時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

給付金より効果があったWBCワクチン?

2009年03月31日 | 雑記帳の欄外

 WBCでのサムライ・ジャパンの優勝は、不況で沈んでいる日本にとって、久しぶりに憂鬱な日々を吹き飛ばす効果があったようだ。メディアの取り上げ方も、驚くばかり。よほど明るいニュースがなかったのですね。

 スポーツは「抗不況効果」ありという英誌 の記事*が目に止まった。グローバル大不況からは、いまやいかなる産業も逃れがたいが、主要なスポーツ産業?は、幸い難を逃れ、好調なようだ。

 イギリスの国技クリケットも、サッカーもまずまずのようだ。もっとも、不況の影響がみられないわけではない。サッカー、イングランド・プレミアリーグの選手のユニフォームからも、それが分かるようだ。マンチェスター・ユナイテッドのスポンサーAIGは、今はアメリカ政府の所有するところになってしまった。ウエストハムは、スポンサーの保険会社が破綻し、企業ロゴが3ヶ月無かったこともあったとのこと。しかし、それでも試合のTV放映権などでしっかり稼いでいるらしい。

 こうしたスポーツ産業が持っている強みは、ひとつには試合の放映権などをスポンサー企業などへ販売できることにあり、不況下でも買い手がつくらしい。さらに、放映権その他の契約が数年から10年など、長期にわたることが多く、その点でも安定しているようだ。アメリカで人気のプロ・バスケットボールは、協会が75億ドルで8年間の契約を結んだところだ。

 不況になると、人々は苦しい現実から一時でも逃れようと、現実逃避主義になるらしい。そして、難関を切り開くヒーローを見たくなり、その活躍に拍手を送る。そして、財布を開きたくもなるようだ。

 適度にハラハラさせてくれて、応援でストレスを振り切り、自分が苦難を克服したような高揚感が得られる。その後、しばらく仕事にも前向きになる。

 確かに、WBCも最後の最後まで、観衆をひきつけて、イチローが「美味しいところ」をいただき(!)、波瀾万丈、緊迫感もあって、劇的なできあがり。サッカー、ワールドカップ、アジア最終戦予選対バーレーン戦の勝利も、気分高揚効果は大きかったようだ。こちらも期待通り、ヒーロー俊輔が大活躍してくれて、唯一の得点というのも、効能書き通り?。

 
* "Sport:  Is it recession-proof?" The Economist February 14th
2009.

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新たな連帯の可能性

2009年03月29日 | 労働の新次元

 

 

 かつてアメリカでは、就任式を終えて、ホワイトハウスに入った新大統領は、道を隔てたAFL-CIO(米国労働総同盟産別会議、米国最大の労働組合連合体)本部に挨拶に出向いたという。特に、民主党の大統領であった場合は、労働組合は大きな支持基盤でもあり、「ビッグ・レーバー」といわれた一大勢力であったから、大統領自ら足を運んだのも当然だった。  

 ところが、今はAFL-CIOの委員長の方から、ホワイトハウスへ出かけるらしい。現在のジョン・スウィニー委員長は、ほとんど毎週訪れているとのこと。ちなみに、ブッシュ大統領は、8年間の任期中にスウィニー氏を招いたのは、わずか一回だった。

 オバマ大統領は占拠活動中からも労働側に好意的(プロ・レーバー)であり、EFCA法案(後述)にも支持を表明している。労働長官には、労働組合ティムスターズのショップスチュワードの娘であるヒルダ・ソリスを任命している。

退潮傾向の労働組合 
 時代は大きく変わった。アメリカの労働組合組織率は、1980年の20%から2005年には13%まで低下してしまった。しかも、組合員の半数近くは公務員である。民間部門の組織率は8%程度にすぎない。労働者を代表しているとは、とてもいえない状況だ。近年では、2005年にティムスターズ、サービス従業員国際組合(SEIU)などがAFL-CIOから脱退するなど、組合運動の基盤は大きく揺らいでいる。 「ビッグ・レーバー」という表現はいつの間にか使われなくなった。 

 日本の推定組織率も、07年6月時点で、労働者の18.1%近くまで低下している。1970年では35.4%であった。傾向として低下しており、日米ともに、組合は労働者を代表しているとはいえない状況になっている。本来ならば、労働組合が最も働きを問われる時代のはずなのだが。 

 日本ではあまり報道されていないが、最近アメリカでは「従業員自由選択法」 The Employee Free Choice Act (EFCA) 法案(通称「カードチェック」法案)が、議会で審議に入っている。使用者の抵抗などもあって、遅々として組織化が進まない職場の状況を労働組合に有利な方向へ変えるよう支援する法案である。1935年制定以来のNational Labor Relations Act を修正し、従業員が組合を組織、加入することを支援することをめざしている。  

 現行の労働法では、組合が未組織の職場の組織化を図る場合、先ず、オルグの従業員は組合から白紙のカードをもらい、同僚の従業員の署名を集める。従業員の30%の署名をとりつけると、使用者に提示し、使用者は組織化について従業員の無記名投票を行うか決定する。しかし、実際には使用者側の干渉を防ぐため、組合側は従業員の50-60%が組織化に賛成を決めるまで使用者に開示しないことが多い。

 投票を行うことになれば、NLRBの監督下で選挙を行い、過半数を得た組合が排他的団体交渉権を獲得する。このプロセス、いくつかの映画でもとりあげられた。少し古いが、南部の繊維工場を組織化する状況をテーマとした映画『ノーマ・レイ』(1979年)などでご存じの方もあるかもしれない。主役の女性ノーマが、選挙に勝った時に、
UNIONと書かれたボードを高く掲げる光景が残像として残っている。しかし、これは組合がまだ組織力を発揮できた時代の映画だった。その後、企業の反組合的 union bashing な活動も強まり、組織率は低下を続けた。

「カードチェック」は起死回生の妙薬か 
 議会の審議過程でかなりの修正が行われるとみられるが、「カードチェック」法案の基本部分は次のようになっている。新法EFCAが成立すると、ある組合が従業員の過半数の署名をとりつければ、NLRBは当該組合を団体交渉のための排他的代表として認証する。しかし、もし30%の署名を得た組合が無記名投票を要請すれば、投票も行われる。EFCAは使用者でなく従業員に無記名投票するかの決定権を与える。この法案の発想の源は、カナダにあった。カナダでは一部の州を除き、交渉単位となる労働者の過半数の支持を得れば、選挙を実施することなく排他的交渉権を獲得する自動認証という仕組みを採用している。カダは労働組合の組織率が30%近くで、アメリカよりかなり高い。  

 賛否様々で、法案の帰趨は土壇場まで分からないといわれている。ケネス・アロー、ロバート・ソロー、ジョセフ・スティグリッツなどノーベル経済学賞受賞者を含む40人の経済学者が、労働者の交渉力の弱さが今回の経済危機を悪化させたとして、EFCAの支持表明を「ワシントン・ポスト」紙に出しているが、経済学者の間でも議論は分かれている。仮にEFCAが成立しても、組合活動が大きな復活の契機になる保証はなにもない。

 労働組合という組織自体が、現代の労働市場にそぐわないものになっているという指摘もかねてからある。組合がここまで衰退してきたのは、組織分野の高賃金が仕事の機会を失わせるという労働者の見方の反映だともいわれている。現代の多様化した仕事の実態が、組合という集団的契約を主軸とする方向と、もはや合わなくなったという主張もある。

新しい運動は生まれるか
 いずれにせよ、これまでの組合の延長線上では、組合の再生はありえないという見方に収斂しつつあるようだ。まったく新しい思想に基づく組合のイメージが必要とされている。従来からいくつかの試みがなされてきたが、たとえば社会起業家のサラ・ホロウィッツが組織したフリーランス・ユニオンが注目を集めている。独立した労働者の要望に応える形で、30万人を越える組織にまで拡大した。 仕事の性質から通常団体交渉はない。その代わりに、フリーランサーの仕事の条件作りに力を入れる。自ら利益無視の保険会社を設立し、安価な健康保険を供与し、政治的にも積極的に活動するという方向である。

 政治的面でのひとつの成功例は、ブルームベルグ・ニューヨーク市長にフリーランスに減税を認めさせたことだ。ホロウイッツ委員長は長期的には保険ではなく、貯蓄をベースとする新しい失業給付システムを抗争しているという。ひところ「団結」solidarityについて語ることを嫌う風潮があったが、この大不況の中で、共通の目的のために集まるという動きが強まっているらしい。退潮著しいAFL-CIOの中にも、Working America という草の根レベルの組合が活性化している。かつての「ビッグ・レーバー」のイメージは、もはやそこにはない。 しかし、かすかながら、新たな芽生えがありそうな気配もある。

必要な自立の力の養成
 さて、日本はどうだろうか。ようやく形の上では、政労使が一体となって雇用を創出するという動きにはなってきたが、具体化へのイメージは見えてこない。主として大企業、正規従業員が主体である企業別組合、そしてその上に立つ「連合」は、多くの点で限界が見えている。政策にも迫力が感じられない。労働者の数の上では少数派の組織が、大多数の未組織労働者の考えを代表することは本質的にできない。これは、日本を含めて各国の労働の歴史が証明している。正社員の組合が未組織分野を組織化しようと試みて、顕著な成功を収めた例は少ない。派遣労働者などの未組織労働者は、正社員組合の雇用安全弁に位置づけられてしまっているからだ。 

 今日の状況で、最も大事なことは、組織という支えがなにもない中小企業、非正規労働者などの声が、国の政策や自助・自立の道へ反映する仕組みを創りだすことではないか。労働者の大部分は未組織だ。セーフティ・ネットからこぼれ落ちやすく、改善への「発言」の道も限られている。

 社会政策上のセーフティ・ネットを充実させる必要はいうまでもないが、労働者が自らの力で考え、現状を改善、向上させる仕組みを生み出すことが欠かせない。下からの新たな連帯の構想が必要になっている。「フリーランス・ユニオン」などのように、従来の路線とは異なる新しい観点に立った草の根レベルからの自己努力はどうしても必要だ。さまざまなNPOも活動し始めた。このブログでも、アルゼンチンの「連帯経済」、「回復工場」について記したこともある。セーフティ・ネットをしっかり張り直すことに加えて
、当事者が自らしっかりと根を張って立ち上がる力を育まねばならないと思う。 春の到来、新しい動きが芽生えてほしい!




References
"In from the cold?" The Economist, March 14th 2009.

Albert O. Hirschman. Getting Ahead Collectively:Grassroots Experiences in Latin America. New York: Pergamon Press, 1984.
アルバート・O. ハーシュマン(矢野修一、宮田剛志、武井泉訳)『連帯経済の可能性―ラテンアメリカにおける草の根の経験』 法政大学出版局 2008 

 

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Uターンできない自動車:盛者必衰(4)

2009年03月27日 | グローバル化の断面

Henry Ford Estate Museum


 記憶に残るイメージのスナップショットのつもりで書き出したのだが、段々と重くなってしまった。今回で、ひとまず車庫入りにしたい。

 東京モーターショウの出店企業数は、前年のほぼ半数となるらしい。メルセデス・ベンツ、フォルクス・ワーゲンなども出展を見合わせたようだ。2月の日本の自動車生産は、前年比で50%強の衝撃的な減少だ。

 他方、インドではタタ・モーターズが20万円強の新車発売を発表、購入希望が殺到しているという。インドの2月の新車販売は、前年比20%増らしい。大きな地殻変動がグローバルな次元で起きていることを思わせる。

 今回の自動車危機は、複雑な要因が絡み合っている。金融危機は津波のように瞬く間に実体経済へと波及し、破綻の端緒となったアメリカの住宅産業から、自動車産業を襲った。グローバル化が進んだ産業であるだけに、たちまち世界中の自動車企業が呑み込まれてしまった。  

アメリカ自動車企業の破綻
 金融危機と同様、自動車産業についてもアメリカ発であった。危機はかなり長い年月の間、表面化することなく、デトロイトの深奥部まで達していた。金融危機がそのすさまじさを世界に突きつけてから、未だ日の浅い昨年秋の段階で、ビッグスリーの状況はきわめて重篤であることを世界に知らしめた。  

 ビッグスリーは、米国議会の公聴会で、サブプライム問題とそれに伴う世界的な消費低迷を理由に、公的資金による支援を訴えた。サブプライムは、住宅産業ばかりでなく、自動車産業においても長年にわたり深く巣くっていた病因を増長し、急性増悪させた。とりわけ、ビッグスリーは自動車ローン問題という独自の重病を抱え込んでいた。本来ならば,自動車など買えない層に、住宅と同様に購入させる仕組みを作り上げていたのだ。事情を知る関係者の間では、いつか破綻する日がくると思われていたが、皆悪い話題には触れたがらなかった。

フォーディズム時代の終焉 
 こうした中でトヨタをはじめとする日本企業は、先進的な経営、労使協調などの点で世界をリードしてきた。その特徴をきわめて単純化していえば、大量生産様式としてのフォーディズムの極致をきわめたといえるのではないか。アメリカ市場における消費者の信頼を獲得し、評価も確立していた。それなのに、なぜ日本企業も大きな打撃を受けたのか。  

 時代は大きく変化していた。生産の標準化を前提に、極度の分業とコンベヤーの最大限活用によって、大量生産を行うフォード・システムは、長年の間に極限に近いまで「カイゼン」が進められてきた。その範囲は、単に生産システムの範囲に留まらず、受注から生産、販売、金融までを包括する一大システムとして、完成されてきた。このシステムの極致とまで称されたものが、トヨタが主導、開発した「トヨティズム」ともいわれる体系である。資本主義的生産方式のひとつの極限モデルといえるかもしれない。  

 このシステム、さまざまな衝撃緩衝機能を内包し、通常予想される景気変動には十分耐えられるはずであった。だが、このたびのアメリカ発大不況の最終需要減少幅は、想定を大きく上回り、通常の生産減、在庫減少などの調整では対応できなくなっていた。その結果、短期間に派生需要としての雇用の急激かつ大きな減少をもたらした。

 なかでも、変動への調整装置の役割を負わされている下請け、部品企業を中心とする労働者、外国人労働者などが直ちに削減の対象となった。 彼らの多くは、派遣労働者などの形態で、当初から調整弁として位置づけられてきた。レイオフが制度化しているアメリカでは、短時間に大量の失職者が生まれた。記録的な業績を誇っていた企業が、直ちに大幅な雇用削減に踏み切ったことについては、もう少し内部で持ちこたえるべきではなかったかなど、さまざまな批判もある。アメリカ、イギリスなどでの経営者の高い報酬への攻撃は広まるばかりだ。デトロイト3社の幹部は、世論の厳しさの前に、さすがに報酬を辞退しているようだが。

 巨大化したシステムは、地域的、部分的な衝撃には対応できていたが、同時、グローバルな衝撃を受け、あっけなくもろさを露呈した。日本企業も現地生産、輸出、そして本国市場のすべてにおけるほぼ同時的な消費需要の急減には、内在する緩衝機能も対応できなかった。ひとつには、危機の前まで、供給ラインのパイプは在庫調整、生産調整もほとんどなく、一杯に詰まっていたと思われる。   

 システム自体が、自己調整を不可能にするほど巨大化していた。従業員数だけみても、GMの場合、米国内で約104,000人、世界中では約263,000人と言われている。ディーラー数も7,000と言われ、下請けや部品供給会社も含めると、その裾野は広い。デトロイトだけでも3万点の部品、2000の部品企業が必要といわれる。破綻した場合の影響がいかなるものとなることは容易に想像がつく。

近未来への胎動
 今回のグローバル大不況から脱却しようとする産業・企業の必死の努力で、自動車産業は激烈な淘汰が進むだろう。ハイブリッド車、電気自動車などのクリーン・エネルギー化ひとつをとっても、新型エンジンと電池の開発、軽量化など、部品やエネルギー企業を巻き込む一大変化が進行している。すでに生き残る企業と淘汰される企業の明暗は、はっきりとしてきたようだ。時代の先を読み切れる企業だけが生き残る。

 自動車需要は先進諸国では、飽和状態だ。唯一残るのは、インド、中国などの人口大国、開発途上国の中産階級が支える市場だ。小型、軽量化、低廉な価格設定が勝敗を分ける鍵となるだろう。

 さらに、巨大化し過ぎて、動きの鈍くなった企業をスリム化し、外部の変化に迅速に対応できる企業への自己変革が行われるだろう。20世紀を象徴してきたフォーディズムは、終幕の時を迎えている。しかし、自動車産業がなくなるわけではない。新しいシステムが生まれるだろう。10年後、20年後の自動車産業の姿は、現在とはきわめて異なったものになるのではないか。廃墟の中からどんなフェニックスが生まれるだろうか。 

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深遠・絶妙な「黒」の世界

2009年03月24日 | 絵のある部屋

 クイズをひとつ。この絵の作者とテーマは?

 
  おわかりになった方は、17世紀絵画のかなりのフリーク?と自認されてもよいのでは。 そう、やはりジョルジュ・ド・ラ・トゥールでした(下掲)。


「聖アレクシスの遺骸の発見」
Georges de La Tour, The discovery of the corps of the St. Alexis, Dublin National Gallery of Ireland  
ラ・トゥールの原作に基づく模作と考えられている(真作説もある)。


 大変美しい絵である。この世を去ったばかりのひとりの老人と少年の発見(そして別れ)の場面である。深い闇の中に浮かび上がった二人の姿には、凛として厳粛な空気が充ちている。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は、書籍などの表紙に使われることが多い。今回は「色の歴史」シリーズで、すでに『青の歴史』を刊行しているミシェル・パストゥローの2作目であり、『黒の歴史』である。

 ラ・トゥールのこの作品が、「黒」の代表作品として、表紙に使われたことには驚いたが、改めて見ると、やはり素晴らしい作品だ。確かに、絶妙な「黒の世界」の代表作である。

 「白」と同様に「黒」もイメージは別として、自然界にはそのままの色では存在しない。古来、濃い褐色と青色を混合して作られてきた。その後、炭素煤など良質なカーボン・ブラックが見いだされ,使われるようになった。  

 17世紀、顔料、絵の具などの画材は、ほとんど画家の工房で準備されてきた。製法は、しばしば工房ごとの秘密であった。原材料の顔料をそのままあるいは水や油を加えながら、大理石の板上などで、粒子が適度な段階になるまで練り上げる仕事である。大変時間も要し、力仕事のため、徒弟がいる工房では、親方の指示で若い徒弟が作業を受け持っていた。  

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作の模写とされているこの作品、改めて「黒」に着目してみると、その濃淡、色合いは絶妙だ。ラ・トゥールの研究書の表紙などにもしばしば使われている。

 
ミシェル・パストゥローは、「赤」の歴史を最初に書きたいと述べていたことを、どこかで読んだ記憶があったので、このたび「黒」の歴史が出版されたことについては、少し驚いた。しかし、「黒」の世界も、見てみると素晴らしい。闇を描くことを得意としたラ・トゥールだが、この「聖アレクシスの遺骸の発見」も絶妙に美しく、静謐な場面を見事に描き分けている。


Contents:
Introduction
In the begining was black
A fashonable color
The birth of the world in black and white
All the color of black


Michel Pastoureau. Bleu, Histoire d'une couleur. Paris: Le Seuil, 2000(邦訳 松村恵理・松村剛『青の歴史』筑摩書房、2005年)



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時はすべてを水に流すのか

2009年03月22日 | 移民政策を追って

 不法滞在していたフィリピン人のカルデロン・アラン夫妻と日本で生まれた子供のり子さんの不法滞在問題は、新聞、テレビなどの主要メディアが取り上げたことで、かなりの社会的反響を呼び起こした。  

 3月16日、森英介法務大臣は、不法入国で国外退去を命じられたカルデロン・アランさんの長女のり子さんの在留を特別許可した。「特定活動」の在留資格で、1年間、日本にいる親類が一緒に暮らすことで、日本での生活が可能と判断した。今後は正規在留者として、在留資格の更新もできる。ちなみに、カルデロンさんの妻は06年に不法在留で逮捕され、執行猶予付きの有罪となった。そして、昨年9月には一家の国外退去処分が確定していた。 判断根拠は明示はされていないが、夫妻が他人名義の偽造旅券で、それぞれ92年、93年に入国したという経緯が、今回の裁定になったようだ。

 両親が強制退去になると、最低5年は入国が認められないが、一定期間を置いて、子供に会うためなら、上陸を特別に許可する用意があると法相は伝えたらしい。親子3人にアムネスティ、特別在留許可を与えよとの支援活動も強かったようだが、結果はこのようになった。査証期限を越えての滞在ではなく、夫婦ともに偽造旅券での入国は、その動機からしても、まぎれもない犯罪行為である。15年近い年月が経過しているから在留を認めてもよいのではという議論は、他の同様なケースへの影響という点でも、現状では説得力に欠ける。日本にひとりで残る娘さんにはつらい生活となるが、日本としても法の厳正、公平な適用、そして国家の威信を保つ必要がある。現在の状況ではぎりぎりの裁定といえよう。

 しかし、これまでの数々の事例でもそうであったが、問題は残されている。個々のケースごとに、新聞、テレビなどのマスコミ主導で世論が揺り動かされ、多大なエネルギーを浪費するのは好ましいことではない。一般市民が判断するには、情報も不足、偏在しており、ともすれば感情論に流される。いつものことだが、この時とばかり、人道的立場を強調する有力マスコミの論説は、「在留を許すべきケースだ」とするものが多いが、しばしば論理がつながらず、感情に流され、冷静さを失っている。メディアの社会的責任は言うまでもなく大きい。

最大の問題
 
ブログでも以前から再三主張してきたが、最大の問題は日本の移民(出入国管理)政策の不透明性にある。今回のケースについても、法務大臣の在留特別許可が与えられる場合について、より明確なガイドラインが提示され、関係国などに周知徹底の努力がなされていれば、多くの関係者が振り回されないですんだに違いない。事例が増え、以前よりは多少は状況が見えるようになったが、透明度が著しく低い。

 日本に「ニューカマー」と呼ばれるアジアや南米諸国からの外国人労働者が働きにくるようになって、すでに20年以上の年月が経過している。もっと早期にガイドラインが適切に開示されていれば、日本で生まれ育ち、日本語しか話せない子女が苦難を背負う前に、よりよい解決があり得ただろう。こうした事態がいずれ生まれるであろうことは、はるか以前から指摘されていた。明瞭なガイドライン、政策の提示は、不法入国への抑制措置としても、有効な対策となるはずだ。  

 不法滞在者は、外国人労働者の問題の中では、対応がきわめて難しい。本質的に「隠れた労働者」だからだ。日本では出入国管理政策の厳格化、不況の影響などもあって、近年その数はかなり減少したが、ひとたび露呈すれば、今回のように難しい問題を突きつけられる。

揺れるイギリス 
 たまたま、イギリスの不法滞在労働者についての記事を読んだ。概略を紹介しておきたい。イギリスは日本と同様に島国であり、出入国管理の点では恵まれている。不法入国者のほとんどは、英仏海峡を渡ってくる。ボーダーパトロールは過去5年間で、88,500人を拘束し、送還した。それにもかかわらず、イギリスを目指す不法移民の数は増加している。  イギリス政府は、2001年時点で430,000人の入国に必要な書類を所持しない不法滞在者がいると推定していた。不法入国者、査証期限を越えての滞在者、難民申請をしたが認められなかった者、そして彼らの子供たちから成っている。  

 3月9日にロンドン市長がロンドンスクール・オブ・エコノミックス(LSE)のスタッフに要請した報告書が提出された。それによると、その数は725,000人とかなり増加している。それによると、難民申請が不許可になった者が帰国していないことが増加のかなりを占めているらしい。ちなみに、イギリスでは、近年移民統計の正確さについて、かなりの議論があった。

 報告書は不法滞在者の3分の2近くがロンドンに集中していることを指摘している。ロンドン在住者15人にひとりが不法滞在者になる。ジョンソン市長はこのうち、イギリスに5年以上滞在していると推定される32万人には、アムネスティを与えようと思っているようだ。 しかし、その決定権限は中央政府にあり、アムネスティは不法移民を一層増加させるとして乗り気でない。

 LSEのグループは、5月に不法移民のコスト・ベネフィットを推定する報告書を提出するようだが、こうした推定自体は日本も含めて、いくつかの国で行われているが、客観的な推論ではなく、印象的なものになりがちだ。 ただ、現在の不法滞在者は、多数が若い独身者であり、公的サービスへの負担は大きくないと考えられている。議論が白熱するのは、労働市場への影響である。しかし、滞在年数が長引くと、公的負担は増加してくる。

 不法就労者については、使用者側が疾病給付、休日、さらに最低賃金すら軽視するため、国内労働者には手強い競争相手となる。彼らにアムネスティを与え合法化し、建設、農業、介護などの分野での賃金引き上げをしようとの狙いもあるようだ。  

 アムネスティを不法滞在者に与えた例は、それほど多くない。ヨーロッパでは、フランス、ギリシャ、イタリア、ポルトガル、スペインなどが過去20年の間にアムネスティを与えた。  1998年と99年にイギリスも小規模だがアムネスティを与えている。査証の違反を犯し滞在している者に罰則を与えることなく、再び入国しうるステイタスを認めた。さらに2003年には内務省は、認可までの審査にきわめて時間がかかった難民申請者の家族にアムネスティを付与した。その後は一転、厳しい入国管理政策に転じたイギリスだが、その前に土台を整理する意味があったと評された。  

 イギリスはまもなく新しいIDカードシステムを導入する予定だが、その前にアムネスティを発動するか、注目が集まっている。アムネスティは、一度発動すると、それを期待する動きを増長する。そのため、安易に発動はできない。日本の場合は、幸いクリティカルな段階にいたってはいない。グローバル不況で労働需要が停滞している現在は、長期的視点から移民政策をしっかりと再考・整備する良い機会だ。




‘All sins forgiven?’ The Economist March 14th 2009

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ロレーヌ魔女物語(7)

2009年03月19日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌ、マルサールの製塩所跡 


  なぜ、ヨーロッパ近世初期、ロレーヌの魔女狩りなどに関心を抱いたのか。以前にも一端は記したが、理由としてはさまざまなことを感じている。そのひとつは、この時代の画家、とりわけジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品だけを見ていたのでは、ロレーヌという地域の特有な歴史、風土、そしてそれらが生み出した複雑な社会状況
が十分見えてこない。そればかりでなく、作品自体も十分鑑賞しえないと思ったことにある。これらの点について、美術史専門書、企画展カタログなどでも、輪郭程度しか紹介されていない。日本人にはなかなか理解できない時代と風土だ。

 他方、混迷し、先が見えず、不安が支配する今の時代を、後世の人が振り返って見たらどう思うだろう。魔女狩りの対象が、しばしば社会の片隅で孤立した老人、それも女性に向けられたこと、占い師や詐欺師の横行などの例を見ていると、日本の「オレオレ詐欺」の蔓延などを思い出してしまう。

魔女はどこに 
 閑話休題。ロレーヌに限ったことではないが、16-17世紀ヨーロッパ、魔女狩りが頻発した地域には、なにか共通の特徴が見いだされるのだろうか。大変興味深いテーマだ。しかし、その答にたどり着くのは容易なことではない。  

 ひとつの問題は、魔女狩りの頻度、発生数の多寡をなにで測るかということだ。なにをもって、魔女、そして魔術の存在を確認するのか。とてもすぐには答えられない。多くは、300年以上をさかのぼる時代のことである。具体的な検証に耐えられる記録とはなにか。伝承のたぐいは、多数残っている。その中で最も頼りになるのは、魔女審問の記録である。しかし、これとても、長い年月の間に散逸しており、すべてが残っているわけではない。むしろ、残っているのが稀なのかもしれない。

運良く記録が残ったロレーヌ
 こうした状況で、魔女狩りの研究は絶えることなく続けられてきた。最も信頼できる資料とされる魔女審問記録は、すべて保存されてきたわけではない。その多くは散逸し、消滅してしまった。記録の質の問題もある。ロレーヌは幸い記録が残った数少ない地域のひとつだった。それには記録保管所 archives の存在と継承が大きく寄与している。  

 16世紀末、ロレーヌ公国のシャルル3世は、自らの積極的外交のために資金を必要としていた。そこで、1591年には300人近い官吏に、仕事を保証する代償に課金を求めた。その集金を記録するための課税台帳の整備が行われ、記録保管所が整備されて発達した。ここに数百の魔女裁判記録も一緒に保管されて生き残った。いわば収税活動の副産物だった。

公国の財源  
 シャルル3世は、1588年以降しばらくの間、多数の軍隊の動員をしたり、一般的な危機の雰囲気が漂っていた時期について、かなりの租税軽減を行った。1595年の講和の後、緊張感はやや和らいだ。こうした中で、ロレーヌ公国はその主たる収入源を大きな農場主に求めた。しかし、実際には公国の収入の半分以上は、特産の岩塩の交易によるものだった。かなりの輸出を行うとともに、国内では独占的価格を維持していた。ロレーヌには、当時の製塩所の跡が塩博物館などの形で残っている。その他の収入は森林利用権など、さまざまな封建的収入、取引税、そしてヴォージュ山脈の銀、銅、その他の鉱山からの収入だった。   

 ロレーヌ公国の住民は、フランスと同様、90%以上が農民であり、多数の村落から成っていた。多数の領主、地方の修道院、貴族などが、複雑に支配していた。農民はさまざまな支払いや義務を負わされていた。そのひとつひとつは小さいが、合計すると農民には大きな重荷となった。

小国の世界 
 16世紀から17世紀前半にかけてのロレーヌ公国は、隣国フランスの影響を強く受けていた。政治や財政などの仕組みも、フランスに倣ったものであった。しかし、相違している点も少なくなかった。17世紀ロレーヌ公国の政治の座にあった公爵たちは、この小さな国はヨーロッパの覇権を競い合う政治世界では、主要な役割は担えないと自認していたようだ。  

 次第に整備されてきた法律などの制度は、君主にとって権力と威信発揮の手段となって、新たな機会を与えた。特に、フランスでは法律家たちは、行政の主要なグループと結ぶことで次第に力を蓄えていた。第4階級と呼ばれた王の裁判官や官吏が、王の名において活発に動いていた。

 ロレーヌでは、1580年代、ポンタムッソンにジェスイット大学が設立され、法学部が置かれるまで、公国のほとんどすべての法律家たちは、フランスの大学で修業していた。当然だが、フランス的なやり方を公国へ持ち込んでいた。しかし、この小さな国には、あまり大きな仕事はなかった。結果として彼らが過ごした狭小な世界が、魔女審問のあり方に影響を与えたかもしれない。

  さらに、ロレーヌ公国は、国としての精神的基盤として、カトリックを柱としてきた。この国の君主や裁判官たちは、このカトリックの支持の下で、自らの権力を維持してきた。近世初の神聖国家であったといってもよい。ロレーヌ公国の魔女狩り、魔女審問は、こうした独特の風土の中から生まれてきた。 (続く)

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Uターンできない自動車:盛者必衰(3)

2009年03月18日 | グローバル化の断面

晴れた日にはGMが見える
 
グローバル不況の大津波は、世界中の自動車企業を水面下に飲み込んでしまった。今後、水面に顔を出せるのは、どの企業だろうか。浮かび上がれず消えてしまう企業が出るのも、ほぼ確実だ。明暗を分けるものは、これまで培ってきた基礎体力と、新しい時代への革新力だ。

 日本企業は比較的有利なポジションにあるが、予断は許さない。今回の大不況でも、先進国中最も損傷が少ないと政府が胸を張っていた国だが、今や傷が最も深い国の中に数えられている。

 過去をどれだけ未来に生かすことができるか。肩に背負う重荷は、企業ごとに大きく異なっている。今後の行方を見定めるためにも、前回に続き、いくつかのスナップショットを思い起こしてみよう。
 
 1980年代以降、アメリカ自動車市場における日本など外国勢の台頭は目覚ましかった。その背景には、消費者のニーズを的確に捉えた日本、韓国、ドイツ
など外国企業の対応があった。燃費効率が高い中小型車に特化して開発を進め、ビッグスリーよりも低コストで供給してきた。  

 他方、GM、フォードなどビッグスリーは、さまざまな問題を抱えていた。フォードについてみると、ヘンリー・フォードによる創立以来、フォード家三代の親子の確執、アイアコッカのフォードへの反逆など、枚挙にいとまがないほどだ。そして、GM、フォードなどの巨大化、官僚化した組織、消費者のニーズに応えられない実態など、ビッグスリーには共通の問題が内在していた。  

 こうした実態を摘出し、厳しく批判する本も多く出版された。パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年、アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』などが思い浮かぶ。  

 これらの作品で描かれる主役のひとり
となったGMの副社長ジョン・デロリアンは、社内抗争に敗れ、退社する。その背景には、GMが技術革新を怠り、数々の戦略的失敗を重ねたこと、組織の停滞、デトロイト上流社会の退廃などに失望した事情などがあった。そして、新天地を求めて、アイルランドのベルファスト郊外へ、デロリアン・モーターの名で工場を建設、鳥の翼のようなガルウィング・ドアの新モデルを生産し始めた。しかし、その後本人が麻薬所持の疑いで、空港税関で逮捕されたことなどもあって、企業閉鎖に追い込まれた。後に無罪放免されたようだが、事業は結局実らなかったようだ。 


新しい天地で 
 前回も記したが、1980年代初め、テネシー州スマーナの日産自動車の工場を訪れた時にインタビューした現地法人社長M.R.氏は、元フォードの製造部門担当の副社長をつとめた技術者だった。フォードには37年間勤続した後、日産へ移った。彼は、デトロイト企業の問題点、体験したさまざまな歪みなどを率直に述べてくれた。なかでも、消費者の好みなど市場の動向を、経営上層部が正しく把握していないと語っていたことが印象に残った。情報が経営者のところへ届くまでに、組織内部の駆け引きなどで都合のよいように歪められてしまったのだ。デトロイトはどこかおかしいと感じたそうだ。デロリアンの話と重なって興味深かった。  

 同氏はデトロイトではできなかったいくつかのことを、日本企業という新天地で実施してみたいと、フランクに話をしてくれた。自ら作業着姿で、建設現場の陣頭指揮をしていたことがイメージとして強く残っている。

組合のない企業 
 1980年代初め、日本企業は、ビッグスリーと比較すると、確かに積極性、独創性などにあふれていた。アメリカに工場を持っていたのは、オハイオ州メリスヴィルのホンダ、テネシー州スマーナの日産など未だ少数だった。

 この段階では、日本企業はアメリカへの直接投資にきわめて慎重だった。いずれも労組加入が強制されない(ユニオン・フリー)、保守的な南部を工場立地へ選んでいた。しかし、そこでは日本で試行錯誤の上、培われてきた日本独自の生産様式が、新たな立地(グリーンフィールド)の上に花開きつつあった。  

 そして、急速に日本車の高い品質が、世界で注目を集めるようになった。それを支える「カンバン方式」「カイゼン」などの日本的経営は、80年代からアメリカ企業が争って導入を図るようになる。しかし、今回の危機にいたるまで、アメリカの経営・労働の風土にはまだ十分根付いていなかったことを改めて知らされた。

 こうした状況で、外国企業は89年のトヨタ「レクサス」を初めとして、高級車市場にも参入した。ビッグスリーは次第に追い込まれ、合併したダイムラー・クライスラーも、経営に失敗し、クライスラーは07年に売却された。

悪しき労使関係のもたらした重荷 
 UAWという強力な労組との関係もあって、ビッグスリーの労務費は、在米日本企業よりも明らかに高い。もっとも「ビッグスリー」の名に値したのは、アメリカという巨大市場を3社が長らく独占的に支配していた時代のことである。強力な労働組合との交渉を背景に、労務費上昇を市場支配力を介して製品価格へ転嫁してきた。結果として、じわじわと競争力を失ってきた。  

 デトロイトなど組織率の高い北東部の工場と、日本、韓国(現代)、ドイツ(BMW、メルセデス・ベンツ)など外国企業が位置する組合未組織の南東部の工場の間では、賃金率および各種手当の双方において、顕著な差がみられる。特に、ビッグスリーにとって、多額な年金と健康保険給付の支払いが、次第に負担しがたいほとの重荷となってきた。 いわゆるレガシー・コスト(過去の負の遺産)である。 

 こうした厳然たる事実を前に、UAWなど労働組合への風当たりも強まり、かつては50万人近かった組合員数も、7万人台にまで激減している。2007年末の争議の結果、GMはUAWとの協定に基づき、UAWが管理する特別信託基金へ300億ドル以上を譲渡し、長年にわたった巨額な健康保険債務から解放された。しかし、GMの企業価値は低下し、企業力も大きく弱化した。フォード、クライスラーも、ほぼ同様な道をたどった。  

 そして、2006年には日米の販売台数は逆転するというかつては想像しえなかった変化を迎えた。しかし、それが今回の危機の直接的原因ではない。
(続く)



* パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年)On a Clear Day You CanSee General Motors,アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』(Arthur Hailey. Wheels, 1980)

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Uターンできない自動車:盛者必衰(2)

2009年03月15日 | グローバル化の断面


 1960年代末、未だ繁栄していたデトロイトを最初に訪れた時、自動車を世界へ送り出したこの地の先進性に大きな感銘を受けた。フォード、GM、クライスラー、それぞれに多くの変転を経験していたが、あの頃のデトロイトは輝いて見えた。最後の残光だった。その後調査などで何度か訪れたが、衰退の色は濃くなるばかりだった。

 最近会ったオーストラリアの友人が、見てきたばかりのデトロイトの惨状を知らせてくれた。一時期、共同してこの産業の国際調査をしたことがあった。彼にとってもデトロイトの最近の衰退の現実は、予想した以上にひどく、衝撃的だったらしい。話を聞きながら、スナップショットのように思い浮かぶイメージがあった。その中から2,3を記してみよう。

ビッグスリーの時代
 第一次石油危機前、しばらくアメリカ生活をしていた頃、日本の自動車の対米輸出が始まっていた。しかし、日本車は性能が悪く、サンフランシスコの坂を上れないという「うわさ話」がまことしやかに伝えられていた。路上に日本からの車など、ほとんど目にしたこともなかった。大きく洗練されたデザインのアメリカ車と比較すると、日本の車のイメージは野暮ったく見えた。自動車より前にアメリカ市場で人気があった「HONDA」のモーターサイクルは、スペイン製だと言い張るアメリカ人がいた。発音がスペイン語に似ていたからそう思い込んだのだろう。車はめったに洗わないが、ホンダのモーターサイクルは納屋に入れ、ピカピカに磨いている友人もいた。彼らにとって、自動車は使い捨ての耐久消費財だが、モーターサイクルは別なのだった。  

 この時代、アメリカの消費者にとって、自動車といえばビッグスリーにほとんど限られていた。外国車はスポーツカー、趣味などで、限られた人たちが特別の目的で購入するものだった。8気筒のアメリカ製大型車は、ガソリンを撒いて走っているようだったが、居住性は良く、走行の安定感もあって、アメリカ文化の象徴だった。ハイウエイで巨大なトレイラーに追い越されても、小型車のような恐怖感はなかった。日本にはなかった体育館のように巨大なスーパーマーケットで、カートで2-3台分の買い物をしても、十分収容できるスペースがあった。カルチャー・ショックのひとつだった。

 振り返ると、この時代、ビッグスリーの最後の輝きだった。少しずつではあったが、日本やドイツなどの外国車が、アメリカ市場に拠点を築きつつあった。  

UAWが恐かった時代
 80年代初め、訪問の機会があったホンダ、オハイオ州メリスヴィル工場で最初に生産していたのは、乗用車ではなく、日本では生産できない大排気量(900cc, 1100cc)のモーターサイクルだった。進取の気性がある同社も、最初からアメリカでの自動車生産は自信がなかったのだ(メリスヴィルでの4輪車生産は1982年)。しかし、当時、年間生産6万台といわれた同工場生産のモーターサイクルは、Made in USA の刻印も誇らしげに出荷されていた。

 工場近辺には「大鹿に注意」の道路標識が出ていた。州都コロンバスから車で走ると、ほとんど田園地帯であり、労働組合の勢力が弱い地域であった。当時、アメリカへ直接投資をする日本企業は、いずれも労働組合を恐れていた。アメリカの労働組合は、「ビッグ・ビジネス」に対抗する「ビッグ・レイバー」として、強大な力を持つと考えられ、対米投資の際、経営者が躊躇する大きな要因だった。

 日産のテネシー州メリスヴィル工場も、最初は小型トラック生産だった。工場は、ナッシュヴィルから車で1時間近くかかったろうか。広大な野原の真ん中にあった。ローカルな飛行場跡に建設されたとのことだった。日本の立地の制約を受けた、狭苦しい工場を見ていた目には、技術者が白紙の上に理想の工場を設計したようで、その壮大さに大変感動した。日本もここまでやれるのだという思いがした。

追い越し車線の日本
 自動車産業を観察していて、最大の転機は、1973年に勃発した第一次石油危機だ。自動車需要は、省エネルギー化の大きな影響を受け、急速に中・小型車へと傾斜した。大型車開発をあきらめて、小型車に特化していた日本企業にとって、石油危機は願ってもない幸運をもたらした。

 ほどなく怒濤のような対米輸出が始まった。アメリカのハイウエーを日本車が席巻していたような光景もみたことがあった。それは、日米貿易戦争、対米直接投資の増加へとつながる道だった。  

 ビッグスリーは、小型車開発の技術的遅れなど、すぐに取り戻せると高をくくっていたようだ。しかし、その差はなかなか縮まらない。日本車はアメリカ国内市場を急速に浸食し始める。アメリカ人の仕事が奪われるとして、労働者が日本車を目の敵として、打ち壊すシーンが報道された。バイ・アメリカンの動きが台頭していた。80年代初め、インタビューのために訪れたデトロイトのUAW(全米自動車労働組合)本部には、「日本車のパーキング・スペースはない」とのポスターが掲げられていた。  

 80年代に入り、日本企業の優位とデトロイト企業の衰退が一層顕著になった。日本企業の技術力と品質の良さが、確実に競争力の源泉となっていった。長い間、「安かろう、悪かろう」の意味を持っていたMade in Japan は、一転して質の良い優れた製品の代名詞になっていた。 鎌田慧『自動車絶望工場』の英語版 Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory あるいは、デイヴィッド・ハルバースタム『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)*など、台頭する日本と追い込まれるアメリカの自動車産業の内幕を描いた作品が注目を集めていた。自動車ばかりでなく、日本経済が追い越し車線を走っていた時代だった。  

 80年代には日本などの外国企業が、アメリカ市場に一斉に参入した。日本企業はアメリカの労働組合の強さなどを恐れ、対米投資をためらっていたが、堰を切ったように、次々と直接投資へ踏み切った。

 今日、組合が未組織で人件費が安い南部諸州中心に日系8社の工場が稼働している。かつて、国内市場をほとんど独占していたビッグスリーは、いわば足下の本丸まで攻め込まれた形になった(2008年にはビッグスリー合計でも市場占拠率が50%強までに落ちた)。しかし、ここまでの路程も決して平坦ではなかった。
(続く)

*
Satoshi Kamata. Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory, 1982.
David Halberstam. The Reckoning, 1986(邦訳:デイヴィッド・ハルバースタム、高橋伯夫訳『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)

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ロレーヌ魔女物語(6)

2009年03月11日 | ロレーヌ魔女物語

ロレーヌの修道僧、ヴィック=シュル=セイユのジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館



たぶらかされたのは誰?

  16-17世紀ロレーヌの魔女審問の世界を垣間見てみると、なんとも信じられないことが起きていた。以前に少しだけ記したエリザベス・ドゥ・ランファング事件に、もう少し立ち入ってみよう。ちなみに、この出来事は悪魔狩りの古典的な事例として、大変よく知られている。

 1620年頃のロレーヌで実際に起きた話だ。エリザベス・ドゥ・レンフェンは貴族階級につながる上流の家庭に生まれた娘だったが、子供の頃からどことなく神がかったような、理解しがたい行動をみせていた。 家庭の育て方にも問題があり、「箱入り娘」的で、ほとんど外出もさせなかったらしい。その結果、娘もかなり偏った性格になってしまっていた。娘の扱いに手を焼いた両親は、なんと15歳になった時に、42歳の軍人に嫁がせてしまった。娘ながら厄介者と縁を切りたいと思ったらしい(親も親だが、よほどてこずったのだろう)。

 ところが、この夫もひどい男で、妻を大変乱暴にに扱っていたらしい。9年後に夫は他界したが、6人の子供が残った。ただ、エリザベスの狂信的ともみえる宗教的熱意?は冷めることなく、夫の没後、ロレーヌで大変著名な修道院教会があるレミレモンへ、巡礼の旅に出た。

 その帰途、小さな町の宿で、医師シャルル・ポアロ なる人物に出会う。ポアロは、この地方では医師として、かなり名前が知られていた人物だったようだ。エリザベスが後に語ったことによると、彼女はポアロに飲食に招かれ、媚薬を盛られて、意識が朦朧とした中で医師の意のままになってしまった。そして、それから後、なにか自分ではない、とてつもないものによって支配されるようになったとして、医師を激しく罵るようになった。

 エリザベスは恐怖と混迷状態で村の薬剤師に薬を求めたが、薬剤師はポアロの診察を受けろというのがせいいっぱいだった。小さな町で彼女の扱いをめぐって一騒ぎがあったらしい。結局、町の司祭はなんとかエリザベスをナンシーへ送り届けた。

お手上げの事態に
 ナンシーでは、祈祷師がおきまりの悪魔払いをするが、効果がなかった。そこで、ナンシーの多くの宗教・宗派が、それぞれの名誉にかけて次々と祈祷師や司祭などを送り、治癒を試みたがすべて効果がなかった。  

 伝えられるところでは、このエリザベスなる女性、習ったはずはないイタリア語やギリシャ語などが分かったらしく、封じられた手紙の中身を透視して読むなど、かなりのことができたらしい。実は、これらの行動は、その数年前に明らかにされたローマン・カトリック教会が発布した悪魔憑きの古典的な症候と一致していたようだが、周囲は見抜けなかったようだ。

愚かな医師
  さて、こうしてエリザベスの常軌を逸した行動が何年か続いた。教会の欄干の上を歩くなど、奇矯な行動をしたらしい。そして、ある日、大きな転換があった。あの医師ポアロがナンシーを通りかかり、軽率にもエリザベスの所に立ち寄ったのだ。

 エリザベスは、ポアロを自分に魔術をかけたと激しく非難し、医師は逮捕された。そして、ロレーヌの行政官の命令で、ポアロは魔術師の容疑で尋問が行われた。当時、魔術師は身体のどこかに悪魔の印がついているとされた。そのため、身体中を調べたられたが、なにも見つからなかった。ポアロは告白も拒否していた。  

 その後、さらに妙なことが起きた。数ヶ月後、ポアロは悪魔が憑いたとされる農j民の少女から訴えられ、再び逮捕される。そして、今度は身体検査の結果、なんと悪魔の印が見つかったのだ!

どうなっているのか
 そして、今日からみると、およそ想像もしないことが起きた。ロレーヌ公国の24名の著名なエリート裁判官が、審問の結果、ポアロに有罪の判決を下した。フィリップ2世の娘を含む強力なポアロの支持者たちが、介入して助命を訴えたが、その効果もなかった。そして、医師ポアロと悪魔が憑いたという農民の娘は、火刑台へ送られてしまった。  

 他方、エリザベスはというと、その後緩やかに普通の人の状態になっていった。そして、再び巡礼の旅に出て、悪魔を克服、追い出したかに見えた。人々のエリザベスを見る目も変わり、敬意と尊厳さまでも感じるようになったらしい。そして、1631年にはナンシーに自ら新設にかかわったノートルダム救済修道院の筆頭修道女に任ぜられた。その後、この修道院は、当時のロレーヌの各宗派のモデルとされるまでに格式高いものとなっていった。18年後に彼女が世を去ると、かつての悪魔憑きの心臓は聖体扱いされ、ナンシー市民の尊敬する地位にまで高められたと伝えられている。

 なんとも信じがたいような話である。どこで、誰が、どうなってしまったのか。しかし、悪魔狩りの時代、こうした出来事はロレーヌに限ったことではなかった。フランス、スペイン、イタリア、スコットランドなど、ヨーロッパの各地で似たような、不思議で、おぞましい事件が起きていた。


 このレンフェン事件、関わった医師、聖職者、判事たちは、なにに基づいて、こうした判断をしていたのか。とりわけ、審問に当たった24人もの著名な判事たちの思考、判断基準はどこにあったのか。時代の環境・風土は、どこまで審問を左右したのだろうか。

 現代的視点からみると、理解しがたい出来事であり、とても正気の沙汰ではない。しかし、この魔女狩りの流れは、その後も歴史のどこかに潜んでいて、さまざまな形で表面化することになる。

 たまたま、イラク戦争にイギリスがアメリカとともに開戦を決定する直前の状況を描いたBBCの力作*を見ていて、真実を見定めることの難しさについて、深く考えさせられてしまった。



* 『イラク戦争へのカウントダウン』 (2009年3月10日)

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Uターンできない自動車:盛者必衰(1)

2009年03月10日 | グローバル化の断面


  2007年12月、アメリカではロールスロイスが27台売れた。しかし、2008年12月は文字通り1台も売れなかったそうだ。並みの不況ではない。虚栄のシンボルも崩落しているのだ!

 昨年末以来、世界の自動車企業の慌てふためきようを見ていると、やはりひとつの時代が終わろうとしているとの思いがしてくる。マスメディアの多くは、金融危機から発した自動車需要の減少幅が異常に大きいという側面を強調し、2-3年後には以前の水準を回復するとしているが、果たしてそうだろうか。今日の自動車不況の深層に
読めるものは、単なる需要の数的な減少だけではない。自動車産業の盛衰を大きく左右する決定的な地殻変動が起きているように思われる。

フォーディズムの終幕
 ひたすら販売台数の増加を追い続けてきた「フォーディズム」(フォード自動車会社が導入した大量生産をベースとする経営管理方式)に基礎を置いた生産・販売の体系自体が、根底から揺らいでいる。言い換えれば、多大なエネルギーを消費する自動車を重要な移動の手段とし、その上に築かれた文明自体が、決定的な曲がり角に来ているように見える。

 簡単に締めくくってしまえば、20世紀を支配してきた「フォーディズム」が、終幕を迎えるということではないか。フォーディズムの極致ともいわれるトヨタ生産方式(トヨティズム)だが、今回の不況にはいとも簡単に弱点を露呈してしまった。フォーディズムの時代が終幕を迎えていることは、ほとんど疑いない。しばらく我慢すれば、また忘れたように販売台数を競い合う時代が来るとはそう簡単には思えない。

 オバマ新大統領の議会演説にも、この巨大化を追い求めた上に、破綻して、国家の手にも負えなくなった産業、企業について、確たる処方箋が描けない苦悩の一端がうかがわれた。本来購買力のない消費者にまで車を買わせてきたオートローンの決定的失敗を含めて、地域の衰退など、病状はきわめて深刻だ。

昔に戻れるのか
 自動車産業は以前の状態に戻れるのか。答えは「否」である。はっきりしているのは、不況前の状態への復元はありえないということだ。とりわけ注目が集まるデトロイトのビッグスリーについては、存続自体も危ぶまれる惨状を呈している。
 
 2月17日、GMとクライスラーの2社は、経営再建計画を提出した。両社併せて約5万人の人員削減計画を新たに打ち出す一方で、実施済みの緊急融資増額174億ドル(約1兆6千億円)に加え、新たに最大計216億ドル(約1兆9800億円)の追加融資を求めた。その直後に明らかにされたGMの昨年の赤字額は、3兆円に相当するという惨憺たる有様だ。3月5日には、GMの監査法人が破産に近い状況と厳しい報告を提出した。フォードは、なんとか自力で再建の道を探っているようだ。しかし、こちらも前途は厳しい。 

 アメリカという自動車を生み出した国で、そのすさまじい崩落を見るのは、耐え難いことだろう。しかし、公的資金をこれ以上投入しての救済は、さらに泥沼状態へ入ることであり、アメリカという国の精神的基盤をも否定しかねない。

 アメリカ企業ばかりでなく、トヨタに代表される日本企業、そして欧州企業も、ほとんどエンスト状態だ。わずかにインド、中国などが、かろうじて前年比プラスで健闘しているにすぎない。 それも多くの優遇策を講じての上だ。昨年の記録で自動車の販売落ち込み(前年比)が著しいのは、国別ではスペイン、アメリカ、日本など、企業別ではクライスラー、現代、トヨタなどだ。VWグループなど、ドイツ系企業が比較的落ち込みの程度が少ないといわれているが、これとても程度の差にすぎない。 これまでの経緯を見ていると、危機は想像以上に深刻であり、その原因も複雑であることが伝わってくる。

再生への手がかり
 金融部門と違って、自動車産業のような実体経済は、これほどまでに自壊してしまうと、復元はきわめて困難だ。生産から販売まで複雑な仕組みが、グローバルな次元で広がっているからだ。とはいっても、今回の大不況で自動車産業自体が消滅してしまうわけではない。しかし、いくつかの企業の名は確実に消え去る。そして、新しい構想に基づく自動車産業の体系が確立されるまでには、かなり時間がかかるだろう。産業内部の大きな再編が必要だからだ。

 幸い、再生のための材料、手段は残されている。この産業の将来は、消費者を含めて、関係者が描き、共有するヴィジョンいかんに大きくかかっている。とりわけ、新エネルギーへの転換、中国、インドなど、自動車の普及度が低い国々の中間層への対応、代替公共交通手段の充実などが鍵になるだろう。アメリカでは運転者人口の1人に1台だが、中国では100人に3台という普及率自体、さまざまなことを考えさせる。

 これからしばらく、自動車産業という名は残っても、内容は大きく異なる新しい産業への転換過程になると見るべきかもしれない。ハイブリッド、電気自動車など、クリーン・エネルギーへの移行ひとつとっても、既存の生産様式、部品生産などに大きな変革が必要になる。石油、電力などエネルギー関連産業への衝撃はとりわけ大きい。

 この大不況という舞台の暗転は、対応いかんでは新たな活力を秘めた時代への幕開けともなり得る可能性も秘めている。いずれにせよ、10年単位のかなり長い転換の時間を擁するだろう。幸い新たなイノヴェーションを創り出す素地は、多く残されている。「創造的破壊」の嵐が吹くことになるに違いない。部品、組み立て、販売を含めて、自動車産業の全局面を覆う激しい淘汰と新生の動きが見られるはずだ。

 とてもブログの視野に納められるようなテーマではない。ただ、第一次石油危機の前から、ひとりの観察者として自動車産業を眺めてきた。国内外の現場を訪れたことも多く、さまざまな感慨がスナップショットのように網膜に浮かんでくる。その数コマだけを記してみたい(続く)。

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自転車から見る世界

2009年03月08日 | 雑記帳の欄外

 早春の週末、久しぶりに自転車に乗る。顔に当たる風はまだ冷たいが、明らかに春の訪れが感じられる。10キロほど離れた近くの大学キャンパスを目指す。途中には短いながらも自転車専用レーンもあって走りやすい。公園の梅も満開に近い。

 
それにしても、行き交う自転車が増えた。駅や大きな店の前にも自転車が溢れている。それも、銀色のまだ新しい自転車が多い。デザインの斬新な外国製の自転車も増えた。電動アシスト自転車もかなり見かけるようになった。

 子供たちが、最近買ってもらったのだろう。色とりどりのヘルメットをかぶり、マウンテンバイクなど、見るからに新しい車に乗って、親たちと一緒に走っているのはほほえましい光景だ。自転車を通勤に使う人たちも増えたようだ。 

 自転車ブームが起きていることは、明らかに感じられる。町の自転車屋さんはどこも忙しそうだ。新しい店も次々と開店している。自転車の受国内での普及率はきわめて高く、国内総世帯に対する比率は83%近いといわれている。しかし、エコ(環境)・健康志向、自動車離れなどが重なって、新たな需要が掘り起こされているようだ。

 自転車の復活は、ほとんど世界的な風潮のようだ。グローバル危機の拡大は、世界規模で自動車の大幅かつ急速な販売低下を生んだ。自動車販売、そして生産の減少は、先進国のみならず新興国へも波及している。ガソリンに代わる代替エネルギーによる電気自動車などの開発、普及には、まだかなりの年数を要するとなると、公共輸送機関の充実や自転車などの普及によって、省エネルギー化が進むのは望ましいことだ。

 
 自転車ブームの背景には数多くの要因が働いている。省エネルギー、省スペース、経済性、健康・スポーツ、通勤・通学手段など、さまざまな動機が考えられる。自動車に比較すれば、格段に人にやさしい乗り物であることは確かだ。若者の自動車離れも進んでいるようだ。

 ただ問題がないわけではない。日本は自転車専用レーンも少なく、安心して走れる道は少ない。自動車文明が生み出したマイナス面でもある。自転車は車道の端を走行しなければならないので、常に危険がつきまとう。自動車ばかりでなく、歩行者との接触の危険性もいたるところにある。放置自転車の問題も再燃し始めた。

 マナー違反も目につき、さまざまな危険性が潜んでいる。後方から高速で追い越してゆく自動車、オートバイ。最近の車はエンジン音が小さいので、自転車にバックミラーをつけていても、注意していないと危ない。

 自転車の乗り手側にも問題が多い。薄暗くなって視界が悪くなっても、点灯しない。ケータイをかけながら蛇行して走る若者。子供や高齢者が歩いていても、減速、徐行しないなど、ルール違反が目に付く。せっかくクリーン・エネルギー化の一端を担う自転車ブーム。マナー、ルールを守って育てたいものだ。

 自転車に乗るだけで、新しい世界を垣間見た思いがした。

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在りし日をしのんで:ヴィックの城門

2009年03月06日 | ロレーヌ探訪

ヴィック=シュル=セイユ城門の崩れた城壁の「石落とし」



 16世紀末から17世紀にかけて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌ公国の町、ヴィック=シュル=セイユの町。今日訪れると、時が止まったような光景に驚かされる。しかし、ラ・トゥールの時代には、多くの人々が行き交う文化の交流地点のひとつとして、繁栄していた。

 以前に記したことがあるように、この時代のロレーヌ公国自体、きわめて複雑な状況を呈していた。公国の中にも、メッス、トゥール、ヴェルダンという3つの司教区が存在していた。ヴィック=シュル=セイユは、その中でメッス司教区の管轄圏に入り、いわば飛び地のような存在だった。こうした状況を反映して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが結婚後、生地ヴィック=シュル=セイユを離れ、ロレーヌ公直下のリュネヴィル(妻の実家があった)へ移住するについても、請願状を提出し、租税などの免除を要請している事実からも明らかなように、移住自体も決して容易ではなかった。

 メッスは1552年にフランスの支配するところとなり、メッスにはフランス王(アンリ2世)の総督と守備隊が駐屯していた。メッスの司教はメッスからほど近いヴィック=シュル=セイユに司教館を建てて行政上の首都とし、滞在していたらしい。フランスの干渉が煩わしかったのかもしれない。その後長い年月の間に、城壁や司教館は崩れてしまい、わずかに城門の一部などを残すだけになっていた。

 しかし、幸い盛時の状況を偲ばせる絵画や資料はかなり残っていた。そして、近年この町にジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館が設置されたこともあって、町の考古学的研究成果の再評価なども行われ、わずかに残っていた城門の修復作業が行われた。その完成を記念して、2008年10月12日から2009年2月22日にかけて、「ヴィック=シュル=セイユのメッス司教区城館」という特別展*も開催された。修復後の最新状況は、以前にご紹介したブログ「キッシュの街角」(城跡を訪ねて)に見ることができる。



修復中の城門(2007年)

 ヴィックは、かつては周囲を城壁で囲まれた城砦の町であった。中世から近世にかけて、城砦としての増強・整備は進んだ。そして15世紀から16世紀初めにかけて、一段の充実が見られた。今回修復が行われた城門も一時は、下掲のように四つの塔を備え、偉容を示したものだったらしい。



 15世紀の城門は、残っている資料から3Dで再現すると、このように立派なものであり、前門には跳ね橋、水堀などもあったようだ。今回修復されたのは、わずかに残っていた前門の部分である。

 ヴィック=シュル=セイユに限らず、アルザス・ロレーヌには多数の城砦、要塞が残っている。この時代の城砦の構造、仕組みは色々と興味深い点が多い。いずれ記すことにしたい。


☆フランスの城の構造、建築法などについてはTVドキュメンタリー『中世の城の黄金期』Golden Age of Castles, NHKBS1  2019年6月12日がきわめて興味ふかい。


Le château des évêques de Metz à Vic-sur-Seille
, Jean-Denis Laffite, éditions Serpenoise, 2008, 65 p., ill., cartes



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外国人労働者が争議の原因?:EUとイギリス

2009年03月04日 | グローバル化の断面

  世界に雇用削減の嵐が吹いている。メディアが解雇反対など労働争議のニュースで覆われてもおかしくない。しかし、ストライキとか争議 にかかわる記事はあまり見かけない。

 日本についてみると、第一次石油危機以降、労働組合などが主体となった集団的労働争議は、急速に減少した。代わって、個人の利害関係を背景とした個別労働関係紛争が増加した。それでも、メディアへの紛争・争議の登場は少ない。

 そうした中で、目についた記事があった。イギリスでの労働争議である。日本も関連している。最近、日本の日立製作所は英国の高速鉄道車両にかかわる総額75億ポンド(約9600億円)相当の受注に成功した。車両数では最大限1400両になると言われている。この大不況時、日本企業にとっては喜ばしいニュースだ。

仕事を奪われる?
 ところが、イギリス最大の労働組合のひとつ、鉄道・海運・運輸労働者全国連合(RMT)は、イギリス人労働者の仕事の機会を奪われると反対している。仕事の機会が外国へ流れてしまうというのがその理由だ。実は、こうした争議はイギリスでは、他にも起きている。

 リンゼー石油精製所 Lindsey oil refinery では、去る1月28日から工場外でのデモが始まった。精製所拡大のために外国人労働者が雇用されることへの反対が理由だ。イギリスでは、1984年の炭鉱争議以降、労働法上は違法な争議行為なのだが、同情ストが頻発してきた。同情ストは今回も発生。2月4日現在で、争議は22地点へ波及、約6000人が参加した。

 日立製作所の受注、そしてリンゼー製油所の場合もそうだが、労働組合の反対理由が、これまでのストの原因である賃金その他の労働条件の域を越えて、拡大していることが注目される。

移民労働者への不安
 たとえば、上述のようなイギリスでの移民・外国人労働者をめぐる紛争・争議の背景には、 仕事を喪失することへの恐れ、増える外国人労働者への憂慮、そして移民政策一般、未だ遠い存在ではあるが、いつの間
強力になったEUの権力への不安、そして自分たちに同情的でなく、伝統的な支持者の多くに関心のない現在の労働党への幻滅など、さまざま要因が絡み合っている。

 争議の内容も、従来の争議と比較するとかなり捻れている。リンゼー製油所の例では、製油所を所有・経営するトタール社(フランスの石油企業)が、アメリカ、カリフォルニアのエンジニアリング会社ジェイコブスを起用した。ところが、ジェイコブスは仕事をイタリア企業IREMに外注した。このイタリア企業は、自社の百人近いパーマネント・スタッフ(イタリアおよびポルトガル人)に仕事をさせるべく、イギリスに送り込んだ。その後も、さらに数百人が加わることになっている。

 契約は秘密なので、なぜ仕事がイギリス人ではない外国人に委託されるのかは明らかにされていない。IREMは、イギリス人ではないティームと仕事をした経験があり、彼らの能力が高いと考えたようだ。

 ストライキに参加したイギリス人労働者は、国外からの新参者は地域の賃金、労働条件を引き下げているという。これについてはIREMもTotal社も否定している。法的にもスト実施者側の基盤が確固としているわけではない。


 EU加盟国民はどこの国でも働くことができる。しかしながら、IREMの労働者は、イギリスではEUの特別な指令、posted workers directive*の下で働いている。一種の自国外への派遣労働者である。競争をゆがめることがないことを条件に、派遣元企業が彼ら自身のスタッフを、ヨーロッパのいずれの国でもテンポラリーなプロジェクトで働かすことができるよう送り出す仕組みである。

 たとえIREMの労働者がイギリスで、イギリス人労働者(この例では、正確にはイギリス最大の組合UNITE)の労働条件よりも低い水準で働いているとしても、EU基準を下回らない限り、それはただちに不法というわけではない。その点に少し立ち入ってみよう。

困難なEU法との整合
 外国人労働者は、EU労働法の下で、ローカルな労働者と同じ権利を与えられている。大陸では「公正賃金」ルールが、特定の仕事に特定の賃金を設定している。イギリスでは、企業は少なくも全国最低賃金だけは支払わねばならない(時間賃率5.73ポンド、8.30ドル)。この水準は、イギリスの建設産業の多くの仕事をカヴァーしている全国協定で定められた率(組合賃率)よりもかなり低い。

 2007年、「イギリス人労働者にイギリスの仕事を」と述べたゴードン・ブラウン首相は、批判の的となった。その後、保護主義は「景気後退を不況」にするとして、態勢を立て直した労働党だが、イギリス経済の環境は厳しく、党内の舵取りも難しい。

高まるナショナリズム
 グローバル大不況の浸透で、ナショナリズムの動きは強まっている。スペインでは、ザパテロ首相は自ら打ち出した公共事業計画で、失業者の救済を掲げ、30万人の新規雇用を創出するとしている。これについてEUは、失業者救済はよいとしても、これらの仕事に雇用される労働者を地域の失業者やスペイン人だけに限定はできないと釘を刺している。

 同様な論理は、イギリスについても適用される。イギリスで働く外国人が、イギリスの競争相手の労働条件を「切り下げている」と非難される場合である。EU単一市場の論理は、域内のいかなる地域であろうとも、競争原理が働くようにすることにある。このことは、イギリスの水準よりも低い労働コストで働く外国人労働者、たとえばポーランド人労働者をイギリスに受け入れることも(EU基準を充たすことが条件だが)認められるということだ。EUが従来の加盟国よりも、相対的に貧しい国々を加盟させるにつれて、以前からのヨーロッパ諸国の労働組合は、これまで獲得してきた水準を維持することに難しくなっている。

錯綜する現実;頻発する争議
  短期には願いもかなえられた部分もある。今回の場合、トタール社が約100人分の仕事をイギリス人に保証したことで、2月5日ストライカーは職場へ戻ることを選択した。しかし、山猫ストもあり、雇用削減不況への恐れが浸透している。

  しかし、トタール社の争議が下火になったころ、代わって別の争議が発生した。2月5日、建設労働者が、Alstom(フランスの企業)のロンドン支社の前に集まった。この企業は、ノッティンガムシャーの新しいステイソープ発電所の建設に加わろうとしている。仕事はイギリス国外の下請け企業が請け負う。

 エネルギー産業は、2012年ロンドンオリンピックを目指して、大きなブームの対象になる。ステイソープは新しいガス発電所のひとつだ。代替エネルギーの補填として、石炭および原子力発電所も計画途上にある。

 イギリス企業は、これらのある部分は引き受けることができるだろうとみられている。しかし、外国企業は、より高い技術を保有しており、どうしてもその起用が必要となる。労働組合の反対にもかかわらず、空洞化が進んだイギリスの製造業では、それらの仕事を国内の企業、労働者では充足できない。

 3月1日、EU首脳会議は、保護主義的政策はとらず、EU共通の新しい枠組みを推進してゆくことで合意した。しかし、現実には国境の壁は固く、ケースバイケースの対応がなされている。保護と開放をめぐって、緊張は一段と高まるだろう。グローバル化のひとつの分流と考えられるEU基準という大きなプレートが、各国の国内労働市場のプレートと衝突し、軋みあっている。大不況のさなか、各国ともに自国重視の傾向は避けがたく、EUとのせめぎ合いが続く。


*  posted worker とは、限定された期間、通常働いている国から離れて、EC加盟国の別のある国の同じ分野で働く雇用者。この指令では、使用者は実際に働く加盟国の賃金など基本的労働条件を労働者に確保しなければならない。


References
 「日立高速鉄道車両受注」『朝日新聞』2009年2月14
‘Discontents, wintry and otherwise’The Economist February 7th 2009

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光はどこから

2009年03月01日 | 午後のティールーム

フランス、ヴィック=シュル=セイユ、サンマルタン教会の洗礼盤。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもここで洗礼を受けたと思われる。
        


  広大なITユニヴァースの中では小さな宇宙塵のようなこのサイト、どういうわけか、アクセスが急増した。人工衛星の破片でも衝突したか(笑)。原因は、どうも2月28日から国立西洋美術館で開催される「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」(6月14日まで)と、それに
併せたテレビ東京の番組「美の巨人たち:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」(2月28日)の放映によるものらしい。

 TV番組自体は、30分の紹介番組。これでジョルジュ・ド・ラ・トゥールという謎の多い、深い精神性を秘めた画家がすぐに分かるわけではない。短い時間なのだから、画家の生きた17世紀の世界に直接入ることに徹すればよかったと思うのだが、無理に現代パリの照明器具デザイナーに結びつけようとした試みは、とってつけたようで成功しているとは思えなかった。「大工ヨセフとキリスト」の作品解釈ホントホルストの一枚との比較も、一寸外れて残念。こうした番組の宿命かもしれない。

 父親ジョルジュほどの画才に恵まれず、父親の没後、画業を続けることをあきらめた息子エティエンヌとの父子関係は、興味深いテーマだ。いつか記してみたいこともある。

 ラ・トゥールという画家、果たして報じられたように400点も制作したかはまったく分からない。案外、寡作であったのかとも思う。ひとつ確かなことは、制作に際して深く思考し、余分なものは一切描かないという画家だったと思う。この画家にとって、描きこまれたものはすべて意味があるのだ。晩年の作といわれる簡素のきわみともいえる「砂漠の洗礼者聖ヨハネ」も、華麗な「いかさま師」も、同じである。

 突如世界を覆い尽くした時代の不安に、この乱世をしたたかに生きた画家の作品が、多くの人の心の支えになりうるならば、ラ・トゥール・フリークのひとりとしても大変うれしい。

コメント (2)
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