時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

時空をさまよって20年

2024年07月16日 | 仕事の情景






この行方定まらないブログなるものに手をつけてから20年余り、これまで取り上げた記事は、自分でも即座には分からないほどの数になっている。当初は共に言葉を交わした若い学生諸君との話題にと身近な材料を取り上げていたが、ブログ筆者の関心の在りかもあって、今では内容は大きく変わった。

変化した内容
ブログなるものに慣れなかったこともあって、最初の数年は短い記事が多かったが、その後筆者の物忘れ対策の備忘録(メモ)的になり、ひとつの記事が長くなった。読んでくださる方にとって長すぎることには気づいてはいる。

アクセスしてくださる方々も大きく変わった、開設当初から読んでくださっている国内外の読者も数多くおられることは有り難く、感謝の言葉もない。筆者はそれぞれの記事の読者評価には関心がないので、ブログの表のコメント欄は形骸化しているが、ブログの背後の交信数はかなりの数に上っていて、時には対応に手間取り忙しい。

開設以来、20年余り、短いようで長い年月の間に、時代は大きく移り変わり、取り上げたトピックスも多様なものとなった。しばしばその時々の関心事と重なることもあり、ニュース・メディアの話題となったこともあった。筆者の頭の中では、時間の経過と共に座標軸のようなものが形成されている。しかし、筆者の頭をよぎる事柄が必ずしも収斂していないので、慣れない読者の方々には筆者の意図が伝わらず、申し訳ない思いもある。

『山の郵便配達』の20年後
偶々、2024年7月16日付けのTV(NHK BS1)で、2005年2月2日にブログ記事として取り上げた中国映画『山の郵便配達』が再放映されることになった。筆者がこれまでの人生でほぼ一貫して考えてきた「働くことの意味」を探索する過程で素材としてきたものの一部である。

今ではIT、自動車産業を始めとして、世界の最先端を目指す中国だが、筆者が最初に訪れた当時の中国には、この映画に映し出されるような世界が至る所にあった。農村では、農業機械などはほとんど目にすることなく、素朴な鋤や鍬で荒地を耕す農民の姿が各地で見られた。天安門広場では、国民服姿の人々の自転車の大群が視界を席巻していた。自動車が縦横に走り、スマホ片手の老若男女で街路が溢れている今日では、およそ想像し難い変容ぶりだ。

当時はインターネットの普及以前であり、電話は地域の「単位」と称する数十軒の地域に一本程度しか配置されていないことが普通であった。地域の情報・言論の管理には格好であったかもしれない。そうした社会で、郵便配達は単なる郵便物の各家庭への配達にとどまらなかった。映画に出てくるように視力の不自由な老女に都市へ出た息子からの手紙を読んでやり、代筆まで請け負うのが配達人の仕事だった。

『山の郵便配達』は、険しい山の奥深く住む貧しい人々に郵便を届ける父と息子、そして「次男坊」の愛称で呼ばれる忠実な犬が主人公だ。そこには急峻な山道、流れの早い川、見渡す限りの荒地を苦労して、郵便その他を配達する二人と1匹への深い愛情と感謝が溢れている。ストーリーは、年老いた、と言っても41歳の配達人の父親が足の怪我を機に、24歳の息子に仕事を譲る2泊3日の旅の光景に、彼らの人生の凝縮した次元を巧みに織り込んでいる。配達の経路に当たる村落の人々の父親の労苦に対する深い感謝と寂寞の感情が溢れる光景が感動的だ。

「働くことの重み」を求める旅
そして、長年の労働に心身共に全てを注ぎ込んだ父親が、その仕事を息子に譲る時、当初息子は父親が果たしてきた昔年の仕事への深い思いを理解していないかに見える。しかし、配達の経路を同行するにつれて、父親が自らの仕事へ込めた深い思いに次第に気づくことになる。父親を背負って川を渡る息子は、父の体重が郵便袋よりも軽いことに愕然とする。まさに「働くことの重み」を気付かされる瞬間でもある。

中国を含めて、世界がこの20年くらいの間に得たものは、計り知れないほど大きい。しかし、同時に失ったものの重みもそれに劣らないことを気付かされる。現代における「働くこと」の意味、人間の進歩とはいかなることかを、改めて深く考えさせる。映画と共に年とったブログ筆者の数少ない推薦作の一本だ。


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