時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(57)

2006年01月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

http://www.abcgallery.com/L/latour/latour11.html

宗教改革の奔流に棹さす画家(2)


宗教対立の時代
  プロテスタントのローマ・カトリック教会批判は熾烈であった。長年にわたるカトリックの支配は、さまざまな批判の材料を与えてもいた。カトリック教会そして法王自身が批判の対象でもあった。

  こうした批判に、体制側のローマ・カトリック教会側は当然ながら対応を迫られた。反宗教改革(カトリック宗教改革)は、プロテスタントの攻撃に対するカトリック教会側の対応であった。その重点は、プロテスタントによって批判された慣行・しきたりの正しさを理論づけ、その価値を再確認することに当てられた。さらに布教の歴史を重視し、初期の教会創始者に立ち戻って原点を見直すことが試みられた。 その目的は自らを新たに見いだすことでもあった。

重要な役割を担う芸術
  カトリック改革側の対抗プランの基軸は、1545-1563年の間に25回にわたって開催されたイタリアのトレント会議で形成された。その最後の会議で、彫刻、絵画、音楽などの教会芸術は、この宗教改革の嵐の中で重要な役割を果たすことが確認された。

  カトリック教会は、芸術が言葉では十分果たし得ない、人々を感動させうる重要な役割を持っていることを再認識した。当時、最もキリスト教に信仰深いのは教育を受けていない人々であり、彫刻や絵画はそうした人々に直感的に教会の話や価値を教える不可欠な手段であった。そのため、宗教的絵画はカトリック教会側の重要な対抗手段とされた。 皮肉なことに、プロテスタント側が提起した宗教イメージの廃止は、カトリック側に激しい反発を引き起こした。イメージを破壊しようとしたプロテスタントの意図はかえってそれを盛んにしてしまったところがあった。

分かりやすさへの回帰
  トレント会議は、プロテスタントの批判を受けて、美術についてのルールを定めた。たとえば、宗教画での裸体を禁じた。シスチナ教会堂のミケランジェロの「最後の審判」に描かれた人物の衣装の描き方に示されている。さらに、トレント会議は、無用な情景や人物を描き込むことがないよう布告した。

  こうした布告が一人の画家としてのラ・トゥールの制作活動にいかなる影響を与えたかはよく分からない。ロレーヌにいかなる経路を通して伝達されたかも、必ずしも分からない。しかし、この画家はもともと自分のイメージを表現するに最低必要なものしか描かなかったのではないかと思われる。それによって、見る人の注意を対象に集中させることを意図したのだろう。屋内、屋外を問わず、背景らしきものが描き込まれた作品はほとんどない。その代わり、重要人物の描写には最大限の努力が注ぎ込まれている。

  トレント会議が示した単純さと分かりやすさへの転換は、主題と構成が次第に複雑であいまいになってきたマニエリスムmaniérismeへの反発だった。マニエリスムは盛期ルネッサンスの後に登場した様式で、イタリアを中心に1520年頃から16世紀末までイタリアを中心にヨーロッパに波及した。ルネッサンスの古典主義的様式への反動ともいえるものであった。ポントルモ、エル・グレコ、ティントレットなどに代表される。トレント会議は、この点を反省し、マニエリスム様式で描かれた聖人のいくつかについては、様式化が過ぎるあるいは当時の見る人の日常経験から離れすぎ、聖人のイメージに忠実ではないとした。

見直された使徒たち
  教会は初期の事績の証人でもあり、殉教者でもある使徒たちの評価に重きを置いた。たとえば、聖セバスティアヌスは死に対して信仰厚き人として宗教改革の嵐の吹くヨーロッパでもよく知られていた。ヴィック出身の貴族でもあったアルフォンソ・ランベルヴィリエール は、15世紀メッス出身の聖人リヴィエ Saint Livierの自叙伝を書いている。このロレーヌ出身の聖人が殉教した場所ヴィレヴァル Vireval は、14世紀の巡礼の目的地となり、その後カトリック宗教改革の時代には大変な賑わいを見せた。 ロレーヌには、この他にも巡礼のめぐった所がいくつかあったようだ。

  ラ・トゥールがどの程度までトレント会議の示す方向に沿おうとしたのかは資料もなく不明である。しかし、今日に残る作品から見るかぎり、この画家はカトリック宗教改革が意図した伝統的主題を描いている。ラ・トゥールがカトリック宗教改革が方向づけた主題を選択することによって、教会に対するプロテスタントの批判を回避しようとしたことは推測できる。しかし、この画家は世俗の世界ではロレーヌ公領に住みながらも、フランス王室にも近い微妙な立場を維持していた。 ここに、ラ・トゥールの謎を解くひとつの鍵が秘められているかもしれない。


Reference
Choné, Paulette. 1966Georges de La Tour: un peintre lorrain au XVIIe siecle. To urnai: Casterman.
Conisbee, Philip ed. 1996. Georges de La Tour and His World. Washington, DC: National Gallery of Art & New Heaven : Yale University Press.

Image St.Simon
Courtesy of Olga's Gallery

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「移民漂流」を見る

2006年01月30日 | 移民の情景

  NHKのスペシャル番組「移民漂流」を見た。インターネット技術が開発した成果を駆使して、地球上の3点をほぼ同時的にカヴァーしての組み立てである。イスラエルからドイツ、ベルリンへ移住を企図するユダヤ人青年、ユダヤ人の血筋を継承し、エチオピアからイスラエルへの移住を希望する一家、ベルリンに住むトルコ人の苦悩、東欧からの移民に追われ、他国へ流出するドイツ人などの姿が映し出される。それぞれの背景にある苦渋な選択の状況が紹介される。

  その背景にあって、こうした人の流れをつくり出している動因は、先進国の少子高齢化であるとする。テレビ番組という制約もあって、企画の意図は分かるが、見ていて大変せわしない。「移民漂流」というタイトルと裏腹に、プログラム自体があわただしく「漂流」してしまっている。多くの視聴者には、状況を理解するのに追われ、本質的なことを考える余裕がないままに終わってしまう。ご自慢の映像技術に溺れすぎた感がある。

  変化が激しい時代だけに、上滑りでなく見る人が落ち着いて問題の本質を考えられる導入・設定をすべきだろう。 「移民」と「少子化」はもちろん関連があるが、短絡的にすぎる。「少子化の特効薬か劇薬か」というテーマ設定にいたっては、万策尽きて「移民」なのかと考えてしまう。。移民を生み出してきた要因は、「少子化」に限ったことではない。視聴者をミスリーディングする恐れもある。

  舞台となっているEU自体も、決して一枚岩ではないことを示すべきでもあろう。ドイツが2005年に導入した優秀な移民を受け入れる「新移民法」が紹介される。しかし、こうした政策が、他国が多大な時間をかけて教育投資をした成果を労せずして奪い去ってしまう側面もあることに注意したい。

  このブログでも取り上げたことのあるフィリピン人看護師の流出はそのひとつの例である。 見ようによっては、先進国のエゴが作りだした現象とさえいえないことはない。

  ひるがえって、日本についての言及がなされる。すでに日本でも知られている国連人口部報告が提示した「代替(補充)移民」replacemnet migration の考えがあわただしく紹介される。国連報告では、少子高齢化に伴う人口減を補うために、毎年イタリアは372千人、フランスは109千人、日本は647千人の移民受け入れが必要であるとされた。この報告の評価・検討自体、大きな問題を含んでいる。移民は単なる数合わせではないからだ。

  先進国の中では、実は日本が最も深刻な問題を抱えているのだが、「移民受け入れ問題」はタブーなのか、ほとんどまともな議論がされたことがない。移民(受け入れ)政策は、実は国家大計の問題なのだ。NHK番組は、この議論への国民の関心をおそまきながら喚起しようという心づもりがあるのだろうか。

Reference
NHKスペシャル 同時3点ドキュメント「移民漂流」、2006年1月29日放映

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ラ・トゥールを追いかけて(56)

2006年01月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


http://www.abcgallery.com/L/latour/latour3.html 

 
宗教改革の奔流に棹さす画家(1)
  現存する40点ほどのラ・トゥールの作品には、よく見ると宗教的テーマに基づいて描かれたものが大変多い。しかし、ラ・トゥールの「宗教的」作品を初めて見た人は、すぐにはそれが使徒・聖人を描いたものとは思わないだろう。農民や漁師など普通の人々がモデルであり、それも日々の労働の間に刻まれた顔の皺、日焼け、使い古した衣類などが克明に描きこまれている。なかには、なんとも恐ろしげな顔立ちの人物も描かれている。しかし、しばらく見ていると、どうも普通の人ではないという画家の気迫のようなものが伝わってくるから不思議である。

  ラ・トゥールはなぜ、こうした試みを行ったのだろうか。どうして、もっと他の画家のように「宗教画」らしい?描き方をしなかったのだろうか。この点を理解するためには、ラ・トゥールが過ごした時代環境と宗教世界の関係に立ち入ることが欠かせない。しばらく、その流れを追ってみたい。

精神世界の大変動
  すでに繰り返し書いたように、ラ・トゥールがその生涯の大部分を過ごした16世紀末から17世紀にかけてのロレーヌ地方は、政治やその影響下にある社会も激動の渦中に置かれていた。そればかりでなく、人々の精神的次元にかかわる宗教の世界も大きな混迷の中にあった。精神世界も激動にさらされていた。「宗教改革」Reformationがもたらした大激変である。

  改めて述べるまでもないが、発端は1517年、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが教皇制度の不合理に対して改革を企て、ローマ・カトリック教会から分離・独立してプロテスタント教会を立ち上げた宗教運動である。ルターの実際の行動がいかなるものであったかについては、歴史家の間に論争があるようだが、教皇の贖宥状(俗に免罪符)販売を攻撃し、人は功績や免罪符などの現世的行為によらず「信仰のみ」によって救われると主張し、聖書を唯一正しい基礎とする立場から教皇権を否認したこのプロテストは、その後全ヨーロッパを覆った対立的宗教運動の導火線となった。 体制側のローマ・カトリック教会としては文字通り足下を揺るがされる大衝撃であった。その後、プロテスタント宗教改革と体制側カトリックの対抗宗教改革counter reformation(カトリック宗教改革ともいう)のさまざまな動きが展開する。

ラ・トゥールに影響したロレーヌの事情
  16世紀から17世紀前半は宗教的危機の時代であったといってもよい。ラ・トゥールが生きた時代である。宗教改革と宗派対立がその背景にあった。ルター、カルヴァンなどに始まるプロテスタントの運動、フランスの宗教戦争、トレント会議 the Council of Trent、カトリック教会の側からの対抗宗教改革(カトリック宗教改革)など、すべてが1500年代に発生した。改革者たちはローマの教会を攻撃し、体制側が反宗教改革という形で擁護しようとするものを禁止した。

  カトリック教会も、プロテスタントに対抗して、1545-63年、自己革新と教理確立のための公会議を3度開催した。トレント(ドイツ語ではトリエント)会議の名で知られるものである。 ラ・トゥールは、ひとりの画家としてその奔流の中に立っていた。画家は激動する聖俗の世界を体験しつつ、自らの生き方を探し求めていた。ラ・トゥールを理解するためには、まずプロテスタントがなにを攻撃したのかを理解する必要がある。

芸術の世界に及んだプロテスタントの攻撃
  プロテスタントの攻撃はカトリック教会のあり方ばかりでなく、教会に関連する芸術の世界にも及んでいた。建築、彫刻、絵画などは布教のための最も有効な手段であった。プロテスタントが批判の対象としたものは、それまでカトリック教会の主導によって形成されてきた宗教的美術の禁止であり、そのイメージの破壊であった。改革者たちは、宗教的美術は神の崇拝というよりイメージの崇拝であると批判した。続いて、神の恩寵を受けるための儀式としてのサクラメント(秘蹟)や煉獄の考えに反対した。

  救いは行いによらず信仰のみによると説いたプロテスタントとカトリックでは、「良き行い」の重要性も異なっていた。カルヴァンやルターにとっては「良き行いという言葉はなんの意味もない。というのは人間の性格からはなんの良きことも由来していなからだ。人間は恩寵を受けることがないほど罪深い」と説き、信仰だけが救いにつながるとした。プロテスタントは、教会はキリストとの関係を取り違えているとして、カトリック教会によって創られた聖母マリアへの尊敬のレベルにも異議を唱えた。

  プロテスタントが提起した一連の問題は、カトリック世界を揺るがし、対応を迫った。トレント会議を始めとする動きが次々と展開した。宗教世界における大激動は、さまざまな経路を通して画家ラ・トゥールにも伝わってきた。宗教改革思想がどのような形や経路をたどってロレーヌ地方、そしてラ・トゥールに達したかは大変興味を惹くところだが、後世から見ると、この
画家は宗教世界に突如として生まれ渦巻く大きな奔流に棹さしていた。


Image
Courtesy of Olga's Gallery

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メディアの恐怖:映像から見たゲッべルス

2006年01月27日 | 雑記帳の欄外


    どういうめぐり合わせか、またゲッべルスを主役とした番組*を見ることになった。「メディア操作の天才」というゲッペルスの実像は、小柄で貧相である。軍服や戦時服を着ているから、他のナチスの将校たちと並んでもあまり目立たないだけである。痩せて病的な顔に見える。とりわけ、恰幅のいいゲーリングと並ぶと、この男がヒトラーの片腕であったかと思うほどである。

    しかし、ナチス・ドイツ宣伝文化相は、さすがに弁は立つ。恐ろしい美辞麗句が列挙されるとはいえ、当時のドイツ国民はこの一人の男に大きく揺り動かされたのだ。「モスクワやレニングラードは占領するのではなく、破壊する。敵を滅ぼすことが目的であって、褒美ではない」。この恐ろしい言辞もすさまじい熱狂で迎えられていた。
 
    だが、愛国的なプロパガンダとは裏腹に現実は厳しい様相を呈していた。映像が映し出した1941年当時、東部戦線で敗色濃いドイツ軍はすべてが不足していた。だが、「宣伝の威力」は恐ろしい。1943年2月15日、スポーツ宮殿での演説でもゲッペルスは「自分の分身を100万人つくれば・・・」と述べ、異様なまでに興奮した空気に包まれている。「君たちは総力戦を望むか」とのアジに、群衆は一斉に熱狂的な歓呼で応えている。今見ると恐ろしいばかりである。時代の狂気、異常さというのは、同時代人には分からないのだろうか。

  このゲッべルスにも尊敬する人物がいた。こともあろうに、敵国イギリスのチャーチル首相であった。東部戦線も望み薄になった時、「血と労苦と汗」というチャーチルのスローガンを利用できないかと考える。ドイツ軍の爆撃やロケットでの昼夜を問わない攻撃にも屈しないロンドン市民を前にして、ゲッべルスはなにを思ったのだろうか。国民の士気を鼓舞するために「コルブルグ」という映画も作成する。「士気の高揚という点では、ひとつの戦争に勝利するのと同じだ。」とゲッべルスは考えたのだ。

  今回のライブドア事件に限ったことではないが、メディアの報道に右往左往させられる国民の実態に、背筋が寒くなる思いがする。

Reference
「メディア操作の天才 ゲッべルス」シュピーゲルテレビ制作、2004年
BS7 2006年1月23日放映 

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日本と中国が地続きであったならば

2006年01月26日 | 移民政策を追って

絶え間ない越境者:アメリカ・メキシコ国境*
 
  もし、日本と中国が地続きになると、どんなことになっているか。ウエゲナーの大陸移動説**を持ち出すまでもなく、太古の昔、日本は大陸の一部であった。幸か不幸か、われわれは日本という島国に住んでいる。13億人と1億人の間の格差も大きい。今や世界の漁獲量の3分の1近くは、中国人の胃袋に収まっているそうだ。地続きであれば、当然人の移動も激しい。水が高きから低きに流れるように、すさまじい変化が起きているかもしれない。こんな夢想めいたことを考えさせる現実が、アメリカとメキシコの間には存在している。世界最大の先進国と中進国とはいえ、未だ発展途上の国が地図上の一線を境に地続きに併存している。

  地平線はるかまで続く国境線。アメリカとメキシコ間につらなるこの国境を越えようとする人々は絶えたことがない。そして絶えず多くの問題を生んできた。今日のABCテレビによると、太平洋側メキシコ国境の町ティフアナからアメリカ国境を横断する730メートルのトンネルが発見されたという。すでにこうしたトンネルはこれまでに40カ所も見つかっているとのことである。

  昨年12月30日、カリフォルニア州サンディエゴ近くの国境を越えようとした18歳のメキシコ青年がアメリカ国境パトロールに射殺された。パトロールは正当防衛とし、犠牲者は移民を商売とするコヨーテと呼ばれる人身密売業者だと述べた。メキシコのフォックス大統領は外交問題として取り上げ、事態の真相究明を要求した。他方、テキサス州では12月に国境パトロールのエイジェントがメキシコ国境側から撃たれたと伝えられている。

困難な不法入国阻止
  こうした中、12月16日アメリカ下院は239対182でセンゼンフレナーJames Sensenbrenner (ウイスコンシン州共和党)議員提出の移民法案を可決した。新法は不法移民を重罪とし、(入国に必要な)書類不保持の入国者を雇用したり、入国の扶助をすることを罰し、3300キロの国境の3分の1以上に物理的な防壁、垣根を構築することを主たる内容としている。しかし、センゼンブレナー法案はブッシュ政権が支持していないので、上院を通過する可能性はほとんどないとみられている。

  このブログで紹介したように、ブッシュ政権は、ゲストワーカー・プログラムと連携した厳しい法制の方向での新法導入をキャンペーンしている。ブッシュ案では推定で約1千万人くらいの不法滞在者に合法性を与える。その60%くらいはメキシコ人である。

  法案は成立しない見込みなのだが、センゼンブレナー法案はメキシコを怒らせた。フォックス大統領は恥ずべき考えだとした。彼は移民は「英雄」であり、彼らはいかなることになろうと国境を越える道を探すだろうと述べた。

  以前からメキシコはアメリカとの移民交渉に大きな期待をしていた。ところが、2001年9月11日の同時多発テロの勃発後、メキシコは国連安全保障理事会でイラクの戦争に反対の立場をとった。これを機にアメリカとの関係は冷え切った。だが、希望はいつも非現実的なのだとするメキシコ人もいる。メキシコ政府、特にルイス・デルベズ外務大臣は、冷たい状況をつくり出した責任を負うべきだという者もいる。デルベズは、主として個人的対立から前任者カスタネーダが描いた移民改革の構想を放棄してしまったからである。

ロビイングの不足
  それ以上に、フォックス大統領の最大の過ちはワシントンで移民について、有効なロビイングをしてこなかったといわれている。力の入れようが、1993年NAFTA成立当時とは大違いといわれる。さらにいまや12人に一人といわれる在米メキシコ人のチャネルを活用しなかったことである。その多くは合法市民であり選挙権を行使できる。

  メキシコとアメリカはNAFTAのパートナーとして実際には密接な関係ではある。しかし、ブッシュ政権の下で目に見えた移民改革を達成するチャンスはきわめて少ないと見られている。 メキシコ側にも大きな課題がある。ブッシュ政権が考えている新法の線でゲストワーカー・プログラムなどを前進させるためには、書類不保持者の移民についてメキシコがもっと努力しなければならないという政治的合意がある。しかし、7月のメキシコ大統領選挙を前に候補に上る政治家で、この問題をとりあげる者は誰もいない。メキシコ・アメリカの関係を損ねると自分の政治生命に直結するからである。

弱まらない供給圧力
  しかし、移民問題は両国間の継続的な問題であることは変わらない。カリフォルニア、テキサスにつらなる障壁のために、国境を越えようとする者はアリゾナ砂漠の方に移っている。しかし、それで移民が阻止されたわけではない。2005年には約40万人が不法に国境を越えたと推定されている。そのうちおよそ90%がメキシコで仕事をしていた。アメリカ側では不熟練労働の賃率でもメキシコよりはるかに高いといわれる。NAFTAの成立でこうした格差はもっと縮小するはずであった。しかし、格差はほとんど縮まっていない。国境の南からの労働力供給がそれだけ潤沢なことを暗示している。 

  移民のあり方に地政学的条件がいかにかかわっているか。「国境」とは何なのだろうか。アメリカとメキシコの実態はさまざまなことを考えさせる材料に事欠かない。


Reference
*Shots across the border, The Economist January 14th 2005

本ブログ内関連記事

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20051223

**

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/c/79aebadb82fcec52279cb11733722d69

Note
2005年1月28日、メキシコ北部ティフアナからアメリカに向かって370メートルというトンネルが掘られていたことが発見された。本格的な掘削技術によるもので、組織的な麻薬密輸、密入国などに使われていたと考えられる。国境をめぐる実態が、きわめて複雑怪奇であることを示す例である。
「朝日新聞」2005年1月29日

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現代人の幸せと不安:イアン・マキューアン『土曜日』を読む

2006年01月24日 | 書棚の片隅から

  インターネット社会といわれ、情報は溢れるばかりに存在するが、信頼できる情報は必ずしも十分ではない。昨日のヒーローも今日は落ちた偶像、移ろいやすい世の中。物質的豊かさという意味では歴史上の最高水準に達したともいえるが、不安や危機感はかえって増幅している。現代社会に生きる人々の抱く不安や幸福感はどこから生まれるのだろうか。このブログでもとりあげているジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生きた16-17世紀の人々と比較して、どんな違いがあるのだろうか。こんなことをとりとめなく考えながら、小さな(しかしきわめて濃密な)本を読んだ。現代イギリス文壇の第一人者ともいわれるイアン・マキューアンの新著『土曜日』*である。

  主人公ヘンリー・ペロウニーは48歳、名手といわれる成功した脳神経外科医である。妻は新聞社の法務分野を担当する有能な弁護士、息子と娘二人の子供に恵まれ、物質的にはなんの不足もない豊かな生活を送っている。堅実に富を築いてきた結果を思わせるジョージアン風の家。

  2003年2月15日の土曜日夜半3時40分頃、ふと目覚めたヘンリーは、未だ夜の闇に包まれた町並みを寝室の窓から見るともなしに眺めていた。その日に起きたさまざまなことが頭を去来している。窓の外を夜勤帰りの看護婦らしい二人の女性が帰宅の道をいそいでいる。ヘンリーの勤務する病院からの帰途だろうか。交代明けにしては、時間が合わないと彼は思う。すると、まもなく機体から火を噴いているらしい航空機がヒースロー空港に向けて降下して行くのを目にする。最初は流星かと思った光だ。寝ている妻を起こして話そうと思うが、事故であればまもなく大騒ぎになるだろうと思いつつ、脳裏に去来するさまざまなことを考えている。

  小説の舞台は、2月15日土曜日という一日だけに設定されている。彼の心のどこかで不安を生んでいたのは世界の状況、とりわけイラクに対する差し迫った戦争であり、17ヶ月ほど前に起きたニューヨーク、ワシントンでの同時多発テロ以来のペシミズムの高まりであった。

  この日主人公は、ロンドンの街路を埋め尽くした反戦デモを避けようと同僚の麻酔医とスカッシュ(球技)をプレーするために球技場へ行く途中だった。小さな衝突事故で彼は一人の若者と対決することになる。彼の目からすると、どこか決定的におかしい、正気でない人間に映った。他方、若者はヘンリーが自分を仲間の面前で恥をかかせたと思った。その後、事態は思いもかけない方向へと展開していく・・・・・。

  小説の顛末を書くほどおろかなことはない。他方、マッキューアンのこの小説は主人公の外科用メスのように、正確に作家の目指す方向へとプロットを切り裂いて行く。人間のどこかにひそむ恐れ、不安、迷い、さまざまな精神神経症的症状、殺意・・・・・・。そして、人間の求める幸せとはなになのか。

  人間の幸せの本質は複雑でとらえがたく、もろく移ろいやすい。それはなまじの小説家が扱うよりも、練達した医師の方がはるかに適している。医師、とりわけ外科医は常に生と死の狭間にある対象を前にして、その行方を追っている。時には、壊れた部分を繕うこともする。幸せを取り戻す役割でもある。彼らにとって小説は不要な存在なのだ。マキューアンはまさに名手の技をもって、この役割を描いている。そこに描かれた現代人の幸せ、そしてあらゆる種類の不安、暴力、そして恐怖の
様相は絶妙である。おそらく、この小説家の達した極致的作品のひとつであろう。ブッカー賞(1998)受賞作の「アムステルダム」**よりも、一段と洗練された水準に達していると思われた。

* Ian McEwan. Saturday. London: Vintage, 2005.
本書の邦訳はまもなく新潮社から刊行されるとのこと。
**『アムステルダム』新潮社、1999年

Ian McEwan Homepage
http://www.ianmcewan.com/

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日本の未来に見えるもの

2006年01月23日 | 雑記帳の欄外

新年への期待と不安

  今年こそは回復の年と、大きな期待がかけられて船出した日本経済である。しかし、ライブドア社の事件などもあって、新年早々から波乱含みとなった。2006年はどんな年となるだろうか。そして、その先にはなにが見えてくるか。

  とりあえず、外国では始まったばかりの自国の1年をどう見ているのだろうか。自国経済についての楽観が悲観を上回る程度について、グラント・ソーントン Grant Thorntonという会計ファームが各国のビジネスマンを対象に調査をした結果が目についた*。

  それによると、新年について楽観の程度が高い国からみると、インド、アイルランド、南アフリカ、中国、フィリピン、メキシコ、オーストラリア、シンガポール、オランダ、香港、トルコ、カナダ、スエーデン、ドイツ、アメリカ、ポーランド、ロシア、スペイン、イギリス、フランス、(イタリア)、(日本)、(台湾)の順になっている。イタリア、日本、台湾は悲観が楽観を上回っている。 調査の事情によるのか、BRICsの一角であるブラジルが見あたらないが、ロシア、インド、中国はいずれも楽観的である。

  新年度の回復について楽観度が前年より大きく伸びている国の中にドイツが入っているのはEUの基軸国であるだけに、期待したい。逆にアメリカ、イギリス、カナダなどは悲観度が高まっている。

  日本はこの調査では、悲観が楽観を上回っていることになっているが、2004年よりはその程度が減少しているのは救いである。全体にやや明るさが見えてきたといえよう。しかし、その明るさを感じる度合いは、人によって大きく異なる。

  少子高齢化の影響が急速に浸透し、社会保障のあり方など自分たちの将来に不安を訴える人々が多い。とりわけ、若い世代が日本の行方にかつてのような確信を抱いていないことが気になる。これは、他の国々にはあまり見られない特徴である。外国から見ると、物質的には大変豊かに見える日本だが、いつの間にか大きな不安が日本人の心に忍びこみ住み着いてしまったようだ。「富」は「幸せ」にはつながらないらしい。
  
The Economist January 7th 2005

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追体験:『ヒトラー最後の12日間』

2006年01月21日 | 書棚の片隅から

  見るともなくつけたBSテレビで、あの「ヒトラー最後の12日間」を追体験してしまった。シュピーゲルテレビ(2005年)が制作した「地下壕での死」Death in the Bunkerの放映であった。映画とほぼ同じ光景が目前に展開した。主要な関係者の証言により最後の日々を再現する形になっていた。いつ撮影者の身に危険が及ぶかもしれないすさまじい戦闘の状況をよく撮影したと思う。

  映画の短縮版のような印象を受けるが、映画と異なって俳優ではなく実在した人物の映像が現れ、衝撃的である。映画で見たゲッペルスの家族の最後、とりわけ6人の子供に青酸カリのカプセルを与えるゲッペルス夫人がしばらく残像に残って困ったこともあり、演説するゲッペルスの実像が印象に残った。ヒトラーばかりでなく、周囲の指導者を含めて、「狂気の集団」だった。

  今回のテレビ版で新たに目にしたことは、4月30日ソビエト軍がヒトラーの地下壕から100メートルの距離へ迫った時にヒトラーと夫人となったエヴァ・ブラウンが自殺した後の状況が示されていたことである。伝えられるように「歴史に名が残る」と、最後の日に結婚したエヴァ・ブラウンの心境とは実際にはいかなるものだったのだろうか。

  ヒトラーとヒトラー夫人となったエヴァの遺骨はソビエト軍によって確保され、モスクワKGB公文書館で密かに保管されていた。ゲッペルス夫人の遺骨も含まれていた。60年近い年月を経て公開されたものであった。ベルリン陥落後も長らく謎に包まれていたにもかかわらず、映像で見るかぎり想像したほど厳重な保管状態でないようにも見えた。狂気の歴史の断片がそこにあった。

reference
「ヒトラーの最後:目撃者たちの証言」世界のドキュメンタリー・シリーズ、 2006年1月20日BSテレビ1

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20051125

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成長に対応しない「仕事の機会」創出

2006年01月20日 | グローバル化の断面

アジア諸国における経済成長と雇用の伸びの相対比(%)

成長すれども、仕事がない

   BRICs (Brazil, Russia, India and China)という新語の中に、インド、中国とが含まれているように、アジアの高成長は世界の注目の的である。しかし、成長がそれに見合った仕事の機会を生み出すかというと、どうもそうではないらしい。

  最近、経済誌 The Economist が短い記事だが、アジア諸国は今後も高い経済成長が見込まれるが、それに対応するほどの雇用機会は生まれないと述べている。アメリカ、ヨーロッパ、日本などの先進諸国では失業は重要な政策課題だが、アジアのその他の国では失業は通常、「問題」であるとは考えられていない。失業以上に「問題」なのは、貧困なのである。人々は生きるために、あるかぎりの仕事に就いている。 先進国では誰もやらない仕事も、貧困の前には皆が奪い合う仕事となる。

誰もが働く
  アジア諸国では、成人のほとんどと多数の子供までもが可能な限りさまざまな仕事に就いて働いている。その多くは農民として、そして近年では都市で働く一時的労働者でである。北京で働く建設労働者は、ほとんど北京市民ではないといわれ驚いたことがあった。  

  アジア諸国は一般に成長率が高いので、毎年多くの雇用機会を創り出してきた。しかし、多くのアジア諸国は、仕事の機会を創出する以上に仕事を求める人を生んでいることが分かってきた。1999年以降、多くの国でこうした状況が生まれている。その結果、ILOによるとアジア太平洋地域では約7400万人、労働力の4.4%近くが失業している。この数値には潜在的失業者は含まれていない。論拠となったアジア開銀の報告書では、パキスタンの5分の1、ネパールの4分の1、バングラデッシュの3分の一がそうした状態である。ヴェトナムでは農村部の56%近くが潜在失業者といわれている。  

大きな労働力の伸び
  アジアでは相対的に若い人口がまだ多く、労働力人口の伸びも大きい。アジア開銀によると、中国の労働力は2015年までに7%増える。インドネシアは14%、パキスタンは30%、アフガニスタンは43%である。女性の参入が増えると、さらに数は増える。 多くのアジア諸国では、15-24歳層は労働力の5分の1を構成する。しかし、彼らは失業者の半分を占める。たとえば、スリランカでは若い労働者の方が、年配者よりもはるかに失業率が高い。 こうした問題が生まれる背景にはなにがあるのだろうか。

アジア諸国に浸透する資本集約的産業
  アジアの成長は、それに見合った仕事の機会をつくり出していないとアジア開銀の報告書は指摘している。中国やインドなどを含むアジア諸国では、賃金コストが相対的に安いので、資本集約的仕事より労働集約的仕事が増えるはずではないかと思われるかもしれない。しかし、現代の、とりわけ輸出志向型の企業は、最新の技術を導入する傾向がある。 中国でも90年代以降、生産物単位当たりの労働投入量も低下している。最低限度の農業と都市の単純サービス労働だけが労働集約的である。

  アジアの成長を牽引している産業は、労働集約的ではなくなっている。成長は歓迎すべきだとしても、失業者の顕在化にアジア諸国は悩むことになる。
その結果は、海外出稼ぎ、移民労働のあり方にもかかわっている。アジアの労働供給圧力は当面弱まることはないだろう。

Reference
The Jobless boom, The economist, January 14th 2005

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中世装飾本特別展からの連想

2006年01月18日 | 書棚の片隅から

The Macclesfield Psalter の海外流出抑止を訴える募金ポスター


中世書籍の制作をめぐって


  作家の伊集院 静氏が1月13日付『日本経済新聞』の「読書をする人十選」)で、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品「聖母の教育」(「聖母の読書」)を取り上げ、その中に描かれている書籍がなにであるのか興味を持ったが、確認できなかったと記されている。
  
  実は、私もこの書籍はなにを書いたものであるのか関心を持ち、その部分を拡大してみたことがあった。しかし、なにか挿絵のようなものがあることは読み取れたが、書籍の内容についてまでは確認できなかった。このラ・トゥールの作品「聖母の教育」
については、真贋論争の渦中の一品でもあり、このブログではまだ取り上げていないが、いずれ話題としてみたい。

中世装飾本の世界
  実はラ・トゥールの作品に登場する書籍(いくつかある)は、キリストや使徒たちの時代を想定すれば、画家がイメージしたのは彩色本であったのかもしれない。この彩色本について、イギリス、ケンブリッジ大学のフィッツウイリアム美術館とケンブリッジ大学図書館の共催で、昨年末まで開催されていた『中世西欧における書籍制作の10世紀』と題する特別展**があった。

  この特別展は昨年7月から年末まで開催され、フィッツウイリアムズ博物館やケンブリッジ大学の学寮などが所蔵する、金、銀などで彩色した書籍(装飾本)を中心にヨーロッパから集められた展示物であった。 あのラ・トゥールの生涯の探索にも登場するメッスの文書なども含まれていた。現在はある意味で伝統的な印刷書籍の終焉の時を迎えつつあるのかも知れない。電子出版が着実に拡大しつつある。しかし、紙に印刷した書籍もそう簡単になくなって欲しくない。

  印刷術の発明者がグーテンベルグか否かは異論があるようだが、15世紀中頃までは、Book というとしばしば「聖書」のことを意味したといわれる。 こうしたことを考えていると、現在我々が日常手にしている印刷書籍に先行した彩色本制作について、新たな興味が湧いてきた。  

  4世紀にパピルスは現在の書籍の形態によって代替された。最初は羊皮紙だったが、その後紙が取って代わる。15世紀中頃までは羊皮紙に印刷されることもあったらしい。そして、初期ルネッサンス、ダンテ、ペトラルカ、チョーサーなどの作品を今日に伝えてきた。

   活版印刷物が出回る前に制作されていた書籍に金銀を含む顔料で彩色した作品が、今回の展示が焦点を当てたものであった。 これらの彩色本の制作は、みるからに複雑な過程を必要とするとともに制作費も高価であり、多大な時間を要したことが分かる。その背後に富裕なパトロンの富、地位、趣味などさまざまな条件が必要となる。

マクレスフィールド・サルター文書 
  この展示で最大の注目を集めたのは、The Macclesfield Psalterと呼ばれるイギリスの彩色原稿である。宗教戦争、社会的不安、放置などのために多くのフレスコ画やパネルが逸失してしまっている今日、この小さな書(170x108cm)はイギリスの中世絵画の精緻な成果を今日に伝えている。

  この書籍はイーストアングリアのシルバーン城 Shirburn Castle のマクレスフィールド伯爵の図書室の棚に何世紀も文字通りたなざらしになっていた。そして、2004年6月22日サザビーのオークションにかけられ、アメリカのポール・ゲッティ美術館が購入した。

  しかし、その後、美術品の輸出に関わる委員会などの目にとまり、フィッツウイリアム博物館などが中心になって、イギリスの国家的面子にかけて大規模なキャンペーンを展開し買い戻したものである。14世紀(1330年代)イーストアングリアにおける最も注目すべき装飾本のひとつといわれている。

興味をそそる内容
  この一部分だけを印刷したものに以前出会ったことがあり、今回の特別展を契機に新たな興味がわいてきた。以前から特に記憶に残っていたのは、兎が馬に乗っている場面とか、猿が壺に入れた飲み物を病人らしき人に運んでいる場面とか、深海の「えい」のような魚が描かれていたりして、『鳥獣人物戯画巻』の情景を思わせる部分があったからである。

  今回の特別展に展示された文書の挿絵や解説の一部を読んでいると、中世人の不思議な世界の一端が浮かび上がってきて思わず引き込まれて行く。 このマクレスター・サルター文書を展示した特別展には、彩色文書を作成した顔料、絵筆、補修材なども展示され、大変興味深いものであった。「聖母の教育」につながる「書籍」の歴史も追いかけてみたいテーマではある。


Reference

The Macclesfield Psalter. Cambridge: The Fitzwilliam Museum, 2005
**
The Cambridge Illuminations: 26 July-11 December 2005
http://www.cambridgeilluminations.org/

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フィリピンは看護師が余っているのだろうか

2006年01月17日 | 移民政策を追って
    
  「頭脳流出」「頭脳浪費」(brain drain, brain waste) と呼ばれるテーマについて、小さなプロジェクトにかかわっている。「頭脳流出・浪費」とは恐ろしげな表現だが、内容は高度な熟練や専門性を持つ人材が母国を離れて外国へ流出してしまい、戻ってこない。そして優秀な頭脳が本来あるべき望ましい形で活用されずに無駄に使われているという問題である。      

  優れた人材が母国を見捨てて流出する原因はさまざまだが、海外の報酬水準などの労働条件、研究環境が母国より優れていて、それらに誘われて海外へ出てしまうことが多い。自国よりも経済水準の高い国への移動がほとんどである。最初は2-3年働いたら帰国しようと思っていたが、気づいてみたら生活の本拠も出稼ぎ先に移っていたという実態がある。戦後の日本でも優秀な人材がアメリカに流出してしまうということが懸念された時期があった。しかし、その後の日本経済の発展でこうした人たちの多くが帰国してきた。台灣、韓国などでも同様な循環がみられた。  

  しかし、母国がそうした期待に応えられないと流出した人材は戻ってこない。そして、外国の需要を満たすための単なる供給基地となってしまう。それもしばしば安価な労働力だけが強みとなりかねない。  

有利な先進諸国      
  先進諸国では高齢化やIT産業の発展などに伴い、こうした高度な人材への需要が高まっている。もし、外国から優れた人材を受け入れることができれば、教育・養成に必要とされる長い時間や投資を大きく節減できる。いわば、他の国が育ててくれた人材をコストをかけずに自国のために活用できる。これは大変なメリットである。      

  他方、開発途上国から見ると、せっかく多大なコストをかけて教育・養成した自国の発展に必要な貴重な人材が海外へ流出してしまうことになる。自国と先進国の間の報酬格差が数倍から数十倍ということになると、人材を引き留めることはきわめて難しい。優れた人材から先に流出してしまうので、貧しい国がますます貧しくなる。多大な損失である。

フィリピン看護師の状況     
  アジア諸国で起きているひとつの例を挙げてみよう。FTA交渉の結果として、日本も受け入れることになったフィリピン看護師の場合である。ある調査によると、フィリピンでは過去5年間に医師や看護師の海外流出で、およそ1,000の民間病院が閉鎖に追い込まれたという。政府側は看護師は人気で養成学校も多数できているから供給は十分というが、現実に起きていることは医療・介護内容のすさまじい劣化である。医師が看護師の資格をとって、アメリカに流出するという状況も展開している。     

  開発途上国政府の中には、高度な熟練を持つ人材が海外で稼いだ高い所得から本国送金をしてくれれば、安い賃金で働く多数の不熟練労働者が流出するよりは「効率的」だと苦し紛れな弁明をしているものもある。海外出稼ぎで経済を立て直し、発展軌道に乗せることはきわめて難しい。実態を見ていると市場原理に委ねておくだけでは、荒廃が進むだけという思いがする。 真の国際協力とはいかなることなのか、関係者が十分考える必要がある。   

  グローバル化の進展が急速なこともあって、それぞれの主体が全体像を念頭において行動したり、政策を立案することができていない。これはフィリピン看護師を受け入れる日本も例外ではない。省庁、職業団体など利害関係者の間で形だけ整えることに終始している。受け入れの必要性、影響、そして受け入れ方が両国にとっていかなる意味を持っているかについての全体的構想、そして検討が決定的に欠けている。

Reference
The Philippine Star、November 23, 2005
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真冬の夜の夢

2006年01月14日 | 会議の合間に
  2月号の『中央公論』が「大学の失墜」というテーマを巻頭に掲げている。日本の大学の権威が低迷し、多くの大学が就職予備校化しているという。このこと自体は、はるか以前から指摘されてきたことで、いまさらという感じがする。テーマ設定が、時代の進行からかなり遅れている。 

  多くの問題が指摘されてはいるが、現在の議論の延長線上に光は見えてこない。この小さな島国に1,000近い大学を設置してしまい、入学人口が減少する今後は市場の淘汰に任せるというのは、高等教育政策としてかなり無責任なあり方といわざるをえない。大学もゴルフ場も同じような次元に置かれている。「就職に強い」、「学生に来ていただく」大学作りなどのスローガンが、大学当事者によって臆面もなく掲げられている。壮大な建物が作られ、キャンパスがきれいになる裏側で、大学の知的空洞化・衰亡が急速に進んでいる。

  かなりの大学が「入りやすく、出やすい」、単なる人生の通過期間の場所になっている。優勝劣敗の風が吹く社会へ出るまでのしばしの「モラトリアム」と化している。それなら、どうして4年間も必要なのだろうとさえ考えてしまう。

形骸化する大学  
  あまり議論されていない問題だが、近年のインターネットの発達が大学に与える衝撃がある。少なくも文科系に限ってみると、世俗的な目的のために大卒の資格が必要ならば別として、真に学問に関心を抱き、知的対象を追求するのであれば、高い授業料を払ってまで大学キャンパスに来る必要も少なくなっている。   
 
  世界のどこに求める対象があり、どの図書館、研究機関が必要な文献や研究を行っているかということは、以前とは比較にならないほど容易に分かるようになった。内容は別として、少なくも最先端の情報がどこにあるかを発見することはそれほど難しくはない。あとは、その場所へのアクセスをどう確保するかということになる。   

  インターネットは知的関心の対象とそれを求める人々の関係にも革命的な変化をもたらした。これまでの大学と学生の間に存在した距離の束縛をかなり切り離した。社会が真に実力のある人材を認めようとするのならば、大学卒の資格すら必要ない。   

  外からの批判がない密室状態の教室で、知的好奇心を呼び起こされない授業を惰性で聞いているよりは、はるかに魅力的でチャレンジングな世界が広がっている。真の大学は一定の場所と空間を占める物理的な存在ではなく、われわれの心の中にあるといってもよい。  

広がった知的世界
  もちろん、大学が必要とされる部分も十分あることは百も承知の上のことだが、大学に過大な期待を寄せる必要もない。「大学」の外に真の大学があるのだと思いたい。そう考えると、名ばかりで内容のない大学が淘汰されることはむしろ望ましいことであり、無駄に資源を投入して生き残り策を講じる必要もない。  

  粗末な黒板だけの教室だが、生き生きとした目をした学生に溢れ、夜間節電のために消灯になった後、裸電球がともった電柱の下で本を読んでいる学生がいる、ある国の大学を経験してふと思った。「真冬の夜の夢」である。
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ラ・トゥールを追いかけて(55)

2006年01月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールの人気度   

  昨年の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」をひとつのきっかけに、これまで人生の途上に出会った作品や旅の思い出などをメモ代わりに書き記してきた。いざ、書き始めてみると次々と糸車を繰るように、脳の片隅に残っていた記憶も戻ってきた。実にさまざまな謎を秘めた希有な画家だと改めて思う。 
  
  西欧美術界では押しも押されぬ大家となったラ・トゥールだが、日本での知名度はいまひとつであった。しかし、東京での特別展が大きな契機となって、この画家や作品に関心を寄せる人々が増えてきたことは、「ラ・トゥール」サポーター?の一人として大変喜ばしい。 

地味だが忘れがたい作品
  この画家は日本にかぎらず、西欧でもやや地味な存在であり、時々思いがけないことで美術評論家などを驚かすこともあるようだ。一度見たら忘れられない作品も多く、人々の心の底にいつか見た作品の残像などが残っていて、特別展などが盛り上がるのかもしれない。それに加えて、この画家が残した作品がほぼ40点余りと数が少ない上に、世界中に分散していることも、隠れた人気の背景にあると思われる。なかなかすべての作品を見ることが難しいのだ。 

  この点に関連して面白いことは、フランスの美術史家などでも、アメリカに流出した作品については、国宝を外国に買われてしまったような悔しさがあるのか、かなり距離を置いていることである。これまで開催された特別展のカタログなどにも、そうした感情めいたものが時々うかがわれて興味深い。 

観客動員抜群の画家
  さて、今回は中休みの意味も兼ねて、ラ・トゥールの人気度を示すデータをご紹介しよう。少し古いデータだが、1997年にヨーロッパとアメリカで開催された特別展で、観客数が多かった展示(crowd-drawaing art shows)の順位である。 順位で上位7位までの6つが19世紀後半以降の画家やその作品展であることに注目したい。ここで興味あるのは、ルノワール、ピカソ(2,3位)に次いで、第4位に17世紀異色の画家ラ・トゥールが入っている。まさに「思わぬ人が入っていた」odd man in という批評家の感想である。そして、わざわざラ・トゥールの作品は長らく忘れられており、その光と陰についての絶妙な扱いが、現代人にアッピールするのだろうと付け加えている。  

  このパリのグラン・パレで開催されたラ・トゥール展については、ランキングを紹介した記事も「輝けるジョルジュ」Glorious Georges と最大級の見出しをつけている。 

  なお、このグラン・パレの回顧展の入場者は合計で53万4613人にのぼり、パリで行われた単独の過去の巨匠を対象とした展覧会としては、もっとも多い入場者を集めた(ドイツのカッセルで行われた国際的現代美術展「ドクメンタ」と並んで、1997年にもっとも多くの入場者を集めた)との別の統計もある。**    

  ご参考までにランキング表 What they like を掲載しておこう。


順位 1日あたり観客数 合計観客数(千人)  展覧会タイトル   開催場所         
1) 6,042  489  Renoir's Portraits  Art Institute, Chicago

2) 4,500  434  Picasso and the Portrait  Grand Palais, Paris

3) 4,424  531  Picasso: Early Years National Gallery of Art,Washington, DC

4) 4,420  372  Georges de La Tour  Grand Palais, Paris

5) 4,318  220  Art in the 20th Century  Martin-Gropius-Bau, Berlin

6) 4,027  338  Monet and the Mediterranean  Kimbell Art Museum, Fort Worth

7) 3,500  255  Monet and the Mediterranean  Brooklyn Museum of Art, New York

8) 3,240  165  Art and Anatomy  Museum of Art, Philadelphia

9 ) 3,227  29  Maharaja  Castello di Pralormo, Turin

10) 3,217  270  Art in Vienna  Van Gogh Museum, Amsterdam

Original Source: Art Newspaper

*なお、この統計について、トリノのマハラジャ展はミスリーディング。ランクは観客数で、会期は9日のみとの記述あり。
**ジャン=ピエール・キュザン&ディミトリ・サルモン編、高橋明也監修『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』創元社、2005年 p.134

Reference "Gloriouos Georges" The Economist February 5th 1998

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富と幸せの間(2)

2006年01月09日 | グローバル化の断面

「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう・・・・・」

  たまたま見たBS1テレビで、「もうひとつのファイナル」The Other Final という感動的な映画に出会った。2002年6月30日、あのFIFAワールドカップの決勝戦が横浜で行われた当日、アジアのブータンで世界の最下位を決める試合が行われた。アジアの小国ブータンとカリブ海の火山島であるモントセラトの対戦であった。FIFAランキングではブータンは202位、モントセラトは203位にランクされていた。寡聞にして、こうした試合が行われたことも、その記録がこれほどすばらしい形で残されたことも知らなかった。 

  日本で行われた決勝戦は、見応えのあるものであったが、見ようによってはスポーツのグローバリゼーションの一大商業的ページェントといってもよいものであった。他方、「もうひとつのファイナル」はスポーツの純粋さ、あるべき姿という点では、はるかに感動的なものであった。試合に投入された金額でも、精神的純粋さ・感動度という点でも、両極に対していたかもしれないと思われるほど異なっていた。この番組を見ながら、現代社会における「富」と「幸せ」の問題を再度考えてしまった。
 
総国民幸福度GNH
  「もうひとつのファイナル」の舞台となったブータンは、この難問を提示した国であった。ブータンの現在の王であるワンチュク Jigme Singye Wangchuk は、国民の幸福度を測る尺度として、GNP(Gross National Products: 総国民生産物)とは異なるGNH(Gross National Happiness、総国民幸福度)を提示した人物であった。 

  時に、あの文明から遠く離れ、秘境ともいわれた「シャングリラ」にもたとえられるこの国は、人口が推定90万人くらいの小国である。中国とインドという大国の間に押しつぶされるように存在し、1949年以来、インド寄りの政策方向をとっている。1999年まではテレビもなく、人々は伝統衣装をまとっている。 現在の王は1972年に王位を継承し、今日にいたっている。即位の時にも GNHを重視する方向で進むことを明らかにしている。

科学では測れないGNH
  ブータンの指導者たちはこの尺度が「科学化」されて具体的数値として測定されるという方向には懐疑的であった。しかし、こうした思いとは異なり、国連開発プログラムの人的開発指数 human development index などの形で「幸福度」を測ろうという試みがすでに具体化し、進行してきた。ちなみにこの指数では、ブータンは177カ国中で134位である。 

  しかし、グローバル化の波はこの秘境にも例外なく押し寄せている。2003年にはケータイも入ってきた。交通信号が設置されるのも時間の問題となった。まだ、ハイウエイは文字通り1車線である。しかし、インターネットはこの国も例外にはさせていない。人々は日々せわしなくなり、物財を追い求めるようになっている。 

ノスタルジャの尺度か
  Gross National Happinessは、所詮ノスタルジャの表現にすぎないのだろうか。近代化によって失われるかもしれないことについての警告信号なのだろうか。 ブータンに住む人はいう。「10年前に設置された電灯は煙ったいケロシンランプよりずっといい。泥道の山を歩くよりバスはずっといい・・・・・・」*

 
Reference
The Other Final: Bhutan v. Montserrat
映画 オフィシャル・サイト HP

http://www.theotherfinal.jp/

*
'The pursuit of happiness', The Economist December 18th 2004

本ブログの中の関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/d/20051226

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ラ・トゥールを追いかけて(54)

2006年01月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

「聖ピリポ」(「アルビの使徒シリーズ」の一枚)Chrysler Museum of Art, Norfolk, Va.所蔵*
Credit
http://www.abcgallery.com/L/latour/latour4.html

「アルビの使徒シリーズ」をめぐって(3)

  ラ・トゥールは、自ら描いた新たな聖人のイメージが時代にいかに受け取られるか、画家として大きな試練の場に立っていた。使徒を普通の人に近づけるといっても、ただの世俗の人でもなく、従来のように神格化された聖人でもないというきわめて困難な課題に立ち向かっていた。ロレーヌではすでに知られた画家となってはいたが、このシリーズに取り組んだ頃は、画家としては若い時期であったとみられる。画家は、全体の構想、そして構図や技法にもさまざまな工夫をこらしている。  

画家の構想したもの
  今日判明しているかぎりでは、まず、最初に作品の体系が統一されてイメージされたと思われる。後年継ぎ足しなどの加工が施された作品もあるが、ほぼ67x53cm程度の大きさである。構図の上では、使徒は前向きか斜め横向きかの違いはあってもすべて上半身像として描かれている。さらに、描かれた人物と作品を見る人とが直視の関係にならないよう、目を伏せるなどの配慮が加えられている。使徒はそれぞれが自らの世界に沈潜しているように描かれている。

  これらのラ・トゥールの初期の作品は、使徒も一人ずつ描かれている。そして、いずれの作品にも具象的な背景はなにもない。写実的であるかにみえて、実はそうではない。画家が目指したのは、聖俗相半ばする次元である。画面の半分には光が、半分は陰影の中に描かれている。すべて昼の次元ではあるが、光源は画面の中にはない。昼の光の中に描かれた使徒や聖人の画像は、ラ・トゥールの他の作品にはない。この使徒シリーズに限られている。

世俗の姿をした使徒たち
  ラ・トゥールの使徒たちは、すべてふつうの人々の装いで描かれている。福音書が示し、トリエント会議が設定した方向である。当時の人々は皆、こうした服装をしていたのだろう。わずかに俗界の人々とを隔てるようにさりげなく取り込まれているのは、使徒であることを気づかせるアトリビュートにすぎない。使徒の出自など背景について知らない人が見れば、だれもこれが使徒の姿とは気づかない。しかし、世俗の人にはない不思議な力が感じられるのではないか。

  ラ・トゥールの目指した写実とは、ルネッサンスのそれと大きく異なっている。ルネッサンスのスタイルは、作品を見る人が宗教画とはこういうものだという期待の路線の上に描かれている。言い換えると、作品を見る人が考える理想をさらに追求したものといえる。他方、ラ・トゥールはこうした理想化したイメージを追っていない。 この画家は世俗の世界に生きる普通の人々にモデルを見いだし、使徒が貧しい出自であることを示唆している。

  同時代のカラバッジョは既成の観念を破壊したが、ラ・トゥールも彼なりの発想で新たな次元を切り開いている。あたかも同時代のシェクスピアやセルヴァンテスが文学を変えたように、絵画の世界で行われた革新であった。 カラバッジョが反宗教改革にもたらしたものは、日常の状況を高貴な形で表すことであった。しかし、教会は彼の時代においてはこうした考えに基づく絵画化は拒否した。たとえば、カラバッジョの聖人の描き方は衝撃的であったから、バロックの大家は、ローマのSan Luigi dei Francesi のThe calling of saint Matthew (「聖マタイの招命」)を書き直さねばならなかった。

  ラ・トゥールの作品は時代に反逆的ではない。それにもかかわらず、それまでの使徒像とは大きく異なる。たとえば、ある使徒は農夫のように描かれている。顔は日焼けし、長年の労苦がもたらしたしわが目立つ。髪も長らく働き続けていることを示している。見る人はそこに親しみを感じよう。

うつむいた聖ピリポ
  たとえば、ここに紹介する聖ピリポ Saint Philippe は、紫緑の外衣の下に、この画家がお得意の微妙な赤い色のシャツを着て、立派なひげをたくわえ、うつむいた姿で描かれている。キリストから信頼されてはいたが、きわめて内向的でシャイな性格であったという言い伝えを反映するかのごとくである。シャツのボタンの色合いなどを見れば明らかだが、非常に細部まで丁寧に描かれている。画家がこのシリーズに注いだ努力のほどがしのばれる。

  見る者からは距離を置き、なにかに沈潜している使徒のイメージである。何か分からないが、内なる力を感じさせる威厳と内省の面持ちが伝わってくる。人物は自らの情緒をコントロールしている。具体物がなにもない、空虚な背景は見る人の視線を集中させ、情景にひきしまった感じを与える。題材は日常どこにでもいそうな人物を描きながらも、なにか異なった不思議なものを伝達している。

  ラ・トゥールは、日常の光景と宗教的光景を巧みに融合しているといえようか。昼の光の下では聖人のアトリビュートが明瞭に判別できる。しかし、これがなければ、当時のロレーヌなどでよく見かけたかもしれない普通の人の絵にすぎない。 この天才画家がことさら、あいまいとさせたものは、反宗教改革の要請に応えたものでもあった。身近にいる人だから、救いを求めやすいのだという思いがこもっている。ここにも、画家の深い思索の一端がうかがえる。



*この作品は1941年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作と判定された。現在はアメリカ、ヴァージニア州ノフォークのクライスラー美術館に所蔵されている。ノフォークはかつて90年代に旅の途中で訪れたことがあったが、この美術館が所蔵しているとの情報を知らず、残念にも見落としてしまった。


Reference
C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I. (日本語版 神戸、クインランド、2005).

国立西洋美術館『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』読売新聞社、2005年

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