昼間の酷暑が和らいだ夕刻、付近の住宅街を歩いていると、庭に白い百合の花が開花している家を見かけるようになった。百合はヤマユリ、そしてカサブランカの名で知られる外来種が目につく。ブログ筆者の庭の片隅にも植えられているが、連日の炎暑にもかかわらず、未だ開花していない★(文末)。
John Singer Sargent's Carnation, Lily, Lily, Rose 1885–6 – Tate Gallery
ジョン・シンガー・サージェント(John Singer Sargent, 1856年 - 1925年)という画家を知る日本人は、美術愛好者でも意外に少ない。本ブログ筆者は、元来17世紀のヨーロッパの画家に強い関心を抱いてきたが、それよりはるかに新しいサージェントについては、いくつかの作品に接して以来、かなりのめり込んで作品を見てきた。その一端は、本ブログにも記したことがある。夕暮れ迫る庭園の片隅で、花々に囲まれながら盆提灯に火を灯す二人の少女の姿が幻想的だ。ジャポニズムの影響も明らかで飽きることがない。
画家は多かれ少なかれ、自らの作品における光の効果に敏感である。例えば、印象派の成立に強く影響を与えた「外光派(バルビゾン派)」の画家ウジェーヌ・ブーダンの影響を受けたモネは屋外の自然風景を描くことを唱えた。
サージェントのこの作品も、その中に含まれるだろう。提灯が生み出す人工の光と、夕闇と共に次第に薄くなってゆく自然の光の混然とした幻想的な光景が描かれている。画家はこの作品の制作に関わったほぼ2年間、夏から秋(8月から10月)にかけての外光 en plein air の効果を考えていた。1年の間でも極めて限られた時間である。
特に筆者が惹かれたのは、この作品に限らずサージェントの極めて丁寧な制作態度であり、それを支える絶妙な光への感覚であった。その代表例は、すでに半世紀以上を遡る1967年、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツでの展示で見た《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》であった。その後、この作品は新装なったテート・ギャラリーが所蔵することになった。この経緯は本ブログでも記したことがある。
鋭い光への感覚
サージェントの作品についての筆者の印象は、光に対する感覚が極めて鋭敏で、それに支えられた制作過程が大変緻密で、丁寧という点にあった。最近の研究成果によると、この作品の制作には想像を超える時間とさまざまな努力が注入されたようだ。制作過程もかなり長く、画家が本作品に傾けたエネルギーは想像を超えるものだった。結局、完成まで2年以上かかってしまった。サージェントは、この作品を自ら「大きな作品」と考え、多大な努力とエネルギーを傾注したのだった。
近年、サージェントへの関心が高まるに伴い、カタログの出版、画家の作品制作の過程を発想から作品完成、評価まで、現存する資料に依拠し再検討する研究が進み、多くの成果をあげている。例えば、カタログ制作にも携わった レベッカ・ヘレン&イレーヌ・キルムレイ Rebecca Hellen and Elaine Kilmurray(April 2016)には、サージェントの屋外での制作画面の写真など興味深い資料も掲載されている。ここでは、それらに準拠し、本作品の簡単なレヴューを試みてみた。ブログ筆者にとっては、最初に作品に接してからすでに半世紀以上が経過している。
作品の発想と制作過程
1885年の夏、サージェントは友人のアメリカ人画家エドウィン・オースティン・アベイとテムズ川のバークシャーの村々を航行中、黄昏迫る農園で二人の女の子が提灯に火を灯している光景を見て、創作意欲を喚起された。そして、友人たちの協力を得て制作への具体的活動に着手した。筆者を含め、多くの人は画家が発想を得てから一気に描き上げるものと思ったようだが、サージェントは、自らの発想を大事にして、友人の力を借りさまざまな試み、準備を行った。
途中、画家の怪我など思わぬ出来事もあったが、サージェントは親切な友人に助けられ、コツワルドに友人ミラーが借りた家で制作を始めた。初めはミラーの娘ルシア、当時5歳を、ひとり描くつもりだったが、間もなく二人を描く構想が生まれ、より複雑な構図になった。友人フレデリック・バーナードの二人の娘、 Dorothy (‘Dolly’) 11歳と Marion (‘Polly’)7歳, をモデルに制作を開始した。制作途中で退屈してしまう少女を引き止めるために、画家はいつもポケットにスイーツを用意していた。
Carnation, Lily, Lily, Rose, Details
サージェントは、作品を黄昏時の外光 en plein airの中での光景として描きたいと考えたが、彼のイメージする時間は、一日で僅か十数分しかないという極めて厳しい条件だった。その時間が経過してしまうと、画家が想定する状況は消滅し、制作は翌日以降に持ち越しになった。画家が感じるこの短い時間は、描かれる少女たちにとっても人生で儚くも美しい時間なのだ。画家はカンヴァスの形状の選択を含め、さまざまな模索を試みた。
作品には、自然の光と人工の光の融合する時間、当時の庭園の植栽状況、花々の含意、「子供たちの世界」が、イギリスの農園を舞台に美しく描かれている。しかし、室内より外の光を基調とする作品の雰囲気は、決定的にフランス風であり、モダンである。
REFERENCES
Rebecca Hellen and Elaine Kilmurray, “One Object: Carnation, Lily, Lily, Rose and the process of painting”, British Art Studies
John Singer Sargent's Carnation, Lily, Lily, Rose 1885–6 – Tate
John Singer Sargent: The Early Portraits; The Complete Paintings: Volume I (The Complete Paintings , Vol 1)
John Singer Sargent: Portraits of the 1890s; Complete Paintings: Volume II (Paul Mellon Centre for Studies in Britis)
John Singer Sargent: Figures and Landscapes, 1883-1899: The Complete Paintings, Volume V
*中野京子『名画が語る西洋史ー黄昏時の妖精ー』『文藝春秋』2024年7月号
★6月30日に大輪のカサブランカが開花しました。