時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

動き出したアメリカ移民法改革:アリゾナ州法連邦最高裁判決

2012年06月27日 | 移民政策を追って

 

 このブログでも観測の対象としてきたアメリカ、アリゾナ州移民法に連邦最高裁の判決が下った。間もなく最高裁判決が予定されている医療保険法改革と併せて、11月の大統領選の行方を左右する大きな論争点の方向が定まる。アメリカ国内政治の舞台は急速に変わる。

 6月25日、アメリカ連邦最高裁は、不法移民の取り締まり強化を目的としたアリゾナ州の州法をめぐり、連邦政府が憲法違反として撤廃を求めた裁判で、同法の大部分を退ける判決を言い渡した。ただし、警察官が個人の在留資格を確認できるとした条項については容認し、判決は5対3の多数意見として、移民に関する政策と法律を定める権限は連邦政府にあるとした。

 判決の多数意見を代表して、アンソニー・ケネディ判事は「連邦政府は移民規制について重要な権限を持つ」とし、「アリゾナ州は不法移民問題について無理からぬ不満を抱いているだろうが、州は連邦法をないがしろにした政策を進めることはできない」と指摘した。

 ただし、判決は、不法滞在を疑うに足る根拠がある場合には、他の法令に基づく執行をする際に、警察官が在留資格を確認できるとした条項については認める判断を示した。この条項に対しては人種差別につながりかねないと批判する声も強く、最大の争点の1つとなっていた。

 アリゾナ州当局は、道路交通取り締まりの際に在留資格確認を開始するかどうかは現時点では分からないとの立場だが、同州のブリュワー知事(共和党)はこの判断について「アリゾナ州民および米国民にとっての勝利」だと評価、同条項が直ちに施行されることを期待すると述べた。

 オバマ大統領は同日発表した声明で、全体として移民法改革が連邦の権限であることを評価した上で、在留資格確認により警察官が人種による選別を行う恐れがあるとの懸念を表明、「米国民が外見のみによって疑いの目を向けられることがあってはならない」と強調した。

 一方で、最高裁は不法滞在を疑うに足る根拠がある場合には、他の法令に基づく執行をする際に、警察官が在留資格を確認できるとした条項については認める判断を示した。同条項に対しては人種差別につながりかねないと批判する声も強く、最大の争点の1つとなっていた。

 アリゾナ州当局は、道路交通取り締まりの際に在留資格確認を開始するかどうかは現時点では分からないとの立場だが、同州のブリュワー知事(共和党)はこの判断について「アリゾナ州民および米国民にとっての勝利」だと評価、同条項が直ちに施行されることを期待すると述べた。この条項に合憲の判決がなされたこともあって、同様な内容を盛り込んだ州法を制定する州が増えている。

 オバマ大統領は同日発表した声明で、在留資格確認により警察官が人種による選別を行う恐れがあるとの懸念を表明、「米国民が外見のみによって疑いの目を向けられることがあってはならない」と強調した。さらに、明白なことは議会が包括的移民改革の方向で行動しなければならないことだと述べ、州法による切り貼り的対応は壊れた移民システムの解決にはならないと付け加えた。

 ホルダー司法長官は判決について「移民分野の規制に関して連邦政府に独占的権限があることが確認された」と歓迎の談話を発表した。

 このように、判決は移民の規制は基本的に連邦政府の権限範囲にあるとの従来の路線を確認したものだ。しかし、判決はアリゾナ州移民法のすべてを違憲としたわけではなく、判事の間では5対3と割れており、州法の定める警官が不法移民の疑念を抱いた者に対して、合法な滞在を認める書類を保持しているかを尋ねることについて、全面的に否定はしていない。そのため、共和党員の間では、ある意味で自分たちの主張が通ったという自信も抱かせる結果となっている。現在のアメリカの二大政治勢力のあり方を微妙に反映した判決ともいえる。

 この点について、大統領はメディアなどで俗に、「(滞在が合法かを確認する)書類を見せてください」条項 paper please provisionと呼ばれる対応の実際的な影響に憂慮していると述べ、アリゾナの法律施行者がこの法律をアメリカの公民権を破壊するような形で実行しないよう注意しなければならないと警告している。

 今後の選挙戦で、移民法改革が医療保険法改革と並んで大きな争点となることは、ほとんど確実となった。見通しが困難な点は、アメリカ国民一般とヒスパニック系選挙民の間には、この双方の改革案について、考え方に大きな差異が生まれていることだ。

 たとえば、アリゾナ州移民法については、一般の国民は警察官が不法移民ではないかと思う人物に、正規の滞在許可証を保持しているかを確認する([show me your papers])条項に、6割弱が賛成している。他方、ヒスパニック系では賛成は20%程度しかなく、75%は反対している(Pew Hispanic Center, June 25,2012).

 他方、共和党大統領候補のロムニーは、国家的移民戦略の必要を強調した上で、オバマ大統領には、移民に関するリーダーシップが欠如していると批判するにとどめた。ロムニーはヒスパニック系の支持を十分確保できないでいるため、発言に慎重であり、こうした状況をもたらしているオバマ大統領の指導力不足というイメージを形成しようとしているようだ。

 この連邦最高裁判決の評価だが、政治勢力の現状を反映し、ほぼそのまま暫定的に固定した、かなり政治的な含みを持たせた判決と考えている。たとえば、show me your papers 条項も違憲とすると、政策面で決め手を欠く共和党には決定的打撃となる。不満も鬱積するだろう。民主党は包括的移民改革の方向性は確認されたといっても、現実の議会運営では突破口を見いだせずにいる。アメリカの移民改革は州レヴェルでの保守性を強化しつつ、包括的な移民改革が可能かどうかの道を探ることになる。

 

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ディケンズ『大いなる遺産』再読

2012年06月25日 | 書棚の片隅から

 

Charles Dickens, Grreat Expectations,
Wordsworth Classics, 2007, cover


 
  今年
のイギリスは、オリンピック関連、エリザベス女王のダイアモンド・ジュビリーばかりが目立って報じられているが、実はもうひとつ大きな記念すべき年なのだ。イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の生誕200年に当たる。しかし、周囲の若い人たちに聞いてみると名前は知っているが、作品は読んだことがないという人が案外多い。他方、ミュージカルは観たという人にはかなり出会った。本屋に本は溢れてはいるが、読みたい本は意外に少ない。一時期、棚全体を買いたいと思った時もあったが、最近は読みたい本に一冊も出会わずに店を出ることも多い。

 トルストイがシェークスピアを上回る作家と絶賛したといわれるが、ディケンズの作品は、人生の晩年を過ごしている管理人が読み返してみても、さまざまな意味で圧倒的に素晴らしいと思うのだが。

 ディケンズを読み始めたのは中学生の頃だろうか、両親の蔵書にあった『オリバー・ツイスト』、『デイヴィッド・コパーフィールド』、『二都物語』など、片端から読みふけった。訳者の名前は残念ながら思い出せない。最初の頃は多分「世界名作物語」などとして、子供向けに翻案したものだったろう。その後しばらくして、中野好夫氏の訳などで読んだ。自分の仕事が忙しかった間は大分熱が冷めて遠ざかっていたが、先年のイギリス滞在中にclassicsの棚にまたとりつかれ、日本ではあまり知られていない小さな作品を見つけては、今度は原書で読むようになった。思いがけない発見もあった。ディケンズについては、時間が許せば、もうひとつブログを開きたいくらいなのだが、もうその時間はない。

働かされる子供の姿
 この大作家の作品で最初に興味を惹かれるともにショックだったのは、子供が主人公で登場し、しかも子供たちがさまざまに虐待されている描写が多数あることだった。ヴィクトリア朝では日常の光景だったのだが、今日も根絶できないでいる児童労働とも重なるところが多い。主要作品をご存じの方々は、飢えに苦しんだオリヴァー、精神的に病んでしまったスマイク、いつも鞭打たれていたトラッドルとデイヴィッドなどが思い浮かぶのではないだろうか。このブログで、煙突の掃除人chimney sweepのことを書いたところ、予想外に多数のアクセスがあって驚いたこともある。

 かつてアメリカの20世紀初頭の児童労働・女子労働の膨大な文献に埋もれていた駆け出しの頃、イギリスの児童労働にもかなり関心を抱いていた。このブログにも時々、工場で働く子供たちのイメージを登場させたくなる。今でも2億人(5歳-17歳)を越える子供たちが苛酷な環境の下、世界中で働かされているのだ。

ディケンズ自らの体験が
 ディケンズは子供好きであったかという点については、必ずしもよく分からない。1836年に編集者の娘キャサリン・ホガースと結婚、10人の子供に恵まれた。そのうち男児は6人、いずれも名のある文士・文豪の名前をつけられていたが、誰も文学の世界では名をなさなかった。1847年に生まれた長子チャールズ・キュリフォード・ボズ・ディケンズ Charles Culliford Boz Dickensは、父親(Boz)の名声に負けてか、人生もうまくゆかなかったらしい。4番目の子は、アルフレッド・テニソン・ドルセイ・ディケンズ Alfred Tennyson D’Orsay Dickensというように大層な名前がつけられている。皆、荷が重かっただろう。他方、女の子はメアリーとかケイトなど、よくある名前だ。30歳ですでに著名な作家となっていたディケンズは、子供も大作家になることを期待したのだろうか。

 ディケンズの小説になぜ子供の描写が多いのか、本当のところは分からないが、作家が過ごした境遇とはかなり関連がありそうだ。ディケンズの生家は、いちおう中産階級の家庭ではあった。父親は海軍の会計係だったが、金銭感覚に乏しく、母親も同様であったらしい。そのため、生家のあったポーツマス郊外のランドポートからロンドンに移ってまもなくの1824年には家は破産している。ディケンズ自身、親戚の経営していた靴墨工場へ働きに出されている。明らかに、作家のこのつらい経験は、作品でその光景を描き出すことを通して、次の世代の子供たちが同様な苦しみをしないようにとの願いにつながっている。

『大いなる遺産』をめぐって
 ディケンズは、その後エリス/アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤務したが、まもなく文才が見出されて、『モーニング・クロニクル』紙の記者をしながら、有名なボズ(Boz)というペンネームでエッセイを雑誌に投稿し始め、次第に注目を集めるようになった。
 
  最近読み直して、大変感動したのは名作中の名作といわれる『大いなる遺産』 Great Expectations(1860-61)
だ。

 たまたまBBCの番組 World Book Clubを聴いていて、その愛好者が全世界に広がっていることに改めて感動した。番組はハリエット・ギルバートという大変有能な女性モデレーターの司会で、世界中からコメントや感想を求めるというIT時代ならではのプログラムだ。お膝元のイギリスばかりでなく、インド、アフリカ、カナダ、オーストラリア、マセドニアなど、文字通りグローバルな次元に広がっている。残念ながら、日本からはコメントがなかった。

 ピーター・アクロイド Peter Ackroydなど、気鋭の研究者たちがさわりの部分を朗読したり、世界中の読者からの質問に答えるというディケンズ・ファンにはこたえられない番組になっている。ディケンズの小説は、読後に落ち込んでしまうということがない。それでいて、人生の機微を十二分に堪能させてくれる。どうも今頃になって「ディケンズ・シンドローム」に、かかってしまったようだ。とりたてて、ディケンズのファンではないつもりなのだが。

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アメリカ移民法改革:今度は動くか

2012年06月23日 | 移民政策を追って

 


 長らく目立った動きのなかったアメリカの移民法改革の次元で、ある胎動が感じられる。前回記したオバマ大統領の突然の不法滞在者への新たな対応の裏で、なにが起きているのか。メディアが急に動き出し、あわただしくなっている


 そのひとつ、2012年6月25日付 TIME は、"WE ARE AMERICANS*  *Just not legally" 「われわれはアメリカ人だ。ただ、法律上で認められていないだけだ」と題する特集を組んだ。その内容は、これまでこのブログで一貫して観測してきた事実(たとえば、「断裂深まるアメリカ」シリーズ)とさして変わりはないが、11月の大統領選を控えての政治的時期だけに特別の注意が必要だ。




 アメリカには推定1200万人といわれる、「入国時に必要とされる書類(旅券、査証など)を保持していない人々」(undocumented immigrants)がいる。その中のひとり、31歳のフィリピン人ジャーナリスト(Mr. Valgas)が、自ら自分はそうした書類を持っていないと名乗り出た。12歳の時、すでにアメリカに合法的な市民として住んでいた祖父母の許へ送られた。16歳の時、身分証明書の役割を果たす運転免許を取得しようとしたが、その時祖父母を通して入手したグリーンカード(労働許可証)は偽造されたものであることが判明した(アメリカで生まれたのでなければ、グリーンカードは市民権取得への必須要件となっている)。その後は、自分が不法滞在者であることを隠して、今日まで過ごしてきた。

  アメリカで不法滞在者であると、生活上の不便や困難は多々ある。たとえば、航空機には乗れない。自動車運転免許証も取得できない州が多い。まともな仕事に就くこともきわめて難しい。

 これまで、なんらかの形で不法滞在であることが発覚すると、確認審査の上、出身国などへ強制送還された。今回、このジャーナリストが、あえて自らの法的地位を社会に明らかにする決心をした裏には、アメリカ社会、そして政府がいかなる反応を示すか、ジャーナリストとして確かめてみたいとの思いがあったようだ。

 移民の管理に当たるICE (US Immigration and Customs Enforcement)は、2011年には396,906人に対して国外撤去の措置をとった。今日、アメリカ国内に不法滞在するおよそ1150万人のうち、約59%はメキシコから、100万人はアジア/太平洋諸島から入国している。残りは南米、ヨーロッパなどである。そして86%はすでに7人以上、アメリカに住んでいる。

 こうした事実が背景にありながら、アメリカ上下両院は、10年近い議論を背景にしてのDream Actといわれる包括的移民法案を未だに成立させることができないでいる。さらに、アリゾナ州などは、警察官などが不法滞在者ではないかとみなした者に、在留に必要な書類を保持しているかを直接確認できる権限を付与する州法(SBI070)を、2年前に制定・導入した。俗に、”Show me your papers" bill といわれている。類似の内容の法案が周辺諸州でも制定された。連邦最高裁は、現在は差し止め中のこれら関連州法について、今月中にも、合衆国憲法に違反しないかという点を含めて判断を下すことになっている。

 こうした「入国書類不保持者」はアメリカ市民として認められていない。もちろん、選挙権もない。しかし、IRS、国税局にとっては重要な財源だ。ある研究所の試算では、2010年、こうした「入国書類不保持者」は、連邦と州に約112億ドルの税金(所得税$1.2bill、資産税$1.6bill.、消費税$8.4bill.など)を納税した。

 経済活動がさしたる改善を見せず、雇用の改善もはかばかしくない現実を前に、秋の大統領選で苦戦が予想されるオバマ大統領にとって、さらにロムニー候補にとっても、移民法改革は重みを増してきた。しかし、ひとつ間違えると、受ける打撃も大きい。

 典型的には、ヒスパニック系がいかなる評価をするかで、投票は大きく左右される。不法滞在者は選挙権がない。しかし、彼らに対する処遇、そしてその背後につながる選挙権のあるヒスパニック系国民の選択が鍵を握っている。

 ロムニー候補は従来、自分はこうした不法滞在者を合法化する道は考えていないと述べてはいる。しかし、迫った大統領選挙のことを考えると、不法移民のすべてを国外撤去させるとまでは言い切れない。そこで、いかなる妥協の道が提示されるか。しばらくの間、目が離せない。
 

 

 

 

 

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閉塞破れるか:オバマ大統領土壇場の移民改革

2012年06月16日 | 移民政策を追って




閉塞の壁を破る
 唐突の発表という印象だった。ABC News(6月15日)を観ていると、オバマ大統領の記者会見が目に飛び込んできた。両親に連れられてアメリカに入国し、現在アメリカに滞在する16-30歳の不法滞在者を強制送還することなく、在留資格を与えるとの発表だった。

 5年以継続してアメリカに滞在し、学校に在学中あるいは卒業した者、兵役に従事している者で犯罪歴がない若者が対象だ。これまで、彼らは移民法上は不法滞在者の扱いを受けてきた。大統領はこの措置はアムネスティでも、市民権付与でもなく、グリーンカードでもないという。

 2年ごとに更新チェックを受けるし、グリーンカードと連携もさせないとする。対象者はおよそ80万人。親などに連れられて16歳前に入国し、現在30歳以下、5年以上継続してアメリカに滞在している外国人が対象となる。大統領はこれこそなすべきことだと強調。ジャネット・ナポリターノ国家安全保障省長官は、この方向でしかるべき措置をとると声明を発表した。2年間の労働許可も与えられる。その後2年ごとに更新審査を受ける。回数に制限はない。長官はこの方針は大統領の独断ではなく、国家安全保障省で十分検討してきたものだと付け加えた。

 大統領就任以来、移民法改正はブッシュ大統領の共和党政権以来、上下両院の党派対立で膠着状態、11月の大統領選までに有効な対応は絶望的とみられてきた。重要法案はほとんどが共和党優位の下院でブロックされてしまう。そうした状況にしびれを切らしたのだろう。突然の大統領令という意表をついた措置に出た。

 対象となる若者は、ほとんどがヒスパニック系だが、この新措置を歓迎している。彼らがアメリカ活性化の一翼を担っていることも確かだ。他方、共和党側は大統領の権力乱用と強く批判している。違憲だとの声も上がっている。

ぎりぎりの選択
 オバマ大統領は大分フラストレーションがたまっているようだ。ホワイトハウス・ローズガーデンで、大統領が内容の説明をしている途中で、割って入った保守党系のジャーナリストが「なぜアメリカ人の労働者よりも外国人を優遇するのか」と叫んだ。大統領はいつになくけわしい表情で、「余計な口を挟むな。今は論争の時ではない。これこそやるべきことだ」と言い放って会見を打ち切った。

 今回の対象者は、親に連れられて入国した子供たちで、本人たちには違法行為の責任はないが、発見されれば強制送還の対象とされてきた。民主党はDREAM Actとして知られるより包括的で寛大な方向を提案してきたが、下院で多数を占める共和党にことごとく阻止されてきた。閉塞感が漂う中で、大統領命令という異例の措置に出たのは、大統領選を前にヒスパニック系をなんとか引きつけたいという政治的意図もあるのだろう。

 他方、共和党は不法移民にはより厳しい政策を打ち出し、ロムニー候補は国境の障壁強化を強調してきた。マサチュセッツ州知事当時は不法移民の子弟には、州の奨学資金を支給しない方針をとってきた。

 共和党議員の中には、「アメリカ人は憲法を守るため、アムネスティを退けてきた。今度はオバマを退ける時だ」と主張している。議会の議論を無視して、移民法を緩め、国境を開くのは、大統領の越権だとの批判もある。

 目前に迫った9月の大統領選を考えるならば、明らかに支持者(とりわけヒスパニック系)の拡大を目指した「政治的爆弾」の色が濃い。1100万人近いといわれる不法滞在者の中で、今回の対象は1割に達しない。しかし、4年前のオバマ大統領を支えたような高揚感がまったく消滅した今、この唐突にもみえる対応は
明らかに大統領選を念頭に置いたものだ。DREAM Actが成立しない中で突如発表されたこの動きは、その方法を含めて、移民政策をめぐる新たな論争に火をつけるだろう。

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リシュリューの軍隊

2012年06月12日 | 書棚の片隅から

 



David Parrott, RICHELIEU'S ARMY, cover



  アレクサンドル・デュマの「3銃士」をもう一度読む、できれば映画としてヴィジュアル化された形でも観てみたいと思った背景には、ある期待があった(今回の試みはその期待に応えてくれなかったが)。こうした歴史にかかわる映画は、その後の研究が進み、さまざまな面で時代考証が加えられているために、時に活字だけの原作に頼るよりは、収穫が大きいことがある。そのひとつの例は、最近見た映画『鉄の女ミセス・サッチャー』にもあてはまった。少し前に刊行された自叙伝 John Campbell. The Iron  Lady を読んでいたこともあって、次第に記憶から薄れつつあった現代史上の激動の時代への印象が強く甦ってきた。

「同時代人」の目で
 
このブログが右往左往しながらも、取り上げている17世紀フランスあるいはロレーヌ公国の世界は、まさに宰相・枢機卿リシュリューとルイ13世、そしてその後を継いだマザランとルイ14世が主要な歴史的人物として登場してくるヨーロッパ史の壮大な舞台であった。できうるかぎり、「その時代に生きた」(コンテンポラリーな)人が体験あるいは見聞した内容に近い環境(情報)で、この舞台を眺めてみたいというのが、本ブログ管理人の基本的スタンスなのだ。ラ・トゥールなどロレーヌの画家たちも、フランス王国とハプスブルグ家、神聖ローマ帝国、スペインなど大国に押しつぶされそうな小国で、歴史の波乱に翻弄されながらも生きていた。

 とりわけ、当時の中央ヨーロッパの実態を理解するについては、フランス、神聖ローマ帝国、スペインなど、大国の間に繰り広げられた幾多の戦争の実態への接近が不可欠に思われる。特に強大な神聖ローマ、ハプスブルグ家に対するフランスの対応が、きわめて大きな意味を持った。

 特にルイ13世の下で重用され、王をはるかに凌駕する政治力を発揮していた宰相リシュリュー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585年9月9日 - 1642年12月4日)の抱いていたといわれる世界観、構想とそれを実現するためのひとつの重要な手段である軍事力についての考え方を理解することが欠かせないと考えてきた。それは現実にはどの程度の計画性、現実性を持っていたのだろうか。リシュリューは枢機卿としてカトリック教会の聖職者であると同時に、フランス王国の政治家であった。1624年から1642年に死去するまで、ルイ13世の宰相を務めた。その権力は、王を介在してフランスを支配したといわれている。しかし、リシュリュー自身、その生涯において度々政治生命、そして自らの命を失いかねない危機に対していた。

「政治宣言」の本質
 リシュリューは、すでにこのブログでも一端を記したように、新大陸までを版図に含めた世界構想を持っていたといわれる。ヨーロッパの他の大国と争いつつ、その構想を実現するには、それを支える強力な軍事力、統率力、財政基盤などの支援が不可欠だった。

 この稀代の政略家、宰相リシュリューは自ら『政治宣言』 Testament Politiqueともいうべき構想において、自国フランスの持つ大きな問題を認識していた。彼は「地球上でフランスほど戦争に対応する力を備えていない国はない」と自国の抱えるさまざまな不安定さや気まぐれを批判している。このように自らが自国の軍事的弱点を自覚しつつも、「リシュリューの時代」ともいわれる、文字通り画期的な時期を築き上げた。
1624-42年の間における図抜けた戦略家リシュリューの行動は大きな関心事となる。実際、この時代におけるリシュリューの行動範囲を追っただけでも、驚嘆に値する。しかし、リシュリューの構想なるものは、どれだけ計画的に考えられ、将来を見通したものだったのだろうか。

 内部に重大な欠陥を抱えるフランス軍を指揮し、しばしば自ら戦場に赴き、そして時には教会や大貴族たち、そして最終的にはルイ13世の母后マリー・ド・メディシスから厳しく批判、攻撃されながらも、合従連衡、秘密協定などの機略を縦横に発揮して、絶対王制の道を築いていった。この希有な人物を深く理解するには、当時のヨーロッパ大陸で繰り広げられたさまざまな戦争での行動を理解することが不可欠だ。

 30年戦争は1635年に勃発したが、1642年のリシュリューの死去後も続き、漸く1660年までにハプスブルグ・スペイン優位の時代は終わりを告げ、ルイXIV世の時代が幕を開けようとしていた。

 リシュリューはヨーロッパ全域を視野に治めながらも、中央集権化と軍隊維持・運用の効率化を考えていた。長引くヨーロッパの戦争はフランスに多くの負担をかけた。そればかりでなく、戦争や反乱の火種は至るところにあり、兵力、軍備の対応においても、軍隊の中央集権的統制と関連支出の効率化は重要課題となっていた。

貴族が指揮する軍隊

 リシュリューの官僚は伝統的な行政・財政手段で軍をコントロールしようとしていた。1635年以前のフランス軍隊は、貴族による指揮・統制の下で戦争行動を行っていた。しかし、貴族階層にかなり根強く存在していた個人的反目、戦争展開時における構想や戦術スキルの欠如、判断能力などの点で無力な指揮官も多かった。

 実は近代初期、リシュリューの時代のフランスの軍事力については、軍隊の規模(兵員数)が大きな意味を持ち、戦争がヨーロッパ各地で拡大したこの時期に、兵員数が大きく増加し、「軍隊革命」ともいうべき、軍事史上の転機がもたらされたとの説が存在する。しかし、実際にはさまざまな理由で、その実態と実証には疑問が持たれてきた。 

 常時、大規模な軍隊を擁することは、財政的にも問題があり、宰相リシュリュー傘下の軍隊は、30年戦争当時、多く見積もっても7-8万人程度と推定されている(Parrott)。戦費調達の困難、無力な大臣と高い次元からの指揮、兵員に対する文官の多さ、しばしばみられる貴族のセパラティズム、反乱、時代遅れの戦術しか知らない、戦争上のスキルに欠ける貴族の指揮官など、軍隊は多くの問題を抱えていた。その中で、不利な体勢をどう克服するか。
リシュリューは軍人としては、アンギャン公(後のコンデ公ルイ2世)とテュレンヌを取り立て、この2人が30年戦争でフランス軍を率いて活躍することになる。

 長引く戦争で、戦費は国家の財政にとって大きな負担となり、リシュリューは塩税(gabelle)とタイユ税(土地税:taille)を引き上げている。しかし、聖職者、貴族そしてブルジョワは免税、不払いなどの道があり、リシュリューの財政計画は、各地で民衆・農民の暴動を引き起こしている。リシュリューはこれらの反乱にも、過酷に対応した。

厳しい処断
 
こうしたことで、リシュリュー自体も肉体的・精神的に厳しい日々を送った。軍隊を指揮する貴族層の中にも謀反を企図する者もあり、王やリシュリューは、時に驚くほど厳しい対応をしていた。とりわけ、単純な戦術上の失敗などには厳しい処断を下している。たとえば、画家ラ・トゥールの作品の愛好家であり、ロレーヌ知事としてリュネヴィルの防備に従事していたペダモン伯爵 comte de Pédamontは、1637年の戦闘で守備隊が降伏したことで、軍事裁判に処せられている(Parrott 493)

 リシュリューの『政治宣言』も書かれた背景にはこうした事情が存在する。他方、当時のひとつの特徴として、こうしたステートメントを発することで個人的な名声高揚の意味もあったようだ。とりわけ、リシュリューにはフランスの偉大さを誇示する基盤を長期的に構築しようとする意図があったとも推測されている。

ラ・トゥールの田園、帰去来
 
リシュリューに自らの作品 『枢機卿帽のある聖ヒエロニムス』を寄贈したジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしてみれば、この権勢並ぶ者なき時代の立役者に庇護を求めたのは当然としても、心中いかなる思いだったのだろうか。リシュリューは、早くからロレーヌをフランスに併合することを目論んでいた。ラ・トゥールは結局、「王の画家」のタイトルを授与されながら、花の都パリを去り、再び動乱の祖国ロレーヌに戻り、そこで人生を終わる。




David Parrott, RICHELIEU’S ARMY, WAR, GOVERNMENT AND SOCIETY IN FRANCE, 1624-1642, Cambridge University Press, 2001.

 本書はほとんど未開拓であったこの分野に、膨大な資料探索を背景に迫った大作。

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マザランの時代の三銃士?

2012年06月05日 | 午後のティールーム

 

17世紀の甲冑
Jarville, musée de l'Histoire du fer


h

ジャック・カロ 『決闘』 1621

Jacues Callot, Le Duel, 1621



 
  この妙なブログを読んでくださる読者から、時々脈絡がつかめなくてついて行けないとコメントされることがある。無理もないと思う。別に筋書きを定めて、記しているわけではなく、気が向くままにメモ代わりに記しているからだ。しかし、管理人の頭の中ではかなりいろいろなことが星雲のようにうごめいている。それがある程度の大きさになると、メモしておかないと次の瞬間には記憶領域外へ消えてしまう。そのため、読者の側からは想像しえないトピックスも書かれている。しかし、あと何回生まれ変わって人生を送っても、とても探索できないだろうと思うようなテーマがいくつかあり、肉体は衰えても脳細胞だけはまだかなり生きているような気がすることもある。

 次第に専門としてきた領域から離れて、これまで考えているだけであった17世紀ヨーロッパに関心を抱いてから、興味深いテーマが次々と生まれてきた。元来、深く人間とかかわる問題を扱ってきたから、必ずしもマイナスばかりではない。思いがけないフィードバックも生まれる。

 ルイ13-14世の時代に少しばかり踏み込んでいる今、宰相リシュリューの戦略や世界観についてちょっと調べたいことがあった。梅雨入り前の気晴らしも兼ねて、アレクサンドル・デュマの「3銃士」を読み返そうかと思ったが、手元にあるのは、以前に読んだ岩波文庫(上下)版(生島遼一訳)だ。少しビジュアルなイメージを掘り起こしたい。どうせ読み直すならば、別のヴァージョンでと思い、先日の仕事場整理の途中で見つけた、ペンギン・クラシックスの新訳 The Three Musketeers, Translated by Richard Pevear amd Larissa Volokhonsky, 2006を読み始める。手頃な一冊本に加えて、すでに筋書きは頭に入っているので、
たちまち引き込まれ、集中し読んでしまった。表紙に、Now a major motion picture とあるので、最近映画化されたのだと気づく。

 DVDがないかと思い、探してみたが、すぐに入手できるのは、
「ソフィーマルソーの3銃士」La fille de D'Artgnan (1994)だった。(最新の3D映画三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船は娯楽として観ているかぎりでは面白いが、一寸イメージが合わない)ところが、ソフィーマルソー主演の映画、デュマの『3銃士』が対象としたルイ13世、宰相リシュリューの時代から少し下がって、宰相マザランの時代を舞台としていた。元来、フィクションなのだからどうでもいいのだが、拍子抜けをした。もっとも、デュマも『3銃士』の大人気に、続編『20年後』も書いているのだから、これもありうることだった。しかし、映画の筋立てはデュマの続編とはまったく違っていた。(クロムウエルとの関係やフロンドの乱、ボルジア家の毒薬なども出てきて、史実とはタイミングを合わせてはいるのだが。)
 

 あっと思ったのは、主役のダルタニヤンが、なんとダルタニヤンの娘エロイーズという設定だ。(うっかりしてフランス語のタイトルを見ていなかった。)父親のダルタニヤンも近衛銃士を引退、歳をとったが、現役で登場してくる。そしてあのアラミス、ポルトス、アトスの3銃士も、健在だ。あらすじは省略するが、奴隷とコーヒーの密貿易が興味深かった。この史実の内容確認を少し引きずっている。さらに、女剣士エロイーズを中心とする剣戟シーンの立ち回りがなかなか巧みで見せ場があり、感心。現代のフェンシング競技とは迫力がまったく違う。カロの銅版画などに描かれている当時の大規模な戦闘シーン(もちろんフィクションだが)がヴィジュアル化されていないか見てみたかったのだが、残念出てこなかった。3銃士は本来、マスケット銃士なのだが、これもほとんど登場してこない。すでにリシリューの時代に剣士の時代は終わりを告げていた。この時代、戦闘の仕方が大きく変化しつつあったのだ。いづれ改めて記事に登場することがあるかもしれない。

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注目されるコチニール

2012年06月03日 | 午後のティールーム

 

コチニール(媒染剤使用)で染色されたキルト、ニューイングランド ca.1775-1800
ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵
出所;Phipps p。37
 


  この1年近く、このブログの「コチニール」についての記事へのアクセス、質問が非常に多かった。最初、なにがその背景にあるのか把握できなかったが、寄せられた質問などを通して、ようやく輪郭が分かりかけてきた。ひとつは、日常生活でさまざまに口にしているコチニールなる物質の原料が、あまりなじみのない虫の粉末から製造されていることへの抵抗感であるようだ。もうひとつは、その点とも関連して、コチニールが含まれた食品、化粧品などで、アレルギー症状(アナフィラキシーと呼ばれる急激なショック症状)を起こした症例が数は少ないが報告されたようだ。6月4日の朝日新聞がその点を伝えている。

『消費者庁なぜ「コチニール」注意喚起:重症アレルギー報告で先手』 『朝日新聞』2012年6月3日

  コチニールについては、すでにブログで何度か記しているが、いずれも絵画材料との関連である。元来、コチニールは赤(濃赤色、鮮紅色、クリムソン)の染料、顔料、インクなどの分野で知られてきた。スペイン人が1520年代にメキシコから持ち帰ったのが初めといわれる。ヨーロッパ人が初めて目にした鮮やかな赤であった。そして1550年までにスペインの小艦隊が原産地を明かすことなく大量のコチニールを持ち帰った。コチニールは重要な貿易財となった。ちなみに、このコチニール発見にまつわる経緯は大変興味深い。

 原料はサボテンに寄生しているコチニール虫(えんじ虫の一種)の雌の虫体を乾燥、粉砕したものである。その主成分であるカルミン酸は、アントラキノン誘導体といわれる物質である。コチニールの原料となる虫自体は、今では世界のかなり広範な地域に分布しているが、当初はメキシコからアンデスにかけての地域が主たる産地だった。

 長らく繊維などの染料、絵画などの絵の具に使われてきたが、その後使用範囲は広がり、医薬品、食料の染色剤、口紅、アイシャドーなどにまで使われるようになった。薬剤として服用されていたこともあるらしい。一時はカンパリの色つけにも使われていた。画材としても、洋画の絵具ばかりでなく日本画の絵の具、友禅染の染料にも使われている。しかし、コチニールの名を知っていても、その原料が乾燥した虫体の粉末であることはほとんど知られなかった。特に17世紀には、原料、産地は国家機密のヴェールに隠されていた。

 しかし、これまでは、コチニールが原因でアレルギー症状を起こしたなどの例は、比較的少なかったこともあって、大きな問題となったことはほとんどなかった。合成着色剤より安全と考えられてきた。2001年頃から数は少ないが、アレルギー問題との関連で話題となったらしい。最近ではコチニール抽出の際、除去しきれなかった微量のタンパク質がアレルゲンではないかともいわれている。正確なところはまだ分かっていないようだ。

 食品添加物などを含めて、コチニール自体は人類とはかなり長い付き合いをしてきた物質だ。過度に神経質になる必要はないのではないか。それよりも、日常生活に広範に使われているこうした物質への知識を深め、真の問題がなにであるかに注意を怠らないことが大事だろう。

 

Reference
Elena Phipps, COCHINEAL RED: The Art History of a Color, The Metropolitan Museum of Art, New York, Yale University Press, New Heaven and London, 2010.

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