時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

真作と工房作の間で

2024年04月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


前回、取り上げたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの工房作とされる作品《書物の前の聖ヤコブ》(仮題)は、オークションの段階では、ラ・トゥールの工房につながる作品であるとすることには、異論がなかったようだ。しかし、すべてが親方画家ラ・トゥールの手になる「真作」と、工房において、親方の指示を受けながら、職人あるいは徒弟が制作の大部分あるいは一部を担当したという「工房作」との間で、美術史家や鑑定者などの専門家の間では見解が一致せず、現段階ではラ・トゥールの「工房」での作品との位置付けになっているようだ。

「真作」か「工房作」かでは、オークションでの評価、落札価格は大きく異なる。ラ・トゥール・フリークとしては、「真作」と認定しても良いのではと思うが、残念至極! 鑑定家はラ・トゥールには厳しいのだ。

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N.B.
本ブログでも度々取り上げている17世紀フランス、ロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1934年に再発見され、注目を集めるようになった。パン屋の次男から画家を志し、貴族の娘と結婚し、フランス王室付きの画家にまでなった異色の経歴もあって、その作品には多大な関心が寄せられてきた。今日に残る作品数が少ない上に、署名のない作品もあるだけに、美術史上でも作品の真贋論争、あるいは工房作、模作などの論争には事欠かなかった。

1960年ニューヨークのメトロポリタン美術館は《女占い師》を、72年にはルーヴル美術館が《いかさま師》をそれぞれ購入した。今日ではいずれもラ・トゥールの代表作と考えられている、こrれらの作品に、イギリスの美術史家クリストファー・ライトは贋作説を突きつけた。そのきっかけは、これら2点の作品がそれまで「夜の画家」として知られてきたこの画家の作品とは、大きく異なる華麗な色彩が目を惹く昼の作品であることにあった。それまでの作品には見られなかった装飾的な署名が付されていたこと、衣裳に描かれた模様などをめぐり、異論が提示されたが、決定的な反論とは認められず、今日ではラ・トゥールの代表的作品として人気を集めている。それほど、ライトにとっては「夜の画家」と思われていたこの画家が、「昼の画家」でもあったということは、信じ難いショックであったようだ。そして、これらの名作が次々と新大陸へ流れてしまうということへの苛立ちもあったようだ。今では、これらの作品は、ラ・トゥールの代表作として確たる地位を占めている。




Christopher Wright, The Art of the Forger, New York, Dodd, Mead & Co., 1985, cover.
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こうした美術史上の論争などもあってか、この度オークションにかけられた《書物の前の聖ヤコブ》(仮題)のように、ラ・トゥールの手になったと推定される新たな作品が発見、提示されると、他の画家の作品以上に議論が白熱することがある。

それでは、「真作」と「工房作」の違いを定めるものは、なになのだろう。筆者なりにその要因を整理してみると、次のような点が挙げられる:

1)作品の持つオーラ
2)他の作品との比較、連想
3)画材(カンヴァス、枠、絵具、顔料など)
4)修復などの際の加筆具合
5)推定制作当時の工房の実態(職人、徒弟の力量)
6)史料(所有者、売買による移転など)

ラ・トゥールの作品を長らく観ていると、この画家に特有な画風があたかもオーラ aura のように画面から感じられる。今回の作品についても、そうであった。作品に接した瞬間に、あっと思う特異な雰囲気のようなものがある。筆者の場合、前回記した同じ画家の作品《マグダラのマリア》シリーズが直ちに思い浮かんだ。ラ・トゥールという画家の画題の選び方、独特な構図、画面の明暗などが、渾然一体となって特異な雰囲気を醸し出している。この点について、鑑定に関わった美術史家やオークション・ハウスの鑑定者の間にはほぼ一致した受け取り方が生まれているようだ。

これまで知られてきたラ・トゥールの夜の光景 nocturne のジャンルでは、聖ヤコブをこうした構図で取り上げた作品は、他には発見されていない。しかし、作品を観た人々はほとんど誰もが、《マグダラのマリア》シリーズや《大工ヨセフ》の構図や色彩と強い類似があることを認めているようだ。制作年次は画家の制作意欲が高い時期であった1640-45年くらいと推定する人々もいる。 

作品の細部に接することのできる所有者、鑑定者などは、この段階で画家の署名の有無、カンヴァスの状態、絵具・顔料などの化学的分析などを実施することもあるだろう。今日までの時間的経過の過程で発生した老化、損傷などに対して行われたかもしれない修復作業の点検なども実施される。すでに帰属が確立されている同じ画家の作品との比較も行われている。作品の保存状態も良く、丁寧な仕事の成果が見てとれる。疑問を提示されているのは、ラ・トゥール特有の奔放な筆使いが薄れたり、絵具の表面が平滑に過ぎる部分などがあり、親方の指示の下に、工房の職人、徒弟などがその通り丁寧に仕事をしたのではないかと推測する専門家がいることである。しかし、これも鑑定に関わった全ての人々の見解でもないようだ。結果として、全員一致に至らず、現時点では優れた工房作ということになっている。いずれ、他の作品同様、時間が解決するのかもしれない。

ラ・トゥール工房の場合、親方と意思疎通がかなりあったと思われるのは、息子のエティエンヌである。結果としては画家としての人生を選ばなかったエティエンヌだが、父親の工房で、直接に指導を受け、当時の普通の画家としての技量は十分持ち合わせていたことは推察できる。宗教色の薄い世俗画のジャンルに入る作品については、工房あるいはエティエンヌ作とされているものもある。

こうしてみると、この作品についての最終的評価は、ラ・トゥール工房につながる優れた作品として、今後の研究、時代の評価に委ねられることになりそうだ。


Christopher Wright, Georges de La tour: Master of Candlelight, Compton Verney, 2007.(On the occasion of the exhibition), cover.

ラ・トゥールの「夜の光景」は素晴らしく、感動的だ。しかし、「昼の光景」も劣らず絶妙なのだが。

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遥かに望む巡礼の地

2024年03月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
サン・ティアゴ・デ・コンポステラへの道

久しぶりに、美術に関するトピックスを取り上げることにしたい。


Fig.1  
以下の記述では、Tajan 画廊のオークション紹介資料 NEWS: Saint-Jacques, Atelier Georges de a Tour en vente le 21 juin 
2023 及びjean-Pierre Cuzinの協力の下に編纂された紹介記事 Nouvelle decouverte concernant Georges de La Tour
Demanche, 18 juin, 2023-18:29, art lorrain.com
を参考にした。


本ブログに長らくアクセスしてくださっている方々、あるいは美術史にご関心のある皆さんは、この画像を見て何をお感じだろうか。

筆者はこれを見て、思わず目を見開いてしてしまった。

ひげと長い髪のひとりの男が、蝋燭の光ではないかと思われる明かりの下で、縦長の文書を読んでいる。男は2つの貝殻がついた灰色の革のケープをまとっている。貝殻の帆立貝 St. Jacques はこの人物が誰であるかをはっきりと示している。
 
男は右手には長い巡礼杖を持っている。これもひとつのヒントだ。そして左手で文書のページをめくっているが、その背後には恐らく燭台あるいは油燭の台が置かれているのではないかと思われる。ロウソクの所在は確認できないが、燭台の一部分が僅かに見えている。

燭台からの光は絶妙な明暗を伴って、書籍のページ、それを読む人の容貌、衣装など、ほぼ全体像をあまねく映し出している。

光のよく届かない足元には、長い衣装とサンダルの部分が確認できる。ラ・トゥールの《大工聖ヨゼフ》を思い起こさせる雰囲気である。

描かれているのは、もはや間違いなく聖ヤコブ(Saint-Jacques, 英語名:Saint-Jacques )である。

この画像を一見して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズのイメージを思い浮かべられた方は素晴らしい慧眼の持ち主である。

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ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作とされるマグダラのマリア・シリーズで全身像が描かれているのは、現在判明している限り、4点(the National Gallery in Washington, the Metropolitan Museum in New York, the Los Angeles Country Museum of Art  and the Louvre)ある。その他にも、個人の所蔵を含め、多くの半身像の作品がある。
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大きな衝撃波を伴った発見
この作品、2023年6月21日、パリのタジャン Tajan 画廊でオークションにかけられた。作品を一目見た人たちは、直ちにジョルジュ・ド・ラ・トゥールにつながるものだと直感し、大変な興奮状態になったようだ。

今や17世紀フランス絵画の主柱的な存在である画家である。17世紀ロレーヌという戦争、悪疫、飢饉など、大きな危機の中に生涯を過ごしたこの画家は、今日まで継承されている作品数が極めて少ないことで知られている。

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N.B.
オークションの展示カタログには、下記の表示が付されていた(日本語は、筆者付記):
Spectacular discovery: An unprecedented composition from the atelier of Georges de La Tour
劇的な発見:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房からの例を見ない作品

Lot 115
ÉCOLE FRANÇAISE VERS 1640
ATELIER DE GEORGES DE LA TOUR
Saint-Jacques. Toile,
132 x 100 CM

FRENCH SCHOOL C. 1640
WORKSHOP OF GEORGES DE LA TOUR
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.

フランス派 C.1640
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.
入札基準価格 100 000 / 150 000 €
(この作品、最終的にはコストを除いて、390,000 €で落札された。) 
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来歴 PROVENANCE を読んでみた。要旨を記すと、1920年代以来、ワインの産地で著名なボージョレ Beaujolais の私的コレクションとして存在が知られていたようだ、作品は1967年からは同じ家族が保有してきた。しかし、今は所蔵場所はジュラへ移動している。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品としては近年において、最も重要な発見と考えられる。素晴らしく、広がりのあるこれまで見たことのない構図であり、ロレーヌの偉大な画家について、我々の理解を大きく広げ、深める最も重要な発見だ。壮大なイメージ、リアルな芸術的力、暖かな色合いが素晴らしい。

N.B.
十二使徒の一人である聖ヤコブは、キリストの最初の弟子の一人で、キリストの昇天後は、サマリアの伝道にたずさわった。 その後パレスチナの王ヘロデ・アグリッパのキリスト教迫害の際に捕えられ、エルサレムで殉教したと言われている。スペインの守護の使徒と呼ばれているが、それは、後に発見された遺体がスペインに運ばれ、北西部の都市サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)に埋葬されたからと伝えられている。中世以来の巡礼地で、聖ヤコブの墓跡に建てられたと伝えられる大聖堂がある。

蛇足だが、ホタテ貝をフランス語では「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。

英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名前(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。なお、フランス語のジャック(Jacques)はヤコブに相当する名前である。

目を見開く斬新な構図
 現存するラ・トゥールの作品で、聖ヤコブを描いた作品は少ない。僅かに継承されてきたのは、《キリストとアルビの12使徒》Apostles of Albiシリーズの中に残る1点のみである。画家が未だ若い頃の作品といわれ、創作時の意図や思考、モデルの人物イメージも、今回発見された作品の人物とは全く異なっている。 今回の作品は、恐らく画家の精神がみなぎっていた晩年に近い時期に制作されたのではないかと推定されている。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ヤコブ》《キリストと12使徒》

鑑定に当たった美術史家、鑑定家などの間では、この作品がジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房から生まれたものであることには異論は全くないようだ。しかし、作品が全てラ・トゥールひとりの筆で制作されたかについては、専門家の間で全員一致の判定とはいかないようだ。その理由の一つとして、画家の署名がないことが挙げられている。この画家の作品には、全て署名が残されているわけではないことが知られている。署名をしなくとも、ラ・トゥールの制作であることが当時は関係者の間では自明だったのかもしれない。

このアメリカにある《マグダラのマリア》(個人蔵)の構図は、シリーズの最後の一点ではないかとも言われてきた。焔で書籍のページが捲れていること、光源がこのたび新しく発見された作品では完全に隠されていて、一層の工夫がみられることなど、顕著な注目すべき点がある。そうであるとすれば、画家はマグダラのマリア・シリーズが一段落した後に、新たな構想で聖ヤコブの作品制作に向かったのかもしれない。画家はいったい何を考えていたのだろうか。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《頭蓋骨の前のマグダラのマリア》
個人蔵

脳細胞が活性化する作品
現時点では、この新発見の作品が画家ラ・トゥールひとりの手になる完全な真作であるとの鑑定ではなく、ラ・トゥール工房作となっていることはいささか残念だが、画題の発想から、構図、制作のほぼ全てにわたり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの意図が貫徹した作品であることには異論はないようだ。

これまでの人生、この画家に魅せられ、ほとんどの作品に対してきた筆者にとっては、できる限り早い時期に、この作品を日本で観る機会が訪れることを願うばかりだ。当時、この画家が抱いた壮大な意図を含め、これまで考えることのなかった新たな地平への展望が広がる瞠目の1点である。







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苦難の時代(4):対比モデルとしてのラ・トゥール

2022年07月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《(リボンのついた)ヴィエル弾き》
c.1630-1632, プラド美術館、マドリッド

コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻と、世界は急速に危機の状況を深めている。いずれも当初の予想に反し、収束の兆しが見えてこない。危機を生んでいる要因は数多く、21世紀の人類はかつてなく深刻な事態に対決を迫られている。しかし、破壊的で非人道的な戦争が行われている地域からほど遠くない所では、ヴァカンスを楽しむ人々がいる。他方、スイスのルガーノでは、ウクライナ復興へ向けた国際会議が開催されつつある。

人類にとって戦争は業病ともいうべきなのか。絶えることがないばかりか、世界の動きに深く組み込まれてしまっているかのようだ。第3次世界大戦もいつ勃発してもおかしくない。既に戦いは始まっているとの見方もある。

遡って世界史で初めて「危機の世紀」として認識された17世紀前半のヨーロッパ社会も戦火が絶えることなく、市民の生活ばかりでなく画業などの芸術活動も大きな影響を受けていた。

ラ・トゥールという画家にブログ筆者がのめり込み始めた半世紀前、日本では話題としても名前や作品を知る人も少なく、関心の度も低かった。今でこそ、この画家の作品を好む日本人は大幅に増えたが、当時を振り返ると隔世の感がある。

《ヴィエル弾き》という画題
50点余りの作品しか残っていないラ・トゥールの作品の中で、やや特異な一角を占める画題がある。画家が好んで描いた《
ヴィエル弾き》The Hardy-Gurdy Playerと呼ばれる旅の老楽士をモデルとした作品群である。

ラ・トゥールは《ヴィエル弾き》の画題を構想を改めては、様々に描いた。同じ画題を多様に描くことは、ラ・トゥールの特徴でもある。ロレーヌという絶えず様々な不安や危険がつきまとう地では、多くの画題を追い求めることも困難であり、工房にこもって構想を巡らすことが画家としてできることの範囲だったのかもしれない。

描かれたのは、いずれも長い漂泊の旅路を過ごし、疲れ果て年老いた楽士の姿である。多くは目の見えない老人である。しかし、老楽士には疲労の色を超えて毅然とした雰囲気が漂っている。ラ・トゥールはヴィックやリュネヴィルの町を通り過ぎた旅の楽士たちをモデルに制作を続けたのだろう。


リアリズムの精華。ラ・トゥール《リボンのついたヴィエル弾き》部分
この画家は必要なものは徹底的に描いた。

これまでの漂泊の旅路で、楽士たちは幾多の迫害にもあったに違いない。描かれたのは、総じて当時の社会階層としては、低い下層に位置した人たちである。ラ・トゥールは宗教画を別にすれば、自分より上の社会階層の人たちを画題としていない。しかし《ヴィエル弾き》には、いずれの画面にも、凛とした風格、威厳のようなものが漂っている。物質的富とは縁遠いが、それを超越した強靭な精神の持ち主ともいうべきものが感じられる。戦乱、疫病、飢饉、迷信、魔術などに幾重にも縛られた時代、この画題には心の安らぎを感じ、魅了されるものがあったのだろうか。



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
《帽子のあるヴィエル弾き》
A HURDY-GURDY PLAYER, ca.1628-1630
油彩、162 x 105 cm
ナント美術館

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N.B.
代表的な1点を取り上げてみよう。上掲の作品は1810年、ナントの美術館入りをしたが、その前はフランソワ・カコー のコレクションであった。最初はムリリョ、その後は1931年、ラ・トゥール研究者で今や知らない者はいないヘルマン・フォスがラ・トゥールの作品と鑑定するまでは、17世紀のスペインの大画家リベラ、ヴェラスケス、ヘレラ兄、スルバラン、マイノなどの手になるものとされてきた。作品が1764年に発見された当時は、トゥールに近いコメルシーの城の侯爵の自室に架けられていた(Conisbee, 1997, p.63)。ヴィエル弾きが単に当時の社会で下層に置かれていた人々のひとりにすぎないならば、宗教画でもない世俗の楽士を描いたこうした作品が、社会の高い階層の人の身近にあったこと自体、理解に苦しむことでもある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

現代人にとってはこの主題についての画家ラ・トゥール、あるいは17世紀当時の人々の道徳的な立ち位置を正しく理解することは容易なことではない。ヴィエル弾きの置かれた社会的立場についてさらに思索を深めることが必要だろう。

スペイン画壇との水脈
加えて、この主題が上述のようにスペインの画家に帰属されることが多かったこと、その後の作品所蔵についてのスペインの美術館の様々な執着を考える必要があるかもしれない。彼らは、ラ・トゥールのこのジャンルの作品に大きな関心を抱いてきた。

スペインとの関連では、たまたま終了したばかりの『国立スコットランド美術館展』に出展されたベラスケスの作品《卵を料理する老婆》に通じるものがあるとの指摘もなされている(Conisbbee, p.63)



ベラスケス Diego Velázquez(1599-1660)《卵を料理する老婆》
1618年、100.5×119.5cm、国立スコットランド美術館、エディンバラ

ベラスケスは言うまでもなく、17世紀スペイン画壇を代表する画家のひとりだが、才能と環境に恵まれ多くの作品を残した。スペイン王室の家族を描いた多くの肖像画、中でも代表作《ラス・メニーナス》Las Meninas(1656)は、よく知られている。さらに、ここに掲げた《卵を料理する老婆》に代表される初期のボデゴン(bodegones: 厨房の光景を静物画の観点で描く画法)は、そのリアリズムをもって、画壇に大きな影響を与えた。ベラスケスは社会の低層にある人々を制作対象としながらも、老婆を威厳のある人物として描いた。

ヴィエル弾きと老婆と、描かれた対象は異なるが、底に流れるリアリズムは共に瞠目に値する。画面には貧しいが、ある重々しさが漂っている。もっとも、ベラスケスにとっては描く対象は、下層の人たちに限らなかった。当時未だ若かった画家にとってみれば、描けるものは全て対象にすると思っていたのかもしれない。

ちなみに、この作品はベラスケスが18ないしは19歳の頃のものといわれる。 フランシスコ・パチェコ Francisco Pachecoといわれたセビーリャでは取り立てて著名ではない画家の工房で徒弟修業を終えた頃であった。

この作品について、記すべきことは多々あるが、ここでひとまず止めておこう。ただ一つ強調しておくことは、このブログの課題でもある「コンテンポラリーズ」contemporariesの概念と意義である。
この言葉が意味する二つの次元、すなわち

(1) 「事象が起きているのと同じ時期、時代にいる」
(2) 「現代と同じ時期、時代にいるか、起きている」

の意味と重要さをあらためて考え直してみたいということである。今日、私たちが美術館や美術展で目にし、なんとなく理解したように思われる内容は、作品が制作された時代に画家や見る人々が意図したり、受け取ったものと同じだろうか。とりわけ、ラ・トゥールの作品は多くの疑問を私たちに残している。《ヴィエル弾き》への旅もまだ終わりが見えない。



Reference
Philip Conisbee, GEORGES DE LA TOUR AND HIS WORLD, Yale University Press, 1997





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苦難の時代(3): 対比モデルとしてのラ・トゥール

2022年06月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


SIMON VOUET(PARIS 1590-PARIS 1649)
Portrait of Simon de Montfort(about 115-1218)
Between 1632-1635
Oil on canvas, 214 x 134cm
Chateau de  Bourdeilles
帯剣貴族の例



SIMON VOUET(PARIS 1590-PARIS 1649)
Portrait of Gaucher de Chatillon (1250-1326)
Between 1632-1635
Oil on canvas, 218 x 137cm
Paris, Musee du Louvre
法服貴族の例
シモン・ヴーエの肖像画の傑作といわれる。


ラ・トゥールという稀有な画家にとって、自らの運命を定めた人生の決定的転機がいくつかあったと考えられる。史料その他からの情報で判断する限り、最も重要な意味を持つものは、1617年、貴族の娘ディアヌ・ル・ネールとの結婚であったのではないか(1617年7月2日結婚契約書、ヴィック)。これによってパン屋の息子ジョルジュは身分制度の階梯を上り、有名画家としてその後の社会的成功に大きな一歩を進める足がかりを得た。

1593年の誕生以来、この時までのジョルジュの画家としての修業過程は、史料の上ではほとんど空白といってよい。しかし、ジョルジュはすでに画家として多くの人が認める芸術的成果を残していたことはほぼ確実とみられる。それなしには、この結婚自体が成立しなかったであろう。残念なことは、この時点でラ・トゥールがいかなる作品を残していたかが、作品年次あるいは史料の上でもほとんど確定できないことである。

身分制の壁を乗り越える
この結婚はアンシャン・レジーム下、貴族(第2身分)と平民(第3身分)という異なった社会身分の間での結婚であった。当時、この身分制度は必ずしも固定的なものではなく、裕福な第三身分は 売官制によって貴族の身分を買うこともあった。「 法服貴族」といわれる。他方、世襲的な 「帯剣貴族」 の中には没落するものも現れていた。

帯剣貴族と法服貴族
帯剣貴族は中世以来の封建(武家)貴族。法服貴族は官職売買制度を通じて司法・財政の官職を獲得し、高等法院などの高級官職につくことで貴族身分に叙された新興貴族。富裕なブルジョアは没落貴族から所領を買って領主となり、高等法院などの高級官職につくことなどを通して、貴族身分に入り込んだ場合もあった。両者の間には時に争いも生じた。


ロレーヌ公国はフランス文化圏に入り、フランスの法体系などを取り入れ、踏襲していた。小国であったため、ロレーヌ公の裁量が働く余地は大きかったと思われる。ちなみに、ディアヌ・ル・ネールの父親はロレーヌ公の財務官の役を果たしていた。法服貴族の範疇に入ると考えられる。

ジョルジュは父親がヴィックのパン屋という平民の身分(第3身分)に属していたが、ヴィックの町での交友関係や粉屋との取引額などから町ではかなり知られた人物で、生活面では比較的裕福であったと推定されている。それでもリュネヴィルでは貴族(第2身分)のディアヌ・ル・ネールの家族との間には厳しい身分制度の障壁が存在した。

ネールの両親がこの結婚に必ずしも同意していなかったのではないかとの推測も成立しうる由縁でもある。

見逃せない代官の先見性
しかし、この難しい状況にあって、こうした懸念を払拭する役割を果たした人物がいた。以前に記したヴィックの代官ランベルヴィエールである。断片的史料から推定しうることは、代官はジョルジュという若者の隠れた芸術的資質を早くから認め、パン屋の父親を説得し、画業修業の道を推薦し、さらには作品の購入まで知人に勧めている。音楽、美術などの隠れた才能を秘めた若者のための活動機会を様々に提供していたようだ。ためらうディアヌの両親を説得し、なんとかジョルジュとの結婚を成立させたのも、ランベルヴィエールの尽力なしにはできなかったろう。ラ・トゥールの画家としての生涯を語るに際して、この人物の役割は欠かすことのできない重みを持つ。

ラ・トゥール家とランヴェルヴィエール家の関係も強まったようだ。一つの例として、1629年にはランヴェルヴィエールの息子とラ・トゥールのいとこが結婚し、リュネヴィルに住んだ事実がある。

ジョルジュは結婚後ほぼ2年間、この地域の慣行として生地ヴィックの両親の家で過ごした後、ネールの生地であるリュネヴィルに移住し、画家としての活動を開始する。この時1620年、ロレーヌ公アンリ2世に宛てて、貴族の身分の女性と結婚したこと、そして絵画の技術それ自体が高貴であることを理由に、すべての税金の免除と社会的特権を認めてほしい旨の請願書を提出し、同年7月10日に認められている。

ジョルジュとディアヌの間には、1619〜1636年の間に10人の子供が生まれた。男女それぞれ5人ずつだった。

画家は高貴な仕事
この時に認められた貴族的特権がラ・トゥールのその後の人生において、決定的に重要な意味を持つものとなった。この請願で重要なことは、自らが身につけた絵画の技能自体が高貴なものであるとの主張にある。これは、既にそれまでに、
Deruet, Le ClercCallot などに与えられた待遇と同等のものを意味すると考えられ、ロレーヌ公国がこの地域で他に先駆けて絵画と画家という仕事の地位の高貴さを認めたという意味で特記すべきものであった。

1620年代はロレーヌにとって数少ない繁栄の時であり、文化的にも興隆していた。1630年代に入ると、疫病が大流行し始める。

広くはフランス文化圏にありながら、相対的な自立を確保したいと考えていたロレーヌ公としては、芸術の「高貴性」を称揚することで公国の規範の一端としたいと考えたのかもしれない。ジョルジュは、それを先取りして示すことで、パン屋の息子と貴族の娘との結婚という他力的な要素を希薄化し、請願の中核としたいと考えたのだろう。

リュネヴィルには幸い他の町のように競争相手となる画家もいなかったこともあって、請願は受け入れられた。この請願内容にも恐らくランベルヴィエールの強いアドヴァイスがあったものと思われる。

ラ・トゥールとしては、この特権付与は何よりも望んでいたことであり、その後の画家生活のあちこちで主張されることになった。その結果は様々な衝突、軋轢を引き起こすが、ラ・トゥールにとっては安易に妥協することは、自らが獲得した貴族的地位と特権を放棄することになり、絶対譲れなかった一線であったと考えられる。対応がしばしば横暴、強引なものとして感じられたのも、ある程度仕方がなかったのだろう。

記録の上では、リュネヴィルに移住した後、ジョルジュ夫妻は頻繁に結婚などの証人、子供の誕生に際しての代父母などの役を積極的に務めている。このことはラ・トゥール夫妻が地域などでの人的交流の強化に極めて熱心だったことを示している。

平民が貴族になる方法
アンシャンレジームの下で、ジョルジュの場合のように身分制の壁を越えて貴族となる道は固く閉ざされてきた。しかし、可能性が全くなかったわけではない。売官制のような抜け道は存在した。さらに、現代のように出自などの情報が入手できるような環境がなかったことなどもあって、ひとたび確保した貴族の称号、特権の内容などを客観的に確認することは困難であったと推定できる。そのため、貴族の僭称、誇示などもあったようだ。そうした混迷した状況 (1642年のある事件)を背景とした次の如き小説も存在する。あくまで小説であり、どこまでが当時の事実に基づくものであり、逆に事実ではないかは明らかではないが、17世紀のフランス革命当時の奇想天外な展開が描かれている。他の史料などと併せ考えると、フランスの貴族社会にはかなりの乱脈、混迷した状況が展開していたことが分かる。

ペルッツの小説『テュルリュパン』は、30年戦争(1618~1648)の時代背景の下、宰相リシュリューの大陰謀が渦巻く中、町中の床屋テュルリュパンがいかにして貴族として登場、活躍するかが描かれている。ラ・トゥールと同時代である。小説では、この時代の底流に存在した貴族なる身分の怪しげな実態が巧みに描き出されている。どこまでが事実で、どこからが虚構なのか、判然としないほど渾然一体として、一気に読ませるものがある。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合は、パン屋の息子が画家として実績を示し、貴族の娘と結婚することによって、貴族的特権を獲得する実際の話だが、この小説では、町中の床屋が貴族の座に至るまでの信じ難いほどの変転の過程が描かれている。歴史小説なので、虚構なのか事実なのか不明だが、読むほどに魅了される展開である。これは、もう一つのフランス革命といわれる次元の話である。事実、フランス革命には教科書には記されていないような雑然とし無秩序な世界があったことが知られている。

ジョルジュやエティエンヌが各所で見せた貴族的特権への執着は、当時の下級の法服貴族などにしばしば見られた行動でもあった。とりわけ、父親のように画家として生きてゆくだけの技量を持ち得なかったエティエンヌにとってみれば、ロレーヌ公の覚えめでたく一代限りでも貴族として生きることを選択したのは当然であったといえる。




レオ・ペルッツ(垂野創一郎訳)『テュルリュパン:ある運命の話』ちくま文庫、筑摩書房、2022年(Leo Perutz, TURLUPIN, 1924)

Reference
JACQUES THUILLIER, GEORDES DE LA TOUR, Flammarion, 1993, 1997
RICHELIEU: ART AND POWER, Edited by Hilliard Todd Goldfarb
Montreal Museum of Fine Arts. 2003

続く
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​苦難の時代:対比モデルとしてのラ・トゥール(2)

2022年06月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:天才〜忘却と再生』
ラ・トゥール没後の「忘却と再発見」の過程を追ったビデオ
GEORGES DE LA TOUR: GENIUS LOST AND FOUND, WITH THE PARTICIPATION OF EDWIN MULLINS, HOME VISION ARTS, 1998


ある日突然、隣国の軍隊が突如侵攻してきて、略奪、殺戮などのかぎりを尽くす。ロシア軍のウクライナ侵攻の話ではない。1638 年、フランス軍がロレーヌ公国リュネヴィルを略奪し、ラ・トゥールの工房も破壊され、市内各所にあったと思われる絵画作品などが焼失、逸失した出来事である。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはこうした時代環境に生きていた(ロレーヌ公国は現代のフランス北東部に相当し、フランス王国と神聖ローマ帝国に挟まれた小国、縁辺国家であり、大国の利害にいつも翻弄されていた)。

ラ・トゥールは、今日では17世紀フランス絵画界を代表する大画家だが、現代に継承された作品に込められた深い精神性の反面、史料の断片に残る画家の私生活、特に粗暴な行動の間には、しばしば理解し難い断絶があるように語られることが多かった。

とりわけヴィックという小さな町のパン屋に生まれた画家が歴史の闇の中から突如姿を現し、リュネヴィルの貴族の娘ディアヌ・ル・ネールと結婚した後の史料に残る貴族的特権を盾にしたかに見える行動、そして1652年、画家没後以降の美術史における急速な忘却など多くの謎めいた部分もあり、さまざまな推測、話題を提供してきた。

近年、やや人気が過剰に見える同時代の画家フェルメールにしても、没後は長い間忘れられていた。この時代、ヨーロッパの画家で生年、修業の場所、没年などの基本データが正確に知りうるのは極めて少ない。名前さえ残っていない画家の方がはるかに多い。

ラ・トゥールが生きた17世紀、ロレーヌという地域はヨーロッパでも特に激変の波にさらされていた。この時代、画家が自らを語った自伝や論評、自画像などがほとんど存在しないだけに、美術史家などの努力は歴史の闇に深く埋もれてきた古文書などを丹念に調べ、脈絡を見出すパズルのような作業が中心になってきた。今日までに発見、継承されている作品は数少なく、これから発見される可能性もあまりない。





ラ・トゥール誕生、洗礼の銘板、ヴィック サン・マルタン教会(上)
17世紀の面影を残すヴィック・シュル・セイユの街並み
Photo:YK

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N.B.
この時代、古文書などの史料は全て手書きであり、時代の激動に史料や作品の散逸などが起きた過程で、埃などで紙質やインクが劣化し、古色騒然とした文書を読み、画家や作品に関連すると思われる記述を探し出し、背後の事情を類推するという気の遠くなるような作業である。ラ・トゥールの場合、特に同時代の自伝、作品論評と言ったものは一切期待できない。前回記したように1863年までは、修道士ドン・カルメによってロレーヌに残る Bibliotheque Lorraine(1751)に記された11行の文章しか見当たらなかった。その後アレクサンドル・ジョリ が初めてリュネヴィルに残る史料から画家の名前を確認した。言葉の真の意味でラ・トゥールの「発見者」といえる。その後、少しずつ歴史の霧の中から画家の作品、過ごした人生の輪郭がおぼろげながら浮かんできた。史料や作品が豊富に活用できるネーデルラントの画家の世界とは対照的である。そして前回にも簡単に記したように、1915年のフォスの作品発見、帰属確認以降、少しづつ画家と作品が我々の目前に示されるようになってきた。

Hermann Voss のイメージ
Source: Cuzin et Salmon (p.15)
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こうした史料の在処は、大別すると画家の生誕の地ヴィック、結婚後、工房を置いたリュネヴィルの古文書保蔵館、司教区関連の文書が保管されているメッスの古文書館、地域の公証人関連史料や過去の司教区のリュネヴィル関連史料が保管されているナンシーの古文書保管所、さらにフランス王の決定に関連する事項、公証人関連史料などはパリの古文書館などに広く散在している。

ナンシーの尖塔  Photo:yk

しかし、多くの文書は現代とは異なり、それぞれの領域で関係者が手書きで記したものであり、古文書専門家が読解に多大な努力を傾注しても、記載された事実と論理まで読み切ることは至難のようだ。

ラ・トゥールの偉大な研究者であったパリゼ Francois-Georges-Parisetは、関連史料の発掘に多大な貢献をしたが、こうした優れた研究者ですら史料の誤読から自由ではなかったとされている。 Thuillier(1993, 1997)に収録されている史料 documentary sources についても、そうした難しさが指摘されている。言い換えると、数行の短い記述が何を意味しているか、専門家といえども読みきれないものが多々残されている(Thuillier 1997, p.242)。今に残るラ・トゥールの数少ない自筆の文書などは、手書きの筆跡も美しく論理的に書かれているが、各所に散在する公文書の手書き文字の断片などは、相当経験を積んだ研究者といえど、読みこなすのは難しい。

ブログ筆者は、かつて友人(社会経済史家、ドイツ人)の古文書探索に同行したことがあったが、文書館の膨大で複雑な収納・整理体系を理解して、目的の文書にたどりつくまででも、大変な労力と推理が必要なことを痛感させられた。

それでもラ・トゥールに関する史料や作品の発掘は、こうした幾多の困難にもかかわらず着実に進捗してきたようだ。筆者がこの画家に魅せられた半世紀ほど前と比較すると、格段の進歩が見られたと思われる。

今回紹介するのは、これまでの画家と作品の発見のプロセスを、レポーターがルポルタージュのように現地で追跡した記録ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:天才 忘却と再生と題した貴重なビデオである。このビデオは画家の没後、人々の眼前から突如消えてしまった画家の名声と作品が、その後20世紀に入り、次々と再発見され、然るべき位置があたえられてきた過程を忠実に画像で追っている。この画家の在りし日の残影を示す記録がいかなる場所に保管され、再発見されて行くかが大変印象深く丁寧に映像化されている。残念なことに、今日、このビデオは市販されていないようであり、著作権の点からも動画の詳細を紹介することはできない。ラ・トゥールへの関心が再び高まる中で、再版されることを望みたい。(なお、このビデオは、下掲の解説書ジャン=ピエール・キュザン ディミトリ・サルモン『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』と対をなすような関係で、両者を併せ見ると大変興味深い)。


この地域のワインのラベル

References
Jacques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, Flammarion, 1993, 1997

Jean-Pierre Cuzin, Dimitri Salmon, Georges de La Tour; Histoire d`une redecouverte, DECIUVERTES GALLIMARD,1997(邦訳:ジャン=ピエール・キュザン ディミトリ・サルモン訳 高橋明也監修 遠藤ゆかり訳『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』創元社、2005年)


GEORGES DE LA TOUR: GENIUS LOST AND FOUND, WITH THE PARTICIPATION OF EDWIN MULLINS, HOME VISION ARTS, 1998

続く

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苦難の時代:対比モデルとしてのラ・トゥール(1)

2022年05月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


1972年「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展(パリ、オランジェリー)カタログ表紙
この頃のカタログは、258ページ中、カラー(色刷り)は5枚程度であった。
Photo:YK 

この小さなブログを訪れてくださる方の中には、ブログ筆者の17世紀のヨーロッパ世界、とりわけジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)という画家への関心が半世紀以上続くものであることをご存知である方もおられる。生来美術好きではあったが、この画家については、およそ50年前の1972年、パリのオランジェリーで開催された特別展を観たことが、今日まで続く関心のひとつの契機となっている。いつの間にか、身辺にブログを含め多数のメモや資料が累積することにもなった。美術史専攻の方でも知らないことが多いと言われ、セミナーなどでアドホックな話をする機会はかなりの回数になった。フリークの例に違わず記すべきことは山積しているが、ブログ終幕の時も近づいてきた。ブログを開設した頃は、かなり多忙で鉛筆書きの原稿を入力してもらったりしていたので、今読み返すと説明不足や入力ミスもある。しかし、ほとんどは入力当時のままに残してある。

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*1972年展カタログ及び説明資料
Georges de La Tour
ORANGERIE DES TUILERIES
15 mai -25 septembre 1972

CHRONIQUE DE LA CURIOSITE
L’EXPOSITION DE GEORGES DE LA TOUR
Extrait de la Revue du Maine, t.LII, n.107, 1972
このほか、Le Monde紙文芸欄などを含め、かなり多くの論評が残っている。
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前回取り上げたルーベンスと比較すると、ラ・トゥールの作品数は対極的ともいえるほどに少なく、今日に残る歴史的記録も限られている。同じ17世紀ヨーロッパといっても、北方フランドルとロレーヌとの地域格差は極めて大きく、なかでもその文化的格差は隔絶といってよいほどだった。

パン屋の息子から画家・貴族へ
ラ・トゥールは、ルーベンスと比較すると、出自が大きく異なっていた。パン屋の次男に生まれたジョルジュは、画家を志して修業し、1617年貴族の娘ディアヌ・ル・ネールと結婚、1620年にはロレーヌ公アンリII世に貴族的特権の請願を行い、認められている。しかし、ラ・トゥールが誰の工房で画業の修業をしたかは、推定の域を出ない。

1593年の誕生洗礼記録以降、確実な記録が発見されるのは1616年、ラ・トゥールがヴィックで代父を務めた事実である。23歳の時であった。そして翌年1617年、24歳の時にリュネヴィルの貴族(ロレーヌ公財務官)の娘ディアヌ・ル・ネールとの結婚契約書が残っている。

パン屋の次男が画家を志し、天賦の才を開花させ、貴族の娘との結婚で自ら貴族ともなり、特権を得て、さらにはフランス王、ロレーヌ公の画家にまでなるという「成功物語」、そして死後は忘却され、20世紀初頭に再発見されるというミステリーまがいのストーリーが一般化している。しかし、画家が残した作品はそうしたイメージとは遠く、リアリズムに徹し、深い精神性を秘めている。

画家をめぐる風説と作品の間に残る深い間隙は、時の経過と共に拡大し、多くのミステリーを生むことになった。画家が生存、活動していた頃は、これほど大きな隔絶は存在しなかったはずだ。同時代の識者や愛好家なら画家と作品のつながりをもっと冷静に把握できたろう。

最初の画業修業はどこ
単に狭い意味での史料に視野を限定している限り、間隙は狭まることはない。美術史家やコレクターなどが新たな史料や作品の発掘に努めてきたが、次第に大きな発見が生まれる可能性は少なくなっている。この時代の多くの画家は、作品の特定も難しく、生涯の記録史料もほとんど残っていない。

たとえば、ラ・トゥールに手ほどきをしたと思われるヴィックのドゴス親方(Claude Dogoz , 1570-1633)にしても、名前だけは残っていても、作品は発見されていない。工房は小さく一度に一人の徒弟しか受け入れできなかったことが判明しており、住み込み徒弟の名前もジョルジュではなかったことも史料上で確認できる。二桁の徒弟や職人がいたローマやアントワープのルーベンス工房とは大きな違いである。

それでも、ヴィックの町を訪れてみると、通い徒弟として手ほどきを受けることは十分可能であったと思われる。史料上の確認はできないが、当時の状況からラ・トゥールが最初の画業の修業をしたのはドゴス親方の下ではないかと考えられる蓋然性はきわめて高い。しかし、その後の遍歴時代はいまだに謎のままだ。ドゴス親方だけでは、ラ・トゥールの秘めたる才能を開花させるには十分ではなかったこともほぼ推定されている。

両親は反対だったか
ラ・トゥールの結婚にもミステリーは残る。ディアヌ・ル・ネールの両親は結婚に不本意だったのかもしれない。1617年の結婚証明書の記録には名前は見当たらず、さらに翌年にはジョルジュとネールの実父は死去している。


1617, 2 July:Georges marriage contract (Vic) Metz, Archives de la Mosselle, 3 E.8176. fol 238-239)。Jacques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, 1993, pp.245-246

花嫁の持参金(dowry)も、(両親ではなく)彼女を大変可愛がっていたと思われる資産家の叔母からの贈り物として500フラン、2頭の乳牛と1頭の若い雌牛、若干の衣類と家具類だった。両親には12人の子供があったので、ネールに特別なことはできなかったのかもしれない。それにしても、当時の慣行からするとかなり異例である。

画家という職人階層のジョルジュと貴族の娘との結婚というのは、当時でも稀ではあった。後年、ラ・トゥールの息子エティエンヌが親の名声にもあやかって貴族になった後、画家であることをやめたのは、貴族でいることの方が明らかに社会的に恵まれ、多くの点で優位に立つ階層であったことからほぼ明らかだ。エティエンヌも父親ほどの才能はなくとも、平均的な画家としての人生を送ることも可能であったはずなのに、父親の死後、画業を放棄したようだ。

この時代、さまざまな策略を図り貴族となり、その後その地位を次世代へ継承するよう陰に陽に動いた貴族の話は多い。

ラ・トゥールを歴史の闇から救い出し、存在と作品帰属を明らかにしたことは、史料発掘に多大な努力を傾注してきた「美術史家の勝利」であることは間違いない。しかし、画家が世を去って400年近い年月が経過すると、幸運に発見される断片的な史料、作品だけに依存することは、限界が見えてくる。

画家が生きた時代に立ち戻り、より広い社会的・文化的風土の中で理解を深める必要がある。このブログも第一義的には筆者の物忘れ防止のためたが、小さな覚書を意図してきた。

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ラ・トゥールの作品発見略史

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家に関する研究・発見史については、Cuzin, Jean-Pierre et Salmon, Dimitri,. de La Tour. Histoire d'une redecouverte, 1997、(ジャン=ピエール・キュザン、ディミトリ・サルモン、高橋明也監修・ 遠藤ゆかり訳、『ジョルジュ・ ド・ ラ・トゥール』2005年)が興味深く語っている。一見すると、小著であるが、内容は充実している。しかし、この後も新たな作品、史実の発見は細々としてはいるが絶えることなく続いている。

 美術史上では、この画家と作品の一部が初めて〈発見された〉のは、第一次大戦中の1915年であった。当時はフランスの敵国であったドイツの美術史家ヘルマン・フォス(Hermann Voss 1884~1969)が、ラ・ トゥール研究史上、画期的となったひとつの論文を( ARCHIV FUR KUNSTGESCHICHTE, 1915)に発表した。

 彼は、そこでナント(フランス西部の都市)の美術館にあった作品(《聖ペテロの否認》および《聖ヨセフの夢》(《若い娘に起こされる眠った老人》の2点と、レンヌにあった《生誕》のあわせて3点、そして版画《夜に集う女たち》を、画家の名は確定できないままに、関連づけていた。フォスはこの時点でこの画家がイタリア、カラヴァジョ派の画家やオランダの画家ホントホルスト一派の影響を受けている可能性まで示唆していた。名実共にラ・ トゥール再発見の画期的な成果だった(Tuillier 1993, p.9)。

 画家ラ・ トゥールは、1652年、現在のフランス北東部にあるリュネヴィルで死去しているが、その後2世紀半の間、名前も作品もほとんど完全に忘れ去られていた(実際には、1751年のベネディクト派修道士ドン・オーギュスタン・カルメの記載や他の画家への作品帰属の誤りなどがあり、完全に忘却されていたわけではない。)

しかし、美術史上の劇的な発見といわれるフォスの貢献によってライプチッヒ(フォスの論文刊行の地)でラ・トゥールは「再生」したとまでいわれている。それまでの間、画家と作品は美術史の闇に埋もれていたのだ。実際には、このフォスの論文もその情報が、当時のルーヴルの学芸員ルイ・ドモン(1882~1954)に伝わり、論文に登場したのは1922年のことであった。いずれにせよ、ジョルジュ・ド・ラ・ トゥールの発見史は、1915年から出発する。 

しかし、フォスの発見もそれに先立つ地道な記録発見に支えられていたことにも留意しておくべきだろう。1863年にリュネヴィルの建築家アレクサンドル・ジョリーが「画家ドゥ・メニール・ラ・トゥール』なる論文を発表した。ジョリーは、カルメ師以来、「クロード」とされてきたラ・トゥールの名前が正しくは「ジョルジュ」であると述べていた。さらにラ・トゥールの生地はリュネヴィルではないとし、生年も16世紀末頃と推定していた。ジョリーは、ラ・トゥールの息子エティエンヌの洗礼証書、ジョルジュと妻ディアヌの間に9人の子供がいたことを示す記録など、後年のラ・ トゥール研究にきわめて重要ないくつかの文書の存在を指摘していた。さらに、ラ・トゥールが生前に「有名な画家」と呼ばれていたことなども明らかにしていた(Cuzin et Salmon, 1997, Ch.1)。かくして、ヘルマン・ フォスの発見以来、かなり長い屈折した経緯の後、それまで闇に秘められていた作品が各地で次々と発見された。多くの美術史家たちの努力によって、画家の生涯に関わる古文書記録なども、断片的ながらも発見された。その過程は、あたかもミステリー小説を思わせるさまざまなエピソードに彩られている。

続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(7)

2022年04月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Laura Martines, FURIES:WAR IN  EUROPE 1450−1700, New York, Bloomsbury Press, 2013.
ローラ・マルティネス『凶暴 戦争:ヨーロッパの戦争 1450–1700』

戦争は狂気、凶暴を生む

ロシアのウクライナ侵攻が今日のような惨憺たる事態になると、半年なり1年前に予想した人はいただろうか。今年1月時点でイギリスなどの職業的予想屋などの予想では、「ロシアがウクライナに侵攻する」ことがありそう(likely)としたのは43%だった。侵攻直前の予想の試みだった。結果は「予測できないこと」を「予測しようとしていた」にすぎなかったといえるかもしれない。

それにしても人間はなぜ、かくも争い、残酷な殺戮、戦争をするのだろうか。史上最初の危機の時代といわれる17世紀においても、戦争は異常気象、飢饉やペストなどの悪疫流行などと共に、人口の激減、社会的停滞、貧困などを生み出した大きな要因であった。


「危機」と「繁栄」の混在
こうしたヨーロッパの危機的状況にあっても、北部ネーデルラントや毛織物輸出に支えられたイングランドのように繁栄を享受していた地域もあったが、概してその他の地域はさまざまな危機的状況に襲われていた。17世紀のヨーロッパは、全般としてみれば「危機の世紀」という特徴が色濃かった。




「17世紀の危機」

こうした点からも、同じ17世紀ヨーロッパでも、ラ・トゥールが画業生活を過ごした飢饉、悪疫、戦争が絶え間なかったロレーヌと、繁栄し、レンブラントやフェルメールが創造性を発揮、活動できた市民生活が実現していたネーデルラントとは、環境が全く異なっていた。そうした差異は画家の制作活動を大きく制約するものであり、画家の制作に当たっての思想、生み出された作品も地域の置かれた特徴を反映したものとなった。

戦争のロジスティックス
近世初期、17世紀ヨーロッパは戦争と反乱が絶え間なく起きていた。17世紀で戦争のなかった時期は、わずか4年しかなかったともいわれるように、至る所で大小の戦乱が起きていた。今日判明している主要な戦争、暴動・反乱だけでも40をはるかに越える。動員されて各地を移動する兵力も2千人から4千人近く、彼らが通過する町や村は略奪、殺戮を免れなかった。実際、この時代の軍隊はすでに多くの町や都市の人口にも相当する規模となっていた。

17世紀ヨーロッパの軍隊の移動は、戦場での殺戮にとどまらず、略奪、暴行、飢餓、悪疫などを持ち込んだ。彼らは移動中の食糧などの必需品は原則、こうした町や村で購入調達するというのが、戦時のロジスティックス(兵站)であった。現在展開しているウクライナのロシア軍のように後方基地から輸送して支給するようになったのは後年のことである。

この方法は étapesといわれ、1550年代にフランス軍が始めたものであった。軍は宿営する小さな町村で食糧などの必需品を購入するなどして調達した。しかし、兵士の多くは傭兵であり、盗み、略奪などの行為は頻繁にみられた。


ラ・トゥールが工房を持ったリュネヴィルも1638年秋のフランス軍の徹底した破壊行為で壊滅状態となった。この画家の作品や記録が極めて少ないのは、こうした出来事で作品などの逸失、滅失が深刻であったためと推定される。

ヨーロッパの近世への移行は激動、危機感に満ちていた。

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時間軸を下り、ロシア軍の突然の侵攻がもたらしたウクライナの惨状は、TVやSNSなどメディアの進歩によって眼前に映し出されている。規模においてはもはや第2次世界大戦にも匹敵するとまでいわれるこの戦争は「劇場化」し、臨場感はあるものの、残酷な光景を前に解決の手段を持たない者にとっては焦燥感が募るばかりだ。

ウクライナ紛争では、ロシア軍の侵攻以来わずか5週間で、400万人以上がポーランドなど他の国に避難を求め、さらに数百万人がウクライナ国内で避難を余儀なくさせている。

ロシア軍の侵攻を指揮するプーチン大統領は「裸の王様」といわれながらも、ヒトラーのごとき専横な独裁者として、“ナチ化“したウクライナを攻撃すると主張している。

他方、世界レヴェルではほとんど無名であったウクライナのゼレンスキー大統領は、今や「国民の僕(しもべ)」として、TVスターの座から要塞化した大統領府へと舞台を移している。キーウの奥深く土嚢や対戦車地雷で守られた要塞には「ウクライナ国大統領府」という札が掲げられている。

今やトレードマークとなった黄褐(カーキ)色のシャツ姿で、大統領はインタビューに答える:

「こんなに難しいとは思っていませんでした。私はヒーローではありません」

「あなたがロシア語で尋ねるとき、私はあなたにロシア語で答えます。あなたが英語で尋ねるとき、私はウクライナ語で答えます」

ゼレンスキーは、一人の男がすべてをコントロールすることはできず、またそうすべきではないと信じている。


References:

Laura Martines, FURIES:WAR IN  EUROPE 1450−1700, New York, Bloomsbury Press, 2013.
著者はイタリア、ルネサンスおよび近代初期ヨーロッパを専門とする著名な歴史家。本書は17世紀ヨーロッパの戦争の実態を仔細に分析した好著である。

Interview: Volodymyr Zelensky in his own world, , March 27th 2022 https://www.economist.com/Europe/volodymyr-zelensky-on-why-Ukraine-must-defeat-putin21808448
大変興味深いインタビューだが、The Economistの購読者のみがアクセス可能。

朝日新聞国際報道部 駒木明義・吉田美智子・梅原季哉『プーチンの実像」朝日文庫、2019年
‘Putin’s botched job’ The Economist February 19th-27th 2022
‘Where will he stop?’ The Economist February 26th-March 4th 2022





最近のメトロポリタン美術展(新国立美術館)で急に知られるようになりましたが・・・・・・。

続く

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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(6)

2022年03月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



コロナ禍の行方が未だ定まらない中で突如勃発したウクライナ紛争は、ロシア軍の無差別殺戮の様相を示し、ひとつ対応を謝れば第3次世界大戦へと突入しかねない恐怖感が高まっている。ゼレンスキー大統領のアメリカ議会へのスピーチ(on-line)では、真珠湾攻撃、9.11同時多発テロが言及されていた。同時代人としてふたつ共体験している筆者にとっては、治りきれていない傷を逆撫でされたような思いがした。今日は日本の議会に向けてのスピーチも行われた。大変良く考えられた内容だった。

ロシア軍の侵攻が始まって以来、さらに慄然としたことは、戦争の経過が「劇場化」され、あたかもTVゲームのように報道されていることだ。プーチン、ゼレンスキー、バイデン、習近平などの政治家たちの策略、手持ちの札までが憶測を含めて詳細に報じられ、世界の人々がそれぞれに近未来を推測し、行動している。死傷者の数はあたかも作戦スコアの如き受け取られ方となる。なんともやりきれない思いがする。

上掲のタイトルで記事を書き始めた時には、ロシアの侵攻は始まっていなかった。戦争の手段は人類の未来を断ちかねないほどに恐ろしく発達したが、根底に流れる人間の愚かさはなんというべきだろうか。

ロシア軍が戦況の膠着に苛立って、シリア人傭兵4万人を投入すると伝えられている。かつて読んだ17世紀の30年戦争の光景が思い浮かんだ。常時多数の常設軍を維持できなかった諸侯は、戦乱があると多くの傭兵を雇い、前線に送った。

17世紀、30年戦争小説に見る社会倫理
こうしたTV報道などを見ていると、かつて読んだ17世紀ドイツ・バロック期最大の小説、グリンメルスハウゼン『阿呆物語』に、百姓(農民)や教会のパン竈からパンやベーコンを盗み出した傭兵たちの話があったことを思い出した。この小説は30年戦争を背景としている。バロック小説特有の曲折と面白さが混在していて、ドイツでは多くの専門研究がなされているようだが、今日邦訳で読んでも大変面白く読み通せる。邦訳(望月市恵)は1953年訳なので文体、語彙が現代的ではないが、それがかえって興趣を増す。
30年戦争を直接、間接取り上げている小説はこのブログでも取り上げたように数多いが、『阿呆物語』はその中心的位置にある。

ちなみに、主人公ジンプリチウスは、最初は農村育ちの純真、無知な子供だが、生家が軍隊の略奪にあって森の中に逃げ込み、隠者に会い、読み書き、キリスト教の教えを学ぶ。その後、世俗の世界に出て、軍隊に入ったり、さまざまな経験を経て、自らが隠者になるまでの波瀾万丈な人生を過ごす。ここで取り上げるのは、ジンプリチウスは傭兵の隊長として食糧の缺乏に苦しんだ部下を指揮して、自分は画家(画工)に身をやつし、村に入り込み、教会や村人からパンなどを巧みに盗み出す話である。

現在世界中から大きな関心を集めているロシア軍のウクライナ侵攻においても、食料の補給ルートが途絶えがちなロシア軍兵士が、夜間民家を襲い、じゃがいもやパンを盗み出す行為が報道されている。

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N.B.
第31章「ジムプリチウスは悪魔が司祭のベーコンを盗み、司祭を騒がせたことを語る。」

上掲の章から、その一部を紹介しておこう。主人公の傭兵隊長ジンプリチウスは、戦争の途上、食糧が不足し、部下に教会や百姓(農民)のパン竈を襲わせ、ベーコンやパンを盗み出した。しかし、その後、主人公ジンプリチウスは司祭には100ライヒスタール相当の高価な指輪と共に、次のような手紙を届けている。

以下引用(邦訳のまま):

主任司祭猊下、私は過日森にひそんでいました際に、食糧の欠乏に難儀していませんでしたら、貴䑓の膽を縮み上がらせたりする必要がなかったろうと悔やまれます。温良な貴䑓をお驚かせしたことが全く微生の本意ではなかったことをここに神かけてお誓いするとともに、微生の罪をお宥しいただけることを念じて居ります。
問題のベーコンにつきましては、遅ればせながら代價をお払い申し上げなくてはと考え、拝借しました食糧で餓死を逃れました兵隊一同の供出にかかる同封の指輪を代金がわりとしてお納めいただきたく存じます。これにてご満足いただけましたら幸甚であります。終わりに、貴䑓はいかなる大事に臨まれましても微生を忠實にして誠實な下僕として御想起いただきたく、序でながら微生は貴䑓の教會堂番人殿の眼力に見破られました通り、畫工とは真赤な嘘にて、一部の人々から下名をもって呼ばれている者であります。         猟人敬白

(邦訳:p.293)

滑稽なことに、これに対して後日司祭から丁重な礼状が送られてきた。贈った高価な指輪もどこかの村で略奪してきた代物であることは明白であり、なんとも可笑しい。

さらに、傭兵隊からパン竈を襲われ、パンを全て盗まれた百姓に対しては、部下に代金相当を贈らせている。

パン焼き竈を空にされた百姓には、遊撃隊一同の分捕品の中から黒パン代としてライヒスターレル16枚を届けさせた。・・・(以下略)」(邦訳:p.294)
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いうまでもなく、これは時代風刺を含んだ小説の中の話であり、現実の戦場ではジャック・カロの銅版画に刻まれたような残酷な戦闘、略奪が行われていたのだが、当時の社会倫理の内容、水準が想起されてきわめて興味深い。ロレーヌと地域は異なっても、世俗の状況、パン屋の有様、画工の社会的地位なども推察でき、しばし歴史の時間軸を遡ることができる。歴史上、初めての「危機の世紀」と呼ばれた17世紀の空気を追体験できるかもしれない。


References:
グリンメルスハウゼン(望月市恵訳)『阿呆物語』(上、中、下、全3冊、岩波文庫、1953, 2010 ) (Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen, Der abenteuerliche Simplicissimus, ca 1668,正確な出版年不詳)




続く










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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(5)

2022年03月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラトゥールが洗礼を受けたヴィックのサン・マリアン教会
Photo:YK

ラ・トゥールがどこでいかなる画業修業をしたかは、ほとんど分からない。1593年、ヴィックで誕生、洗礼を受けていることは教会記録に残る。その後、長い空白の後、1616年に23歳の時、ヴィックで洗礼代父を務めた記録が確認された。

この時代、ラ・トゥールに限らず、多くの画家の画業修業の実態はほとんど不明である。ラ・トゥールと同時代の画家ニコラ・プッサン(1594-1665)などの場合も修業の過程は今もってよく分からないままだ。ほとんどの画家たちは歴史に名前すら残っていない。同時代の関連史料の探索、蓄積を充実することで、推理を深めることしかない。

ラ・トゥールについても、これまで多くの美術史家などが探索に尽力してきたが、確たる史料は多くは残っていない。状況証拠の積み重ねのような推理に頼る以外にない。このブログでは、これまであまり指摘されたことのないラ・トゥールの出自、才能の発見、徒弟などの画業修業、画家への支援、貴族への社会階級の上昇の過程などを推理してきた。

これまでの記述とやや重複するが、いくつかの注目点がある。第一は、ジョルジュの画家としての才能が見出された環境である。

ジョルジュの家系
ジョルジュは、父親ジャン・ド・ラ・トゥールと母親シビルの間に次男として生まれた。長男ジャコブは1歳年上である。ジャンの家業はパン屋であったが、ジャンの父親は石工であったことが知られている。石工はきわめて過酷な労働を伴う職業であり、ジャンは父親の仕事を見ながら、少しでも楽に見えたパン屋となる道を選んだのだろう。しかし、
パン屋も実は決して楽な仕事ではなかった

ジョルジュは父親のパン屋の手助けを長男ジャコブと共に続けていたが、幼い頃からパン作りに熱意がなく、持って生まれた絵画への関心に急速に傾斜していたようだ。しかし、それが画家への道を選ばせるほどの才能であることに気づき、画家になるための徒弟修業などに踏み切るには、いくつかの条件が必要だったと思われる。この点は、本ブログでも記したジョン・コンスタブル(1771-1837)の場合を想起させるものがある。次男として生まれたコンスタブルには、長男が家業の製粉業を継ぐことに難があっただけに、父親などから多大な圧力がかかり、ラヴェナムの寄宿学校に入った後でも、悶々とした日々を過ごしたようだ。

パン屋になりたくなかったジョルジュ
 ジョルジュの場合も、家業のパン屋を継ぐことには気が進まなかったようだ。しかし、パン職人になることと画家となることには大きな差異がある。パンは当時から最重要な生活必需品だが、絵画作品は評価が難しく需要が限られていてリスクが大きい。何よりも画家として自立できるだけの才能を本当に持っているか、見定めることは極めて難しい。父親としても容易に肯定し得なかったに違いない。パン屋のことは分かっても、画家の世界などほとんど何も分からなかっただろう。





パン屋の仕事を想起させるイメージ(筆者のランダム選定)
Source:Martine Dalger 2005

ヴィックの町は小さく、教会や修道院などの壁画や祭壇画などの仕事も限られていた。さらに、町にはすでに工房を持ち、活動していた画家がいた。小さな町にはこれ以上画家がいても、仕事が得られるとは期待できなかった。

才能を見出す人
この点で大きな役割を果たしたのは、ヴィックの代官
ランベルヴィエールであったことはほぼ間違いない。自らも細密画などを手がけた教養人であり、何よりも若い埋もれた才能を見出すことに無類の関心を抱いていたようだ。息子がジョルジュと学校で同級であったことも、幸いであったと思われる。代官はジョルジュが画家への修業をするに相応しい親方の紹介、画家として独り立ちした後も知人などに作品の入手を勧めたりしていたようだ。隠れた才能を持った若い人を見出すことの重要さを考えさせる。

ジョルジュが画家を志した時、ヴィックには一人の画家ドゴス親方の工房があった。芸術好きな代官とは交流があったと思われる。実際にジョルジュがドゴスの工房で徒弟修業をしたとの記録は発見されていない。ドゴス親方の手になると思われる作品も残っていない。

 代官は画家を志す幼いジョルジュの思いを受け止め、父親ジャコブを説得し、親方画家を紹介するなどの労もとったことはほぼ確実である。そして、長じてはジョルジュと貴族の娘ネールの結婚の仲介もしている。この年、1614年、ジョルジュ24歳であった。代官はこの時まで天賦の画才を持っていたパン屋の若者の成長を見守っていたのだった。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという後世に輝く大画家を生み出すについて、最大の貢献をした人物であった。


続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる〜光が戻る日まで〜

2022年03月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
ロシアのウクライナ侵攻はどこまで行くのか。
「危機の時代」は次第に未来がなくなっている。
「予測できないこと」を予測しているだけだ。
光が戻る日を祈りながら。



コロナ禍で期待したほど注目を集められなかったミラノ開催ラ・トゥール展から:

GEORGES de LA TOUR Palazzo Reale Milano





世界は本当に明るくなるのだろうか
コロナ禍の中、ブログ筆者は先延ばしになっていた白内障の手術を受ける。片目を終わった段階で、辺りの光景が明るくなったことを感じる。素晴らしいことだが、世界は本当に明るい方向へ進んでいるのだろうか。
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(4)

2022年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ロシアはついにウクライナに侵攻した。ウクライナが大国の間に挟まれた17世紀のロレーヌ公国のように見えてくる。フランス王はロレーヌ公国を神聖ローマ帝国などの外国勢力からパリを守る「緩衝地帯」と考えていた。「緩衝国家」は概して小国が多く、大国の利害の前に翻弄されることが多かった。

度重なる災厄、戦乱の合間、しばし平穏な時を過ごしていた17世紀ロレーヌの世界に戻ってみよう。


ヴィックの中心、ジャンヌ・ダルク広場
Photo:YK

17世紀初頭のヴィック
繁栄の盛期であった1610年時点でみると、ヴィックの人口は5000人くらいであった(2018年時点では約1300人)。同じ時期に19,000人近い人口を誇ったメッスやロレーヌ公国の公都であったナンシーの16,000人に比べれば小さな町だった。城砦で有名なヴェルダンやバールドックなどと比較しても小さかった(Thuillier 2013, p.16)。


今に残る17世紀の町並み
Photo:YK

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
メッス、トゥール、ヴェルダンの3司教区は、古代ローマ帝国に遡る歴史を誇り、神聖ローマ帝国に属した後、13世紀に自由都市として政治的独立と自由を獲得していた。しかし、1552年にフランス王アンリ2世は、メッスをフランスの保護領とし、総督を任命し、守備隊を駐屯させていた。いいかえると、フランス王の統治下に入ったといえる。そこでメッスの司教は、暫定的に自らの行政上の活動拠点をメッスの南東40kmほどの場所にあるヴィックに移すことを考え、この町に司教館を建ててしばしば滞在した。小規模ながら行政官や顧問官なども移り住んでいた。このため、ヴィックは実質的に司教区の中心的役割を負っていた。代官もヴィックに住むようなり、立派な邸宅を構えていた。こうした状況であったから、司教区はロレーヌ公国の版図の中で、フランスの保護領でありながら、宗教面の独立を維持したい司教によって別途統治されるという複雑な関係を維持していた。
 ヴィックの中でも、市長や参事会会員と司教の代行者の間で、しばしば緊張が高まることもあった。より大きな次元では、ロレーヌは強大なフランス王国と神聖ローマ帝国との狭間に置かれた小国ながら、「国」としての強い意識を維持してきた(Thuillier 1994, p.15)。なんとか独立性を保ちたいロレーヌ公国の微妙な立場は、ロレーヌの住民に絶えず困難と強い圧力を加えていた。こうした状況で、ヴィックの住民の宗教あるいは政治的忠誠のあり方は、かなり複雑で緊張感を帯びたものであった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ジョルジュの誕生
 パン屋の夫婦に男の子が生まれた時はヴィックが比較的平静な時期であった。(ジャンとシビルが結婚したのは、1590年12月31日だった)。1592年の長男ジャコブに続いて、1593年3月14日には、ジョルジュが生まれた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが記録に登場した最初であった。

教区洗礼記録が現存する。Parish records, Municipal Archives, Vic., 公的な住民記録がない時代、教会に残るこうした史料はきわめて重要な意味を持った)。

ヴィックの町で、ジャンのパン屋はかなり恵まれた部類だった。なにしろ、パンは人々の生活を支える主食ともいうべき食料であり、店主のジャンは町でもかなり知られた人物になっていた。毎日の仕事はかなり苛酷なものだったが、石工だった父親の仕事よりはずいぶん楽だと、ジャンは考えていた。社会的には平民として中下層の職人だが、パン屋としての自分の仕事に自信と誇りを感じていた。ジャンは市長や市の参事会員などのお歴々ともつき合いがあり、近隣の粉屋と時には大きな取引もしていた。

 次男になるジョルジュが生まれた時、喜んだ夫婦は早速、洗礼を受ける手はずに走り回った。セイユ川は雪解け水で溢れんばかりだったが、木々には緑色の若芽が見え、ロレーヌに春の近いことを思わせた。

ジョルジュが洗礼を受けたサン・マリアン教会内陣
Photo:YK
ラ・トゥールも受けた洗礼盤
Photo:YK


教会入口

教会入口の鏡板 タンパン PHOTO:YK
教科入口上部に刻まれた鏡板 tympanumは、13世紀末から14世紀初期に製作された。この教会の守護聖人であるサン・マリアンの話を刻んだものといわれる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
 1593年3月14日、ジョルジュ・ド・ラ・ トゥール Georges du Mesnil de La Tour はヴィックのサン・マリアン教会で洗礼を受けた(Thuillier 1995,p.15)。今も残る大きな石の洗礼盤だった。洗礼盤の周りには、司祭の他、二人目の息子の父親となるジャン・ド・ラ・ トゥール、母親のシビル・メリアンがいた。代父は日ごろ親しくしている服飾小間物屋のジャン・デ・ヴフで、町の参事会員でもあった。代母はこれも付き合いのあるニコラ・ムニエの妻パントコストに頼んだ。代母の夫は粉挽きを商いとし、セイユ川沿いの水車小屋の持ち主であった。ジャンが日ごろ、パン作りのための小麦やライ麦を挽いてもらっていた。洗礼は生まれた子供の両親ばかりか、教会にとっても重要な行事であった。この時代、出生、結婚、死亡などはすべて教会が関与し、記録していた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


しかし、ジョルジュに関わる史料上の記録は、前回記したように1615年、推定23歳時までは未発見で、空白のままである。この間、ジョルジュはどこにいたのだろう。


ヴィックの町と歴史については、かなり多くの史料が継承されている。Decomps, Gloc et al, 2011, Vic sur seille le chemin de son histoire, 1992, Guide du Touriste a Vic-sur-Seilleなどを参照。

続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(3)

2022年02月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
ヴィック=シュル=セイユの全景
Source:LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE, 2011

画家が生まれ育った環境
17世紀、ラ・トゥールが生まれ育った地ロレーヌは、内部に立ち入るほどさらに複雑な様相を見せていた。843年のヴェルダン条約以来、ロレーヌ公国の領土であったが、1552年フランス王アンリⅡ世がメッス、トゥール、ヴェルダンの司教領を占領していた。ラ・トゥールは1593年、メッス司教領のいわば飛地である小さな町ヴィック=シュル=セイユ に生まれた。その後、1620年頃に妻の実家のあるリュネヴィルへ移住している。ヴィックとリュネヴィルの距離は25kmくらいだ。今日残るわずかな史料から推定されるかぎり、画家は人生のほとんどを両者を含むロレーヌの地で過ごしたと考えられる

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関する史料記録は、1593年にヴィックで誕生した時の洗礼記録以降、1616年ヴィックで洗礼代父を務めたとの記録まで発見されていない。その間、1613年20歳の時、親方としてパリにいたとの記録(本人か否か確認されていない)まで、ラ・トゥールに関する有力史料は発見されていない。ブログ筆者は、ラ・トゥールの徒弟修業、遍歴時代を含めて、周辺状況から徒弟修業はヴィック、ナンシーなど、ロレーヌの地域内で行われたこと、イタリアでの修業、長期にわたる遍歴は考えられないとの仮説を提示している。ナンシーから北方諸国への距離は、ローマへの距離よりはるかに短い。

今日のヴィック=シュル=セイユの地図(主要建物の建造年代別)
17世紀以前の建造物もかなり残っている。
Source: LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE


ゴシックの流れの中で
この画家は美術史上では、しばしばバロックの流れを汲むグループに入れられていることがあるが、作品を見るかぎり、リアリズムに徹したゴシックの伝統を色濃く継承していることが分かる。聖人や天使を描いても、そこには光輪(ハロー)や翼は描かれていない。宗教画のジャンルの聖人も画家の周囲にいたと思われる市井の人々がモデルとされている。こうした画風はいかなる風土の中で形成されたのだろうか。この点を探求するについては、画家の生まれ育った17世紀ロレーヌの政治経済・社会的環境を理解することが」欠かせない。

コンテンポラリーの視点
作品の画面だけを見ていても、この画家の制作に当たっての思索、姿勢を知ることは難しい。広く画家が生まれ育った風土、時代の文化的風潮などを一体として理解することで、初めてその真髄に接近することができる。本ブログは、その方向を目指して、小さな知識を積み重ねてきた。画家に関する史料がきわめて少ないだけに、画家が活躍した時代の環境を出来うるかぎり忠実に再現する努力が欠かせない。筆者が目指してきたコンテンポラリー構想のスタンスである。

N.B.
ラ・トゥールと同時代のローマに代表されるイタリア諸都市、ロレーヌに比較的近かったパリ、あるいは北方諸都市と異なり、ロレーヌは文化的な先進地域ではなかった。しかし、近くのメッス、ナンシーなどは文化交流の拠点として、独自の蓄積を重ねてきた。距離的にもヴィックに近接していた。さらに、ローマなどイタリア主要拠点との距離、旅行や滞在に要する資金、安全性などと比較して、北方諸国への遍歴は相対的に容易であったことなども、ラ・トゥールの画業修業を推定する条件として挙げることができる。

2003年、17世紀フランスのアイコン的な画家となったジョルジュ・ド・ラ・トゥールを記念して、ヴィックにその名を冠した美術館が生まれた。その前後からいくつかの新しい建造物も生まれたが、町のあちこちには17世紀の面影を残す光景が見出される。

ブログ筆者は何度か訪れているが、最初にザールブリュッケンから訪れた時は、時の流れの中に取り残された町のような印象をうけた。近年でも町の様相には大きな変化がないように思える。ヴィックの町はヴィック=シュル=セイユという小さな郡(Le canton)の中心に位置している。町は城壁と城門で守られていた。町は中心に当たるジャンヌ・ダルク広場を中心に、近くにはラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会などもある。ラ・トゥールを記念する美術館も広場に面している。

左奥尖塔はサン・マリアン教会
Photo YK

ヴィックの町を探索してみると、多くの興味深い事実が発見できる。幸いヴィックはリュネヴィルのような戦乱による壊滅的な状況を免れている。かつての貨幣鋳造所は現在町の観光案内所として機能しており、真偽のほどは別として画家の血筋を引くとのパン屋まである。街中には17世紀以来の家屋がほぼそのままに残っている。一部の城門も再構築されてありし日の姿を彷彿とさせる。




現在の観光案内所へ改修前の貨幣鋳造所

今に残る17世紀以来の聖母子像レリーフ
Photo:YK

戦乱・動乱、悪疫、飢饉などが絶えなかった17世紀ロレーヌであったが、ラ・トゥールのロレーヌへの郷土愛はかなり強固なものがあったと推定される。パリなどの文化的にも繁栄していた都市への移住も選ぶことなく、ロレーヌの画家として生きる選択をした画家を惹きつけたものはなんであったのか。

REFERENCES
Clair Decamps et al. LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE, 2011







続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(2)

2022年02月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ウクライナ情勢が緊迫している。ロシアそしてベラルーシの国境付近に演習の名目で集結しているロシア軍は、第二次世界大戦の兵力にほぼ匹敵するともいわれている。ヨーロッパ(NATO加盟諸国)とロシアの間に挟まれ、緊張と危機感に満ちた日々を過ごすウクライナ国民の状況を見ていると、17世紀神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)とフランス王国との間に挟まれた形であったロレーヌ公国の姿が重なり合って見えてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)は、この地に生まれ、生涯のほとんどをここで過ごした。

17世紀、ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌの地政学的状況は、このブログでも再三取り上げてきた。今日のロレーヌはフランスの北東部に位置し、美しい農村、山林地帯が展開する平和な地域だが、17世紀は戦争、悪疫、飢餓などが次々と襲う苦難の地域であった。後世、世界史上初めて「危機の時代」と呼ばれることになった。この時期、世界は小氷河期にあったともいわれる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*N.B.
ロレーヌの名が生まれたのは、843年のヴェルダン条約でフランク王国が3分され、中央部をロタールが支配、ロタール2世の名にちなんで名付けられたロタリンジー(ロートリンゲン) のがその名の起源とされる。ロレーヌ公国は、神聖ローマ帝国とフランス王国の間で独立を保って生きることを選択した。そして、領土内に3司教区(メッス、ヴェルダン、トゥール)を含む複雑な地政学的状況にあった。ロレーヌ公国シャルル4世(ロレーヌ公在位1624-1675)の時代に、ロレーヌ公とフランス王との対立が高まった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

混迷の時代、戦乱、悪疫、飢饉
ラ・トゥールが生まれた土地ヴィックからリュネヴィルに移ってからは、画家としての生活は、年を経るごとに安定し、充実したものとなった。画家の天賦の才は、時代の求めるものをしっかりと受け止め、人々の心に深く響く作品へと結実していった。自宅、工房も整い、徒弟も住み込みで本来あるべき形で画業を続ける環境ができてきた。ラ・ トゥールの心もロレーヌの画家として、この地を活動の拠点とすることに傾いていた。つかの間の安定した画業生活だった。

しかし、背後ではこうした平和で牧歌的、豊かな地というイメージを、根底から揺るがすような大激動の予兆が忍びよっていた。1620年代後半頃から、ロレーヌは、外国の軍隊が町や村々を次々と破壊、蹂躙し、悪疫が流行する困難な時期へ移りつつあった。

最大の災厄は、30年戦争といわれるヨーロッパの広範な地域で展開した戦争であった。ロレーヌもその中に巻き込まれた。この戦争がいかに過酷で深い傷跡をヨーロッパに残したかについては、今日においてもこの戦争を取り上げた数多くの研究書が刊行され続けていることからも分かる。

このブログでも「危機の時代」「悲劇のヨーロッパ」を分析したいくつかの研究を紹介してきた:





戦争と並び劣らず恐れられていたのは突如襲ってくる目に見えない悪疫の流行だった。悪疫の中ではペストが最も恐れられていたが、ロレーヌは何度かこうした災厄に襲われていた。悪疫はしばしば外国の軍隊の進入に伴って、持ち込まれた。軍隊の兵士のほとんどは、傭兵であった。そのため、しばしば「ハンガリー・ペスト」の名で知られていた。1626~27年もロレーヌではペストが流行し、人々の大きな不安と恐れの種となっていた。こうした災厄の犠牲になるのは、ほとんどいつも農村部の農民たちであった。

リュネヴィルの城門にはこの年、ペストのあった町からやってくる者は、入城を禁じるとの布令が出た。布令を記した画家には1フラン6グロスが支払われ、橋の上にはバリケードが築かれた。1631年、リュネヴィルの記録文書が空白になっている時も、町は激しいペストに襲われていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
*N.B.
30年戦争(1618-1648年)
ドイツを中心に続いた戦争。ハプスブルグ対ブルボン王家の敵対とドイツの新旧両教徒の対立を背景に、皇帝の旧教化政策を起因としもてボヘミアに勃発。新教国デンマーク、スエーデン、後には旧教国フランスも参戦。ウエストファリア条約で終了。ロレーヌ公国は戦場となった。ロレーヌの町はスペインやオーストリアのカトリック側に加担し、フランスからの攻撃の対象となった。ロレーヌの町の多くは、皇帝軍とルイ13世の国王軍との争奪戦で完全に破壊された。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
危機の現代を考えるために
ラ・トゥールが残した数少ない作品は、この時代、ローマ、パリなどで活動した画家たちの華やかなバロック風とは全く異なるものだった。イタリアでの修業などの機会が与えられれば、ラ・トゥールにもプッサンなどに代表される壮麗な宮殿画などを制作しうる技量は十分備わっていたと思われる。しかし、この画家は自らが生まれ育ったロレーヌの地で画業を全うする道を選んでいた。その結果はリアリズムに徹した画題に深く沈潜し、同じ主題をさまざまに追求する中で精神性の高い作品を多く生み出すことになった。風俗画の範疇に入る作品にしても、農民の貧しい生活を描いた《豆を食べる人々》などのように、リアリズムに徹していた。この画家の作品は、単に画面に美しく描かれているという次元には止まらない。画家が真に何を描こうとしたのか、カンヴァスの裏面にまで深く立ち入ってみたいという衝動を惹き起こす。

ロレーヌがフランスに併合されて以来、激動の地で画業生活のほとんど全てを過ごしたラ・トゥールは、17世紀フランスを代表する大画家としての地位を不動のものとしている。

現代の世界は、産業革命以降の資本主義展開に伴い、17世紀にヨーロッパ社会が経験したような様々な危機的要因が大きく増幅されてきた。このブログで取り上げてきたラ・トゥール、そして時代を降って、L.S.ラウリーと、全く異なる異なるコンテクストながら、危機の時代における人間のあり方を考える大きな手がかりとなる。

続く





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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(1)

2022年01月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
1972年、ラ・トゥール展文献の一冊から:表紙

このところ、筆者の小さなブログのラ・トゥールに関する記事へのアクセスが急増していることに気がついた。2005 年の国立西洋美術館での企画展の時も同様な現象が起きた。今回の背景には大阪に続き、東京国立新美術館で本年2月9日に開催されるメトロポリタン美術館展の展示作品に、ラ・トゥールの《女占い師》が含まれており、しかも日本初公開というニュースが伝わったことがあるようだ。

この作品に描かれた美女と占い師の老婆の容貌は、一度見たら忘れられない。とりわけ中央に描かれた美女の顔は、その特異な顔立ちからジプシー(今ではロマと呼ばれる)ではなく、ロレーヌの人々の血筋を引いていると見られる。画家の名前は知らなくとも、この顔に見覚えのある人は少なくない。認識度ではモナリザに次ぐともいわれるほどだ。美術史家でもない筆者の仕事場にも、この顔を表紙にした書籍が少なくも10冊以上ある。

半世紀以前の出会い
ブログ筆者が初めてこの作品に出会ったのは、1965年ニューヨークのメトロポリタン美術館であった。半世紀以上前の昔である。《女占い師》はひと目で惹かれた作品ではあったが、他の作品にも目を奪われ、専門も全く異なっていたので、画家や作品について深入りして調べたことはなかった。初めての壮大な美術館に感激して、ニューヨークにいる間、連続して訪れた。

この画家についての印象が転機になったのは、その後1972年パリ、グラン・パレで開催されたラ・トゥールの大企画展であった。たまたま仕事でパリに滞在していた幸運もあったが、この時の強い印象はその後の人生を通して消えることのないものとなった。ラ・トゥールの作品で当時知られていた主要作品のほぼ全てが出展されていた。《女占い師》はルーヴル所蔵の《ダイアのエースを持ついかさま師》と並んで展示され、画家の数少ない「昼の作品」として、大きな注目を集めることになった。


1972年ラ・トゥール展に並ぶ人たち

周到な企画と展示作品の素晴らしさは、目の肥えたフランス人を含め多数の美術愛好者にたちまちアッピールし、当時ほとんど例をみなかった長い行列が生まれた。ひとりの画家の展覧会としては、最大の観客数を記録したと言われる。ラ・トゥールの名は日本では未だ知られていない時代であった。日本の美術史家の中で、この展覧会を訪れた人はきわめて少なかったと思う。筆者は幸いにもそのひとりに入ることができた。時を同じくして刊行された当時は新進気鋭の美術史家田中英道氏の著作からは大きな啓発を受けた。『冬の闇』(新潮社、1972年)は、今でも専門も全く異なる筆者の仕事場の書棚に置かれている。

発見された「現実の画家たち」
いつしかラ・トゥールのフリークとなった筆者は、その後世界で開催された主要企画展はほとんど訪れることになった。ラ・トゥールばかりでなく、プッサン、ル・ナン兄弟など、いわゆる「現実の画家たちを初めて紹介した1934年のオランジェリーでの展覧会をそのままに再現した2006 - 2007年の企画展も観ることができ、この画家のほとんど全ての作品に幾度も接する機会を得た。必然的に知識も増え、その一端がこの覚書きのようなブログを始めた契機となった。

ORANGERIE 入り口 

作品に込められた深い精神性
ラ・トゥールの作品を正しく理解することはそれほど容易ではない。この画家は制作に際して、深い思索に沈潜する時間を過ごしていたとみられる。それも、単にカンヴァス上の美の表現、体裁にとどまらず、人間の本性、精神面に深く立ち入った作品が多い。

これまでのブログ記事から推測できるように、画家が主として画業生活を送った環境は、17世紀ロレーヌという激動、混迷の地域であった。30年戦争に代表される戦乱、悪疫の流行、魔女狩りの横行、飢饉の頻発など、当時の文化の中心であったローマ、パリ、そして北方諸国の繁栄とは大きく異なっていた。

しばしばラ・トゥールと比較されるプッサンあるいはフェルメールと比較して、ラ・トゥールが過ごした環境は、格段に厳しかった。この画家の作品がきわめて少ないのは、戦火など動乱の中で逸失したことが大きな理由とされている。断片的な記録から、ともすれば横暴、強欲な画家と評されることもあるが、家族や使用人への心遣いなど、多大な配慮をしていた記録も残る。

ロレーヌの人々は、突然迫ってくる戦火や悪疫などに絶えず脅かされていた。現にラ・トゥール夫妻は1652年1月に相次いで呼吸器系の感染症(インフルエンザか?)で死亡している。

「危機の時代」を考える手がかりにも
17世紀はさまざまな危機的状況がグローバルな次元で発生した最初といわれる。初期にはヨーロッパに限定されたものと考えられてきたが、すでにグローバルな範囲に拡大していた。その後、人類は第一次、第二次大戦を含め、幾多の危機を経験してきた。

今日、人類はその存亡を賭けての危機に直面している。新型コロナウイルスがもたらしたパンデミック、地球温暖化に伴う異常気象、巨大地震、火山噴火などの勃発、アフガニスタンのタリバン復権、ウクライナ国境の緊迫、AIシンギュラリティに向かって新たな次元での戦争への恐怖など、時代は明らかに危機に満ちている。

危機の内容は異なるが、17世紀、ラ・トゥールという稀有な画家が、何を思いカンヴァスに向かっていたのか。その答えを求めてきたこのブログも終幕が近い。

Reference
ORANGERIE, 1934: LES “PEINTRES DE LA REALITE’  , Exposition au musee de l’Orangerie, Paris, 22 Septembre 2006 - 5 mars 2007.
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17世紀の色(10):《聖セバスティアヌス》は「危機の時代」のお守りになるか

2021年12月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

コロナ禍の再燃が懸念される傍らで、「メトロポリタン美術館展:西洋絵画の500年」が、大阪市立美術館で開催されている。期間は2021年11月13日~2022年1月16日。その後東京へと巡回してくる。マスメディアでも注目作品の紹介などが行われるようになった。筆者にとっても懐かしい作品が多数含まれていて再会が楽しみだ。同館所蔵のラ・トゥール《女占い師》なども出展されるようだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

新聞紹介記事にも、《女占い師》などの解説が取り上げられるようになった。その余波か思いがけず本ブログ関連記事へのアクセスが増えたりしているが、このブログは、半世紀近くラ・トゥール・フリーク?として過ごしてきたブログ筆者の記憶の断片を掲載しているので、今回の展覧会を意図したものでは全くない。
「美の履歴書 724 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 「女占い師」」『朝日新聞』2021年12月7日

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

そこで、今回はラ・トゥールの作品の中でも、最も人気が高かった主題《
聖セバスティアヌス》シリーズに関わる科学分析の成果を少し掘り下げてみたい。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの失われた真作の模作
《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌ》
Attributed to Georges de La Tour
Saint Sebastian Tended by Irene
Oil on canvas, 104.8 x 139.4 cm
Acquired in 1993
Kimbell Art Museum


この画題は、ラ・トゥールの作品の中でも、際立って人気があった。17世紀ロレーヌに蔓延した疫病や戦乱に対する護符(お守り)として、多くの人々が身近に置きたがった作品であった。縦型と横型の二つのヴァージョンが知られているが、とりわけ上掲の横型については今日、少なくも11点のヴァージョンが見出されている。しかし、いずれも専門家の間で一致してラ・トゥールのautograph (自筆)とは認められていない。

1751年にロレーヌの歴史家が2点の作品について記しており、1点はロレーヌのシャルルIV世に、もう1点はフランスのルイXIII世に贈られたとされる。とりわけ後者はルイXIII世が大変なお気に入りとなり、「この作品のために、それまで自分の部屋にあった他の作品をすべて取り除かせた」という逸話が残っている。

キンベル美術館所蔵の作品は真作か
今日世界各地に残る10点の横型のヴァージョンは、その質や状態が大きく異なっている。その中でアメリカのキンベル美術館が所蔵する上掲の作品は、恐らくシャルルIV世に贈られた作品のラ・トゥール自らの手になる模作と考える専門家が多い。このヴァージョンは元来、アメリカのカンサス・シティにあるネルソン・アトキンス美術館が長年画家のオリジナル作品として展示してきた。1993年に現在の所蔵者であるキンベル美術館へ移転している。

しかし、作品は1950年代半ば、劣化を防ぎ作品の状態を安定して維持する目的で、新しい画布に下地ごと移された時に生じた損傷が激しいこともあって、専門家でも鑑識がかなり困難になっている。特に黒色の部分、オリジナルの地塗り部分は修復途上、紙やすりなどで除去されている。

それでも、画家の制作途中の変更、ペンティメント(pentimento; 制作途中の変更の跡の残存)と並び、ラ・トゥールの作業手順の特徴のひとつとして、輪郭を設定する上での準備的な印や刻み目と思われる跡が確認される。最も重要なのは、損傷の少ない部分には画家が使用した絵の具の種類、モデル設定、絵筆使いの跡などが残されていて、ラ・トゥール自らの手になる作品ではないかと思わせる。

1993年、所有がキンベル美術館へ移った時に、この作品のクリーニングと修復作業が行われた。全体の印象は改善した。損傷部分も主として鉛白で補填され、ラ・トゥールの制作手続きと一貫したステップが採用されている。

こうした補修と科学的分析は、前回記したようにさまざまな技術を駆使して、ラ・トゥール作品についても行われてきた。

1960年代後半から、オートラディオグラフィ Autoradiographyといわれる技術を使っての調査が行われるようになったが、この技術はレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》に描かれたモデルの推定のためにも活用され、極めて興味深い成果を挙げている。


キンベル美術館所蔵作品のオートラディオグラフィによる2時間半照射の画像:
主にマンガン分を写像として残している。

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N.B.
今回の「メトロポリタン美術館展」とは直接的関連はないが、NHK・BSプレミアムが「4人のモナリザ~ ”謎の微笑”モデルの真実~」と題した番組を再放送していた。2017年5月17日に放送されていたが、見落としていたので大変興味深く見ることができた。フランスの絵画分析の専門家パスカル・コット氏が、《モナリザ》を2億4千万画素という超高速のデジタルカメラ「マルチスペクトルカメラ』で撮影した分析結果である。照射時間の経過とともに、表面のイメージから順次古い時代の層へと古い画像が映し出される。その結果は我々が目にするモナリザの下層にさらに時代を遡って3人の女性が描かれていたという衝撃的で興味深いものであった。そして表層から2人目の女性こそ真のリザではないかと番組は推測していた。新たな知見を加えた出色の番組であった。
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こうした先端技術を通して作品の分析が行われるのは、今のところダ・ヴィンチやルーベンスのような超有名な画家の作品に限られている。調査費用が極めて高額になるためである。幸いラ・トゥールの場合、画家や作品についての謎が多かったこと、所蔵者がルーヴルやメトロポリタン、キンベルなどの有名美術館であったことなどもあって、こうした先端技術を駆使した分析が可能となった。

しかし、モナリザの場合と比較して、ラ・トゥールの場合、画家は制作に当たって書きなおし、塗り直しなどを極力防ぐため、作品の最終完成のイメージを熟考した上で、絵筆を振るったと思われる。下地塗りの上に直接イメージが描かれたことが多く、他の画家にしばしば見られるような古い作品の上に新しいイメージを描くことが少ない、絵具・顔料の厚みも1層程度で修正などの厚塗りが少ないなどの特徴もあって、最新技術をもってしても、真作と模作の判別などの点で、十分解明できないところも多い。言い換えると、この画家特有の顔料や絵筆使い、修正の少なさと、後世の所蔵者などによる修復の跡などが混在して、真の制作者が誰であるかを確定できないという問題が生まれている。

問われる美術史家の鑑識力

こうした諸点を総合して考えると、キンベル版の《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌ》は、1971年まではオリジナルと考えられてきたが、その後の修復作業などの結果に見る限り、誰もが一致してラ・トゥールの真作として支持するには難点が残ってしまう。結局、最終的判定は、専門家の総合的鑑別、判断次第となる。そこで問われているのは、鑑識力 connoisseurshipだ。半世紀近くの時をこの謎の多い画家の作品や生涯の探索と過ごしてみると、これほど謎が多く見る人の力を試す画家は少ない。作品は長らく見ていても飽きることがない。

時代は異なるが、21世紀という激動の時代に生きる人々に大きな癒しをもたらす画家ではないだろうか。「危機の時代」、コロナ禍に翻弄される人々にとって、《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌ》は、改めて対峙して見るにふさわしい作品だ。

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N.B.
ラ・トゥールの作品制作に際しての特徴:
《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌ》に限らず、現存する作品から推定する限り、ラ・トゥールという画家はひとつの主題を様々な観点から描くという特徴があった。
制作技法について見ると、アメリカの美術館などが所蔵する10作品の調査から判明したことは、作品に使われた画材、顔料はどは17世紀当時のフランスのものとほとんど同じ。カンヴァス枠、画布はほどほどに粗雑で、特に注目すべき特異性、格段の配慮は見られない。
これに対して、技法については画家独自のものが感じられる。特に地塗りには注目すべき点がある:画家はイメージ構想の段階から作品の全体的色調を考えていたと見られる。昼光の下での作品と考えられる「世俗画」といわれる範疇の作品には、白色又は明るい灰色の地塗りを施している。他方、夜の光景を描いた作品(「宗教画」の範疇)については、地塗りは褐色から黒褐色に近い下地になっている。
画家はカンヴァスに直接イメージを描いたと見られるが、インクや乾いた画材などで輪郭を描いていた痕跡は見当たらない。自らが描く対象について、深く考え、制作途上での塗り直しなどの修正は極力しなかったようだ。

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References
Kimbell Art Museum, Handbook of the Collection, Ed. by Timothy Ports, 2003.
Claire Barry, Appendix: La Tour and Autoradiography, Georges de La Tour and His World, Ed. by Philip Conisbee, National Gallery of Art , Yale University Press, 1996

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