時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

フェルメールの帽子(7):見果てぬ夢の果て

2011年08月05日 | フェルメールの本棚


北米5大湖・セントローレンス地域

 

 このブログ記事のいずれも、訪れてくださるほとんどの方には、およそ縁のないテーマだろう。きわめて私的な回想と結びついている。糸口が見つからない繭玉のように、一見混沌とはしているが、本人のどこかでは細い記憶の筋道としてしっかりとつながっている。

 若い頃、修業の時を過ごした北米東北部には、いたるところにヨーロッパから持ち込まれたとは思えない、不思議な地名が数多く目についた。たとえば、オスウェゴ、スケナクタディ、サスケハナ、タドウサック
、チコタミ、カユガ、アディロンダックなど枚挙にいとまがないほどだ。しばらくして、それらがこの地の先住民族(かつてはアメリカ・インディアンとも呼ばれていたが、近年はNative Americanが好まれる)であった人たちに、ゆかりのある地名であることを聞き知った。いつか余裕ができたら、その背景をより深く知りたいと思ってはいたが、忙しさにとりまぎれ果たせなかった。図らずも、ここでとりあげているトピックスは、そのある部分に関わっている。

 新大陸といっても、それはこの地へ、探検家、商人、鉱山師、兵士などさまざまな形で進入してきた外来者にとってのことであった。彼らが出会った先住者たちは侵入者によって次第に片隅に追いやられ、しばしば絶滅し、忘れられていった。侵入者たちが確たる地歩を築いた後に、こうした消えていった民族の在りし日の姿を再現しようとの試みがなされてきたが、時すでに遅く、多くのことが失われていた。先住民族には、彼らなりの壮大な活動、固有の文化の歴史があったのだが、今残るのはそのわずかな部分にしかすぎない。われわれが習う世界史が、いかに征服者の偏狭な視点からの理解に基づいているかを知らされる。 

実らなかったシャンプランの夢 
 
他方、ヨーロッパから大西洋を渡り、到達した新大陸をさらに西へ西へと向かうと、太平洋、そしてあの中国に到達できると探考えた探検家シャンプランの夢は、実ることはなかった。このフランス人は森を抜け、カヌーをあやつり、いつかの日か中国(当時の明朝)に行くことが夢であった。それが果たせなかったことは、シャンプランにとっては、大きな心残りだったろう。しかし、彼とその仲間たちがなしとげたことは、現代人が失っている大きな冒険心に富み、気宇壮大な試みだった。自ら記した探検記も小説などよりはるかに興味深い。

 そして、シャンプラン一行を送り出したフランスは、ルイ13世そしてリシュリューが権勢をふるった時代であった。彼らの世界像が、いかなるものであったのかを想像することは、今日きわめて興味深い。憂鬱な現実、酷暑の日々を忘れさせてくれる内容を含んでいる。

  さらに、やや脇道に逸れるが、今回の東北大震災をほうふつとさせる場所が、この北東カナダ、セントローレンス川流域にある。北米では比較的珍しい地震帯が何本か存在している。モントリオール、オタワ、コーンウオールを含む西ケベックの一帯は、そのひとつだ。1732年の地震では、モントリオールの古いビル街に大きな損傷が発生した。また、1944年の地震では、オンタリオからニューヨークにいたるセントローレンス川流域の両岸地域で、煙突や古い構造物が大きく損傷する事態が発生した。セントローレンス川流域でケベック下流を旅していると、そうした地震で被害を受けた町や村落を記念する墓地や記念碑に出会う。

 

1663年、この地Charlevoisで起きた大地震の被災者記念碑。大きな地滑りが発生し、Les Eboulements(地滑りの意)と名がつけられた村もある。

 

 熾烈な領土争い
 シャンプランの探検の過程では、さまざまなことが起きた。シャンプランの抱いた夢とは全く異なる、きわめて多くの出来事があった。とりわけ、北米大陸での領土と交易を争う国家間の争いは、熾烈なものだった。フランス、イギリス、オランダなどが、自国の威信をかけて、この新領土に橋頭堡を築こうとしていた。そして、そこに先住民たちの争いが加わり、殺伐たる光景が展開していた。その実態は歴史上、格段に残酷なものであったようだ。その状況はビーバー戦争の名で、今日に伝わっている。シャンプランの一行がセントローレンス川、タドウサックに到着した頃には、先住民間の争いも激化していた。このブログで記したように、シャンプランはたちまちその戦闘に巻き込まれた。そして、互いに利用し、利用され、ついには最後の戦いで自らも負傷する経験までしている。

 フランスの場合、1534年探検家ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を立て、国王フランソワ1世の領土であることを宣言した時から、1763年のパリ条約でスペイン、フランスに委譲するまでヌーヴェル・フランスの名で知られる領土として維持した。その盛期ともいえる1712年頃(ユトレヒト条約の前)でみると、フランス領は東はニューファンドランド島から西はロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のニューメキシコまでの広大な領域をカバーしていた。その後、領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナの5植民地に分割された。

 フランスに限ったことではないが、こうした植民・交易活動は、北米、とりわけ東北部の森林地帯に住んでいた先住民の生活基盤を壊滅ともいうべき事態へと追いやった。一時は隆盛を見せた毛皮交易も、乱獲によってビーヴァーやラッコなどの激減を招いた。さらに「ビーヴァー戦争」として知られるフランスの植民地軍と先住民イロコイ族の間の戦争は、部族間の激しい戦闘へと波及した。

新大陸へ持ち込まれた災厄
 残虐で大規模な殺戮もさることながら、ヨーロッパから移住民や兵士が持ち込んだ感染症、悪疫も先住民を危機に陥れた大きな原因となった。特に被害が甚大だったのは、ヒューロン族であり、1630-40年代にかけて猛威をふるい、1640年頃の天然痘は当初25,000人はいたといわれる住民を3分の1にまで減少させてしまった。30年戦争当時のロレーヌをなにやら思い起こさせる。

 ヒューロン族の中には、こうした危機からなんとか逃れたいと、キリスト教宣教師の教えに走った者もいたが、事態を改善するにはいたらなかった。とりわけ、イロコイ族との勢力争いを反転、有利に展開することはできなかった。1641年には、フランス人は先住民には銃を販売しないという考えを改め、改宗者だけに銃の販売をすることに決めたが、勢力関係の反転にはいたらなかった(Brooks 51)。

 最も苦難を経験したヒューロン族は1649-50年の冬の飢饉も加わって多数の同胞を失った。わずかに生き残った部族はヒューロン湖の南端の小さな島クリスチャン・アイランドに逃れ、暮らしたらしい。

 フェルメールの作品に描かれたビーヴァー・ハットが、オランダの下士官の手に届くまでは、実に多くのことが舞台裏で展開していた。後年、大航海時代といわれる、この時代、探検家の夢と野望が世界を広げ、地理学的にも世界周航と交易の拡大で、グローバル化の曙が訪れる時代である。グローバル化とは、世界の各地域に分散している市場が世界的規模で統合される過程と理解するならば、今日に続くその展開のプロセスを新しい視角から見直すことは、きわめて興味深いことになる。

 ヨーロッパに始まる世界周航の試みは、ジャック・カルティエやシャンプランの航海以前に、マゼランなどによって成し遂げられていた。ポルトガル、スペイン、オランダなどは、東を目指して中国に達した。シャンプランの目指した西回りで中国へ達する航路が実現するのは、はるか後のことである。(続く)



 スペイン王カルロス一世の援助を受けたマゼランが、1519年8月にセビリャから出発し、1520年10月に南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して、太平洋を横断し、グアム島、フィリピン諸島などを経て、1522年にセビリャに帰港した。マゼランはフィリピンで住民との争いで死亡した。出発当時は265名の乗組員が5隻に乗船しての試みであったが、部下エルカーノが率いるビクトリア号1隻のみが帰港しえた。帰り得たのはわずかに18名だった。


 

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フェルメールの帽子(6);シャンプランの夢

2011年07月19日 | フェルメールの本棚

David Hackett Fischer. Champlain's Dream. New York; Simon &  Schuster, 2008, 834pp.

 シャンプランの北米探検行に関する最新かつ詳細な研究書。

 

 

 フェルメールの作品のほとんどは、ジャンルとしてみれば当時の風俗画であり、同時代のレンブラントやラ・トゥール、プッサンなと比較して、画家の精神性や思想という点では深みに欠ける。しかし、風俗画であるだけに、そこに描き込まれたものから、別の次元への興味をかき立てるものがある。だが、その面白さは、狭い美術史的次元の枠を飛び出さないと見えてこない。この記事で取り上げてきたBrooksの著書は、まさにそこからスタートしている。ブルックスが述べているように、その新しい世界の入り口に入るための鍵は、フェルメールである必要はまったくなく、別のオランダ画家であってもいっこうにさしつかえないのだ。ましてやビーヴァーの毛皮帽子でなくともよかったのだ。本書をフェルメールについての美術書と思って購入されないよう、老婆心?ながら記しておこう。

 

閑話休題

 

グローバリゼーションの曙

 

探検家シャンプランが北米大陸で目指したのは、当時のヨーロッパでもてはやされていた帽子の材料となるビーヴァーやラッコの毛皮ではなかった。彼の生涯の夢は、あくまでヨーロッパから北米大陸を経由して中国への道、海路を見出すことだった。彼は探検家であったが、元来地図の製図家だった。その技能を生かして、シャンプランは最初の探検航海から、生涯を通して、セントローレンス川、5大湖地帯、そして「ニューフランス」について多くの地図を残した。彼の探検成果は、ルイ13世の統治下、とりわけ宰相リシュリューの植民構想と重なり、それを支える大きな情報基盤となっていた。

 

前回に記したような先住民族との関わり合いや「ニューフランス」の構築は、あくまでその過程でのステップだった。しかし、シャンプランのセントローレンス川探検が企図されたはるか以前から、セントローレンス川を挟んで、先住民の部族間戦争が激化していた。火縄銃という先住民族が見たこともなかった強力な武器を携行していたシャンプランの探検隊は、その闘争に組み込まれて行った。

 

1616年にシャンプランが描いた地図には、初めてヒューロン湖が記されている。彼はこの湖を「甘い水の海」Mer Douce と名付けている。淡水ではなく、どこかで海に続いていると想像したのだろう。実際にはヒューロン湖は現在も淡水湖である。太平洋への強い思いが、こうした命名をさせたのだろう。歴史的に興味深いことは、シャンプランがこの「甘い水の海」の出入り口について、詳細を記していないことだ。もしかすると、フランス王室あるいはシャンプランが、ここが中国へつながる海路へ導くかもしれない可能性を秘めていると思い、秘匿したとも想像される。後代になると判明するように、ハドソン湾からベーリング海峡を通過すれば、太平洋、そして夢に描いた中国への道もないわけではなかった。

 

現在のセントローレンス川、5大湖地帯

 

 

 

 

「海」の存在を知っていた人たち

シャンプラン自身は、5大湖のひとつヒューロン湖へ達することはなかったとみられるが、彼が大きな情報源としていた人物がいる。この地域の交易のエイジェントとして活動していたジャン・ニコレという人物であり、彼はどうやら海域、恐らくハドソン湾の存在を知っていたようだ。ニコレは「森林のクーリエ」と呼ばれており、「ニューフランス」をベースに、セントローレンス川流域の交易について広い情報のネットワークを持っていた。アルゴンキン、ヒューロン族などの社会に深く入り込んだニコレは、シャンプランと先住民族の仲介役として、絶大な働きをしたようだ。先住民族が支配する広大な森林と湖水の地域の中には、ニコルなどの先住民族との交易に携わる毛皮商人、宣教師などだけが知るいくつかの道が通じていた。

 

ニコレはそれまでヨーロッパ人が会ったことのない先住民族で、俗にPuants (Stinkers) 「臭い人」と呼ばれた種族に遭遇している。1633年にシャンプランが地図を公刊した1-2年前に、ニコレはPuants に出会ったようだ。シャンプランは、彼の描いた最後の地図に、Nations of Puants (「Puants の国」)として記している。そして、この種族は「甘い水の海」へ海水が流れ込む地に住んでいるとしている。

 

しかし、この「臭い」Stinkyという翻訳は、アルゴンキン語族が意味していた塩辛い味のする、黒っぽい水の不正確な訳だったようだ。当のStinkersたちは、自分たちのことをOuinipigousと名付けていたらしい。今日ではWinnebagoes 「ウィネバゴ」(正確な発音不明)とまったく違って綴られている。この地に住んでいたこうした先住民族は、恐らく塩辛い水のある地域、海域の存在を知っていたのだろう。このあたりの事情を詮索すると、さらに深入りしたい多くの興味深い問題があるのだが、ここではこれ以上立ち入らない。(関心のある読者は、Champlain自身の航海記、Briggs, Fischer などをひもどかれることをお勧めする。この記事もこうした著作に基づく筆者の覚え書きである)。

 

中国風の衣装

 ここでひとつ興味深いことがある。ニコレはウイネバゴの酋長に招待され、盛大な歓迎を受けたことが分かっている。ニコレを賓客として歓待するために遠く離れた土地からも集まった数千人といわれる部族の人々が集まる宴席がいかに重要な重みを持つことを、ニコレは熟知していた。

 

 彼は、持参している衣装の中で最も立派な衣装を着用して出かけた。それは、中国の花と鳥が美しく刺繍されたローブ(礼服)であった。ヨーロッパの人たちにとっては、まったく未知の原始に近い森林の中を走り回っていたニコレが、こうした豪華な中国産の衣装を持っていたとは思われない。これは、恐らくシャンプランの衣装箱に入っていたものを借用したのだろう。シャンプランは彼の探検行で目的の地、中国に到達することができたならば、中国人(多分役人や宮廷人)に接見できる際に、このローブを着用しようと準備していたのだと思われる。あくまで中国を目指したシャンプランの強い願望に支えられた周到さをうかがうことができる。

 ここで、フェルメールの『地理学者』、『天文学者』のモデルが、いずれも同じ東洋風の衣服をまとっていることを思い出したい。このローブ風のなんとも不思議な衣装は当時のオランダで大変人気のあったもので、かなり高価でもあったようだ。しかし、フェルメールの地理学者、天文学者が着ているローブには、中国風の刺繍などは描かれていないようだ。当時中国から輸入されてきた本物を模してネーデルラントなどで作られたものかもしれない。ガウンともローブともつかない、奇妙な衣装だ。

 

 シャンプランが探検の旅支度の中にわざわざ加え、ニコレが着用したと思われる華麗な刺繍の施された中国服は残念ながら現存していない。しかし、17世紀初期、こうした衣装を入手できた場所は、パリなどきわめて限られた場所だった。ジェスイットの宣教師たちなどが持ち帰り、由来を伝承したのだろう。人々はその美しさに目を見張り、当然とてつもなく高価なものであったと思われる。それを入手し、わざわざ探検行に携えていったシャンプランの心意気が伝わってくる。

 

ローブにこめられた思い 

 フェルメールはともかく、シャンプランにとっては、ビーバーの毛で作った帽子よりも、中国から輸入された、恐らくきわめて高価であったと思われるローブの方が、はるかに貴重で意味があるものだったに違いない。東洋に憧れを抱いた当時の探検家の熱い、そして時代の先を読んだ心の内が伝わってくる思いがする。他方、フランス王室、そして冒険家たちの夢の裏側では、先住民族そして入植したフランス人の間に、取り返しのつかない多くの犠牲が生まれた。潰えた夢の裏側についても、いずれ記す必要があると思っている。現代に続くグローバル化の黎明期に当たる時代の輪郭を知りたい(続く)

 

 

 

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フェルメールの帽子(5):シャンプラン、これが私?

2011年06月30日 | フェルメールの本棚

 

 ーレンス川・5大湖地域を広く探索し、今日のカナダの礎を築いたフランス人探検家サミュエル・ド・シャンプラン。17世紀を代表する有名人のひとりであり、特にフランス、カナダ両国にとってはきわめて重要な歴史上の人物だ。 

 いったい彼はどんな容貌をしていたのだろうか。これまでカナダやフランスの人々が思い浮かべるこの冒険者は、作品によって多少の差異はあるが、大方上記の描画のようなイメージであった。どちらかといえば、卵形の顔であり、探検家らしい精悍な顔だ。髪はカールして長く、大きな目、立派な口ひげ、あごひげを生やしている。

  さらに、世界のさまざまな場所に、シャンプランの探検を記念する銅像、記念碑が多数、建立されてきた。そのいくつかを下に掲げてみた。読者の中にも、これらの像のあるものをご覧になった人がおられるかもしれない。それぞれにイメージはかなり異なっている。いったいどれが真のシャンプランに近いのだろうか。カナダ人の友人に尋ねてみたが、まったく自信がないとの答えだ。

 実は20世紀初め、これらのイメージに疑問が持たれ、実在したシャンプラン像を探索する努力が行われた。それによると、これまでシャンプランと考えられてきた上掲の半身像は誤りで、本人ではないことが判明した。それまでは、17世紀の画家によるシャンプランの肖像画を基に、リトグラフ化されたと考えられ、肖像画自体はフランスの国立文書館が所蔵していると考えられていた。ところが、調査の結果、同文書館はシャンプラン本人と確定できる原画を保有していないことが判明した。さらに、その後の調査で、文書館で見いだされた資料からこの肖像はシャンプランではなく、同時代の別人のものと判定された。さらに、今日、世界に残る版画などのイメージの中には、シャンプランについての伝承を基に、想像で描かれたものもあるようだ。

 それでは、シャンプランの真のイメージを伝える画像は存在しないのだろうか。シャンプランは四回に及ぶ航海を通して、膨大な記録を残している。しかし、彼自身あるいは家族に関する記述は、ほとんどない。さらに同時代人による記述も少ない。他方、この大冒険家・探検家に関心を抱く歴史家、伝記作家は数多く、たとえばカナダにはシャンプラン協会 The Champlain Society なる組織があり、この偉大な冒険者の事績を今日まで継承、伝える役割を果たしてきた。

 シャンプラン協会あるいは研究者の努力の結果、かすかにこの偉大な冒険者・探検家の面影を伝えるのは、なんとあの1609年、シ
ャンプラン湖の戦い描いたシャンプランのスケッチを基に起こされた版画の人物(最下段に当該部分拡大、掲載)の姿のみであることが確認された。というわけで、世界各地に建立された多数の銅像、そして頒布された画像(IT上にも多数存在)のほとんどはシャンプランではないことになる。シャンプランさん、ご感想は? 
 (続く)

 

 

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フェルメールの帽子(4);グローバル化の曙

2011年06月19日 | フェルメールの本棚

VERMEER, Johannes
(b. 1632, Delft, d. 1675, Delft)
A Lady Drinking and a Gentleman
c. 1658
Oil on canvas, 66,3 x 76,5 cm
Staatliche Museen, Berlin

 

 2011年という年が世界史上、画期的な年となることは半年を経過した段階でほぼ見えてきた。しかし、過去の歴史で世界が大きく転換する年であったことを後年まで気がつかなかったことは多々ある。歴史の評価には時の経過を含めて、かなりの熟成が必要であることは少しずつ分かってきた。

 

帽子ひとつから見えてくる世界

  フェルメールの作品と推定されるもので、描かれた人物が帽子を被っている作品はいくつかある。しかし、この画家を専門の研究対象とする美術史家の多くは、帽子は作品に描き込まれた小道具程度にしか考えてこなかった。帽子がどこで作られたかなど、作品の解釈には関係ないと思っている。だが、興味深い世界はそこから開かれるのだ。あの『不思議な国のアリス』で、シルクハットをかぶったウサギが飛び込んだ穴のように。広い世界への入り口は別に帽子でなくてもよいのだが、ブルックは話を面白くするために帽子を選んだのだろう。

 ブルックはフェルメールの作品のビーヴァー帽を被るオランダ軍の士官と思われる若者が後ろ向きに脇役として描かれている背景についても記しているが、文字通り、作品の裏を読むことは多くの新しい事実を明るみに出してくれる。しばらく前まではオランダ独立戦争の主役であった兵士(志願兵や民兵)たちの時代は終わり、舞台は兵士から市民へ、君主制から共和制、カトリックからカルヴィニズム、君主国から市民国家、そして戦争から貿易へと移りつつあった。グローバリゼーションの夜明けでもあった。

 さらに「フェルメールの帽子」というと、どうもあの「赤い帽子の女」を思い出す人が多いようだ。しかし、この作品はこれまでの美術史家などの鑑定では、フェルメールの作品ではないという見方が有力だ。

Girl with a Red Hat, ca. 1672, Washington: National Gallery

 推定の根拠のひとつには、この作品が大変小さく、しかもキャンヴァスではなく、板上に描かれている、雰囲気がフェルメールの他の作品と異なる、などの理由が挙げられている。それ以外にも、最近はフェルメールに近い家族の一員ではないかなど、興味深い研究・推察が行われているが、今回はひとまず措いておこう。この赤い帽子もなかなかの代物なのだ。

帽子は社会階層のアイコン
 
以前のブログに記したように、フェルメールの生きた17世紀オランダあるいはイギリスでは、男女ともに、帽子なしで人目に触れる場に出るということは考えられなかった。帽子はその人がいかなる人物、階層、職業であるかなどを象徴する重要なアイコンだった。とりわけ、作品に描かれた娘と語り合う若い兵士や下士官などにとっては、ファッションや社会的地位を誇示する重要な装身具だった。とりわけ男性にとっては、北米産ビーヴァーの毛皮で作られた帽子をかぶることは、虚栄心も満たす重要な役割を持っていた。美麗に仕立てられ、実用性の点でも防水性に優れ、耐久性も抜群のビーヴァー毛皮の帽子は競って求められた。 毛皮の帽子といっても、ビーヴァーやラッコなどの毛皮の柔らかい内毛だけを丁寧に採取、縮絨、加工して、フェルト化した美しい出来合いだ。当時の絵画などを注意してみると、さまざまなタイプがある。

 王侯、貴族、聖職者、軍人など、それぞれの社会的階層に応じて、デザインの異なる帽子があった。たとえば、イギリス紳士の象徴とされてきた通称山高帽も、材料は、絹、ビロード、タフタ、ウールなどさまざまであったが、最も高価なものはビーヴァー毛皮が使われた。それまで広く着用されてきた羊毛フェルト製の帽子は、最初はエレガントだが、雨に濡れるとたちまち汚れ、変色し、男たちは高価だがしっかりと縮絨加工されている、丈夫な毛皮の帽子を好んだ。ビーヴァー(beaver海狸ともいわれるが狸ではない)は、ねずみ目ビーヴァー科ビーヴァー属の哺乳類でヨーロッパにも生息するが、北米産の毛皮が格段に人気を集めた。フェルメールの家にも、こうした帽子があったと思われるし、実際にも作品に描かれたような男女が出入りしていたのだろう。当時、貿易国として世界各地へ乗り出していったオランダであった。フェルメールやレンブラントの目の前をさまざまな珍しい外国の産物が通り過ぎていた。毛皮の帽子にしても、当時のヨーロッパの国々の支配者や探検家たちが思い描いていた「中国への道」発見の副産物ともいえるものだった。

フランスが目をつけたカナダ
 
西欧の歴史上、最初にカナダを発見したのはイギリスのヘンリー7世が派遣したイタリア人探検家ジョン・カボットと、セントローレンス川を探検したフランス人ジャック・カルティエであるとされている。当時、大西洋を西北に向かえばアジア、とりわけ中国に到達する経路があると信じられていた。イギリスはこの新世界の開拓・領有に食指を動かしていなかったが、フランスは1526年探検家カルティエをしばしばカナダへ派遣し、セントローレンス川流域を探検させた。16世紀半ばには、この地はフランス領となった

 
カナダの植民におけるフランスの活動の詳細については、日本ではあまり知られていない。しかし、リシュリューの時代にフランスが先駆けて新大陸、そして中国への道を模索していた事実は大変興味深く、近年新たな注目が集まっている。筆者ODが記憶の中を探し求めている例の文献には未だ出会えずにいるが、その後それをはるかに上回る内容の研究が行われており、記憶をリフレッシュする意味でも大分充足された気分だ。とりわけシャンプラン自身の旅行手記の出版、そしてピュリツアー賞受賞者の歴史家フィッシャーの大著は、従来のシャンプランおよびカナダ植民史を書き換えたといわれるほど多数の知見に満ちている。

Voyages of Samuel de Champlain 1601-1618. Ed. By J.F. Jameson, of the edition published by Charles Scribners’ Sons, New York, Elibron Classics,2005.an unabridged facsimile

 David Hackett Fischer. Champlains Drream. New York; Simon & Schuster, 2007, pp.834.

 

 さて、毛皮の原料とされたビーヴァーは、当初5大湖周辺の地帯、後には北西部で捕獲され、毛皮商人の手でヨーロッパ、とりわけパリへ持ち込まれた。パリでは主としてユグノー〔プロテスタント〕の帽子職人が1685年の「ナントの勅令」廃止で事実上追放されるまで製作にあたり、製品は国内ばかりでなく、ヨーロッパ諸国へ輸出された。

 1608年、フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、セントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地を創設した。フランスの目的は、インディアンとの毛皮交易の拠点を作ることにあった。とりわけ、ルイ13世の下で、宰相リシュリューはこの新大陸の植民構想に熱心であり、1627年には、ヌーベル・フランス会社を設立し、植民地経営を会社にゆだねた。当時、カトリック教徒以外の者が入植することは禁じられていた。
 
 
ヨーロッパからの探検家などが到達しない以前の北米大陸には、アメリカ・インディアン(ヨーロッパ人が、インド人と考えたことから)と呼ばれるようになった先住民がいた。彼らは実際には多くの種族に分かれていたが、その実態が判明するのは17世紀もかなり過ぎてのことである。実は、シャンプランがセントローレンス川流域の探検を行っていた頃よりはるか以前から、先住民族の語族・部族間には後に「ビーヴァー戦争」の名で知られることになる激しい種族・語族間の戦争が展開していた。シャンプランの探検隊は、たちまちその抗争に巻き込まれ、その力、とりわけ火縄銃の威力を利用されることになる。シャンプランは1608年夏の頃には、セントローレンス北岸のヒューロン族と南のイロコイ族との争いで、ヒューロン族側を支援していた。

 戦闘は、1609730日朝、シャンプレーン湖(後年、シャンプランの探検を記念して命名)のクラウンポイントと呼ばれる地点でイロコイ族と遭遇することで起きた。シャンプランはフランスの探検隊を率いて、イロコイ川(現在のリシュリュー川)を探検していた。この段階で、多いときは300人を越えていた探検隊だったが、フランス人と先住民のはとんどは逃亡し、60人になっていた。

 先住民のグループが彼らを部族間闘争に利用しようとしていた。ふたつの対立する部族の兵士が湖畔で遭遇した時、シャンプランは手に火縄銃 arquebus を手にしていた。他の兵士は弓矢と盾という旧来の武器であり、相手方のモホーク族(イロコイ側の1部族)は、それまで火縄銃など目にしたこともなかった。

余談だが、モホークの名は、筆者の脳裏ではながらくニューヨークから5大湖地域をカバーした航空会社(モホーク航空)として残っていた。筆者はかなりの回数、搭乗したことがあり、懐かしい思いがする。1972年にアレゲニー航空(現在のUSエアウエイズの前身)が買収した。このセントローレンス川から5大湖周辺地域は先住民族やヨーロッパからの移住者の歴史をしのばせる多くの地名があって、きわめて興味深い。


 両軍兵士がほぼ30メートルの距離で対峙した時、シャンプランはいきなり相手の隊長など戦闘の3人を火縄銃で射殺してしまう。モホーク族は大混乱を来し、戦闘は数分で終わってしまった。ちなみに、この時まで北米先住民は火縄銃の存在を知らなかった。発射の大音響とともに、たちまち3人の大物を射ち倒されてしまったインディアンは、驚天動地の驚愕で逃走したらしい。日本の1543年の種子島への火縄銃伝来よりもはるかに衝撃的であった。この
1609730日、シャンプランの一行と彼らを頼みとする部族(モンターネ族、アルゴンキン語族そしてヒューロン族)が宿敵のモホーク族の部隊と遭遇し、戦闘する場面は北米開拓史上きわめて注目すべき光景だ。これは、その後イロコイ族との間で100年続いた「フレンチ・インディアン戦争」の始まりとなった。

 

 

 
1609年サミュエル・シャンプランがモホーク族の首領目がけて火縄銃を発射、3人の男たちが倒れる場面。現在のアメリカシャンプレーン湖畔での出来事を描いた図。左側中央部で銃を構え、発射しているのがシャンプランと考えられる。Brook p30(原図はシャンプラン航海記から転載)。


 世界史の大きな転換は、時に思いがけないことで起きる。この衝撃的な出来事はたちどころに北米先住民の間に拡大し、先住民族はなんとかこの新兵器を獲得したいと思うようになる。フランス、イギリスなどの探検隊はビーヴァー毛皮を入手するために、原住民に銃器を交換手段として渡すようになり、先住民間の戦いは一段と残酷なものとなる。

  ブログで簡単に扱えるような問題ではとてもないのだが、その後毛皮交易で得られた収益は、まだ見ぬ中国への探検航海費用となる。後に、中国への道が開かれると、ペルー産の銀で鋳造された貨幣で、中国の陶磁器など珍しい産品が求められるようになる。17世紀オランダ絵画に、中国の陶磁器などが描かれるようになる背景でもある。フェルメールに限ったことではないが、一枚の絵も見方によって広い世界が見えてくる。ラ・トゥールについても、興味深い点が数多いのだが、しばらくゆっくり歩きたい(続く)。 

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フェルメールの帽子(3):帽子が作られるまで

2011年05月26日 | フェルメールの本棚

Hendrick van der Burch. The Card Players, ca. 1660, Detroit Institute of Arts,(Gift of Mr. and Mrs. John S. Newberry).

 

 やはり底が抜けていた原子炉圧力容器! 予想したとおり、福島原発廃炉の「埋葬」墳墓は汚染水の「掘り割」で囲まれることになってしまった。そして、校庭に残される持ってゆき場所のない汚染土の山。

 東京電力、政府そして一部の専門家の話は、当初から楽観的でおかしいと思っていた。発表のつど、内容が深刻になってきた。なぜ、海外メディアの方が詳細で正確なのか。そう思いながら、(オサマ・ビン・ラディンもお好みだったという)
BBCのワールド・ニュースを聞いている時、原発にはまったく関係ない別のニュース*に興味をひかれた。少し憂鬱な話題から離れたい。

 報じられていたのは、カナダのケベック州
のニュースだった。5月9日、ケベック州政府は、これまでほとんど未開発のままに残されてきた同州北部のさまざまな鉱物、森林などの天然資源、エネルギー源の大規模開発に乗り出すことになったと発表した。福島原発の事故の影響も考慮されたのか、発電所はすべて水力などの再生可能エネルギーで発電される。ちなみに、自然資源に恵まれるケベック州でも原発が1か所操業している。

 このケベック州の新プロジェクトの対象となる地域は、16-17世紀にかけて、フランス、イギリスなどの毛皮商人、探検家などが活動した地域でもある。あのフェルメールの『士官と笑う女』あるいは上に掲げた同時代の別のオランダ画家の描いた作品『カードで遊ぶ男女』で、若い男が被っている毛皮の帽子の材料であるビーヴァーが多数捕えられた場所である。しかし、セントローレンス川からハドソン湾にいたる領域は、一部を除いてその後長らく大規模な開発から免れ、美しい自然を残してきた。

深まる北への関心
 
Plan Nord(北方計画)と呼ばれるこのプロジェクトは、ほぼ1200万平方キロメートルにわたる膨大な範囲の鉱物資源、再生可能エネルギーの開発を目指している。ケベック州北部は、これまで手つかずに世界に残された唯一の資源に恵まれた地域といわれる。ニッケル、コバルト、プラチナ、亜鉛、鉄鉱石、希少金属などを豊富に埋蔵している。Plan Nordは、11の鉱山採掘計画と水力発電などを含む再生可能エネルギーのプロジェクトを含んでいる。

 こうしたプロジェクトを実施する上で、プランでは新たな道路、空港、さらに外海へつながる港湾の建設・整備など大規模な工事が予定されている。この「北方計画」の推進によって平均して年間2万人の雇用、140億カナダドルがケベック州にもたらすと期待されている。さらに、計画の実施については、環境保全、現地住民の生活環境保全に最大の配慮がなされると発表された。

 こうした大規模計画の常として、環境保護グループや先住民族からの批判が予想されるが、現在の段階では当該地域の環境保全、厚生改善に貢献することが強調されている。いずれにせよ、計画規模や与えられた条件で異なるところは多いが、東北被災地復興・新生の参考にもなる点が含まれるプランだ。

*“Canada’s Quebec province opens up north for mining.” BBC NEWS, 10 May 2011

 

17世紀、5大湖、セントローレンス川地域の交易の道
 Source: Thimothy Brooks, p.33

 



  話は飛ぶが、この地域、筆者にとっては思い出多い地域でもある。その一端は、ブログに記したこともある。日本人でこの地を知る人は、今でもそれほど多くない。1960年代末から1980年代にかけて、何度か調査・見学などで訪れる機会があった。人影が稀な広大な森林が展開する地域である。遠い昔の宣教師が残した教会や先住民族の家々が散在している。そして、産業化の時代に、こうした自然に対して、巨大な発電所や製錬工場を建設した人間の能力に圧倒された。サガニー川流域のシップショー Shipshaw、ショーウンガン Schawinganなどの巨大水力発電所群であり、日本では見られない壮大な景観に目を見張った。

ヌーベル・フランスの世界
 
ニュースを聞きながら、かつて16世紀からこの地に構想された「ヌーベル・フランス」と呼ばれた壮大なプランを思い起こした。かつて、このケベック州の地は、16世紀前半から18世紀半ばまでフランスの領土となっていた。あの宰相リシリューは、この壮大な構想に大きな期待を寄せていた。

 
「ヌーベル・フランス」(またはニューフランス。仏: Nouvelle-France、英: New France)は、1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペインとイギリスにヌーベル・フランスを移譲した時まで、フランスが北アメリカに植民を行った地域である。

 植民活動が頂点にあった1712年(ユトレヒト条約の前)、「ヌーベル・フランス」と称されたこれらの領土は、東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。
 
 
ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された

 帽子の材料とされたビーヴァー
 フェルメールが描いた
あの若者がかぶっていた帽子の材料となったビーヴァーは、ほとんどがこのヌーベル・フランスの領土で捕えられたものだった。その入手のために、当初は先住民族の力が必要だった。毛皮商人と先住民との間で、毛皮と武器などの交換という形の交易がおこなわれた。

  ヨーロッパで争って求められたビーヴァー・ハットと呼ばれた毛皮の帽子は、アメリカ西部開拓者のデーヴィ・クロケットが被っていたアライグマの顔もしっぽも残るような素朴なものではない。イギリス紳士の山高帽が象徴するような高い熟練を持った帽子職人が、丹精込めたエレガントなものである。イギリスを始め、各国の紳士、伊達男たちは争って高価な帽子を求めた。帽子は社会的ステイタスを示す道具のひとつだった。人々は、帽子なしでは公衆の前には出られない時代だった。

 ビーヴァーの毛皮の柔らかな部分をフエルト化し、丁寧にデザイン・整形し、制作された。そのためには洗練されたデザインと高度な加工技術が必要だった。そのため、最初はほとんどがフランスで製造され、ヨーロッパ各国へ輸出された。フランスの帽子職人のほとんどはユグノーと呼ばれたプロテスタントであった。そのため、彼らは1685年の「ナントの勅令」廃止により追放されてしまう。彼らはイギリス、オランダなどへ移住し、仕事をするようになる。かくして、フェルトを作る繊維産業、Hatter と呼ばれる帽子製造はイギリスの大きな産業となる。

 帽子の主たる材料となったビーヴァーが、いかなる形、経路でヨーロッパへもたらされたか。その源をたどることは、それだけで、かなり長い旅路となる。憂鬱なことばかり多いこの頃、興味がおもむくままにゆっくりと歩くことにしよう(続く)。

  

 

 

 

 

 

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フェルメールの帽子(2):誰が作ったか

2011年04月30日 | フェルメールの本棚

 大津波がすべてを流し去ったすさまじい光景。人類最後の日もかくなるものかと思ってしまう。この光景が目前にあるかぎり、心は安まることがない。そうした折、音楽や絵画が秘める力は大きい。一枚の絵でも、作品とそれを見る者の間に交流が生まれれば、しばし現実の苦難や悲惨さを忘れさせてくれる。瓦礫の荒野に美しく咲く桜の花に通じるところもある。
 

 震災前のブログに記したティモシー・ブルック『フェルメールの帽子の続きを少し書いてみよう。フェルメールの作品は確かに大変美しいが、ある美術史家の指摘のように内面的な深みに欠ける。厳しい目でみれば、当時の中産市民の日常生活のスナップ写真のごとき印象である。フェルメールの作品が長く忘れられていた原因のひとつかもしれない。画面は図抜けてきれいだが、思考の深層へのつながりを生むというものではない。同時代ならば、私はレンブラントやルーベンス、ラ・トゥールなどにはるかに大きな魅力を感じる。

窓の外の世界へ

  しかし、フェルメールの作品は、美術論とは別の意味でさまざまなことを考えさせる材料を含んでおり、これまでも興味深く接してきた。その一端はブログで記事にもしてきた。ブルックの著作を読んで、フェルメールの小さな画面を抜け出して、17世紀の広い空間世界へ飛び出す楽しさを改めて感じている。

 世の中の大方のブログとは、遠くかけ離れてしまっているこの「変なブログ」の試みを始めた一端は、まさにそこにあった。時間軸や物理的空間といった制約にとらわれることなく、勝手気ままに記憶の断片を拾ってみようと考えたことが発端だった。

 ブルックの著作自体、フェルメールを素材としながらも、著者が認める通り、美術論や美術史的関心はほとんど含まれていない。フェルメールの作品を取り上げながらも、ほとんど画家の作品についての美術的視点、指摘は感じられないのだ。他方、ブルックはフェルメールの作品に描き込まれたさまざまなディテールを糸口に、それらが画家の工房へ持ち込まれた経緯をたぐることを通して、17世紀という今では少し遠くなってしまった時代への新しい視野を開こうとしている。

 
新教時代の男女交際
 
表題の『フェルメールの帽子』にしても、別に帽子でなくてもよかったのだと記されている。ブルック自身がカナダ人であり、カナダの大学で教壇に立っていたこともあって、ビーヴァーの毛皮で作られた帽子を材料に、ストーリーの骨格を組み上げたと述べられている。実際、この作品において若い女性と楽しげに話す若い士官、そして彼のかぶる大きな帽子は、大変目立つ存在だが、作品上の比重としては副次的なものだ。

 フェルメールが描こうとした意図は、楽しげに会話する若い男女が醸し出す空間であり、とりわけこちらを向いてにこやかに笑っている女性の表情だろう。カトリック・スペインの政治的支配下にあった時代のネーデルラントでは、男女がこうした形でデートすることは認められなかった。フェルメールの時代、新教プロテスタントの国となったネーデルラントの新しい風が、この一室に吹き込んでいる。男の方の表情は、細部を拡大してやっと分かる程度にしか描かれていない。そして、大げさなほど存在感のある大きな毛皮の帽子だ。

 帽子ばかりではない。毛皮交易がヨーロッパと新大陸を結んだように、南アメリカからの銀は中国へつながり、そこで買い求められた陶磁器はヨーロッパへと送られた。若い女性が手にしている茶器は、その象徴だ。フェルメールが生涯のほとんどを過ごしたデルフトの名産品デルフト陶器は、東洋磁器を模した青(デルフト・ブルー)一色のものが多い。

 



フェルメール『兵士と話す若い女』ニューヨーク、フリッツ・コレクション、部分



 レンブラント(
1606-1669)やフェルメール(1632-1675)が活動した時代は、ネーデルラントが活気に満ち、世界に窓を開きつつある時であった。フェルメールが意識していたか否かは不明だが、画家の作品は一部を除き、ほとんどは室内で描かれたものだ。デルフトの義母の家の一室にアトリエは置かれていた。

 
 
フェルメールが画家としての生涯を過ごしたデルフトは、オランダ東インド会社VOCの拠点のひとつであり、ヨーロッパとアジア、とりわけ中国を結ぶ航路の重要な一端となっていた。多くの産品がデルフトへ持ち込まれ、そのいくつかはフェルメールの工房にも溢れ、画家の題材となっていたと思われる。
 
 フェルメールとほぼ同時代のオランダの画家
レンブラントは、きわめて多くの珍しい物品を購入、所有していた。その中には、なぜこんなものまで集めたのかと思われる品々も多い。他方、フェルメールは長年比較的小さなデルフトの町に住み、静かに活動していた、いわば隔離された画家とのイメージが強かった。しかし、デルフトはオランダ東インド会社の重要拠点のひとつだった。

 
オランダ東インド会社VOCは、1602年に設立され、16世紀前半には活動を広くアジアに拡大していた。当時の人々にとっては一見見慣れた光景だったかもしれないが、デルフトは世界貿易の世界の大きな舞台装置の一部であり、アジア、中国などの珍しい産物が行き交っていたのだ。その一部は画家の工房へも入ってきた。

帽子は誰が作ったか 
 
フェルメールの作品に描かれた士官のかぶる黒い毛皮の帽子は、想像で描かれたものではない。恐らく確実に画家の工房にあったものだろう。画家自身が所有していたものかもしれない。フェルメールの叔父ディルック・ファン・ミンネDirck van der Minneは、フェルト職人で帽子屋だった。息子一人と二人の孫があり、東インド諸島に住んでいた。フェルメールの帽子は、恐らく彼が作ったものかもしれない。レンブラントの娘も、バタヴィア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の名称)へ行った。17世紀は想像以上にグローバルに開かれていた時代だった。


 フェルメールあるいはその周辺の画家の作品には、帽子をかぶった人物が描かれたものがいくつかある。この若い士官らしい男がかぶる大きな帽子は、北米産のビーヴァーの毛皮で作られたものと思われる。専門家以外にはあまり知られていないが、この時代の毛皮交易はきわめて興味深い問題を含んでいる。 管理人がセントローレンス川流域の開発史に関心を抱いてきた、ひとつの要因でもある。近年大きな話題を呼んだピエトロ・リヴォリ『あなたのTシャツはどこから来たか』 Pietro Rivoli. The Travels of a T-shirt in the Global Economy, 2006. が取り上げた主題につながるところもある。ふたつをつなぐ糸はグローバリゼーションである。この毛皮の帽子には、多くの興味深い謎がつきまとっている。17世紀絵画を楽しみながら、すこしずつ、解きほぐしてみたい(続く)。

 

 

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フェルメールの帽子(1):すべての道は中国に

2011年03月10日 | フェルメールの本棚

 
 

   『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』(3月3日―5月22日、東京、渋谷 Bunkamura ザ・ミュージアム)が開催されている。

 またフェルメールですか(笑)という気がしないわけではないが、日本にはフェルメールが好きな人が多い。17世紀オランダ美術の企画展にはフェルメール、印象派の展覧会にはモネが入らないと観客数を稼げないともいわれている。

 『地理学者』1669年頃、53×46.6cm、油彩・画布、フランクフルト、シュテーデル美術館


 今回、出展されているフェルメール作品『地理学者』(上掲、1669年頃)は、室内の男性だけを描いた2点のうちの1点だ(もう1点は『天文学者』として知られる作品)。この『地理学者』も、これまで何度か見ているのだが、同じ画家の他のジャンルの作品に比して、どこか迫力に欠ける気がする。

 
なぜなのか、そのわけを考えてみた。ひとつの原因は、作品自体が比較的小さいことに加えて、描かれた男性の顔に陰影が少なく、単調に見えることだ。あるいはモデル自身が実際にこうした容貌だったのかもしれない。あまり日の当たらない部屋にこもって、研究していた学者のイメージだからだろうか(笑)。モデルとしては、フェルメールと同年にデルフトに生まれ、顕微鏡を発明したことで知られるアンソニー・ファン・レーウエンフックではないかとの説もあるが、レーウエンフックの肖像画は別の画家によって制作されてもいて、管理人は最初に見た時からトロニーではないかと思った(その理由は、長くなるので別の時に)。

 フェルメールの室内風俗画の作品の多くは、自宅工房の同じ部屋で描かれたものだが、左側の窓から射し込む光の明度の点からすると、他の作品よりも室内に広く光が射し込み、全体に明るく描かれている。新しい方向を模索する画家の意図があったのかもしれない。地理学者の身につけたガウンに代表される明暗の表現は、本作以降の作品に共通する最も大きな特徴のひとつであるとされている、また、地理学者の背後の棚に置かれているのは、おそらく『天文学者』に描かれる天球儀の作者と同じアムステルダムの地図製作者ヨドクス・ホンディウスの手による地球儀であると推測されている。画面右部には地図が配されている。後述するが、両作品を含めて地球儀や地図に示されている部分、そして品物の配置と含意はきわめて興味深い。 


 この『地理学者』と『天文学者』は、研究者間に異論もあるが、それまでの女性を中心に愛や恋をモチーフとして描いた風俗画ジャンルの作品と一線を画して、フェルメールが別の方向への転換を模索した結果ではないかとの解釈も提示されている。

世界史への展望
 それは、現在はオックスフォード大学の中国歴史学の教授であるティモシー・ブルック『フェルメールの帽子:17世紀グローバル世界の暁』で展開した世界でもある。この著作は2007年に刊行され、世界的に大きな話題を呼んだ。

 フェルメールに関する書籍はすでに数多いが、経済史家の観点からフェルメールの家庭、とりわけその財政基盤に深く接近したモンティアスの画期的な著作などを別にすれば、多くは美術史や美学の立場からの研究であり、やや行き詰まった感がすることを否めなかった。ブルックの著作はフェルメールに関する美術史的視点というよりは、専門の中国学をベースに、フェルメールの作品に描かれているものを手がかりとして、17世紀当時の世界史的意義を考察した著作である。その材料は別にフェルメールでなくとも良かったと、ブルック自身述べている。フェルメールの絵画論や美術史論と思って、本書を手にとられると、期待を裏切られるかもしれない。

フェルメールの帽子
 ひとつの例を紹介しておこう。フェルメールの作品『士官と笑う女』Officer and Laughing Girl (上掲書籍表紙)は、一人の半ば後ろ向きの男と若い女性が対面している光景である。さしずめ、若い男女のデートの光景を描いたとみられる。当時よく見られた光景のいわばスナップ写真のようなものだ。女性の明るい笑顔が印象的だ。他方、オランダの海軍士官と思われる若い男性は、横向きで表情はあまり分からない。ブルックは絵画的側面にはほとんど立ち入らず、男がかぶっている大きな毛皮の帽子に着目する。
 
この帽子はビーバーの毛皮をなめすことなくそのまま使った高価なもので、当時の流行であった。かぶっている男も恐らく得意なのだろう。帽子の原料であるビーバーは、17世紀当時未だ探検中であった新大陸カナダのセントローレンス川・5大湖地域を中心に、先住民インディアンとの交易を通して、ヨーロッパにもたらされたものであった。大量のビーバーや狐などの毛皮がヨーロッパへ持ち込まれた。
 
フランスのサミュエル・シャンプレーンを始めとする各国からの多くの探検者が、新大陸を目指していた。1534年にはジャック・カルティエがガスペ湾に十字架を立てている。セントローレンス川、ハドソン川流域の探検・開発については、このブログでも記したことがある。セントローレンス川に流れ込むサガニー川流域もビーバーの多く生息した所であり、多数の毛皮商人が入り込んだ地域だ。先住民族との接触などを通して、推測を含むさまざまな興味深い話が生まれた。

新大陸の先にみえる世界
 注目すべき点は、こうした探検家や冒険家の究極の目的は、北米の新大陸ではなく、さらにその先にある中国であった。ヨーロッパから西へ西へと向かえば、中国に到達することができると考えられていた。その考えは誤りではなかったが、道は遠かった。アフリカ喜望峰をまわる道の方が早く開かれることになった。ポルトガルは1517年に明との貿易を開始している。
ブルックが、フェルメールの作品に描かれた細々とした物品に着目しているのは、それらから推察できる、フェルメール(1632-1675)、レンブラント(1606-1669)、そしてオランダ・フランドル地方の画家たちが活躍した17世紀の世界史的意義をひもとくためである。まさにこの時代に、世界がひとつのものとして認識される「グローバル時代」の暁が訪れようとしていた。

 フェルメールが生涯を過ごしたデルフトも、その世界のひとつの拠点であった。ブルックは、フェルメールの作品「デルフトの眺望」を題材として著作を書き出している。かつて、オランダのティンベルヘン研究所に短期間招かれた折にデルフトも訪れたが、現代貿易の中心はすでにロッテルダムなどへ移り、フェルメールの時代とさほど変わりはないのではと思えるほど静かな町だった。

 
新大陸、そしてそのはるか彼方にある中国に着目していたのは、東インド会社に代表されるオランダばかりではなかった。ポルトガル、スペインなどヨーロッパの有力国は虎視眈々と東方への道を狙って、16世紀以来、航路開拓を続けてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)が、フランス王室付き画家であった時の宰相リシリューは、カナダ植民へ大きな野望を抱いていた。探検家ジャック・カルティエがガスペ湾を発見した1534年から、1763年のパリ条約締結までの期間、フランスは北米に大きな勢力圏「ヌーベル・フランス」を擁していた。
 
 フェルメールの作品の室内への光は、グローバル化を迎える新しい時代の曙の光だった。絵を見ることは、考えることだという思いが一段と強まる。


 

 トロニー(tronie)、オランダ語で「顔」の意味。17世紀オランダの画家が描いた、印象深い容貌や珍しい衣装の人物の顔や胸像。それ自体はモデルに基づくことが普通だが、肖像画として描かれたものではない。
 
Timothy Brook. Vermeer’s Hat: The Seventeenth Century and the Dawan of the Global World. New York, Berlin, London: Bloomsbury Press, 2007.pp.372.

ちなみに、著者のティモシィ・ブルックはカナダ人で、研究領域には中国明王朝の社会史、第二次大戦中の日本の中国占領、世界史における中国の歴史的位置などを含む。現在は Shaw Professor of Chinese at the University of Oxford and Principal of St. John College, University British Columbia.



このたびの東日本大震災で被災された皆様に、お見舞い申し上げると共に、不幸にして震災の犠牲になられた方々には、心からお悔やみ申し上げます。

 


 

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(6)

2008年12月15日 | フェルメールの本棚

Canalside house, Gouda, Netherlands



 オランダ、ゴーダからの友人S夫妻を迎えての一夕、話題は14日閉幕したフェルメール展(東京都美術館)から現代オランダの医療事情まで、果てることなく拡大した。30年以上のつき合いとなる。日本で教育も受けた知日派だ。これまで時には毎年のように、世界のどこかで出会う機会があった。

  夫妻ともに日本のことはよく知っているのだが、東京都美術館のフェルメール展の混雑ぶりは、想像外だったようだ。日本人のフェルメール好きは知っていたが、人混みで背中を押されながら見るフェルメールなんて考えられないのだ。その気持ちは良く分かる。これまで何度か、この画家の作品を見る機会があった。96年のハーグ展だったか、入館に20-30分並んだような経験はしたが、内部が混んでいたという印象はまったくない。その前年、S氏と共にアムステルダムへ見に行ったときなど、フェルメールでもゴッホでも、模写が十分できるくらいであったことを思い出す。

 彼らが住むゴーダは、ゴーダ・チーズで知られる都市である。あのフェルメールの義母マーリア・ティンスがデルフトへ移るまで住んでいたところだ。ここも運河の流れる美しい町だ。S家へ招かれ、運河沿いのいわゆるカナルサイド・ハウスの内部を見せてもらった。ウナギの寝床のような構造で、それが2階、3階と上方へ伸び、天井も高い。強靭な体力と精神力がないと、住みこなせない家だと思った。

 オランダは16世紀の宗教改革後、カルヴィニズムを国教とする新教国となった。とはいっても、カトリック信者がまったくいなくなった訳ではなかった。1656年のゴーダでは、人口のおよそ3分の1はカトリックだった。フェルメールやレンブラントの時代である。そして、現在のオランダで

は、カトリックの方が多い。

確定できないフェルメールの信仰
 画家フェルメールが信仰していた宗教がなにであったのかという前回から続く疑問については、正確には、答は出ていないというべきだろう。少なくも晩年は、限りなくカトリックに近かったのではないかという推論は可能だが、それもあくまで状況証拠に基づく推理の結果だ。フェルメールの改宗を確認できるような教会記録や画家自身の信仰告白などは、なにも残っていないからだ。よく言われる結婚に際しての改宗も、それを直接裏付ける記録はなにもない。信仰はいうまでもなく個人の心の問題であり、フェルメール自身が心の中でいかなることを考えていたか、依然闇の中にある。

 画家の信仰していた宗教・宗派など、たいした問題ではないかと思われる方もおられよう。しかし、この時代の画家にとって、宗教の重みは制作活動に大きな意味を持っていたと思っている。

 かなり確かなことは、フェルメールは短い生涯(1675年43歳で没)ではあったが、晩年にはローマン・カトリックの中心的教義や祭祀の実際について、十分な知識を持っていただろうという点である。美術史家の間では、画家のカトリックについての知識・理解を浅いとする解釈も見られるようだが、果たしてそうだろうか。もしそうであれば、改宗はさらに疑われる。彼の日常生活の周辺はカトリック信徒が多く、数少ないが信仰にかかわる寓意画の制作などについて理解を深めるに、多くの相談相手がいたはずだ。

 後世の美術史家や評論家が、「信仰の寓意」Allegory of the Faithについて高い点数をつけないのは、いくつかの理由があるが、なかでも19世紀のフランスの美術評論家トレ・ビュルガーが重視した、写真的、写実的なものを良しとし、それから外れたものは劣っているとする考え方に、どこかで影響を受けているのかもしれない。また、フェルメールは世俗画を専門とした画家だという美術史家などの思い込みも考えられる。

 さらに、後年付け加えられた画題も、先入観を与えかねない。たとえば、「絵画芸術」De schilderkunst, or Art of Painting, ca.1666-67 にしても、そこに込められた寓意は感じられるが、実際は「制作する画家」 「工房の情景」の方が、画家が発想した内容に近いかもしれないと思う。


Art of Painting, ca.1666-7, Vienna, Kunsthistorisches Museum.

大事な同時代人としての視線
 「信仰の寓意」についていえば、描かれた女性の劇場的ポーズや表情こそが重要だと思う。この画家が得意としてきた、世俗的世界を切り取ったように精細に描くことから離れ、寓意画という非日常的世界を描いたのは、まさにフェルメールが意図したものだ。それが画家の他の作品のように、人為的で、写実的でないというのは当たっていないと思う。女性の表情やポーズは別として、作品に描きこまれた数々の品はそれぞれきわめて写実的に、この画家らしく描かれている。その多くは遺産目録に記されていたように、空想の産物ではない。

 必要なのは、現代人のそれではなく、画家と同時代人の視線レヴェルに立って作品を見ることではないか。それこそが、「同じ時代の」 Contemporary という意味の第一義だ。とはいっても、画家が生きた17世紀にまで時空を遡り、立ち戻ることはできない。できうるかぎりの情報と推理を働かせて、当時のイメージの世界を再現してみる作業が必要となる。

 今日の世界ではブーム状態ともいえるフェルメールの作品にしても、17世紀の当時、それほど人気があったわけではない。このことは生涯を通して、とても豊かとはいえなかったフェルメールの生活状態をみれば、ほぼ想像がつくことだ。われわれの時代、現代的観点(コンテンポラリーの二義的意味)において作品の人気が高いことと、画家が生きた同時代の評価とは、十分注意し区別して見ることが必要ではないかと思う。

 フェルメールの晩年の生活。それはレンブラントのように破滅的ではなかったが、豊かさや安定とはかけ離れたものだった(ちなみに、レンブラントは、フェルメールが24歳になった1656年に自己破産申請をしている)。そして、結婚後まもなく、デルフトへ移住してきた義母の家に同居するようになった。そして、
義母やその親戚、パトロン Pieter Charsz. van Rijvenなどの好意に支えられた生活だった。画家が埋葬された古教会の自分の墓も義母が購入していたものだ。残ったのは妻と11人の子供。そのうち10人は成人に達していなかった。

 熱心なカトリック信徒の義母とその財政的支援に頼る生活の実態。もし、この時までフェルメールがプロテスタントのままであったとしたら、彼の心境はきわめて複雑で苦悩に満ちていただろう。生活を扶助してくれる義母や親戚などはすべて熱心なカトリック信徒であった。

 他方、新教国として独立を果たしたネーデルラントでは、カトリック信徒は「目に見えない、隠れた」存在であることを強いられた。布教や教会儀式などにあたる聖職者たちは、国外退去を命じられ、ミサなどの教会活動も十分にできなくなった。今でこそ開放的で寛容な国といわれるオランダだが、17世紀当時のネーデルラントでは、カトリック信仰は公的には認められていなかった。都市では宗教間の住み分けも次第に進んだが、地方ではカトリックへのあからさまな抑圧、差別、暴力行為なども見られた。

進む「住み分け」
 フェルメールが画家としての活動していたデルフトでは、次第にカトリック信徒が集まって住む地域、「カトリック・コーナー」が形成されていった。これに反対する周辺の住民などからの非難も頻発した。カトリックの住民たちは、表向きは目立たないようにしながらも、さまざまな努力で信仰活動を維持していた。異教徒扱いをされながらも、じっと耐え、「黙認」してもらうために、あらゆることをしていた。

 不足している聖職者を補い、信者たちの要望に応えるために、平信徒の中でのエリート層などが、献身的に教育・布教、ミサの主催などを行った。迫害される宗教を必死の思いで維持、発展させねばならないという信徒の熱意が、この時代のカトリック信仰を支えた。フェルメールの義母も、さまざまな形でカトリック地域の活動に加わっていたに違いない。住居は「隠れ教会」に隣接していた。こうした空気は、フェルメールが肌身で感じるものだったろう。

 こうして、時の経過とともに、都市におけるプロテスタントとカトリックその他の信者間での「住み分け」が進んでいった。この国の特徴とされる「寛容」も、お互いに干渉しないで暮らすという知恵である(この特徴が現代のオランダにもたらす深刻な問題については、別に記す機会があるかもしれない)。

揺れていた?画家の心
 画家フェルメールがこの時期、プロテスタント、カルヴィニストに留まっていたとすれば、心中穏やかではなく、かなり大きく揺れ動くものであったのではないか。晩年はかなり鬱屈した精神状況であったらしいこともいわれているが、もしかすると物心両面での重圧が画家にのしかかっていたのかもしれない。画家としては天賦の才に恵まれていたが、家業であった宿屋を経営するような商才にも欠けていた。

 「信仰の含意」のような寓意画を、フェルメールの中心的テーマであった世俗画を基準に比較すると、混乱することになるだろう。この点、Liedtke(2001,401)などが述べているように、同じ時代に活動していた、他のオランダやフレミッシュの画家が描いた寓意画、抽象世界を描いた作品との比較が、新しい評価の視点を生むに役立つかもしれない。研究の蓄積が大きいと思われる17世紀オランダ絵画の世界だが、まだ興味深い論点が多数残っている。「創られた所に立ち戻る」ことが必要なようだ。


Reference
Walter Liedtke with Michiel C. Plomp and Axel Ruger. Vermeer and the Delft School. New York: The Metropolitan Museum of Art, New Heaven: Yale University Press, 2001 . 

  

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(5)

2008年12月06日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer, Allegory of Faith, ca.1672-4(oil on canvas, 114.3x88.9 cm)m New York, The Metropolitan Museum of Art, The Friedsman Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.(Details)


 フェルメールの作品「信仰の寓意」The Allegory of Faithを、多くの研究者は「失敗作」あるいは「凡作」としてきた。フェルメールらしからぬ作品とする研究者もいる。古文書記録の山の中から画家の生涯を掘り出したモンティアスも、作品に描かれたあるものは、「異質」alien であると評した。しかし、仮に美術的観点から凡作としても、この作品はフェルメールの作品歴、そして画家人生の中では、きわめて重要な重みを持っているのではないかという直感を抱いてきた。単にひとりのアマチュア鑑賞者としての感想にすぎなのだが、その後、かなり同意、賛同してくれる美術専攻の友人も現れ、多少意を強くした。

 この作品、フェルメールの少ない作品の中でも数少ない寓意画なのだが、画家の精神世界、とりわけ17世紀という時代の宗教と美術制作思想の関係を推理するには貴重な一点だと思うようになった。

 作品は、見て明らかな通り、キリスト教信仰、とりわけカトリック信仰とのつながりを直ちに連想させるものだ。画面一面に描きこまれたさまざまな品々のイコノグラフィカルな意味については、すでに多数の専門家が述べているように、1644年オランダで出版されたリーパの『イコノロギア』Cesare Ripa’s Iconologia(Iconology) の叙述にほぼ従って、フェルメールが選択し、描いたものであるようだ。たとえば、卓上の聖餐杯と書籍は信仰のアトリビュートとされている。  

謎の鍵はガラスの球体に
 無数に描かれている品物の解釈については、美術史家に任せるとして、この作品を見た時、不思議に思ったのは、この劇場的なポーズをとっている女性とその視線が向いた先であった。胸に片手を当て、なにかに驚いたかのごとく、その姿態はいかにも大仰で、およそ日常の光景ではない。そして、フェルメールの世俗画ジャンルには、現れない表情でもある。目を大きく見開き、この画家が好んで描いた世俗の人間の顔色ともかなり異なっている。画家がある意図をもって擬人化を試みた現れ
と思われる。

  しかし、描かれた女性の表情には驚愕、恐怖などのかげりはなく、明らかに日常を超えたなにかに覚醒したような、まるで天啓を受けたかのごとき、不思議なものだ。そして、彼女の視線が向けられた先は、頭上から一本の青い色の紐あるいは棒で支えられた奇妙なガラスの球体である。

 この時代の宗教画、風俗画などは、かなり見てきたが、ほとんどお目にかからない品である。まるでガラス工場で職人によって吹かれ、球体になったものが、そのまま天井から下げられているような感じすらする。紐の青色と女性の衣装の色、天井とのつなぎ目の支えのようにみえるものも意味ありげだ。

 それ以上に、この作品の中では、この球体自体が時空を超越したような存在にみえる。現代の部屋の照明、あるいは実験器具といってもおかしくない。この球体に似たものは、ヘシウスの手になるジェスイットの印刷物(1636年)のエンブレムに見いだされるという研究(De Jongh,1975-6 quoted by Hedquist)もあるようだ。フェルメールが着想を得たと思われる、この球体に類似するエムブレムの該当図は、小林(2008、p224)にも掲載されているが、そこでは、霊魂を象徴する翼を持つ若者が、奇妙な球体を手にしている。ガラスの球体も宇宙世界を映し出せるように、人間の限られた魂も神を理解することができるということらしい。球体は小さくとも無限の天上世界を映し出すという含意があるようだ。エンブレムでは翼を持つ若者とともに、十字架や太陽が描かれている。

 

The Allegory of Faith (details)

「神は細部に宿る」 
 さらに、一見して興味をひかれたのは、このガラスの球体の表面に映り込むように描かれたものが何であるかということだった。光沢のあるガラスの球体表面には、写真ではないので判然としないが、画家の工房の一部が、閉ざされている窓からの光を通して描かれているようだ。

 ガラス球の表面をを改めて見ると、どうも画家の工房が映っているようだ。閉じられた窓から入った明るく鋭い光が前面のタペストリーに射している。その他の部分は、より柔らかな微妙な光で包まれている。球体には、さらに劇場的なポーズで球体の方を見上げる女性の姿のようなものが描かれている。

 画家はもしかすると、ヘッドキスト Headquist などが推論するように、この小さな球体を媒介に、見えないものを具象化しうる神の創造的な力を示そうとしたのかもしれない。これは、カトリック的審美感ともつながるものだ。一部にいわれるフェルメールのカトリック教義についての理解の浅薄さ、そしてそれに基づく作品制作も失敗と評することの正否は、にわかに判断できない。しかし、フェルメールが過ごした環境からしても、画家のカトリック、プロテスタント双方の教義についての理解と思索はかなり深かったと思わざるを得ない。さもなければ、この時代に、元来カルヴァン派を宗教としていたフェルメールが、熱心なカトリック信徒の義母、妻などと共に「カトリック通り」に位置する同じ家に住むことはきわめて難しかっただろう。  

 この作品、こうして見ていると実に色々なことが思い浮かぶのだが、後生のこの画家を評する折には、いつも周辺部分に追いやられている感じがしてきた。メトロポリタン美術館に富豪フリードサムによって遺贈されるまでの遍歴でも、買い手がつかなかったこともあったようだ。この作品を手にし、一時はマウリッツハイス美術館の館長もしており、画商的な仕事をしていたブレディウスもフェルメールの作品としながらも、お好みでなく、手放したがっていたようだ。

 ここで強調したいことは、フェルメール研究者や愛好家が、凡作、フェルメールらしからぬ作品と評することは、必ずしも正確ではないと思うことだ。これもフェルメールなのだ。その点を見逃すと、フェルメールの過ごした17世紀ネーデルラントという時代の精神的・宗教的風土を十分理解することはできないだろう。

 これまでの作品評価について、アマチュア鑑賞者として多少違和感があるのは、美術史家などの手になる専門書を見ていると、美術品としての凡作は、注目度が低く、時には真作の中には含めたくないという思いのようなものがかすかに伝わってくることだ。大家は駄作、凡作は描かないというひいき目のようなものがどこかで働くのだろう。もちろん、これはフェルメールに限ったことではないのだが。
(続く)



References
Walter Liedtke with Michiel C. Plomp and Axel Ruger. Vermeer and the Delft School. New York: The Metropolitan Museum of Art, New Heaven: Yale University Press, 2001 .

Valerie Hedquist. ‘Religion in the Art and Life of Vermeer.’ The Cambridge Companion to Vermeer, edited by Wayne E. Frantis. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.  

小林頼子『フェルメール論』八坂書房、2008年

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(4)

2008年12月02日 | フェルメールの本棚

 

Johannes Vermeer, Allegory of Faith, ca.1672-4(oil on canvas, 114.3x88.9 cm)m New York, The Metropolitan Museum of Art, The Friedsman Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.



 フェルメール・フリークではないのだが、17世紀の画家の一人としてかなり以前から関心を抱いて作品は見てきた。といって、この画家について格別好みの一枚があるわけでもない。それでも気になる作品はいくつかある。その一枚は、『宗教の含意』The Allegory of Faith と題する作品だ。フェルメールの作品の中では、きわめて不人気な作品といえるだろう。今はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。以前にブログにも記したことのある富豪フリードサム氏が1931年に寄贈したものである。

  メトロポリタンで最初に見た時、不思議な印象を受けた。フェルメールの手になるものということは、すぐに分かったのだが。この画家は一瞬の光景を切り取り、美しく精緻に描くことに長けている。その点はこの作品でも変わりはないが、何をテーマとしたものか、しばらく考えさせられた。

寓意のオンパレード
 
画題の『宗教の含意』は後世に付されたものである。17世紀、カルヴィニズムが国教とされていたネーデルラントに生きたフェルメールだが、この作品は明らかにカトリック信仰を前提としている。制作を依頼したパトロンは誰だったのか。恐らく個人の信者の依頼ではなかったかと推定されている。もしかすると、小さな「隠れ」教会の祭壇を飾っていたのかもしれない。現存するフェルメールの作品歴の中では、晩年に近い年次(画家が死亡する前2-3年、1672-4年頃)に位置づけられている。

 この作品についての美術史家の評価は、概してあまり高くない。それどころか「寓意だけが並んだ悲惨な」作品という酷評すらある。見ようによってはイコノグラフィの知識をテストするための作品のようですらある。確かに細部にわたり精緻に描きこまれているが、パトロンの要望に応えようとしたのか、一見して描き込みすぎという印象が強い。作品としては凡作だろう。 

 しかし、他方で、フェルメールの精神世界をうかがい知るには、最重要な作品になるのではないかという思いがしていた。作品のイコノグラフィカルな詳細については専門家にゆだねるとして、この画家を取り巻いていた宗教的背景について少し考えてみた。

17世紀の宗教世界
 
17世紀前半のオランダは黄金時代を迎えていた。スペインとの戦いに勝利を収め、独立の意欲に燃えていたが、国民の精神世界は緊張をはらんでいた。事実上国教となったカルヴィニズムに対して、カトリックを含む他の宗教・宗派は公式には信仰を禁じられ、カトリック司祭など聖職者は国外退去を迫られた。自由な宗教上の選択というよりは強制によるプロテスタント化が進んだ。

 さらに、教会資産の世俗化(接収)、信徒の公的地位からの追放、違反者に対する罰金、収監などが行われた。カルヴィニズムは聖像崇拝などを禁じたため、彫刻家、画家などもパトロンを失い、大きな打撃を受けた。
 
 カトリック側は、布教に携わる司祭が不足する事態も生まれた。厳しい迫害によって、信徒は教会の秘蹟にあずかれず、魂の救済への道が閉ざされるという危機にさらされていた。これはカトリック信徒にとっては、事実上信仰の否定、禁止に等しかった。

 しかし、最近の研究で、かなり当時の実態が明らかになってきた。それによると、ネーデルラント全体がカルヴィニズム一色で塗りつぶされたわけではなかった。地域によってもかなりの差異があったようだ。公的な地位でも、カトリック信徒が許されている地域もあった。概して都市部では、人々は異なった宗教の信者に寛容だったが、農村部では因習も残り、迫害も厳しかった。もっとも都市部でも場所や時期によっては、カトリックに対する迫害、差別が厳しかったことも指摘されている。たとえば、1639年のアムステルダムでは、カトリックへの憎悪に満ちた迫害の事実が多数指摘され、同時に悪疫も流行したため精神的支柱も揺らぎ、かなり悲惨な状況もあったようだ。しかし、そうした苦難を超えて、アムステルダムの隠れ教会では、300人近い信徒がミサや夕べの祈りに参加していたという事実もあった(Parker 237)。

フェルメールはカトリックへ改宗したか 
 
カルヴィニストとして幼児洗礼を受けた画家フェルメールが、成人してカトリックへ改宗したか否かは、美術史家の間ではひとつの論点となってきた。美術史家の大勢は、カトリックの妻と結婚した時に改宗したのではないかと考えているようだ。しかし、教会の記録や画家自身の記録などは一切残っていないため、あくまで推定にすぎない。

 当時、国教となっていたカルヴァン派から、公的には禁じられていたカトリックへ改宗することは、選択の可能性として少ないのではないかとの議論もあるようだ。しかし、宗教史などの最近の研究成果を見ると、北ネーデルラントにおいては、宗教選択の流動性はかなり確保されていたとみられる。

危機はエネルギーをかきたてる
 カトリックに限っても多くの信徒を失った反面で、逆に危機感に迫られた教会などが布教活動に力を入れ、カルヴァン派からカトリックへかなりの数が戻った事実も指摘されている。たとえば、1628年アウグスティノ修道会の知牧perfect の報告によると、北ネーデルラントでは多数のカルヴィニストがカトリックへ改宗したともいわれている。

 また、ローマン・カトリックの旧来の教育を受けてきた司祭などが国外退去させられたことなどで、教区のヒエラルキーが解体され、古い慣行や因習にとらわれない清新な宗教風土が生まれたこともあげられている。オランダにおけるカトリックの再生は、ヨーロッパの他地域におけるカトリック宗教改革の強みともなった。

 数が少なくなったローマからの聖職者に代わり、地域の平信徒エリートなどが危機感に目覚め、信教基盤の維持に向けて活動するようになった。彼らは信徒の教育などに熱心でカトリック改革のエネルギーとなった。古いパトロンから離れ、自由な布教の風土も生まれた。
 

改宗の可能性と契機
 フェルメールが改宗したと仮定するならば、その契機としてはいくつか考えられる。最有力なのは結婚の時であった。しかし、すでに記したように決定的な文書記録などがなく、証拠に欠ける。

 第二の可能性としては、義母マーリア・ティンスの家へ移住した時期が考えられる。1641年以降、マーリアはゴーダを離れて、デルフトへ移った。フェルメールは1660年までに妻、3-4人の子供と、義母の家に移り住んだことが分かっている。
 
 今日では世界的に名の知れた画家だが、フェルメールの生活は楽なものではなかったようだ。レンブラントほどの大きな浮沈ではないが、晩年はほとんど自立できない困窮状態だった。結婚後の初めと終わりの時期がとりわけ収入が少なく、安定していたのは1660年代のわずかな期間だけだった。

 経済的にはほとんど常に困窮していたらしく、1657年にはパトロンと思われるピーテル・クラスゾーン・ファン・ライフェンから200ギルダーの借金をしている。義母の家に住むようになったのは、フェルメールの家計の困窮度がさらに高まったことが大きな要因だろう。当時のネーデルラントでも、結婚しても独立しなかったり、大家族として生活を共にする例は決して多くなかったようだ。

 最初は娘がフェルメールと結婚することに反対していたマーリアだが、同じ家に住むようになってからフェルメールへの信頼度が高まっている証拠が次第に増えてくる。フェルメールも蓄財、家計などの才はなかったが、誠実だったのかもしれない。
 
大変だった子供の養育
 フェルメールは実際の生計を立てる上で、この義母と親戚などに助けられるところがきわめて大きかった。熱心なカトリック教徒であった義母とその親族の影響を受けて、カルヴィニストであったフェルメールの心は大きく揺れ動いていたに違いない。フェルメールと妻の間には15人の子供が生まれ、当時のオランダでも珍しい大家族だった。この子供たちを育てるだけでも、かなり大変であったことは容易に推測できる。

 子供の数の多さという点では、ラ・トゥールの場合に似ているが、ラ・トゥールの子供たちは大半が乳幼児の時に死亡している。オランダとロレーヌの環境風土の差異は、この点でも歴然としていた。
 
 フェルメールの子供たちは、判明している限り、いずれもカトリックとなった。カトリックへの迫害はかえって信仰心をかき立てたといわれるが、熱心なカトリック教徒のマーリアや親族の影響を受けて、カトリック教育もしっかりと行われたのだろう。この時までフェルメールが改宗していなかったとしたら、大変居心地は悪かったはずだ。周囲はすべてカトリックであり、日々の生活の有りようにもその影響は深く浸透していたに違いない。

 実際、マーリアやフェルメール一家が共に住んだ家は、デルフトの「隠れ教会」にほとんど隣接するカトリック教徒が集まって住む地区だった。周辺のプロテスタントはこうした動きに抗議もしたが、集住の動きは強まっていった。カトリック信徒は、シェリフ(治安官)に多額の付け届けをして、お目こぼしを依頼していた。

 こうした環境の中で、「信仰の寓意」は制作された。レンブラントの場合と同様に、フェルメールの遺産目録には、この作品に描かれている物のほとんどが記されているようだ。人気のない作品だが、なかなか興味深い謎を解く鍵を秘めているように思われる。幸いというか、不思議なことに、ゴーダに住む長年の友人で17世紀オランダ美術の研究者と久しぶりに再会する機会が生まれた。最近の研究成果などを聞くのが楽しみになってきた。(続く)

References
Charles Parker. Faith on the Margin. 2008

Valerie Hedquist. ‘Religion in the Art and Life of Vermeer.’ The Cambridge Companion to Vermeer. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(3)

2008年11月25日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer, Saint Praxidis, 1655 (oil on canvas, 105.4 x 85.1cm) The Barbara Piasecka Hohnson Collection.


 17世紀の宗教世界に少しばかり深入りしているのは、いくつか理由があってのことだ。実は書き出せばきりがないのだが、ひとつは、この時代の宗教間の対立と共存の実態に関心を抱いたことにある。17世紀は戦争の世紀でもあったが、ほとんどの戦争が宗教上の対立に関連していた。宗教という精神世界での対立は、この時代に生きる人々に今では想像できないほど多大な影響を与えた。美術家の制作活動も例外ではなかった。彼らは時代を支配する宗教とさまざまに折り合いをつけながら、制作をしていた。たまたまレンブラントやフェルメールについては、史料が多数残り研究も進んで、かなりの追体験や推測が可能になっているが、同時代の画家たちもそれぞれに生存をかけていた。ここで、フェルメールを取り上げているのは、この問題を考えるに、きわめて適切な材料が豊富に含まれているからにすぎない。

転機になった画家の結婚 
 前回記したように、ヨハネス・フェルメールの両親は、少なくも当時のオランダ改革教会の流れに身を置いていたようだ。改革教会の正会員ではなかったようだが、「緩いカルヴィニスト」であったのだろう。 フェルメールの転機は結婚とともにやってきた。画家ヨハネスと妻となったカタリナ・ボルネス Catharina Bolnes(ca.1631-88)とが、どこで、いかなるきっかけで出会ったのか、推測はできても本当のところはわからない。しかし、結婚に際して二人の宗派が異なったことが、かなりの障害となったことは顕著な事実のようだ。  

 ヨハネス・フェルメールは、ただ一人の姉が洗礼を受けた同じ新教会で幼児洗礼を受けていた(他には兄弟姉妹がいなかった)。改革教会(カルヴァン派)が家族の宗教だった。ヨハネスはそれについて、青年になるまでは深い疑問などを感じてはいなかっただろう。

 フェルメールの実家であるデルフトの宿屋「メーヘレン」は、マルクト広場で新教会に対していた。これも前回記したように、父親は宿屋を経営する傍ら画商として絵画取引もしていた。若いヨハネスがここに来た画家や画商から、さまざまな情報を得ていたことは想像に難くない。しかし、画家ヨハネスが修業時代を含めて、デルフト以外にどこまで旅をしたのかは、一切不明である。ユトレヒト、アムステルダムくらいは行っていると思われるが、イタリアまで画業修行の旅をしたかは分からない。17世紀の画家で徒弟など画業修業の時期は記録がなく、空白であることが多い。出生の時は洗礼記録などでかなり確認できることが多いが、その後画家として世に認められる時までの記録はほとんど得られないのだ。
若い画家ヨハネス・フェルメールと彼の妻になったカタリナ・ボルネスの出会いもほとんど明らかになっていない。     

 ヨハネス・フェルメールが結婚することを決めた時は20歳を越えており、徒弟などの修業をほとんど終えて、親方職人に向けて制作に没頭していた頃だろう。周囲の状況から推測するに、すでにその将来が期待される若い画家という評判が生まれつつあったようだ。この点は、地域はまったく異なるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの結婚した状況に似ているところもある。  

 他方、カタリナは貴族の家の出自で、ゴーダ(ハウダ)近郊の大地主の家に生まれた熱心なローマ・カトリックだった。  当時、異なった宗派に属する男女が結婚することはなかったわけではない。しかし、それぞれに難しい問題を抱えていた。

大きかった義母の存在 
 フェルメールの結婚に際しては、大きな障壁となったのは新婦カタリナ・ボルネスの母親マーリア・ティンスの存在だった。二つの文書がヨハネスの信仰問題について、解明の手がかりとされてきた。  

 ひとつは1653年4月5日付の公証人の署名が入った文書だ。フェルメール側のプロテスタントの船長 バーソロミュー・メリング Bartholomeus Melling とカタリナ・ボルネス側に立つ レオナルド・ブラーメル Leonard Braemerが証人となっている。二人ともヨハネスやカタリナとほとんど同世代の若者だったようだ。

 マーリア・ティンスは熱心なカトリック信者だったが、この時は離婚・別居の状態だった。身持ちの悪い夫との20年近い家庭内のいざこざの挙句、夫をゴーダに残し、自分はひとりデルフトへ移っていた。

 彼女の対応は、娘を改革教会派(カルヴァン派)の信者とは結婚させないようにとの地元の役人の警告にも支えられていたようだ。当初ティンスはこの結婚に同意しなかったが、デルフト市庁舎での結婚登録の担当者は、寛容でそうした反対理由を認めなかったらしい。  

 もうひとつの文書は1653年4月5日付でヨハネスとカタリナの結婚の登録を記録したものだ。デルフト郊外の小さな村スヒィプライ Schipluyで1653年4月20日、結婚にかかわる宗教的儀式を行っている。多くの専門家が4月5日から4月20日の間にフェルメールがローマン・カトリックに改宗したのではないかと推測している。フェルメールが義母マーリア・シンスの同意を確保するために改宗したのではないかという理由だ。義母が娘の結婚に反対することを公告にせず、耐え忍んだことへ対応したのではという推測だ。  

 スヒィプライという小さな村は、カタリナの実家があったゴーダから来たジェスイット(イエズス会)の司祭がおり、ローマン・カトリックの拠点になっていたようだ。当時のカトリック信者は、すでに公開の場でミサを執り行うことができなくなっていた。そこで、新婦の身内は、なんとかカトリックの儀式ができるこの教区を望んだようだ。この小村で新夫妻は納屋か私宅の隠れ教会でひっそりと挙式したようだ。  

隠れキリシタン
 フェルメールにとってカタリーナと結婚することを考えるようになってから、ローマン・カトリックは急速に切実な問題となったと思われる。義母のマーリア・シンスの家系はきわめて熱心なカトリック信者だった。家系のカトリック信仰の深さを示すひとつの例として、マーリアの妹エリザベスがルーヴァンで修道女になっており、その他の姉妹は結婚しなかった。 ネーデルラントでのカトリック信仰が公的には禁じられた後でも、自宅で密かにミサを上げていたようだ。こうした行為にはローカルのシェリフが介入したため、目こぼしを期待した付け届けが一般的に行われていた。 

 デルフトへ移ったマーリア・ティンスは、いとこで保護者としてゴーダ出身のヤン・ティンスが1641年に購入した家に住んでいた。この家はアウエ・ランゲンディク Oude Langendijk という通りにあった。そこはジェスイットがデルフトで最初の伝道教会を設けた場所と同じ通りで、カトリック信者たちなとが多く住んでいた。カトリック信仰が禁止された後は、隠れ教会がある場所として知られていた。単に信徒ばかりでなく、デルフト市の職員の間でも知られた存在だった。密かな宗教活動を黙認してもらうために、市の職員に年2000-2200ギルダーの賄賂が支払われていた。  

 プロテスタント側からは再三抗議があったようだが、こうしたサンクチュアリともいうべき隠れ教会は1550-1660年代にかけて、ジェスイット伝道教会の近くなどに多数開かれていたらしい。マーリア・ティンスの住んだ地域は、俗に「カトリック通り」 paepenhockとして周知の場所となっていた。

 1641年にマーリア・ティンスのいとこがこの家を買った時、彼はおそらくデルフトのジェスイット信徒にミサなどのサーヴィスができる場あるいは学校など、賃貸料が得られるようなことを考えたのではないかと思われる。そして1641年ころまでに、フェルメール夫妻は、この場所へ移住する。なにがあったのだろうか。(続く)

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(2)

2008年11月19日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer. Christ in the House of Martha and Mary 1654-55 (?) Oil on canvas, 160 x 142 cm National Gallery of Scotland, Edinburgh  


 宗教改革後のネーデルラント(オランダ)におけるプロテスタント、とりわけカルヴィニズムとカトリックの関係は、厳しく抑圧された社会状況で信仰の選択がいかに行われるかという問題を考える際に、興味ある材料を提供してくれる。当時カトリックなど迫害の対象となった宗教各派のアイデンティは、いかに確保されたのだろうか。画家の制作活動にはいかなる影響があったと考えられるか。レンブラントやフェルメールなどの画家たちは、なにを考えて制作活動をしていたのか。この時代の宗教世界の状況をできるかぎり正確に把握しておくことが、作品の鑑賞の上でも新しい視点を開いてくれるような気がする。

スペイン支配への反乱  
 16世紀宗教改革において、ネーデルラントでは、ルター派の影響はあまり強くなかった。この地域は1560年代にカルヴィニズムの強い影響を受け、主としてカトリックからの改宗が進んだ。当時この地はカトリックのハプスブルグ・スペインの統治下にあり、フェリペII世は台頭するプロテスタントへの厳しい弾圧を実施し、異端審問の対象とした。当時のスペインは富と軍事力の双方で、世界最強を誇る一大王国だった。   

 こうした状況下で、ネーデルラントのカルヴィニストは、カトリックへの反乱を起こす。最初の反乱は1566年に南ネーデルラントの小都市に起こり、カトリック教会の聖像、聖人画などの徹底した破壊活動(イコノクラスム)を行った。その破壊のすさまじさは、今日においても実感できるほどの荒涼たる結果を生み、カルヴィニストの間にも行き過ぎの声があったほどであった。カルヴィニズムの創始者であるジャン・カルヴァンは当初フランスから追われ、各地を流転した後、ジュネーヴに戻り権力の座につき、そこを活動の中心とした。そして、カトリックあるいはプロテスタントの他の宗派に対して、きわめて苛酷で容赦ない対応をするようになる。聖像についてのカルヴァンの厳しい考え方は、より緩やかな対応をしたルターとは大きく異なっていた。   

80年戦争の勃発
 他方、スペインのフェリペII世は、アルバ公が率いる軍隊を派遣して、カルヴィニズムに対する容赦ない弾圧を実施し、ネーデルラントの独裁的支配の強化を図った。ここでカルヴィニスト側は、ついに武力闘争に立ち上がった。1568年にカトリック信徒から改宗したヴィレム・ファン・オラニエ公を指導者として、カトリック・スペインの支配からの独立を目指し、80年戦争(1568-1648)といわれる長い戦いが始まった。この時代の戦争は、現代のそれとは様相もかなり異なり、休戦期間が入ったりして、断続的であった。(1579年にはユトレヒト同盟が北部7州の間で結成され、1581年にはスペインからの独立を宣言した。)

 この戦いの間にも宗教間の争いは進み、1572年には北ネーデルラントのホーラント、ジーラントは、カルヴィニストが圧倒するまでになった。この2地域では、それ以前からかなりの数のカトリック教徒が、カルヴィニズムへ改宗していた。カルヴィニストが圧倒的になった地域のカトリック教会は、カルヴィニズムの教会(オランダ改革教会)へと転換させられた。しかし、他の地域はほとんどがカトリック優位のままであった。  

 カルヴィニズムが国教化したネーデルラントでは、カトリックなどの他宗派がすっかり追放されてしまったような記述に出会うことがあるが、実際はかなりの寛容度が保たれ、多宗教・宗派が共存していた。その実態は時期や地域でかなり異なっていた。  80年戦争勃発前のネーデルラントでは、宗教的にはカトリックの影響が大きかったが、プロテスタント、ユダヤ教などにも比較的寛容な宗教風土が保たれていた。しかし、スペインとの戦争が激しくなるに伴って、カトリックに対するカルヴィニストの反感、敵意、憎悪も増大していった。カトリック教会の没収、破壊、司祭の追放などが行われた。

  他方、多くのカトリック信徒はプロテスタントの拡大は一時的なものであり、再び自分たちの時代が来ると考えていたらしい。そして、いずれカルヴィニストの中にも改宗者が出るだろうと期待していた。しかし、現実には聖職者の国外追放などで、地方を中心に教徒の数は減少していった。そして、オランダ西部の都市ではドイツ、フランドル、フランスなどからプロテスタントの流入が目立ち、プロテスタントの文化がしだいに根付いていた。    

 この時代、ネーデルラントはローマン・カトリック布教の重点地域とされ、「ホーラント・ミッション」と言われるカトリック布教ミッションも活動していた。1635年頃にはオランダ共和国全体で2500人近くがカトリックへ帰依したという報告もあった。17世紀に入ると、イエズス会(ジェスイット)は、この地のカトリック信仰基盤を維持・拡大させたいと大規模な活動にとりかかった。全体にカトリックからカルヴィニズムへ改宗する傾向が強まっていたが、イエズス会が活動できる地域では巻き返しの動きもあった。フェルメールが活動したデルフトなどではいかなる状況であったか。大変興味を惹かれる点だ。

 カトリックへの攻撃が激しかった地域では、聖職者が国外追放されたりした。彼らの中で活動的だった者は、ケルンのカルドシオ修道会 Carthusian St. Barbara Monasteryへなどへ逃げ込んだ。ここは、16世紀末の北ネーデルラントに居場所を失ったカトリック聖職者が頼りとした最重要なところだった。ケルンはアントワープと並び、当時のカトリック宗教改革推進のための出版センターでもあった。他方、聖職者が不足したデルフトなどでは、1570年代に神学校 Alticollense seminary を作り、地元において聖職者の養成を行うという試みもなされた(Parker 28-30)。 

混沌とした宗教世界  
 全体としてみると、17世紀初頭ネーデルラントの宗教世界は、文字通り、混乱、機能不全ともいうべき状況にあった。しかし、1615年画家ヨハンネス・フェルメールの両親が結婚した頃には、プロテスタントがほぼ宗教世界での勝利を収めていた。オランダ改革教会 Dutch Reformed Churchに拠るカルヴァン派に加えて、ルーテル派、メノナイトなどのプロテスタント宗派が、カトリックが失った地盤を奪取しようと競っていた。  

 現実として、国家的布告ではカトリックは否定されていたが、宗教的自由はかなり認められていた。たとえば、ユトレヒトなどでは人口の多く、行政主体はカトリック教徒が占めていた。カトリックは地域の行政担当の役人を買収し、納屋や自宅などで秘密裏に活動を続けていた。役人に支払われた賄賂の標準額までわかっている。こうした苦難の時期を経て、ネーデルラントのカトリックが再活性化し、信仰主体として地盤を確立するのは17世紀中頃であった。

フェルメールの両親の結婚
 画家ヨハネス・フェルメールの宗教的背景を知るには、彼の両親の宗教にまで遡って見ておく必要があろう。フェルメールの場合は、その家族や姻戚などの記録が古文書としてかなり残っていたこと、モンティアスなどの後世の研究者の努力などがあって、この時代の宗教風土を推測するに格好の事例となっている。

 レイニール・ヤンスゾーン・フェルメール(alias;Vos, ca.1591-1652)とディフナ・バルテンス(ca.1595-1670)は、1615年アムステルダムで結婚した。花婿は当時は織物織工だったらしい。花嫁はアントウエルペンの出であった。式を司ったのはカルヴィニストの改革教会の聖職者だった。レモンストラントでデルフト新教会牧師が、デルフトの外での結婚について花嫁側の証人となった。この結婚は新夫妻が改革教会の信仰秩序の下に入ることを意味していたが、新夫妻のいずれも改革教会の正会員(聖体拝領の秘蹟を授ける儀式に参列できる)たる記録を残していない。さほど熱心なカルヴィニストではなかったことが分かる。ちなみに、フェルメールの祖母、叔母、曾祖母はすべて改革教会の正会員だった。式には当時一般に見られたカルヴィニスト、カトリック、レモンストラントなどが参加したものだった。こうした祝い事などの折は、宗派を問わず集まったようだ。    

 フェルメールの両親が生活の場としたデルフトでは、新教会Nieve Kerkが宗教・公的生活の中心となった。新教会は重要なカルヴィニストの家族にとっての交流の場であった。この教会にも1556年10月に最初のイコノクラスムの波が襲い、改革者たちは多くの装飾があった内陣を大きく破壊、変更し、聖人像などを破壊した。17世紀初めまでにすでに250年の歴史を持っていたこの教会は、1584年に暗殺されたヴィレム・ファン・オレニエ公という国家的英雄の墓所ともなった。

 新教会と並んで旧教会 Oude Kerk もすでに1570年代にカルヴィニストが占拠し、聖像、聖人画などを撤去していた。このため、カトリック信者は公共の場でミサなどの宗教上のサーヴィスを受ける場を失った。こうした状況で、カトリック聖職者の間では、教会にかかわる奇跡などの伝承を布教のために生かそうと、かつて存在したマーリア・ジェッセ Maria Jesse など失われた聖像にかかわる奇跡の記録などが作成されていた(Parker 179)。   

 1620年にはフェルメールと唯一、姉弟の関係になるヘルトライが新教会で洗礼を受け、1632年10月31日には同じ教会でヨハネス・フェルメールが洗礼を受けた。ヨハネスには他に兄弟姉妹がなかったようだ。フェルメールの父親レイニールは、しばらくフォルデルスフラハトで「空飛ぶ狐」 De Vliegende Vos の屋号で居酒屋を兼ねた宿屋を経営しながら、画商もしていたようで、そのために1631年には画家・工芸家ギルド「聖ルカ組合」にも入会していた(この宿屋は後に聖ルカ組合の本部が置かれる場所となった)。その後1641年、マルクト広場に面した「メーヘレン」 Meehelen の屋号で知られる大きな家を購入、転居し、宿屋と画商を再開した。この年、後の画家ヨハネス・フェルメールは9歳だった。

 1648年、ミュンスター協定で、オランダとスペイン間の戦争は終止符が打たれ、ウエストファーリア条約が締結され、ヨーロッパ諸国は、オランダの独立を承認した。

 1652年にはフェルメールの父親レイニールが死去。宿屋の経営と画商の仕事は唯一の息子ヨハネスが継承したと思われるが、日常の仕事は母親がしていたのかもしれない。この時、ヨハネスは20歳であり、すでにどこかで徒弟修業を終わり、画家としての独立の道を歩んでいたと思われる。
(続く)

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隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(1)

2008年11月06日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer. Allegory of Faith, ca.1672-4, oil on canvas, 114.3 x 88.9 cm. New York: The Metropolitan Museum of Art, The Friedsam Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.

  オバマ新大統領の当選演説を聞いて、さまざまなことを考えさせられた。そのことについては、いずれ感想を記すこともあるかもしれない。とりあえず強く印象に残ったのは、彼の当選は、アメリカという国にあった多くの厚い壁を壊す過程でもあったという点だ。多少、この国をさまざまな折に体験した一人の日本人としても、ついにここまで来たかとの思いで感動する。

 アイルランド系カトリックであった J.F.ケネディ大統領当選の状況と似通っている点も感じられた。ケネディの場合は、アイルランド系とカトリックという厚い人種と宗教の壁があるといわれていた。もうひとつの近似点として。
オバマ氏の選挙戦回顧の中に、JFKと同様に熱狂的な歓迎を受けたベルリンでの演説があった。そこでは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の壁を打破するという力強い言葉が聞かれた。ひとつの連想が生まれた。

 このブログで時々取り上げている17世紀の画家たちの作品を見ていて気づいたことだが、画家そして、彼らが活動していた社会の宗教的風土が持つ重みだ。この点を解き明かさないかぎり、作品の深奥が見えてこない。たとえば、フェルメールやラ・トゥールの信じた宗教、宗派は、なにだったのだろうか。答はそれほど簡単には出てこない。

画家の制作活動と宗教
 画家と信仰の問題は、直接・間接に画題の選択、描き方にかかわってくる。ひとつの例を挙げれば、フェルメールの晩年の作品『(カトリック)信仰の含意』Allegory of Faith. Ca.1672-74 が描かれた状況だ。フェルメールの制作歴の中では、少なからず<すわりの悪い>作品とされている。現存作品の中では、初期の作品といわれ、比較的含意が読みやすい『聖女プラクセディス』と『マリアとマルタの家のキリスト』(そして『ダイアナと侍女たち』)を除くと、ほとんど唯一、宗教的寓意が明瞭に意識されている。この絵の依頼者はいかなる人物だったのだろうか。カトリックの信仰者であったらしいことは推定できるが、フェルメールとはいかなる関係にあったのだろうか。

 制作した画家フェルメール自身が、心の底で信じていた宗教・宗派はなんであったのか。この点が明らかになると、画家の作品世界にさらに踏み込めるかもしれない。他の作品の解釈も一段と深まる可能性がある。たとえば、仮に画家フェルメールが改宗してカトリック教徒になっていたとしたら、宗教色のない風俗画に特化するのは、当時のネーデルラントの社会状況で画家として生きるためには当然の選択となったはずだ。カトリック信仰と直接的につながる画題での制作は、カルヴィニズムを掲げる新教国となった当時のネーデルラントでは、少なくも表向きはできなかった。

 しかし、この画家と宗教の問題を解明するには大きな難問が待ち受けている。フェルメールが生きた時代までは、400年近い年月を遡らねばならないし、個人が信じていた宗教という精神世界の問題である。ことはさほど簡単ではない。しかし、フェルメールは、幸いオランダ、デルフトという史料もよく保存された国、地域で画家としての活動をしていた。そして直接、間接に研究の蓄積もかなりある(ほとんど同時代ながら、戦乱、疫病、飢饉などで荒廃の極みを経験したラ・トゥールのロレーヌとは決定的に異なる点だ)。

 17世紀ネーデルラントというカルヴィニストの国で、カトリックの信者はいかなる状態に置かれていたのだろうか。手元にある資料を見ながら少し考えてみた。ただし、美術史家ではない、ひとりのアマチュア美術愛好者としての管見にすぎないことをお断りしておきたい。しばしば例として挙げるフェルメールについては、特に記すことのないかぎり、この画家の生涯を原資料の発掘というきわめて地味な仕事を通して、しっかりと位置づけたMontias を思考材料としている。 

 フェルメールは、結婚を機にカトリックへ改宗したとの解釈はかなり有力だが、現存する史料からの推論であり、十分に確立されたものではない*。いわば、状況証拠からの推論である。信仰は個人の心の内面の問題であるだけに、教会登録記録あるいは個人の信仰告白など明確な証拠がないかぎり、それほど簡単に断定はできない。迫害を恐れ、自らの信仰をできるだけ隠していた人々も多い時代だった。

 蓋然性という点からだけみれば、カルヴィニストの両親の下に生まれ育った画家フェルメール Johannes Vermeer が、カトリックへ改宗することは、新教国として独立した新生ネーデルラントでは、社会生活の上でも多くの問題を抱え込むことでもあった。多くのカトリック教徒がカルヴィニストとして改宗したり、国外へ逃げていた。そうした状況下で、フェルメールが改宗したとすれば、かなり特別な事情があったと思われる。

予想外に緩やかだった信仰選択?
 最近はさまざまな分野での研究成果で、これまで不明だった領域にも少しずつ光が当てられている。たとえば、17世紀初め、厳格な新教カルヴィニズムで塗りつぶされたかに見えるオランダ社会においても、「オランダ・ミッション」Holland Mission **として知られるカトリック側の組織的な布教活動の具体的事実
がさまざまに明らかにされてきた。ミクロ・レヴェルまで下りると、なかなか興味深い事実がある。

 宗教戦争での勝利を経て、国教の地位を確立したカルヴィニズムの下で、カトリック信仰は少なくも社会的に表面には出られなくなった。公式には1580年代初期までに、オランダ共和国では、カトリックにかかわるすべての活動が禁止されていた。しかし、現実にはローカルな町や村ごとに、実態と対応はかなりさまざまであったようだ。カルヴィニスト、カトリック、メノナイト、ルター派などの間で、かなり流動的な宗教上の選択が行われる余地があったらしい。レンブラントの時代のユダヤ人の問題については、ブログでも少し記したことがある。サーエンレダムなどによって教会画といわれるジャンルで描かれた状況についても、多少記した。

苛酷なカトリックへの抑圧の時期
 オランダ人は今日においては異文化に寛容な国民といわれるが、カトリック、スペインとの戦争状態にあった時は、当然とはいえ、状況はきわめて異なっていた。宗教改革でプロテスタント(カルヴァン派)からの直接的批判の対象となったカトリックへの攻撃は、オランダでは時に苛酷、苛烈なものとなり、教会内外の偶像破壊、信者に対する抑圧など、さまざまだった。
 
 1572年、ヴィレム・ファン・オラニエ公を擁した北ネーデルラントは、スペインからの独立を求め、反乱を起こした。当初、ヴィレムは宗教面でも寛容さを示すが、カルヴィニストのカトリックへの敵意は強く、短命に終わった。1584年には、ヴィレムはデルフトの自宅で暗殺されてしまう。スペイン総督はヴィレムの暗殺のために懸賞金まで出していた。ヴィレムはオランダ独立のために、すべてを投げ打ち、清貧に甘んじた志の高い指導者だったようだ。結果として、カルヴィニストのカトリックへの攻撃はさらに強まり、教会の没収、破戒、司祭の追放などが行われた。

 宗教間の争いは、17世紀に入ると、カトリック対プロテスタントの抗争にとどまらず、プロテスタント間の争いにまで拡大した。オランダ改革教会 Dutch Reformed Church に拠る保守的なカルヴィニストとルーテル、メノナイトなどとの対立である。彼らはカルヴィニストに追われたカトリックが失った部分を争奪にかかった。かくして17世紀初めの北ネーデルラントの宗教世界は、概していえば、混乱、機能不全ともいうべき状況であった。

カルヴィニスト宗派間の争い
 
紀半ばには、デルフトその他で、DRCのみが公的認知を受け、他のプロテスタントは抑圧の対称となった。そして、状況を複雑にしたのは、カルヴィニストの間にも分裂が進んだことだ。レモンストラント Remonstrants と呼ばれる寛容的な一派があり、アルミニウス Jacobus Arminius(1560-1609)をリーダーし、アルミニウス派と呼ばれていた。これに対してより正統なカルヴィニストがいた。彼らは反レモンストラントであり、コマルス Franciscus Comarus(1563-1641)を指導者としていた。両派の争点は、予定説 predestination といわれる問題、国家と宗教の関係などにあった。


 こうした宗派間抗争の結果、アルミニウス派は、デルフトその他の地で、ローマン・カトリックに包含される。ネーデルラントの国家布告ではカトリック信仰は否定されたが、それまでの継続もあって現実には宗教的自由はかなり認められていた。ユトレヒトのような地域では、人口の多く、そして行政主体もカトリックのままに残されていた。

 もちろん、カトリック側は抑圧や攻撃を回避するために、さまざまな手当てをしていた。地域の保安官 sheriff に心づけを与え、納屋、倉庫、自宅などで宗教儀式を行っていた。厳しい逆境に置かれながらも、オランダのカトリックはいつか環境が改善されるまでとひたすら、礼拝、教育を続けていた。

  デルフトに住んでいたフェルメールと家族、姻戚たちを取り囲む宗教的状況は、いかなるものだったのだろうか。連想が広がってゆく。


References
*
日本語文献については、次に簡潔、的確な説明、推論がある。
小林頼子『フェルメール論』 八坂書房、2008年

最近の研究成果については:
Valerie Hedquist. 'Religion in the Art and Life of Vermeer' The Cambridge Companion to Vermeer, Edited by Wayne E. Franis.Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
本書は、フェルメールに関心を抱く者には、
John M. Montias.Vermeer and His Mileau: A Web of Social History, 1989 と並ぶ必携の書だろう。この画家に関する基本的情報が豊富に含まれている。ちなみに、Montiasの労作なしに、今日のようなフェルメール研究の進展はないといえる。
**
Charles H. Parker. Faith on the Margins. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 2008.

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フェルメールを発掘した人

2008年10月10日 | フェルメールの本棚

  東京都美術館では「フェルメール展」が開催中だ。また、さまざまな話題が生まれるだろう。美術好きといっても、多くの人は作品の鑑賞が中心で、画家の生涯やその時代まで立ち入ってみたいと思う人は比較的少ない。しかし、作家の時代的背景などを知ることは、専門家でなくとも作品鑑賞に新たな興味を付け加えてくれることは確かだ。作品の見方が大きく異なってくる。

 時には、美術史の専門家ではないことが、固定した視角にとらわれない斬新な論点を付け加えてくれることもある。フェルメールの研究においてもそうした人物がいた。本来は
美術史家ではない研究者の努力が、大きな貢献を果たしたのだ。

  エール大学教授のジョン・マイケル・モンティアス John Michael Montias は、専門は経済学者でありながら、フェルメール研究の第一人者となった。彼が1989年に出版した『フェルメールとその環境 社会史のネットワーク』*は、この画家が活動した家庭的・社会的基盤や周辺、画家、妻などの家族環境、パトロンの存在などを、オランダやベルギーの17都市の公文書館などに保存されてきた古文書を渉猟し、分析した労作である。フェルメール研究者にとっては、必読の基礎的文献になっている。

 美術史の方法も多様化しているようだが、本書は社会経済史的アプローチとでもいうべきジャンルに入るのだろうか。いずれにせよ、今では本書を読むことなしには、多少なりと立ち入ってフェルメールを論じることはできないほどだ。

 モンティアスが1975年、デルフトで聖ルカ・ギルド(画家のギルド)について調査を始めた時は、フェルメールにはとりたてて関心がなかったという。フェルメールは当時のオランダで活躍していた250人ほどの画家リストの一人にすぎず、画家の生涯についてはすでにほとんど調べつくされたと思っていたらしい。モンティアスはフェルメールの技量には感嘆したが、当初は画家の家族や生活などには関心を抱かなかったという。ところが、ギルドとそのメンバーについての史料を読み解くうちに、フェルメールについての一次資料で、未だ調べきれていない文献、情報があることに気づく。
 
 確かにモンティアスの前に、フェルメールについて、かなりの一次資料調査が行われていた。なかでも、1880-1920年にかけて富豪の御曹子だったアブラハム・ブレディウス Abraham Brediusは、資金に制約されることなく文献調査を行っている。この頃は、史料に書き込みをしたり、自宅やホテルへ持ち出して読むなどのことが行われていたようだ。

 モンティアスはすでに発掘されつくしたと思われる資料を再調査する過程で、新史料に気づき、貴重な発見をすることになる。その特徴は、画家フェルメールと彼の親戚、姻戚
、知人など、関連する人脈についての地道な調査を通して、画家フェルメール、そして彼が生きた17世紀オランダの日常生活を再現するという見事な成果を生み出した。たとえば、気位も高いカトリックの妻カタリーナ、その母マ-リア・シンス(フェルメール結婚時は離婚していた)、義兄ウイレムなど、かなり個性的な人物のイメージが描き出されている。画家の盛期の作品の半分近くを購入したと思われるパトロンとの関係を発見したことも本書の大きな貢献だ。

 画家ヨハネス・フェルメールは、1653年、カタリーナ・ボルネスと結婚したが、ヨハネスはプロテスタント(カルヴィニスト)だった。一説では、カトリックに改宗することを同意の上で結婚したともいわれるが、確認されていない。これも、モンティアスが明らかにしたいと思っていた点であるようだ。ちなみに、フェルメールは長女に義母と同じマーリアというカトリック風の名前をつけていた。

 フェルメールの家族は当時としてもかなり大家族であった。フェルメール夫妻の間には、23年間で15人の子供が生まれている。これは大家族が多かった時代とはいえ、かなり珍しい部類であった。この子供の数が多かったことも、晩年の画家の経済破綻のひとつの要因とされるほどだ。妻の家族からの財政的な支援もあったのだろう。モンティアスの視点は、画家フェルメールの家族を基点に、画家の祖父まで遡り、ほぼ3代にわたる拡大家族の間のネットワークをカヴァーしている。フェルメールの父親がデルフトで宿屋を経営するとともに、画商を営んでいたこと、画家の晩年の経済的貧窮の状況など、興味深い事実が遠い過去の闇の彼方から引き出され、描き出されている。その意味で、画家フェルメールの伝記の範囲にとどまらず、彼の拡大家族、そしてオランダの町の社会史となっている。

 今日では、史料もフォトコピーがとれるような世の中だが、モンティアスは埃にまみれた手書きの古文書の山に分け入って、画家を取り巻く世界、多くは平凡な日常生活の記録から、画家が生きた時代を紡ぎだしたといえる。

 モンティアスの労作は、期せずして、1650年当時、オランダ、デルフトという人口25000人くらいの都市における普通の人々の物語となっている。フェルメールの家族をめぐる小さな世界の物語だが、彼らを取り巻くさまざまな網目が織り成す世界が描き出されている。本書は単にひとりの画家の出自や生い立ちという範囲にとどまらず、画家が制作活動を行った家庭や親戚、修業の過程、制作態度、パトロン、家計状況などについて、詳細なミクロ探査の目を向けた。なかでも画家の作品の半数近くを購入したパトロンの存在を明らかにしたことは大きな貢献だろう。

 従来の美術史家の視野や関心が、ともすれば作品に関わる比較的狭い範囲に限定されてきた束縛から解放し、美術史に新たな光を導きいれた一大労作だ。
  
 300年を超える時代を遡り、各所に散逸し埋もれた原史料を発掘するという作業は、常人にはとてもできるものではない。モンティアスはギルドにかかわる文書を渉猟する間に、17世紀オランダの手書き文書を読みこなすまでになり、その技能と知識をフェルメールに関わる文書の調査・探索に注ぎ込んだ。デルフトばかりでなく、ゴーダやハーグなどの文書館に残る古文書を探索している。

 フェルメールの場合、オランダ、デルフトという大きな戦乱などに巻き込まれなかった地で活動しただけに、一次史料は比較的恵まれた形で継承されてきた。この点は、ロレーヌなどのように、動乱の巷であった地域とは大きく異なっている。しかし、別の分野だが少しばかり似たような調査をした経験からみると、モンティアスのなしとげたことは気の遠くなるような仕事である。いうまでもなく、こうした地道な努力は他の研究者によっても行われているが、モンティアスの仕事は図抜けている。

 本書は57枚の図版を別にしても、407ページというかなり大きな著作だが、中途半端な小説よりもはるかに面白い。よくも一人でここまで調べ上げたという熱気が詰め込まれたような著作だ。フェルメールの研究者でなくとも、大変興味深い内容に魅了されるだろう。小説を読むより格段に面白い。結果が見えない地道な史料探索に生涯をかけた研究者の努力に頭が下がる。これは何度でも読みたい一冊だ。
 
Contents   
Chapter 1. By the Side of the Small-Cattle Market
Chapter 2. Grandfather Balthasar, Counterfeiter
Chapter 3. Grandmother Neeltge Goris
Chapter 4. Reynier Jansz, Vos, alias Vermeer
Chapter 5. Reynier Balthens, Military Contractor
Chapter 6. Apprenticeship and Marriage
Chapter 7. Family Life in Gouda
Chapter 8. Young Artist in Delft
Chapter 9. Willem Bolnes
Chapter 10. The Mature Artist
Chapter 11. Frenzy and Death
Chapter 12. Aftermath
Chapter 13. Vermer’s Clients and Patrons


John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.
407pp+illustrations


Montias は17世紀デルフトの画家と職人についての下掲の注目すべき書籍とかなり多くの論文も残している。
John Michael Montias. Artists and Artisans in Delft: A Socio-Economic Study of the Seventeenth Century. Princeton: Princeton University press, 1982.

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