Hieronymus Bosch, The Conjurer, pen and brown ink on paper,27.6x20.2cm, Paris, Musee du Louvre, Department des Arts graphiques, 19197.
ヒエロニムス・ボス『手品師(奇術師)』
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酷暑の日々、過熱気味の脳細胞を冷やそうと15世紀の世界へタイムマシンを駆動する。日本ではあまり知られていないヒエロニムス・ボスの世界への小旅行を試みた。
カラヴァッジョやラ・トゥールの作品で知られる『いかさま師』のシリーズは、画家が当時の日常生活の中で出会った光景に触発されて構想し、制作したことは間違いない。こうした光景は形を変えて、時とところによっては今日でも経験することがある。他方、このようなテーマが絵画などの作品の対象となったのはその源流をたどると、人類史のかなり遠い昔までさかのぼるように思われる。絵画など、利用できる資料によると、社会生活では少なくも15世紀近くまでさかのぼり、その有様を推定できる。
今年2016年は、オランダの希有な画家ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516, August 9th)の没後500年に当たる。まさに、8月9日は命日である。奇想天外で凡人の想像力の域を超絶した、この初期フランドル派の画家の生まれ育ったベルギーの国境に近いヘルトー・ヘンボス、あるいは傑作の多くを所蔵するマドリッドのプラド美術館など、世界各地で企画展などの催しがさまざまに開催されている*。
この画家については、当初はその怪奇とも、奇想ともいえる異様な世界に圧倒されて、あまり好みではなかったが、主要作品はラ・トゥールと違って、マドリッド、ロッテルダム、ヴェネツイア、ワシントンDCなど、ヨーロッパ、アメリカの大都市の美術館に所蔵されている作品が多いこともあって、これまで比較的多数を見ることが出来た。とりわけ、ロッテルダムのエラスムス大学の友人が招いてくれた折、ベルギーを含め、周辺の美術館所蔵の作品はかなりなじみ深くなった。日本のアニメの影響などもあってか、奇怪でグロテスクな描写にもかなり慣れて?、今ではボスはごひいきの画家のひとりとなっている。現代社会の方がはるかに異様で、グロテスク、壮絶で悲惨な実態を呈していて、まるで現代の世界を描いたような感じさえ受ける。
画家ボスの作品は、宗教改革当時の偶像破壊活動によって、滅失、破壊されたものが多く、今日に残る作品は30点くらいといわれているが、発想、表現とともに奇想天外、現代人であっても驚愕するほどの驚くべき世界観をもって、作品を制作した希有な画家である。この画家の作品集をつぶさに見ていたら、現代の人間社会の複雑怪奇さ、世界の荒廃した風景と本質的に重なるものを感じ、最近の異常な暑さをしのぐ格好な銷夏法(あつさよけ)になるかもしれない。
さて、ここで取り上げる「いかさま師」などのテーマに関連する作品として、ボスは2枚の自筆の『手品(奇術)師』 The conjurer を描いた左上に掲げるペン画を残している。さらに、弟子たちの手なるものと思われる同じテーマで数枚の作品があることが今日では判明している。16世紀半ば頃の作品とみられるプリント(版画)も発見されている。選ばれた対象は、ボスの作品群の中では、きわめて穏当な?テーマだ。
これらの残存する作品の中では、上掲のルーヴル美術館が所蔵する二枚のペン画が主題にかかわる原風景的作品として注目されている。ペン画であるから、大変地味ではある。その中で後の油彩画につながる原型ともいえる1枚が上に掲載した作品であり、当時の手品師が路頭で手品を演じている光景を題材に発想し、素描したものとみられる。画面のまん中に机を前にして立つ男が手品師とみられ、それを囲み10人近い男女が思い思いに、眺め、談話し、恐らくさまざまわるだくみをしていると思われる。
その後、このペン画の構想を発展させ、油彩画に描いたと思われる作品(下掲)が発見された。ボスは工房に多くの優れた弟子を抱えていたと推定されており、そのうちの誰かが描いたのではと思われる。ボスがその一部に関わった可能性も高い。
Follower of Hieronymus Bosch, The Conjurer, c.1510-30, oil on oak panel, 53.6x65.3cm, Saint-Germain-en-Laye, Musee muicipal de saint-Germain-en-Laye, 872.1.87
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この作品は、10人近い人物とその相互関係が描かれている。ひとりの手品師と思われる男が真珠のような珠と円錐形のコップを使って、奇術を実演してみせる僅かな時間に、複数の詐欺師(掏摸)が観客の財布、金品をかすめとる状況が描かれている。被害者は手品に夢中で、それに気づかない。
この詐欺の仕組みは、テーブルを前に立った男(手品師)が、真珠のような小さな珠と円錐形のカップを操って見物人の注意を引き、その間に見物人に混じった仲間に悪事をさせるというストーリーだ。手品師に加担して掏摸などの悪事をしているのは、当時のジプシーの一団とみられ、ターバンのような帽子を被っている。上掲のペン画では奇術師の後ろに立つ女は太鼓をたたいて、演技の雰囲気を盛り上げているようだ。この人物は油彩画ではとりあげられていないが、当時の市井の雰囲気を想像するには貴重な光景だ。
油彩画では、前屈みになって奇術のからくりを凝視している見物人が、いわば最大のカモになっている。カラヴァッジョやラ・トゥールの同様な作品でも、こうした人物がさまざまに描かれている。この人物の口の中から出たと思われる小さな蛙も机上にある。蛙はこのカモになった人物の放埓で堕落した行為を象徴しているとみられる。怪しげな手品に、のめり込んでいることを嘲笑しているのかもしれない。さらに、机の下にかがんでいる少年も明らかに彼ら掏摸グループの一味だろう。
このボスの作品を初めて見る者は、画家の作品にこめた構想を理解するにしばらくの時間を要するだろう。しかし、その後、この一場の光景が、ジプシーの一団によって巧みに設定されたいかさま行為であることを理解するにいたる。カラヴァッジョ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどの時代にいたると、構想、技法も一段と巧妙化し、ひとつのj完成の域に達している。
Saint-Germainen-Laye 美術館に所蔵されている上掲の作品は油彩画であり、かなり大きく、人物の容姿、役割などがペン画よりはるかに鮮やかである。右側に立つ黒い帽子を被った手品師は、右手指で小さな真珠のような珠を観衆に見せている。手品師は腰に籠をつり下げ、そこにはフクロウが顔を見せるというような工夫をこらしている。
ちなみに、ボスは、その作品で多くのフクロウを題材に描いている。ボスの研究者はほとんど例外なく、彼が好んで描いたフクロウは知恵よりは(古典ギリシャで考えられたように)悪徳の象徴とみられてきたが、ボス自身はふくろうの姿態の優雅さと広い視野(視力)とに惹かれていたようだ。手品師の足下には子犬が座っており、意味ありげだ。なんとなく玩具の犬のような印象を与える。ジャック・カロやラ・トゥールの『犬を連れた音楽師』を思い出させる。
左側の人物、かなり社会的な地位のある男性のよういもみえるが、こんな様子を見せていることを考えると、品性に問題がある人物なのかもしれない。腰を折って、手品師の手元を凝視している。手品師などにだまされるかと思っているのだろう。その後ろに立つ男は鼻眼鏡を外し、目が悪いようなふりをしているが、前にいる男の財布の紐を切り取ろうとしている。悪いやつはこの男ひとりなのか。どうもそうではなさそうだ。
テーブルの前にかがみ込んだ子供も一味なのだろうか。怪しげな目つきだ。右側の緑色の服を着た男は、左の眼をつむった女性の方に手を伸ばしている。なにをしようとしているのか。机の上に這い出た小さな蛙にも、なにか企みがあるのだろうか。なぜ、そして、左側後方の黒い衣装の男は隣の女性の胸元に手を伸ばしている。金細工と思われる首飾りをなんとかせしめようとしているのか。個々に描かれた人物の関係を画家が構想したとおりに推測するのはかなり難しい。しかし、これが当時の手品師をめぐる一場の悪徳行為のいわば絵解きであり、恐らく見る者にある教訓を示唆しているのだろう。
この作品はボス本人が手がけたものではなく、その追随者あるいは工房の弟子がボスのデッサンを参考にして描いたのではないかと推定されている。しかし、ボス自身もペン画の『手品師』を描いたことから、この主題にはある関心を抱いていたのだろう。古典的で素朴な雰囲気を色濃く漂わせながら、人間の持つ深い、救いがたい本性(さが)を描いた興味深い作品だ。
Reference
Hieronymus Bosch: Visions of Genius, Exhibition Catalogue, Het Noordbrabants Museum, 13 February to 8 May 2016. Mercatorfonds distributed by Yale University Press.
Hieronymus Bosch, Painter and Draughtsman: Technical Studies by the Bosch Reseach and Conservation Project, Brussels: Mercatorfonds, distributed by Yale Uinversity Press.
The Bosch Research and Conservation Project:
http://boschproject.org
北ブラバント博物館 www.hetnoordbrabantsmuseum
追記 2016年10月20日
本作品は、本年開催された下掲のプラド美術館企画展カタログでは、ヒエロニムス・ボスの追随者 follower の手になるものとされている(pp.368-370)。いずれ記すことがあるかもしれないが、ボスはその生涯においてはきわめて多くの作品を制作したと推定されている。仮に真作ではないとしても、ボスはこのテーマで作品を制作したと考えられる。
Bosch: The Fifth Centenary Exhibition
an exhibition at the Museo Nacional del Prado, Madrid, May31-September 11, 2016. Catalog of the exhibition edited by Pilar Silva Maroto, Madrid, 397 pp.