時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヒエロニムス・ボス没後500年(1);「いかさま師」の原風景?

2016年08月08日 | いかさま師物語


Hieronymus Bosch, The Conjurer, pen and brown ink on paper,27.6x20.2cm, Paris, Musee du Louvre, Department des Arts graphiques, 19197.
ヒエロニムス・ボス『手品師(奇術師)
』 

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 酷暑の日々、過熱気味の脳細胞を冷やそうと15世紀の世界へタイムマシンを駆動する。日本ではあまり知られていないヒエロニムス・ボスの世界への小旅行を試みた。 

 カラヴァッジョやラ・トゥールの作品で知られる『いかさま師』のシリーズは、画家が当時の日常生活の中で出会った光景に触発されて構想し、制作したことは間違いない。こうした光景は形を変えて、時とところによっては今日でも経験することがある。他方、このようなテーマが絵画などの作品の対象となったのはその源流をたどると、人類史のかなり遠い昔までさかのぼるように思われる。絵画など、利用できる資料によると、社会生活では少なくも15世紀近くまでさかのぼり、その有様を推定できる。

  今年2016年は、オランダの希有な画家ヒエロニムス・ボス(c.1450-1516, August 9th)の没後500年に当たる。まさに、8月9日は命日である。奇想天外で凡人の想像力の域を超絶した、この初期フランドル派の画家の生まれ育ったベルギーの国境に近いヘルトー・ヘンボス、あるいは傑作の多くを所蔵するマドリッドのプラド美術館など、世界各地で企画展などの催しがさまざまに開催されている
 
  この画家については、当初はその怪奇とも、奇想ともいえる異様な世界に圧倒されて、あまり好みではなかったが、主要作品はラ・トゥールと違って、マドリッド、ロッテルダム、ヴェネツイア、ワシントンDCなど、ヨーロッパ、アメリカの大都市の美術館に所蔵されている作品が多いこともあって、これまで比較的多数を見ることが出来た。とりわけ、ロッテルダムのエラスムス大学の友人が招いてくれた折、ベルギーを含め、周辺の美術館所蔵の作品はかなりなじみ深くなった。日本のアニメの影響などもあってか、奇怪でグロテスクな描写にもかなり慣れて?、今ではボスはごひいきの画家のひとりとなっている。現代社会の方がはるかに異様で、グロテスク、壮絶で悲惨な実態を呈していて、まるで現代の世界を描いたような感じさえ受ける。

 画家ボスの作品は、宗教改革当時の偶像破壊活動によって、滅失、破壊されたものが多く、今日に残る作品は30点くらいといわれているが、発想、表現とともに奇想天外、現代人であっても驚愕するほどの驚くべき世界観をもって、作品を制作した希有な画家である。この画家の作品集をつぶさに見ていたら、現代の人間社会の複雑怪奇さ、世界の荒廃した風景と本質的に重なるものを感じ、最近の異常な暑さをしのぐ格好な銷夏法(あつさよけ)になるかもしれない。

さて、ここで取り上げる「いかさま師」などのテーマに関連する作品として、ボスは2枚の自筆の『手品(奇術)師』 The conjurer を描いた左上に掲げるペン画を残している。さらに、弟子たちの手なるものと思われる同じテーマで数枚の作品があることが今日では判明している。16世紀半ば頃の作品とみられるプリント(版画)も発見されている。選ばれた対象は、ボスの作品群の中では、きわめて穏当な?テーマだ。

 これらの残存する作品の中では、上掲のルーヴル美術館が所蔵する二枚のペン画
が主題にかかわる原風景的作品として注目されている。ペン画であるから、大変地味ではある。その中で後の油彩画につながる原型ともいえる1枚が上に掲載した作品であり、当時の手品師が路頭で手品を演じている光景を題材に発想し、素描したものとみられる。画面のまん中に机を前にして立つ男が手品師とみられ、それを囲み10人近い男女が思い思いに、眺め、談話し、恐らくさまざまわるだくみをしていると思われる。

その後、このペン画の構想を発展させ、油彩画に描いたと思われる作品(下掲)が発見された。ボスは工房に多くの優れた弟子を抱えていたと推定されており、そのうちの誰かが描いたのではと思われる。ボスがその一部に関わった可能性も高い。

Follower of Hieronymus Bosch, The Conjurer, c.1510-30, oil on oak panel, 53.6x65.3cm, Saint-Germain-en-Laye, Musee muicipal de saint-Germain-en-Laye, 872.1.87
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  この作品は、10人近い人物とその相互関係が描かれている。ひとりの手品師と思われる男が真珠のような珠と円錐形のコップを使って、奇術を実演してみせる僅かな時間に、複数の詐欺師(掏摸)が観客の財布、金品をかすめとる状況が描かれている。被害者は手品に夢中で、それに気づかない。

 この詐欺の仕組みは、テーブルを前に立った男(手品師)が、真珠のような小さな珠と円錐形のカップを操って見物人の注意を引き、その間に見物人に混じった仲間に悪事をさせるというストーリーだ。手品師に加担して掏摸などの悪事をしているのは、当時のジプシーの一団とみられ、ターバンのような帽子を被っている。上掲のペン画では奇術師の後ろに立つ女は太鼓をたたいて、演技の雰囲気を盛り上げているようだ。この人物は油彩画ではとりあげられていないが、当時の市井の雰囲気を想像するには貴重な光景だ。

 油彩画では、前屈みになって奇術のからくりを凝視している見物人が、いわば最大のカモになっている。カラヴァッジョやラ・トゥールの同様な作品でも、こうした人物がさまざまに描かれている。この人物の口の中から出たと思われる小さな蛙も机上にある。蛙はこのカモになった人物の放埓で堕落した行為を象徴しているとみられる。怪しげな手品に、のめり込んでいることを嘲笑しているのかもしれない。さらに、机の下にかがんでいる少年も明らかに彼ら掏摸グループの一味だろう。

このボスの作品を初めて見る者は、画家の作品にこめた構想を理解するにしばらくの時間を要するだろう。しかし、その後、この一場の光景が、ジプシーの一団によって巧みに設定されたいかさま行為であることを理解するにいたる。カラヴァッジョ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどの時代にいたると、構想、技法も一段と巧妙化し、ひとつのj完成の域に達している。

 Saint-Germainen-Laye 美術館に所蔵されている上掲の作品は油彩画であり、かなり大きく、人物の容姿、役割などがペン画よりはるかに鮮やかである。右側に立つ黒い帽子を被った手品師は、右手指で小さな真珠のような珠を観衆に見せている。手品師は腰に籠をつり下げ、そこにはフクロウが顔を見せるというような工夫をこらしている。

ちなみに、ボスは、その作品で多くのフクロウを題材に描いている。ボスの研究者はほとんど例外なく、彼が好んで描いたフクロウは知恵よりは(古典ギリシャで考えられたように)悪徳の象徴とみられてきたが、ボス自身はふくろうの姿態の優雅さと広い視野(視力)とに惹かれていたようだ。手品師の足下には子犬が座っており、意味ありげだ。なんとなく玩具の犬のような印象を与える。ジャック・カロやラ・トゥールの『犬を連れた音楽師』を思い出させる。

左側の人物、かなり社会的な地位のある男性のよういもみえるが、こんな様子を見せていることを考えると、品性に問題がある人物なのかもしれない。腰を折って、手品師の手元を凝視している。手品師などにだまされるかと思っているのだろう。その後ろに立つ男は鼻眼鏡を外し、目が悪いようなふりをしているが、前にいる男の財布の紐を切り取ろうとしている。悪いやつはこの男ひとりなのか。どうもそうではなさそうだ。

テーブルの前にかがみ込んだ子供も一味なのだろうか。怪しげな目つきだ。右側の緑色の服を着た男は、左の眼をつむった女性の方に手を伸ばしている。なにをしようとしているのか。机の上に這い出た小さな蛙にも、なにか企みがあるのだろうか。なぜ、そして、左側後方の黒い衣装の男は隣の女性の胸元に手を伸ばしている。金細工と思われる首飾りをなんとかせしめようとしているのか。個々に描かれた人物の関係を画家が構想したとおりに推測するのはかなり難しい。しかし、これが当時の手品師をめぐる一場の悪徳行為のいわば絵解きであり、恐らく見る者にある教訓を示唆しているのだろう。

この作品はボス本人が手がけたものではなく、その追随者あるいは工房の弟子がボスのデッサンを参考にして描いたのではないかと推定されている。しかし、ボス自身もペン画の『手品師』を描いたことから、この主題にはある関心を抱いていたのだろう。古典的で素朴な雰囲気を色濃く漂わせながら、人間の持つ深い、救いがたい本性(さが)を描いた興味深い作品だ。


Reference
Hieronymus Bosch: Visions of Genius, Exhibition Catalogue, Het Noordbrabants Museum, 13 February to 8 May 2016. Mercatorfonds distributed by Yale University Press.

Hieronymus Bosch, Painter and Draughtsman: Technical Studies by the Bosch Reseach and Conservation Project, Brussels: Mercatorfonds, distributed by Yale Uinversity Press.

The Bosch Research and Conservation Project: 
http://boschproject.org

北ブラバント博物館  www.hetnoordbrabantsmuseum


追記 2016年10月20日
本作品は、本年開催された下掲のプラド美術館企画展カタログでは、ヒエロニムス・ボスの追随者 follower の手になるものとされている(pp.368-370)。いずれ記すことがあるかもしれないが、ボスはその生涯においてはきわめて多くの作品を制作したと推定されている。仮に真作ではないとしても、ボスはこのテーマで作品を制作したと考えられる。 

Bosch: The Fifth Centenary Exhibition
an exhibition at the Museo Nacional del Prado, Madrid, May31-September 11, 2016. Catalog of the exhibition edited by Pilar Silva Maroto, Madrid, 397 pp. 



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いかさま師物語(11):ゲームからギャンブルへ

2016年05月17日 | いかさま師物語

 
Cover
Arthur Flowers and anthony Curtis, The Art of Gambling Through the Ages, Las Vegas: Huntington Press, 2000




 最近,野球賭博、スポーツ選手が裏カジノに出入りし大損(?)など、ギャンブルにかかわる話題がメディアを賑わせている。断捨離作業の時の一冊が思い浮かんだ。ダンボール箱の「さようなら!」の一箱に入っていることは記憶していた。『歴史にみるギャンブルの美術』(上掲表紙)なる一書である。出版元はラスヴェガスにあり、なんとなくうさんくさいが、内容はきわめて真面目な美術史の書籍だ。人類史のこれまでを彩ってきたゲーム、ギャンブルの光景をそれぞれの時代の画家たちが、描き出した作品の小さな集積だ。それでもほぼ百人の画家たちの名と作品が挙げられている。


紀元前まで遡るギャンブルの歴史
 人類の歴史におけるゲーム、そしてギャンブリングの起源は、紀元前500年前  BC500 頃にまでさかのぼるといわれる。古代
ギリシャの壺に刻まれたダイス・ゲームらしきものに興じる2人の戦士アジャックスとアキレスの情景が描かれている。

Ajax and Achilles Playing Dice, c.530 B.C.
Exekias,
Museo Nazionale di villa Giulia, Rome 

最初は、誰かが思いついた暇つぶしのたぐい、単なる一場の遊びとしてのゲームが、賭け、賭博、ギャンブルの段階へ移行したのが、いつ頃からかは分からない。最初はきっと負けた側がビールやコーヒーをおごったことなどから生まれたのだろう。ギャンブルは人間の生活のかなり根源的部分から生まれたものだ。

 ギャンブル以前のゲーム
 さて、この書を手がかりに美術とギャンブルのつながりに少し立ち戻ろう。ゲームやギャンブルを描いた作品を見ていると、ひとつにはゲームの持つ本来的な楽しさ、娯楽性が前面に出た作品群がある。

  典型的な例が、幼い子供たちが楽しげに興じているダイスやカード遊びを描いた作品である。17世紀の画家ムリリョの「貧しい子供たちのダイスゲーム」がその一例だ。描かれている子供たちは、当時の多くがそうであったように、極貧で身につけている衣服もみずぼらしい。しかし、画家は純粋にダイスゲームを楽しむあどけない子供たちの表情を叙情的に描いている。歴史家の研究で、この遊びが当時アラビアから由来した「クラップス」Craps というゲームであることも今ではわかっている。こうした風俗画は、その時代の一齣を写し取り、今日に伝える貴重な情報源だ。



Bartolommeo Murillo, Small Beggars Playing Game of Dice, Alte Pinakothek, Munich, ca1650

 

 同時代の作品を見ても、純粋な遊び、楽しみが動機のゲームと、それが博打、ギャンブルの手段となっている光景が混在している。すでにこのブログでもおなじみの16、17世紀のカラヴァッジョやラ・トゥールの『いかさま師』は後者の流れを代表する圧巻の作品であることがわかる。本書でも最初に登場するのは、ラ・トゥールの「クラブのエースを持ついかさま師」だ。ゲームやギャンブルを題材にした作品にもさまざまな流れ、流行がある。画家たちも、過去やその時代の流行を研究し、それらからさまざまに学び取っていた。子供ばかりでなく、戯画化された豚や犬など動物たちが遊んでいる作品も少なくない。

ギャンブル性の兆し
 そうした画家たちの目がどこに向けられていたか。その一枚がカラヴァッジョや16世紀初頭の最も独創的な画家のひとり、オランダのルーカス・ファン・ライデン の作品「カードプレーヤー」である。カラヴァッジョや、ラ・トゥールのテーマが共有するギャンブルのいかがわしさ、猥雑さなどの怪しげな要因が忍び寄っている時代の空気を感じることができる。

多数の着飾った男女がすべて半身像で描かれるスタイルは、画面の次元を拡大し、次の時代へのひとつの道筋を示した革新だった。。総数8人という多くの男女が、それぞれの役割でプレーに参加している。テーブルの中心に位置する女性は女主人公のようであり、ゲームをとりしきっている。顔だちや衣装も整っており、いかがわしさや怪しさはあまり感じられない。しかし、よく見ると、女主人公の背後に立った女が指でサインのような合図をしていいるようだ。プレーヤーの間に微妙なやりとりが行われており、単なるゲームの域を脱し、ギャンブルの段階へと移行していることが明らかだ。この一枚の作品から多くの興味深い点を見出すことができる。とりわけ、`kibitzing`といわれるゲームをしている人々の背後で、あれこれ言ったり、怪しげなサインを出している見物人や取り巻きたちの姿は、すでにこの作品に描かれている。

Lucas van Leiden(1494-15339, The Card Players, c.1508
National Gallery of Art, Washington, D.C.

 

ギャンブルを題材とした作品には勝敗がつきものだ。ラ・トゥールの「占い師」のように、他の人に不幸が起きた時、それが周囲の関係者にいかなる心理的変化を生みだすかという、きわめて奥深い人間心理の根底に迫るような作品もある。

ゴヤ、セザンヌ、ピカソ、ドーミエ、ヴァン・ゴッホなどの著名な画家たちが、ゲームやギャンブルをしている情景をそれぞれのスタンスから作品として描いている。これは、ギャンブルという行為には人間の持つさまざまな本性が表れていることが画家たちの興味をかき立てていることが、背景にあるといえよう。

ゲーム・ギャンブルから見る時代の様相
 ブログで取り上げたことのある他の画家、セザンヌの『カード遊びをする人』なども含まれている。本書で表題と内容がやや異なるのは、作品が年代順ではなく、ランダムに配列されていることである。しかし、そのためにさまざまな想像の種が生まれる。原則、1ないし2作品が一ページに掲載されていて、来歴、画題の含意などが簡潔に記されている。見ているとあきることがない。

このブログでもこれまでその一端に触れているが、ギャンブルは美術史においてひとつの立派な(?)ジャンルを形成していることが分かる。この一風変わった書籍の序文を書いているルロイ・ナイマン LeRoy Neiman(1921-2012)は、知る人ぞ知るアメリカの表現派の画家である。本書の刊行後2年後に世を去っている。ネイマンの作品は鮮やかな原色が画面一杯乱れ飛ぶような、独特な作風で、運動選手、音楽師、カジノ風景などを描いてきた。ギャンブルの手段となっているのは、、カード、バックギャモン、ルーレット、競馬、ダイス(サイコロ)など、さまざまだ。

  本書にはネイマンの作品がかなり掲載されているが、下掲の作品はカジノのルーレット・ギャンブルで、ルーレットが回り出す直前、人々がそれぞれの思惑でチップを置いている場面を描いたものだ。さまざまな色が雑多に飛び散るような光景である。画家はそれをもって、現代社会の一断面としてのカジノの刹那的、荒涼として深みのない状況を描こうとしたのだろう。
 

LeRoy Neiman, The Green Table, 1972, Collection of the Artist
ルロイ・ネイマン「カジノ・緑色のテーブル」 

LeRoy Neiman, New York Stock Exchange, 1971,  Collection of the Artists
ルロイ・ネイマン「ニューヨーク株式取引所」

 これらの作品を見ていると、画家がギャンブルの光景を画題としている意味はきわめて多様であることが分かる。純粋にゲームの面白さに魅了された子供たちの情景や、暇をもてあました大人の遊びの光景から、人間の欲望の争いを決着しようとする手段として、表現されている場合、さらには享楽的、華美な極限に達した現代文明の断面としてのカジノ風景など、実に興味深い。 現代社会でITゲームに没頭している若者たちの姿は、画家たちの目にはどう映っているのだろうか。

さらに、 ネイマンは現代社会における投機的ギャンブルとして、株式投資もカジノの世界から遠くないと考えた。ニューヨーク証券取引所の荒涼としていながら、騒然とした状景が描かれている。そこで働く場立ちの人たちは、他人の資金を運用するという意味からも、最も迅速で統一性のない動きを見せている。現代世界の投機化、ギャンブル化はさらに進むとみられるが、後世にいかなる形で伝えられるだろうか。

 時の人、ドナルド・トランプ氏 Donald Trump、 日本ではまさに「トランプ」として知られるカードゲームの「切り札」の意味を持っている。その語源は、17世紀初期にTRIUMPHの変化した言葉として、同じ意味で使われたとされる(ODE+OSD)。政治もギャンブル化の色合いを深めているようだ。


 かくして、一時は「さようなら!」の箱に入ったこのユニークな美術書だが、再度眺めている間に新たな興味も深まり、「もうしばらくご滞在!」の床積みに戻ってしまった。断捨離のために残された時間も刻々と過ぎて行く。


 

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カードゲーム・いかさま師物語(10):ギャンブルの視点(6)

2015年04月06日 | いかさま師物語

 

カラヴァッジョ『いかさま師』部分
画面左側には、「バックギャモン」らしき遊び道具が描き込まれている。

これも、当時いかさま、詐欺の手段に多用されていた。


 カラヴァッジョという画家は、西洋絵画史では文字通り衝撃的な革新をもたらした画家なのだが、日本ではその名前を知っていても、作品の実物に接したことのある人はあまり多くない。2001年東京の庭園美術館でのカラヴァッジョ展にも出かけたが、出展場所の選定や出展作品に一工夫あったらと思った。 その割りには訪れた人はかなりあったようだ。この画家に関する書籍は文字通り汗牛充棟、とても読みこなせない数に上っているが、日本語で読める文献は比較的少ない。しかも、キンベル美術館が誇る『いかさま師』にはあまり強い関心が寄せられていない。

知られることの少なかった作品
 カラヴァッジョの作品の中で、『いかさま師』ほど、多くのコピーや類似の作品を生みださせる影響力を持った主題は少ないといわれる。それについては、デル・モンテ枢機卿の所蔵になった後、作品の行方が長らく不明だったこと(1987年にキンベル美術館が購入)もあるようだが、カラヴァッジョの作品自体がきわめて革新的で、それまでに制作されたこの主題の作品と比較しても、図抜けて美しい作品に仕上がっていることにあると思われる。この画家の天才性を最初に世に知らしめる端緒になった作品なのだが、日本では一部の専門家や愛好者を除いては、あまり知られていない。

 この作品は画家の最盛期よりも前に制作されたにもかかわらず、その後も長らく注目を集めてきた。主題は当時の画壇において高い格付けを与えられていた歴史画、宗教画のような精神的深みを求める作品とはほど遠く、かなり怪しげな世俗の世界の一場面にすぎないのだが、それをこれほどの水準にまで高めたのは、ひとえにこの画家の力量にある。

 作品自体が、デル・モンテ枢機卿の目にとまるほど斬新であったばかりでなく、画家の画壇における急速な知名度向上の嚆矢になった。そして、当初はローマ在住の画家たちに世代を超えて、過去の路線を追うばかりではない、画家自らの創造力が重要なことを気づかせた。(前回記した『女占い師』は、『いかさま師』とペンダント(対)の作品ではないかとの推定もあったが、その後作品の寸法などからそれぞれ独立した作品と考えられている)。

 カードプレーを詐欺、騙しの含意をこめて描くこと自体は、現実にヨーロッパ全体に広まっていた。そして、カラヴァッジョと同様なテーマでの作品も先行して存在した。

 カードプレーが単なる遊戯の域を越えて、詐欺という犯罪的行為の場に使われるようになったのは、16世紀初めのようである。しかし、ダイス(dice、さいころ)はそれより以前から、ギャンブル、博打の手段になっていた(play at dice, 博打を打つの意味がある)。 教会などの宗教家の間ではダイスとそれにからむ暴力がしばしば問題になっていた。たとえば、10戒を版画にした印刷物「日曜日の休息」Rest on Sundayで、カードプレーヤーは悪魔の様相で描かれていたが、流行を阻止、減少させる効果があったかは疑わしい。他方、悪疫の流行などの折に市内に掲示される注意書きなどは、かなり効果があったようだ。

犯罪の巣窟:ローマの繁栄の裏側で
 絵画作品としては、ヨーロッパ北方ルネサンス美術に最初現れたようだ。そして16世紀にはカラヴァッジョの故郷ロンバルディアでも画家の関心を引き始めた。そして、カラヴァッジョがローマへ活動の場を移してから、この画家はこの世界の中心ともいわれた大都市のいたるところでみられる犯罪的行為に自ら関わると共に、自らの生業としての画家の視点から、主題として取り上げた。実際、カードゲームやダイス、あるいは占いは当時のローマの街路や旅籠屋、居酒屋など、いたるところで目にする光景だったようだ。1590年代において、ローマはその文化的な華麗さの裏側に、多くの犯罪、暴力などを生みだしていて、社会的な不安の源ともなっていた。時には賭博行為が行われる場所に武装した取り締まり隊が踏み込んで、逮捕するなどの対策がとられていたため、表向きは犯罪として扱われ、ローマの繁栄の裏側で密かに行われていた。


 ローマは、プロテスタント宗教革命に対するカトリック宗教革命の過程で、再生したカトリックの中心としてプロテスタントの脅威に立ち向かっていた。そして1594年には聖ペテロのバジリカ(basilica: 特にイタリアで身廊(nave)、側廊、半円形の後陣、拝廊などを特徴とするキリスト教の教会堂)は、ブロンズで覆われ、遠くからやってきた巡礼の目にも燦然と輝いていた。しかし、この輝かしいドームの下では、驚くはどの犯罪行為が渦巻いていた。ローマは「犯罪の都」とまでいわれた。

 ヨーロッパ世界の中心を誇示していたローマには、各国からの訪問者を含めて、貴族、枢機卿などの聖職者、外交官などが多数集まっていた。しかし、市内の治安は決して安全な状況ではなかったこともあり、彼らの周囲には16世紀の度重なる戦争で常態化した傭兵などが、身辺護衛のためについていたらしい。カラヴァッジョは自らもこうした裏の世界に出没していた。そして喧嘩や刃傷沙汰を繰り返していた。1605年には許可無く武器を携行していたとの理由で逮捕されてもいる。当時の画家としては異例なほど、生涯の有様、時代状況を後世の人たちが知ることができるのは、画家がかかわった犯罪的行為などの取り調べ調書、法廷証言などが残っていることもひとつの背景にある(たとえば、1597年の法廷証言)。

 



カラヴァッジョ『いかさま師』部分
無知な若者をいかさまで騙す若者。
短剣を身につけていることに注意。
原則、武具携行が違法とされていた当時のローマで
あまり目に付かない短剣だけを携行していたのは、いかさまの
犯罪組織の一員であったことを暗示している。ゲームを
めぐっていざこざがあれば、脅しの手段として使った
ことが予想される。 

 
 文化的な栄華と犯罪が共に存在していたローマについては、教会の側からすれば、悩みの種でもあり、カード、ダイス詐欺などを犯罪とし、そうした行為を禁止する警告は度々出されていたようだ。しかし、その絶滅は難しく、画家自身がその世界に身を置いていた。カラヴァッジョの生い立ちや生涯に関する伝記は、数多いが、この希有な画家にはその稀に見る天才性と共に、自分を律しきれないほど激情的な性格を一身にしていたようだ。多くの敵を持ちながらも、反面で数少ないが有力な支援者、友人もいた。人間的にも、彼らを惹きつけるなにかがあったのだろう。作品一点からも,実に多くのことを知ることができるが、人物論としての観点からも大変興味深い。



Reference
Nancy E. Edwards, "The Cardsharps",  Caravaggio & His Followers in Rome, edited by David Franklin and Sebastian Schűtze, New Heaven, Yale University Press, Exhibition Catalogue at the National Gallery of Canada, Ottawa in 2012.

 宮下規久朗『カラヴァッジョ 理性とヴィジョン』(名古屋大学出版会、2004年)は、邦語文献として数少ない労作。入門書としては、同氏の『もっと知りたいカラヴァッジョ:生涯と作品』(東京書籍、2009年)がわかりやすい。

続く

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カードゲーム・いかさま師物語(9):ギャンブルの視点(5)

2015年03月29日 | いかさま師物語

Michelangelo Merisi da Caravaggio,The Gypsy Fortune Teller,detail.
これはなにをしているのでしょうか。答えは下段文中に。

 



  カードのギャンブル(賭け事)が大好きだったらしいデル・モンテ枢機卿だが、素行不良の無頼な画家カラヴァッジョのパトロンになって自邸へ住まわせたり、当時ローマで設立された芸術家支援と埋もれた才能を開発するのための聖ルカ・アカデミアを主宰したり、世俗の双方に通じていた。聖職者でありながら、当時としては稀に見る広い視野を持ったかなり寛容な人物だったようだ。

 とりわけ、カラヴァッジョという美術史上にその名を燦然と輝かせた希有な天才画家の埋もれた才能を見出し、世に送り出した影の功績者であることは特筆されてよい。このヨーロッパ世界に鮮烈な衝撃を与えた画家を支援し、その後の革新的な業績を残した大画家への道を開いただけで、聖職者なのに賭け事が好きだったことぐらいは忘れてしまう。

 かくして、カラヴァッジョの名画『いかさま師』は、デル・モンテ邸の一室に掲げられて、その後行方不明になるまで、しばらく安住の所を得たようだ。

ひとりの教養人の姿
 デル・モンテ枢機卿は、ヴェネツィア生まれでパデュア、ウルビノなどで聖職者としての修業時代を過ごした後、1572年頃、ローマへ赴任してきた。彼は、ヴェネツィア美術のエッセンスをローマに持ち込んだ。さらにフィレンツエ・メディチ家フェルディナンド1世の政治的な指南役をしたり、美術顧問のような役も務めた。さらに、この時代の教養人のひとつの特徴として、絵画ばかりか、彫刻、骨董、貴石、楽器、陶器、ガラス器、マーブルなどにも関心を寄せ、収集していた。とりわけ東方への関心は深く、2枚のトルコ絨毯まで所有していたようだ。カラヴァッジョは抜け目なく、自らの作品の片隅に描き込んでいる。

 デル・モンテ枢機卿のこうした博物的な関心と収集意欲は、あのラ・トゥールの精神的支援者であったランベルヴィレールやその友人であったヨーロッパ中に知られた博物学者、ペイレスクなどと共通するものがある。広く世界に目を配り、さまざまなことに関心を抱き、根源を探求し、真に良質なものとそうでないものを見極める鑑識眼を涵養していた。

 この点は、若いころから専門化して、ともすれば広い世界が見えなくなってしまう現代人の生き方、知識基盤の形成の仕方とは大きく異なっていた。天文学から路傍の草花まで、好奇心を常に抱いて生きた。こうした基盤は一朝一夕に身につくものではない。絵画にしても、できるかぎり多数の対象を見ることを通して、玉と石とを判別することができるようになる。売り込む側の画商も、その点は十分心得ていて良質の作品を持ち込んだのだろう。

 カラヴァッジョの『いかさま師』は、同じ主題を描いた同時代以前の他の画家の作品と比較して、際だって美しく、洗練された作品に仕上がっている。描かれた場面は、当時のローマの市井のあちこちで見られたいかさまの光景だ。実際はきわめて薄汚い、いかがわしい場面のはずだ。しかし、ひとたび名画家の筆になると、枢機卿そして後世の人々の目を惹きつけるだけの迫力がある。人物のポジション、色彩の美しさ、明暗など、単純なテーマであるにもかかわらず、見る人を強く魅了するカラヴァッジョの初期の名品の一枚といってよい。

『(ジプシーの)女占い師』
 さて、カラヴァッジョは、この『いかさま師』と並んで、大変著名な『(ジプシーの)女占い師』といわれる作品を制作していた。『いかさま師』と『占い師』のいずれが先に制作されたかは、定かではないが、画家の生涯の早い時期であることは明らかになっている。

 『女占い師』については、2点のやや異なったヴァージョンが残っており、今日では、パリのルーヴル美術館とローマのカピトリーニ美術館がそれぞれ所蔵している。

 ローマに残る一点は、画家の友人でもあった画商スパッタ Constantino Spataが、『いかさま師』と同様に、デル・モンテ枢機卿に売り込んだ可能性が高い。この画商は枢機卿の邸宅近くに店があり、カラヴァッジョなる当時はまったく無名の画家を見出し、顧客に紹介したり、作品を持ち込んでいたようだ。いうまでもなく、ローマにはパトロンのいない貧窮した画家たちが多く、それぞれにその日暮らしのような生活をしていた。カラヴァッジョも、強力な庇護者に見出されるまでは、そのひとりだった。

 まず、ルーヴル所蔵の作品『女占い師』から見てみよう。この作品は、制作時点からみると、2点のヴァージョンの内、最初に描かれたといわれるが、実際は定かでない。

 「カモ」とみなされた青年を誘惑するジプシーの女性の顔が丸顔で輝いて、だまされる青年の顔も表情がそれらしく?、全体として画面が明るく、作品としては上質との評価が高いようだ。他方、カピトリーニ版(本ページ最下段)は女性の顔がやや暗く、若者の顔もいまひとつという評がある。要するに若者を誘惑する女性の魅力が、当時の世俗的観点から問題にされているようだ。それ以外で両者に際立った優劣はつけがたい。

カラヴァッジョ「(ジプシーの)女占い師」、ルーヴル美術館蔵 画面クリックして拡大

Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610), The Gypsy Fortune Teller, c. 1594, oil on canvas, 99 x 131cm, Muse du Louvre, Paris 

 

 ジプシーは今日ではロマ人と呼称されるようになっているが、ヨーロッパの歴史の中では、しばしばマイナスのイメージで語られることが多かった。漂泊の民として、キャラバンで各地を移動する有様は、ジャック・カロの版画などにも詳細に描かれてきた。他方で、文学、劇作などの主題に取り上げられることも少なくなかった。 

 たとえば、劇「ジプシー」は16世紀当時、著名な劇作家ジャン・アントニオ・ギアンカルリによって、メディチ家当主フェルディナンドI世とクリスティーヌ・ロレーヌの結婚式に上演され、大評判となった。デル・モンテ枢機卿も招かれ、出席していた。枢機卿にとってみれば、『いかさま師』と『女占い師』の2点を自邸の壁に掲げることができれば、大満足だったろう。
変わりゆく世俗画のイメージ

 両者共にいわゆる世俗画のジャンルに入り、聖職者の邸宅の壁を飾るにはいかがなものかと思われるかもしれない。カードゲームで世の中の事情にうとい若者がカモにされたり、若くて美しいジプシー女の占い師に、目がくらんでいる間に金品を奪われるといったプロット自体は、はるか古い時代へさかのぼる。若く、ハンサムで、ナイーヴで、上等な衣服を着ている男が世俗の世界に溺れ、財産を失ってしまう(ルカ伝15:II)。放蕩息子の寓話であり、ほとんどのギャンブル、だまし、ジプシーの占い師などに関わる話の根底に暗黙に想定されている。

 『女占い師』では二人の男女が描かれ、若い世の中を知らない若者の手をジプシーと思われる若い女が、手相を見ての占いをよそおいながら、あわよくば高価な指輪を抜き取ろうとしている場面が描かれている。当初は上述の「放蕩息子」の含意が予想されていた主題であったが、この時代には、ローマなどの都市社会に蔓延していた退廃した世俗の光景の一画面となっていた。

 現実のこうした犯罪的行為の光景は、およそ美術の対象にはなじまないものであったに違いない。しかし、カラヴァッジョに代表される画家たちは、それらを見て楽しめる美術の世界へと移し替え、それぞれの階層の人々が、
さまざまな思いで楽しんでいたというのが実情だった。

 いつの間にか「いかさま」「ごまかし」「占い」「貧困」「華美」などのイメージは当時の人々、とりわけ画家や劇作家の心中で相互につなぎあわされ、単なる宗教的教訓といった次元を超えて、新たなイメージの世界を創りあげつつあった。

カラヴァッジョ「女占い師」(ローマ、カピトリーニ美術館) 画面クリックで拡大

Michelangelo Merisi de Caravaggio, The Gypsy Fortune Teller, c.1595, oil on canvas, 115 x 150cm, Pinacoteca Capitalina, Musei Capitolini, Rome

 

続く

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カードゲーム・いかさま師物語(8):ギャンブルの視点(4)

2015年03月20日 | いかさま師物語

 

カラヴァッジョ 『いかさま師』 部分
Michelangelo Merisi da Caravaggio
The Cardsharps, c. 1594-95
oil on canvas, 94.2 x 130.9cm
Kimbell Art Museum, Fort worth 



 ギャンブル依存症ともいうべき精神疾患に類する人たちが日本で増えているという。その数、なんと500万人近いとのこと(『日本経済新聞』夕刊、2015年3月19日)。ギャンブルの淵源がいつまで遡るのか知るよしもないが、ここでたまたまテーマに取り上げているカードゲームでは15世紀くらい、ドミノやダイスなどではもっとはるか以前になるようだ

 カードゲームでのギャンブルの光景を取り上げた絵画作品はかなり多い。それだけ人間の本性に深くかかわっているのだろう。無知、腐敗、欲望、時に犯罪にもつながり、人間について考える格好の主題だ。

輝くキンベルの存在
 カードゲームのギャンブル、いかさまを取り上げた絵画作品の白眉は、やはりキンベル美術館が所蔵するカラヴァッジョの作品だろう。この美術館、1972年の開設であり、どちらかといえば新しい部類だが、その所蔵品は素晴らしい。数はさほど多くないが、 非常に目配りの良い水準の高い美術館である。建築史上においても、記念碑的存在である。新棟も追加され、今後がさらに楽しみな美術館だ。


 キンベルはカラヴァッジョおよびラ・トゥールの「いかさま師」、「女占い師」シリーズを所蔵し、このテーマを追求するのであれば、どうしても訪れねばならない場所になっている。

 カラヴァッジョの手になるカードゲームの「いかさま師」シリーズについては、ブログで何度か取り上げているが、テーマの与えるイメージと異なり、際だって美しい作品である。カラヴァジズムとして後世に知られるようになったこの画家の作品は、モデルを駆使してのリアリズムに充ち、 それまでの画家たちがあまり選ぶことのなかった社会の低下層の人たちの群像を描いている。

 「いかさま師」The Cardsharps は、カラヴァッジョの初期の画業段階での傑作といえる。来歴を見ても、デル・モンテ枢機卿が最初に買い入れて以来、突如として所在が不明となり、長らくヨーロッパの個人の所蔵品に埋もれていた。キンベルが取得したのは1987年という近時点である。デルモンテ枢機卿の宮殿はそれほど立ち入りが難しいかったとは思えない。デル・モンテ枢機卿の後、作品がいかなる遍歴を経たかについては、画家の生涯ほどには知られていない。探索するに興味深いトピックである。真作に接する機会が得られなかった画家たちは、多数のコピーを作り出した。ちなみに、キンベルはラ・トゥールの「クラブのエースのいかさま師」(真作)も所蔵している。
 
 現存するコピー作品とカラバッジョの真作を比較してみると、その差はあまりにも歴然としている。カラバッジョは、ほとんどデッサンすることなしに、直接キャンヴァスに向かったといわれているが、全体の人物の配置、ダイナミックさ、色彩の美しさなど、画家の非凡な才能を感じることができる。 カラヴァッジョの作品を目にされた方の中には、どうせ絵空事を画家が勝手に描いたのだろうと感じた方もあったかもしれない。しかし、16世紀を代表する画家は、制作に際してきわめて鋭く深い構想を秘めていた。 それは、この作品に限ったことではないのだが。

カラヴァッジョ『いかさま師』 19世紀の模作の例、部分

Annonymous, The Cheat at Cards, 19th century, after Michelangelo Mersi
da Caravaggio's Cardsnaps. Oil on canvas, 92.5 x 124.5 cm,
University Art Museum, Princeton, New Jersey, details.

 

徹底したリアリズム
 ここで行われているカードゲームは、当時ヨーロッパですこしずつルールは異なりながらも、プレーされていた「プリメロ」 primero あるいは「プライム」と称されていた現代のポーカーの原型に近いゲームであるという。作品を見た人たちは、その場面がゲームではいかなる時に相当するか、ほとんど分かったようだ。ゲーム自体が広く社会の各層に浸透していた。


 描かれている人物は3人、そのひとりはいわゆる「カモ」dupe にされている若者だ。品のいい暗色のジャケットを着用し、襟元の小さな白いカラーが育ちの良さを示しているかのようだ。子細に見ると、カラーや袖口にも繊細な模様が描き込まれている。この若者、前回記した「放蕩息子」を思い起こす方もおられるかもしれない。ゲームにもまだ慣れておらず、自分の手の内しか見られない。

 他方、ゲームの相手方の若者は、当時の流行であろうか、かなり華やかな身なりだ。緑色のシャツの上に、革の胴衣を着ている。帽子には鳥の羽が付いていて、華麗さを強調している。カードを隠すに適当なベルトを着用している。横顔はほとんど自分の勝利を確信して、相手のためらいを待ち遠しいように眺めている。明らかにいかさまをしているのだが、悪の世界に入って日が浅いようで、当時の普通の若者の容貌だ。

 ここで、いかさまを企み、それを動かしているのは、容貌の悪い後ろにいる男だ。自分の持ち手の中にしか視野が広がらない「かも」 のカードを盗み読みし、その結果を相棒の若者に伝えている。手袋の指が破れていることにも意味があるようだ。その破れ方も擦り切れたというわけではなさそうだ。当時のいかさまプレーヤーの中には、カードの感触を指先で覚えたり、秘密の印しをつけるなどの目的で、わざわざ手袋の指先に穴を空けていた者もいるという。なにしろ、画家のカラヴァッジョ自身がデル・モンテ枢機卿の支援を得るまでは、ほとんどローマの市井で、着の身着のままの生活を送っていた。こうしたいかさまの世界など、とうに経験済みなのだ。

  さらに、この容貌の良くない男は、詐欺師集団のひとりとして、世間にうとい若い男を誘い込み、カードゲームを覚えさせ、いかさま仕事の上前をはねているのかもしれない。文化の栄える都ローマは、悪徳、犯罪、享楽、犯罪などがいたるところにはびこっていた。

 ローマへ出てきたカラヴァッジョは、作品も売れず、貧窮な生活を過ごしていた。デル・モンテ枢機卿の庇護を得ることでそうした生活から抜け出ることができたかに見えたが、画業で得た金は荒んだ日々の生活で、すぐに使い果たしていた。波瀾万丈、悪徳に充ちた人生を過ごした画家だが、その作品はその罪を償うかのように光輝いている。



続く

  


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カードゲーム・いかさま師物語(7):ギャンブルへの視点(3)

2015年03月15日 | いかさま師物語

 


15世紀、バックギャモンなどの賭博を戒める版画

Rest on Sunday, from die Zehn Gebote (Book of the Ten Commandaments by Johannes Glffcken, 15th century woodcut. Universitatsbibliothek Heidelberg, Germany


忍び込むギャンブル性
 カードゲームは歴史の古いドミノ,バックギャモンなどと並んで、当初はゲームの勝敗だけを楽しんでいたものだったが、まもなくギャンブル(賭博、博打)の対象となる。たとえば、アウグスブルグでは14世紀半ば、すでに詐欺が窃盗に次ぐ犯罪となっていた。


 ギャンブルは
15世紀くらいから急速にヨーロッパ社会に拡大・浸透していった。ルネサンス期にはヨーロッパの全域でギャンブルの手段となっていた。小さな事では町中の居酒屋やカフェでビールや小銭を賭ける程度から始まったのだろう。この時期にはギャンブルをしない者はいないといわれるほど、ヨーロッパのいたるところで行われていた。

  


After Lucas van leiden(c.1494-1533),
The Card Players, c.1550-99. Oil on panel,
55.2 x 60.9cm, National Gallery of Art,+
Washington, D.C. Samuel H. Kress Collection. 

  一例としての上掲の作品は制作年次は16世紀後半と推定されるが、比較的良い身なりの男女がカードをプレーしている。しかし、中心に座る主役らしき女性を囲み、カラヴァッジョ、ラ・トゥールなど後年の画家たちの作品に登場する詐欺的行為を思わせる描写である。


 絶え間ない戦争や悪疫の流行などを背景に、社会が荒廃し、聖職者や貴族の世界ではかなり大きな金品が賭けられていたようだ。目に余る状況などもあって、教皇クレメントVIII世がその横行ぶりに警告を発しても、前回のデル。モンテ枢機卿の例のごとく、金銭を賭けたカードゲームは、宮廷や教会の裏側では日常的な娯楽になっていた。


カラヴァッジョ肖像画
Ottavio L
eon (italian, 1578-1630), Portrait of Caravaggio, c.1621,
red and black chalk with white heightening on blue paper,
23.4 x 16.3cm, Biblioteca Marucelliana, Florence

  カラヴァッジョは生涯に殺人など多くの問題を起こし、非業の最後を遂げたが、デル・モンテ卿には多くの擁護を受けたことを忘れなかったろう。ギャンブルがあるところには、詐欺や だましが生まれた。さらに、組織的詐欺がフランス、イタリアで問題となっていた。盗賊、詐欺師のグループが現れていたのだ。

  カードゲームの情景が絵画の主題として登場することも多くなった。それも単にゲームを楽しんでいるという光景ではなく、ギャンブル、詐欺といった犯罪の要素が入りこんでいることが分かる。その光景を最も鮮明に描いたのが、カラヴァッジョであった。カラヴァッジョがローマに出てきたのは1592年であり、1606年には殺人の罪を犯して逃亡、漂泊の旅に出た。ローマにいたのは15年にも満たない年月であった。この期間にカード詐欺、占い師などを題材に名作を残した。

底流にあった「放蕩息子」の寓話
 カード詐欺のプロット自体は古く遡る。若く,ハンサムで,ナイーブさを残し、上等な衣服を着ている貴族の子弟などが世俗の世界に入り、財産を失ってしまう、放蕩息子(ルカ伝15:II)の寓話である。ほとんどのギャンブル、詐欺、ジプシーの占い師などに関わる話の根底に流れている。話の内容は画題にしやすいにもかかわらず、16世紀になって本格的に取り上げられた。最初は北方の画家ルーカス・ファン・ライデンやフランツ フランケンII などの手によるものだった。

 イタリアでは次第に聖書の寓話の枠を離れて、世俗画の画題に移行していた。デル・モンテ枢機卿に買い上げられたカラヴァッジョの作品はその後19世紀末になると、作品の所在が不明になり、変わって30点余りの模写などの作品が出回り始めた。

  カラヴァッジョの『カード詐欺師』は、bravo(暴漢、刺客)、富裕な兵士、ローマの貴族の服装で描かれており、彼らは1590年代のローマの街を徘徊していた悪名高い存在であった。画家自身がそうした仲間とともに、画業を続けていた。

 彼らは武器の携行を許され、帯刀していた。町中で乱暴狼藉を繰り返し、カードやダイスで賭博をおこなっていた。ジョバンニ・ガルダーノは、そうした男たちを念頭に描いた書物を17世紀に出版している。そして彼らは熟練、ごまかしの技術に長けているので、相手としてプレーしないよう戒めている。

 このキンベル美術館が誇る所蔵品の一枚については、次回以降記すことにしたい。

 

 

 続く

 

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カードゲーム・いかさま師物語(6):ギャンブルへの視点(2)

2015年03月13日 | いかさま師物語

デル・モンテ枢機卿の肖像画

Ottavio Leoni(Italian, 1578-1630)
Portrait of Cardinal Francesco del Monte, 1616.
Black chalk with white heightening on blue paper,
9 x 6 1/2 in.(22.9 x 16.5cm).
Collection of The John and Mable ringling Museum of
Art, the State Art Museum of Florida, Sarasota,
Museum purchase, 1967.
source: Helen Langdon, Caravaggio's Cardsharps: Trickery
and Illusion. 



ギャンブル好きな枢機卿
 話の口火を切る意味もあって, 
リシュリューの政治家・外交家としての性格を現代の観点から見直してみるという試みを行ってみた。リシュリューについては、実は興味深い問題は多々あるのだが、ここではさらに少し視点を変えて、リシュリューが活躍していた17世紀という時代におけるギャンブルと絵画の関連について記してみたい。言い換えると、カード(トランプ)ゲームという遊戯が、絵画の主題としてどのように描かれていたかという点を通して、この時代の社会環境について少し新しい視点を加えてみたい。現代社会におけるさまざまなギャンブルの根底にある問題にも関わっている。

 現在につながるカード(トランプ)ゲームの起源は、ドミノカードなどを含んで数多く、正確には分からない。しかし、いずれのゲームでも、最初のうちはゲーム自体の面白さに魅せられ、せいぜい紙の上での勝ったり負けたりの点数争いでも十分楽しかったのだろう。しかし、ある時点からそれだけでは面白くなくなり、ギャンブル(賭博、博打)の誘惑が忍び込んでくる。 最初はパブ(居酒屋)で負けた者が1杯おごる程度であったのかもしれない。しかし、いつの間にかギャンブルの額は大きくなり、多額の現金などを賭けたりするようになる。最近、マカオのカジノでのギャンブルに全財産をつぎ込み、それでも抜けきれないギャンブル依存症ともいうべき精神状態になった男の話をBSが報じていた。

 実際、ヨーロッパにおいてはルネサンスの時代は、ギャンブルがすでに社会のあらゆる分野に浸透していた。とりわけ、娯楽の少ない下層社会では盛んであった。16-17世紀、戦争の多かった時代、兵隊たちは暇さえあれば、兵舎の片隅などで金を賭けてのダイスやカード遊びに夢中だった。ペストなどの疫病が,軍隊の移動とともにヨーロッパ各地に蔓延したように、ギャンブルも軍隊の移動とともに、各地へ拡大・浸透していった。ラ・トゥールの『聖ペテロの否認』 なども、画面の半分はダイスゲームに入れ込んでいる兵隊たちの姿が描かれている。

 そして、カードゲームなどのギャンブルは、ほどなく貴族から聖職者まで含めた上層社会へと浸透する。かれらは有閑階級であり、富裕階級であったがために、ギャンブルにはすぐにのめり込んでいた。 

 そして時代は下って、現代社会ではトランプ、花札、ダイスなどのギャンブルのウエイトはインターネットの発達とともに、急速にウエイトを低めた。目に付くのは(預貯金)カード詐欺やインターネット上でのギャンブルの話であり、これは枚挙にいとまがない。
 
 今回は17世紀におけるカード(日本でのトランプ)ゲームを主題として描いた美術作品について、少し掘り下げてみたい。すでにこのブログでも部分的には何度か、取り上げているのだが、少し系統立てて新しい視点で見てみたい。

カラヴァッジョのカードいかさま師
 16-17世紀におけるカードゲームをする人たちの情景を描いた作品は数多い。その中で、最も著名な作品はカラヴァッジョ、そしてラ・トゥールの手になるものといえる。まず、カラヴァッジョの作品をもう一度見直してみたい。

 ローマに出てきたカラヴァッジョは、絵描きとして身を立てるため、精力的に作品を制作し、それらを売って生計に当てていた。しかし、その生活は荒れており、安定した芸術活動を維持するにはほど遠いものだった。

 ある美術商がこの画家の手になる『カード詐欺師』Cardsharps と後に呼ばれる作品を、1672年にローマきっての美術品の収集家であるデル・モンテ枢機卿 Cardinal Francesco del Monteに売却した。デル・モンテ枢機卿は、このカラヴァッジョなる抜群の技能を持った若い画家に目をつけ、
自邸に住み込ませ、生活を支え、修業させた。この時代にはローマでパトロン探しをする芸術家は数多く、このこと自体はさほど珍しいことではなかった。カロもプッサンも、ほとんど同じような形で、自分の才能を認め、財政的な援助をしてくれるパトロンを捜し求めた。ただ、カラヴァッジョの無頼ぶりは当時のローマではかなり知られており、作品を次々と描き、その金で毎夜のごとく酒を飲み歩き、帯剣して狼藉を働くことに費やしていた。

Caravvagio, The Cardsharps, c.1594
Kimbell Art Museum, Fort Worth 

 

 この甚だしく素行の悪い、しかし天才的な画家の素質に目をつけた枢機卿が、画家のパトロンとなったのだ。もの好きと言えばそうなのだが、この聖職者にはその才能を見通す眼力があったのだろう。1594年ころのことと思われる。『いかさま師』なる作品は長らくデル・モンテ枢機卿の宮殿の壁に架けられていた。デル・モンテ枢機卿はカード・ゲームが大好きで、毎夜のごとく、カード遊び、それも金を賭けてのゲームをしていたようだ。聖職者といっても、多分に俗人的であったのだろう。


ギャンブルにふけった聖職者たち
 
すでに16世紀から、カードゲームはローマでも中下層ばかりでなく、上流の階級でも好まれていた。デル・モンテ卿もそのひとりだった。1597年8月、「教皇の甥であるピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿とオドアルド枢機卿と、デル・モンテ卿の3人はディナーの後にカードをした。デル・モンテ卿はこのことを友人宛に次のように記している:「われわれは、大きな戦いをした。そしてアルドブランディと私が負けた。私の負けのほうが彼より大きかった。」ギャンブル好きな枢機卿たちはデルモンテ卿の宮殿でゲームをしたのかもしれない。ローマの聖職者たちの間で、こうした情景が繰り広げられていたのだから、パリのリシュリュー枢機卿もカードゲームくらいはしただろう。

 そして、なにごとでもフランスやイタリア流を取り込んでいたロレーヌ宮殿では、ラ・トゥールが描いたようないかがわしい者たちが出入りする情景が現実にあったのだろう。徹底したリアリストであったラ・トゥールには、必ずモデルがあったはずだ。

 ロレーヌではラ・トゥールの作品の熱心な収集家であった地方長官ラ・フェルテ Marechal de La Ferte もギャンブル好きだった。戦争などがない折には、仲間とカードをしていたようだ。もし、ラ・トゥールのこれも斬新な『いかさま師』が架けられた自室の壁の前でカードをしていたのであれば、デル・モンテ卿とは違った楽しみだったに違いない。

 そして、こうしたカードゲームの世界に、さまざまないかさまな手口が入り込んで行き、ゲームの世界を変えていった。そうした変化には、当時の社会環境、倫理観の変化なども忍び込んでおり、画家たちは巧みにそれらを作品化していた。 

 

続く

 

 

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カードゲーム・いかさま師物語(5):ギャンブルへの視点(1)

2015年03月07日 | いかさま師物語

 

17世紀のカードゲーム風景
を描いた絵画の例





  宰相リシュリューが仮にポーカーのようなカードゲームをしたとしても、果たして勝負に勝てたか否かは分からない。それ以前に、この17世紀ヨーロッパきっての多忙な政治家がカードゲームをする余裕があったか、疑わしい。リシュリューは政治家であったが、枢機卿という聖職者でもあった。もっとも、当時の聖職の世界もかなり乱れていたので、実際のところは不明である。リシュリューの私的な生活は、波乱万丈であった公的生活と比較して分からない点が多い。後代の画家が描いているように、仕事の合間に猫と遊ぶくらいだったのかもしれない。ルイ13世とともに戦場を駆け回っていた合間に、鹿や雉を狩ることくらいはあっただろうか。

 しかし、彼がヨーロッパを駆け回っていた時代、17世紀には、カードゲームは社会のあらゆる分野で、かなり人気のゲームであったようだ。このころから、カードゲームをする人々の姿を描いた絵画作品が増えている。

 その中で このブログの読者の方々がよくご存知なのは カラヴァッジョやラ・トゥールの 作品だろう。これらの作品は、しばしば『(カードの)いかさま師』card shark あるいはcard sharp という画題で知られる作品である(card sharkやcard snapは、しばしばcardshark やcardsnapのように一語あるいはcard-sharpのように綴られることもある)。しかし、当の画家は自分の作品にこうした画題を記しているわけではない。作品を見る人、後世の人が便宜上それらしき画題をつけたことは多々ある。具象画についていえば、多くの場合、作品を見れば、画家がなにを描こうとしたかはほぼ理解することができる。

 ちなみにcard sharpという英語は主としてイギリスで、card sharkは、アメリカ、カナダ、オーストラリアで使われることが多いといわれてきたが、今日ではその区分はほとんどなくなった。両者ともに言葉の意味としては、1) プロフェッショナルなカードプレーヤー、2)カードゲームに熟達した者、3)カードゲームで人をごまかす(だます)ことに長けている人、といういづれかの意味で使われるようだ。しかし、いずれの意味で使われているか、その差異もあまり明確ではなく、それが使われた状況で判断するしかない。

 このブログでも、これまでに、カラヴァッジョやラ・トゥールの『いかさま師』(card shark)なる作品について記したことがあるが、今回、リシュリューの練達した政治・外交手腕をポーカーの名手にたとえた外交評論を題材にした延長線上で、16-17世紀以降、カードゲームの特定の場面が、人気のある画題として浮上した背景について少し記すことにしたい。

 インターネットが発達した今日では、実際のカードを使ってのトランプも麻雀(麻雀)も目に見えて人気がなくなったようだ。かつては大学近辺などによく見かけた雀荘も、ほとんど廃業して消えてしまった。カードゲームをしている光景にもほとんど出会うことがない。電車などでは、大人も子供もスマホとやらに、目を据えて見入っている。自分が周囲から隔絶したように画面に没入している光景は、かなり異様と管理人は今でも思っているが、そうした感想を抱く人も少数なのかもしれない。 

 さて、問題のカードゲームの原型は、さまざまな説があるが、9世紀中国の唐の時代に遡るという説がかなり有力なようだ。しかし、ヨーロッパでもドミノなどのカードがあるので、定かではない。今日に伝わるトランプ・タイプのカードは14世紀末くらいが発祥らしい。こうしたゲームの常として、間もなく単なる遊びの道具としてばかりでなく、賭け事(賭博、博打 gamble at cards)の手段に使われるようになる。

 ギャンブリングは、ルネサンス期のヨーロッパではきわめて広く浸透し、やらない人のほうが少なかったといわれるほど人気があったらしい。そして、15世紀から急速に広がったようだ。イタリアのシエナなどでは、禁止令が出るほどになった。

 これから数回、このカードゲームとヨーロッパ絵画の関係に立ち入ってみることにしたい。 


 トランプ(trump: 切り札のこと)。通常、53枚から成る遊戯用カード。西洋カルタ、骨牌。

 続く

 

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カードゲーム・いかさま師物語(4):ギャンブラーとしてのリシュリュー(4)

2015年03月02日 | いかさま師物語


ジャック・ステラ
『タイタスの寛大(気前のよさ)』
(ルイXIII世とリシリューの気前のよさ)

Jaques Stella (Lyon 1596-Paris 1617)
The Liberality of Titus
(The Liberality of Louis XIII and Richelieu)
About 1638
Oil on canvas, 174 x 146.2cm
Harvard Univerisy Art Museum, Cambridge



 リシュリューという17世紀を代表する政治家について、その実像を把握することは現代のフランス人にとってもかなり難しいようだ。身近かにいるフランス人の知人に尋ねても、もちろん名前は良く知っているけれども、内容のある議論はできないという。それでも少し切り込んで聞いてみると、革命以前の歴史はあまりよく分からないとの答が戻ってきた。大学教師などの間でも意外にこうした答が多い。

 他方、リシュリューのことは現代においても、さまざまな場面で目にする。何度か映画化もされたし、フランスは自国の戦艦にリシュリューの名をつけたこともあった。この記事を書き始めた動機もたまたま 著名な雑誌であるJournal of Foreign Affairs に最近漫画付きでリシュリュー再評価の論文が掲載されていたことにヒントを得たものだった。最近ではフランス革命の悪名高いロベスピエールも、一貫して「人民の擁護者」であったという評価になっているという

 これまで長い間、外交や政治の専門家たちが抱いていた印象は、リシュリューが考え、実行していた政策は古典的で、現代には合わないという考えのようだ。今日でも多くの人は彼の政治を古典的として却下する。しかし、JFAの筆者が指摘するように、現代の世界における政治や外交の実態は、考えてみるとポーカーゲームに近いという。そこにおいて、彼らが行っていることは、リシュリューのそれとあまり変わりはないとされる。

 リシュリューの政治技術は、自らの政治生命を危うくする可能性があった。1618年には30年戦争が勃発した。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものだった。プロテスタント諸国とハプスブルク家とそのカトリックの同盟諸国が大陸を引き裂いて戦った。その中で、本来カトリック国であるフランスはプロテスタント側として参入した。オーストリアとスペインのハプスブルグ家がヨーロッパの最強力勢力となることを防ぎたいフランスがとった苦肉の戦略だった。

 フランス王国は、リシュリューの指揮下で、1617年プロテスタントの要害ラ・ロシェル包囲。兵糧攻めで陥落させた。その後イタリアに侵攻して勝利し、さらにオランダ、スエーデンを部分的に支持する戦略をとった。

 1636年にはスペインの軍隊がフランスを侵攻し、パリに迫った。パリの群集はリシュリューを弾劾。枢機卿は深く失望したという。リシュリューはポン=ヌフへ行き、演説をして民衆の支持を取り付けた。リシュリュー最後の6年間のフランスは、新しい地域を獲得し、ヨーロッパ外交において主導国となった。

 リシュリューのとった戦略が、フランスのその後の長期的発展にいかなる効果をもたらしたかという点については必ずしも明らかでない点もある。最大のライヴァルであるハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝って、フランスに勝利をもたらした。しかし、これらの地域を統合することはできなかった。国内政策では、彼は税収入を何倍にも増加し、その資金力で30年戦争を効率的に勝利できた。しかし、その過程で農民、地方の領主、エリートを著しく搾取した結果、一連の反乱を引き起こすことになった。新しい力を備えた地方監督を設置したリはしたが、恒久的な新たな行政システムをデザインすることはできなかった。

 それには次の君主と別の首相、ルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールが引継ぎ推進することが必要だった。彼らはフランスの近代の国境を確定した。地方都市と協力し、反対も少なくより多くの税収をあげた。リシュリューの創設した地方長官を、中央政府から伸びた確たる腕とした。簡単にいえばリシュリューは近代のフランスを創ることはなかっし、それをヨーロッパの指導的国にすることもできなかった。しかし彼の行ったことは、後継者にそれを実現させたことであり、それ自体が評価されるべきことなのだ。やはり、時々はタイムマシンを駆動させ、二つの時代を行き交うことが欠かせないようだ。



「ロベスピエール」『朝日新聞』2015年3月2日

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カードゲーム・いかさま師物語(3):ギャンブラーとしてのリシュリュー(3)

2015年02月22日 | いかさま師物語



Michel Lasne (After Charles Le Brun)
Caen About 1589-Paris 1667
Thesis of Jean Ruzé d'Effiat, engraved by Michel Lane
and dedicated to Cardinal Richelieu (details)

1642
Egraving
123.9 x 72.6cm(three sheets joined)
Paris, Bibliothèque nationale de France 

イメージ拡大はクリック
リシュリューは大変肖像(画)を好んだようで、きわめて多数の作品が残っています。 

 


 リシュリューの生涯は57歳で終わりを告げました。そして彼が仕えたフランス王ルイ13世(実際はリシュリューに使われていた?)は41歳で没しています。今日の世界の寿命水準からみると、二人共に大変若くして亡くなっています。リシュリューの場合は、晩年胃潰瘍に苦しんでいたとの推測もあり、さもありなんと思わせる多忙、多難な生涯でした。強靱な意志を持った宰相のように思われますが、その内面は常に大きな課題に悩み抜く日々であったのでしょう。

 他方、ルイ13世については、正確な死因は不明ですが、不規則な食事による体調不安定、結核などが挙げられています。リシュリューが亡くなってからわずか5ヶ月後の1643年5月14日に世を去っています。あまりに短い人生でした。リシュリューとの関係は、前回に記した通りですが、それまで母親よりも信頼し続けてきた相談相手がいなくなってしまい、精神的にも負担が大きくなったことは推測できます。息子であるルイ14世(76歳で死去)と比較すると、この王については、必ずしも実態が知られていないのですが、Louis XIII, The Justと言われるようになったことからも、公正な判断ができる能力の持ち主と国民からは思われていたのでしょう。この王について記したいことはかなりあるのですが、その時間は残念ながらありません。

多難な時代の宰相
 いずれにせよ、リシュリューの活躍した17世紀前半は、今日の世界と似ていて、いたるところで紛争、戦争が絶えませんでした。フランスといえども、国家の枠組みは脆弱で、国境の周辺では戦争が次々と起こり、国内では絶え間なく起きる貴族たちの謀反、ユグノーや農民の反乱などで騒然としていました。この時代の歴史書を繰ると、フランスの貴族は謀反、反乱が大変好きだったことが、よく分かります。政権側も大変脆弱でした。

 こうした日々を過ごしたリシュリューにとって、その生涯は決して平穏、無事に宮廷人として華麗な生活を過ごしていたとは考えられません。信頼できる数少ない相談相手とともに、山積する難題に日夜取り組んでいたというのが、現実だったのでしょう。

 王政については、前回記した1630年11月11日の「欺かれし者の日」を転機に、国王ルイ13世のリシュリューへの支持は(内心の好き嫌いは別として)確たるものとなり、その後揺らぐことなく続いたようです。母后マリー・ド・メディシスと息子であるルイ13世の間の不信と確執は執拗に続いていましたが、この日は決定的な日となりました。母親であっても、冷酷に縁を切ってしまうという「母子戦争」のすさまじさは、小説の域をはるかに超えています。

 この歴史的な1日の後、母后と国王の関係を利用しようとした貴族たちの反乱も収束に向かいました。唯一大きな反乱は、1632年のモンモランシー公アンリ2世の反乱でした。リシュリューは反乱に加担した者たちを徹底的に弾圧し、モンモランシー公も捕らえられ、処刑されました。この11月11日を機に、王とリシュリューの執政上の信頼関係は一段と深まっていたと思われます。

現実的な思考
 リシュリューは、国益の維持のためには、かつての敵国側と同盟関係を結ぶなど、節操を問われるような動きも辞さずに行っています。その意味でもきわめて現実的な思考の持ち主だったと思われます。

  ただ、後世の人間の目でみると、リシュリューの政治思考と対応は、自らの政治生命を危うくする可能性を多分に含んでもいました。1618年には30年戦争が勃発しました。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものでした。プロテスタント諸国とハプスブルク家側のカトリック同盟諸国が大陸を引き裂いて戦ったのです。カトリック国であるはずのフランスは、プロテスタント側として戦争に加わりました。リシュリューとルイ13世が最も配慮した点は、オーストリアとスペインのハプスブルグ家が、フランスを抜いてヨーロッパの最強勢力となることを防ぐことにありました。その点には国教を維持すること以上に重きがおかれていたのです。

 これらのことを含めて、リシュリューの晩年には、教皇ウルバヌス8世を含む多くの人々との不和も高まっていました。しかし、1641年には腹心のジュール・マザランを教皇が叙階したことで、多少の関係改善がなされました。ローマ・カトリック教会との紛争は絶えなかったのですが、リシュリューは教皇の権威をフランスから完全に排除せよとのガリカニスト(フランス教会至上主義)の主張には組みしませんでした。リシュリューには、現実主義者として、かなり強い政治的バランス感覚が備わっていたと思われます。そのために、リシュリューは国内外に強力な情報網を維持しており、貴族などの陰謀、謀反などの企みを的確に掌握していました。

評価されなかったリシュリューの政治姿勢
 今日まで多くの政治家や政治学者は、リシュリューの政治思想や方向を古典的としてあまり評価してきませんでした。さらに、リシュリューのような即事的な対応は、
現代世界の状況には合わないと考えてきました。政治家は大きな理想をもって、国家の将来を構想、設計し、その路線の上で政治的実務を行うべきであるという考えです。

 しかし、ルイ13世とリシュリューの時代をつぶさに見ると、その短い生涯の間によくこれだけの出来事に対応し、しかもかなりの大仕事をなしとげていることに感心させられます。政治、外交のみならず、文化の点においても、パリを中心にその後のフランス文化発展の礎石を築きました。

 フランスの長期の発展におけるリシュリューの役割は、史料記録の上では必ずしも明瞭ではありません。最大のライヴァルであったハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝利しました。しかし、恐らく目指していた部分的な統合もできませんでした。地方長官を配置することで、税収入を大きく増やし、30年戦争に勝利することはできました。しかし、その過程で農民や地方の領主たちを圧迫し、一連の反乱を引き起こしてもいます。恒久的な新たな行政システムを構想、設計し、実施することはできませんでした。それでもリシュリュー最後の6年間、フランスはヨーロッパの主導的国家になっていました。

 その本格的な仕事は、次の君主であるルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールに委ねられました。彼らはフランスの近代の国境の輪郭を定めることに成功しています。地方領主や貴族との関係を改善し、より多くの税収をあげています。リシュリューの時代の地方長官を中央政府が頼りとする行政の手としています。

現代の政治・外交につながる問題
 リシュリューの政治・外交が近年見直されているのは、現代の政治もミュンヘン協定、キューバ危機、そしてアフガニスタン侵攻、さらには今日のギリシャ、ウクライナ問題、IS組織への対応などを含めて、決して確たる将来展望の下に個々の対応がなされてきたわけではないという点にあります。リシュリューは当時の王政を支える人材などにおいても、現代とは異なり、きわめて限られた状況で、しばしば緊迫した政治・外交の判断、実行を行っていました。それは見ようによっては、のるかそるかのギャンブラー的行動ともいえます。しかし、この図抜けた政治家は、あたかもポーカー・ゲームの勝れたプレーヤーのように、短期的な視野と判断において大きな誤りをすることなく、次の世代が負うべき課題の布石を打ったといえるでしょう。


Reference

Porker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler, by David A.Bell, FOREIGN AFFAIRS, March/April 2012





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カードゲームいかさま師物語(2):ギャンブラーとしてのリシュリュー(2)

2015年02月15日 | いかさま師物語

 

Jean Warin(1607-1672)
Bust of Richelieu
1641-1643
Paris, Bibliothèque Mazarin 



 リシュリューのような歴史上の大人物の評価は、歴史家にとっても大変難しいようです。こうした人物評価は、その多くが同時代人(contemporary:その人物と同じ時代に生きた人々)の印象に基づき、後世の人々に伝承された内容、さらに史料などの記録に基づいて形作られます。このように当該人物が活動していた時代と、後世、たとえば現代(contemprary)で、評価やイメージが変化してしまうことはよくあることです。


 現代に生きる人の評価がどれだけ、当該人物が実際に生きて活動していた時代の人々の評価やイメージと一致しているかは、必ずしも定かではありません。17世紀フランス史の専門家でもないのに、こうしたコラムをあえて書くのは、この時代について関連する書籍を渉猟する間に出来上がったリシュリューやブルボン王朝の主役たちのイメージが、それまでいつの間にか思い込んでいたものとは、かなり乖離していることに気づいたことが背景にあります。

 とりわけ、リシュリューについては、彼が生きていた時代から200年近い時が過ぎて書かれた大デュマの小説『三銃士』 によって創りあげられたイメージが大変強いため、事実と虚構 fictionの間にかなり大きなバイアスが生まれていると感じられました。簡単に言えば、小説ではダルタニアン、三銃士の敵役でもあり、他方でフランスを大きく発展させようとした政治家としてのイメージが抽象されて重なり合っています。この段階でのリシュリューのイメージが、かなり小説的虚構の産物であることに改めて気づかされます。デュマのこうしたリシュリュー像を友人・知人のフランス人に尋ねたところ、意外に考えが一致しました。しかし、ひとりひとりが抱いているリシュリュー像はかなり異なる気がしました。フランス人といえども、客観的評価はなかなか難しいようです。

 こうしたことは、リシュリューに限ったことではありません。TVの大河ドラマなどを見ていて、それまで思い描いていた歴史上の人物像とはかなり異なるイメージが提示されたりして、驚かされることも少なくありません。とりわけ、映画やTVなど映像が作り出した人物像からは、こうしたバイアスが生まれやすいとされています。もちろん、映画化などされる場合には、専門的な時代考証などがなされているようですが、現代人にアッピールするよう脚色されていることも少なくありません。このブログが暗黙のうちにも設定してきた視点は、時代・空間を自由に行き来して、できるかぎり当該人物が生きていた時代の真のイメージにできうるかぎり接近してみたいということにありました。

移り変わるイメージ
 当該人物についての新しい史料の発見、歴史観の再形成などで、それまで固定化していた人物像が変わることも珍しくありません。ここで取り上げるリシュリューについては、非常に多くの伝承、史料が存在するため、大きな乖離はないと思われますが、最近の新しい研究、伝記などを見ると、それでも相当評価が変化しているように思えます。

 たとえば、ブランシャール(前回文末)の手になる最近のリシリュー伝などを読むと、これまでとは少し違ったリシュリュー像が浮かんできます。史料が丁寧に読まれており、大筋ではあまり差異はないとはいえ、これまで知らなかった新しい側面に出会い、驚いたりします。

 ともすれば、最初からフランスの宰相あるいは枢機卿として運命づけられていたかのように見られる人物ですが、その生い立ちや政治家としての上昇経路をたどると、環境の影響もかなり大きいようです。

枢機卿・宰相への道は
 元来、フランス西部の下級貴族の三男として生まれたリシュリューは1607年リュソンの司教として叙階を受け、聖職者として人生をスタートします。彼が注目される契機となったのは、1614年の全国三部会でした。トリエント公会議の定めた教会改革を強く主張し、その雄弁で当時のルイ王太子の母后で摂政のマリー・ド・メディシスや寵臣コンチーノ・コンチーニの関心を惹いたのでした。そして、マリーやコンチーニに忠実に仕え、1616年には国務卿になりました。しかし、翌年コンチーニは暗殺されてしまいます。

 リシュリューがたどった政治的キャリアを取り囲んでいた環境は、最初から残酷で見通しがつきがたいものでした。たとえば、コンチーニの暗殺を描いた当時の版画などを見ると、手足を縄で縛られ、四頭の馬で引き裂かれるという残虐至極な光景が描かれています。ヴァシーの虐殺(1562)、聖バルテルミの虐殺(1572)、アンリ四世を殺害したラヴァイヤックの処刑(1610)など、どれをとっても驚愕します。最近のIS集団の人質殺害の残酷さも、IT上で放映するなど言語に絶するものですが、17世紀フランスにおいてもすさまじいものでした。

「母子戦争」の背景
 さらに、後のルイ13世と母后で摂政のマリー・ド・メディシスの間の確執、「母子戦争」もきわめて異様に感じます。マリーは想像しがたいほどの権力欲にとりつかれ、猜疑心も強い女性でした。他方、息子である王太子ルイも、精神的に不安定な若者であったようです。

 1618年の母子の争いの時は、ルイはリシュリューを信用せずに罷免し、アヴィニオンに蟄居させました。しかし、リシュリューはどこで身につけたのか、巧みな説得力で、母子の争いを仲介し、その後ルイ13世の最も重要な相談相手となります。1621年国王の信頼していたリュイヌ公が死去すると、リシュリューは王が最も頼りにする人物となり、翌年には王と教皇から枢機卿に任命、叙階されるまでになります。

 ルイ13世は、その性格はかなり頑固でありながら、移り気で、複雑な性格の持ち主であったようです。それは、ひとつには王といえども油断すれば暗殺されかねない危険な宮廷内部の環境、国内外のいたるところで勃発する反乱や戦争、そしてなによりも好んでいた狩に熱中しすぎて疲れ果てていたようです。そうした王を時には諫め、叱責できる人物として、リシュリューは存在しました。その過程でマリーは、かつては自ら取り立てたリシュリューと激しく対決するようになります。

「騙されし者の日」
 1630年11月11日、マリーは王の前で枢機卿にその怒りを爆発させました。そして、リシュリューに王の前でひれ伏し、絶対服従するように命じました。彼女のみならず、並み居る宮廷人たちもこれでリシュリューの時代は完全に終ったと思ったようです。王は一言も発せず、黙って立ち去ったと伝えられています。その夕べ、王はリシュリューをヴェルサイユの狩猟小屋に呼び、リシュリューは王の命じるところに従いました。いかなる話が両者の間にあったのか、興味津々ですが、概略の伝承があるようです。他方、マリーや反リシュリューの貴族たちは勝利を確信したのです。しかし、結果は彼らにとって「騙されし者の日」と呼ばれる予想外の屈辱・敗北の日となります。マリー・ド・メディシスは息子である王から追放され、コンピエーニュ城に軟禁されましたが、半年後に脱出、亡命先のブリュッセルに向かい、最後は1642年ケルンで死去するまでフランスの地を踏むことはありませんでした。


 王を介してフランスを統治したといわれるリシュリューでしたが、二人の関係は切れることなく続きました。しかし、その関係はこれまた微妙きわまりないものであったといわれます。リシュリューが病死した1642年になって、ルイ13世はリシュリューに「私はあなたを愛したことはなかった。ただ、別れるには長すぎるほど一緒にいた」という意味の手紙を書けるまでになったといわれています(実に意味深長な言葉です)。そしてルイ13世も、宰相の死後半年ほどして、1643年5月に没しています。この二人がお互いに抱いていた心の内は、もとより推測するしかありません。ただ、リシュリューがその死の直前、自らの後継者として推したマザランについて、ルイ13世が別の人物を選ばなかったことなどを考えると、王はリシュリューの能力について、ある信頼を置いていたこともほぼ確かではなかったかと思われます。

 最近の外交評論などで、リシュリューは、フランスを将来偉大な国家とする制度的な構想や具体策は持っていなかったとの論調が注目されるようになっています。しかし、それに代わって生まれている新たな評価も大変興味深いものがあります。

続く 






Reference

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

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カードゲーム・いかさま師物語(1):ギャンブラーとしてのリシュリュー(1)

2015年02月05日 | いかさま師物語

Philippe de Champaigne(1602-1674) and studio
1642?
Oil on canvas, 58.7x72.8cm
London, National Gallery 

画像はクリックで拡大


 

  前回お約束の通り、17世紀に飛ぶことにしました。このイメージ、誰かはすぐにお分かりでしょう。ブログにも度々登場しました。名前はアルマン・ジャン・ドゥ・プレシ-・ド・リシュリュー Armand-Jean du Plessis de Richelieu, 歴史上は、リシュリュー枢機卿および侯爵(1585-1642) として知られる有名人物のフルネームです。

 あのアレクサンドル・デュマがそれからおよそ200年後の1844年、剣豪小説『3銃士』 Les Trois Mousquetaires において、アトス、アラミス、ポルトスの三銃士と組んだダルタニアンとともに登場させました。リシュリューを三銃士に対する悪役に仕立てて書いたことで、その名をさらに世界に広めました。このリシュリュー枢機卿、17世紀の代表的政治家ですが、現代にあって再び、さまざまな点で話題になっています。リシュリュー枢機卿あるいは宰相リシュリューは、実際にはいかなる人物であったか。新たな史料の丁寧な読み込みなどもあって、これまで世の中で形作られてきた宰相リシュリューのイメージとは、かなり異なる人物像が浮かび上がってきました。

肖像画の重要さ
 写真がなかった時代、肖像画はその人物の性格をイメージするにきわめて大きな役割を果たしてくれます。リシュリューを描いた画家は、数多いのですが、この作品は枢機卿が最もごひいきの王室画家フィリップ・ド・シャンパーニュに、前面と左右側面から描かせた珍しい肖像画です。描く画家も、描かれる枢機卿も双方が自信を持っている作品といえるでしょう。どこから見ても、頭脳が冴えた抜け目なく、3方隙がない用意周到な政治家であり、しかも聖職者(枢機卿)でもあるという構図です。リシュリューが望んだように、肖像画はフランスの偉大さを生み出した重要な政治的プレーヤーの姿として画かれています。赤い枢機卿の衣装が白い襟に冴えわたって、美しく描かれています。

ラ・トゥールとリシュリュー
 リシュリューは1585年に生まれ、1622年にはカトリック教会の枢機卿となり、1631年に彼が仕えたルイ13世と国家への功績により、リシュリュー侯爵に任じられました。

 他方、これもこのブログに登場する主要人物である画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1595-1652)も、まさに同時代人です。権勢並ぶ者なき枢機卿に対比して、ロレーヌの小さな町のパン屋の息子から身を起こした画家ラ・トゥールは、リシュリュー枢機卿に作品『聖ヒエロニムス』を贈呈しています。あの砂漠で自らを縄打ち、苦行する聖ヒエロニムスの傍らに赤い枢機卿帽が画き込まれた作品です。ヨーロッパにその名を響かせた宰相リシュリューに献呈し、自らも画家として名を挙げたいという画家の思いがこもった作品です。

 この時代、リシュリューはフランス王を介して自らがフランスを支配していたといわれた一大政治家でした。ラ・トゥールにも覚えめでたく?フランス王の王室画家の肩書きが授けられました。リシュリューに贈呈された作品は、リシュリューの死後、枢機卿の衣装部屋の中から発見されています。生前、ラ・トゥールは王室が全費用を負担し、パリのルーブル宮に招かれており、リシュリューに謁見の機会があったことは間違いないでしょう。もしかすると、ルイ13世にも会っている可能性もあります。当代きっての文人といわれたリシュリューの知られなかった側面も、かなり明らかになってきました.

  リシュリューは宰相でもあり、フランスの歴史家たちは18世紀、19世紀の絶対王政の設計者として、リシュリューを賞賛してきました。現代きっての外交官のひとりヘンリー・キッシンジャーは、その著『外交』Diplomacyにおいて、リシュリューを「近代ヨーロッパ政府システムの父」と位置づけています。『三銃士』でリシュリューを悪役としたアレクサンドル・デュマのような文豪でも、フィリップ・ド・シャンパーニュの肖像画に描かれたような明晰で、熟達した手腕の持ち主であったリシュリューの臨機応変の才にしばしば賛辞を送らざるをえなかったのです。

変わってきたリシュリューの位置づけ
 しかし、リシュリューが実際にいかなる人物であったかについては、デュマの『三銃士』などのイメージが強く影響し、眞実のところは必ずしも明らかではありませんでした。リシュリューはフランス史上、実績、風格その他の点で時代を代表するひとりの重要な政治家のモデルと考えられてきました。最近、話題のブランシャールの伝記などは、この点を大方裏付けています。しかし、これまでリシュリューに与えられていたような理由からではありません。

 リシュリュー枢機卿は壮大な制度(たとえば近代的な行政府や合理的な国際秩序)を構想、建造するようなタイプの政治家ではなかったようです。また、キッシンジャーが考えたような存在意義 raison d'etat のある国際秩序を創設するというようなタイプでもなかったと考えられるようになりました。さらに、リシュリューは国益を道徳あるいは宗教的命令より上に位置づけたり、近代ヨーロッパの国家システムを国家権力をバランスさせながら維持するといった構想の持ち主でもなかったようです。こうした考えはリシュリュー没後6年ほどして締結にいたったウエストファリア条約によって、初めて形を表したと考えられます。他方、リシュリューは、のるかそるかの大きな賭ができる偉大な政治家のひとりと 考えられるようになりました。彼にとっては、なにをなしとげるかよりは、どう行ったかということが大事であったようです。

17世紀的テロリズム
 現在進行中の「イスラム国」およびイスラム過激派の残虐なテロリズムによって、フランスのオランド大統領は一時的にせよ、政治的窮地を免れ、ポイントを稼いだといわれています。確かにフランスばかりでなく、各国首脳はいまやテロリズムへの対応で、右往左往の時を過ごしています。実際、「イスラム国」やイスラム過激派が行ったテロリズムの実態は、あまりに非人道的、残酷の極みであり、到底許しがたいものであり、その対応で政治の空白が生まれたのも当然ではありました。

 17世紀フランスの宰相リシュリューが置かれた状況も、現代のわれわれがTV画面を通して知らされるような残虐、非道、目を背けるようなものでした。リシュリューは17世紀ヨーロッパにその名を知られた辣腕政治家のモデルでした。しかし、リシュリューの政治的キャリアを彩った状況は、華麗とはほど多く、しばしば残忍で予測し難い緊迫した政治的環境でした。

 リシュリューの人生で経験した最初の二人の王、アンリIII世(Henry III), アンリIV世(Henry IV)は、二人とも暗殺されています。リシュリューは1610年のアンリ4世の暗殺後、国民に知られる著名人物となっていきました。ルイ13世は権力志向のきわめて強い母親マリー・ド・メディシスとの対応で心理的に圧迫され、かなり鬱屈した日々を過ごしていたようです。それを知って、貴族たちは再三にわたり反乱を仕掛けました。ルイ自身が自らの母親マリー・ド・メディシスに対して謀反の行為を重ねていました。そのひとつがマリーがイタリアから同行させ、重用してきた寵臣コンチーニの暗殺でした。路上で射殺された死体をはポン=ヌフで八つ裂きにされたと伝えられています。リシュリューは馬車ではあったが、その現場に出くわしたようです。さらに、コンチーニの妻は、魔女として告発され、断首されました。

 当時の宮廷の事情は、こうした貴族の謀反や裏切りが頻繁に起きる、きわめて残酷きわまりないものでした。王を含めて大貴族たちは、絶えず刺客などの暗殺者に狙われており、リシュリュー自身、刺客に襲われるなど同様な危険に陥ったこともあり、身辺警護は厳重でした。馬車の下に爆弾を仕掛けられたこともあり、パリの町中に視察などに出る時は、マスケット銃隊、伝令などでまわりを固めていました。

ギャンブラーとしてのリシュリュー
 最近のリシュリューに関する研究が明らかにしたところでは、これまでに築かれてきたリシュリューの政治家としての高い評価にもかかわらず、実際には、リシュリューはフランスの将来に大きな構想を抱き、壮大な制度構築を目指していた指導者というイメージではなかったようです。

 現実のリシュリューは、その生涯において、互いに分裂し、しかし恩義もある、そして統治システムとしても機能不全をもたらした強大な諸勢力と戦い、自らの影響力をさまざまに行使して、生きてきたといわれています。

 当時のフランスの政治は乱れ、邪悪な意図を持ったものたちが百鬼夜行の状況でした。そのためリシュリューの統治は、実際は複雑きわまり、一時は麻痺状態にあったともいわれています。

 ここで、時空をひと飛びして、現代に戻り、もし彼が今日のアメリカ、ワシントンにいるとしたら、その力量が十分発揮できて大変居心地がいいのではないかという冗談かほんとの話。   (続く)

 

ギャンブラーとしてのリシュリュー(マンガ)

Source: Bell, Foreign affairs, March/April 2012




References
David A. Bell, 'Poker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler' Roreign Affairs, March/April 2012

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

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