァジスティ
ユトレヒトの画家たちがイタリアを目指した背景には、カトリック教徒の多かったユトレヒトとローマのつながりがあったと思われる(この関係は、新教国としてユトレヒトが独立することで大きく変貌する)。イタリアへ行き腕を磨いた画家たちは、ユトレヒトへ戻って活動を始めた。なかでも、バビューレン Dirck van Baburen(ca.1594・5ー1624)、テル・ブルッヘン Hendrick ter Brugghen(1588ー1629), ホントホルスト Gerrit van Honthorst(1592-1656)の3人が傑出していた。彼らはユトレヒトなどで徒弟修業などを終えた後、いずれもイタリアで10年近い年月を過ごした。ローマで古い時代、そしてルネッサンスの作品を見て、創作の糧としたことに加えて、最新の流行を持ち帰った。
特に、彼らに影響を与えたのは、カラッチ Annibale Carracci (1560-1609) とカラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610)だった。カラヴァッジョのローマでの活動期間は短かったが、カラヴァジスティと呼ばれる信奉者たちが、それまで深く浸透していたマネリスト・スタイルのイタリア美術を変革しつつあった。
大きかったカラヴァッジョの影響
カラヴァッジョについては改めて記すまでもないが、イタリア美術に革新の風を吹き込んだ。彼のジャンル絵画は、ネーデルラントなど北ヨーロッパの画家たちと共鳴するものがあったと思われる。というのは、当時のイタリアの画家たちは、しばしば伝統的なオランダの画風を「現代化」し、再解釈していたからだ。流行の流れは南から北への一方通行ではなかった。
他方、ローマへ行ったこれらのネーデルラント画家は程度の差はあるが、カラヴァッジョの生み出したスタイリスティックでシェマティックな画風を取り入れていた。そしてそれを帰国後、故郷の地で組み立て直し、創作活動に生かした。彼らは後年、ユトレヒトのカラヴァッジスティと呼ばれるようになる。
ユトレヒトのテル・ブルッヘン
この3人、いずれも興味深い画家たちであり、相前後してユトレヒトへ戻ってきた。前回からの続きもあり、テル・ブルッヘンをもう少し見てみたい。最近、新たな研究も進んでいるようであり、大部な研究書も刊行されるようになった*。
テル・ブルッヘンはユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で最も特異で才能に恵まれた画家だ。1604年頃にイタリアへ行き、ローマで10年近く過ごした後、ユトレヒトに1614年秋に帰国した。テル・ブルッヘンは、ユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で唯一カラヴァッジョを見知っていた可能性があるが、確認されていない。カラヴァッジョは、1606年5月殺人を犯し、ローマから逃亡した。
カラヴァジォの影響がヨーロッパに広まったのは、かなり特異な経路であったといえる。当時の巨匠といわれるマスターたちが、次世代への正統な技術伝達の経路としていた徒弟養成を通しての経路がない。信奉者たちはすべて、この破天荒な人生を過ごした画家の作品に接するか、コピーを見る、あるいは自らひたすら模写するなどの形で継承し、その結果を伝達、拡散していった。
今日では、カラヴァジェスキの一人といわれるテル・ブルッヘンのローマでの作品はなにも確認されていない。もし、彼の初期の作品 「エマウスの晩餐」 A Supper at Emmaus (Toledo Museum of Art)が真作とすれば、28歳の時である。17世紀の標準からは、画業に入るにはかなり遅いといわざるをえない。ただ、彼が晩熟であったか否かは別として、この画家が並々ならぬ腕を持っていたことは確かだ。
ユトレヒトへ戻ったブルッヘンは、1616年にルカ・ギルドに入り、宗教画を制作し続けた。しかしながらバビューレンとホントホルストの帰国で、テル・ブリュッヘンも影響を受け、このようなジャンル画の制作に着手した。
今日まで残るテル・ブルッヘンの作品は数少ないが、画面から清爽感が漂ってくるような絵がある。この「フルートを吹く男」 Flute Player(下掲)もそのひとつだ。同じ作家の宗教画とはきわめて異なった印象を、見る人に与える。左右一対(pendant)になっているが、テル・ブルッヘンの作品の中でも好きなテーマだ。「イレーヌと召使いに介抱される聖セバスティアヌス」St Sebastian Tended by Irene and her Maid, 1625 よりも少し前に制作されている。
Hendrick ter Brugghen, Flute Player, 1621 (oil on canvas, 71.3 x 56cm upper , 71.5 x 56cm lower) Kassel, Gemaldegalerie Alte Meister, Sttatliche Kunstsammlungen.
依頼者など制作の来歴は、ほとんどなにも分かっていないが、この明らかに一対の作品「フルート・プレイヤー」は、一見してイタリアの光ともいうべき輝きを持っている。ユトレヒトの出身の画家でありながら、この時代の多くのオランダ人画家の作品とは明らかに違った印象を与える。作品自体も大変人気を呼んだようだ。いつも日の光に満ちた遠い南の国の空気を運んでくるような、清涼感に満ちて美しい。
左側の若い男の青と白の模様の衣装は、当時のドイツやスイスの傭兵が着ていたものを思い起こさせる。今でもヴァティカンなどで見かける衣装だ。17世紀、ナンシーの宮殿でもスイスの傭兵たちが同じような衣装を着ていた。楽器も当時の軍楽隊が使っていたものと同じ種類のファイフ fifeと呼ばれるものだ。
右側の男が着ている赤色の外衣は、カラヴァッジョの作品などにも描かれている古代ローマ人のトガと呼ばれるものに似ている。上の作品の背景、右上の壁の穴は、対にしてみると、単調さを回避させる、かなり効果的なアクセントとなっている。
フルート・プレイヤーというテーマは、16世紀後半から継承されてきたものだ。北イタリアではカラヴァッジョやマンフレディが試みている。 ブルッヘンのフルート弾きは、そのイコノグラフィ、半身の構図、光の効果、珍しい衣装などで、これらの先行者の解釈を思い出させる。テル・ブルッヘンは、バグパイプ、ヴァイオリンなどの演奏者を描いた作品も残しているが、このフルート・プレイヤーはとりわけ美しい。明るい色彩、背景、構図の斬新さなど、イタリアでの画業研鑽の成果を感じさせる。
しかし、カラヴァッジョの影響を受けながらも、その絵画世界とは明らかに異なるものを感じさせる。ユトレヒトに育ち、そこで最初の画業の手ほどきを受けた画家であることをしっかり継承し、北方文化の基調を漂わせている。 ユトレヒトともイタリアとも違うある距離と空間を維持した作品だ。見ていると、なんとなく柔らかなフルートの音色が聞こえてきそうな感じがする。誰もがきっと身近に置きたいと思うだろう。大作というわけではないが、見ているだけで幸せになってくる作品だ。
Reference
Leonard Stakes and Wayne Frantis. The Paintings of Hendrick Ter Brugghen 1588-1629: Catalogue Raisonne (Oculi: Studies in the Arts of the Low Countries) (Hardcover) John Benjamins Pub Co., 2007, 471pp