時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「正義」の光と陰

2011年09月24日 | 書棚の片隅から

 

 最近、このブログで話題としたテーマが、ほどなくTV、雑誌などで形は変わるがほぼ似た内容で論じられることが重なり、少し不思議な思いをしている。

 昨日(9月23日)、ふと見た「マイケル・サンデル;究極の選択」(NHK総合午後10;00)で、ボストン、東京、上海の著名大学を結び、IT時代ならではのTV討論を行っていた。9月13日のブログで取り上げたばかりのテーマだった。

 
サンデル教授司会のシリーズ番組のようだが、他の番組は見ていない。今回のテーマは、9.11後、オサマ・ビン・ラディンの殺害をめぐって、オバマ大統領が行った演説に関わるものだった。


「正義」の難しさ
 

やはり、Justice has been done. 「正義は行われた」という大統領の発言について、9.11以後、アメリカの行った戦争とその結果(オサマ・ビン・ラディンの殺害)が、「正義」の名に値するか議論が展開した。学生らしい真摯で、しばしば苦悩のにじむ思考、発言があり、総体として好感が持てる構成ではあった。サンデル教授の手慣れた議論の裁き方も相変わらずだった。

 
しかし、ひとりの視聴者として見ると、この種の番組の常として、多くの満たされない思いがある。結論が出ないテーマであることは当初から予想されるとしても、議論が収斂する方向と詰めがかなり甘い。オープンエンドに近い終わり方だ。哲学者が時間の制約なく、ゆっくりと論理を積み重ねて考える「正義」と、核兵器を持ったテロリストが乗り込んで目標に近づいている一般旅客機を撃墜することに「正義」があるか否かを、TVの限定された時間に論じること自体、かなり危うい議論だ。幸い、大学という舞台を背景にしての机上の(機上の)空論?だから認められる内容でもある。

 
といって、こうした議論が意味がないというわけではない。「正義とはなにか」を問う議論が、国境を越えて行われることは、多少なりとも相互理解への道につながるだろう。戦争などの当事者がお互いの立場を理解することは望ましいことだし、それ以外に本質的解決への道はないだろう。しかし、議論の次元がグローバル化したといっても、今回の番組でも、ほとんどその域外に置かれたきわめて多数の人々がいることを注意しておかねばならない。

抜け落ちている問題
 
今回のテーマに限れば、最大の問題は、イスラム過激派の思想を代弁する人物の考えや反応を聞くことができないことだ。9.11に関連する一連の事件の舞台に登場しながらも、ほとんど正当に自らの考えを述べる機会を奪われている当事者が、発言する場を持っていない。

 
同時多発テロを実行する過激派の考えを知り、理解することは現実には困難だろう。しかし、相手側の考えが十分提示されることなく、「正義」を議論することはフェアとはいえない。その意味で、少なくも多数のイスラム教徒が同じ問題についてどう考えているか、ぜひ知りたい。そこに西欧人あるいは西欧的思考に慣れたわれわれとは異なった問題の理解や思考が存在することは十分ありうることだ。

 
今回の3カ国の大学に加えて、アフガニスタンやイラク、イランなどの大学の学生が参加していたならば、議論はかなり違った方向へ進んだ可能性もある。全体として、西欧、とりわけアメリカ的な議論の組み立てであることにかなりの違和感を感じる。

刻み込まれた陰 
 
かつて筆者が若い頃、大学院寄宿舎のルームメートとして一時期を送った頃、Jという友人の学生がいた。このブログにも記したことがあるが、彼は朝鮮戦争末期に兵士として派遣され、除隊、帰国後、帰還兵(Veteran)への優遇措置によって大学院生としてキャンパスへ戻っていた。一般の学生よりも、かなり年上だった。日常の生活は学生としての忙しさにとりまぎれ、表面的にはとりたてて異様なことはなかった。今思うと、口数がきわめて少ない彼は、アメリカ人学生よりも、外国人で英語もうまくない私と話すことを楽しみにしていたようだった。

 
しかし、彼には大きな悩みがあった。夜間、目が覚め、夢遊病の症状を示すのだ。長い間、本人自身気づいていなかったらしい。筆者自身も知らなかった。一度だけ真夜中に、Jが隣室にいないことに気づき、宿舎内と周囲を探したことがあった。その時は遠く離れたベンチにひとり座っていた。

 
その後、この原因となったトラウマ(心的外傷)を、私に打ち明けてくれたことがあった。戦場に出て初めて銃で「人」を撃ったとぽつりと言った。その結果は口にしなかったし、私もあえて聞くことはなかった。短い会話だった。戦場の光景をTVで見る時、ふとこの時のことが頭をかすめることがある。

 

 

 

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戦争・災厄の17世紀と現代

2011年09月20日 | 書棚の片隅から



Anthony van Dyck
Portrait of the Princes Palatine Charles-Louis I and his Brother Robert

1637
Oil on canvas, 132 x 152 cm
Musée du Louvre, Paris

プファルツ、あるいはパラティネートは、ドイツ南西部、ライン川西岸の地域に相当し、1945年まで旧バヴァリア州に所属;もと近隣の上プファルツとともに、神聖ローマ帝国の公領。
1632年、画家ヴァン・ダイクはイングランド王チャールズII世のお抱え画家として、王と兄弟の肖像などを多数制作した。30年戦争の発端となったプファルツ選帝侯領の若い美男の王子たちの肖像画だが、甲冑で武装していることに注意。


  ピーター・ウイルソンの大著『ヨーロッパの悲劇:30年戦争の歴史』を読むべきか否かで最初ためらったのは、その膨大なページ数と小さな活字であったことは、前回記した。英語で書かれた30年戦争史は、筆者の知るかぎりでもいくつかある。その中では、C.V.ウエッジウッド女史の著作がよく知られているが、その2倍近い量である。しかもウエッジウッドの著作から、さらに70年近い年月が経過している。その間に、世界史上に大きな名をとどめるこの戦争の評価にいかなる変化があったか、興味を惹かれた。とりわけ、これまでの戦史よりも格段に実証に重点が置かれており、実態をより客観的に知ることができるかもしれないと思ったことが、最終的に背中を押した。

労作を手にするまで
 珍しく手に取る前に考えさせられた作品だった。なにしろ、1616年5月23日の戦争勃発まで、前段階の記述だけで269ページもある。しかし、実際にも背景は複雑であり、著者はまずそれを丁寧に解きほぐしている。結果として、あきらめずに読んで良かったと著者に感謝することになった。30年戦争にかかわる文献は数多いのだが、特定の史観が強かったり、実証部分が十分でないものが多く、知りたい部分が扱われていない文献が目立つ。その点、本書は17世紀ヨーロッパ史に関心を持つ者にとって、ウエッジウッドの著作に比肩する必読文献となることはもはや明らかである。著者がこの作品にかけた情熱と努力の大きさに脱帽した。

 これまでの戦史でなかなか分かりにくかったのは、16世紀初頭、ハプスブルグ帝国の台頭の仕組みであり、急速にヨーロッパ世界に支配の手を広げる過程に生まれた数々のグローバルな難題だった。ハプスブルグ家はヨーロッパの主要王家との巧みな婚姻政策といくつかの幸運にも恵まれ、ヨーロッパ中央部での覇権を目指した。その後ほぼ2世紀半にわたり、ヨーロッパの国家体制は大きく変わる。これに加えて、近隣のオットーマン・トルコの台頭が重なり、1529年にはウイーンが占領される事態まで起きた。しかし、ウイルソンが評価するように、神聖ローマ帝国の政治体制は、選帝候領、侯爵領、自由都市国家など、小規模な単位が多数並立する複雑な体制をとりながら、予想以上に機能したようだ。



 

17世紀神聖ローマ帝国領邦都市のひとつ、プファルツ、カイザースラウテルン
Kaiserslautern
Stich von Matthäus Merian, um 1630

 帝国拡大と増大する不安
 さて、
ヨーロッパでの神聖ローマ帝国版図の拡大は、近隣諸国に大きな脅威となる。とりわけ、帝国の西側に位置するフランスはその拡大に対抗する必要を感じていた。その先頭に立っていたのが、宰相リシュリューだった。グローバルな視野を持ったこの希有な政治家への興味も一段と深まる。このブログにしばしば登場するロレーヌ公国は、この時期、2大勢力の緩衝地帯としてかろうじて存続しえた。

 戦争の背後には、宗教的要因も強く働いた。象徴的には1519年に始まったマルティン・ルッターのヴィッテンブルグ教会扉に釘で打ち付けられた「95箇条の論題」提示が契機となる。ヨーロッパの包括支配を目指すハプスブルグ家としては、教会も版図の中にしっかりと位置づける必要があった。しかし、30年戦争を根底で動かしたのは、ウイルソンが明確に提示するように宗教的対立ではなく、あくまで政治的覇権をめぐる争いであった。

 こうした国家体制、政治、宗教の大問題を背景に勃発した戦争は、ハプスブルグ家の思惑とは異なり、次々と各国の介入を生み出し、泥沼状態へ入り込む。1625年のデンマークの進入に始まり、スエーデン、フランス、スペインの進入軍との戦闘が続いた。戦争の拡大する過程では、悪疫や飢饉が重なり、事態を史上例がないほどの過酷で悲惨な状態へと追い込んでいった。戦争自体は断続的であったが、長引くほどに収拾のありかは遠のいた。主戦場となった地、とりわけドイツの領邦諸国は、その後長らく荒廃した。戦争がようやく終結した1648年時点で、神聖ローマ帝国領内で失われた人命は少なく見ても500万人、帝国の開戦前人口の20%近くに達していた。17世紀は天災、飢饉、悪疫などの頻発した時代でもあった。

現代へのつながり
 時代が下り、3世紀半近くが経過した今日、世界を震撼とさせた
9.11の回顧番組を見ていると、同時多発テロ勃発後、アフガン戦争、オサマ・ビン・ラディンの暗殺にいたる過程が、あの30年戦争にいくつかの点で似通った問題を抱えていることに考えさせられた。いうまでもなく、時代背景もまったく異なるのだが、人類がほとんど同じ過ちを繰り返していることに暗澹たる気持ちが強まる。地球上では今も戦火が絶えない。戦争は多くの人命を奪い、貴重な人類の資産を喪失させてしまう。戦勝国にとっても、冷静に考えると決して大きな利得が発生するわけではない。ベトナム戦争の過ちを繰り返さないとの触れ込みで始まったイラク戦争も拡大を続けた。今改めて振り返ると、最大の当事国アメリカにとっては、ベトナム戦争以上に国家的・社会的犠牲の大きな泥沼状態をもたらした。

 9.11の犠牲者になりすまし、被災者ネットワークの代表として売名を図る者の出現に象徴されるように、戦争はアメリカの財政危機をもたらしたばかりか、国民の間に深い精神的荒廃も生んだ。ビン・ラディン殺害で安堵しえないばかりか、アメリカ国民の心の傷跡はさらに深まったのではないか。次第に少なくなってきた同世代のアメリカの友人たちもこのテーマになると、一様に眉が曇る。大国アメリカの再生に大きな期待をかけられたオバマ大統領だが、再選への道は一段と厳しくなってきた。未曾有の天災・人災に見舞われ、大きな重荷を背負うことになった日本も、真の国家戦略・自立のあり方を問われている。

 
 

Peter H. Wilson. Europe's Tragedy:A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, 995pp.


☆ 17世紀を振り返ることは、現代のあり方を考えることにつながるとの思いが強まるばかりです。災厄の多い年ですが、皆様のご無事、復旧・復興を祈っております。

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戦争の世紀;30年戦争そして9.11後の世界

2011年09月13日 | 書棚の片隅から

30年戦争の発端となった第二次プラハ窓外投擲事件を描いた当時の木版画
     Matthäus Merian the Elder (1593–1650)?


 神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世は、ボヘミア王に選出されると新教徒に対する弾圧を強めた。1618年、5月23日、弾圧に反対する新教徒の貴族たちがプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮執務室の窓から突き落とすという事件が起きた(ちなみに投げ出された顧問官などは幸い無傷だったらしい)。プロテスタントのボヘミア諸侯は、この事件を契機に団結し、反乱を起こす。

 

 世界を震撼させた
9.11の回顧番組を見ていると、同時多発テロ勃発後、アフガン戦争、オサマ・ビン・ラディンの暗殺にいたる過程が、30年戦争に多くの点で似通った問題を抱えていることに考えさせられた。いうまでもなく、時代背景もまったく異なるのだが、人類が同じ過ち、愚かさを幾度となく繰り返していることに暗澹たる気持ちが強まってくる。

 

*  横道に逸れるが、筆者にはアメリカがビン・ラディン殺害作戦に成功した日、オバマ大統領の演説でのJustice has been done. 「正義(報復)は行われた」という表現がひどく気になっている。Justice とは、誰がいかなる内容をもって定めたものか。確かに筆者の周辺にも長男を9.11で失った友人など、この世界に大きな衝撃を与えた、あの想像を絶する同時多発テロで深く傷ついた人たちもいるのだが。それに対する報復がそのままJusticeにつながるわけではない。そして、大統領は9.11の10周年追悼演説でも、われわれはイスラムを敵にしているのではないとも言っている。少なくも、アメリカあるいはその一部の人々が思う「正義」であり、世界に普遍的なJustice ではない。他方、オバマ大統領が信じている神はなにかという問題は、大統領選の間にも出ていた。犠牲者の関係者も含め、多くのアメリカ人は、この言葉を聞いて心中どう感じているのか。その心底をひとりひとり尋ねてみたい気がする。TV番組などの報道は数多いが、視聴者が知りたい問題は伝えてくれない。すでに亡くなったが、こうしたアプローチが得意であったスタッド・ターケルのような作家はいないだろうか。


閑話休題

 さて、多くの日本人にとって30年戦争が遠い存在であり、ほとんど理解されていない背景には、西洋史教育の問題があることはすでに前回ブログに指摘したが、そればかりではない。一面では、この戦争の実態が大変複雑で、1618年に勃発し、1648年に終結するまでの時間軸上でも、その内容が大きく変化したことにもある。これまでの歴史家の分類では、ハプスブルグ帝国に対抗する勢力や国家の名前を掲げて、通常次のような4段階に分類されている。


第1段階 ボヘミア・プファルツ戦争(1618-1623年)

第2段階 デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625-1629年)

第3段階 スウェーデン戦争(1630-1635年)

第4段階 フランス・スウェーデン戦争(1635-1648年)

 

 地域としては、今日のドイツを中心に展開した印象があるが、実際にはロレーヌなどを含む現在のフランス、オランダ、オーストリア、スイス、イタリア、ポーランド、スコットランドなどを包含していた、さらにスペイン、スエーデン、ローマ教皇庁などが積極的に介入していた。

 それにもかかわらず、30年戦争の主戦場となったのは、神聖ローマ帝国の版図の大きな部分を占めたドイツであった。戦争は宗教的対立から政治、経済、文化のあらゆる側面に甚大な影響をもたらした。

 このブログの関心事との関連では、美術、とりわけ絵画の分野における傷跡は深く残った。長らくドイツ人は「美術において野蛮人であるというトラウマ」を抱いていたといわれる。そしてその思いは若きゲーテにまで及んでいたようだ(ハンス・ベルティング『ドイツ人とドイツ美術』邦訳
pp.13-14
)。


 この問題は、30年戦争がドイツにもたらした精神的荒廃と強く結びついていると思う。だが、ブログという中途半端な場所で、30年戦史の広大な舞台に入り込むつもりはない。ただ、これまで日本ではほとんど知られていない部分を、同時代17世紀に生きた画家の世界と重ねて、できるかぎり同じ舞台装置の下で少しばかり考えてみたいと思うだけである(続く)。






Hans Belting. die Deutschen und ein Schwieriges Erbe. (仲間祐子訳『ドイツ人とドイツ美術~やっかいな遺産~』、晃洋書房、1998年)


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『ヨーロッパの悲劇: 30年戦争の新しい歴史』を読む

2011年09月07日 | 書棚の片隅から

 

 


 いつから始まったのか記憶が定かではないが、以前からごひいきのイギリスの老舗書店は、シーズンごとにお勧めの書籍リストを送ってきた。特に、
Summer’s Recommendations などと題して、夏の林間、休暇先での読書にお勧めという企画が多かった。大体500冊くらいお勧め本が並んでいる。時にはこれとは別に、筆者の専門分野のお勧めリストなるものを見計らい、制作し送ってくれたこともあった。最近では多くのメディアが同様な企画を行い、ホームページ上などに掲載している。IT
上の書店は、過去の購入記録を基に「お勧め欄」を設定してくれている。記憶力が落ちてきているので、忘れていたタイトルをそこで見つけて助けられることもあるが、頭の中を見透かされているようで開かないことも多い。

現代へつながる歴史の糸
 

わずかな読者の方しか脈絡をたどることができないかもしれないが、ブログ開設当時から少しずつ記している近世初期、17世紀の画家や小説の世界に始まり、現代まで、管理人が強い関心を寄せている時代がある。17世紀、1930年代、そして196070年代の世界である。いずれも「危機の時代」と呼ばれ、それぞれの時代固有の問題を抱えていた。

 

これらの時代を貫くものは、図らずも戦争とそれがもたらす荒廃であり、さらに戦争と強く結ばれた宗教、文化的課題であった。今年はあの9.11同時多発テロから10年目に当たるため、すでに多くの回顧番組・論評がなされている。それらの一部を目にしたにすぎないが、大変興味深い点の指摘がみられる。その時は事実と思った問題が実際は異なり、10年という時の経過を経てやっと見えてきた部分も数多い。歴史の評価には時の熟成が欠かせない。

 

読み応えのある大著 

 3.11東日本大震災の少し前から気になっていた一冊があった。17世紀ヨーロッパで勃発した30年戦争(1618-1648)に関する近刊のP.H.ウイルソンの大著だ。30年戦争はボヘミアにおけるプロテスタントの反乱を契機に勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、現在のヨーロッパ中央部のほぼ全域にわたり拡大した。日本の西洋史の教科では、通り一遍の記述しかされていない上に、遠いヨーロッパの出来事として説明も少なく、多くの日本人には実感が乏しい。

 

 しかし、30年戦争の実像を正しく把握することなくして、近世初期、17世紀ヨーロッパは理解できないと思う。世界史上最初の国際戦争ともいわれるこの戦争は、中央ヨーロッパのほぼ全域を覆い、政治、宗教が複雑に絡み合ったものであった。このブログでも30年戦争を直接とりあげたシラー(シルレル)、ウエッジウッドなどの戦史に触れてきたが、ともすれば結論先にありきとでもいえる印象が強く、客観的情報に欠け、知りたい部分が十分知りえず、隔靴掻痒の部分が残っていた。むしろ、30戦争を舞台とする周辺の著作の方がはるかに興味深かった。もっとも、ウエッジウッド女史の作品は時代考証もしっかりしており、ドイツの史家の思考が先走ってしまった作品よりも、際だって実証的であり、資料情報も豊富だった。


 この戦争がもたらした影響は、大陸ヨーロッパの全域に精神的にも深い傷跡を残した。とりわけ、ドイツ精神の基層において、黒死病よりも、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そしてホロコーストよりも残酷にその傷跡をとどめているとさえいわれる。ドイツ人の四分の一近くが死亡したともいわれ、ドイツの長きにわたる荒廃をもたらした。「ヴァレンシュタイン」の劇作は今でも人気があると聞く。今年4月に刊行された『シュピーゲル』誌の歴史特集も、30年戦争が主題だ。

 

 17世紀ヨーロッパに関心を抱くようになってから、シラーなどのストーリーが先にできあがっているような作品ではなく、史実に根を下ろし、全体的展望ができる作品はないかと思っていた。折しも、その点をかなり解明してくれるのではと思ったのが、2009年に刊行され、世界で絶賛を集めた大作、Peter H.Wilson. Europe's Tragedy; A New History of the Thirty Years Warである。主題は30年戦争を対象としながらも、『ヨーロッパの悲劇』である。

 30年戦争では大陸から離れ、高見の見物?とでもみられかねない立場にあったイギリスの歴史家による著作であり、かえって冷静に全体を見通せたのではないかと思われる作品だ。しかし、ほとんど
1,000ページに及ぶ大作であり、ためらっていたが、意を決して読み始めた。直ちに引き込まれたのだが、大著な上に活字のポイント数がきわめて小さく、ついに老眼鏡を作ることになった(笑)。しかし、苦労してなんとか読み終えた印象は、複雑な背景が見事に整理されており、著者のエネルギーに圧倒された。30年戦争に関する決定版ともいえる。歴史家ポウル・ケネディが絶賛しただけのことはある。シラーなどの大著と比較しても、格段に明快である。17世紀を学ぶ者には、本書は必読文献のひとつとなるだろう。

 

 表紙にはすでにこのブログではおなじみのロレーヌの銅版画家ジャック・カロのあまりに有名な光景が使われている。神聖ローマ帝国とフランス王国との間に挟まれた小国ロレーヌ公国が繁栄の時代を享受し、文化の花も開花させたにもかかわらず、その後自滅への道をたどる過程も壮大なドラマの中で的確に位置づけられている。

 
 ロレーヌは形の上では神聖ローマ帝国の一部を形成していたが、実際にはかなり幅広く自律性を維持し、歴代君主はフランスの王室や政治にもさまざまに介入、連携していた。一時は巧みな外交政策で、大国の狭間を生きていたロレーヌ公国がいかなる齟齬をきっかけに反転、衰退して行くか。中央ヨーロッパ全体の展望の中で、その有り様を確認してみたいと思ったことも、本書を手に取った動機のひとつであった。とはいえ、この大作の読後感は簡単にはまとめられない。今後、折に触れて解きほぐしていきたい。

 

Peter H. Wilson. Europe's TRAGEDY: A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, pp.996.

C.V. Wedgwood. Der Dreissigisjahrige Krieg; Die Ur-Katastrophe der Deutschen

"Der Dreissigjährige Krieg; Die Ur-Katastrophe der Deutschen" DER SPIEGEL, NR.4  1  2

 

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