今年の特徴を1字であらわす文字として、「変」が選ばれていた。「変なブログ」を自認する者としては、「変な」現象、異変は世界で今年に限らず、かなり前から起きていたと思うのだが、今はそれには触れない。ここで記すのは、少し違ったことである。
手にしたばかりの文芸誌『考える人』2009年冬号が、「書かれなかった須賀敦子の本」を特集としていた。この作家の作品は、いくつか読んでいた。文体は平易でほとんどエッセイといってよいものであり、重い感じはしないが、後で心に残るものがあった。
多くを読んだわけではないが、特に印象に残ったのは、『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』の2冊だった。短いエッセイは目に触れた時に、いくつか読んではいた。暇になったら、もう少し他の作品を読んでみたいと思う作家の一人だった。雑事にかまけて、フォローが遅れている間に、いくつかの文芸誌、たとえば『芸術新潮』、『考える人』*の特集が続けて出て、この作家が亡くなってもう10年過ぎたのかと気づかされた。読みたい本のメモは残しておくべきだったと感じたが、いつものとおり手遅れだ。
今回、とりわけ惹かれたのは、『考える人』に掲載されている、書籍になることなく残された未定稿「アルザスのまがりくねった道」であった。作者が目指した最初の小説だったようだ。残念ながら序章だけが未定稿のままに残されている。 作者が人生の途上で出会ったアルザス生まれの友人で、修道女のオディール・シュレベールと彼女の故郷コルマールが出てくる。彼女がなぜ遠い日本へとやってきて、フランスへと戻って行く人生を過ごしたのか。
アルザスそしてロレーヌについては、このブログでも少し記したことがあった。というよりは、この見ようによってはヨーロッパの中心部に位置しながら、多くの過酷な戦乱、災厄に翻弄され、それでも華麗な文化の残照のようなものを残し、今ではなんとなく忘れられた地域は、自分の人生のかなり早い時期から身体の中に入り込んでいた。今回、作者の未定稿を読んでいて、なにか不思議な思いに駆られた。
作者に実際にお会いしたことはないのだが、非常に多くの脳裏をよぎるものがあった。須賀さんが作家活動に入られる前に、その近くにおられた方何人かとは面識があるのも、今となると実に不思議だ。
今日は記憶をたどるひとつの糸口として、この作品の中から、次のパラグラフを引用しておきたい。あるバス停近くで、作者と修道女の間で交わされた会話の部分である:
「なにが一瞬、彼女をためらわせたのかが知りたくて、わたしはたずねた。いつもはバスに乗るの? あら、もちろん歩いていくつもりだったわ。バスなんて、もったいないでしょう。それに、わたしはこのとしでもまだ歩くのが人より速いの。アルザス人だからよ。アルザスでは、こどものときからどこへ行くにも歩かされるのよ。ここから駅までだって、十分くらいかしら、わたしの足なら。わたしは思わず彼女の顔を見た。彼女よりずっと若い修道女や、学生たちが、その駅に行くバスを待っているのをわたしはよく見かけていたからだ。」(アルザスのまがりくねった道」『考える人』2008年冬号、91ページ)
アルザスへは何度か旅をした。昨年も出かけた。最初訪れたのは、須賀さんの作品のことなど、まったく知らないころである。しかし、アルザス人が健脚で早足であるとは、これまでまったく聞いたことがなかった。この地に住んでいた友人との会話でも話題にはならなかった。彼が歩くことが比較的好きなことには気づいていたが、すでに自動車の時代へ入っていた。この地をめぐる時はいつも車を使った。
須賀さんが記しているバス停の場所も、だいたいあのあたりと目に浮かぶ。そこから想像されるコルマールへのまがりくねった旅の軌跡は、W. G.ゼーバルトの一連の作品に似ているところもある。実は、ヨーロッパの歴史や地理をたどりながら、いつとはなしに、最もヨーロッパらしい部分を奥深く残す地域は、アルザス・ロレーヌではないかと勝手に思いこんでいた。表面は無惨に傷つきながらも、懐深く秘めているような感じといおうか。別に歴史家など専門家の意見を聞いたわけではない。自分だけの思いこみにすぎない。
須賀さんの遺稿は、序章だけで終わっている。その後については、ほとんど単語の断片としかみえない「創作ノート」だけが残されている。旅の終着までの道筋は、ほとんど想像するしかない。それを知りえないことは大変残念だが、その道をあれこれ夢想することは、なにかの支えになるのかもしれないと今思っている。
* 「特集:没後10年 須賀敦子が愛したもの」『芸術新潮』2008年10月
「特集:書かれなかった須賀敦子の本」『考える人』2009年冬号
Photo:YK
Eメールの時代、送受するクリスマスカードの数はすっかり減ってしまった。それでも毎年楽しみにしている何枚かがある。メールにはない手書きの文字の暖かさ、人間味が伝わってくる。そして、いつもなにか力づけられる。
昨年、ブログに記したことがあるカナダの友人の手紙(新しい年へ力をもらう)は、今年も大きな感動を与えてくれた。腰部に障害があり、昨年まで自立歩行が困難であったこの友人は、今年何度目かの手術を受け、なんとか立てるようになったのだ。長らく勤めた大学を引退後、まったく異なった領域である園芸に生きがいを見出した彼は、水を得た魚のように大活躍!今年は手術後のリハビリを兼ねて、なんとスペインまで旅をしたとのこと。昨年は庭園や植物改良の情報を得るために、車椅子でロンドンのキューガーデンを見に行っている。
レバノンで復興支援の活動をしていた息子が帰宅した折、念願のファウナ(ある地域・時代の動物相)創生の一端として、馬の放牧地を作ったとのこと。今年は広大な草原の一部を木柵で囲むことができ、自由に馬を遊ばせていると伝えてきた。狭い厩舎から出ると、馬も自然に戻り、生き生きとしてくるらしい。元気のない人間はどうすればいいのだろうか(笑)。
今年は別の友人からの手紙にも、大きな驚きと喜びが満ちていた。この人はアメリカで長らく小さな会社の経営に当たっていた女性だが、数年前に退職し、友人(この方も女性)と二人でNPOを立ち上げた。今は二人とも70歳近い。このNPOは、さまざまな理由で、精神的にトラウマ(大きな心的外傷、Traumatic Brain Injury )を負った人たちのケアに当たることを活動内容としている。いくつかの話から想像するに、それ自体とても大変な仕事である。職業上の資格も要求され、開設自体容易ではない。スタッフの養成、管理も必要だ。
実は、このNPOの二人の中心人物が共に、言葉に言い尽くせないトラウマを負っていた。その出来事自体が衝撃的であった。かなりの時が経ったので、記してもよいだろう。ある偶然の機会にそのことを知ったのだが、10数年前、フロリダに引退していた彼女の母親(一人暮らし)が、ある日自宅で何者かに殺害され、金品を奪われていた。警察捜査の結果、逮捕された犯人は、いつも庭の芝刈りを頼んでいた隣家の若者だった。母親はこの若者を大変信頼していたらしい。そして、母親思いだった娘である友人の悲しみは想像に余るものがあった。しかし、彼女はそうしたことをほとんど誰にも話さず、癒しがたい心の傷を負った人たちを救おうとこの活動を始め、社会人として立派な仕事をしてきた。そして、今年その活動に対して、連邦政府から表彰を受けた。
彼女の良きパートナーとして、このNPO活動を続けてきた女性も大変素晴らしい人物だ。しかし、数年前に彼女も大きな事件で衝撃を受けた。それでも立ち直り、立派な仕事をしてきた。しかし、さすがに今年は重圧に耐えかねたのだろう。1年間仕事をオフにしたという。それでも裏側でしっかりとパートナーを支え、お祝いのパーティなどを内緒で企画し、人々を感激させた。皆がお祝いに贈ったものは、最新のマウンテン・バイクだった。
アメリカという国、決して住みやすい国ではない。とりわけ、この数年は国力が低下、国論が分裂するほど荒涼たる精神世界が展開してきた。これまでのクリスマスカードにも、その一端がいつも記されていた。しかし、今年のカードは喜びと希望で溢れていた。オバマ効果もあるかもしれない。しかし、それだけではないように思えた。カードは次のように結ばれていた:
「新年は必ず良い年になると確信してます。次の世代のために、緑溢れ、平和で素晴らしい世界になるように力を貸してください。」
We are definitely more optimistic about the coming year. I hope you will join us in working to create a greener, more peaceful and more loving world for the next generation!
「変なブログ」のこちら側 This Side of a Strange Blog
ブログ界の主流とは遠く離れた、この「変なブログ」、なんとか今日まで続いてきた。元来、管理人の老化防止策を兼ねたメモ、備忘録代わりが目的だから、とりあげるトピックス、内容ともにきわめて偏っている。初めてアクセスされた方には、なんのことか分からないでしょう。友人の一人の感想:「なにかごちゃごちゃ書いてるなあ(笑)」(ご指摘のとおり!)。
記事を書いている本人以外には、テーマの選択、脈絡が分かりにくい。そのためもあってか、訪問者数に比してPV(閲覧)数がやたらと多い。記事作成が比較的柔軟にできるのは、ブログというメディアの長所ではあるが、限界もある。短く簡潔に書くというのが、ブログの鉄則?のようだが、最初から無視している。元来メモ代わりなので、他人にとっては役に立たないつまらないこと、瑣事も、しばしば記すことになる。
17世紀の画家の世界と、移民労働者のような現代の問題を、どうして一緒に扱っているのか。その意図をある程度分かっていただくには、ブログ内情報の蓄積がある水準に達するなど、かなり熟成の時間が必要だと思っている。世の中には、言葉を尽くさないと話し手や書き手の意図が伝わらないことも多い。対面して話をしていても、こちらの意図がまったく伝わっていないと思うことはしばしばある。ブログの限界も見えてきて、そろそろ閉幕の時なのかもしれない。
もともと、確たる見通しがあったわけではない。ブログを開設する時から、どんなことになるのか皆目見当がつかなかった。そこで自分なりにワーキング・ルールを作ってきた。
1)ひとつの記事について、資料の確認などもふくめて、PC関連作業に一日2時間以上は使わない。視力も低下し、入力ミスも増えた(大体は電車の中や歩いている時などにトピックスを思いつくので、入力は30分もかからない。)
2)考えがまとまらない日や忙しい時はなにも書かない。日記代わりにするつもりは当初からない。
3)自分からトラックバック、リンクなど、面倒なことはしない(これは試行錯誤の結果で、当初は少し試みたのだが)。
要するに、マイペースで書きたいことだけをメモに書き、書くことがなくなったり、意欲がなくなったら直ちに閉鎖するつもりだった。その点は今も基本的には変わらないが、多少困ったこともできた。 ブログでしか得られない、思いがけない出会いが生まれたことである。めったに会わない友人よりも、近い関係のような方もおられる。不思議なご縁だ。「袖振り合うも多生の縁」「一期一会」と思うのだが、IT上では「袖振り合っても」、分かりませんね。
新年は多難な年になることは、ほとんど確かなものになってしまった。かねてから「見るべきものは見つ」という思いもしているのだが、もう少しだけ、行方を確かめてみたい気もしてきた。
アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)が12月16日の公開市場委員会で、政策金利を年1.00%から過去最低の0.00~0.25%に引き下げると発表したことで、今回の不況は大きな転機を迎えた。アメリカにとっては史上初のゼロ金利である。事態はかつてない局面へ入った。
不況はインフルエンザのようにグローバルな次元へと拡大し、ほとんど同様な症状を呈している。そのひとつが雇用情勢の悪化だ。労働者の間では、移民(外国人)労働者、有期雇用労働者、先任権 seniority が短い労働者などが、最も深刻な影響を受けている。外国人労働者については、日本でもようやくメディアに取り上げられるようになった。外国人の集住地域では、解雇され、職を失った日系ブラジル人などが留まるか、帰国すべきかの岐路に立たされている。
苦境に立っているのは、先進国の労働者にとどまらない。1、2ヶ月前まで、「わが国の経済は底堅い」と指導者が胸を張っていた中国でも、農村部から都市部へ出稼ぎに来た農民工が同様な状況に追い込まれている。その数2億人ともいわれる農民工が都市部で働いているが、建設工事、輸出産業の不振などで失職した労働者が、農村へ戻る動きが見られる。しかし、いずれの場合も、戻った先に仕事の機会がないことが問題となっている。(農民工も広い意味では出稼ぎ労働者の範疇に含まれる)。
このたびの大不況で、アメリカに不法滞在していたメキシコ人労働者などが、帰国を決意する動きが現れていることはすでに記した。その後、具体的な事例が報じられるようになった*。
メキシコ、ミチョアカン州、シンキアという人口700人ほどの小さな村の例が報じられていた。メキシコではどこにも見られるような村である。この村からアメリカへ出稼ぎに行った労働者たちからの送金は、村の全所得の12%近くになる。この村からアメリカ、フロリダは働きに行っているセレゼロさんは1児の母だ。母子家庭で娘を妹に預け、出稼ぎにアメリカへ行った。
彼女は、毎週1500ペソ(110ドル)を送金してきた。しかし、今回の不況で失業してしまった。住宅不況とリンクする建設労働者の失業はひどく、他の産業でも仕事は見つからない。彼女は帰国することにした。生活費が高いアメリカで失業しているよりは、メキシコで失業しているほうがまだましという判断だ。
ところで、World Bankの推計によると、今年1-8月、アメリカからメキシコへの送金は前年比でマイナス4.2%に達した。しかし、メキシコ中央銀行の発表では、10月にこの比率は大きく跳ね上がって上昇した。その背景には、多分失職した労働者が、帰国前にそれまで貯めていた現金を送金しているためと推定されている。 Pew Hispanic Center によると、アメリカの不況の深刻化とメキシコからの越境が難しくなっていることが重なって、1200万人と推定されるアメリカ国内の不法移民の数はピークを打ち、やや減少している。アメリカ経済の深刻な悪化に伴って、隣国メキシコの経済も窮迫しており、ペソの価値も低下が著しい。
アメリカは、この機会に不法滞在者を少しでも減らそうと考えているようだ。国境パトロールが拘束した不法越境者や不法滞在者を積極的に本国へ送り戻している。帰国費用を持たない労働者については、その負担までしている。第一次石油危機後、帰国しない外国人労働者に苦慮したフランス、ドイツなど受け入れ国が実施したが、自発的な帰国者は少なかった。ちなみに、今回の危機で、メキシコのように陸路が使えないエル・サルバドルなどの場合、アメリカ側は航空機でピストン輸送で送り戻している。といっても帰りは乗客のいない空の運行となる。不法移民の送還費用は一人680ドルかかるといわれるが、アメリカも今や背に腹はかえられないのだ。
日本の雇用情勢も急を告げている。目前の苦難に対応するため、当面切り張りのような対応もいたしかたない。しかし、それだけでは破綻は必至だ。中長期的に雇用創出を旨とした基本政策の確立を図らねば、この国に将来はない。現状は、不況で職を失った労働者になんとか冬を越してもらう程度の対策に過ぎない。
バラック・オバマは「アメリカン・ドリーム」を実現したが、ヒスパニック系労働者は夢が潰えて、苦難の時を迎えている。日本はなんとしても、次世代のために夢と希望を取り戻さねばと思う。この国は、いかにして生きるか。再生の姿が描かれるまで、しばらくがまんの時が続く。しかし、与えられた時間は長くはない。
*
CBS News、December 17th, 2008
"The end of the American dream." The Economist 13th 2008.
Canalside house, Gouda, Netherlands
オランダ、ゴーダからの友人S夫妻を迎えての一夕、話題は14日閉幕したフェルメール展(東京都美術館)から現代オランダの医療事情まで、果てることなく拡大した。30年以上のつき合いとなる。日本で教育も受けた知日派だ。これまで時には毎年のように、世界のどこかで出会う機会があった。
夫妻ともに日本のことはよく知っているのだが、東京都美術館のフェルメール展の混雑ぶりは、想像外だったようだ。日本人のフェルメール好きは知っていたが、人混みで背中を押されながら見るフェルメールなんて考えられないのだ。その気持ちは良く分かる。これまで何度か、この画家の作品を見る機会があった。96年のハーグ展だったか、入館に20-30分並んだような経験はしたが、内部が混んでいたという印象はまったくない。その前年、S氏と共にアムステルダムへ見に行ったときなど、フェルメールでもゴッホでも、模写が十分できるくらいであったことを思い出す。
彼らが住むゴーダは、ゴーダ・チーズで知られる都市である。あのフェルメールの義母マーリア・ティンスがデルフトへ移るまで住んでいたところだ。ここも運河の流れる美しい町だ。S家へ招かれ、運河沿いのいわゆるカナルサイド・ハウスの内部を見せてもらった。ウナギの寝床のような構造で、それが2階、3階と上方へ伸び、天井も高い。強靭な体力と精神力がないと、住みこなせない家だと思った。
オランダは16世紀の宗教改革後、カルヴィニズムを国教とする新教国となった。とはいっても、カトリック信者がまったくいなくなった訳ではなかった。1656年のゴーダでは、人口のおよそ3分の1はカトリックだった。フェルメールやレンブラントの時代である。そして、現在のオランダで
は、カトリックの方が多い。
確定できないフェルメールの信仰
画家フェルメールが信仰していた宗教がなにであったのかという前回から続く疑問については、正確には、答は出ていないというべきだろう。少なくも晩年は、限りなくカトリックに近かったのではないかという推論は可能だが、それもあくまで状況証拠に基づく推理の結果だ。フェルメールの改宗を確認できるような教会記録や画家自身の信仰告白などは、なにも残っていないからだ。よく言われる結婚に際しての改宗も、それを直接裏付ける記録はなにもない。信仰はいうまでもなく個人の心の問題であり、フェルメール自身が心の中でいかなることを考えていたか、依然闇の中にある。
画家の信仰していた宗教・宗派など、たいした問題ではないかと思われる方もおられよう。しかし、この時代の画家にとって、宗教の重みは制作活動に大きな意味を持っていたと思っている。
かなり確かなことは、フェルメールは短い生涯(1675年43歳で没)ではあったが、晩年にはローマン・カトリックの中心的教義や祭祀の実際について、十分な知識を持っていただろうという点である。美術史家の間では、画家のカトリックについての知識・理解を浅いとする解釈も見られるようだが、果たしてそうだろうか。もしそうであれば、改宗はさらに疑われる。彼の日常生活の周辺はカトリック信徒が多く、数少ないが信仰にかかわる寓意画の制作などについて理解を深めるに、多くの相談相手がいたはずだ。
後世の美術史家や評論家が、「信仰の寓意」Allegory of the Faithについて高い点数をつけないのは、いくつかの理由があるが、なかでも19世紀のフランスの美術評論家トレ・ビュルガーが重視した、写真的、写実的なものを良しとし、それから外れたものは劣っているとする考え方に、どこかで影響を受けているのかもしれない。また、フェルメールは世俗画を専門とした画家だという美術史家などの思い込みも考えられる。
さらに、後年付け加えられた画題も、先入観を与えかねない。たとえば、「絵画芸術」De schilderkunst, or Art of Painting, ca.1666-67 にしても、そこに込められた寓意は感じられるが、実際は「制作する画家」 「工房の情景」の方が、画家が発想した内容に近いかもしれないと思う。
Art of Painting, ca.1666-7, Vienna, Kunsthistorisches Museum.
大事な同時代人としての視線
「信仰の寓意」についていえば、描かれた女性の劇場的ポーズや表情こそが重要だと思う。この画家が得意としてきた、世俗的世界を切り取ったように精細に描くことから離れ、寓意画という非日常的世界を描いたのは、まさにフェルメールが意図したものだ。それが画家の他の作品のように、人為的で、写実的でないというのは当たっていないと思う。女性の表情やポーズは別として、作品に描きこまれた数々の品はそれぞれきわめて写実的に、この画家らしく描かれている。その多くは遺産目録に記されていたように、空想の産物ではない。
必要なのは、現代人のそれではなく、画家と同時代人の視線レヴェルに立って作品を見ることではないか。それこそが、「同じ時代の」 Contemporary という意味の第一義だ。とはいっても、画家が生きた17世紀にまで時空を遡り、立ち戻ることはできない。できうるかぎりの情報と推理を働かせて、当時のイメージの世界を再現してみる作業が必要となる。
今日の世界ではブーム状態ともいえるフェルメールの作品にしても、17世紀の当時、それほど人気があったわけではない。このことは生涯を通して、とても豊かとはいえなかったフェルメールの生活状態をみれば、ほぼ想像がつくことだ。われわれの時代、現代的観点(コンテンポラリーの二義的意味)において作品の人気が高いことと、画家が生きた同時代の評価とは、十分注意し区別して見ることが必要ではないかと思う。
フェルメールの晩年の生活。それはレンブラントのように破滅的ではなかったが、豊かさや安定とはかけ離れたものだった(ちなみに、レンブラントは、フェルメールが24歳になった1656年に自己破産申請をしている)。そして、結婚後まもなく、デルフトへ移住してきた義母の家に同居するようになった。そして、義母やその親戚、パトロン Pieter Charsz. van Rijvenなどの好意に支えられた生活だった。画家が埋葬された古教会の自分の墓も義母が購入していたものだ。残ったのは妻と11人の子供。そのうち10人は成人に達していなかった。
熱心なカトリック信徒の義母とその財政的支援に頼る生活の実態。もし、この時までフェルメールがプロテスタントのままであったとしたら、彼の心境はきわめて複雑で苦悩に満ちていただろう。生活を扶助してくれる義母や親戚などはすべて熱心なカトリック信徒であった。
他方、新教国として独立を果たしたネーデルラントでは、カトリック信徒は「目に見えない、隠れた」存在であることを強いられた。布教や教会儀式などにあたる聖職者たちは、国外退去を命じられ、ミサなどの教会活動も十分にできなくなった。今でこそ開放的で寛容な国といわれるオランダだが、17世紀当時のネーデルラントでは、カトリック信仰は公的には認められていなかった。都市では宗教間の住み分けも次第に進んだが、地方ではカトリックへのあからさまな抑圧、差別、暴力行為なども見られた。
進む「住み分け」
フェルメールが画家としての活動していたデルフトでは、次第にカトリック信徒が集まって住む地域、「カトリック・コーナー」が形成されていった。これに反対する周辺の住民などからの非難も頻発した。カトリックの住民たちは、表向きは目立たないようにしながらも、さまざまな努力で信仰活動を維持していた。異教徒扱いをされながらも、じっと耐え、「黙認」してもらうために、あらゆることをしていた。
不足している聖職者を補い、信者たちの要望に応えるために、平信徒の中でのエリート層などが、献身的に教育・布教、ミサの主催などを行った。迫害される宗教を必死の思いで維持、発展させねばならないという信徒の熱意が、この時代のカトリック信仰を支えた。フェルメールの義母も、さまざまな形でカトリック地域の活動に加わっていたに違いない。住居は「隠れ教会」に隣接していた。こうした空気は、フェルメールが肌身で感じるものだったろう。
こうして、時の経過とともに、都市におけるプロテスタントとカトリックその他の信者間での「住み分け」が進んでいった。この国の特徴とされる「寛容」も、お互いに干渉しないで暮らすという知恵である(この特徴が現代のオランダにもたらす深刻な問題については、別に記す機会があるかもしれない)。
揺れていた?画家の心
画家フェルメールがこの時期、プロテスタント、カルヴィニストに留まっていたとすれば、心中穏やかではなく、かなり大きく揺れ動くものであったのではないか。晩年はかなり鬱屈した精神状況であったらしいこともいわれているが、もしかすると物心両面での重圧が画家にのしかかっていたのかもしれない。画家としては天賦の才に恵まれていたが、家業であった宿屋を経営するような商才にも欠けていた。
「信仰の含意」のような寓意画を、フェルメールの中心的テーマであった世俗画を基準に比較すると、混乱することになるだろう。この点、Liedtke(2001,401)などが述べているように、同じ時代に活動していた、他のオランダやフレミッシュの画家が描いた寓意画、抽象世界を描いた作品との比較が、新しい評価の視点を生むに役立つかもしれない。研究の蓄積が大きいと思われる17世紀オランダ絵画の世界だが、まだ興味深い論点が多数残っている。「創られた所に立ち戻る」ことが必要なようだ。
Reference
Walter Liedtke with Michiel C. Plomp and Axel Ruger. Vermeer and the Delft School. New York: The Metropolitan Museum of Art, New Heaven: Yale University Press, 2001 .
アメリカ発の金融危機はいまや金融市場にとどまらず、各国の実体経済(生産物・労働市場など)の次元に急速に浸透しつつある。その速度は驚くばかりで、対応が間に合わないほどだ。アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で雇用不安が急速に拡大し、深刻な打撃を与えている。
派遣労働者、期間限定労働者、そして内定取り消しなどの問題にとりまぎれ、メディアの注目を集めるまでにいたっていないのが、外国人労働者だ。日本でも大田、大泉、浜松あるいは豊田市周辺などの外国人の集住地域では、仕事を失う外国人労働者が急速に増えているようだ。彼(女)たちの多くは、これまでも日本人労働者のように正規労働者としての地位を得ることは難しく、派遣労働者などの不安定な形態で仕事に就くことが多かった。そのため、今回の世界的不況では最初に打撃を受けた最大の被害者だ。
外国人労働者は、不況に大変弱い存在だ。景気が後退すると、国内労働者よりも真っ先に採用中止、解雇など雇用調整の対象にされてしまう。それだけではない。ひとたび失職すると、景気が反転上昇に向かっても、仕事の機会になかなかありつけない。国内労働者が十分雇用された後、それでも労働力が不足する場合になることが多い。失職している間、家族などの生活を支えるセフティ・ネットがきわめて不十分にしか存在しない。
すでにアメリカでは問題が顕在化し、これまであまり見られなかった注目すべき変化が現れている。今年10月、全国平均の失業率は6.5%だが、移民の多いヒスパニック系に限ると、8.8%の高率である。 アメリカへの移民労働者の主要な送り出し側であるメキシコ政府の推計では、外国で働こうとする国民の数は2006年と比較して、今年は40%以上の減少だという。最大の出稼ぎ先のアメリカなどで労働需要が大幅に減少しているからだ。アメリカの国境パトロールが拘束した不法越境者の数は、昨年度(9月に終わる会計年度)は、前年度と比較して18%減とされている。
21世紀に入って、アメリカにおける不法越境・滞在者の数は年々増加を続け、2007年には1200万人を越えたと推定されていた。しかし、その数を減らしたいというブッシュ政権下の政策対応は、議会の反対もあって実現せず、国境障壁の強化以外はほとんどなにもされることなく、放置されてきた。オバマ新政権の前に放り出された感じだ。
こうした状況で、アメリカで働く外国人労働者からメキシコなどの母国への送金も激減している。2007年で、すでに2000年以降の最低水準となった。メキシコへの外貨送金は2006年に前年比17%増加して、237億ドルを記録した。しかし、2007年は1%しか増えなかった。今年は7-8%減となると、メキシコ中央銀行は予想している。
ヒスパニック系労働者は、農業、建設業、サービス業などで多数働いているが、一部にはアメリカで働くことをあきらめ、メキシコなどへ帰国する者が増えている。以前はアメリカを出国し、自国へ戻る人々についてはほとんどノーチェックという時代もあったが、テロや麻薬密輸への対応もあって、出国者についての管理も厳しくなっている。
これまで不法滞在者の多くは、できるだけ長くアメリカ国内に留まり、アムネスティなど市民権獲得の機会を待ちたいと考えていた。そのため、不況に直面しても帰国することをせず、じっと耐え忍んでいた。しかし、今回はかなり様相が異なっている。不況はかつてなく深刻度を増し、仕事ばかりでなく、アメリカで生活すること自体が難しくなってきている。彼らはついに残された最後の選択肢、帰国の道を選び始めた。
アメリカ国内の不法滞在者取り締まりも、一斉に強化されたようだ。この機会に不法滞在者の数を減らそうという意図があるらしい。
不法滞在者の数は、初めて減少の兆しを見せ始めた。Pew Heispanic Center の推定では、2008年3月現在の不法滞在者は1190万人と、前年2007年の1240万人から初めて減少を示した。2000年の840万人から一貫して上昇してきた
これまでアメリカは国境管理の強化などで、不法越境者を拘束し、強制送還するなどの手段で、不法滞在者の増加に対応してきた。それにもかかわらず、不法滞在者の数は減少することなく、増加の一途をたどってきた。今回の大不況は、初めてその増勢に歯止めをかけ、滞在者数が反転減少を見せ始めた。
しかし、母国へ帰っても、そこでも不況は彼らを待ちかまえている。アメリカで仕事がなくなったからといって、簡単には帰れない事情がある。国境隣接州などでは帰国者も増えるだろうが、ひとたび生活の基盤を築いてしまった労働者や家族は帰ることもできない。日本で働く日系ブラジル人などの間でも、日本で働くことに見切りをつけて帰国する人も増えているようだが、ブラジルも不況の直撃で仕事がない。世界同時不況の厳しさだ。移民労働者にとって、今年の冬はいつになく寒さが身にしむものになる。
Johannes Vermeer, Allegory of Faith, ca.1672-4(oil on canvas, 114.3x88.9 cm)m New York, The Metropolitan Museum of Art, The Friedsman Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.(Details)
フェルメールの作品「信仰の寓意」The Allegory of Faithを、多くの研究者は「失敗作」あるいは「凡作」としてきた。フェルメールらしからぬ作品とする研究者もいる。古文書記録の山の中から画家の生涯を掘り出したモンティアスも、作品に描かれたあるものは、「異質」alien であると評した。しかし、仮に美術的観点から凡作としても、この作品はフェルメールの作品歴、そして画家人生の中では、きわめて重要な重みを持っているのではないかという直感を抱いてきた。単にひとりのアマチュア鑑賞者としての感想にすぎなのだが、その後、かなり同意、賛同してくれる美術専攻の友人も現れ、多少意を強くした。
この作品、フェルメールの少ない作品の中でも数少ない寓意画なのだが、画家の精神世界、とりわけ17世紀という時代の宗教と美術制作思想の関係を推理するには貴重な一点だと思うようになった。
作品は、見て明らかな通り、キリスト教信仰、とりわけカトリック信仰とのつながりを直ちに連想させるものだ。画面一面に描きこまれたさまざまな品々のイコノグラフィカルな意味については、すでに多数の専門家が述べているように、1644年オランダで出版されたリーパの『イコノロギア』Cesare Ripa’s Iconologia(Iconology) の叙述にほぼ従って、フェルメールが選択し、描いたものであるようだ。たとえば、卓上の聖餐杯と書籍は信仰のアトリビュートとされている。
謎の鍵はガラスの球体に
無数に描かれている品物の解釈については、美術史家に任せるとして、この作品を見た時、不思議に思ったのは、この劇場的なポーズをとっている女性とその視線が向いた先であった。胸に片手を当て、なにかに驚いたかのごとく、その姿態はいかにも大仰で、およそ日常の光景ではない。そして、フェルメールの世俗画ジャンルには、現れない表情でもある。目を大きく見開き、この画家が好んで描いた世俗の人間の顔色ともかなり異なっている。画家がある意図をもって擬人化を試みた現れと思われる。
しかし、描かれた女性の表情には驚愕、恐怖などのかげりはなく、明らかに日常を超えたなにかに覚醒したような、まるで天啓を受けたかのごとき、不思議なものだ。そして、彼女の視線が向けられた先は、頭上から一本の青い色の紐あるいは棒で支えられた奇妙なガラスの球体である。
この時代の宗教画、風俗画などは、かなり見てきたが、ほとんどお目にかからない品である。まるでガラス工場で職人によって吹かれ、球体になったものが、そのまま天井から下げられているような感じすらする。紐の青色と女性の衣装の色、天井とのつなぎ目の支えのようにみえるものも意味ありげだ。
それ以上に、この作品の中では、この球体自体が時空を超越したような存在にみえる。現代の部屋の照明、あるいは実験器具といってもおかしくない。この球体に似たものは、ヘシウスの手になるジェスイットの印刷物(1636年)のエンブレムに見いだされるという研究(De Jongh,1975-6 quoted by Hedquist)もあるようだ。フェルメールが着想を得たと思われる、この球体に類似するエムブレムの該当図は、小林(2008、p224)にも掲載されているが、そこでは、霊魂を象徴する翼を持つ若者が、奇妙な球体を手にしている。ガラスの球体も宇宙世界を映し出せるように、人間の限られた魂も神を理解することができるということらしい。球体は小さくとも無限の天上世界を映し出すという含意があるようだ。エンブレムでは翼を持つ若者とともに、十字架や太陽が描かれている。
The Allegory of Faith (details)
「神は細部に宿る」
さらに、一見して興味をひかれたのは、このガラスの球体の表面に映り込むように描かれたものが何であるかということだった。光沢のあるガラスの球体表面には、写真ではないので判然としないが、画家の工房の一部が、閉ざされている窓からの光を通して描かれているようだ。
ガラス球の表面をを改めて見ると、どうも画家の工房が映っているようだ。閉じられた窓から入った明るく鋭い光が前面のタペストリーに射している。その他の部分は、より柔らかな微妙な光で包まれている。球体には、さらに劇場的なポーズで球体の方を見上げる女性の姿のようなものが描かれている。
画家はもしかすると、ヘッドキスト Headquist などが推論するように、この小さな球体を媒介に、見えないものを具象化しうる神の創造的な力を示そうとしたのかもしれない。これは、カトリック的審美感ともつながるものだ。一部にいわれるフェルメールのカトリック教義についての理解の浅薄さ、そしてそれに基づく作品制作も失敗と評することの正否は、にわかに判断できない。しかし、フェルメールが過ごした環境からしても、画家のカトリック、プロテスタント双方の教義についての理解と思索はかなり深かったと思わざるを得ない。さもなければ、この時代に、元来カルヴァン派を宗教としていたフェルメールが、熱心なカトリック信徒の義母、妻などと共に「カトリック通り」に位置する同じ家に住むことはきわめて難しかっただろう。
この作品、こうして見ていると実に色々なことが思い浮かぶのだが、後生のこの画家を評する折には、いつも周辺部分に追いやられている感じがしてきた。メトロポリタン美術館に富豪フリードサムによって遺贈されるまでの遍歴でも、買い手がつかなかったこともあったようだ。この作品を手にし、一時はマウリッツハイス美術館の館長もしており、画商的な仕事をしていたブレディウスもフェルメールの作品としながらも、お好みでなく、手放したがっていたようだ。
ここで強調したいことは、フェルメール研究者や愛好家が、凡作、フェルメールらしからぬ作品と評することは、必ずしも正確ではないと思うことだ。これもフェルメールなのだ。その点を見逃すと、フェルメールの過ごした17世紀ネーデルラントという時代の精神的・宗教的風土を十分理解することはできないだろう。
これまでの作品評価について、アマチュア鑑賞者として多少違和感があるのは、美術史家などの手になる専門書を見ていると、美術品としての凡作は、注目度が低く、時には真作の中には含めたくないという思いのようなものがかすかに伝わってくることだ。大家は駄作、凡作は描かないというひいき目のようなものがどこかで働くのだろう。もちろん、これはフェルメールに限ったことではないのだが。
(続く)
References
Walter Liedtke with Michiel C. Plomp and Axel Ruger. Vermeer and the Delft School. New York: The Metropolitan Museum of Art, New Heaven: Yale University Press, 2001 .
Valerie Hedquist. ‘Religion in the Art and Life of Vermeer.’ The Cambridge Companion to Vermeer, edited by Wayne E. Frantis. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
小林頼子『フェルメール論』八坂書房、2008年
大学生の採用活動をめぐって、採用内定者の内定取り消し、就職活動(就活)の早期化(青田買い)、フリーターの増加など、いくつかの問題が議論されている。実はこれらの議論は10年越しのものだ。事態はまったく改善されていない。
『朝日新聞』(2008年12月2日朝刊)「声」欄に、「卒業待っての採用できぬか」との投書が掲載されていた。「腰をすえて勉強し、一番学力もつく時にこんなことでよいのか」というご指摘である。改めて述べるまでもなく、大変真っ当なご意見だ。なぜ、こうした状況が改善されずに続いているのか。
これらの問題に多少関わった者として考えることは、日本の企業も大学も長期的視点がまったくないといわざるをえない。優れた人的資源を育てる以外に生きる道はないこの国にとって、大学の名に恥じない教育を行うことは、大学、学生、企業など関係者のいずれにとっても、将来のために不可欠なことだ。
「大学教育に支障をきたさずに新卒採用を行う」目的で、産業界と大学側が協定を結んだのは、1992(平成4)年であった。これに先立って、いわゆる就職協定が1988(昭和63)年度から結ばれていた。有力企業による学生の「青田買い」や、採用したい学生を他社へ引き抜かれないよう、学生をさまざまに拘束するなどの行為が、就職市場の秩序を混乱させ、大学・企業ともに困り果てた結果であった。
92年協定の柱となっていたのは、「企業説明会、会社訪問などは7月初旬以降解禁、具体的な採用選考は8月1日前後を目標とし、企業の自主決定とする。採用内定開始は10月1日」という内容だった。ところが、スタートしたその年から協定はほとんど守られなかった。
通年採用やインターネット上での募集・採用なども広がり、協定は形骸化してしまった。日本経済は長期の停滞期に入り、企業も人材採用に厳しくなった。1997(平成9)年には、その年度の就職協定は締結を断念することになり、倫理憲章だけが残った。
もともと、長い受験勉強の後に入学した大学では、学生間にしばらく受験疲れの’リハビリ’期間のような状況が生まれ、それがやっと落ち着いて学生生活の後半に入る頃には就職活動に巻き込まれてしまうという問題が指摘されてきた。とりわけ最終年次は、学生も浮き足立ってしまうことが多い。しかも、早く就職が決まった学生は、大学の授業に関心を失ってしまい、しばしば教育環境を損ねていた。大学が高等教育機関を標榜しながらも、卒業後に残るものはサークルと友人だけという悲しい状況すら生まれた。これらの問題は改善を見ることなく、今日まで変わらず続いている。
事態を改善するためになにをなすべきか。かつて、大学の機能を本来あるべき姿に復元させるためにも、少なくも選考、採用決定など採用活動の中心は、大学の正規の課程が修了した後に行われるよう、大学・企業など関係者が協議し、新しい合意を確立することが考え得る有力な選択肢のひとつとして提案された*。しかし、大学関係者の現実認識の不足もあって、十分議論がなされなかった。
この提案の方向に沿うことで、大学という「教育の次元」と就職・雇用という「労働の次元」の間に一定のけじめをつけ、崩壊する大学教育にある程度の歯止めとすることができると考えられる。もちろん、惨憺たる状態にある日本の大学を建て直すには、多くのことがなされねばならない。
しかし、少なくともこうした措置を導入することで、大学の正規の教育課程を外部市場の横暴な圧力から隔離し、大学が目指す教育を実行できるだけの時間を確保することができる。真に大学卒業者としての力量を備えた人材を採用できるという意味で、企業にとっても長期的に大きなメリットがあるはずだ。
人口激減に直面するこの国にとって、将来を背負う若い人材の教育には最大限の配慮が払われるべきだろう。この問題については、大学もさることながら、主導権を握っている企業側の反省と節度ある行動が最重要である。グローバルな経済危機で雇用需要が激減している現在、日本にとって、この問題を考える最後の機会かもしれない。
*
『学生の職業観の確立に向けて:就職をめぐる学生と大学と社会』日本私立大学連盟・就職部会就職問題研究分科会、1997年6月
Johannes Vermeer, Allegory of Faith, ca.1672-4(oil on canvas, 114.3x88.9 cm)m New York, The Metropolitan Museum of Art, The Friedsman Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.
フェルメール・フリークではないのだが、17世紀の画家の一人としてかなり以前から関心を抱いて作品は見てきた。といって、この画家について格別好みの一枚があるわけでもない。それでも気になる作品はいくつかある。その一枚は、『宗教の含意』The Allegory of Faith と題する作品だ。フェルメールの作品の中では、きわめて不人気な作品といえるだろう。今はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。以前にブログにも記したことのある富豪フリードサム氏が1931年に寄贈したものである。
メトロポリタンで最初に見た時、不思議な印象を受けた。フェルメールの手になるものということは、すぐに分かったのだが。この画家は一瞬の光景を切り取り、美しく精緻に描くことに長けている。その点はこの作品でも変わりはないが、何をテーマとしたものか、しばらく考えさせられた。
寓意のオンパレード
画題の『宗教の含意』は後世に付されたものである。17世紀、カルヴィニズムが国教とされていたネーデルラントに生きたフェルメールだが、この作品は明らかにカトリック信仰を前提としている。制作を依頼したパトロンは誰だったのか。恐らく個人の信者の依頼ではなかったかと推定されている。もしかすると、小さな「隠れ」教会の祭壇を飾っていたのかもしれない。現存するフェルメールの作品歴の中では、晩年に近い年次(画家が死亡する前2-3年、1672-4年頃)に位置づけられている。
この作品についての美術史家の評価は、概してあまり高くない。それどころか「寓意だけが並んだ悲惨な」作品という酷評すらある。見ようによってはイコノグラフィの知識をテストするための作品のようですらある。確かに細部にわたり精緻に描きこまれているが、パトロンの要望に応えようとしたのか、一見して描き込みすぎという印象が強い。作品としては凡作だろう。
しかし、他方で、フェルメールの精神世界をうかがい知るには、最重要な作品になるのではないかという思いがしていた。作品のイコノグラフィカルな詳細については専門家にゆだねるとして、この画家を取り巻いていた宗教的背景について少し考えてみた。
17世紀の宗教世界
17世紀前半のオランダは黄金時代を迎えていた。スペインとの戦いに勝利を収め、独立の意欲に燃えていたが、国民の精神世界は緊張をはらんでいた。事実上国教となったカルヴィニズムに対して、カトリックを含む他の宗教・宗派は公式には信仰を禁じられ、カトリック司祭など聖職者は国外退去を迫られた。自由な宗教上の選択というよりは強制によるプロテスタント化が進んだ。
さらに、教会資産の世俗化(接収)、信徒の公的地位からの追放、違反者に対する罰金、収監などが行われた。カルヴィニズムは聖像崇拝などを禁じたため、彫刻家、画家などもパトロンを失い、大きな打撃を受けた。
カトリック側は、布教に携わる司祭が不足する事態も生まれた。厳しい迫害によって、信徒は教会の秘蹟にあずかれず、魂の救済への道が閉ざされるという危機にさらされていた。これはカトリック信徒にとっては、事実上信仰の否定、禁止に等しかった。
しかし、最近の研究で、かなり当時の実態が明らかになってきた。それによると、ネーデルラント全体がカルヴィニズム一色で塗りつぶされたわけではなかった。地域によってもかなりの差異があったようだ。公的な地位でも、カトリック信徒が許されている地域もあった。概して都市部では、人々は異なった宗教の信者に寛容だったが、農村部では因習も残り、迫害も厳しかった。もっとも都市部でも場所や時期によっては、カトリックに対する迫害、差別が厳しかったことも指摘されている。たとえば、1639年のアムステルダムでは、カトリックへの憎悪に満ちた迫害の事実が多数指摘され、同時に悪疫も流行したため精神的支柱も揺らぎ、かなり悲惨な状況もあったようだ。しかし、そうした苦難を超えて、アムステルダムの隠れ教会では、300人近い信徒がミサや夕べの祈りに参加していたという事実もあった(Parker 237)。
フェルメールはカトリックへ改宗したか
カルヴィニストとして幼児洗礼を受けた画家フェルメールが、成人してカトリックへ改宗したか否かは、美術史家の間ではひとつの論点となってきた。美術史家の大勢は、カトリックの妻と結婚した時に改宗したのではないかと考えているようだ。しかし、教会の記録や画家自身の記録などは一切残っていないため、あくまで推定にすぎない。
当時、国教となっていたカルヴァン派から、公的には禁じられていたカトリックへ改宗することは、選択の可能性として少ないのではないかとの議論もあるようだ。しかし、宗教史などの最近の研究成果を見ると、北ネーデルラントにおいては、宗教選択の流動性はかなり確保されていたとみられる。
危機はエネルギーをかきたてる
カトリックに限っても多くの信徒を失った反面で、逆に危機感に迫られた教会などが布教活動に力を入れ、カルヴァン派からカトリックへかなりの数が戻った事実も指摘されている。たとえば、1628年アウグスティノ修道会の知牧perfect の報告によると、北ネーデルラントでは多数のカルヴィニストがカトリックへ改宗したともいわれている。
また、ローマン・カトリックの旧来の教育を受けてきた司祭などが国外退去させられたことなどで、教区のヒエラルキーが解体され、古い慣行や因習にとらわれない清新な宗教風土が生まれたこともあげられている。オランダにおけるカトリックの再生は、ヨーロッパの他地域におけるカトリック宗教改革の強みともなった。
数が少なくなったローマからの聖職者に代わり、地域の平信徒エリートなどが危機感に目覚め、信教基盤の維持に向けて活動するようになった。彼らは信徒の教育などに熱心でカトリック改革のエネルギーとなった。古いパトロンから離れ、自由な布教の風土も生まれた。
改宗の可能性と契機
フェルメールが改宗したと仮定するならば、その契機としてはいくつか考えられる。最有力なのは結婚の時であった。しかし、すでに記したように決定的な文書記録などがなく、証拠に欠ける。
第二の可能性としては、義母マーリア・ティンスの家へ移住した時期が考えられる。1641年以降、マーリアはゴーダを離れて、デルフトへ移った。フェルメールは1660年までに妻、3-4人の子供と、義母の家に移り住んだことが分かっている。
今日では世界的に名の知れた画家だが、フェルメールの生活は楽なものではなかったようだ。レンブラントほどの大きな浮沈ではないが、晩年はほとんど自立できない困窮状態だった。結婚後の初めと終わりの時期がとりわけ収入が少なく、安定していたのは1660年代のわずかな期間だけだった。
経済的にはほとんど常に困窮していたらしく、1657年にはパトロンと思われるピーテル・クラスゾーン・ファン・ライフェンから200ギルダーの借金をしている。義母の家に住むようになったのは、フェルメールの家計の困窮度がさらに高まったことが大きな要因だろう。当時のネーデルラントでも、結婚しても独立しなかったり、大家族として生活を共にする例は決して多くなかったようだ。
最初は娘がフェルメールと結婚することに反対していたマーリアだが、同じ家に住むようになってからフェルメールへの信頼度が高まっている証拠が次第に増えてくる。フェルメールも蓄財、家計などの才はなかったが、誠実だったのかもしれない。
大変だった子供の養育
フェルメールは実際の生計を立てる上で、この義母と親戚などに助けられるところがきわめて大きかった。熱心なカトリック教徒であった義母とその親族の影響を受けて、カルヴィニストであったフェルメールの心は大きく揺れ動いていたに違いない。フェルメールと妻の間には15人の子供が生まれ、当時のオランダでも珍しい大家族だった。この子供たちを育てるだけでも、かなり大変であったことは容易に推測できる。
子供の数の多さという点では、ラ・トゥールの場合に似ているが、ラ・トゥールの子供たちは大半が乳幼児の時に死亡している。オランダとロレーヌの環境風土の差異は、この点でも歴然としていた。
フェルメールの子供たちは、判明している限り、いずれもカトリックとなった。カトリックへの迫害はかえって信仰心をかき立てたといわれるが、熱心なカトリック教徒のマーリアや親族の影響を受けて、カトリック教育もしっかりと行われたのだろう。この時までフェルメールが改宗していなかったとしたら、大変居心地は悪かったはずだ。周囲はすべてカトリックであり、日々の生活の有りようにもその影響は深く浸透していたに違いない。
実際、マーリアやフェルメール一家が共に住んだ家は、デルフトの「隠れ教会」にほとんど隣接するカトリック教徒が集まって住む地区だった。周辺のプロテスタントはこうした動きに抗議もしたが、集住の動きは強まっていった。カトリック信徒は、シェリフ(治安官)に多額の付け届けをして、お目こぼしを依頼していた。
こうした環境の中で、「信仰の寓意」は制作された。レンブラントの場合と同様に、フェルメールの遺産目録には、この作品に描かれている物のほとんどが記されているようだ。人気のない作品だが、なかなか興味深い謎を解く鍵を秘めているように思われる。幸いというか、不思議なことに、ゴーダに住む長年の友人で17世紀オランダ美術の研究者と久しぶりに再会する機会が生まれた。最近の研究成果などを聞くのが楽しみになってきた。(続く)
References
Charles Parker. Faith on the Margin. 2008
Valerie Hedquist. ‘Religion in the Art and Life of Vermeer.’ The Cambridge Companion to Vermeer. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.