時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

オスロの鎮魂を祈りながら

2011年07月25日 | 移民政策を追って

 今年2011年は後世の歴史家にとって、いかなる年として記憶されるだろうか。これまで世界に起きた出来事をみるかぎり、「大きな災厄と政治変動の年」になりかねない。考えられないような出来事が次々と起きている。

 中国の列車脱線・衝突事件と並んで発生した、ノルウエー、オスロの爆弾テロ・銃乱射事件のニュースを見ていて、ある記憶が戻ってきた。1994年のことである。フィンランドのヘルシンキでヨーロッパの学会があった。イギリスに在外研究で滞在していたので、ロンドン北部のスタンステッド空港から出かけてみた。その途上、友人の誘いでオスロに立ち寄り、ベルゲンなどへ足を運んだ。爽秋というには、かなり冷気を感じるような天候で、頭上は厚く灰色の雲で覆われていた。オスロもベルゲンも市内は人影少なく、旅の寂寞感が深まる北の町という印象だった。北欧はそれまでにも何度か訪れていたが、この時はかなり陰鬱な思いがした。続いて起きた出来事の予感だったのか。

港で見た船
 
ヘルシンキでの学会は無事に終わり、ロンドンへ
戻る日が迫っていた。ホテルは港に近く、この時、停泊していた大きなフェリーボートが印象に残っていた。数階建てのビルのような巨大なクルーズ・フェリーだっだ。船名は、MS Estonia (エストニア号)。間もなく詳細を知ることになるのだが、1980年にノルウエーの船主がドイツの造船所へ発注し、建造された船舶だった。第一印象は、巨大で見上げると威圧感はあるが、なんとなく不安定な感じを受けた。

  友人がこの船に自分の車を乗せるから、一緒にバルト3国の旅をしないかと誘ってくれた。スエーデン人で、この数年前にシドニーの友人LRの家で会い、シドニー近辺の小旅行をしたことがあった。その後、ある出版物の共著者ともなって、親交を深めていた。

不幸な出来事
 バルト三国は当時はなかなか行く機会がなかったので参加したかったが、すでにロンドンでの予定が入っており、残念な思いでお断りした。イギリスへ戻って数日が経過したころ、TVのニュースを見て仰天した。バルト海上、エストニアのタリンからストックホルムへ向かう海洋上で、深夜、巨大フェリーが転覆、沈没し、多数の死傷者が出たことを報じていた。遭難した人のリストに、友人O・ハマシュトロームの名もあった。平和時の海難事件としては、1912年のタイタニック号遭難に比較される、20世紀最大規模の大惨事(日本語による別の解説)となった。こうした事情でたまたま日本にいなかったので、日本でどの程度報道されたのかよく分からない。後に聞いたかぎりでは、日本ではあまり詳細が知られていないようだが、1994年9月28日の出来事である。852人の尊い人命がバルト海の暗い海で失われた。当日は天候は荒れ模様ではあったが、航海上、支障が生まれるほどの状況ではなかったと伝えられた。そのため、後にはテロリストや国際的な陰謀が介在したのではないかとの推測も生まれた。事故調査委員会の報告書は公表されたが、真相は必ずしも明らかではない。

深い人種的偏見 
 
このたびのオスロでの悲惨な出来事については、すでにさまざまなことが報じられている。それによると、この惨劇を起こした容疑者は、増加しつつある移民、とりわけイスラム系移民への強い嫌悪を抱いていて、それが動機になっているらしい。近年、EUの基軸国で増えつつある極右思想の持ち主と伝えられている。ノルウエー政府の移民への寛容的政策に反発し、この残虐な犯行に及んだという。いずれ、捜査が進むにつれて、真相が浮かび上がってくるだろう。

 確かにノルウエーでは移民労働者は、このところ顕著な増加をみせていた。2008年には66,900人の入国が記録されていた。(出入りがあるので、純増分は43,600 人)。しかし、ノルウエーはこれまで移民受け入れで、さほど大きな話題となった国ではなかった。人口に占める外国生まれの比率は、2008年でおよそ11%で、EU諸国の間では、それほど高いとはいえない。

 「ヨーロッパ社会調査」European Social Survey によると、2008年時点でノルウエーは調査対象17カ国の中で、スイスに次いで、国民が移民(労働者)の経済の影響を「積極的」positive にとらえる比率が高い国である。また、国の文化生活 cultural life への影響については、デンマーク、ポルトガル、スペインなどに並び、ほぼ中位に位置している。フィンランド、スエーデンのように、北欧諸国は総じて移民の影響をプラスに受け入れており、寛容な政策をとってきた。

遠い「ヨーロッパ市民」への道
 ノルウエーへの移民労働者の3分の2は、EU諸国からの流入だ。ポーランド、ドイツ、リトアニア、スエーデンなどからの入国者が多い。その多くは、雇用を求めての労働移動である。ノルウエー企業が欲しがる高い熟練を体得している労働者は、インド、ロシア、中国、アメリカ、フィリピンから出稼ぎに来ている。

 フランス、ドイツ、イギリスなどの事情と比較すれば、ノルウエーでは、イスラームの影響が伝えられるほど大きいとは感じられない。事件の容疑者は、EUの近年の変化により強く影響を受けているのかもしれない。世界は明らかに激動の時を迎えているが、真相の分からないことも数多い。十分な調査と的確な政策の提示を期待したい。

 

Source:
OECD. International Migration Outlook: SOPEMI 2010, Paris, OECD, 2010.

 

 

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フェルメールの帽子(6);シャンプランの夢

2011年07月19日 | フェルメールの本棚

David Hackett Fischer. Champlain's Dream. New York; Simon &  Schuster, 2008, 834pp.

 シャンプランの北米探検行に関する最新かつ詳細な研究書。

 

 

 フェルメールの作品のほとんどは、ジャンルとしてみれば当時の風俗画であり、同時代のレンブラントやラ・トゥール、プッサンなと比較して、画家の精神性や思想という点では深みに欠ける。しかし、風俗画であるだけに、そこに描き込まれたものから、別の次元への興味をかき立てるものがある。だが、その面白さは、狭い美術史的次元の枠を飛び出さないと見えてこない。この記事で取り上げてきたBrooksの著書は、まさにそこからスタートしている。ブルックスが述べているように、その新しい世界の入り口に入るための鍵は、フェルメールである必要はまったくなく、別のオランダ画家であってもいっこうにさしつかえないのだ。ましてやビーヴァーの毛皮帽子でなくともよかったのだ。本書をフェルメールについての美術書と思って購入されないよう、老婆心?ながら記しておこう。

 

閑話休題

 

グローバリゼーションの曙

 

探検家シャンプランが北米大陸で目指したのは、当時のヨーロッパでもてはやされていた帽子の材料となるビーヴァーやラッコの毛皮ではなかった。彼の生涯の夢は、あくまでヨーロッパから北米大陸を経由して中国への道、海路を見出すことだった。彼は探検家であったが、元来地図の製図家だった。その技能を生かして、シャンプランは最初の探検航海から、生涯を通して、セントローレンス川、5大湖地帯、そして「ニューフランス」について多くの地図を残した。彼の探検成果は、ルイ13世の統治下、とりわけ宰相リシュリューの植民構想と重なり、それを支える大きな情報基盤となっていた。

 

前回に記したような先住民族との関わり合いや「ニューフランス」の構築は、あくまでその過程でのステップだった。しかし、シャンプランのセントローレンス川探検が企図されたはるか以前から、セントローレンス川を挟んで、先住民の部族間戦争が激化していた。火縄銃という先住民族が見たこともなかった強力な武器を携行していたシャンプランの探検隊は、その闘争に組み込まれて行った。

 

1616年にシャンプランが描いた地図には、初めてヒューロン湖が記されている。彼はこの湖を「甘い水の海」Mer Douce と名付けている。淡水ではなく、どこかで海に続いていると想像したのだろう。実際にはヒューロン湖は現在も淡水湖である。太平洋への強い思いが、こうした命名をさせたのだろう。歴史的に興味深いことは、シャンプランがこの「甘い水の海」の出入り口について、詳細を記していないことだ。もしかすると、フランス王室あるいはシャンプランが、ここが中国へつながる海路へ導くかもしれない可能性を秘めていると思い、秘匿したとも想像される。後代になると判明するように、ハドソン湾からベーリング海峡を通過すれば、太平洋、そして夢に描いた中国への道もないわけではなかった。

 

現在のセントローレンス川、5大湖地帯

 

 

 

 

「海」の存在を知っていた人たち

シャンプラン自身は、5大湖のひとつヒューロン湖へ達することはなかったとみられるが、彼が大きな情報源としていた人物がいる。この地域の交易のエイジェントとして活動していたジャン・ニコレという人物であり、彼はどうやら海域、恐らくハドソン湾の存在を知っていたようだ。ニコレは「森林のクーリエ」と呼ばれており、「ニューフランス」をベースに、セントローレンス川流域の交易について広い情報のネットワークを持っていた。アルゴンキン、ヒューロン族などの社会に深く入り込んだニコレは、シャンプランと先住民族の仲介役として、絶大な働きをしたようだ。先住民族が支配する広大な森林と湖水の地域の中には、ニコルなどの先住民族との交易に携わる毛皮商人、宣教師などだけが知るいくつかの道が通じていた。

 

ニコレはそれまでヨーロッパ人が会ったことのない先住民族で、俗にPuants (Stinkers) 「臭い人」と呼ばれた種族に遭遇している。1633年にシャンプランが地図を公刊した1-2年前に、ニコレはPuants に出会ったようだ。シャンプランは、彼の描いた最後の地図に、Nations of Puants (「Puants の国」)として記している。そして、この種族は「甘い水の海」へ海水が流れ込む地に住んでいるとしている。

 

しかし、この「臭い」Stinkyという翻訳は、アルゴンキン語族が意味していた塩辛い味のする、黒っぽい水の不正確な訳だったようだ。当のStinkersたちは、自分たちのことをOuinipigousと名付けていたらしい。今日ではWinnebagoes 「ウィネバゴ」(正確な発音不明)とまったく違って綴られている。この地に住んでいたこうした先住民族は、恐らく塩辛い水のある地域、海域の存在を知っていたのだろう。このあたりの事情を詮索すると、さらに深入りしたい多くの興味深い問題があるのだが、ここではこれ以上立ち入らない。(関心のある読者は、Champlain自身の航海記、Briggs, Fischer などをひもどかれることをお勧めする。この記事もこうした著作に基づく筆者の覚え書きである)。

 

中国風の衣装

 ここでひとつ興味深いことがある。ニコレはウイネバゴの酋長に招待され、盛大な歓迎を受けたことが分かっている。ニコレを賓客として歓待するために遠く離れた土地からも集まった数千人といわれる部族の人々が集まる宴席がいかに重要な重みを持つことを、ニコレは熟知していた。

 

 彼は、持参している衣装の中で最も立派な衣装を着用して出かけた。それは、中国の花と鳥が美しく刺繍されたローブ(礼服)であった。ヨーロッパの人たちにとっては、まったく未知の原始に近い森林の中を走り回っていたニコレが、こうした豪華な中国産の衣装を持っていたとは思われない。これは、恐らくシャンプランの衣装箱に入っていたものを借用したのだろう。シャンプランは彼の探検行で目的の地、中国に到達することができたならば、中国人(多分役人や宮廷人)に接見できる際に、このローブを着用しようと準備していたのだと思われる。あくまで中国を目指したシャンプランの強い願望に支えられた周到さをうかがうことができる。

 ここで、フェルメールの『地理学者』、『天文学者』のモデルが、いずれも同じ東洋風の衣服をまとっていることを思い出したい。このローブ風のなんとも不思議な衣装は当時のオランダで大変人気のあったもので、かなり高価でもあったようだ。しかし、フェルメールの地理学者、天文学者が着ているローブには、中国風の刺繍などは描かれていないようだ。当時中国から輸入されてきた本物を模してネーデルラントなどで作られたものかもしれない。ガウンともローブともつかない、奇妙な衣装だ。

 

 シャンプランが探検の旅支度の中にわざわざ加え、ニコレが着用したと思われる華麗な刺繍の施された中国服は残念ながら現存していない。しかし、17世紀初期、こうした衣装を入手できた場所は、パリなどきわめて限られた場所だった。ジェスイットの宣教師たちなどが持ち帰り、由来を伝承したのだろう。人々はその美しさに目を見張り、当然とてつもなく高価なものであったと思われる。それを入手し、わざわざ探検行に携えていったシャンプランの心意気が伝わってくる。

 

ローブにこめられた思い 

 フェルメールはともかく、シャンプランにとっては、ビーバーの毛で作った帽子よりも、中国から輸入された、恐らくきわめて高価であったと思われるローブの方が、はるかに貴重で意味があるものだったに違いない。東洋に憧れを抱いた当時の探検家の熱い、そして時代の先を読んだ心の内が伝わってくる思いがする。他方、フランス王室、そして冒険家たちの夢の裏側では、先住民族そして入植したフランス人の間に、取り返しのつかない多くの犠牲が生まれた。潰えた夢の裏側についても、いずれ記す必要があると思っている。現代に続くグローバル化の黎明期に当たる時代の輪郭を知りたい(続く)

 

 

 

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3.11を後世に恥じないために

2011年07月12日 | 特別記事

 


時代の風は変わった
 今年2011年が世界の歴史において、後世、いかなる評価をされることになるか。ふと頭をかすめて、以前に半ばタイトルに惹かれて購入したが、十分読み込んでいなかった、
Hywel Williams. Days that Changed the Worl: The 50 Defining Events of World History, 2007 (『世界を変えた日:世界史における50の決定的出来事』)なる一冊を手に取る。文字通り、書棚の片隅に押し込まれていた。ここで、この作品の書評をするつもりはない。ただ、今回の大震災、原発事故の意味を考える上で、50の出来事が選ばれた相対的位置・重みに関心を持った。

 選ばれた50の出来事は、歴史の時代区分からみると、BC480928日の「サラミスの戦い」(ペルシア戦争中、ギリシア軍がこの付近の海戦でペルシア軍を破った) から始まり、2001911日の「同時多発テロ」で終わっている。刊行年(2007)の関係で、その後の出来事は含まれていない。

 
選ばれている50の出来事については、人によって当然異論が出てこよう。ただ、注目したことは、この中に日本が直接、最大の当事者として登場する2つの出来事がある。50件のうち、2件というのは日本の国力や役割から見て、多いのか少ないのか、これも議論はあるだろう。しかし、その内容は、いずれも人類の運命、文明のあり方に大きく関わる。ひとつは1941127日(現地時間)の真珠湾攻撃、もう一つは1945年8月6日の広島への原爆投下(長崎への投下はここに含まれる)である。人類史に深く刻み込まれた、これらの事実が消えることはない。  

 
この歴史的時間のスコープを今年2011年まで延長するならば、3月11日の東日本大震災そして福島第一原発事故が含まれることはもはや疑いもない。とりわけ、後者の事故で、日本は被爆国として甚大な被害(広島・長崎)を受けた国でありながら、今度は放射能の放出者として加害者(国)の立場にもなってしまったことだ。痛恨きわまりない出来事だ。


人類に対する加害者にならないために
 
福島第一原発をめぐる日本での議論を見ていて、最も違和感があるのは、天災・人災が重なり合った歴史に例を見ないこの大事故について、国内の被災者に十分な対応ができていないこともあってか、議論が混迷しており、後者の意識が相対的に薄いことだ。

 
放射能は大気、海流などを介在して、日本の被災地にとどまらず、世界各地へ拡散する危険性を持っている。さらに渡り鳥、動物、魚貝、飲料水、食品などを通して、世界へ拡大する。いうまでもなく、こうした危険が発生・拡散することを、なんとしても阻止しなければならない。しかし、すでに食肉牛などの分野で、基準を超える肉牛が発見され、問題となっている。

 
中国、韓国などの近隣諸国のみならず、アメリカ、カナダなどで、汚染問題に強い関心が寄せられている。第二次大戦中の「風船爆弾」のことを記憶する世代は、いまや急速に少なくなっているが、ジェットストリームに乗ると、大気中に放出された放射能は、3日程度でアメリカ西海岸に到達するともいわれている。

 
すでに、福島第一原発事故は、世界各国のエネルギー政策を根本的に再検討させる反面教師の役割を果たしつつある。事故発生以来の欧米、とりわけドイツ、イギリスなどのメディアの関心、報道ぶりを見ていると、連日のように、時には日本のメディアよりも詳細に報じている。原発大国のひとつフランスも、サルコジ大統領の強気な発言と併せて、大規模な風力発電への投資を発表している。


終わっていない9.11
 
2011年は、もうひとつ、オサマビン・ラディンの殺害という2001年の9.11同時多発テロ事件を起点とするテロリズム拡大へ、ひとつの区切りをつける年ともなった。しかし、アルカイーダは掃討されたわけではなく、すでにさらなるテロによる復讐を宣言している。9.11に終止符が打たれたわけではない。ひとつの読点(、)が打たれたにすぎない。

 
世界の原発問題は、もはや地震など天災だけをリスクの根源に限定することはできない。人災を含め、あらゆるリスクの可能性を考えねばならない。とりわけ、人災のリスクは、今回の福島第一原発への対応をみてもきわめて大きい。人間の対応の誤りが、天災のもたらした結果をさらに悪化させてしまうことは、寺田寅彦などがすでに指摘していた。他方、最近も本ブログに記したように、ひとつの大きな惨事が契機となって、大きな社会的改革を生み出す契機となったこともある。

 
福島第一原発事故は人類史上、類を見ない災害ではあるが、それが大きな反省を生み、次の新たな時代への転換・再生の礎(いしずえ)として、人々の記憶に留められるならば、次の世代の歴史的評価もすべて負のイメージで受け取られることもないかもしれない。あの時の日本の決断が、人類を救ったと後世に伝えられるようにならねばと思う。

 
そのためには、当事者たる日本人はなにをしなければならないか。決断しなければならない時は迫っている。それは歴史における日本そして日本人の評価を決定的に定める。グローバルな視野は不可欠だ。福島第一原発の放射能汚染をなんとか極小の域に閉じ込めることは、当面の最重要課題だが、エネルギー政策についての地球規模を背景とした基本方針の設定も早急になされねばならない。災害は待ってくれない。

 
日本が近い将来依存するエネルギー源については、未解明・不安定な点も多いが、決断のための材料はほぼ出そろったように思われる。時間を要する細部の問題は、今後の議論にゆだね、日本として、基軸となるべき方向を明確にするべきだろう。政治家の責任はきわめて重い。そして、今度こそは国民ひとりひとりが、次の世代に恥じることのない判断を下さねばならない。

 

 

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夏の夜の現実

2011年07月07日 | 特別記事

 

 

さくらごは ふたつつながり 居りにけり   犀星

 

 福島市に住む知人がいる。住居は市の中心部に近い所だが、風向きの関係からか放射能の計測値が高いとされ、窓も開けられず、洗濯物も外に干せないという。福島第一原発からはおよそ60キロメートルの所で、避難区域外だが、近くの学校のグラウンドの放射能値が高く、表土を取り除いてほしいとの要請が生徒の父母から出されている。自宅は地震では大きな被害を受けなかったが、その後の生活は激変してしまった。春は桜が美しく、白雪が残る吾妻連峰がすぐ近くに迫って見える静かな住宅地だ。

 

風評被害はすでに日常生活の中に広く、深く浸透している。震災後、しばらく水道管も破損し、水を求めて大変な苦労もした。ようやく復旧はしたが、水道水は飲用に適さないとの噂が流れ、特に子供を持つ親たちは大変心配している。井戸を掘ることを考えている家庭もあるという。しかし、新しく井戸を掘っても、果たして飲用水になるかまったく分からない。子供たちには、これまでの日常ではほとんど縁のなかった、ボトル入りのミネラル・ウオーターを飲むように勧めている。屋外の草取りなどの作業も、控えめになる。

 

先祖代々住み慣れた故郷の地を離れて移住するなど、現実には論外だ。原発被災地から避難している子供たちの間でも、放射能がついているからといういじめがあると聞かされた。

 

県外からの訪問者にも大変気を使っており、食べ物には、必ずこれは福島県産ではありませんからと、一言添えられる。そんなに気を配らなくともいうのだが、思わず次の言葉に詰まる。近くの農園には桜桃が美しく実り、収穫の時期だが採取しない農家も多いとのこと。採算がとれないので、市場に出せないのだそうだ。出荷された果実には、箱ごとに知事の安全証明書までつけられているのに。当事者でなくとも、怒りは収まらない。

 

原発の現場には、部外者には分からない過酷な状況と苦労があることは、さまざまに伝えられ、推測はできる。日々仕事に従事されている労働者などの強い責任感にはひたすら感謝の念しかない。

 

循環冷却のシステムがなんとか動き出したと伝えられるが、これまでに圧力容器の外へ様々な経路で流出しているあるいはすでに流出した汚染水は、どうなっているのだろう。いずれ周辺の地下水脈へと流れ込むのではないかとの疑念は消え去らない。底の抜けた水槽の間に綱渡りで、水を循環させているようなイメージが浮かんでしまう。こうした素朴だが基本的な疑問に、専門家は沈黙し、納得できる答えをしてくれない。

 

 蒸し暑く眠れない夜、ふと目覚めて「真夏の夜の夢」かと思いたいが、夢とはほど遠い厳しい現実がそこにある。

 

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