時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

メキシコからの不法入国者:難しい評価

2005年10月31日 | 移民政策を追って

  アメリカの移民政策における最大の課題は、メキシコとの国境を越えて流入する不法な移民への対応である。10月25日のブログにも書いたように、不法入国者(移民)について、多くの先進国は大変神経質になっている。アメリカでも、この点について、小規模ではあるが、最近ひとつの世論調査が行われた。今後の動向を知る上で、参考になるので紹介してみたい。

  アメリカ共和党系の保守主義者の考えは、「われわれの壊れた国境を直せ、不法入国者にアムネスティを与えるな」という方向である。そうした考えが生まれる背景については、このブログでもとりあげてきた。これは、事実としてはアメリカ国内に居住する推定で11百万人ともいわれる不法滞在者を想定してのことである。

現実的な共和党支持者たち
  最近行われたManhattan Instituteによる800人の共和党支持と思われる人々への世論調査では、「妥当な線上での現実的な移民改革を望み、就労条件つきの移民受け入れプロセスと国境安全保障の拡大」を希望する人が多数を占めていた。 彼らは不法な移民入国者の数が多すぎると考えているが、共和党議会派のリーダーシップによる立法化、強硬ラインには反対している。そして実際には将来、完全なアメリカ市民への道に向けて、不法入国・滞在者を位置づける方向を支持していると思われる。

世論調査は
共和党支持者と思われる者の世論調査について見てみよう。
「アメリカの受け入れる合法的移民の数についてどう思うか」という質問には:   
  現状水準の維持          33%
  引き上げるべきだ           7%
  引き下げるべきだ            36%
  受け入れを中止すべきだ 16%

不法移民については:
  市民権取得につながる法的地位を与えるべきだ 賛成77%*
  市民権取得の可能性は与えないで合法化する  賛成24%
*労働、税支払い、英語の学習などについての条件付で
Source: Manhattan Institute 

ブッシュ政権の政策との関係
  こうした世論調査の結果はブッシュ大統領とその取り巻きに力を与えたようだ。彼らは、国境警備を厳しくして不法移民を減少させつつ、すでに合衆国内に居住している不法移民については、上記のような一定条件つきで市民権を与える道を開こうとしている。条件に合わない移民は送還するという路線である。国土安全保障省の局長マイケル・チェルトフ は「大統領の考える政策目標はどの不法入国者にも例外なく当てはまる」と述べ、1年以内にこの方向で進展させることを約束している。

  他方、一般議員はチェルトフよりは常識的な考えを持っている。アメリカのすべての不法移民を送還するなど非現実的な世迷いごとだと考えている。  

  最近のPew Hispanic Centerのレポートは、合法・不法を問わず、移民はアメリカ経済の健康状態と平行して動く潮流のようなものであると記している。この点についてみると、1990年代前半では移民入国者は年1100万人であった。1990年代後半には1500万人へ、2002年には1100万人水準へ、その後は1200万人へと増加している。

  メキシコからの移民労働者は、この移民全体のおよそ3分の1を占めている。アメリカ経済がピークだった2000年には、53万人が北へ向かった。2002年に、アメリカで41.5万人の職が失われた時には、メキシコからの移民は37万8千人へ減少した。

「飴と鞭の政策」 
  この潮流は逆戻りしなかった。アメリカ経済が低調なときにも移民は入ってきた。1970年に外国生まれの比率は9.6百万人だったが、2000年の国政調査までに31.1百万に拡大した。アメリカの入国管理政策が適切に機能していないことは、不法入国者が合法入国者を上回ることで分かる。こうした状況で、ほとんどのアメリカ人は不法移民への政策は、「飴と鞭」の組み合わせと考えているようだ。

  マンハッタン研究所の保守派を対象としたアンケートの72%は、国境管理を強化し、不法就労者を雇用する使用者を罰するいわゆる「使用者罰則」(同時に不法就労者に罰金支払いの上で、就労許可と市民権への可能性を与える)を伴う改革プランを支持している。5分の1だけが、より厳しい方向に支持を与えている。 「使用者罰則」は、運用の仕方にもよるがこれまでもあまり機能していない。

  アメリカにいる4100万人のラティーノの経済的成功も世論に影響する。ゴールドマン・サックスはラティーノの貢献を示唆し、次の25年間にはアメリカの3分の1はラティーノが取得するだろうと予想している。経済的貢献は歓迎するが、移民がこれ以上増えることは望まないというのが、多くのアメリカ人の見方である。 どこで折り合うか。アメリカの移民政策は政治的要素がその行方を大きく左右してきたし、今後もそうだろう。

Reference
”Evidence for the defence”, The Economist, October 22nd, 2005

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/67d65e5d55ae20ac5a8e7e0ef06408e7
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/554e8c02df25348c39bdd574c9490047

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ゼーバルト『移民たち:四つの長い物語』

2005年10月28日 | 書棚の片隅から

W.G.ゼーバルト(鈴木仁子訳)『移民たち:四つの長い物語』(白水社、2005年) W.G.Sebald.Die Ausgewanderten: vier lange Erzahlungen,Frankfurt am Main, Eichborn AG. 1992.

ゼーバルトとの出会い
  ゼーハルトという作家の名前は、『アウステルリッツ』という特別な響きを持った表題の作品を読んで以来、頭のどこか片隅にいつもあった。この重い印象を残す、それでいて素晴らしい作品は、読んでいる間不思議な力で私をとらえてはなさなかった。今回、『移民たち:四つの長い物語』に接して、なにか遠い霧の中から昔の記憶が急速によみがえってきたような気がした。


  作品は4人の移民の現在と過去をめぐる話から構成されているが、ストーリーのどこまでが真実で、どこが虚構なのかも分からない。ある部分はきわめて鮮明に描かれていたり、別の部分はあいまいな霧の中に隠されている。全編が語り手と聞き手の対話のような体裁をとって進行する。語り手の方は多少なりとも世の中では変人の部類であり、世俗の世界から距離を置いているようなところがある。そして、読み進めるうちに
誰が話し手で、誰が聞き手であるかが混沌としてくる。

不思議な二人の人物 
  この両者の関係を考えていると、図らずもこのブログでも取り上げたトルコの現代作家オルハン・パムクの作品を思い浮かべてしまった。あの主人公と作者の分身ともいえる二人の人物の関係、霧の中に存在するようなイスタンブールのイメージ、そしてこのゼーバルトの『移民たち』に掲載されている多数の写真も、『イスタンブール』のそれと同様にすべてモノクロなのだ(『アウステルリッツ』に挿入されている写真も同じである)。本文といかなる関係があるのかも、分からない。実際、ほとんどなんのかかわりもないとさえ思えるのだ。なにしろ、金閣寺の写真まで出てくるのだから。といって、少し読み進めると、そこに挿入されているのも、ふさわしいかなと思わせる不思議な存在である。

  移民の物語というと、ともすると旧大陸ヨーロッパから新大陸アメリカへの移民の話かと先読みをしてしまうが、そうばかりではない。大陸からイギリスなどへの移民の話が主となっている。

雲の低く垂れ込めたノリッジへの旅
   『移民たち』に登場する4人の人物、医師、教師、大叔父、画家の人生は、過去と現在を行きつ戻りつして描かれている。読み進めるうちに、自分のたどった人生と重なる部分も見えてくるような気すらする。

  本書に登場する最初の人物である医師ドクター・ヘンリー・セルウィンを尋ねた聞き手は、1970年9月にイギリス、イースト・アングリアの町ノリッジへの赴任を間近に、ヒンガムまで足をのばした。実はまったくの個人的経験であり、偶然なのだが、私も1995年の秋にこの地を訪れたことがあった。若い友人二人とケンブリッジから車を運転して行った。今でもはっきりと覚えているが、地平線の彼方まで重い雲が垂れ込めたような、日の光をまったく感じさせないような日であった。

事実と虚構の間 
  このセルウィン氏は、20世紀初頭に、リトアニアからイギリスへと移住してきたユダヤ人であった。彼は、医師であるとともに登山家でもあった。そして、最後は自分の猟銃で自殺する。

  この章は、セルウィン氏の友人でもあり、1914年の夏以来、行方を絶っていたベルンの山岳ガイド、ヨハネス・ネーゲリの遺骸が72年の時を経て、オーバーアール氷河の氷上で発見されたという新聞記事で終わる。しかし、ここに挿入された新聞記事の写真が、事実か虚構かはよく分からない。こうして、過去は思わぬ形をとって今によみがえって来る。

  ゼーハルトはノーベル文学賞をいずれ授与されるだろうといわれていたらしい(この点は、図らずもオルハン・パムクと似ているところがある)。しかし、住んでいたノリッジの近くで、自動車運転中に事故死する。薄暗く低く立ち込めた雲と地上との間に挟みこまれたようなイーストアングリア、ノリッジへの自動車の旅を思い出した。

自ら選んだ道なのだろうか  
  3番目のアンブロース・アーデルヴァルト叔父の話の部分では、ニューヨークのデパート「サックス」で困っている日本人を助けた話まで出てくる。そして、大叔父が晩年を過ごしたニューヨーク州のイサカを尋ねる旅もある。叔父は自らの意思で、この地の精神療養所で晩年を過ごした。

  聞き手でもある語り手は、ヨーロッパからはるばるこの地を訪ねる。大叔父はここの精神病院(サナトリウム)でファーンストック教授という過去のある医師の下で、電気ショック療法を受け、思考の能力、想起の能力を根こそぎ、二度と戻らぬまでに消したがっていたという。   

  私事にわたるが、このイサカの地は図らずも私が若い頃のひと時を過ごした場所でもあった。しかし、そこにサナトリウムがあったとの話はついぞ聞いたことがなかった。先住民や移民の故郷につながる珍しい地名が多い。本書の追憶にも、オウィーゴ、ホークアイ、アディロンダックなど、なつかしい地名が各所に出てくる。なにか、遠い過去への旅をしているような思いがした。イサカ滝(正しくはトガノック・フォールズ)の轟音まで聞こえてくる。事実、この滝はアメリカの東部で最も落差があることで知られている。そして、イタカという語源となったあのギリシャの地への旅まで出てくるにいたっては、どこまでが真実なのかとさえ思ってしまう。

  そして、この大叔父アンブロースの章は、彼がアメリカへ渡る前、エレサレムへの旅から帰っての備忘録で終わっている:

「記憶とは鈍磨の一種だろうかとたびたび思う。記憶をたどれば、頭は重く、目は眩むのだ」(157)

  そして、ついにコンスタンチンノープルまで登場するにいたって、言葉を失った。パムクとの通奏低音のようなものが聞こえてきた。20世紀中ごろ、人類の歴史におけるあの暗い記憶が、作品を通して流れてもいる。移民は単に母国と目指す国という地理的関係ばかりでなく、過去と現在という次元を行きつ戻りつする存在なのだ。 ゼーハルトは、読者の記憶のどこかに必ずとどまっているのだ。

コメント (2)
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ラ・トゥールを追いかけて(44)

2005年10月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 


カイガラムシの生息状態

ラ・トゥールのパレット:コチニールの謎(2)

謎の正体
  謎に包まれていたコチニール(鮮紅色)の原料は、実はカイガラムシDactylopius cocousの一種であった。南アメリカ、メキシコなどでサボテンの一種にに生息する。正確にはカイガラムシの雌であり、当初は体長5ミリくらいでサボテンの樹液で生きている。受精後、体長は大きくなり、蝋状の白い液を体表面に付着する。そのため、大きなサボテンに白い粉を散布したように見える。
  体内にはカーマイン酸の濃い紫色の液が蓄えられている。 カーマイン酸からはクリムソン(濃赤色、深紅色)の染料が抽出できる。コチニールはこのカイガラムシを採取して、加工することで作られる。コチニールはこのカイガラムシにちなんで名づけられた。

染料の生産工程 
  メキシコなどのコチニールの生産者は、通常生まれて90日後くらいでカイガラムシをきわめて労働集約的方法で採集する。採集された虫体は普通はローカルな加工業者へ売られる。虫体は熱湯に漬けられ、その後天日や蒸気などで乾燥される。その後、カーマインを分離するために粉末にされた虫体は、アンモニアかソーダー灰(ソディウム・カーボネート)液で煮沸される。
  不溶解部分をフィルターし、赤いアルミニウム塩を沈殿させるため明礬が加えられる。製法によって色調が異なるが、通常濃赤色のクリムソン染料が抽出される。スカーレットからオレンジなど色調も幅広い。しかし、1キログラムのコチニールを作るためには約155,000の虫体が必要とされる。 このため、後年、自然環境保護主義者の反対の標的ともなった。

長い歴史を持つ染料
  コチニール染料はアズテックおよびマヤで使われた。モンテズマによって15世紀に征服された11の都市は、毎年2000枚の装飾された木綿のブランケットと40袋のコチニール染料を献上させられたといわれる。植民時代、メキシコはコチニール染料を輸出用に生産する唯一の国であった。

  17世紀メキシコに来たスペイン人征服者は、コチニール染料の鮮明な赤に魅惑された。それは旧世界のどの色より鮮やかだった。金、銀に次ぐ貴重な品となり、スペインはこの染料を独占し、宿敵のイングランドへは貿易でも譲らなかった。 コチニールは重要輸出品としてメキシコからヴェラクルスを経て、スペインを経由、ヨーロッパへ輸送された。その後、各国に再輸出され、ロシア、そしてペルシャにまで送られた。18世紀においては、染料産業は経済的にも重要な地位を占めた。ヨーロッパ市場がこの染料の品質に気づくや、コチニールの需要は劇的に増加した。

  メキシコのワハルーカとその後背地は、17-18世紀の繁栄をコチニール貿易によって享受した。その後、コチニールはペルーやカナリー諸島でも生産された。

  コチニールから作られた真紅のカーマインは、マッダールート、ケルメス、ブラジル蘇芳などのヨーロッパの顔料との競争になった。カーマインは王や貴族、聖職者などの衣装の染色に使われた。工芸品やタペストリーなどにも使われた。コチニールで染めた羊毛や木綿は、とりわけ原産地メキシコ人の芸術には欠かせないものであった。

 今年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品ではないかとうわさになったあの聖ヒエロニムスの赤い衣も、コチニール・カーマインで描かれたのではないだろうか。

人気の絵具
  ヨーロッパ絵画の世界では、中世を通して、初期の画家および錬金術師のハンドブックにカーマインの使用法が記されている。カーマイン・レークは、ヨーロッパの油彩でミケランジェロからフランソワ・ブーシェ、デュフィ、セザンヌ、ブラックなど多くの画家の間で使われている。

  ラ・トゥールの工房でもカーマイン・レークが使われていたことは、ほぼ確かだろう。フランスは最大の消費国であり、高価ではあったが品質が安定しており、画家の間でも人気があった。水溶性でもあり、使いやすかったことも理由のひとつだろう。

  伝統的にコチニールは繊維染料に使われてきた。植民時代、南アメリカへの羊の導入で、コチニールの使用は増加した。この染料は最も鮮明な色であり、羊毛(ウール)染色に大変適していた。時代が下がって、今日でもイギリス陸軍の赤いコートやロイヤル・カナディアン・騎馬ポリスのコートはコチニール赤で染められている。

コチニールの時代の終焉
  1810-21年のメキシコ独立戦争の後、コチニールの生産地としてのメキシコの独占は終わりを告げた。コチニールへの需要も19世紀スウェーデンヨーロッパで発明されたアリザリン・クリムソンその他人工染料の登場によって減少した。
  微妙な手作業を必要とするカイガラムシの養殖は、近代的産業には太刀打ちできなかったし、コストも高かった。 20世紀になると、コチニール・カーマインの使用もほとんどなくなった。その後、コチニールの養殖は需要に見合うためというよりは伝統を維持するために継続された。しかし、近年、商業的にも再び見直されるようになる。その主たる理由は非有害、発ガン物質ではないことによる。今では繊維、化粧品、天然食品、油絵具、ピグメント、水彩絵具などに使われている。

  コチニールはその後も商業生産されており、ペルーは年間200トン。カナリー諸島は20トンくらいを生産する。最近ではチリーとメキシコが再び生産者として参加している。フランスは世界最大のコチニール輸入国と考えられてきた。しかし、日本とイタリアも直接輸入している。こうした輸入品は加工の上、かなりの部分が再輸出されている。2005年時で、コチニールの価格はキログラムあたりUSドル50-80.他方、合成の食品用染料はキログラムあたりドル10-20ドルくらいである。
  コチニールの謎は解けた。再び、謎の画家ラ・トゥールの世界に戻るとしよう。


Reference
Victoria Finlay. Colour, London: Sceptre, 2002
  

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ラ・トゥールを追いかけて(43)

2005年10月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールのパレット:コチニールの謎(1) 


  前回のバーミリオン以外にも、ラ・トゥールが使った赤色顔料はあっただろうか。今年夏のオックスフォード滞在中に、暇をみてはできるかぎりの文献を探索してみたが、画家の使った画材の成分まで言及している資料は少なく、確認はできなかった。しかし、ラ・トゥールと同時代の画家についての資料などから、ラ・トゥールの作品にも、コチニール Cochinealの名で知られる濃赤色の顔料が使われていることはほぼ間違いないと思われる。 

  ラ・トゥールの時代、16世紀後半から17世紀前半にヨーロッパの画家の間で使われていた赤色系顔料としては、バーミリオン、コチニール、西洋茜(アリザニン)、ブラジル蘇芳などが考えられる。この中でコチニールは、その鮮やかな色調、比較的褪色が少ないなどの理由で、繊維の染色、画材、化粧品(ルージュやアイシャドウなど)など広範な用途に使われていた。

人気があったコチニール 
  中世に多く使われたブラジル蘇芳などと比較して耐久性もあり鮮明な色のコチニールは、19世紀に人工合成によるアリザニンレーキやカドミウム・レッドなどが現れるまでは、ヨーロッパでは高価だが人気のある染料だった。 コチニールは時間による褪色が少ない、水溶性の数少ない顔料である。天然顔料の中で人工染料と比較して、最も明るく、熱に強く、酸化しがたい。実はイタリアのカンパリの色にもコチニールが使われている


謎に包まれていた製法
  ところが、このコチニールの原料については、かなり長い間謎に包まれていた。その謎が解明されるプロセスはかなり面白い。そこで、ラ・トゥールから離れて少し横道に入ってみよう。
  この美しい染料の正体はなかなか分からなかったが、16世紀の段階ではヨーロッパでこの染料にかかわった人々の多くは、原料は果実か木の実の一種と考えていたようだ。

秘密を探る旅へ
  18世紀になって、ロレーヌに生まれ、後にパリに移住したフランス人植物学者thierry De Menonvilleはその製法の秘密に興味と野望を抱く。目的達成のため、スペイン船でキューバのハヴァナに赴く。そしてひそかにメキシコへ渡る。彼は実際にはスペインに独占されていたコチニール貿易に入り込みたいフランス王朝の支援を受け、コチニールの生産の秘密を探る密偵でもあった。彼はこの染料の原料がある虫であることは知っていたようだ。
  このころ、コチニールは顔料、染料、化粧品ばかりでなく薬品としても現地では使われていた。スペインでも頭痛、心臓、胃腸などの薬として処方されていた。スペインのフィリップII世も病気のときに、コチニールを酢に溶かしたものを服用したらしい(Finlay 2002)。その正体を知ったら、どんなことになったやら。   
  
  当時のメキシコでのコチニールの主産地は、Guaxaca(現在の Oaxaca)であった。余談だが、このOaxacaという地名は、大変発音が難しい。筆者の専門領域の研究者に同じ名前の人がいて、困ったことがある。実際にはワハルーカ(Wa-har-ka)と発音するらしい。 

フランスの密偵だった植物学者  
  さて、当のフランス人植物学者メノンヴィーユは、メキシコで現地のスペイン側から旅の目的を怪しまれ、直ちに帰国を命じられるが、ヴェラクルスVera Cruzで帰国の船を待つ3週間に、密かにワハルーカに進入する。そして、カイガラムシの生息するサボテンの持ち出しに成功する(しかし、その現物を積載した船は、フランスへ着く前に沈没してしまった)。

  彼は、1780年におそらく30歳前に世を去ったが、Guaxacaへのスリリングな旅の記録*を残した。フランス王は生前彼に王室植物師Royal Botanistの称号を授けたが、メノンヴィーユはこの不思議な虫からいかなる工程を経て、コチニールが生まれるかという秘密には十分にたどり着けず、染料貿易による富豪の夢もかなわず、失意のうちに世を去ったようだ。コチニールの謎を追う旅はさらに続く。


 

References

*Quoted in Finlay, Thierry de Menonville. Traité de la Culture du Nopal...précédé d'un Voyage à Guaxaca, 1787

Finlay. Colour, London: Sceptre,2002.

Image 
http://wpni01.auroraquanta.com/pv/caledonia/cochineal?img=800

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壊れた国境

2005年10月25日 | 移民の情景

 
  今週のNewsweek*の表紙を見て、どこかで似たような写真を見たことがあると思った。表紙の写真は、メキシコ南部でトラックで不法移民を輸送する様子をX線撮影したものであった。

生命を賭けた海外出稼ぎ 
  他方、記憶に残っていたイメージは、2000年6月、ベルギーからイギリス南東部のドーヴァーに向けて、フェリーで上陸した果物運送ローリー(コンテナートラック)から中国人58人の死体が見つかるという身の毛もよだつような事件の映像であった。表紙の写真と同様に、運送ローリーの貨物の中に隠れた多数の人間のX線写真であった。この事件は背後に潜む人身売買密輸 human trafficking のすさまじさを、一見しただけで世界に知らせることになった**。  
  
  その後の裁判でイギリスへの密航者はいずれも中国人男女で、背後に密航を手引きする大規模な犯罪組織が関与していることが明らかとなった。彼らはイギリスまでの費用として、一人17000ポンドを密輸業者(トラフィッカー)に支払っていた。死体で発見された中国人は、身元を確認するものは一切見につけていなかったという。  
  
暗躍するトラフィッカー
  彼らの多くは福建省出身で、蛇頭(スネークヘッド)の手引きで北京から中国人は、ヴィザが要求されないベルグラードに飛んだ。そこで、ブローカーの指図で中国のパスポートを取り上げられ、代わりに韓国の偽造パスポートを渡された。その後、トラックの荷台などに隠れたりして、ハンガリー、オーストリア、フランスなどを経由して、ロッテルダムに連れて行かれ、そこでトルコ系のブローカーに引き渡された。そして、ベルギーのゼーブルッヘを経て、イギリスに渡り、ドーヴァーの税関を抜けたところで、別のブローカーが引き継ぐことになっていた。そして、万一、発見されたら中国で非合法組織とされた「法輪功」のメンバーで、本国には戻れないと訴えるよう指示されていた。 
  
  ドーヴァーへ向かうローリーは、偽装のためにトマトの箱で密閉され、換気管もほとんど閉ざされていたため、熱気と酸欠状態の中に9時間近く閉じ込められ、死亡するという惨事となった。かろうじて命を取り留めた二人は、最後にコンテナーに押し込まれ、空気がかすかに通う床の木材の隙間に頭があったことが幸いした。その日は記録的な酷暑の一日であった。

  実はこうした事件は、世界の各地で発生している。今回のNewsweek表紙の写真もそのひとつである。アメリカ・メキシコ国境で類似の事件が何度も起きている。
 
国境を越える不法取引 
  グローバル化は国境を介在する不法・合法の取引の壁の高さを引き下げた。その結果、国際的な不法取引が世界中で増加することになった。 

  本年10月中旬、イギリスの捜査組織は全ヨーロッパ規模になっている地下リングを手入れしたが、この組織は過去数年にイギリスに20万人近くの外国人労働者を不法入国させたといわれる。また、8月には、アメリカ司法当局は麻薬、偽造切手、紙幣にはじまり、ロケット発射装置にいたるありとあらゆるものをアメリカに密輸してきたギャング組織を捜索した。そのほかにも多数の犯罪が明るみに出ている。
  
改善しない実態

  こうした事態に、各国はとりわけ9/11以来、国境防備に巨額を投下し、人身売買、潜在的なテロリストから不法な麻薬、核兵器関連資材など、あらゆるタイプの密輸に対応しようとしている。 しかし、こうした対抗措置にもかかわらず、国境密輸の水準が低下しているとの証明はなにもない。アメリカへの不法移民にしても、1990年代以降ほぼ同じ年間50万人という数に達していると推定されている(Pew Hispanic Center推定) 。
  
  小火器の密輸取引だけでも年間40億ドルという規模となり、イラクからコンゴまでを覆っている。人身売買取引の規模は100億ドル近いと推定されている。他方、麻薬取引の規模は900億ドル近いものと考えられる。こうした不法取引にはいずれも人間の移動が絡んでいるだけに、捜査当局は人の動きに神経質にならざるをえない。
  
  世界にはいくつか国境管理の困難な場所、入国を企てる不法移民の側からは比較的入りやすい場所がある。最近、世界の注目を集めているそうした場所のひとつに、アフリカのモロッコに位置するスペインの「飛び地」enclaveがある。セウタCeutaおよびメリーラMelillaという二つの地域である。ここになんとか潜り込もうとするアフリカ系の人々がじっと機会をうかがっている。彼らは沿岸の森や海岸にひそんで、お互いに携帯で連絡しつつ、警備の緩んだ隙を狙って集団で、はしごや毛布などさまざまな機材を使って国境の壁を乗り越える。壁は3-6メートルという高さである。時には国境パトロールと銃撃戦になり、今年9月末に越境した者のうち、少なくも14名の死者が生まれた。

変わる国境
  こうした地域は、第1世界の繁栄と第3世界の貧困を、一本の国境線が分け隔てている。拡大EUを目指すヨーロッパは、その実現に向かうほどに国境管理というきわめて難しい課題を背負うことになった。もし10年先であってもトルコがEUに正式加盟すれば、ヨーロッパの国境はシリア、イラン、イラク、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンと接することになる。国境は「壊れているが」、
時々刻々その意味を変えつつもある。


Reference
Dark Trade:Smuggling of Everything From People to Purses Threratens the Global Economy by Moises Naim, Newsweek October 24, 2005,

『朝日新聞』2000年6月21日

Grain McGill. Human Traffic, Vision, 2003.

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ラ・トゥールを追いかけて(42)

2005年10月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールのパレット:ヴァーミリオン 

  ラ・トゥールの作品は、光と闇で特徴づけられている。それとともに、これまであまり指摘されていないが、色彩の点で褐色系(土製顔料)および赤(朱)色が多用されていることも別の特徴である。青色系がほとんど使われていないことは、フェルメールなどと比較して際立って対象的である。ちなみにフェルメールは赤もかなり使っている。

「赤の画家」
  多用されている褐色系顔料だけだと、「砂漠の聖ヨハネ」のように画面はどうしても暗くなるが、ラ・トゥールは蝋燭や不思議な内的光、そして赤色系の使用でその点を補っている。濃淡さまざまなヴァーミリオン(朱色)、赤色系が使われている。「聖ヒエロニムス」「聖アンデレ」などの使徒像、「妻に嘲笑されるヨブ」「女占い師」「いかさま師」、「生誕」など、赤色が画面を決定づけている作品はきわめて多い。「いかさま師」などを改めて見ると、実にさまざまな赤色が画面を彩っている。フェルメールを「青の画家」とすれば、ラ・トゥールは明らかに「赤の画家」といってもよいほどである。
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/3794fadd1c15942bfad8069032e59855

  ラ・トゥールの使用している赤色系の顔料は、ヴァーミリオンの他にも、西洋茜Madder、コチニールCochinealなどが考えられる。どの作品にいかなる色の顔料が使われているかについての資料は少ないので、多分に推測が含まれるが、ヴァーミリオンだけではなさそうである。

ヴァーミリオンの由来
  ヴァーミリオンという名称は、古代ローマにおいて赤色染料の製造に使われたケルメスという虫の赤色を意味するvermesに由来するといわれる。英語のクリムソンの語源らしい。ヴァーミリオンは辰砂cinnabarと密接に関連している。シナバーは天然の硫化水銀だが、天然も人工も実際上はほとんど同じである。
  ヴァーミリオンは、画家が使用する絵具の中では不透明な色のひとつとされてきた。この色のヴァリエーションのひとつである朱色は、古代中国で大変重用された。エジプト、メソポタミアの絵画には出てこないが、ローマでは知られていた。大変高価なため、為政者が価格を定めたといわれる。
  ヨーロッパでは12世紀前から知られていたにもかかわらず、美術で著名になったのは20世紀になってからである。しかし、中世においても大事な絵具のひとつであった。12世紀ではあまり知られていなかったが、15世紀には広く知られるようになった。ルネッサンス画家はこの色を最も安定した純粋な色と考えてきた。
  現代画家はほとんどヴァーミリオンを使用せず、代わってカドミウム赤などがより多く使われている。しかし、西欧美術ではそれでもよく知られた色である。 ヴァーミリオンの色調は、輝くような赤からより紫色まで幅広く分布している。

顔料の製法
  硫化硫黄、シナバーはよく知られているが、世界に豊富にあるわけではない。鉱床はスペイン、イタリア、アジア、アルタイ、トルキスタン、中国、ロシアなど。また、ドイツ、ペルー、メキシコ、カリフォルニア、テキサスなどにもある。スペインのアルマデン鉱床は歴史的に有名で今日でも重要な生産源である。
  シナバーには乾式、湿式のふたつの製法があるが、古い方は乾式法である。古いラテンの資料では最古のものは中国で8世紀に開発されたといわれる。他の資料では8世紀か9世紀にアラブの錬金術者によって生み出されたという説もある。 17世紀オランダの資料では、鉄なべで水銀と溶解した硫黄とを混ぜ合わせる。その後、土器に移して、昇華するまで加熱をする。この時までに容器は壊れ、赤い硫化水銀は器の内側に付着するといわれる。 その後、分離硫黄を取り除くためアルカリ溶解される。
  アジアで生まれた乾式製法はヨーロッパへ移り、17世紀初期までには、アムステルダムがヨーロッパの製造の中心であった。 もうひとつの湿式法は硫化硫黄の混合物をアンモニウムの苛性ソーダとともに加熱する。この方法は17世紀後期にドイツで発明され、製法の容易さと経済性で乾式法を急速に代替した。色調の明るいドイツ・ヴァーミリオンとして知られる。色は黄色味を帯びている。乾式法の色は一般に暗く、クールである。今日ではほとんど湿式製法が席巻しているが、中国では一部乾式法も使われている。
  
耐光性が弱い
  ヴァーミリオンの化学式である硫化水銀は安定しており、弱い酸やアルカリには解けない。色は鮮やかに輝いているが、ひとつのマイナス点は時とともに光を受けて暗くなる傾向があるとされる。 また、他の顔料と混ぜ合わせると変色することもある。たとえば鉛白(シルバーホワイト)と硫黄系の顔料(ヴァーミリオン)の組み合わせは変色を生むため、混色はできない。
  時間の経過とともに変色することを防ぐ古典的方法として使われてきたのは、耐光性が劣るヴァーミリオンの上にクレムソンレーキなどでグレースする方法である。こうした技法で、深みのある赤が得られるとともに、色の持ちもよくなる。
  改めて、「いかさま師」を見てみると、かもにされている貴族の若者のきらびやかな衣装、帽子の羽根、あやしい目つきの女たちの衣装や帽子をさまざまな赤が彩っている。ヴァーミリオンは他の赤色系の色、オレンジ色などとあわせて、絢爛豪華な雰囲気を醸し出すのに決定的な役割を果たしている。

Reference

http://www.sewanee.edu/chem/Chem&Art/Detail_Pages/Pigments/vermillion

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新たな次元を迎える移民政策

2005年10月19日 | 移民政策を追って


  資本や物の移動と比較すると、労働者の国境を越える移動には、さまざまな制約がついてまわる。理論上は労働者の国際移動に関する制約を少し緩めることで、大きな効率の上昇が見込まれる。たとえば、ハーバード大学のロデリックDani Roderickの計算では、一定期間、貧しい国から富める国への移動を少しだけ(受入国の労働力の3%)増やすことで、貧しい国の利益を年間2000億ドル増やすことができる。経済学者がそれほどの計算をしているのに、なぜ貿易や資本の自由化に比較して、労働の自由化には力が注がれないのか。 

移民政策検討の結果
  こうした疑問に対応するかのように、アナン国連事務総長は、2年前に移民労働に関するグローバル委員会*を設置した。世界の移民問題関係者・知識人19人とジュネーブの事務局一人からなる委員会は、国際的な移民と政策のすべての側面についての見解を取りまとめた(日本人は委員に含まれていない)。日本のメディアでは、ほとんど報じられていないが、この報告書は去る10月5日にプレス・レリースされた**。報告書では33の提案がなされているが、最も効果が見込めるのは、貧しい国から富める国への一時的移動(出稼ぎ先に定住しないで帰国するゲストワーカー型)を増やす要請であろう。

想定を裏切る歴史の現実
  ゲスト・ワーカープログラムは、ロデリックが確認した想定利益のある部分を実現するだろう。この形で合法的な移民へ新たな道を開くことは、不法移民(irregular/illegal immigrant workers)の流れを減少させると報告書は考えている。

  しかし、委員会報告書が認めるように、これまでの歴史の結果はこのような楽観主義をあまり支持していない。ドイツのガスト・アルバイタープログラムは、トルコ、ユーゴスラビア、その他からの労働者を戦後の経済的奇跡が生んだ工場労働者の不足を埋めるためだった。彼らは不況になり、仕事がなくなれば、母国へ帰国するものと考えられていた。しかし、その予想は外れ、ドイツの「ゲスト」の多くは帰国しなかった。そればかりでなく、彼らの家族がドイツにやってきた。

  アメリカのブラセロ・プログラムは、1942-64年まで実施された。メキシコ人農業労働者が季節的に入国を認められ、テキサスとカリフォルニアで綿や砂糖ビートの採取にあたった。しかし、状況は改善されなかった。このプログラムによる数多い農場労働者の流入は、その後、入国に必要な書類を持たない労働者が国境をひそかに越えて多数流入するかくれみのとなった。


一時的移民のプラス・マイナス
  こうした事実にもかかわらず、一時的な労働移動を認める論理には抗しがたいものがある。富める国は移民労働を欲している。しかし、移民が歳をとったときに面倒をみるつもりはない。富んだ国はできるならば、必要な外国人労働者が滞留せすに絶えず彼らの国と自国との間で回転することを好んでいるようだ。言い換えると、若く活動的な時に入国して働き、歳をとり扶養者となる前に帰国することである。かなり身勝手な考えではある。

  報告書は「一時的で循環的な移民」について、うまく設計されれば、貧しい国にとってもプラスがあると考えている。そのひとつは本国への送金である。移民が本国から長く離れているほど、彼の賃金から送金される額が少なくなる。そのため、出稼ぎ先国への長期にわたる滞留は、この点では望ましくない。

   もし、一時的労働者プログラムを再採用するのならば、いかに設計されるべきか。委員会のために書かれたペーパーで、オックスフォードのマーティン・ルス Martin Ruhsは、その場合のオプションについて考察している。ある国は早い者勝ちのルールで、単純な割り当て制度を運用している。イギリス政府は安い労働力を必要とする食肉加工など特定の部門に割り当てる、さらに計算された方法を採用している。

  シンガポールは最もアンビシャスである。同国のマンパワー省は「外国人労働者税」を設定し、移民労働者を雇用するについて使用者は税金を払わねばならない。税は産業、熟練で異なる。建設業で熟練した外国人を雇用するには、使用者は月にS$80(US$47)を支払う。不熟練労働者を雇用するには、S$470を支払う。こうした税金でマンパワー省は移民労働者の需要を微調整できる。

カリフォルニアのケース
  受入国政府は自分たちの経済の実態に即して移民についてのルールを調整したいと思っている。しかし、経済のニーズもこうしたルールに対応する。カリフォルニア大学デイビスのフィリプ・マーティンとマイケル・タイトルバウム(Aflred Sloan Foundation)は二つの例を挙げる。

  カリフォルニアのケチャップ産業は1960年代、トマトの摘み取りにブラセロ労働者(J.F.ケネディ大統領時代に導入された季節労働者)を使っていた。この産業は彼らなしには成り立たないと主張していた。しかし、1964年、このプログラムが終了した後、農場主は機械で労働を代替した。トマトを幹から振り落とし、赤と緑色を区分する装置を発明した。農業技術者は機械が扱いやすい卵型のトマトを栽培するようになった。

  ドイツでは、マーティンらは同じ現象が逆になったという。ドイツの農業では、安い移民労働力が使えることで、新しい省力機械の採用が遅れた。当時使われた表現では、「日本はロボットを入れたが、ドイツはトルコ人を入れた」ということになる。 エコノミストによっては、政府は単に外国人労働者の受け入れの割り当てだけを決め、賃金などは競売で決めればよいという。逆に、多かれ少なかれ、同じ数の売り上げになる価格を決めればよい。いずれのやり方も主たる利点は政府がニーズを推定するのではなく、民間による価値評価にしたがってヴィザを割り当てることができることである。

いくつかの試み
  政府はどうすれば、ゲストワーカーが必要な期間を超えてオーバーステイしないようにできるだろうか。韓国では、テンポラリーな労働者は、特定の勘定に預託金(デポジット)を
支払う。外国人労働者が予定通り出国すれば払い戻され、帰国せずにぐずぐずしていると没収される。イギリス政府はあるタイプの移民については、保釈金のような債権を買わせることを考えている。帰国しない決定をすると無駄になる。

  移民の経済的利益がそれほど大きくないとすれば、入国した移民も、どうしても帰りたがらないわけではないだろう。他方、皮肉な見方では、「一時的移民ほど恒久的なものはない」There is nothing more permanet than temporary migrationといわれる。しかし、市場の諸力と人口圧力をみると、一時的な移民のあり方について、再考する必要があるようだ。少なくとも、不法就労という形で多くの外国人労働者が働いている日本の状況を考えると、新たな方式をテストしてみることは、
十分意味のあることだろう。

Reference 

Global Commission on Internationa Migration,
報告書については 
http://www.gcim.org/en/

この委員会の座長(2人制)のひとりであるスエーデンの元移民・開発大臣のJan O. Karlssonは本年春に来日し、一人の専門家として筆者もヒアリングを受けた。

**このブログ記事は次のレビューも参考にした。

"Be My Guest", The Economist October 8th 2005

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たくましく、しなやかに生きる人々:台北への旅から

2005年10月18日 | 雑記帳の欄外

元気づけられる国

  ある国際フォーラムでの報告のために、台湾に行く。台風が台湾海峡に居座っていたが、飛行機は乱気流に巻き込まれることもなく、台北中正国際空港に無事着陸した。この国は、平和に慣れすぎた日本人には、およそ想像しえないほど困難な問題を抱えているが、訪れるたびにこちらの方が元気づけられる不思議な国である。

  フォーラムについては、改めて記すとして、今回の旅で最も印象に残ったのは、この国の民主化運動の驚くほどのたくましさである。その歩んできた道は実に感動的である。 今回訪れる機会に恵まれたのは、台湾の現代史においてきわめて重要な位置を占める「美麗島事件」*の翌年に起きた「林義雄家族虐殺事件」**を記憶に留め、民主化のためのひとつの礎としようと、1991年に設立された「慈林教育基金會」(慈林台湾民主運動館)である。

  ふとしたことから度々訪れることになった台湾での人々との交流の中で、事件の概略は聞き知っていたが、今回初めてその詳細な事実を知り、また現代史の生き証人ともいうべき人々の得がたい話を聞いた。人生においてこれ以上の悲劇はないと思われるような重荷を負いながらも、淡々として台湾における人権擁護、民主化運動の必要を語る林義雄氏の言葉は聞く人の胸を強く打った。そして、ボランティアとして慈林教育基金會を支える人たちの誠実かつ強靭な精神力にはひたすら感動する。

  わずか25年ほど前の出来事である。陳水扁総統も若いころにこの事件の弁護団の一人であった。この事件を中心に、台湾の民主化運動の流れを記録・展示し、民主化運動の支援とすることを目的とするこの台湾民主運動館は、訪れる人に多くのことを考えさせる。政治が人々の平和な人生を引き裂くようなことは、どこの国でも決してあってはならない。

参考
*1979年12月、「美麗島事件」。12月10日の国際人権デー記念集会が無許可であることを理由に規制され、官憲と衝突し流血騒ぎとなった。反国民党指導者が一斉に反乱罪に問われ、12年から14年の懲役刑となった。 林義雄氏もその中心的人物の一人とみなされ、投獄された。

** 1980年2月28日,林義雄氏の2人の娘と母親が殺されるという事件が起きた。場所は台北市信義路3段31巷16號の林氏の自宅で,当時,台湾省議員だった林義雄は前年12月の美麗島事件で逮捕され拘禁中だった。妻の方素敏の外出中に,何者かが留守番をしていた60歳の母親游阿妹と6歳の双子姉妹亮均と亭均を残酷に刺殺した。当時8歳だった姉の奐均がちょうど学校から帰ってきたところで犯人に遭遇,彼女も刺されて重体になったものの奇跡的に一命を取りとめた。当時は戒厳令の下にあり、前年の1979年に起きた美麗島事件の裁判が進行中で、監視下にあった重要政治犯の自宅で,白昼,しかも2月28日(1947年228事件)という日に起きた事件であった。その後、犯人は捕まらないままである。「林宅血案」と呼ばれるこの事件は、当時の状況から国民党の特務とのつながりが想像されている。

慈林教育基金會
http://www.chilin.org.tw/

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ラ・トゥールを追いかけて(41)

2005年10月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
世俗の世界の画家

二重政治の渦中に生きる
  前回のブログでも記したように、画家としての名声・地位を確立した段階で、ラ・トゥールが制作活動を続けて行くための最重要な問題は、激動するロレーヌの政治環境において、自らのあり方をいかに律して行くかという点にあったと思われる。農民のように、どれほど苛酷な為政者であっても黙って従う以外選択の道がなかった社会階級と比較して、貴族階級の世界に踏み込んだ画家にとっては、もはや政治の次元に無縁ではいられなかった。  

  世俗の世界で生きてゆく上で、画家が生活の場を置いたロレーヌは、フランスとロレーヌ公国との二重政策の中にあった。いずれの側につくかということが、住民の多くにとって、時に生死を分かつほどの重要性を持っていた。

いずれの側に
  この時期にラ・トゥールは画家としてロレーヌ(そしておそらくパリでも)著名な人物になっていたとはいえ、世俗の世界は厳しさを増すばかりであった。戦火や悪疫はいつ襲ってくるかもしれず、人々は常に不安を抱えて生活していた。処世の点でも、いずれの側につくかということが、大きな利害の差異を生んだ。画家がリュネヴィル移住時から要請してきた租税の免除なども、そうした立場と強く関連していた。ラ・トゥールを含めて、ロレーヌに住む人が現実的であり、利己的に感じられるのは、彼らの郷土ロレーヌが経験した過酷な時代背景と不可分な関係にある。  

  私生活において、ラ・トゥールはしばらくこうした現実に冷淡なこともあったようだ。おそらく彼は生来、シニカルで利己的な人間であったわけではないだろう。ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌは、戦火が襲うまでは美しい自然に恵まれた豊かな地域として知られていた。しかし、その後の激変はいかなる理想家をも現実的な人間に変化させたに違いない。  

  ラ・トゥールは、政治の世界の盛衰に画家としての自分の生活が翻弄されることを生来嫌っていたように思われる。とはいっても、作品が世の中に認められないかぎり、徒弟を受け入れ、工房を維持して行くこともできなかった。彼の絵を求めることができる層も限られていた。

利己的にみえる画家の対応 
  画家は、そのために、世俗の世界で利用できることは最大限活用したようだ。当時のロレーヌで画家として成功するには、貴族社会や宮廷などの世界でいかに認められ、その支援を得られるかにかかっていた。同時代の画家たちは、それぞれに貴族社会とさまざまなつながりを得ようとしていた。  

  こうした中で、ラ・トゥールは自分の制作活動に利があるかぎりで、貴族や宮廷のの世界と関わり、宮廷生活には深入りしないようにバランスを慎重にはかっていたようだ。フランス国王に忠誠を誓う一方で、ロレーヌ公爵であったシャルルIV世にも、公然と離反の態度をとることなく、つかず離れずの関係を維持していた。   

  ラ・トゥールは自ら貴族社会に入ることを望み、それを実現しながらも政治的には深入りしなかった。彼はロレーヌ人であったが、メッツ司教領とも関連していた。一時、そこには強いフランスの影響が及んでいた。どちら側につくか、旗幟鮮明にすることは、危険な選択と考えていたのだろう。現代の人間にはこうしたラ・トゥールあるいはほぼ同時代のプッサンの対応は利己的と見える。しかし、これは、激動する社会を生きる画家の処世の知恵であったのだろう。  

  仔細は不明だが、シャルルIV世は、ラ・トゥールのパトロンにはならなかったようだ。しかし、ドム・カルメはラ・トゥールはシャルルIV世に一枚の聖セバスティアヌスを贈呈したと記している。ナンシーの近くの城(おそらくHoudemont )の壁に掲げられていたと記している。画家として、フランス国王、ロレーヌ公の双方に配慮をしていることがうかがわれる。

したたかに生きる 
  こうして、フランス国王付き画家としての権利を主張しながらも、ロレーヌ公から与えられた特権を維持するためにも可能な限りを尽くすラ・トゥールは、法的手段にも精通していた。動乱の時代に身を守るためにも必要だったのだろう。1642-43年、リュネヴィルに落ち着いた後にも、自分の保有する家畜に対して請求された税金の支払いを断固として拒否し、執達吏と争ったりもしている。  

  ラ・トゥールの宗教や信条についてはほとんど知り得ない。しかし、作品の内容から推測するかぎりでも、彼がいずれかの派の熱烈な信者であったとは思えない。ただ、カプチン派のように、フランスの存在は、ロレーヌのカソリックにとって内心、脅威と思っていたのではないだろうか。  

  政治的には不安含みながらも、ラ・トゥールの画家としての人生は円熟期を迎える。


Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年


Jacques Thuillier, Georges de
La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition )
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「ハルとナツ」を見る

2005年10月08日 | 移民の情景

http://www.nhk.or.jp/drama/harutonatsu/


  TVはあまり見ない方だが、たまたま番組案内でブラジル移民をテーマにしていることを知り、見始めたところ、たちまち引き込まれた。戦前、戦後をカバーする壮大な人間ドラマである。移民労働をひとつの研究対象にしてきたこともあって、思わず5回の放映、全部を通して見ることになった。感動的なシーンが多く、涙線も開いてしまった。

「蒼茫」の時代から
  さまざまなこと、とりわけかつて読んだ石川達三「蒼茫」の情景に、記憶がよみがえった。昭和13年に最初の芥川賞受賞作であるこの作品を知る人は、もう少なくなった。かつてこの国が移民を送り出していたことを知る人はさらに少ない。そして、その血筋を引く人たちが多数、はるばる南半球から日本に働きに来ていることを知っている人はどれだけいるだろうか。
 
  これまでに費やされた多くの移民の多大な血と汗を思うと、改めて感慨無量である。橋田壽賀子さんの脚本はきわめて周到に考えられた力作である。なにしろ70年近い年月における日伯両国における家族の変化を5回に圧縮しただけに、不自然なところも目につくが、全体としてまとまった感動的な作品になっている。両国で多くの関係者の共感を集めるだろう。 作者によると、制作にあたり、念頭に置いたものは「戦争の悲劇」と「家族のきずな」とのことである。

ブラジルの発展を支えた日本人移民
  戦前そして戦後も、多くの日本人が困窮の果てに、南米の新天地を目指した。しかし、新天地とは名ばかりで、荒涼たる原生林、荒地があるだけだった。当時の拓務大臣の言葉とは裏腹に、棄民政策といってよいばかりの政府の無責任さが生み出した結果であった。第二次大戦の勃発は、不幸にして事態をさらに悪化させた。冷淡な本国政府の対応にもかかわらず、母国の発展を祈って、ひたすら働く人々の姿は感動的である。その結果は着実に実を結び、ブラジルの経済発展を支える大きな力となった。移民の間にもさまざまな明暗があった。
  
  終戦後も「勝ち組」、「負け組」など、戦争の傷跡は深く残った。日伯両国ともに発展したが、依然として大きな経済格差が存在した。日本の発展の方が目覚しかったのだ。

変わった「移民労働」の流れ
  80年代中後から、移民労働者の流れはブラジルから日本へと逆になった。 変貌してしまった母国新たな状況の下で、日本へ出稼ぎする移民の人々が見た母国の実態も、驚くものであった。母国は同胞を暖かく受け入れてくれるにちがいないという期待とは程遠い、冷淡な風土へと変貌してしまっていた。

  それでも両国の賃金格差は大きく、ブラジルから日本への「デカセギ」は増加している。2004年末、登録の日系ブラジル人は28万7000人、毎年1万人くらいずつの増加である。。ブラジルでは大卒初任給は約1200ルピア(約6万円)くらい、日本で工場労働などで働くと残業込みで月25-30万円になる。母国家族への仕送りも可能になる。帰国した日系人をねらう犯罪も増えている*。

  ストーリーでは、主人公の二人姉妹の一人ナツは、戦前、家族のブラジルへの移民船出航時に、トラホームという眼病に罹患していたために、一人日本に残された。この出来事は、ヨーロッパからアメリカへの移民の入国を審査するエリス島入国管理局でも、しばしば起きており、強制送還された事例が数多く記録されている。医療水準が高い今日では、考えられないことである。

日本は希望がもてない国か
  ストーリーは、最後に見る者が予想しないような出来事で締めくくられる。日本での事業に成功を収めたにもかかわらず、残念にも晩年になり失敗したナツが、ブラジルのハルとその家族たちのところに行くという結末である。戦前、移民船に乗船する時に、断ち切られたハルとナツの姉妹のきずながここでやっと結ばれる。
  
  現代の日本は、家族や社会を結びつける基盤が、急速に劣化・衰退するという荒涼たる精神風土が展開している。深刻な少子高齢化の進行にもかかわらず、日本は定住移民を受け入れるか否かという重要課題を議論することをあえて避けているかにみえる。しかし、実態としての定住化はすでに進行している。いつまで先の見えない、なし崩し的政策を続けて行くつもりなのだろうか。先延ばしするほど、将来の問題は深刻化するだろう。政府の責任は重い。

  一時的な出稼ぎのつもりで来日した人が、気づいてみたら10年以上になっていたというような事実上の定住化が進んでいる。学齢に達しながらも就学していない子供たちなど、深刻な問題がいたるところで起きている。 他方、日本、ブラジルいずれにも安定した仕事や生活の場を築けずに、日伯間を何回も往復している「リピーター」と呼ばれる人々も生まれた。どこが自分の祖国かという喪失感にとらわれながら、日々を過ごしている人も増えた。「ディアスポラ」(家族離散)の悲劇を増幅することだけはなんとしても避けなければならない。


Reference
*「出稼ぎ5年ブラジル帰国の夜」『朝日新聞』2005年10月8日

 

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トルコEU加盟の先に見えるもの:「イスタンブール」を読む

2005年10月06日 | 書棚の片隅から

Orhan Pamuk. Istanbul: Memories of a City, Translated by Maureen Preely, London: Faber and Faber, 2005.

  トルコのEU加盟への道は、かろうじてつながったかにみえる。しかし、最短で進んでも実現は9年先という。グローバル化がすさまじい勢いで進行する世界では、気の遠くなるような時間である。「トルコの喜び」Turkish Delightという菓子があるが、トルコの未来に喜びは待っているのだろうか。

東と西が抱く不安
  トルコのEU加盟が実現すれば、東と西の文明が同一の地域共同体に初めて含まれることになる。しかし、EUの現加盟国とトルコの間に横たわる政治・経済、そして文化の溝はきわめて深い。経済格差は大きく、加盟国側はトルコからの賃金の安い労働者の流入増加を懸念し、そしておそらくイスラーム文化の影響が高まることを最も恐れている。

  背景にはあの2001年9月11日の同時多発テロを契機に、急速に深まったイスラーム圏への警戒と不安感がある。西欧諸国ばかりではない。多くの日本人にとっても、トルコそしてイスラームの国々は最も遠い存在かもしれない。

メランコリックに描かれた都市
  トルコはヨーロッパからみると、地理的にもその中心ではなく、いわば辺境に位置する。イスタンブールはヨーロッパからも、極東の日本から見ても遠く、東洋と西洋の接点としてエキゾティックなイメージをかきたててきた。この旅愁を誘う都市は、そこに住む人々にとっていかなる存在なのか。 オルハン・パムクの「イスタンブール」は、この点に鋭く、しかもメランコリックに答えてくれる。

  このブログで紹介した作家の前作「白い城」はイスタンブールを舞台としながらも、この都市について、ほとんど具体的なイメージをなにも与えてくれなかった。それが描かれていたら、小説はもっと魅惑的なものとなったのではないかと思ったほどだ。しかし、不思議な読後感が残る作品であった。この謎に包まれた作家を知るためには、もう一冊読まねばならないと思っていた
  
  その望みは思いがけない形でかなえられた。作家はそれをこのメモワールのために残しておいたのだ。この「イスタンブール:ある都市の記憶」は、ペーパーバックでも348ページ、索引まで付された作品である。 (日本では知られていないが、西欧文壇ではよく知られた作家であり、たまたま訪れたオックスフォードの書店「ウオーターストーン」の店頭に平積みになっていた。)

  現代トルコの作家で最もフレッシュでオリジナルな発想に富むといわれるオルハン・パムクは、母国トルコでは居所がない存在である。西欧文壇での人気が高まるにつれて、反体制的な内容を含む作品についてはトルコ国内での出版を禁止されるという状況に置かれている。(これまでの彼の著作6冊はすべて翻訳され、ヨーロッパ、アメリカなどで出版されている。)

作家を生んだ家庭
  新著「イスタンブール」は、作家の生まれ育ったこの都市について、万感の思いが込められている。 1952年イスタンブールで生まれたパムクは、自ら放縦で軌道を外れたという建築専攻の学生だった。母親とイスタンブール市内ののアパートに住んでいた。父は女と別のところに住み、兄セヴケットはアメリカへ留学中だった。この兄は、作家オルハンのいわばクローンともいうべき存在であった。もめ事の多い、非宗教的な家庭だった。母親はいわゆる良家の生まれで画家だった。息子には画家の道を勧めていた。しかし、オルハンは生まれ育ったブルジョアへの罪悪感と反発を感じていた。「画家になどなりたくない。......作家になる」。本書の最後に記されたこの言葉は、母親への訣別の言葉であり、読者へのメッセージである。

  パムクの家庭は、フロイド、サルトル、フォークナーを自由に読める場所であった。酒を飲み、女学生と遊ぶ若い絵描きが、作家の若い時代であった。ヨーロッパの影響を受けた家庭の常として、すべてを西欧的に見るように教育されてしまった。

癒しの場ではない故郷・母国
  作家が「イスタンブール」で描いたものは、イスラーム教徒であるが世俗化したトルコ人の行き暮れたノスタルジャともいえる。そこには西欧人が休暇で訪れる、市場のざわめきや活気のあるイスタンブールは、ほとんど現れない。 作家の故郷イスタンブールは、いやしの場ではない。メランコリックな多くのの問題を抱えた、作者にとってはうとましい、時に悪意さえ感じられる場となっている。

時計は止まっている
  この作品には、多数の写真が含まれている。しかし、そのすべてはモノクロであり、現実の世界以上に著者の幻想の世界である。現実以上に雪もしばしば降る、物音のしない世界である。そして、そこには世俗化したトルコ人、旅行者などなどが見る以上に多くのものがある。 「イスタンブール」は、パムークが若かった時代で止まっている。

  しかし、世俗の世界は複雑な趣を呈している。 パムクが生まれ愛した街は西欧化が進み、フレンチ・クオーターのようなものとなった。ガードマンがいて、洒落たブティックが立ち並ぶ町になっている。 表面だけを見る限り、「近代化」が進み、町並みは西欧社会のように変貌している。だが、イスタンブールが世俗化しているとはいえ、多くのトルコ人にとって「模倣」は容認できない響きを持っている。「イスタンブール」には、作家の家庭に置かれた弾かれることのないピアノ、ただ見るだけの西洋陶磁器などが登場する。

自らの廃墟に
  時の軸上でも、オスマン帝国の繁栄、文明としての誇り、精神的優位さ、そして第一次大戦で敗れた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクの革命によって滅亡した後の世俗化したトルコの現実が対比される。現在のトルコ共和国は、アタチュルク革命を引き継いだ世俗国家であり、西に顔を向け、同質化が進む国民国家である。トルコは「民主主義」国家を標榜しているが、それはアタチュルクによっていわば上から与えられたものであり、西欧民主主義の概念とは、本質的に異なっている。こうした状況は、パムークからみると、自分自身の廃墟の中に沈んで行く狭量な小さな場所に見える。

  過去はめくるめく帝国の首都であった。しかし、あの輝いていた帝国はもはやない。今や過去の栄光をしのぶ記念の場所としての宮殿、大理石の噴水、水際の大邸宅などが残っている。しかし、それも容赦ない開発業者によって食い荒らされていく。パムクはこの世俗化されたトルコ、トルコ人の喪失感を描いている。イスラームから距離を置きながら、日々精神的空白にさいなまれている。なんとなく、戦後の日本と重ねて見てしまいそうである。

東と西は
   「白い城」では、イタリア人の主人公と彼が仕えることになったトルコ人の下級宮廷人は、最初は離れた存在であったが、次第に接近し、最後にはお互いに分身のように、どちらがどちらか分からないような存在となってゆく。これは、「白い城」を読んだ時に不思議に思ったテーマであった。しかし、「イスタンブール」を読み進めるにつれて、作者の隠された意図に思い当たった。

  それは、現実の世界における若いオルハンとセヴケットという兄弟の争いのようでもある。二人は抗争の挙句に和解している。「白い城」では、とらわれの身となったイタリア人の主人公とスルタンに仕える宮廷人であるトルコ人は、東と西を象徴するかのごとく、最初はよそよそしく遠く離れ、そして次第に近づきながら最後には場所を取り替えるように、お互いの区別がつかなくなってしまう。作家はトルコのEU加盟の先に、なにを見ているのだろうか。 

  明治維新以来、ひたすら西欧に追いつくことを目指してきた日本の行き着いた所、そしてそこに確実に広がっている荒涼たる精神的空白の現実。パムクの描いたイスタンブールのイメージは、日本にそのまま重なってくるように思えるのは読み過ぎであろうか。

 

Reference 

「東と西は分かり合えるか:オルハン・パムク『白い城』を読む」

*『イスタンブール』の邦訳は、2007年7月刊行された。訳者は『わたしの名は紅』、『雪』と同様に、最も信頼できる和久井路子氏の手になるもので、日本の読者はパムクの主要な作品に接することができるようになったことを喜びたい(2007年8月10日)。

追記(2005年10月15日)
この記事を書いた後、本年度ノーベル文学賞の候補者の一人に、オルハン・パムクが含まれていたらしいことを新聞記事で知った。作家の政治的立場から、背景でさまざまなことがあったことは推定できる。

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望ましい社会モデルはどこに

2005年10月05日 | グローバル化の断面

「青い鳥を求めて」


  今日の先進諸国はさまざまな問題を抱えるが、共通している重要課題は、雇用、年金、医療などを包含する社会保障改革である。グローバル化が進行する過程で、所得格差、貧富の拡大、失業率の上昇、少子高齢化の進行など、困難な問題が山積している。各国はそれぞれの置かれた立場で、新たな社会モデルの構想と確立に懸命である。 

  最近のThe Economistが、EU諸国の社会保障システムの特徴について簡単ではあるが、論評している*。日本の今後を考える上でも参考になると思われるので、これを素材にして、主要国の特徴がどう捉えられているか、紹介してみよう。

「ヨーロッパ社会モデル」は存在するか
   10月末にイギリスのハンプトン・コートで行われるEU指導者の会議でも、EUの社会モデルとしていかなる方向を求めるかという課題が議論の俎上にのぼる。EUは外部からみると、ひとつの統一された同質の地域共同体であり、社会保障などについても「ヨーロッパ社会モデル」とでもいうべき単一の方向性のあるモデルが存在するかのようにみえる。

  日本のメディアなどの議論でも、ともすれば、単純化されすぎた理解が横行している。それによると、ともすると、EUでは働いていようがいまいが、国民に居心地のよい生活上の標準を保障する暖かい保障の毛布が準備されているかに思われる。しかし、現実に立ち入って見ると、それは過大評価であって、EUの内部では国別、地域別のコントラストは、類似点とともにきわめて大きい。政治的、言語上、そして食文化上の多様性がみられるように、彼らの国民的飲み物と同じくらい多様な社会政策の形態がある。それをあえて、類型化すると次のようになる。

大陸(フランス・ドイツ)モデル
  最もよく知られたブランドは、フランス、ドイツおよびいくつかの隣接国が目指している「大陸モデル」である。かれらのシステムは、寛大な失業手当と年金給付が特徴である。法律で企業が労働者を解雇する権限を制限している。そして、所得再分配のために多額の資金を投入している。その結果、あくまで相対的な比較ではあるが貧困は少なく、所得差は圧縮される。 ドイツでは労働組合は衰退しながらも、依然として強力である。労働組合は監査役会において企業経営に重要な役割を果たしている。
  これは、The Economistのたとえによると、社会政策のシャンパンである:味は良いし、贅沢だが、銀行(財政)を破産させる。

地中海モデル 
  このモデルは、イタリア、スペイン、ギリシャなどで好まれている政策である。スペインとギリシャでは労働者の解雇については手厚い保護がある。実際、これらの国での雇用保障法は北の国のそれよりも厳しい。しかし、地中海地域の失業給付は、少なくも最近まではあまり良くなかった。国ではなく家族が苦境に対する緩衝材になっていた。これらの国では、不平等を減少させるために租税を手段としてあまり使わない。  
  このシステムは、さまざまな種類・色合いのグラッパ(イタリアの酒)やウーゾ(ギリシャの酒)のようなものだ。地元の人は好むが、外の人は飲むのをためらう。そして飲みすぎると命にかかわる。

北欧・オランダ・モデル
  地中海モデルのような多様な色合いはないが、北欧諸国とオランダは別の社会的保護を準備している。彼らのシステムはアカヴィット(北欧の強い蒸留酒)のようだ。胸が温まり、元気づけられる。 このシステムは、多くの金を貧困減少のために費やし、人々が仕事を得ることを助けるため労働市場に介入する。しかし、これらの国は、プロテスタントの勤労倫理を保持している。いいかえると、国家は人々が仕事につくのを助ける。しかし、その後は自力で可能なかぎり働かねばならない。
  失業手当は手厚いが、雇用保護はきわめて弱い。この点で、北欧諸国は地中海型の反対である。地中海型は仕事に就いている人に焦点を当てる。北欧型はかなりの失業手当を準備しているが、解雇については制限が少ない。発泡酒型のフランス・ドイツ型は失業給付および雇用保障の点では「寛大」である。

アングロ・サクソン・モデル
  そして、大陸から離れた英語圏のイギリスとアイルランドはどうだろうか(広い意味では、アメリカも含まれる)。イギリス型は大陸および地中海型と比較して雇用保障は弱いことは確かである。そして、再配分税も北欧諸国と比較して低い(貧困率は高い)。しかし、北欧諸国と同様に、ジョッブ・センターなどの機能に多額な資金を投入している。北欧の水準ほどではないが、かなり寛大な失業手当を給付する。この点で、もっと失業手当が少ないアメリカ型とも異なる。
  アングロ・サクソンモデルはビールのようだ:ファンシーではない、人によっては苦すぎる。しかし、安いのであなたのニーズを満たすには手軽な方法だ。

  社会的厚生についてのヨーロッパの議論は、しばしば冷たい心のアングロ・アメリカン・タイプに対して、暖かくファジーな大陸ヨーロッパタイプに二分して話題にされる。 しかし、これはカリカチュアにすぎない。それもヨーロッパ諸国の間に、アメリカ型は現状status quo に対する代替物であり、「改革」は「われわれの福祉国家を廃止する」 命令であるとの幻想を創りだしてしまう害が大きい。もちろん、ヨーロッパは外の世界への調整が必要である。しかし、一部は隣国とノートを取り交わし、それらから学ぶことで対応できるところがある。

甘みが苦味に変わる時
  こうした議論の中で、ブラッセル大学のアンドレ・サピル Andre Sapirが指摘するように、EUの難題は地中海および大陸諸国に集中している。それらは北欧型やアングロ・サクソン型と比較して重い負担を負っている(公的負債は国民所得の比率で倍くらい)。彼らの雇用率は低く、労働時間も短い(フランスとドイツは北欧よりも労働時間が年間150時間短く、アングロ・サクソン諸国より250時間短い)。グローバリゼーションへの反感も強い。
  フランスやイタリアが社会哲学や酒の飲み方について、オランダやスエーデン型に方向を変えることはありそうにない。しかし、今後数年を見通すと、採用・解雇法への過大な依存(経済変化の時には大変になる)を減らし、仕事に就く報酬を減らすことについては、ヨーロッパの落伍者になる可能性はある。

  ヨーロッパ・モデルは死んでいない。しかし、その多様さのいくつかは、次第に高くついて購入できなくなっている。そして他の酒と同様に、正直な労働倫理を破壊しそうである.

日本はどこに
  ところで、大変気になるのは、こうした国際比較の議論にヨーロッパ諸国やアメリカは登場してくるが、アジアの諸国を含めて、日本はほとんど出てこない。1980年代までは、日本モデルは多くの注目を集めてきた。もっとも、それは企業の良好なパフォーマンスを基軸にしたものであったが。
  1990年代以降、日本は失敗例とされても、ほとんど注目を集めなくなった。「日本酒」はもう飲まれないのだろうか。 日本はこれらの対抗モデルに対して、存在を主張できるのだろうか。包括的な政策パッケージとして、特徴があるとしたら、それはどこにあるのか。
  今開かれている参議院予算委員会でも郵政民営化問題は議論が続いているが、雇用、年金、医療改革などについて、「社会保障モデル」としての包括的な構図は、国民にほとんど見えていない。「小さな政府」v「大きな政府」の議論も、言葉だけが上滑りして、全体像は把握しがたい。小泉首相はいずれ具体的な指標、基準を示したいと答弁したが、与野党ともに、国民に対してより明確な「社会モデル」構想の提示と説明をすべきではないか。

Reference
*Charlemagne: Choose your poinson, The Economist October 1st 2005.

コメント (3)
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移ろいやすいは世のならい(II)

2005年10月02日 | 絵のある部屋

 


Joseph Mallord William Turner. Waves Breaking against the Wind  circa 1835, Tate Collection.


    画材の質が、作品のその後に大きな影響を与えることについては、前回に記した。そのことを知っていて、顔料、絵具などの選択に細心の注意をする画家がいる一方で、画材の質などにほとんど関心を寄せない画家もいるようだ。

  イギリスの国民的画家であるターナーJoseph Mallord William Turnerは、どうも後者のようである。1835年頃、「風にくだける波」Waves Breaking against the Wind*を描いたとき、日没に向かう太陽の最後の光が雲に映える様子が赤色の絵具でほのかに描かれていたはずであった。

画材を気にかけない大家
  しかし、今日この作品を見る限り、画家がイメージしたようなカーマイン(深紅色)の部分は褪せて失われてしまっているようだ。偉大な画家たちはあまり画商などの言葉に耳を傾けなかった。

  ターナーはいくどとなく、褪色する絵具は使わない方が良いといわれたらしい。しかし、1835年頃の制作当時、ピンク色の日没と荒波の情景を思い浮かべていた画家は、それがいずれ褪せるということは知っていて、輝いた赤を選んだ。もしかすると、色が褪せるという考え自体を好んでいたのではないかとも思われる節がある。

  ターナーの作品は時代によって大きく変化している。画家の描く空や波は、絶えず変化する対象である。カンバスの上に描かれた対象も時とともに変わるというのは、画家の想念のどこかにあったのかもしれない。

  ひとつの逸話として残るのは、ターナーが現在も存在し、著名な画材商であるウインザー・ニュートンWinsor & Newtonで絵具を求めた時、店主のウインザー氏がそのいくつかについて、色は長持ちしませんよと注意したところ、「自分の商売を考えろ」と答えて、相手にしなかったことがあったという(Finlay 148-149)。

  テートで、ターナーの作品の修復・保持にあたるタウンゼント Joyce Townsend博士によると、ターナーは制作の仕方が気ままでであったことに加えて、国家への遺贈品となった彼の作品が、制作当時と比較してかなり褪色していることを指摘している。

    ターナーは自分の作品を所有する誰かが、油彩や水彩の褪色やひび割れに手を加えてほしいと持ち込んでもとりあわなかったらしい。画家は自分の作品のその後については、ほとんど関心がなかった。批評家のジョン・ラスキンは、ターナーの作品は描かれて1月もすると、ひび割れその他が目に見えてくるとまで言っている。

その一瞬にかけた画家
  画家は80年いや180年後の自分の作品がどうなるかといったことについては、まったく関心がなかったといってよい。まさに、画家が対象とした自然と同じように、作品自体も変わってしまうものだということを悟っていたのだろう。自分の作品の保存や将来について、ほとんど関心を持たなかったターナーにとっては、キャンバスを前にした制作の一瞬こそが大事だった。目の前に浮かんだイメージを描き出すに必要な画材さえあれば、それで十分だったのだ。


*この作品の詳細については、
http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?workid=14887&searchid=25577&tabview=image

Reference
Victoria Finlay. Colour, London: Sceptre, 2002.

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