時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

移ろいやすいは世のならい( I )

2005年09月30日 | 絵のある部屋

Vincent van Gogh. Roses, 1890, Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman 1991.67.1 National Gallery of Art, Washington, Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

あなたの見ているゴッホの色は?

  今、見ている絵画の色は、画家が実際にキャンバスに向かって描いた時の色だろうか。こんなことは、美術館で作品を見ている時には、あまり考えたことがなかった。しかし、今年の夏、暑いオックスフォードで調べものをしている時にふと思い当たった。いつもの悪い癖なのだが、本来の仕事を放り出して、いくつか資料を読んでいると、実は時の経過とともに、絵画は著しく変色、褪色してしまうことを改めて知らされた。

  やや誇張していう
と、作品によっては、画家が絵筆を振るった一瞬がイメージした真の色であり、完成してしばらくすると、もう古くなっているのだ。作品は「生鮮品」であるといえる。作品がどれだけ制作時の「鮮度」を残しているかは、さまざまな要因によって決まる。保存状態、経過した時間の長さ、画材など、複雑な要因が介在している。このあたりは修復学では、多くの蓄積があるのだろう。 

ピンクであった白いバラ
  ひとつの例をご紹介しよう。ワシントンの国立美術館が所蔵するゴッホ Van Goghの「白いバラ」White Roses と題されたよく知られた作品がある。画
家が精神に異常を来たして収容されていた時の作品である。しかし、制作時の1890年頃には病状も落ち着いてきたこともあって、大変美しい静物画である。 
  この作品について1990年代末ごろにひとつの事実が明らかになった。どうも制作時は、一部におそらくあかね色 madder red が使われていたらしい。そして、バラの色もピンクであったようだ。最近では作品名も「バラ」roses になっているが、美術館の所蔵する古いポスターには画家が使った褪色する前の色が残っているらしい。

品質の悪い絵具 
  なぜ、こうしたことが起きたのか。その最大の原因は、絵具・顔料にあるらしい。ゴッホは作品に使う絵具を、パリのジュリアン・タンギー Julien Tanguy (この画商は出入りの画家に大変愛された人物で、ニックネームの「ペレ」で知られていた)という画材商(14 rue Clauzel) から購入していた。ポール・セザンヌなどもお得意だった。ゴッホはこの画商の肖像画を3枚も残している。
  画材商の妻は、ゴッホがかかえている画材の借金の返済を促すよう夫にいつも迫っていたらしい。他方、ゴッホの方は、絵具の品質には強くこだわっており、タンギーの画材のいくつかには不満を持っていたようだ。


  このブログでとりあげているラ・トゥールの作品発見の過程でも、後年のさまざまな修復や加筆によって、真作・贋作の判別に困難を来たしたり、結果として作品が大変荒れてしまったものもあることを思い出した*。「移ろいやすいは世のならい」は、芸術の世界も例外ではないようだ。

 

* 下記の「手紙を読む聖ヒエロニムス」で触れたことがある。

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/78ad356559daedf2280f2cee61dc0b11

Image: courtesy of the National Gallery of Art, Washington, D.C.

http://www.nga.gov/education/vgt_slide17.shtm 

Reference

Victoria Finlay. Coloour, London: Sceptre, 2002.

 

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ラ・トゥールを追いかけて(40)

2005年09月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

つかの間の平穏
  戦火と悪疫に苛まれたロレーヌにつかの間の平穏が戻ってきたのは、1630年代末になってからのことであった。それより少し前、1636年にラ・トゥールによって書かれた、唯一、現存する優雅な筆跡の手紙が残されている。ロレーヌを取り囲む状況は依然として過酷なものであったが、そうした生活の中で、人々はさまざまに生きる道を求めて苦難な日々を過ごしていた。
  前回記したように、この1636年2月26日には、甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、住み込みの徒弟として受け入れている。リュネヴィルで画家としての職業生活を継続できる基盤がなんとか確保できる見通しがついたのだろう。しかし、不幸なことにリュネヴィルでのペスト流行によって、5月26日にこのナルトワイヤンは命を失っている。 わずか3ヶ月後のことである。ラ・トゥールは世の無常を痛感したに違いない。

名士となった画家
   この年はラ・トゥールの家族にとっても悲喜こもごも、多難な時であった。3月23日にはラ・トゥールに末子マリーが誕生し、洗礼を受けている。この時の洗礼代父はフランス国王の代理人である、リュネヴィルの総督サンバド・ヴィダモンであった。ラ・トゥールはフランス王に忠誠を誓っているが、彼の隣人の中には公然とロレーヌ公の側に組していた者もいた。政治にかかわるロレーヌ人の精神世界は複雑であった(この点は、別に記すことにする。)
  他方、8月にはヴィック=シュル=セイユで、ラ・トゥールの弟フランソワ・ド・ラ・トゥールが死亡している(画家の兄弟姉妹7人の中で唯一死亡の記録が残っている)。

  1638年には、フランス軍がリュネヴィルで大規模な戦闘、略奪を行った。この時、ラトゥール夫妻はおそらく生き残っていた子供をつれてナンシーに一時的に避難していたと思われる。
  
  このような身辺の大激動の中でも、ラ・トゥールがリュネヴィルの名士として確固たる地位を占めていたことは、いくつかの記録の集積からうかがえる。そのひとつは、ラ・トゥール夫妻が依頼された洗礼代父母の数がきわめて多いことである。 代父母を依頼した人々は、土地の名士となったラ・トゥールの名声にあやかろうとしたのだろう。
  ラ・トゥールは、1624、1625、1626、1627、1628、1630、1636年、1639年にはリュネヴィルで、さらに1639年にはナンシーで3回も代父をつとめている。
  とりわけ、1939年の記録で特に注目されているのは、12月22日の洗礼記録にラトゥールが「国王付き画家」という肩書きが付されていることである。これは、ルイ13世の勅許がないと名乗れない称号であり、ラ・トゥールが国王に忠誠を誓い、この肩書きを授与されていたと思われる。

パリにも行ったラ・トゥール
  戦火を避けて1630年代末にラ・トゥールがナンシーにいたことは確認できるが、同じ時期に短期ながらもパリにも行っていたと思われる証拠も発見されている。 それは次のような事実である。1639年5月17日付けで、国王によるラトゥール宛の支払いの命令書が残っている。これは、ラトゥールに対して、国王陛下の仕事にかかわるために、画家がナンシーからパリへの旅行について、1000リーヴルの支払いを命じた内容である。この額には、6週間の滞在と復路の費用も含まれている。
  この当時としては莫大な金額には、今は失われてしまった作品(「ランタンのある聖セバスティアヌス」)の支払い分も含まれているのかは分からない。美術史家の探索の的となったこの作品は、「完璧な趣味のよさであったために、主は居室の壁からほかの絵をすべて外させ、その絵のみを残した」といわれている(18世紀中頃ドン・カルメによる美術史家の間でよく知られることになった有名な記述)。

ルーヴル宮にもアトリエを持っていた画家
   さらに興味ある記録として、1640年8月25日付けの徒弟契約書の中に「パティス・ド・カラン、ルーヴル宮のギャルリーに居住する国王付き画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の代理人」なる人物の記載が残っている。当時、画家は47歳になっていた。彼はパリで自分が信頼できる人物(カランはナンシーで1632-33年に公営質屋の使用人として働いていた)を雇っていただけでなく、自身がルーヴル宮の部屋を使用するという特権を得ていたことを示している。 
  1641年には、財務卿クロード・ビュリオンの死後、1641年1月19日からパリのプラトリエール通りにあった彼の邸宅で財産目録の作成が行われたが、その中に1638-39年頃に制作されたとみられる絵画についての次の記述がある:「ペテロの否認を表した夜の情景の絵、ラ・トゥールによって描かれた。木枠と艶出しされた金の額縁つき。およそ横4ピ、縦3ピエ(100x142cm)」。ラ・トゥールのパリでの活動を裏付けるとともに、彼の作品を求める人々が増えてきたことを類推させる。

「自らの作品」についての自信 
  1641年2月24日、ラ・トゥールはクレティアン・ド・ノジャン(彼は1626年にラ・トゥールの娘クリスティーヌの洗礼代父をつとめた)の未亡人に対して、訴訟を起こしている。その内容は、1637-38年頃、ラ・トゥールはノジャンに「自分の制作である聖マグダラのマリアの絵」をおよそ300フランで売却したが、1638年のノジャンの死までに支払いが完済されていなかったことにかかわっている。 この事実は、興味深い内容を含んでいる。すなわち、当時の「マグダラのマリア」のイメージについての人気、ラ・トゥールの評判、そして作品の相場の高さである。
  同時に、重要なことはラ・トゥール自身が、工房制作やその制作品に基づく模作、贋作と比して、この作品を「自分の作品」だと認めている事実である。そして、ラ・トゥールは世俗の世界においても、自らの能力とその結果である作品について、後世の研究者たちから強欲、執拗と思われるほどに自己主張し、その対価を要求、確保することを怠らなかった。
  こうした行動を画家個人の生来の性格とする研究家もいる。しかし、これまでのラ・トゥールの人生を形作ってきた厳しい風土を考えるならば、多分にロレーヌという地域が経験した激動が影響していると見るべきであろう。強靭な身体と精神がなければ、20歳まで生きることすらできなかった時代であった。 

Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition

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厳しくなったアメリカ国境管理とメキシコの立場

2005年09月27日 | 移民政策を追って

国境で逮捕される不法入国者

 

食い違うアメリカとメキシコの利害


  メキシコの政治家にとって、外交上の優先度はなんといっても最大の隣国アメリカと良い関係を保つことであり、それを通してアメリカへ移民を多数送り込むことに尽きるとされている。しかし、アメリカ側からすると、隣国メキシコ以上に重要度の高い国々や問題が多数ある。たとえば、テロリストについても、アメリカ側はいまや「自国をなによりも重視して防衛する」という対応になっている。したがって、国境での入管審査でも中東へ行った形跡があるかなどを調べるため、大変な詮索が行われる。こうして移民と安全保障という要因は、国境政治の次元で激しく衝突している。

高まる緊張
  今年、8月中旬、ニューメキシコとアリゾナの州政府は、メキシコとの国境について、緊急事態宣言を発表した。不法移民が麻薬密貿易などにかかわる騒動などを憂慮してのことである。両州の国境沿いのカウンティは、国境警備のために特別の資金助成を受けている。両州の知事はいずれも民主党系であり、来年の選挙を見据えて不法移民対策について、「ソフト」であると考えられたくない。今年初め、アリゾナでは自衛のスタイルをとったミニットマン(Minutemen 州兵)がメキシコとの州境警備についた。明らかに手不足になっている連邦の国境パトロール体制を非難する形である。

不法移民と麻薬取引は別問題?
  メキシコ政府側にとっては、こうした移民と麻薬取引業者のかかわる暴力事件などは別の問題と考えたい。アメリカ側の農場、ホテル、レストラン、土木現場などでは、安い労働力が依然求められている。カリフォルニアの国境の壁が強化されたことで、アメリカへの不法入国を目指すメキシコなどの労働者は、危険度が高いアリゾナやニューメキシコの砂漠地帯を選択している。昨年10月以来、124,400人の不法移民がアリゾナ国境のユマ地域で逮捕されている。前年同期比で46%の増加である。
  他方、カリフォルニア、サンディエゴおよびエル・セントロ地域ではそれぞれ13%、30%減少した。全体として逮捕者は100万人を越えている。前年より2%多い。しかし、逮捕される二人のうち(多くは繰り返して入国を企図)一人は目的を達しているとみられる。メキシコ政府の主張メキシコ政府筋は最近の暴力事件の増加は、大きな麻薬ギャングのキャンプを撲滅した結果で、むしろ対策が成功している一面だとしている。今年になって、北メキシコで数百人の死亡者を出した事件の後、アメリカはヌエヴォ・ラレドの領事館を一時閉鎖した。「暴力行為が長引くだけ、アメリカ人にとってメキシコ人は信頼できるパートナーとは考えにくくなる」とアメリカの外交官は直裁に述べた。領事館閉鎖は暴力をコントロールできないメキシコ側への罰則とまで言っている。

すれ違う論理と高まる密輸の報酬
  これに対して、メキシコのヴィンセント・フォクス大統領は、人身売買などにたずさわるトラフィッカーはアメリカが必要としているから供給しているにすぎないとした。国境警備は厳しくなっているにもかかわらず、アメリカへ入国を図るメキシコ人は絶えない。問題は国境の冷酷な論理では、コントロールが厳しくなるほど、麻薬や人(テロリストも含まれる)を密輸する報酬は高くなる。


Reference
Cross-border, cross-purposes The Economist, August 27th 2005

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失業率統計の重み

2005年09月26日 | 回想のアメリカ

失業率統計の重み
  アメリカの経済界で、失業率の変動は大きな注目を集める。株式市場でも投資家はその動向に絶えず着目している。経済指標として失業率、そして雇用統計への注目度は、日本よりはるかに大きいといえる。

  しかし、失業率はどの程度正確に労働市場の需給を反映しているのだろうか。注目度が高い割には、不完全な指標ではないかという疑問が高まっている。

アバウトな指標では
  アメリカの労働市場は、実際どのくらいの需給度なのか。大統領選挙の前は、ワシントンで、かなりの話題となったが、ブッシュ再選決定後、注目されなくなってしまった。 2005年6月の失業率は5%に低下し、2001年9月以来の水準となった。アラン・グリーンスパンは、下院での最後の出席となると思われる報告で、労働市場のスラック(「逼迫度」)について言及した。アメリカの単位労働コストが最近上昇に転じたからである。
  アメリカの失業率に関する分析は数限りなくあるが、どういうわけか、視野から脱落している部分がある。The Economistがとりあげた最近のK.Bradburyの論文は、その点を指摘している。
 
  ブラッドベリーは、失業率は労働市場のスラックを示すについて、プアーな尺度かもしれないという。彼女の基準では、510万人くらいの失業者が統計上、表に出ていない。かれらは仕事の機会が生まれそうならば、また求職者の列に戻るかもしれない人たちである。もしそうであれば「真の」失業率は8%以上であった。
  そうなると、失業者の数も750万人ではなく、1260万人となる。 求職をあきらめる人たち仕事を求める活動にはかなり時間をとられる。多くの求職者はあきらめて途中でやめてしまう。苦労して探すことをしない。こうしたいわゆる「求職意欲喪失労働者」discouraged workersのある者は、パートナーとか配偶者の所得に依存して生活する。学校へ戻る者もいる。政府の給付をあてにして、その条件を探す者もいる。こうした人たちは定義上、労働力ではないので失業者でもなくなる。
  そして、統計上は労働力率の下降の要因のひとつとなる。この下降は2001年の不況時からはっきりしてきた。2001年の3月、経済がピークであった時は16歳以上のアメリカ人で仕事についているか、探している者の比率は67.2%だった。しかし、過去18ヶ月近くこの数値は大体66%にはりついていた。生産活動が上昇しても反転しなかった。この違いは小さなものに見えるかもしれないが。100人のアメリカ人について1.2人、270万人以上である。

元気な高齢者
  過去の回復時には、「就業意欲喪失者」は仕事の機会の拡大や賃金の上昇とともに市場へ戻った。今回との違いはどこにあるのか。ブラッドベリーはこの点を精査した。景気上昇期には若年者や中年者は、特に仕事を求めるわけでもなかったが、高齢者は驚くほど働きたがった。もし、このパターンならば、55歳以下のさらに510万人が労働力に加わっていよう。若者、中年者の不足は高齢者の増加で相殺された。
  となると、ふたつの質問が生まれる。55歳以下の不明な数百万人は労働力化するのか。55歳以上はどうか。
  後者の質問に、ブラッドベリーは肯定的である。高齢者の勤勉さは仕事の拡大やベビーブームに関係しない。過去数年の間に、戦後最初のベビーブーマーは55歳になった。55歳以上の層は肉体的にも精神的にも予想以上に若い。次の数年に大きく変化することはありそうにない。
  最初の質問への回答はやや難しい。2001年の不況は、戦後の景気として最長記録となることを妨げた。当時は学生は勉強を途中でやめたり、中年者は退職時を延ばしたりした。ピークはもう戻らないだろうと、ブラッドベリーは指摘する。そうなれば、510万人のアメリカ人労働者は戻ってこない。

働く女性の行方
   もうひとつのミステリーは女性である。1960年代以降の40年間にアメリカの女性の労働力化は進んだ。不況で労働力率が変動したことはあっても傾向は変わらなかった。さらに上昇が続くだろう。 ブラッドベリーの計算でも、女性は大きな役割を果たしている。実は510万人の不明な人口のうち430万人は女性だ。この大きなギャップは、女性労働力が2001年3月よりも220万人近く増加したことを意味する。 しかし、ブラッドベリーはこの考えはあてはまらないとあっさり譲歩している。
  労働市場に参加している女性の60%とともに、彼女たちの労働市場参加への長い旅は終わろうとしている。これからは女性労働者は男子と同様に景気の変動とともに、上下してゆくだろう。このシナリオだと、おそらく不明な410万人の女性のうち、130万くらいだけが、経済回復とともに市場へ戻ることになろう。これは労働者全体として510万人ではなく、230万人の不足ということになる。
   もしブラッドベリーの推測が正しいとすると、アメリカの完全雇用は現在見えている水準よりもずっと遠い目標となる。彼女の計算では、アメリカ経済は連邦準備委員会が労働力不足、賃金上昇、インフレ圧力を憂慮するまでには、かなり成長余地を残していることを意味している。 ブラッドベリーの指摘は、別に目新しいものではない。discouraged worker 仮説が提示された後、たびたび論議の俎上にあがってきた。

 
  それよりも、これだけ複雑化した現代の労働市場の需給度を測定し、判断指標として公表するについて、失業率が示す理論と現実のギャップは、次第に大きくなっているように思える。乱気流の多い現代経済を、単純な気圧計を頼りに飛行しているような感じさえする。といって、すぐに補完的な指標が見つかるわけではないことは、十分承知の上ではある。
  実は、私が学生として最初にアメリカ・労働経済学のセミナーに出席した時、提示されたテーマがこれであった。当時は、「失業率4.6%は危険水域か」という議論であったのを思い出した。日本の完全失業率は1.1%の時代であった。 なにが変わって、なにが変わらないのだろうか。届けられたばかりの「国勢調査」の調査票の説明を読みながら、よけいなことを考えてしまった。

Reference
Katharine Bradbury,  Additional slack in the economy: the poor recovery in labour force participation during this business cycles,” Federal Reserve Bank of Boston

It’s the taking part that counts, The Economist, July 30th, 2005

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ラ・トゥールを追いかけて(39)

2005年09月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ロレーヌ苦難の時代とラトゥール

Jacques Callot (1592-1635), Autoportrait, dit « Le petit portrait », gravure, Nancy, Musée des Beaux-Arts, L.184. ジャック・カロ自画像 


想像を絶するロレーヌの戦火と惨状
  1631-34年に、フランスと神聖ローマ帝国との戦いが始まり、戦火はロレーヌにも波及してきた。1632年には、フランス王ルイ13世がヴィック・シュル・セイユを通過することがあり、ロレーヌ公シャルル4世にヴェルダン条約を課した。そして、フランス王への忠誠を求めた。ロレーヌ公、貴族などは、忠誠誓約書に署名を求められた。画家ラ・トゥールも署名に加わっている。

  戦火が絶えなくなったロレーヌの町々では、住民の数より駐留する兵隊の数の方がが多いという状況も珍しくなかった。こうした兵隊には、欲求不満の捌け口の意味もあって絶えず略奪する城や町が与えられた。

すさまじい略奪
  ひとつの例としてテュイリエが挙げているレモンヴィリエRemonvillierの場合は典型的ともいえる。当時、この町にはおよそ500から600人の農民が住んでいた。ワイマール公Duke of Weimarは、この町を略奪の対象として自らの軍隊に与えた。兵隊たちは、暴虐のかぎりを尽くし、男と年かさの女を全部殺し、若い女を暴行の対象とした。そして、最後にはまだ城内に子供がいるこの町に火をつけてしまった。
  また、ロレーヌの商業的中心のひとつであったサン・ニコラ・デュポール Saint-Nicholas-du-Portについてみると、1635年11月4日、ハンガリーとポーランド軍が略奪を行った。翌日はフランス軍が襲い、ワイマール軍がその後をまた襲撃するという惨憺たる有様だった。略奪の果てに、なにも奪うものがないことを知ったワイマール軍は、この町を有名にしていたバシリカ教会を11月11日に破壊、焼き尽くしてしまった。

略奪に脅える住民
  ロレーヌの住民は外国の軍隊の侵略に絶えずおびえていた。そればかりではない。戦費を調達するために、支配者たちは過酷な租税を課した。教会といえども略奪の対象から免れなかった。特にプロテスタントのスエーデン軍には、ロレーヌの住民はただ恐怖するばかりだった。略奪のかぎりを尽くした軍は、退去するに際してしばしば町に火をつけた。住民は殺されるか、行方のない放浪の巷に放り出された。

戦場と化したリュネヴィル
  ロレーヌにおける戦火は次第に激しさを見せ、1638年9月10日には、フランス軍がリュネヴィルで略奪を行った。ラトゥールとその家族は、総督サンバド・ヴィダモンから警告を受けて、町から離れていたものと思われる。しかし、彼の工房や教会、修道院などに残されていた作品は、ほとんど破壊されたことは想像に難くない。 画家の力量からすれば、数百点はあったかもしれない作品が、今日ではわずかに40点程度しか真作と確認されていないのは、ロレーヌの惨禍がもたらした結果であることはほぼ間違いない。

ナンシーの陥落
  とりわけ、ロレーヌの中心であるナンシーがフランス軍によって陥落したことは、当時のヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。堅い防備で知られたナンシーが簡単に攻略されるとは考えられなかった。歴史的経緯からも、フランスはロレーヌを敵国とは考えていなかったが、ロレーヌ公の行動、周辺国の軍隊などとの関係から、強い対応に出ることもあった。そして、ことあるごとにフランス王への忠誠を求めた。
  後年、画家カロは、ナンシー陥落の記録とルイXIII世の偉業を記すための作品の制作を求められたが、郷土における殺戮の実態を自らの手で描くことを堅く拒んだ(カロは、ロレーヌの他の地域については、惨状を描いた銅版画を多数残している*)。

疫病の流行
  ロレーヌの悲劇は、戦火ばかりでなかった。軍隊の進入とともに悪疫がもたらされた。1630年、メッツ、モイェンベック、ヴィックなどは「ハンガリー病」と呼ばれる疫病(おそらくチフスの一種)に襲われた。当時の不衛生な状況が生みだしたと考えらえる。
  ラトゥールの住んでいたリュネヴィルは、当初、悪疫からは免れていたが、ロレーヌ公と家族は1630年に城下から逃れて他に居住の場を移していた。1631年の夏はとりわけ悪疫の伝染がひどく、6月から10月末まで流行した。そのため、リュネヴィルの町は外部から完全に遮断された。1636年4月にも悪疫が再度流行した。感染した住民のうち、およそ160人は助かったが、80人近くが死亡したと伝えられている。
  4月頃からリュネヴィルにはペストが流行し、5月26日には受け入れたばかりの徒弟ナルドワイヤンの命が奪われている。 荒廃したロレーヌこうした時期には飢饉ともいうべき深刻な食糧不足も発生した。働く農民も減少した。自分や家族で食べるものを調達する以外に道はなかった。ロレーヌでは人肉まで食した記録が残っている。

リュネヴィルに平和は戻るか
  フランス軍の略奪によって、リュネヴィルの町は荒廃しきった。しかし、戦火が遠ざかると、どこからか住民は町に戻ってきた。避難していたところは不明だが、ラトゥール一家もどこからか戻ってきていた。1636年には甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、徒弟として受け入れている。戦乱の場にもやや平静な状態が戻ってきたのだろう。
  戦火が絶えなかったこの時期には、ロレーヌは経済的にも不振をきわめており、ラトゥールなどリュネヴィルの資産家たちは余っていた所有地の活用などを図って、対応していたらしい。
  悲惨なのはこうした手段を持たない住民たちであった。彼らは文字通り恐怖と悲嘆が覆う暗闇の中にかろうじて生きていた。貧窮と苦難のきわみを経験したロレーヌにつかの間の平穏が戻ってくるには、まだ時間が必要だった。

Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition

*Jacques Callot. The Misery and Suffering of War (known as Les Grandes Miseres de la Guerre), 1633, Etching, Cabinet des estanpes, Bibliotheque nationale, Paris.Thuillier 101
.

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久しぶりのアシュモリアン(2)

2005年09月22日 | 絵のある部屋

J.F. ルイス、「マンティラをまとったスペイン少女の肖像」
 

John Frederick Lewis, Head of a Spanish Girl Wearing a Mantilla, ca. 1838,Presented by Prof. Luke Herrmann through the National Art Collections Fund (from the Bruce Ingram Collection), 2002  

  世界屈指の学術都市だけに、オックスフォードの芸術的環境も大変素晴らしい。そのひとつの中心がアシュモリアン美術館である。かつては「ユニヴァシティ・ギャラリー」と呼ばれていただけに、大学との関連は深い。美術、博物の研究者にとっては垂涎ものの展示物も多い。

  一部の特別展示などを除くと、観客の数は少なく、静かな環境で作品鑑賞ができる。前回紹介したウッチェロの「森の中の狩」なども、同美術館の誇る展示物のひとつだが、特に人だかりなどがあるわけではない。絵の前にある長いすに座ってゆっくりと鑑賞することができた。
 
  ひとつひとつ見てゆくと、小品ながら思いがけない大家の作品などがさりげなく展示されている。エル・グレコ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロなどの作品に出会い、ここにあったのかと認識を新たにすることも度々である。 

  ここで紹介するイギリス19世紀の画家J.F.ルイスの「マンティラをまとったスペイン少女の肖像」も、アシュモリアンの所蔵する隠れた名品である。18世紀末から19世紀初めにかけて、美術家のエキゾティックな対象への関心は高まった。John Frederick Lewis (1805-1876) もカイロに10年近く住み、オリエンタリズムへの関心に支えられた多くの作品を残した。特に、ルイスの作品には日常接する人々や情景を描いたものが多い。

  とりわけ、1833-34年、スペイン旅行の際に描いたスケッチや水彩に印象に残る作品が見られる。この作品はルイスがスペイン旅行から帰って4年後に、セヴィリアの少女を描いた同様な構図のリトグラフ(Sketches of Spain and Spanish Character,1836)からインスピレーションを得て、描いたものである。

  画家が少女の顔の部分について大変細部にこだわって描いた美しい作品である。頭部は黒いレースのヴェイル(マンティラ)で覆われ、17世紀のヴェラスケス、ムリリョ、スルバランなどの作品を思わせる雰囲気が漂っている。これまでもアメリカを含めて、海外からもたびたび出展を望まれた作品である。

  マンティラは教会の礼拝や往復などにまとうことが多く、宗教的な背景を感じさせる。 彼女の衣装は現代スペインに近いとはいえ、イスラーム世界、そして遠いキリスト教の過去へのつながりを思わせる。


Image: Courtesy of the Ashmolean Museum, Oxford

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ラ・トゥールを追いかけて(38)

2005年09月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

画家ラ・トゥールの世界:苦難の時代を迎えるロレーヌ(1)  

  リュネヴィルに移ってからのラトゥールの画家としての生活は、貴族の家柄を継承する妻の生家がある地ということもあって、きわめて充実したものであったといえる。画家の天賦の才は、時代の求めるものをしっかりと受け止め、人々の心を打つ作品へと結実していった。画家という職業生活の上でも1626年には3年間の約束で、シャルル・ロワネを徒弟として受け入れるまでになっている。しかし、その背後でロレーヌの平和で牧歌的、豊かな地というイメージを、根底から揺るがすような激動の予兆が忍びよっていた。

動乱・悪疫流行の時代へ
  1620年代後半頃から、リュネヴィルが位置するロレーヌ地域は、軍隊が平穏な町や村々を破壊・蹂躙し、悪疫が流行する困難な時期へと入っていった。ラトゥールの重要な研究家の一人であるテュイリエは、現代の中東レバノンやユーゴスラヴィアなどの状況に比すべき惨憺たる事態であったとしている (p98)。
  事実、戦火の燃え盛る戦場と化したロレーヌの凄惨な光景を迫真力をもって描いたカロの銅版画***などから、その有様をうかがうことができる。ラトゥールの作品を理解するためには、この画家が生涯の多くを過ごしたロレーヌが経験した時代の実態を正しく知ることが、どうしても不可欠である。それなしに、ラトゥールの作品の持つ内面的深さ、それと(記録文書上は)対立するかにみえる画家の私生活における、時に強欲、粗暴ともいえる行動などを正しく評価することはできない。  
  ここでは、テュイリエ*やサルモン**の研究を参考にして、その輪郭を記してみたい。

ロレーヌの不幸の始まり 
  悪疫流行の問題は別として、ロレーヌが血で血を洗うような凄惨な戦場となるにいたった原因については、当時の為政者の性格と彼らが選択した方向、宗教的背景などが深くかかわっていた。 
  ロレーヌの不幸な時代は、この地域を長らく統治してきたアンリII世が1624年7月に死去したことから始まる。この時からロレーヌの未来は次第に不安に包まれる。 
  アンリII世には王子がなく、二人の王女ニコルとクロードが正統な公位の継承者として残された。しかし、激しい後継争いが起きた。
  とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル・ド・ヴォウドモンは、功名心が強い若者で、感情の振幅が大きいことに加えて、大変な策謀家でもあった。

宮廷政治の悲劇 
  アンリII世は優柔不断な人物であったようで、後継者の選択をためらっていたため、宮廷はいずれにつくかをめぐって分裂状況にあった。シャルルはしつようにアンリII世に迫り、王女ニコルとの結婚を認めさせた。
  シャルルIV世がロレーヌを統治することになると、宮廷世界には次々と悲劇が生まれる。アンリII世の没後、シャルル公が政治の前面へ出るようになり、ニコルとの結婚に反対したアンリII世の取り巻きを次々と迫害した。中には魔女との係わり合いを理由に、火刑に処せられたものもいた。 
  シャルルは政略結婚としての常だが、ニコルを愛していなかったので、女性を王位後継者とさせない法律を突如制定した。

シャルルの選択がもたらしたもの 
  1625年になると、シャルルIV世はニコル公妃の公位継承の正統性に挑戦し、それに反対する者を抹消するためもあって、新たな魔女裁判を策動し、アンリII世の司祭を死刑にしてしまう。 さらに、シャルルは政治面では神聖ローマ帝国側と結び、フランス側のルイXIII世に対抗する動きを強めた。
  フランス側につくか、ロレーヌ側につくかで、ロレーヌの宮廷人は厳しい選択を迫られた。彼らの選択結果で、運命を左右された市民の心情が不安に満ちていたことはいうまでもない。 
  さらに、シャルルIV世は1627年末からスペインのフェリペIV世から資金支援を受け、ルイXIII世の連合側であるスエーデンと対立関係に入る。かくして、フランスに対抗するロレーヌの政治的立場は明らかなものとなる。これはシャルルIV世の大きなギャンブルであった。 
  他方、フランス国王ルイXIII世は子供がなく、病弱であるといわれてきた。しかし、実際には1643年まで生き、二人の子供も生まれた。1630年から著名なリシリューを宰相として重用するようになる。

フランス国王の危機感
  シャルルIV世と神聖ローマ帝国との連帯は、フランス王ルイXIII世にとって、きわめて危険なものに思われた。そのため、ロレーヌ公領を自らの手中にする行動に移る。
  1630年春、フランス軍はヴィックとモイェンヴィクを占領する動きに出る。1632年1月3日には、占領したヴィックにルイXIII世自らが乗り込んできた。シャルルIV世は、フランス軍の大軍を前に抵抗をあきらめ、同年6月ヴィック協定という名の下での服従、フランスへの忠誠を迫られる。この協定でロレーヌの住民は、フランス王への忠誠を誓わされた。 
  しかし、この協定の3日前、ルイXIII世が予想していなかったことだが、王弟ガストン・ドレアンはシャルルIV世の妹であるマルグリットと結婚していた。結果として、ロレーヌ公はフランス王の義弟となるという政治的策略であった。これは、シャルルIV世にとっては、生き残るため最後の藁の一本ともいえる選択であった。ロレーヌの王女とフランス国王の家系を結ぶための政略結婚であり、ロレーヌ公をフランス王の義弟とする策略であった。しかし、結果として事態はさらに混迷の度を深めることになってしまう。

フランスの支配下へ 
  シャルルのとったこの政略結婚の道は、ロレーヌが最後にすがる藁の一本のようなものであった。しかし、事態は一段と混迷の度を深めていく。スエーデン軍がロレーヌを攻める恐れも生まれたが、実際にはフランス軍が進駐してきた。1633年8月、ルイ13世自らがナンシーへ入城した。(カロの「戦争の惨禍」はこの年に出版されている。)  
  シャルルはナンシーをあきらめ、ルイXIII世は王妃を伴い、ナンシーを占領する。34年11月にはリュネヴィルもフランス軍が占領し、すべてのリュネヴィル市民がルイVIII世に忠誠を近い、ラトゥールも市の名士とともに、忠誠宣誓書に署名している。

  シャルルIV世は政治的立場を失い、1634年1月に退位し、弟であるニコラ・フランソワーズにロレーヌ公の地位を譲った。しかし、亡命先のブザンソンなどでは依然としてロレーヌ公を名乗り、さまざまな策略を謀っていた。シャルルの側に立つロレーヌ人もかなりいた。

  シャルルIV世は表向きはフランスに忠誠を保つが、裏では反対するという二重のスタンスを保とうとした。宗教面ではロレーヌでは信者の多かったカプチン派は、プロテスタントの味方であるリシリューに反対の立場をとっていた。しばしば、反乱の動きもあったが、そのつど力で排除されていた。

複雑なロレーヌ人の心情 
  ロレーヌは大国の間に挟まれるという地理的位置もあって、複雑な感情を醸成してきた。ロレーヌの住人は、ロレーヌ公に忠誠を誓いながら、二つの悪でもどちらか程度が良い方を選ぶということで、フランスの支配を一般には受け入れていた。しかし、個々人の置かれた社会階級上の立場などもあって、内実は複雑きわまりないものであった。公爵領の中立性は、こうした悲しい選択の上に保たれていたといえる。
  ロレーヌの人々は、政治的選択ばかりでなく、日常の生活においても、いやおうなしに現実的な対応を迫られていた。ラトゥールに関する歴史的文書などから推察される画家の利己的な対応も、こうした環境に生きなければならない人間の行動としてみると、なるほどと思うことが多々ある。 
  当時のヨーロッパ政治の世界で大国の狭間に位置したロレーヌは、地政学上も決定的な紛争の舞台となるという窮地にしばしば追い込まれてきた。フランスにつかなければ、スエーデンや神聖ローマの軍隊の蹂躙するところになったのである。シャルルIV世の軍隊は、神聖ローマ帝国軍と連携していたが、スエーデン軍などは強欲・残忍で知られ、その下で苦悩する人々の反乱も多発した。 かくして、ながらく戦火を免れてきたロレーヌであったが、戦争の惨禍が次第に拡大してきた。 
  戦火を交えるたびに美しいロレーヌの市や町、村々は、略奪、殺戮を繰り返す残忍な軍隊の蹂躙する場となった。人々が大きな不安を抱き、外国の軍隊などについてのうわさなど、少しの変化にも恐れおののき、心のよりどころをを神や呪術などに求めるという風土が形成されていた。ロレーヌの真に苦難の時代はこの後であった。

References
*Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition)

**ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

***Jacques Callot, Attack of a Fort, Black chalk and bistre wash, British Museum, London.

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看護士流出のかげで

2005年09月19日 | 移民政策を追って

医師が看護士として流出してしまうフィリピン

   8月15日のブログで、アジア・アフリカ諸国における医療・看護分野の高度な労働力が「頭脳流出」する問題について記した。その後、たまたま見ていた 9月15日のNHK BS1「地球/街角アングル」は、「医師がいなくなる:フィリピン看護士出稼ぎの陰で」と題して、その一端を報じていた。フィリピンでは看護士の資格取得が、海外出稼ぎの新たな手段として、ブームとなっている。そして国内で働くよりもはるかに高い報酬が見込めることもあって、医師までもが看護士資格を取得して海外へ流出する事態が生まれている。

ブームとなった看護士海外出稼ぎ
  いまや、海外で働くフィリピン人は約800万人、海外からの本国送金額はGDPの約10%に相当する。かつてのメイドやオペア、興行関連職種に代わって、医療・介護分野の人材流出が問題となっている。
  マニラだけで看護士養成大学は80校以上になる。しかし、この養成大学も、実態は街中のビルの2階が教室であったりする。英語が使われる国だけに、テキストだけはアメリカのものが使われている。
  こうした中で 4年間の看護士としての教育を受けた卒業生は、ヨーロッパ、中東、アメリカなどに向かう。ヨーロッパや中東の病院で働けば、フィリピンの報酬の数倍、アメリカでは20倍となる。これでは、まるで海外の病院のために人材養成をしているようなものだ。本来ならば、自国の発展、医療・看護の充実に当たるべき人材が流出してしまう。結果として、フィリピンの医療・介護水準はさらに劣化する。   

  海外で働く機会を斡旋する人材紹介所がすでに多数存在する。こうした紹介所は、1件につき斡旋先の病院から1万ドルの斡旋料をもらう。すでに400人以上を海外に送り出したところもある。

  看護士ブームに乗じて、医師までもが看護士の資格を所得し、看護士として海外で働くことを考えるようになっている。看護士の資格を持った医師は、海外で看護士として働くと、現在働いている公立病院での医師収入の10倍以上の報酬となる。アメリカでは普通の生活しかできないが、フィリピンではかなりの大金となる。

高収入をもとめて 
   南ダバオ州では、すでに多くの医師が流出している。南ダバオ州立病院の場合:すでに26人の医師のうち半分が出稼ぎを目指して看護士の資格を得ている。ある女性医師の場合、現在は16000ペソ(36000円)の月収。これで、病気の夫と二人の子供を養っている。アルバイトをしても、収入は月に8万円程度。他方、アメリカではフィリピンの月収を1日で稼げる。

   アメリカへ看護士として出稼ぎを考えるボソトロス医師は、インタービューに答えて、ニューヨークの病院で働くことを考えているという。そのためには、アメリカの国家試験、英語試験をパスしなければならない。しかし、英語国であるフィリピンでは、この障壁はそれほど高くない。
   アメリカで永住権を得るまでの3年間を辛抱して働く。そして、フィリピンに戻り、生活する。彼はそうして母国で消費した結果が発展につながり、将来医師、看護士の海外流出抑止につながればよいと思っていると答える。しかし、はたしてそうなるであろうか。海外で高い報酬機会に接したフィリピン人看護士は、なかなか帰国してこない。帰国しても海外での貯金は、自分や家族の消費生活の向上に当てられ、フィリピンの医療・介護水準の向上へとはつながってゆかない。 根本的課題を未解決のままに、マニラ空港では、毎日多数の看護士が海外出稼ぎに旅立ってゆく。

関係者の責任
  日本とフィリピンのFTA交渉で、日本側はしぶしぶながら、フィリピン人看護士の受け入れを認めた。しかし、受け入れ決定にいたる関係者の視野はきわめて狭小である。医療・介護分野の国際協力とはなにか。なにがなされるべきなのか。両国の政府・医療介護関係者は、原点に立ち戻り、考える責任がある。

 

関連情報

「比で看護士流出」『朝日新聞』2005年9月27日

 国公立病院の看護士の場合、月給は200ドル(約2万2千円)前後、医師でも400ドルに届かない。しかし、米国へ行けば看護士なら4千ドル(44万円)になる。比医療協会のタン医師は「35歳以上の経験を積んだ医師が流出し、国内の医療技術の低下を招く」という。70年代には40校程度だった看護学校は、04年には370校にまで激増した。

 比保健省のパディリャ次官は「深刻さは認識しているが、対策は白紙だ。(流出防止のための賃上げ案は)お金がなく非現実的だ」という。

 比政府は日本側による「受け入れ枠」設定に難色を示す。医師・看護師でつくる団体「HEAD」のニスペロス事務局長は「医師・看護師は工業製品ではない。需要があるからと出してばかりでいいのか」と話している。

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森の中の狩

2005年09月17日 | 絵のある部屋

Paolo Uccello (Florence 1397-1475) The Hunt in the Forest

Tempera and oil on panel (composed of two poplar planks) 73.3:177 cms (A79), Probably painted around 1470, Ashmolean Museum, Oxford

モダーンな印象 
  おびただしい数の狩人と犬が、森の中で獲物を追っている。獲物は鹿か猪か。おそらく鹿だろう。この光景を見る人の視線は、自然に森の奥、獲物の逃げている方向へと導かれる。きわめて巧みに計算された構図である。
  しかも、狩人や犬、馬、木々などはアニメ化されたように見事に様式化されて描かれている。狩人たちの赤い衣服、白い犬が月光に照らし出された森に映える。全体の印象はきわめてモダーンである。中世をテーマとした現代絵画といわれたら、信じてしまうかもしれない。とても15世紀の絵画とは思えない。

綿密に計算され尽くした作品
  この絵は1850年、イタリア滞在の外交官で美術に造詣の深かったフォックス・ストラングウエイス卿Hon.W.T.H. Fox-Strangways からアシュモリアン博物館に寄贈された。画家はイタリアのパオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, Florence 1397-1475)であることも判明した。制作は1460年代後半であると推定されている。ウッチェロは幾何学と遠近法に強い関心を持っていた。
  横長の独特のスタイルを持つこの絵画は、「スパリエラ」(spalliera 「肩」を意味する)という様式が採用されており、ある部屋の肩の高さに掲げられていたと考えられる。アシュモリアンには、同じ画家ウッチェロの手になると思われる『受胎告知』の絵も所蔵されているが、こちらはきわめて古典的な構図、技法で描かれており、すぐには同一人物の作品とは分からないほどである。

  ラトゥールやカラヴァッジョのような天才的画家は、しばしば大きな「革新」を試みる。 ウッチェロも大変な力量の持ち主であったと思われる。狩人の衣装は現代的で、15世紀フローレンスにおける室内画の伝統を引き継いでいる。狩の状況を描いた図は、他にもあるが、これだけ見事な作品はほとんど見当たらない。

画家を熟知したパトロンの存在
  作品を依頼したと思われるパトロンは、ウッチェロの作風と力量を熟知していたと思われる。パトロンが誰であったかについては、いくつかの推測はあるが、確定されていない。しかし、富裕で高い鑑識眼のある貴族の邸宅の一室に掲げられていたものであることは、ほぼ確かである。この一枚を見るだけで、私はいつもアシュモリアンに来てよかったと思う。

綿密な下地作業
   1987年、作品はケンブリッジ大学のHamilton Kerr Instituteにおいて保全・修復の作業がなされた。この時、X 線による分析なども行われ、それまで分からなかった多くの点が明らかにされた。この分析で、画家が下地の処理に細心の注意を払い、二枚のポプラの板の継ぎ目、節目や傷の補填にさまざまな対応をしていることが明らかになった。そのため、画板の表面がきわめてなめらかで、こうした美しい作品を生み出すことができたと思われる。

十分に計算された構図と色彩
  画家はもちろん、それらの問題を十分承知の上で地味な作業に時間をかけたのだろう。 さて、この絵は現実の狩の有様を描いたのだろうか。それとも、仮想の作品だろうか。この点についても、考証が行われており、現実とファンタジーを巧みに混合したものであることが判明している。
  森に射し込む月光の効果を計算して、木々の上部をみると森の奥ほど暗い闇が支配し、近くになるほど葉の緑や花の色の明るさが増している。狩に参加している貴族たちの衣装や馬や犬の配色にも光の効果が計算されている。

  狩の獲物として彼らが追っているのは、間違いなく鹿であると考えられる。当時、鹿は高貴な動物とされ、鹿狩りには特別な重みがあった。 ウッチェロは幾何学と遠近法をLorenzo Ghibertiから習得し、Donatelloの友人であった。二人とも、ルネッサンス芸術に革新をもたらしたきわめて著名な人物であった。
  描かれた人物、馬、樹木などにも幾何学的な単純な線が多用され、写実性は後退している。実際にも狩場の木々は、移動や見通しを容易にするために下枝が伐採されていたが、この作品ではそうした点も、かなり様式化されて描かれている。犬も狩猟用のグレイハウンドであろうか。  

  ウッチェロはその人生で数多くの作品を制作したが、今日まで残るものは少ない。とりわけ、フレスコ画の多くは損傷したり、離散してしまった。ウッチェロについては、あの著名なヴァザーリの『芸術家列伝』(Vasari Lives of the Artists, 初版は1550, 拡大版 1568)に記されている。 この『森の中の狩』を静かな部屋で見ると、なんとなく幻想の世界に引き込まれているような思いがする。アシュモリアンを訪れるたびに、心が清爽となるような絵の代表的な一枚である。

Reference
Catherine Whistler. The Hund in the Forest by Paolo Uccello, Ashmolean Museum, Oxford, 2001.

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『怒りの葡萄』は今も

2005年09月16日 | 移民の情景

  気温が日中は38度以上にもなる炎天の下、テーブル用といわれる一房ごとの葡萄を摘み取る作業は機械では代替できない。朝7時から8時間、時間賃率7ドル(約770円)が続く。これに、一箱ごとに30セントの割り増しがつくが、炎天下で休憩時間も十分でなく、熱中症で倒れ、死亡する例が絶えない。
  本年8月に改定されたカリフォルニア州の労働規定では、使用者は熱中症にならないよう、労働者に日陰の休息場所、最低5分以上の休憩時間、1時間ごとに水を供給するなどの義務が課せられている。しかし、この条件は必ずしも守られていない。
  こうした農業労働者の過酷な労働実態は、移民労働などの専門家の間ではかなり知られているが、最近の経済誌(The Economist)が、その断面を伝えているので、紹介したい。

外国人労働者に頼るアメリカ農業

  典型的な例として、週70ドル、食事込みで子供2人をキャンプの小屋に置きながら、夫と妻と10代の息子が葡萄やいちご摘みなどの作業に携わる。彼らの多くはメキシコなどから、アメリカ入国に必要な書類を保持しないで密かに国境を越えた不法労働者undocumented workers である。
  アメリカ労働省の調査では、農業労働者の53%近くが不法であり、カリフォルニア州では90%近いと推定されている。(筆者がサンディエゴ地域で日米調査に携わった時も、農業労働者の過半数は不法労働者であった*。)言い換えると、彼らに依存しないかぎりカリフォルニア農業は、もはや存続しえない。

国内労働者は就労しない
  アメリカの国内労働者は、農場労働などの厳しい仕事に就きたがらず、農業経営はこうした外国人労働者に頼っている。メキシコ側国境周辺にもメキシコ人労働者が働く機会が少なく、北を目指して不法に国境を越える労働者の流れは絶えることがない。 厳しい経営・労働とりわけカリフォルニア州などでは、農業が大きなビジネスになっており、アーモンド、ウオールナッツ、いちご、葡萄など、生産品種は250にも達している。

厳しい競争条件
  しかし、農場の多くは一部の大農場を除くと規模が小さい。市場の変動や大雨などの天候条件が変わるだけで、経営破たんに追い込まれる農場も少なくない。 利益確保のためには、賃金などの労働条件を改善するインセンティブは生まれない。農業労働者は農場主に直接雇われることはなく、請負業者を介在して収穫期だけ働く。そのため、農場から農場へと移動する生活である。
  こうした労働条件を改善する道は厳しい。労働者自ら悪条件を改善するよう、農場主に要求したりすることは、力の関係から現実にはほとんどない。南からの労働力供給は豊富であり、労働組合もこの分野では組織化も難しく、影響力が乏しい。こうした農業労働での不法労働者を限定的に合法化することを含んだ”Agjobs” bill と呼ばれる移民法の抜本的改正が議会で検討されているが、国境管理を厳格化せよとの要求も強く、その帰趨は予断を許さない。 この法案は、2003年7月以降農場で少なくも100日を経過している不法労働者に、一時的な合法資格を与え、彼らがさらに次の6年間について360日就労したならば、永住権取得への道を開くものである。

グローバル化が生む「怒りの葡萄」
  カリフォルニアの農場から農場へと移動しながら、厳しい労働条件の下で働く農業労働者の姿をリアリスティックに描き出したスタインベックの名作『怒りの葡萄』(1939年)の世界は、今日も変わることなく続いている。アメリカ・メキシコの間に横たわる大きな経済格差が改善を見る日まで、この厳しい実態が大きく改善されることは期待できない。現在、進行しているグローバル化の過酷な一面をここに見ることができる。

Source
Farm labour: The grapes of wraath, again. The Economist, September 10th 2005.
ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』(大久保康雄訳. 新潮社, 1969、原著は1939年)
桑原靖夫編『グローバル時代の外国人労働者 どこから来てどこへ』東洋経済新報社、2001年

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久しぶりのアシュモリアン

2005年09月15日 | 絵のある部屋

アシュモリアン博物館(手前にみえるのが聖ジャイルズの像)  

  オックスフォード滞在中に最も見たいと思ったのは、アシュモリアン博物館Museum of Art and Archaeology であった。聖ジャイルスのお祭りSt. Geil’s Fair が終わった頃から、急速に秋の気配が強まってきた。8月から続いてきたヨーロッパ異常気象の一端と思われた酷暑の夏は、もはやどこにもない。カレンダーをめくると同時に秋になったような変化である。

世界一級水準の所蔵品
  アシュモリアン美術館は、現在はHeritage Lottery Fundの財政支援の下で運営されているが、所蔵品の充実振りは世界一級の水準といってもよい。1683年にイギリスで最初の公的博物館として開館した。今年から一層の充実を図るための大規模な拡大工事が進行している。  
  個人的には、1980年の日本週間に講師で招かれた時に最初に訪れて以来、90年には2度ほど訪問する機会があった。エジプト美術、ギリシャ・ローマ、中国水墨画、日本美術、ルネッサンス美術、膨大な銀器・装飾品から現代のガラス製品まで、膨大な所蔵品を誇っている。しかも、入場料はとっていない。さすがに、混雑を避けるため2万人という観光客がオックスフォードに押し寄せる聖ジャイルス祭の時は休館にしていた。

特別展:植物美術の1000年
   5月から9月11日までは、「新しい開花:植物画の1000年」A New Flowering: 1000 Years of Botanical Artと題する特別展が開催されていた。イギリス人の植物好きは良く知られているが、11世紀の作品から始まっているオックスフォードのシャーウッド・コレクションを中心に、過去30年におけるルネッサンスと呼ばれる作品群を含めて、凝縮された空間が展開していた。さまざまな花を精密に描いた図が多数展示されている。熱心に作品に見入る人で、この部門だけはかなりの混雑であった。

なつかしい作品との再会
  西洋絵画の部門では、いくつかのなつかしい作品に再会することができた。グレコの「聖マリア」、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされていたデッサン、その素晴らしさに魅了されてしまうパオロ・ウッチェロの「森の狩り」などである。時間をかけて見てみたい作品が多く、すでに2日にわたってアシュモリアンへ通った。これについては、いずれ改めて記す機会を持ちたい。

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グローバル化の対応に追われるEU:繊維産業のケース

2005年09月15日 | グローバル化の断面

  今年前半の世界の貿易業界で最大の注目を集めたのは、1月から実施された輸入制限措置の撤廃をめぐる動きであった。急増した繊維製品輸入に対応が遅れがちであったEUと中国の貿易交渉がやっと妥結した。EUは問題先延ばしで一息ついたが、すぐに次の対応を迫られることは目に見えている。

あっという間に増えた中国製品
  国内に繊維産業を抱えるフランスやイタリアなどの圧力を受け、EUは6月に中国から年間の輸出数量を一定枠に抑える措置を取りつけた。しかし、7月から8月にかけてセーターやスラックスなどは、早くも今年の上限枠を突破し、8千万点の中国製品が税関で山積みという状況が生まれてしまった。

「駆け込み受注」の増加
  この背景にはいくつかの理由があるが、特に衣料品の調達先を南欧や北アフリカにしていた小売業は、価格の安い中国に切り替えたが、EUの輸入規制に驚き、発注を積み増すという駆け込み受注が増加した。

EU南北の対立
  中国製品をめぐってはEU内部に利害の対立がある。北欧、オランダ、ドイツなどは保護主義的な手段を放棄して、輸入再開を要請してきた。他方、フランス、イタリア、スペインなどの繊維産業は、今年超過分の輸入を認めるならば来年の数量枠の前倒し使用に振り替えるべきだと訴えた。

難しいEUの立場
  こうしたEUの内部事情を考慮し、9月5日の新協定は玉虫色の決着となった。すなわち、今年の超過分の半分は無条件で輸入を認め、残った半分は2006年の枠を前倒しで使うという妥協である。これは、問題を先送りしただけで本質的解決には程遠い。中国製品が再び増加する懸念は強い。 セーフガードが使えるのは08年末まである。残り3年の間にEU繊維産業が有効な対応をなしうるか、大変疑問である。

EU委員会の不手際
  今回の繊維貿易問題で、EU委員会は6月11日の協定署名と7月12日の規制の発表との間の1ヶ月の処理を誤ったことで批判を受けた。この間に駆け込み輸入が急増したからである。各国政府もこれだけのライセンスを供与したことで責任がある。最終責任を誰が負うか、あいまいさが残った。結果として、EUは中国に頼み込むという権威を失墜する方策をとらざるをえなかった。

生き残りにかける各国
  他方、アメリカでは、輸入規制などの手段では限界があるとして、中国元の大幅切り上げを求める動きがさらに強まっている。日本のように中国、東南アジア諸国へ生産を移転してしまった国もあるが、中国元がさらに切り上げられるとなると、さらに対応が必要となる。

  グローバル化の荒波の中で、カンボディア、インドネシア、タイ、ヴェトナムなどのアジアの生産国々も、生存をかけて必死の努力をしている。カンボディアのように、中国と生産費だけで競争することを避け、労働基準を厳しくして中国のような苦汗産業ではないとの新たな評判を生み出そうとしている国もある。タイのように、「タイ・ブランド」の確立に躍起となっている国もある。押し寄せるグローバル化の荒波の中で生存をかける各国の対応は、いよいよ「待ったなし」の段階へ入った。

 

Reference

"A stich in time" The Economist September 10th 2005

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大西洋を渡った印象派

2005年09月13日 | 絵のある部屋

ジョン・シンガー・サージェント「森の一隅で制作するモネ」1885年*

 

ジョン・シンガー・サージェント「ヘレン・シアーズ」1985**

 大西洋を渡った印象派:ボストンとフランスの絵画

  今年の夏は予期しなかった時間とゆとりが生まれ、滞在するオックスフォードからロンドンへ出かけ、学生時代から「お気に入り」の場所として何度となく足を運んできた「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」RAを訪れた。今回、どうしても見たいと思った「海外の印象派:ボストンとフランスの絵画」Impressionism Abroad: Boston and French Painting と題する特別展が9月11日まで開催されていたからである。(実は、確か2003年に日本で同テーマで開催された時、多忙なこともあって見る機会を失っていた。)RAでは、このところ、運良く「キルヒナー:表現主義と都市ドレスデン、ベルリン」、「カラバッジョ:晩年10年間」など、見たいと思っていた展示に次々とめぐりあう機会があり、心が満たされた。今回は、イギリス人にも愛好家の多い印象派の特別展ということもあって、熱心に作品を見る人々が目についた。

特別展の背景
  この特別展には、ボストン美術館などから57点が展示されていた。その中には、ドガの「ロンシャン競馬場での競走馬」、マネの「辻音楽師」など、これまで他の特別展などでお目にかかった作品もあった。そして、かねてから真作を見たいと思っていた画家の作品が、いくつか出品されていた。いずれも大変美しい絵画で、心が洗われる思いがした。  

  そのひとつは、このブログにも書いたことのあるアメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェントの作品である。最近では、テートでもかなりの人気作品となっている、あの「カーネーション、百合、百合、薔薇」の画家である(「心に残る絵それぞれ(4)」2005年4月21日)。
  見たいと思った作品のひとつは、彼の親しい友人であったシアーズの娘ヘレンを描いたものであり、一目でサージェントの制作と分かる。また、彼がクロード・モネの野外における制作情景を描いた作品も見たいものであった。サージェントの作品については、彼の主たるジャンルであった著名人の肖像画よりは、印象派の影響を受けた作品の方が好みである。

  この特別展が企画されるについては次のような背景があった。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの都市の中で、ボストンは例外的に現代フランス、アメリカの絵画を収集していた。広くヨーロッパの美術事情に通じていたボストンの目利きの収集家たちがパリ、ニューヨークなどからフランスの印象派の作品を集めていた。 そして時の経過とともに、コロー、ミレー、ルノアール、モネなどの作品が、アメリカ人画家の作品と並べられるようになった。

アメリカの印象派画家
  印象派の流れを汲むアメリカの画家としては、ジョン・シンガー・サージェント、チルド・ハッサム Childe Hassam、ウイリアム・モリス・ハント William Morris Hunt、ジョセフ・フォックスクロフト・コール Joseph Foxcroft Coleなどがいた。これらの画家たちは、ほとんどフランスで暮らすなど、フランス印象派、バルビゾン派の世界を経験し、多かれ少なかれその影響を受けていた。
  1892年には、ボストンで初めてモネの作品展が開催された。当時、ボストンの収集家の一人アーサー・B.エモンズ Arthur B. Emmons は、モネの作品を26点近く所蔵していた。
  1870年に開設されたボストン美術館(公開は1876年)は、明らかにこうしたヨーロッパ画壇の流れを引き継いでいた。そして、同館の印象派絵画のコレクションは次第に増加していった。

フランスから学んだボストン
  肖像画家として知られたサージェントは、1876年にクロード・モネと初めて出会っている。そして、1885年にジベルニーに住むモネを訪れたサージェントは、親しくモネの制作場面に接することになる。サージェントがモネの仕事の光景を描いた「森の一隅で制作するクロード・モネ」(1885,テート所蔵)は、この時の作品である。印象派の技法を習得しようとしたサージェントの努力ぶりが、各所に見てとれて、なかなか楽しい作品である。モネから大きな影響を受けたサージェントはデニス・ミラー・ブンカーを含むボストンの画家たちに、印象派の考えや技法を学ぶことを勧めた。

ボストン名家の支援 
  さらにコローの影響などもあり、いわゆるバルビゾン派の画風もアメリカに浸透した。こうしてフランス印象派の思想や技法は、太平洋を渡り、ボストンを中心に次第に影響力を発揮するようになった。
  この背景には、サージェントの作品に描かれた少女ヘレン・シアーズの母親であるサラ・チョート・シアーズ Sarah Choate Sears (ボストンの名家で著名な画家・写真家でもある)などのパトロンたちのさまざまな支援もあった。
  今回の展示作品は、ベンソン、ブーダン、ブンカー、カザン、コロー、ドガ、ヘイル、ハッサム、ハント、マネ、ミレー、モネ、ピサロ、ルノワール、サージェント、ウエンデルなどによるものであり、個人所蔵のものなど実物を見る機会が少ない作品も含まれていた。ロンドンまで大西洋を越えてきた作品は厳選されており、大きな充実感をもたらしてくれた特別展であった(2005年9月11日記)。

* John Singer Sargent. Claude Monet Painting by the Edge of a Wood, 1855. Tate, Presented by Miss Emily Sargent and Mrs Ormond throuugh National Art Collections Fund, 1925

** John Singer Sargent. Helen Sears, Museum of Fine Arts, Boston,1895  

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オックスフォードの夏(2)

2005年09月05日 | 雑記帳の欄外
    地球温暖化の実態は、我々が予想しているよりはるかに深刻なのかもしれません。ハリケーンの災害に遭われたニューオリンズの方々には、心から同情します。そして、イギリスの夏がこれほど暑いとは。 

  過去にも1年以上居住したこともあり、アメリカと並んでなじみのある国なのですが、この暑さは初めての経験です。日中日射しの強いところに出ると、湿度は低いがじりじりと焼けるような暑さです。それでも、オックスフォードのシテイ・センターのあたりは、観光客を含めて渋谷・新宿並みの雑踏といってよいほど、混雑をきわめています。  

  コレッジを見物する観光客も数多いのですが、昔と違って見学料をとったり、ガイドのある団体ツアーだけしか見物を認めないという有名コレッジも増えてきました。見学自体を認めないコレッジもあります。確かに、静かな研究・勉学の場をぶしつけな見知らぬ観光客によって妨げられるのは、当事者の学生や大学側にとっては迷惑なことでしょう。それでも、一人4ポンドもとるコレッジもあり、見学料収入がかなり財源に寄与しているところもあるようです。そして、あの「ハリーポッター」ブームの影響もありありです。  

  現在、滞在している北部のサマータウンのあたりは、この暑さもあって軽井沢や蓼科さながら、避暑地のような趣を呈しています。整った住宅地にスーパーマーケット、いくつかの有名ブランド店なども含めて、日常生活に必要な物はほとんどすべて、シティセンターまで足を運ばなくとも入手できます。センターまで徒歩ではきついのですが、バスも数分おきに来るので苦になりません。  

  この地域に居住している人々は、やはり全体に高所得者、そして高齢者が目立ちます。美しい住宅の間には、高齢者用の介護ホームなどもあります。時々出かけるマークス・アンド・スペンサーの店の一角などには、ティーコーナーがあり、高齢な人たちがティー・カップを前に知人と話しながら、何時間?も過ごしている光景も見られます。  

  サマータウンは、道路沿いの並木も美しく、全体に緑も多く、気温もシティセンターのあたりと比較するとかなり穏やかな感じがします。  日中の酷暑も6時頃から急速に和らぎ、風のある日は時に寒く感じるほどです。9月5-6日は、この地域の大きな催し事であるSt. Giles’ Fairがあり、2万人といわれる観光客でごった返しました。教会のある中心部は、昼頃から縁日のように数え切れないほど多数の露店が出店し、観覧車や木馬など、いつ設置したのかと思われほど多数の遊戯施設がほとんど一夜にして出現しました。その規模は豊島園クラスか、それを上回る驚くべきものです。子供ばかりか大人も楽しそうに集まってきています。観光客だけでも2万人といわれています。文字通り、カーニヴァルのような状況になりました。オックスフォードの夏もそろそろ終わり、秋が駆け足でやってきています。
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繊維自由化をめぐるせめぎ合い

2005年09月04日 | グローバル化の断面
  このサイトでも度々報じたように、本年1月1日からの繊維製品の完全自由化は、たちまち先進国側からの抵抗を招き、輸入クオータ、自主規制などゆり戻しが始まってしまった。ところが、自由化後、予想を上回る(あるいは予想通り)の事態の展開に、対応策が追いつかない間に現実の貿易は容赦なく進行している。ヨーロッパ諸国の小売業者は安い中国製品で生き残りを図っていたところ、国境で輸入が差し止められ、滞貨が山積するとともに、店頭に商品がなくなってしまうという状況が生まれている。
  中国繊維製品の多くは、EUと中国政府が6月に暫定合意したばかりの数量上限をオーバーしており、国境で差し止められている。小売商の側からすれば、秋物商品はすでに発注したものであり、今になって差し止められては商品棚が空のままで、小さい店はつぶれてしまうとヨーロッパ委員会に強く抗議している。確かに、業界団体が言うように、支払いなどもすでに済んでいる商品も多いようだ。
  ここオックスフォードの衣料製品を扱う店をみても、品揃えが不足している印象を受ける。商品の生産地をみても、中国、スリランカなどの表示が目立つ。しかし、品数は少ない。
  ヨーロッパ委員会としても、難しい立場だが中国製品をなんとか受け入れざるをえない羽目になっている。
  他方、フランス、スペイン、イタリアなどの伝統的な繊維・ファッション産業を抱えるところは、自国産業の保護のためにも流入阻止を訴えており、どこで妥協するか予断を許さない。時間の経過は早く、来年の契約期が迫っており、関係者は対応に忙しい。
  ヨーロッパは繊維産業の要請も強く、アメリカと同様に中国に2008年までは自主規制を望んでおり、完全自由化を押し戻して、少しでも先にしたいと考えている。こうした抵抗がいかなる結果を生むか、理論的には結論は出ているものの、現実の世界においては難題が多い。

Reference
The Economist August 27th 2005
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