フランス語で講談ができるなんて考えもしなかった。ユニークな女講談師神田紅がフランス、ストラスブールで試みた短いTV番組*を見た。日仏交流150周年記念行事のひとつとして、神田自身が考えたらしい。
演題は「マダム貞奴」だった。貞奴(川上貞奴、明治4年ー昭和21年)は元来売れっ子の芸妓であったが、自由民権運動の活動家で、書生芝居の興行主でもあった川上音二郎と結婚し、波瀾万丈の人生を送った。経済的に急迫した川上一座とともにアメリカへ渡った後、ロンドン、パリなどで公演し、大成功を収めた。帰国後、帝国女優養成所を設立。日本の女優第一号といわれる。この貞奴の人生、なにかの折にその一部は聞き及んでいたが、ドラマ以上に劇的だったようだ。明治の人の構想、気概の大きさを思い知らされる。
神田はこの試みを実現するために、フランス語を特訓したらしい。紅の衣装に身を包んだ踊りも含まれていた。昨今、日本でもあまり聞くことのない講談だが、フランス人にはどう受け取られたのだろうか。フランス帰りした「貞奴」は、再び好意で迎えられたようだ。ロレーヌ探訪の途上訪れたストラスブールの光景が意外なことでよみがえった。
* 「講談師神田紅、フランス公演」2008年11月28日 NHKBS1 23:00
現代の日本人にとって、信じる宗教の違いのために、お互いに融和せず、反発し、憎みあい、果ては戦争状態となるという状況は、なかなか理解しがたい。イスラエル・パレスティナ問題あるいはイラク問題にしても、その根底にある相互不信の原因を正しく理解することはかなり困難だ。多くの場合、説明を聞いても、単に分かったような錯覚を得ただけに終わることが多い。
カトリックとプロテスタントの対立のように、16世紀あるいはそれ以前から続いている問題も少なくない。最近このブログで話題としている17世紀オランダの宗教対立もそのひとつだ。今日のメディアは、インド、ムンバイの同時多発テロ事件を伝えている。
たまたま北アイルランドで対立するプロテスタントとカトリックの人たちがお互いの不信、憎悪の源を話し合うため、あるNPO組織の仲介によって、スコットランドの自然の中にある宿舎で共に数日を過ごすという番組*を見た。「北アイルランド問題」といわれる根深い対立の当事者たちである。参加者のそれぞれが息子や親が相手方の武装組織によって銃殺された、あるいは殺したために収監されていたという複雑な過去を持っている。
憎悪が憎悪を呼び、重なり合ってさらに増幅するという関係が生まれている。旅に参加したものの、お互いに心の底を打ち明けて話し合うという場面は、なかなか生まれない。息子二人を殺されたカトリック信者の父親が、殺したプロテスタント・武装グループの一員であった男と真に理解し合うというのは、およそ難しいことだ。ただ、口をつぐんで座っている時間が過ぎる。
しかし、静かな自然の中で、参加者は少しずつではあるが、心の深部にあることを口にするようになる。最初は単なる憎悪のぶつけ合いに過ぎない。しかし、あるルールの下に興奮を沈め、一人ずつ落ち着いて発言を重ねるうちに、それぞれが抱く深いわだかまりが、少しずつではあるが解けてきたようだ。さまざまな思いが行き場を失って、全員が泣き腫らしたような目をしている。
そして、いよいよ宿舎を去る最後の日、それまで話し合うことすらしなかった二人の間に、かすかな交流の兆しが生まれる。それぞれが、お互いの立場を少しずつ受け入れる場が生まれつつあるようだ。問題氷解というには、あまりに遠い状態ではある。しかし、最初に宿舎に着いた時の相互不信に満ちた目は、いつの間にかなくなっていた。解決には程遠いが、なにかが変わってきた予感がそこにあった。
*「北アイルランド対話の旅」 2008年11月26日 NHKBS21:00
Johannes Vermeer, Saint Praxidis, 1655 (oil on canvas, 105.4 x 85.1cm) The Barbara Piasecka Hohnson Collection.
17世紀の宗教世界に少しばかり深入りしているのは、いくつか理由があってのことだ。実は書き出せばきりがないのだが、ひとつは、この時代の宗教間の対立と共存の実態に関心を抱いたことにある。17世紀は戦争の世紀でもあったが、ほとんどの戦争が宗教上の対立に関連していた。宗教という精神世界での対立は、この時代に生きる人々に今では想像できないほど多大な影響を与えた。美術家の制作活動も例外ではなかった。彼らは時代を支配する宗教とさまざまに折り合いをつけながら、制作をしていた。たまたまレンブラントやフェルメールについては、史料が多数残り研究も進んで、かなりの追体験や推測が可能になっているが、同時代の画家たちもそれぞれに生存をかけていた。ここで、フェルメールを取り上げているのは、この問題を考えるに、きわめて適切な材料が豊富に含まれているからにすぎない。
転機になった画家の結婚
前回記したように、ヨハネス・フェルメールの両親は、少なくも当時のオランダ改革教会の流れに身を置いていたようだ。改革教会の正会員ではなかったようだが、「緩いカルヴィニスト」であったのだろう。 フェルメールの転機は結婚とともにやってきた。画家ヨハネスと妻となったカタリナ・ボルネス Catharina Bolnes(ca.1631-88)とが、どこで、いかなるきっかけで出会ったのか、推測はできても本当のところはわからない。しかし、結婚に際して二人の宗派が異なったことが、かなりの障害となったことは顕著な事実のようだ。
ヨハネス・フェルメールは、ただ一人の姉が洗礼を受けた同じ新教会で幼児洗礼を受けていた(他には兄弟姉妹がいなかった)。改革教会(カルヴァン派)が家族の宗教だった。ヨハネスはそれについて、青年になるまでは深い疑問などを感じてはいなかっただろう。
フェルメールの実家であるデルフトの宿屋「メーヘレン」は、マルクト広場で新教会に対していた。これも前回記したように、父親は宿屋を経営する傍ら画商として絵画取引もしていた。若いヨハネスがここに来た画家や画商から、さまざまな情報を得ていたことは想像に難くない。しかし、画家ヨハネスが修業時代を含めて、デルフト以外にどこまで旅をしたのかは、一切不明である。ユトレヒト、アムステルダムくらいは行っていると思われるが、イタリアまで画業修行の旅をしたかは分からない。17世紀の画家で徒弟など画業修業の時期は記録がなく、空白であることが多い。出生の時は洗礼記録などでかなり確認できることが多いが、その後画家として世に認められる時までの記録はほとんど得られないのだ。若い画家ヨハネス・フェルメールと彼の妻になったカタリナ・ボルネスの出会いもほとんど明らかになっていない。
ヨハネス・フェルメールが結婚することを決めた時は20歳を越えており、徒弟などの修業をほとんど終えて、親方職人に向けて制作に没頭していた頃だろう。周囲の状況から推測するに、すでにその将来が期待される若い画家という評判が生まれつつあったようだ。この点は、地域はまったく異なるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの結婚した状況に似ているところもある。
他方、カタリナは貴族の家の出自で、ゴーダ(ハウダ)近郊の大地主の家に生まれた熱心なローマ・カトリックだった。 当時、異なった宗派に属する男女が結婚することはなかったわけではない。しかし、それぞれに難しい問題を抱えていた。
大きかった義母の存在
フェルメールの結婚に際しては、大きな障壁となったのは新婦カタリナ・ボルネスの母親マーリア・ティンスの存在だった。二つの文書がヨハネスの信仰問題について、解明の手がかりとされてきた。
ひとつは1653年4月5日付の公証人の署名が入った文書だ。フェルメール側のプロテスタントの船長 バーソロミュー・メリング Bartholomeus Melling とカタリナ・ボルネス側に立つ レオナルド・ブラーメル Leonard Braemerが証人となっている。二人ともヨハネスやカタリナとほとんど同世代の若者だったようだ。
マーリア・ティンスは熱心なカトリック信者だったが、この時は離婚・別居の状態だった。身持ちの悪い夫との20年近い家庭内のいざこざの挙句、夫をゴーダに残し、自分はひとりデルフトへ移っていた。
彼女の対応は、娘を改革教会派(カルヴァン派)の信者とは結婚させないようにとの地元の役人の警告にも支えられていたようだ。当初ティンスはこの結婚に同意しなかったが、デルフト市庁舎での結婚登録の担当者は、寛容でそうした反対理由を認めなかったらしい。
もうひとつの文書は1653年4月5日付でヨハネスとカタリナの結婚の登録を記録したものだ。デルフト郊外の小さな村スヒィプライ Schipluyで1653年4月20日、結婚にかかわる宗教的儀式を行っている。多くの専門家が4月5日から4月20日の間にフェルメールがローマン・カトリックに改宗したのではないかと推測している。フェルメールが義母マーリア・シンスの同意を確保するために改宗したのではないかという理由だ。義母が娘の結婚に反対することを公告にせず、耐え忍んだことへ対応したのではという推測だ。
スヒィプライという小さな村は、カタリナの実家があったゴーダから来たジェスイット(イエズス会)の司祭がおり、ローマン・カトリックの拠点になっていたようだ。当時のカトリック信者は、すでに公開の場でミサを執り行うことができなくなっていた。そこで、新婦の身内は、なんとかカトリックの儀式ができるこの教区を望んだようだ。この小村で新夫妻は納屋か私宅の隠れ教会でひっそりと挙式したようだ。
隠れキリシタン
フェルメールにとってカタリーナと結婚することを考えるようになってから、ローマン・カトリックは急速に切実な問題となったと思われる。義母のマーリア・シンスの家系はきわめて熱心なカトリック信者だった。家系のカトリック信仰の深さを示すひとつの例として、マーリアの妹エリザベスがルーヴァンで修道女になっており、その他の姉妹は結婚しなかった。 ネーデルラントでのカトリック信仰が公的には禁じられた後でも、自宅で密かにミサを上げていたようだ。こうした行為にはローカルのシェリフが介入したため、目こぼしを期待した付け届けが一般的に行われていた。
デルフトへ移ったマーリア・ティンスは、いとこで保護者としてゴーダ出身のヤン・ティンスが1641年に購入した家に住んでいた。この家はアウエ・ランゲンディク Oude Langendijk という通りにあった。そこはジェスイットがデルフトで最初の伝道教会を設けた場所と同じ通りで、カトリック信者たちなとが多く住んでいた。カトリック信仰が禁止された後は、隠れ教会がある場所として知られていた。単に信徒ばかりでなく、デルフト市の職員の間でも知られた存在だった。密かな宗教活動を黙認してもらうために、市の職員に年2000-2200ギルダーの賄賂が支払われていた。
プロテスタント側からは再三抗議があったようだが、こうしたサンクチュアリともいうべき隠れ教会は1550-1660年代にかけて、ジェスイット伝道教会の近くなどに多数開かれていたらしい。マーリア・ティンスの住んだ地域は、俗に「カトリック通り」 paepenhockとして周知の場所となっていた。
1641年にマーリア・ティンスのいとこがこの家を買った時、彼はおそらくデルフトのジェスイット信徒にミサなどのサーヴィスができる場あるいは学校など、賃貸料が得られるようなことを考えたのではないかと思われる。そして1641年ころまでに、フェルメール夫妻は、この場所へ移住する。なにがあったのだろうか。(続く)
「私のミドルネームは、私がいつか大統領に立候補するだろうとは夢にも思わなかった人間がつけたものだ」(大統領選の過程でのある慈善パーティで、アラブ系のミドルネーム「フセイン」についてのジョーク。ちなみに、オバマ氏のフルネームは、Barack Hussein Obama と、ミドルネームがイスラムとのつながりを思わせるものになっている(News Week, Oct. 29, 2008, Japanese edition)
新年の大統領就任式を約2ヵ月後の1月20日に控えて、オバマ氏の動きは大変めまぐるしくなっている。もちろん、アメリカが震源地となったグローバルな大不況は終息する気配はまったくみえない。それどころか、さらに悪化の動きさえ見せている。あれだけ熱狂した選挙の後の虚脱感も漂っている。間もなく政権を担う者としては、うかうかできないという事情があることはいうまでもない。
事態は急を告げている。長年にわたりアメリカを象徴してきた世界的自動車企業GMなどビッグスリーまでもが崩壊寸前だ。そして、いうまでもなくイラク戦争の行方はまったく見えない。目の前に立ちはだかる危機の大きさは、しばしば比較される1930年代大恐慌に十分匹敵する深刻なものだ。オバマ氏自身も大恐慌のさなかに大統領の座を受け継いだフランクリン・D・ローズヴェルトと比較されている。他方、ブッシュ大統領は惨憺たる形で退場を迫られることになりそうだ。こちらも、大恐慌になすすべがなかったフーバー大統領と同列に並べられている。
上に掲げた最近のTime誌(November 24,2008)の表紙、かのFDRのお得意のポーズだった。当時はこのようにオープンカーで遊説ができるほどの安全度だった。FDRはアメリカ歴代大統領の中でも人気抜群の大統領の一人だ。アメリカ国民の多くが、FDRにオバマ新大統領を重ねて「大いなる期待」great expectation を抱いていることが伝わってくる。
それにしても、近年の大統領の中ではオバマ氏は図抜けて行動的といえるだろう。あのビル・クリントンでも12月中には主要な役職の指名さえしなかった。オバマ氏は当選後の演説で、「一刻も待てない」 “We don’t have a moment to lose” と述べている。
「ティーム・オバマ」の編成は着々と進行しているようだ。オバマ氏が先日までマケイン候補以上に強敵としていたクリントン陣営の人材を、中枢に活用しようとしていることが伝わってくる。共和党系の人材登用の話もあるようだ。アメリカの危機を前に、政党、党派を分け隔てる壁は顕著に低くなった。うわさに上っているヒラリー・クリントン国務長官が生まれれば、これは最強の布陣になるのでは。賢明な二人のことだから、「両雄並び立たず」ということにはならないだろう。
大不況の克服と並んで、世界が最も期待するのは、オバマ新大統領のイスラム教国への対応だ。彼が演説の終わりにしばしば口にする「神よ、アメリカにご加護を!」God bless America の神が、もはやキリスト教の神にとどまらないことに、大きな期待をつなぎたい。アメリカも多神教の国になっている。アルカイーダは、オバマ大統領はイスラムの敵だと発表し、依然アメリカを敵視する姿勢を崩していない。新大統領と遠い祖先でつながっているイスラム世界への細い糸が世界を救うことを祈りたい。
FDRの山荘 Top Cottage の管理人の孫娘(5歳)と話すFDR。車いすのFDRの写真は、わずか2枚しかないといわれる。しかし、FDRは多忙を極めた日常の中、頻繁にポリオなど難病の子供たちを見舞っていた。(写真出所 Smith 1952)
References
’Change, What It Looks Like’ Time November 25, 2008.
Jean Edward Smith. FDR. New York: Harper & Row, 1952.
Johannes Vermeer. Christ in the House of Martha and Mary 1654-55 (?) Oil on canvas, 160 x 142 cm National Gallery of Scotland, Edinburgh
宗教改革後のネーデルラント(オランダ)におけるプロテスタント、とりわけカルヴィニズムとカトリックの関係は、厳しく抑圧された社会状況で信仰の選択がいかに行われるかという問題を考える際に、興味ある材料を提供してくれる。当時カトリックなど迫害の対象となった宗教各派のアイデンティは、いかに確保されたのだろうか。画家の制作活動にはいかなる影響があったと考えられるか。レンブラントやフェルメールなどの画家たちは、なにを考えて制作活動をしていたのか。この時代の宗教世界の状況をできるかぎり正確に把握しておくことが、作品の鑑賞の上でも新しい視点を開いてくれるような気がする。
スペイン支配への反乱
16世紀宗教改革において、ネーデルラントでは、ルター派の影響はあまり強くなかった。この地域は1560年代にカルヴィニズムの強い影響を受け、主としてカトリックからの改宗が進んだ。当時この地はカトリックのハプスブルグ・スペインの統治下にあり、フェリペII世は台頭するプロテスタントへの厳しい弾圧を実施し、異端審問の対象とした。当時のスペインは富と軍事力の双方で、世界最強を誇る一大王国だった。
こうした状況下で、ネーデルラントのカルヴィニストは、カトリックへの反乱を起こす。最初の反乱は1566年に南ネーデルラントの小都市に起こり、カトリック教会の聖像、聖人画などの徹底した破壊活動(イコノクラスム)を行った。その破壊のすさまじさは、今日においても実感できるほどの荒涼たる結果を生み、カルヴィニストの間にも行き過ぎの声があったほどであった。カルヴィニズムの創始者であるジャン・カルヴァンは当初フランスから追われ、各地を流転した後、ジュネーヴに戻り権力の座につき、そこを活動の中心とした。そして、カトリックあるいはプロテスタントの他の宗派に対して、きわめて苛酷で容赦ない対応をするようになる。聖像についてのカルヴァンの厳しい考え方は、より緩やかな対応をしたルターとは大きく異なっていた。
80年戦争の勃発
他方、スペインのフェリペII世は、アルバ公が率いる軍隊を派遣して、カルヴィニズムに対する容赦ない弾圧を実施し、ネーデルラントの独裁的支配の強化を図った。ここでカルヴィニスト側は、ついに武力闘争に立ち上がった。1568年にカトリック信徒から改宗したヴィレム・ファン・オラニエ公を指導者として、カトリック・スペインの支配からの独立を目指し、80年戦争(1568-1648)といわれる長い戦いが始まった。この時代の戦争は、現代のそれとは様相もかなり異なり、休戦期間が入ったりして、断続的であった。(1579年にはユトレヒト同盟が北部7州の間で結成され、1581年にはスペインからの独立を宣言した。)
この戦いの間にも宗教間の争いは進み、1572年には北ネーデルラントのホーラント、ジーラントは、カルヴィニストが圧倒するまでになった。この2地域では、それ以前からかなりの数のカトリック教徒が、カルヴィニズムへ改宗していた。カルヴィニストが圧倒的になった地域のカトリック教会は、カルヴィニズムの教会(オランダ改革教会)へと転換させられた。しかし、他の地域はほとんどがカトリック優位のままであった。
カルヴィニズムが国教化したネーデルラントでは、カトリックなどの他宗派がすっかり追放されてしまったような記述に出会うことがあるが、実際はかなりの寛容度が保たれ、多宗教・宗派が共存していた。その実態は時期や地域でかなり異なっていた。 80年戦争勃発前のネーデルラントでは、宗教的にはカトリックの影響が大きかったが、プロテスタント、ユダヤ教などにも比較的寛容な宗教風土が保たれていた。しかし、スペインとの戦争が激しくなるに伴って、カトリックに対するカルヴィニストの反感、敵意、憎悪も増大していった。カトリック教会の没収、破壊、司祭の追放などが行われた。
他方、多くのカトリック信徒はプロテスタントの拡大は一時的なものであり、再び自分たちの時代が来ると考えていたらしい。そして、いずれカルヴィニストの中にも改宗者が出るだろうと期待していた。しかし、現実には聖職者の国外追放などで、地方を中心に教徒の数は減少していった。そして、オランダ西部の都市ではドイツ、フランドル、フランスなどからプロテスタントの流入が目立ち、プロテスタントの文化がしだいに根付いていた。
この時代、ネーデルラントはローマン・カトリック布教の重点地域とされ、「ホーラント・ミッション」と言われるカトリック布教ミッションも活動していた。1635年頃にはオランダ共和国全体で2500人近くがカトリックへ帰依したという報告もあった。17世紀に入ると、イエズス会(ジェスイット)は、この地のカトリック信仰基盤を維持・拡大させたいと大規模な活動にとりかかった。全体にカトリックからカルヴィニズムへ改宗する傾向が強まっていたが、イエズス会が活動できる地域では巻き返しの動きもあった。フェルメールが活動したデルフトなどではいかなる状況であったか。大変興味を惹かれる点だ。
カトリックへの攻撃が激しかった地域では、聖職者が国外追放されたりした。彼らの中で活動的だった者は、ケルンのカルドシオ修道会 Carthusian St. Barbara Monasteryへなどへ逃げ込んだ。ここは、16世紀末の北ネーデルラントに居場所を失ったカトリック聖職者が頼りとした最重要なところだった。ケルンはアントワープと並び、当時のカトリック宗教改革推進のための出版センターでもあった。他方、聖職者が不足したデルフトなどでは、1570年代に神学校 Alticollense seminary を作り、地元において聖職者の養成を行うという試みもなされた(Parker 28-30)。
混沌とした宗教世界
全体としてみると、17世紀初頭ネーデルラントの宗教世界は、文字通り、混乱、機能不全ともいうべき状況にあった。しかし、1615年画家ヨハンネス・フェルメールの両親が結婚した頃には、プロテスタントがほぼ宗教世界での勝利を収めていた。オランダ改革教会 Dutch Reformed Churchに拠るカルヴァン派に加えて、ルーテル派、メノナイトなどのプロテスタント宗派が、カトリックが失った地盤を奪取しようと競っていた。
現実として、国家的布告ではカトリックは否定されていたが、宗教的自由はかなり認められていた。たとえば、ユトレヒトなどでは人口の多く、行政主体はカトリック教徒が占めていた。カトリックは地域の行政担当の役人を買収し、納屋や自宅などで秘密裏に活動を続けていた。役人に支払われた賄賂の標準額までわかっている。こうした苦難の時期を経て、ネーデルラントのカトリックが再活性化し、信仰主体として地盤を確立するのは17世紀中頃であった。
フェルメールの両親の結婚
画家ヨハネス・フェルメールの宗教的背景を知るには、彼の両親の宗教にまで遡って見ておく必要があろう。フェルメールの場合は、その家族や姻戚などの記録が古文書としてかなり残っていたこと、モンティアスなどの後世の研究者の努力などがあって、この時代の宗教風土を推測するに格好の事例となっている。
レイニール・ヤンスゾーン・フェルメール(alias;Vos, ca.1591-1652)とディフナ・バルテンス(ca.1595-1670)は、1615年アムステルダムで結婚した。花婿は当時は織物織工だったらしい。花嫁はアントウエルペンの出であった。式を司ったのはカルヴィニストの改革教会の聖職者だった。レモンストラントでデルフト新教会牧師が、デルフトの外での結婚について花嫁側の証人となった。この結婚は新夫妻が改革教会の信仰秩序の下に入ることを意味していたが、新夫妻のいずれも改革教会の正会員(聖体拝領の秘蹟を授ける儀式に参列できる)たる記録を残していない。さほど熱心なカルヴィニストではなかったことが分かる。ちなみに、フェルメールの祖母、叔母、曾祖母はすべて改革教会の正会員だった。式には当時一般に見られたカルヴィニスト、カトリック、レモンストラントなどが参加したものだった。こうした祝い事などの折は、宗派を問わず集まったようだ。
フェルメールの両親が生活の場としたデルフトでは、新教会Nieve Kerkが宗教・公的生活の中心となった。新教会は重要なカルヴィニストの家族にとっての交流の場であった。この教会にも1556年10月に最初のイコノクラスムの波が襲い、改革者たちは多くの装飾があった内陣を大きく破壊、変更し、聖人像などを破壊した。17世紀初めまでにすでに250年の歴史を持っていたこの教会は、1584年に暗殺されたヴィレム・ファン・オレニエ公という国家的英雄の墓所ともなった。
新教会と並んで旧教会 Oude Kerk もすでに1570年代にカルヴィニストが占拠し、聖像、聖人画などを撤去していた。このため、カトリック信者は公共の場でミサなどの宗教上のサーヴィスを受ける場を失った。こうした状況で、カトリック聖職者の間では、教会にかかわる奇跡などの伝承を布教のために生かそうと、かつて存在したマーリア・ジェッセ Maria Jesse など失われた聖像にかかわる奇跡の記録などが作成されていた(Parker 179)。
1620年にはフェルメールと唯一、姉弟の関係になるヘルトライが新教会で洗礼を受け、1632年10月31日には同じ教会でヨハネス・フェルメールが洗礼を受けた。ヨハネスには他に兄弟姉妹がなかったようだ。フェルメールの父親レイニールは、しばらくフォルデルスフラハトで「空飛ぶ狐」 De Vliegende Vos の屋号で居酒屋を兼ねた宿屋を経営しながら、画商もしていたようで、そのために1631年には画家・工芸家ギルド「聖ルカ組合」にも入会していた(この宿屋は後に聖ルカ組合の本部が置かれる場所となった)。その後1641年、マルクト広場に面した「メーヘレン」 Meehelen の屋号で知られる大きな家を購入、転居し、宿屋と画商を再開した。この年、後の画家ヨハネス・フェルメールは9歳だった。
1648年、ミュンスター協定で、オランダとスペイン間の戦争は終止符が打たれ、ウエストファーリア条約が締結され、ヨーロッパ諸国は、オランダの独立を承認した。
1652年にはフェルメールの父親レイニールが死去。宿屋の経営と画商の仕事は唯一の息子ヨハネスが継承したと思われるが、日常の仕事は母親がしていたのかもしれない。この時、ヨハネスは20歳であり、すでにどこかで徒弟修業を終わり、画家としての独立の道を歩んでいたと思われる。
(続く)
大学生の間での大麻の吸引や栽培が、メディアで大きな注目を集めている。想像以上に、かなり広範囲にわたっているようだ。ついに大規模な麻薬禍が日本にも押し寄せてきたかという思いがする。かなり長い間、国境にかかわる問題を考えてきたが、この10数年、アメリカ・メキシコ国境における最も深刻な問題は、不法越境者による労働の側面ばかりでなく、それ以上に国境を越えてアメリカへ不法に持ち込まれる麻薬のもたらす犯罪や害悪にかかわるものだった。
コカインなどの麻薬は、ボリビア、コロンビアなど南米や中米の秘密の生産地から、メキシコを経てアメリカへ持ち込まれ、世界の他の地域へ送り込まれてきた。そればかりでなく、麻薬取引にかかわる犯罪の増加がアメリカ、メキシコ両国にとって大きな安全保障、政治的課題として急速に浮上・拡大してきた。今年10月だけでも、国境密貿易に関わって150人以上が死亡している。
10月25日には、メキシコの麻薬捜索の特別部隊によって、この密貿易の組織のひとつ‘ティファナ・カルテル’の手配中の5人の首謀者の一人が逮捕された。しかし、衝撃的であったのは、そのわずか2日後にメキシコ政府側で組織犯罪摘発にかかわるグループの多数の高官たちが、ティファナ・カルテルの競争相手の大組織に捜査情報などを流していたことが判明した。この組織は、世界最大の密貿易グループの一つとされている。さらに、11月4日には、メキシコのモウリニョ内務相らの乗ったヘリコプターが墜落し、乗員全員が死亡するという事故があり、密輸組織の報復ではないかと噂されているほどだ(メキシコ政府筋は否定しているが)。
メキシコ国境に近い都市ティファナは、こうした密貿易マフィアと両国の警察・軍隊などのグループが、陰に陽に衝突している拠点である。この国境が密貿易の場と化していることについては、いくつかの理由がある。アメリカという大市場へ持ち込めば、国境を越えるだけで麻薬の生産者、売り手や仲介業者にとっても巨額な利益が生まれる。アメリカを経由して多くの国へ売り捌かれる。
この売り手、買い手の間に介在するのが、麻薬マフィアの存在だ。彼らは麻薬という違法な取引を仲介するために、世界に広くネットワークを張り巡らす。さらに、警察などの介入を回避するために、地元の警察や軍隊を買収する。メキシコの場合、長い年月の間に犯罪組織は警察や政治組織の上層部まで手を伸ばし、贈収賄、脅迫などの手段で買収してしまった。そのため、麻薬捜査に当たる関係者のどこまでがクリーンなのか疑心暗鬼を生み、捜査をきわめて難しくしてきた。
メキシコ側だけの情報や警察力ではとても解決できないと見たメキシコ政府は、2年前カルデロン大統領の政権に移行後、アメリカの協力を依頼し、連邦麻薬禁止機関と警察などからの情報を得て、大規模な捜査・摘発活動に着手した。しかし、捜査はなかなか進展しなかった。その背後には、既述の通り、麻薬取り締まりの任に当たる検察上層部にまでマフィアの手が伸びていたからだった。
すでに1997年、メキシコの麻薬密輸の取り締まりに当たる陸軍最上層部の指揮官が不法取引組織と結んでいたことが判明していた。2000年にフォックス前大統領が当選したが、その政治は麻薬犯罪をの風土を助長してきた。カルデロン大統領当選後、麻薬組織への強い姿勢を恐れたマフィアによって、メキシコ連邦検察庁の上層部の何人かを暗殺された。今年に限っても麻薬取引にからみ少なくも4000人が殺害された。
これには、政府の強い姿勢がようやく功を奏し、影響力を持ち始めているからだとの見方もある。 2006年12月以来、48,000人の密輸業者が逮捕された。さらに、69トンのコカイン、24,000丁の火器などが押収された。メキシコ警察によると、これらの銃のほとんどは国境を越えたアメリカ側で購入されたものとのことだ。アメリカの民間における銃砲所持問題の根は深い。
カルデロン大統領のメキシコと、政権末期のブッシュ大統領のアメリカは、これまでになく協力している。1年前、ブッシュ大統領は麻薬撲滅作戦のために4億ドルを投入し、ヘリコプター、電子探索装置、人員訓練の必要性を連邦議会に要請した。議会は承認したが、未だ関連分野への支出はなされていないらしい。この問題も未解決のままにオバマ新大統領に引き継がれるようだ。アメリカ、メキシコばかりでなく、世界の安全と平和のためにも、こうした組織犯罪の撲滅を期待したい。グローバル化は不可避とはいえ、犯罪のグローバル化だけはなんとしても避けねばならない。
#アメリカ・メキシコ国境における不法越境、密貿易などにかかわる諸問題を鋭く分析した数少ない好著。
Sebastian Rotella. Twilight on the Line. New York: W.W. Norton,1998.
Reference
’Spot the drug trafficker’ The Economist. Novemver 1at 2008.
ひとつの追悼録*が目にとまった。スタッズ・ターケル Studs Turkel、
2008年10月31日逝去、享年96歳。
世の中で働いている人は、自分の仕事がどんなものであるかは当然知っている。しかし、他の人の仕事を本当に知っているのだろうか。彼(女)たちは、なにを考えて日々の仕事をしているのだろうか。たとえば、鉄鋼業の労働者、新聞配達、農業労働者、客室乗務員(以前のスチュワーデス)、売春婦、俳優、工場技能工、警官、映画評論家、タクシー運転手、床屋、歯科医、ウエイトレス、主婦、薬剤師、不動産屋、野球選手、元鉄道員、編集者、弁護士、消防士、神父・・・・・・。
われわれの知っていると思う他人の仕事とは、実は幻影なのかもしれない。実際、そうなのだ。実際に働いてみないと、仕事の真髄は分からないことが多い。 115の職業について、133人の実在の人々のインタビューをした記録を元にターケルは、ひとつの本を作った。1972年のことである。
スタッズ・ターケルのこの作品 Working(邦訳 『WORKING! 仕事』**)が刊行された1972年頃を思い出すが、まだカセットテープが登場しない頃のテープ・レコーダー、そしてタイプライターが、彼の仕事道具だった。ニュージャーナリズムは、これから始まったといわれた「仕事」だった。よくもこんな手間暇かかることをやってのけたものだとただ驚かされた。分厚い辞書のような体裁。しかし、読み始めると止められなかった。ひたすら読みふけった。
アメリカ社会を作り上げている一人一人の職業倫理ともいうべきものが伝わってきた。とはいっても、世の中のすべての職業はターケルといえどもカバーできるわけではない。ターケルが意識的に除外したという職業もある。具体的には、牧師(若い神父は入っている)、医師(歯医者は入っている)、政治家、ジャーナリスト、あらゆる物書き(例外は映画評論家)。この人たちの姿勢はターケルによると、自己陶酔以外のなにものでもない、とのこと。なるほど、思い当たることもある。彼の興味は、インタビューを行わないかぎり、なにも聞こえてこないような職業領域にあった。インテリは放置しておいても、勝手にしゃべると思っていたようだ。
ターケルは同じような手法で、かなり多くの著作を残している。「大恐慌」期についての仕事もある。1985年にはヴェトナム戦争を取り上げたThe Good War でピュリツアー賞を受賞している。彼は、自分の仕事にいくつかの使命を持たせていたようだ。ひとつは、仕事自体が失われてしまう前に記録しておきたいということ、特に8時間/日労働制度前の組合代表や公民権法成立に向けての人々の闘争記録である。もうひとつは、取材の対象となったひとりひとりの人間の尊厳を重んじたことである。一人のインタビューを、貴重でユニークなものとして大切に扱った。
インタビューではないが、まだ上院議員になる前のオバマ氏にもシカゴで会っている。まさかこんなに早く大統領に選ばれるなどとは、ターケルも思っていなかったろう。ターケル91歳の時であった。この人間を大切にし、過ぎゆく20世紀という時代の貴重な声を残した希有なジャーナリスト、作家、スタッズ・ターケルに哀悼の意を表したい。
主要作品
** Studs Terkel. Working, 1972 (スタッズ・ターケル 中山容他訳『WORKING 仕事!』晶文社、1983年)
Hard Times: An Oral History of the Great Depression.
Coming of Age: Growing Up in the Twentieth Century.
Division Street
America Race: How Blacks and Whites Think and Feel About the American Obsession
Voices of Our Time: Five Decades of Studs Terkel Interviews
The Good War, An Oral History of World War Two
Talking to Myself: A Memoir of My Times
*
Obituary: Studs Terkel. The Economist. Novemver 8th 2008.
*現代におけるロマ人の移民の実態は、17世紀銅版画家カロが描いたものとさほど変わりない。
移民(外国人労働者)の問題を考えるについては、マクロとミクロの双方について現実的な視点が欠かせない。国家的レヴェルでは整合しているかに見える移民政策も、地域などミクロの水準まで下りてみると、問題山積、未解決という状況はいたる所に見られる。マクロとミクロの政策が整合していないのだ。そのひとつの象徴的例が、最近のEU本部(ブラッセル)とイタリア(ローマ)の間の対立に見られる。
ブラッセルのEU官僚は、加盟国にとって最大課題のひとつである移民(外国人労働者)について、なんとか共通の政策を導入しようと努めてきた。いわゆるEU共通移民政策である。しかし、加盟国が置かれた個別の事情のために、各国の対応はなかなか足並みが揃わない。その背景には、特に最近のヨーロッパの人口移動の変化が反映している。たとえば、中東、東欧などからのEU圏への移動が増加し、受け入れ側国民との間で、さまざまな摩擦、軋轢が生まれている。
最近、注目を集めているのがイタリアだ。具体的には、ルーマニアから移住してきたロマ人(ジプシー、イタリアではズインガリと呼ばれている)への対応が焦点になっている。昨年来、ローマやナポリでの犯罪事件をめぐり、ロマ人移住者の仮設住居、キャンプなどへの現地住民の破壊行動、放火、警官による住宅の強制撤去などが目立っている。EUや人権団体などからは、現政権下ではロマ人が不法逮捕や一方的な暴力の対象になっていると非難されている。
昨年5月、イタリアのベルスコーニ政権は、不法移民を減らし、自国にとって望ましくないとみなす外国人を国外退去させることを目指す、強気な「安全保障」パッケージを導入することに踏み切った。しかし、この対応は、ブラッセルのEU本部から強く批判され、他方で現実面での対処が厳しすぎると反発を受けている。EU加盟国は、不法移民に厳しいルールを適用することが禁じられている。といってもすべて厳禁というわけではない。移民、住民など関係者の危険の回避など、状況によって例外が認められていないわけではない。これらの当事者の利害に関する政府の裁量いかんが、難しい問題を生み出す。
ベルスコーニ政権の政策が、不法移民に寛容なものか否かが議論の焦点だ。現在は、移民政策パッケージの中で、不法移民の取締りに当たる警官を支援する軍隊を確保する案だけが導入されている。少なくも来年1月まで3000人近い兵士が、市民の安全保障確保のためとして動員されることになり、国内15の都市部に配置されている。イタリアの都市では、彼ら兵士の存在が目立つようだ。
厳しすぎると問題になっている施策は、不法移民を最長4年間拘留する方針だ。ベルルスコーニ内閣の内務大臣ロベルト・マローニは10月15日の議会委員会で、今のところは罰金を科すだけで、拘留はしないとしている。収容所が一杯で収容能力がないからだという。マローニ大臣は、最重要な目的は移民の合法性に関する裁定を迅速化し、隠れた移民を不法とする措置を早めることにあるという。
問題は「隠れた移民」 clandestine immigrants が、しばしば入国に必要な書類をなにも持たないで入国しようとし、本当の母国以外のところから来たと主張することだ。しかし、イタリアに限ったことではないが、彼らが入国したいという国は、証明書類がないから認められないと却下する。結果として、彼らを送還する先の国がなくなってしまうことになる。アメリカ・メキシコ国境のように、越境者を国境の南へ送り返せば済むということにはならない。
この点に関連して、UN難民高等弁務官事務所のローラ・ボルドリーニ氏は「庇護申請者にとって最も大事なことは、証明書類を持たないで入国する者に課せられるいかなる罰からも除外されることだ。というのは多くの庇護申請者は書類を持っていないからだ」という。
マローニ内務大臣は、適切な生活の手段を持っていることを立証できないEU市民も自動的に強制退去の対象とするとのこれまでの方針を取り下げていない。これは、元来イタリアにいるルーマニアのロマ人を退去させる方策として導入された。しかし、この措置は人々の自由な移動に関するEUの立法に抵触するとの批判がかねてからある。EUは近々イタリアのこの対応を非難する会合を開催すると述べている。
マローニ内相は、正式に認可を受けていないロマ人(ジプシー)のキャンプを撤去し、ロマ人の強制退去を求めるという措置は継続するとしている。イタリア国内に90日以上滞在する者は、滞在許可を取得しなければならない。その際、最低限の所得を得られることを証明できなければ(ルーマニアのロマ人のように)EU加盟国であっても、extracomunitario(たとえば非EU国民)の名の下に、強制退去させられることになる。
ブラッセルのEU本部は、上述の通り、こうしたイタリアの対応に反対している。EU本部は加盟国が合意したEUのルールでは、よほど特別のケースを除けば、最低所得の設定あるいは好ましくない移民をEU加盟国の別の国に追いやることは認めていないとしている。こうした批判にイタリア政府も、2010年から全国民のパスポートに指紋押捺を求める方針などを打ち出してはいる。
ベルルスコーニ政権が考えねばならないことは、2年前に発効したEUの移動自由の指令は、EU市民に対して基本的にローカルな国民と同じ権利を与えることを定めていることだ。原則として同意しているイタリアだが、個別的問題となると、きわめて難しい局面に直面する。他国もイタリアの問題を「対岸の火」と見ていると、痛い目に遭うことも目に見えている。隣人の苦労を理解し、共に解決策を考えることだ。
共通移民政策が実現するためには、こうして押したり引いたりする政治的遣り取りを繰り返す苦難の道がつきまとう。どこに収斂するか、しばらく目を離せない。かつてイタリアは圧倒的な移民送り出し国であった。しかし、その後1970年代には受け入れ国に転換し、1980年代にはアフリカからの黒人出稼ぎ労働者とイタリア南部からの国内労働者が北部の工業地帯で、職の奪い合いをめぐるさまざまな紛争を引き起こしてきた。さらに、90年代にはアルバニアからのボートによる移民流入が大きな問題となった。
自国の力ではどうにもならないと見たイタリア政府は、送り出し国における雇用機会創出策(stay at home policy)の強化を主張していた。この考えは長期的政策としては、きわめて妥当な方向であった。しかし、体系的、組織的に企画され、実行されなければ効果は薄い。昨今の動きは、再び目前の問題にとらわれ、短期的視野からの政策へと振り子が戻っている。経済危機の進行が長期的視野からの政策を後退させないことを望みたい。
Reference
”When Brussels trumps Rome" The Economist October 25th 2008.
新しいアメリカの大統領が生まれるには、多くのドラマがあった。人種や宗教にかかわる偏見など、とてつもなく高い障壁を乗り越えるには、あの長すぎたと思う選挙過程に費やされた時間や労力も必要だったのかもしれない。すでに、多くの論評がなされている。様々な批判を超えて今はただ、アメリカはやはりすごい国だという思いを新たにする。
選挙結果を見つめる人々の表情からは、自分が選んだ候補への確信と期待、新しい歴史の形成に自ら参加しているのだとの熱気が伝わってくる。日本にはこうした光景が生まれないことを寂しく思う。
新大統領が、ホワイトハウスで飼うことを娘さんに約束した犬のことが、メディアで話題となっている。大統領も普通の人なのだという親近感を持たせる巧みな演出だ。犬は重要な役者だ。あのフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)の時も、愛犬が新聞記者の注目を集めた。
これから新年1月の就任式に向けて、新大統領が置かれた環境は、偶然とはいえ、1930年代フランクリン・D・ローズヴェルトが直面した状況とかなり似てきている。大恐慌の時と同様、ウオール街が金融危機の震源地となり、その影響は世界へと広がった。アメリカが関わる戦争に終息の兆しは未だない。新大統領は、アメリカそして世界の問題の解決を迫られる立場にある。明確な方向設定とリーダーの強い意志が必要だ。
バラック・オバマ新大統領やFDRの人生の生き方、考え方を見ると、逆境や苦難に耐えて生き抜いてゆく一人の人間としての確たる存在を知らされる。すっかりひ弱になってしまい、お互いに傷をなめあっているような今の時代の日本人には見出せないものだ。
「私の政策は・・・・・憲法のようにラディカルだ」。フランクリン・D・ローズヴェルトは、1932年の選挙キャンペーンの折にこう述べている。国民のためには、自らが属する社会階級の利害すらものともしないという気概だ。FDRは電力会社を国有化するのではないかといわれた時の言葉である。そこには、日本人が直感できない重みがこもっている。FDRの評伝は、70年を超える今日でも新たに書き下ろされ、出版されている。時代を超えて強く訴えるものがあるからだろう*。
FDRは、祖先がピルグリム・ファーザーズの一人としてアメリカに来たこともあって、愛国的であり、強い自信の持ち主だが、名門の家系にありがちなスノッブ的なところはなかったようだ。人当たりは柔らかなのだが、内に強さを秘めていた。フランクリンの友人レイ・モレイは、フランクリンには弛んだところがないとして、「怒ったとき、彼は強硬であり、頑固で、機知に富み、そして厳しい」とその精神的な強靱さを評価している。人間は平静な時よりも、興奮・高揚した時にその本性が出るようだ。
評伝が伝えるところでは、FDRは危機に直面した場合、驚くほど厳しい対応ができた人物だった。それでも多くの政策の本質と結果は、むしろ保守的なものだった。しかし、必要な時には人々が驚くほどの強い決断ができるラディカルとして、彼は古い秩序を作り直し、ジェファーソン以後、どの大統領にもましてアメリカの力を強めたといわれる。
他方、公的な生活以外ではかなり複雑な事情を抱えていた。これについては、やはり身体的な障害が根底にあったようだ。31歳で海軍少尉に任官するが、8年後ポリオにかかる。一時はかなり病状がひどいようだったが、幸い決定的に麻痺したというほどではなかった。しかし、下肢の麻痺は残り、補助器具なしでは歩行できなくなった。罹病後3年した1924年までに、彼は民主党の指導者のひとりとなる。
政治家にとって健康状態が万全でないとの風評は致命的となる。FDRはジャーナリズムのしつような批評にも耐えて、障害を問題とさせなかった。そして、なによりも考え抜き、心に決めたら動かない強い意志が彼を支えた。その強さが、1928年ニューヨーク州知事に、そして大恐慌の最中の1932年、大統領に選ばれるまでに押し上げた。
勇気、魅力、才気と狡知さ、隠された強さなどが、FDRをしてアメリカ資本主義を危機の底から救わせた。しかし、彼自身が語ったように、大恐慌を終わらせたのは、大戦に勝利したことが大きく寄与し、ニューディールが大きく成功したとは言い得ないようだ。オバマ大統領にとっても、アメリカがかかわる戦争を、これ以上の犠牲を伴うことなく早急に終わらせることが最重要課題だろう。
FDRは、ファシズムの危険を国民に辛抱強く説いた。国際政治の舞台での対応については、必ずしもうまく立ち回ったとはいえないようだ。この点は、チャーチルは老獪だった。他方、FDRはアメリカの大統領に忠告しようとした押し付けがましいケインズを「イギリスのインテリ」として斥け、パリの講和会議でもケインズを重要な立役者とはさせなかった。オバマ大統領は外交面でどんな手腕を見せるか、注目点だ。
FDRは、今日リンカーンに続く偉大なアメリカの大統領として評価されている。重大な身体的障害、大恐慌、そして大戦で試練を受けた。戦時、平和時のいずれにあっても政党、官僚、議会、メディアを通して巧みに働きかけ、アメリカを彼があるべきと思う方向へ導くあらゆる手段を使ったと評価されている。オバマ新大統領もメディアへの対応は、日を追って巧みになった。
新大統領の直面する課題は、FDRの時もそうであったように、アメリカばかりでなく、世界の命運に重くかかわっている。ホワイトハウスとの距離は、日本人にとっても格段に短くなった。明るさが見える新年を期待して待ちたい。
*
H.W.Brands. Traitor to His Class: The Priviledged Life and Radical Presidency of Franklin Delano Roosevelt. Doubleday: 896 pages, 2008.
Change We Can Believe In: Barack Obama's Plan to Renew America's Promise (Paperback), 2008.
Johannes Vermeer. Allegory of Faith, ca.1672-4, oil on canvas, 114.3 x 88.9 cm. New York: The Metropolitan Museum of Art, The Friedsam Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.
オバマ新大統領の当選演説を聞いて、さまざまなことを考えさせられた。そのことについては、いずれ感想を記すこともあるかもしれない。とりあえず強く印象に残ったのは、彼の当選は、アメリカという国にあった多くの厚い壁を壊す過程でもあったという点だ。多少、この国をさまざまな折に体験した一人の日本人としても、ついにここまで来たかとの思いで感動する。
アイルランド系カトリックであった J.F.ケネディ大統領当選の状況と似通っている点も感じられた。ケネディの場合は、アイルランド系とカトリックという厚い人種と宗教の壁があるといわれていた。もうひとつの近似点として。オバマ氏の選挙戦回顧の中に、JFKと同様に熱狂的な歓迎を受けたベルリンでの演説があった。そこでは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の壁を打破するという力強い言葉が聞かれた。ひとつの連想が生まれた。
このブログで時々取り上げている17世紀の画家たちの作品を見ていて気づいたことだが、画家そして、彼らが活動していた社会の宗教的風土が持つ重みだ。この点を解き明かさないかぎり、作品の深奥が見えてこない。たとえば、フェルメールやラ・トゥールの信じた宗教、宗派は、なにだったのだろうか。答はそれほど簡単には出てこない。
画家の制作活動と宗教
画家と信仰の問題は、直接・間接に画題の選択、描き方にかかわってくる。ひとつの例を挙げれば、フェルメールの晩年の作品『(カトリック)信仰の含意』Allegory of Faith. Ca.1672-74 が描かれた状況だ。フェルメールの制作歴の中では、少なからず<すわりの悪い>作品とされている。現存作品の中では、初期の作品といわれ、比較的含意が読みやすい『聖女プラクセディス』と『マリアとマルタの家のキリスト』(そして『ダイアナと侍女たち』)を除くと、ほとんど唯一、宗教的寓意が明瞭に意識されている。この絵の依頼者はいかなる人物だったのだろうか。カトリックの信仰者であったらしいことは推定できるが、フェルメールとはいかなる関係にあったのだろうか。
制作した画家フェルメール自身が、心の底で信じていた宗教・宗派はなんであったのか。この点が明らかになると、画家の作品世界にさらに踏み込めるかもしれない。他の作品の解釈も一段と深まる可能性がある。たとえば、仮に画家フェルメールが改宗してカトリック教徒になっていたとしたら、宗教色のない風俗画に特化するのは、当時のネーデルラントの社会状況で画家として生きるためには当然の選択となったはずだ。カトリック信仰と直接的につながる画題での制作は、カルヴィニズムを掲げる新教国となった当時のネーデルラントでは、少なくも表向きはできなかった。
しかし、この画家と宗教の問題を解明するには大きな難問が待ち受けている。フェルメールが生きた時代までは、400年近い年月を遡らねばならないし、個人が信じていた宗教という精神世界の問題である。ことはさほど簡単ではない。しかし、フェルメールは、幸いオランダ、デルフトという史料もよく保存された国、地域で画家としての活動をしていた。そして直接、間接に研究の蓄積もかなりある(ほとんど同時代ながら、戦乱、疫病、飢饉などで荒廃の極みを経験したラ・トゥールのロレーヌとは決定的に異なる点だ)。
17世紀ネーデルラントというカルヴィニストの国で、カトリックの信者はいかなる状態に置かれていたのだろうか。手元にある資料を見ながら少し考えてみた。ただし、美術史家ではない、ひとりのアマチュア美術愛好者としての管見にすぎないことをお断りしておきたい。しばしば例として挙げるフェルメールについては、特に記すことのないかぎり、この画家の生涯を原資料の発掘というきわめて地味な仕事を通して、しっかりと位置づけたMontias を思考材料としている。
フェルメールは、結婚を機にカトリックへ改宗したとの解釈はかなり有力だが、現存する史料からの推論であり、十分に確立されたものではない*。いわば、状況証拠からの推論である。信仰は個人の心の内面の問題であるだけに、教会登録記録あるいは個人の信仰告白など明確な証拠がないかぎり、それほど簡単に断定はできない。迫害を恐れ、自らの信仰をできるだけ隠していた人々も多い時代だった。
蓋然性という点からだけみれば、カルヴィニストの両親の下に生まれ育った画家フェルメール Johannes Vermeer が、カトリックへ改宗することは、新教国として独立した新生ネーデルラントでは、社会生活の上でも多くの問題を抱え込むことでもあった。多くのカトリック教徒がカルヴィニストとして改宗したり、国外へ逃げていた。そうした状況下で、フェルメールが改宗したとすれば、かなり特別な事情があったと思われる。
予想外に緩やかだった信仰選択?
最近はさまざまな分野での研究成果で、これまで不明だった領域にも少しずつ光が当てられている。たとえば、17世紀初め、厳格な新教カルヴィニズムで塗りつぶされたかに見えるオランダ社会においても、「オランダ・ミッション」Holland Mission **として知られるカトリック側の組織的な布教活動の具体的事実がさまざまに明らかにされてきた。ミクロ・レヴェルまで下りると、なかなか興味深い事実がある。
宗教戦争での勝利を経て、国教の地位を確立したカルヴィニズムの下で、カトリック信仰は少なくも社会的に表面には出られなくなった。公式には1580年代初期までに、オランダ共和国では、カトリックにかかわるすべての活動が禁止されていた。しかし、現実にはローカルな町や村ごとに、実態と対応はかなりさまざまであったようだ。カルヴィニスト、カトリック、メノナイト、ルター派などの間で、かなり流動的な宗教上の選択が行われる余地があったらしい。レンブラントの時代のユダヤ人の問題については、ブログでも少し記したことがある。サーエンレダムなどによって教会画といわれるジャンルで描かれた状況についても、多少記した。
苛酷なカトリックへの抑圧の時期
オランダ人は今日においては異文化に寛容な国民といわれるが、カトリック、スペインとの戦争状態にあった時は、当然とはいえ、状況はきわめて異なっていた。宗教改革でプロテスタント(カルヴァン派)からの直接的批判の対象となったカトリックへの攻撃は、オランダでは時に苛酷、苛烈なものとなり、教会内外の偶像破壊、信者に対する抑圧など、さまざまだった。
1572年、ヴィレム・ファン・オラニエ公を擁した北ネーデルラントは、スペインからの独立を求め、反乱を起こした。当初、ヴィレムは宗教面でも寛容さを示すが、カルヴィニストのカトリックへの敵意は強く、短命に終わった。1584年には、ヴィレムはデルフトの自宅で暗殺されてしまう。スペイン総督はヴィレムの暗殺のために懸賞金まで出していた。ヴィレムはオランダ独立のために、すべてを投げ打ち、清貧に甘んじた志の高い指導者だったようだ。結果として、カルヴィニストのカトリックへの攻撃はさらに強まり、教会の没収、破戒、司祭の追放などが行われた。
宗教間の争いは、17世紀に入ると、カトリック対プロテスタントの抗争にとどまらず、プロテスタント間の争いにまで拡大した。オランダ改革教会 Dutch Reformed Church に拠る保守的なカルヴィニストとルーテル、メノナイトなどとの対立である。彼らはカルヴィニストに追われたカトリックが失った部分を争奪にかかった。かくして17世紀初めの北ネーデルラントの宗教世界は、概していえば、混乱、機能不全ともいうべき状況であった。
カルヴィニスト宗派間の争い
紀半ばには、デルフトその他で、DRCのみが公的認知を受け、他のプロテスタントは抑圧の対称となった。そして、状況を複雑にしたのは、カルヴィニストの間にも分裂が進んだことだ。レモンストラント Remonstrants と呼ばれる寛容的な一派があり、アルミニウス Jacobus Arminius(1560-1609)をリーダーし、アルミニウス派と呼ばれていた。これに対してより正統なカルヴィニストがいた。彼らは反レモンストラントであり、コマルス Franciscus Comarus(1563-1641)を指導者としていた。両派の争点は、予定説 predestination といわれる問題、国家と宗教の関係などにあった。
こうした宗派間抗争の結果、アルミニウス派は、デルフトその他の地で、ローマン・カトリックに包含される。ネーデルラントの国家布告ではカトリック信仰は否定されたが、それまでの継続もあって現実には宗教的自由はかなり認められていた。ユトレヒトのような地域では、人口の多く、そして行政主体もカトリックのままに残されていた。
もちろん、カトリック側は抑圧や攻撃を回避するために、さまざまな手当てをしていた。地域の保安官 sheriff に心づけを与え、納屋、倉庫、自宅などで宗教儀式を行っていた。厳しい逆境に置かれながらも、オランダのカトリックはいつか環境が改善されるまでとひたすら、礼拝、教育を続けていた。
デルフトに住んでいたフェルメールと家族、姻戚たちを取り囲む宗教的状況は、いかなるものだったのだろうか。連想が広がってゆく。
References
*
日本語文献については、次に簡潔、的確な説明、推論がある。
小林頼子『フェルメール論』 八坂書房、2008年
最近の研究成果については:
Valerie Hedquist. 'Religion in the Art and Life of Vermeer' The Cambridge Companion to Vermeer, Edited by Wayne E. Franis.Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
本書は、フェルメールに関心を抱く者には、John M. Montias.Vermeer and His Mileau: A Web of Social History, 1989 と並ぶ必携の書だろう。この画家に関する基本的情報が豊富に含まれている。ちなみに、Montiasの労作なしに、今日のようなフェルメール研究の進展はないといえる。
**
Charles H. Parker. Faith on the Margins. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 2008.
Vilhelm Hammershoi(1864-1916)
Interior with Ida Playing the Piano, 1910
Oil on canvas, 76 x 61.5 cm
Thr National Museum of Western Art, Tokyo
晩秋の一日、かねて予定していた「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」に行く。上野駅公園口を出ると、かなりの人混みだ。しかし、ほとんどの人は西洋美術館の前を通り過ぎて行く。お目当ては東京都美術館の「フェルメール展」や国立博物館の「大琳派展」らしい。喜んでいいのか、嘆くべきか。
館内に入ると、後援の日本経済新聞社などが、かなりPRしていたことなどもあってか、まずまずの数の観客ではないだろうか。いずれにせよ、混雑の中で観る作品ではない。
ハンマースホイという画家の絵具箱には、赤や黄色はなかったのではと思わせる。展示後半に画家が使用したパレットの写真が掲げられていたが、やはり明るい色は置かれていなかった。一貫して暗色の多い作品ばかりだが、静穏な雰囲気に満ちていて落ち着いた気分になる。作品全体を通して見ても、暗くて憂鬱になるということはない。
ハンマースホイは、光と空気を描き出すのに大変長けた画家だ。部屋が明るくなるような絵ではないが、自宅の居間などに一枚あればきっと心が落ち着くと思う感じの作品が多い。時が止まったような空間に、使い込んだマホガニーの家具、ピアノやチェロの色が映えている。画家夫妻が住んだストランドゲーゼ30 (Strandgade 30) のアパートメントに実際に置かれていた。しかし、異なるのは、細部までリアルに書き込まれているようで、テーブルの脚がどうも1本(2本?)足りないような不思議な作品もある。パンチボウルも実物より大きいようだ。展示作品は個人蔵が多い。日本にも数点あるようだ。きっと熱心な愛好者なのだろう。こうした機会でなければ見られないものも多い。
東京の前に開催されていたロンドンRA展が「物語のないありふれた風景」 The Quotidian View without Narrative と形容したように、どの一枚をとっても、そこに切り取られた空間を仮想体験するような不思議な作品が多い。とりわけ室内を描いたものはそうした印象が強い。100年前のフェルメールといってもよいような感じも受ける。
この画家、パリやローマへ旅をしても、あまり彼の地に関する作品は残していないようだ。太陽がまばゆいイタリアの光は、この画家の目にどう映ったのだろうか。むしろ、ロンドンのスモッグで霞んだような風景の方がお好みのようだ。そして、やはり最後に残るのは、北欧コペンハーゲンの光なのだ。
RA展と比較して、今回の東京展では、最後の部分に「同時代のデンマーク美術」と題したセクションが設けられ、ピーダ・イルステズとカール・ホルスーウという、ハンマースホイとほぼ画風を同じくする画家の作品が20点近く出展されている。前者のイルステズについては、出展作品14点中、11点を国立西洋美術館が所蔵している。ハンマースホイについても「ピアノを弾くイーダのいる室内」(上掲)と題する1点は、最近当美術館の所蔵になった作品であり、ロンドンRA展にも出展された。昨今、借り物ばかりの企画展が目立つ中で、美術館の主体性が感じられる企画で少しほっとする。きっと学芸員で慧眼の方がおられるのだろう。いずれにせよ、これまで日本ではほとんど知られていなかった希有な画家の作品紹介を企画された美術館に敬意と拍手を送りたい。
#2008年11月16日NHK新日曜美術館『北欧のフェルメールといわれた謎の画家・沈黙の絵』