時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

錬金術まで手がけた女性

2018年01月30日 | 書棚の片隅から

Vicki Leon, Uppity of Women  in the Renaissance, Conari Press, 1999
cover 


ラ・トゥールのこの絵は、様々な所で使われているので、見たことのある人は多いだろう。これもその一つである。タイトルの uppity というのは、「高ぶった、偉ぶった、横柄な、高慢な」「自己主張(自我)の強い、我を張る、素直さのない、不遜な」(ランダムハウス)という意味の形容詞である。『ルネサンス期の我の強い女性たち』というテーマの書籍の表紙に使われている。左側は前回取り上げた主人公(右側)の召使だが、二人ともかなり意味ありげな(怪しげな)表情である。17世紀の宮廷にはこうした女性が出入りをしていたことが史料に残っている。必ず実在のモデルを題材にしていたと思われるラ・トゥールの近辺にも、恐らくこのモデルに近い女性がいたのだろう。

錬金術まで手がけた女性 
前回は左側の召使いの黄色の帽子の顔料を取り上げたが、17世紀当時の画家たちが使っていた顔料は、出所、原材料が極度に秘密にされていたものが多かった。そこでは錬金術師 alchemists といわれる秘密の材料、工程から最終的には「金」を作り出そうとするかなり怪しげな職業が大きな勢力を持っていた。彼らはその過程で生まれる様々な色を顔料として、高価な価格で薬剤師や画家たちに売りつけていた。

 今回は、16世紀にこの怪しげな世界へ足を踏み入れた勇敢な女性の話である。現代では疑問の余地がない「機会のことを別にすれば、男女はあらゆる点で平等である」というコメントは、マリー Marie le Jars de Gourney という自らの人生における機会を創り出したことで有名な女性が述べたものだ。彼女はフランスの小さな田舎の下層貴族の家に生まれた。しかし、とりたてて学校教育のようなことも受けなかった。しかし、彼女は積極的に学ぶことで自分自身を教育し、人生に機会を創り出した。

モンテーニュに手紙を書く
最初の機会が大きく道を開いた。彼女は物怖じすることなく、当時ヨーロッパきっての哲学者・思想家モンテーニュMichel de Montaigne(1533-1592) へ手紙を送った。彼女の知性に溢れた手紙は、この偉大な哲学者を動かし、その後長い交友がつづいた。さらに1593年にはMontaigne の寡婦から「私の夫の遺稿を編纂してくれますか」との依頼まで受けた。Marieはこの仕事に飛びつき、程なくしてフランスの知的なサークルでの有名人へと変身していった。1597年にはさらに各地のインテリ・サークルを訪れるヨーロッパ旅行をしている。

この経験に勇気ずけられ、彼女はパリへ行き、文化人のサークルへ入ろうと試みた。しかし、まもなく生活費を使い果たし、所得を得る必要に迫られる。そして、なんと錬金術師の世界へ飛び込む。錬金術師の目的は「金」gold を作り出すことにあった。現代では金を作り出すことはあり得ないのだが、当時の錬金術師はそれが可能と考えられていた。しかし、錬金術師になることは、費用の点でもかなり大変であった。そこで、彼女は謎の多い錬金術師の世界について書くことで十分な所得を稼いだ。秘密の世界をあからさまにするという当時としては考えられないことだった。

錬金術師の工房を開設する作業
きわめて大変なことが一目瞭然
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さらに当時、錬金術は魔女とかなり重なるところがあった。1610年にはボルドー Bordeauxだけで400人を超える女性が魔女として処刑された。さらに錬金術は器具や材料に極めて高額な資金を要した。しかし、幸いなことに彼女には溶鉱炉のある工房を持つ友人がいた。そこで、ほとんど10年近くをそこで過ごし、香水師として生活費をまかなっていた。香水をつくることにもかなりの経験と技術を要した。貴婦人を中心に多くの顧客がいた。

さらに、未婚であった彼女は当時のフランスでは社会的に偏見の目で見られたのだが、1622年と1626年にフェミニズムについて2冊の本を出版した。伝統的な考えに縛られていた彼女の母親には大変衝撃的だったこの本、『男女の平等』Equality of Men and Women と『女性の苦難』 The Grief of Women はヒット作となり、再版にまでこぎつけた。かくして彼女は時代の波に乗り、フェミニズム、言語、詩、政治のジャンルまでカヴァーして執筆依頼を受けるまでになった。当時としては大変稀であった80歳まで生きたマリーは自立した女性として、若い世代のロール・モデルとなった。

本書ではルネッサンス期における100人近い図抜けた女性たちの群像が描かれている。

当時としては破天荒なマリー
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いかさま師召使の帽子はどこから来たか

2018年01月26日 | 午後のティールーム

 



Never ending story


1月23日の草津白根山の突然の噴火と火山事故の報道を見ていると、いくつかのことが脳裏に浮かんできた。それも半世紀近く昔にこの山に登った記憶である。鏡池という名前は忘れていたが、その美しい火口湖のイメージは記憶に残っていた。草津白根山ばかりでなく、日光白根山、吾妻山など比較的親しんできた火山には、「五色沼」などの名がついた神秘的な色をした火口湖があることが多い。記憶は不思議なもので、火山特有の硫黄や硫化水素臭のことまで思い出していた。


このブログに過去に訪れてくださった皆さんの中には、ラ・トゥールの「いかさま師」に描かれている妖艶な?顔の女主人公の召使と思われる若い女性が被っている鮮やかな黄色の帽子のことをご存知かもしれない。この召使いの表情、目つきもかなり怪しげだ。しかし、よくみると、この帽子の色彩は大変複雑で、画家がかなり考えての配色であることがわかる。おそらく手元にあった唯一の黄色の顔料だろう。その濃淡を駆使して、後世に残るこれだけの表現を成し遂げた画家の力量には、ひたすら感嘆する。顔料が極めて高価で限られていたこの時代、17世紀始めの頃の絵画で、黄色がこれほど目立つように使われている作品は数少ない。この黄色、大変鮮やかであり、Jaune Brillant 「鮮やかな黄色」とも言われていた。

Jaune Brillantは、当時の画家たちが非常に欲しがった色だった。金色を表現するに使ったり、光の効果を出すのに適していた。錬金術師たちが活躍していた時代、画家や薬剤師が欲しがる顔料の材料や配合は秘中の秘であった。画家が使える顔料、絵の具の種類は限られていた。今日のように人の手で化学的に合成された絵の具はほとんどなかった。この黄色は通称「ナポリの黄色」Naples yellow の名でも知られていた。というのも、ヴェスビアス 火山Mount Vesviusの中腹で採掘された鉱石から作られたのではないかと推定されていたからだ。今では分析で、主たる成分は、鉛アンチモニーであることが分かっている。アンチモニーは顔料の歴史でも古代エジプトまで遡る古い歴史を持っている。


この絵具の顔料が発見された経緯も明らかになった。18世紀初め、プルシャン・ブルーが発見された経緯と似ているが、1970年代初め、ドイツのダルムシュタットの古い薬屋でおよそ100近い小瓶が発見された。それぞれに違った色の液体や固体の入ったジャムの瓶のような容器、インク壺のようなもの、香水瓶のようなものからなっていた。さらに、それぞれに手書きで注意深く記された名称のラベルが貼ってあった。しかし、それでも何が入っているかは容易には分からなかった。’Virid aeris’、’Cudbeard Persia’ など奇妙で風変わりな名称がつけられていた。多くは19世紀頃から貯蔵されてきたものだった。その中に’Neapelgelb Neopilitanische Gelb Verbindung dis Spießflz, Bleies’ という名称で、長らく伝説となって多くの薬剤師や画家たちが探し求めてきた Naples yellow (「ナポリの黄色」)と思われる顔料も含まれていた。

これらの瓶を受け継いできた薬屋は、「ナポリの黄色」は画家がとても欲しがった顔料だったことは知っていた。製法は不明であったが、ラベルから鉛アンチモニーが原料であり、それを何らかの合成プロセスを経て作り出されたものだということが推定された。

この色名を最初に使ったのは、1693-1700年くらいの時期に、ジェスイットの修道士であり、ラテン・フレスコ画家でもあった アンドレア・ポッソ Andrea Pozzoではないかと推定されている。彼は黄色の顔料を’luteolum Napollitanum’ と名づけており、当時すでにその名称が使われていたようだ。

クローム・イエローという別の黄色よりは画家たちに好まれたが、「ナポリの黄色」は必ずしも安定した顔料ではなかった。色調は明るく、暖かく、好ましい黄色なのだが、日光に長く晒されると退色することが分かってきた。そのためスパチュラという象牙などで作られたへらで伸ばして厚めに使うことが口伝で勧められていた。顔料の原料もどこから来たか分からなったが、探索の結果、やはりヴェスビアス火山が源ではないかと推察されるようになった。

今日、世の中に存在する色には Index Generic Name が付けられるようになっている。この「ナポリの黄色」は 通常 Pigment Yellow 41 として知られている。「黄色 」yellow という色名だけをとっても、Blonde, Led-tin yellow, Acid yellow, Naples yellow, Chrome yellow, Gamboge, Orpiment, Imperial yellow, Gold など、よく知られたものだけでも数多く、それぞれ独特の色調と、歴史を持っている。絵画一点をとっても、その鑑賞の世界は色々と奧深い。それにしても、ラ・トゥールはあのいわくありげな召使いの帽子の絶妙な黄色を何から思いつき、顔料はどこから手に入れたのだろうか。以前に本ブログで「フェルメールの帽子」について記したことがあるが、「帽子」について書き始めると、 Never ending story の世界に入ってしまう。

 

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浮遊する祖国とさまよう人々

2018年01月22日 | 書棚の片隅から

 

記憶は出来損ないの犬のようだ


崩壊する世界システムと故国喪失

友人のドイツ人の紹介で、ドイツ人作家が描いた移民問題のコミック(グラフィック)・ノヴェルがあることを知った。なんとすでに日本語訳まで出ていた。早速、取り寄せ旅の途上で読んでみた。

Birgit Weihe, Madgermanes

ビルギット・ウェイエ「マッドジャーマンズ:ドイツ移民物語」(山口侑紀訳、花伝社、2017年) 、多和田葉子氏推薦(本書帯)

著者は1969年ドイツ生まれ、東アフリカ(ウガンダ、ケニア)で3歳頃からの幼少期を過ごし、19歳からドイツに戻り、現在はハンブルグに住む女性グラフィック作家である。本書でコミック分野での大きな賞とされる「マックスとモリッツ賞」などを受賞している。

Was ist Heimat?  故国とは?
半世紀近く「労働」、「人の移動」、「移民、外国人労働者」などを研究テーマの一つとしてきたブログ筆者にとっては、本書のストーリー自体は、比較的見慣れたイメージである。生まれた故郷、故国を離れ、外国で働く間に、自分にとって真の故国はどこであるかを喪失した、Heimatlose[r], Diaspora (故郷喪失、家族の分裂、離散)
のケースである。元来、資本主義の下に生み出された労働者は Heimatlose[r]なのだ。しかし、現代的コンテクストに置いて、秀抜なのはその特異なグラフィックスである。ブログ筆者は「漫画」は若い頃は数多く読んだが、近年の「マンガ」はほとんど読むことはない。このビルギット・ウエイスのグラフィックスは、そのどちらでもない。

本書のテーマは、GDRで働くモザンビークからの契約労働者が帰るべき故国、家族とともに住むべき故国のいずれをも失った話から現代世界に見られる移民労働者三人のケースである。東西ドイツの統合前に東ベルリンへ契約労働者として出稼ぎに出たケースの顛末もある。いずれも、実際のケースではないとの断りが付されている。しかし、作者自身が体験した現実を想定した上で描かれたことは容易に推察できる。

そこでは、母国を離れた多くの移民、難民が共有する、自分にとって本当の祖国はどこなのかという、よく知られたテーマが提示される。加えて、家庭・家族の概念に関する問題、故郷と文化的アイデンティなどが扱われている。しかし、長い文章ではなく、すべてシンボリックなグラフィックスで描かれている。時々出てくる短い言葉が印象的だ。

取り上げられた対象は、実在したケースそのものではないとされるが、同時にドイツに生れながら、長年のアフリカ生活から「故国」へ戻った?著者の脳裏に刻み込まれたGDRの現実が重なっている。彼女にはドイツ社会はオープンではなかったという。彼女にとって現在そして近い未来のGDRは、心の故国になりうるのか。

2015年、GDRのメルケル首相がオバマ版(Yes, we can!)ともいうべき”Wir schaffen das” (“We can do”) のスローガンの下に多数の移民・難民を受け入れたことは、世界的な賛辞の的となった。しかし、現実にはその後の外国人排斥を旨とする「ペギーダ」、極右政党AfDの台頭を招いた。新たなパンドラの箱が開かれるきっかけとなった。

折しも、「ノーベル文学賞」を受賞したカズオ・イシグロ氏が日本文化の一つの特徴としての「漫画文化」についての関心を語っているインタヴューを見た。

ビルギット・ウエイエの提示は「漫画」ではない。しかし、新たな可能性を感じさせる独特のグラフィックスと短文が小説やドキュメンタリーとは異なる、ある種の新鮮さを持っている。直截に読者の心中に訴えるグラフィック・ストーリーは、現代の一つの有力なコミュニケーション手段であり、文化であることを感じさせられる。時間が与えられるならば、今後の作品を見て見たい気がする。

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現代は何色の時代だろうか

2018年01月20日 | 午後のティールーム

 


現代の世界は色で表したら何色の時代と言えるだろうか。全地球規模で見ると、核戦争、異常気象、難民などに象徴される人類史上の危機、あるいは破滅の兆しも忍び寄っている。灰色や黒色に近いと感じる人々も少なくない。将来が希望に満ちた時代とは思いがたい17世紀に近い「不安な時代」に我々は生きているのだ。

他方、一部では青色への関心も高まっている。青色 blue には、ブルー・マンデイ、ブルーな気分など、憂鬱、不安、弛緩などの状態を表現するにも使われる。実際、オックスフォードの英語辞典(OED)などを引いてみると、1)晴れた日の空や海のような緑色と紫色の中間の色、2)冷たさや呼吸の困難の結果として皮膚の色が蒼白に変わった色、などの解釈が出てくる。最近話題の「広辞苑」(第7版)は未だ手元にないが、第6版には、「一説に、古代日本語の固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、明・暗・顕・漠を原義とし、本来は灰色がかった白色をいうらしい」との記述もある。

人々、とりわけ日本人は、この「不安な時代」を何色のフィルターで見ているのだろうか。蛇足ながら、筆者のブログは青色が基調になっているが、HPやブログなるものに慣れない頃に出会ったテンプレートを使っているにすぎない。視力の弱くなってきた筆者には、白地に黒の文章はコントラストが大きく疲れる。長い間活字を目にしてきた職業病?なのかもしれない(笑)。

最近、金沢兼六園内、成巽閣の和室天井の群青色が話題となっているとの短い報道を見た。天井などに和室としては極めて斬新な印象を与える鮮やかな群青色が使われている。使われている顔料はフランスから輸入されたラピスラズリではないかとも伝えられている。日本絵具の「群青」(岩絵の具、深みのある濃い青色)に近い。成巽閣はかつて訪れたことがあるが、その革新性には驚かされた印象が残る。

少し視点が変わるが、旧・新石器時代、赤、黒、褐色が最高の色とされた。古代ギリシャ・ローマ時代は黒、白、赤色が重要だったとも言われる。とりわけ、ローマ人にとっては青色は野蛮・未開の色とされた。ケルトの兵士は身体を青色に染めていたとの話もある。古代ローマでは青色の衣類を着ることは、喪や不幸の時であった。もっとも古代エジプトなどは例外で、前回記した青色が尊重された。もっとも、他のヨーロッパ地域では必ずしもそうではなかった。

13世紀以前にはキリスト教世界でも青はあまり使われなかった。全体の1%程度だった。しかし、その後、変化が起きた。1130-40年建設のパリのサン・デニ教会でガラスに青色が使われた。さらにシャルトルやサン・ドニ聖堂でも有名な美しい青色ガラスが使われるようになった。中世以来、聖マリアの外衣など、衣装にも高貴な色として使われている。

このように、日本と西洋では受け取り方も異なり、時代によっても変化している。

顔料の素材も、鉱石系(藍銅鉱、アズライト azurite、植物系 藍)が大きな流れだったが、現在は人工的に製造されたウルトラマリンが多い。色調の区別、名称にも混乱もある。青色と言っても与える印象は様々なのだ。

拙速な結びだが、冒頭の疑問については、青色が持つ時代への不安感、鬱積感を抱く現代人が、成巽閣和室に使われたような同時代の通弊、制限などを打ち砕く革新、深遠さを含んだ群青色の天井に、一抹の救いや希望の兆しなどをなんとなく感じ取るからかもしれないと思ってもいる。


Reference

*追記(1/21/2018) 『広辞苑』第7版も全く同じ記述であることを確認。

色彩の歴史については内外に多くの出版物がある。青については例えば下記が近づきやすいかもしれない。

小林康夫『青の美術史』ポーラ文化研究所、1999年。

成巽閣:石川県金沢市兼六町1-2
http://www.seisonkaku.com/
13代藩主前田斉泰母堂の隠居所



 

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青いカバ? 蒼いカバ?

2018年01月14日 | 午後のティールーム

 

 



Standing Hippopotamus
Metropolitan Museum of Art

カバ立像、メトロポリタン美術館蔵
 

青という色に関心を持ち始めたのはいつ頃なのかは、よく分からない。ただ、青色にはどんな色調があり、いかなる顔料から作られるのだろうかということに興味を抱いて多少調べたことがある。その頃から前回取り上げた「プルーシアン・ブルー」と並び、「エジプシャン・ブルー」という名がついた青色があることに気づいていた。

後年、青色の歴史をさらに調べる機会があり、興味深いことがわかった。かつてニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れた時に古代エジプト美術の部門で、小さなカバ(河馬 hippopotamus)の陶器置物(faience 乳濁釉のかかった装飾陶器) が展示されていたことを思い出した。その後、ルーブル美術館、大英博物館などでも同様な置物に出会った。王のピラミットの副葬品だろうか。いずれもが美しいエナメルのような光沢のある青色であったことに気づいていた。概して blue azur と言われた薄い空のようで、光沢のある色だったが、濃淡もあり色調は厳密に比較できたわけではない。

古代エジプト人とカバの関係にも興味を持った。こうした副葬品が多数作られたのは、ナイル川沿岸にカバが多数生息し狩猟の対象となっていたらしいが、現代人が動物園などでイメージする以上に、かなり獰猛な動物であったようだ。貴人の墳墓にはその時代の様々なものが副葬品として葬られていた。想像だが、カバは当時のエジプト 人にとってかなり身近な存在だったのだろう。

カバはギリシア、ローマでも知られていて、その勇猛さで「河の中のライオン」ともいわれていたらしい。しかし、古代エジプト人がカバをなぜこのような美しい色で彩色し、後世の記憶に残したのかはよく分からない。カバという動物に何か特別に崇められるような意識を持っていたのだろうか。この陶器には、ナイル河の岸辺に咲いていたのだろうか、蓮の花、蕾が描かれている。

カバを青色で彩色したことについて、古代エジプトでは天然の鉱物顔料であるラピスラズリ、トルコ石は知られていたようだが、その供給は極めて限られていた。例えばラピスラズリは現在のアフガニスタンなどで産出した貴石であり、交易を通して伝わってきたと考えられる。

古代エジプト人はこの貴石の色に魅せられ、この神秘的な青い(蒼い)色を自らの手で作り出そうとしたようだ。彼らは、人工的に合成顔料を作り出すことに長けていた。推定700度以上の高い温度の火力を使い、天然には存在しなかった青色の合成に成功していた。錬金術のようなプロセスがあったと思われるが、現代人の想像を超える。19世紀ヨーロッパの陶磁器メーカーは、その製法を探索したが、なかなか分からなかったらしい。今日では、アレキサンダー・ブルーとも言われる緑青(ケイ酸銅カルシウム)に近い成分であることが分かっている。

これらの古代エジプトの美術品、装飾品などをみると、顔料ひとつをとっても、現代人がすぐには想像できないような化学的手法から生み出されていることが分かる。多数の試行錯誤の結果と思われるが、その美的感覚、豊かな創造力の源には改めて感嘆する。 

 

Reference

ちなみに、このカバの置物は”William” の愛称で親しまれてきた。古代エジプト中王朝 ca. 1961–1878 B.C. の作品と推定されている。材質は陶器用の粘土を含んでいないが、通常は陶器の範疇に入れられている。同博物館のショップでスーヴェニアとして販売されていたと記憶している。


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色々物語:北斎の青

2018年01月06日 | 午後のティールーム

 

葛飾北斎
冨嶽36景 甲州石班澤
1830-33 (天保元−4)年頃 


北斎の作品と生涯が各所で大きな話題となっている。元旦に載せた作品 (『神奈川県冲波裏』)に加えて、今回は『甲州石班澤』について少し記してみたい。これも大変有名な作品だ。この作品は現在の山梨県鰍沢のどこかからの富士山遠望を、漁師が網を打っている光景を前景にして描いている。構図の秀抜なことに加えて、ほとんど全てを濃淡のある青色を駆使して描いている美しさは際立っている。とりわけ、青一色の濃淡でこれだけの迫力ある作品に仕上げた技量には、日本人ならずとも感嘆することは間違いない。実際、大変な人気で北斎は200枚ぐらいで磨耗して、線の鋭利さが薄れてしまう板木を様々に工夫して需要に応えたようだ。

その結果、初刷(しょずり)、後刷(のちずり)、異版(いはん)などで使われている色、構図などに違いはあるが、この青色の美しさは、”北斎ブルー” として内外の人気を集めてきた。使われている絵具が何であるかは、今後の化学分析に待つことになるが、「べろ藍」,「藍」(植物性)などを駆使しての作品と思われる。初刷の評判が大きかった後、北斎が工夫した多色刷も美しいが、筆者は青一色で制作した作品が素晴らしいと思う。

 


ジャポニズムとして大きな影響を与えたヨーロッパでは、18世紀初めは青色はウルトラマリーン Ultramarine が画家たちには人気があった。しかし、価格はまだかなり高価であり、供給も安定していなかった。また、smalt,といわれた青色顔料、 緑青、azurite 藍銅鉱,インディゴ  indigoなどが使われていた。しかし、これらは多少緑がかっていて、顔料の供給も不足していて、画家にとっては頼りにならなかった。そこで新たに生み出されたPrussian blue は理想の顔料として歓迎されたようだ。濃淡の色調が作れる上に、地塗り材の鉛白とも相性がよかった。

前回記した薬剤師ディッペルはうさんくさい所もあったらしいが、商才に長け、1710年にはこの顔料を売り出した。1724年、イギリスの化学者 John Woodwoodが、製法、プロセスを公にするまでは製法も秘密だったらしい。その結果、1750年頃にはヨーロッパ中で作られるまでになった。さらに価格も安くなり、ウルトラマリーンの10分の1近くになった。もっとも、強い光やアルカリに影響を受けると退色することも分かってきた。

こうした問題はあったが、プルーシアン青は、イギリスの版画家 W. ホガース、画家のJ.コンスタブル、ヴァン・ゴッホ、モネなどが好んで使いだした。さらに北斎、広重など、日本の浮世絵画家や版画家も大変よろこんだらしい。北斎もその一人だった。青の時代のピカソもこの色を好んだ。用途も拡大し、壁紙、塗料、布の染色などに広く使われるようになった。

少し時代を遡り、17世紀頃は青色は高価なラピスラズリなどを別にすると、アズライトなどの鉱石系顔料が主だったようだ。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合をみると、青色系は大変少ない。『松明のある聖セバスティアヌス』(ルーヴル蔵)の侍女のヴェール
 、『槍を持つ聖トマス』の外衣など、数少ない。一枚の作品もよく見ると、様々なことを語ってくれる。


 

Referencee 

日本経済新聞(2018年1月5日,夕刊)が「北斎の世界にタイムスリップ」と題して 「めでたい北斎〜まるっとまるごと福づくし〜」と題する「すみだ北斎美術館」の展示について紹介している。北斎は作品数が多く、今後も多くの発見が期待される。

Kassia St. Clair 

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謹賀新年

2018年01月01日 | 午後のティールーム

葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖波裏
1830-33 (天保元年ー三年)頃 


新年おめでとうございます

 

荒波の彼方に見える富士山、なんとなく、激動避けがたい今年の行方を暗示するようでもある。

北斎の作品は青が大変美しい。しかし、一口に青と言っても様々な色調がある。北斎の作品に使われた青は植物性の藍が多かったと推定されるが、江戸時代後期には「べろ藍」といわれた明るい色調のペルシャ風青 Prusian blue が輸入され、この画家の手元にも届くようになっていた。北斎や広重が好んで使ったといわれる。『富嶽三十六景』の時点では藍が使われていたのではないかと思われるが、画材の化学分析をしてみないと見ただけでは良く分からない。「ベロ藍」の名は、ベルリンの藍色に由来するともいわれる。明治時代になってから使われるようになったようだ。なぜ、ベルリンなのかを少し調べてみると、意外なことが分かってきた。

1704年から1706年くらいの時期に、偶然作り出されたといわれる。ベルリンにいたヨハン・ヤコブ・ディースバッハという絵具屋で錬金術師が、コチニール・レッドといわれる赤の顔料、レーキをなんとか作ろうとしている時に、配合の誤りで偶然出来てしまったという話が伝わっている。コチニールについては、このブログでも取り上げたことがるが、当時はその原料や製法は秘密になっていて、謎だったらしい。この錬金術師がいつも通りの怪しげな手順で、それに近いような色を作っていたところ、強い色調の赤になるはずが、薄いピンクがかった青色になってしまった。鉄硝酸塩と炭酸カリウムとを混合して作っていたらしい。

不審に思って原料を買った錬金術師で薬屋であるヨハン・コンラッド・ディペッル なる男に文句をつけ、作り直している過程で、よく分からない化学反応を起こして、Blutlaugensals 文字通り「血のようなアルカリ塩」という名で今日にも伝わる色になったという。それと併せて青色の塊が出来たらしい。これが、’Prussian blue’ という名の源のようだ。どうやら「ベルリンの青」が「ベル藍」の源らしい。

「藍より青く」
この点の詮索はこのくらいとして、晩年の北斎はこの新しい鮮やかな「べろ藍」を好み、使い分けたようだ。この「藍より青く…….」という語句から連想されることがいくつかある。「出藍の誉れ」(弟子がその師匠を越えてすぐれているという名声;「広辞苑」第6版)という著名な成句、山田太一『藍より青く』という小説で、1972 年にはTVドラマにもなったようだが、ブログ筆者には読んだような記憶はおぼろげにあるが、TVを見た記憶は全くない。元来、連続TV番組はほとんど見たことがない。もう一つは、第二次大戦中に歌われた軍歌の始まりの部分で、メロディーは数少ない音楽的軍歌と言われる。これもブログ筆者は聞いた覚えはあるのだが、残念ながら?初めの部分だけで、歌詞の全文は覚えていない。確か「落下傘部隊」?の歌だったと微かに記憶している。戦後、時々宴会などで軍歌を歌う人がいたので、その残像かもしれない。歌詞は調べればわかることだが、その意欲がない。このブログを訪れてくださる方の中にもしかするとご存知の方がおられるかもしれないが、いずれにしろ少数だろう。

新年、世界が平和であることを祈りながら。


 

 

Reference
『色彩用語事典』東京大学出版会、2003年
Kassia St Ckair, The Secret Lives of Colour, John Murray, 2016. 


 

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