時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

終わりの始まり:EU難民問題の行方(22)

2016年05月28日 | 終わりの始まり:EU難民問題の行方

洞爺湖(2008年サミット開催地)の夕日
伊勢志摩は暁につながるか 


道険し、戦争・難民絶滅への道
  G7サミットが始まり、あっと言う間に終わる。いったいどんな成果があったと評価しうるのか。会場となる伊勢志摩地域はいうまでもなく、日本の大都市は警察官で埋まり、かなり異様な雰囲気だった。といっても、自爆を覚悟のテロリストにとっては格好の舞台となりかねないだけに、目立った反対はなかったようだ。それだけに裏方の苦労は、計り知れないものがある。

日本で開催された先進国首脳サミットの地は訪れたことがあるが、それぞれに日本の美しさを外国からの参加者に伝える素晴らしい場所が選ばれていた。伊勢志摩は各国首脳にどんな印象を残しただろうか。会議の合間に垣間見た日本の光景とはおよそ異なる大きな政治的重荷を、参加した各首脳はそれぞれに背負っているはずだ。

  現実の議論のテーブルは、大きな問題を最初から含んでいる。G8からロシアが外れて、さらに世界第二の経済大国となった中国も参加しないで行われた(GDPでは世界の半数に充たない)先進国首脳たちの議論が、世界にとってどれだけバイアスがない公平なものといえるだろうか。当然、対ロシア、対中国の議論が一方的に行われる。中国がG20の正当性を主張するのも別の論理だ。差別観を極力減らし、公平性を保った判断を心がけるのはわれわれ国民の問題でもあるのだが、メディアの視点も多様であり、それほど容易なことではない。宣言の文言そのものが自国の利害を背負った各首脳間の考えを反映させるため妥協の表現となり、大変読みにくいのだ。時に微妙な表現に隠された意図を読み取る力量も必要となる。

核兵器廃絶に向けて:終わりの始まりとなりうるか
  今回の伊勢志摩サミットが、今後多くの人々の記憶にとどまるとしたら、なんといってもサミット終了後、現職のアメリカ合衆国オバマ大統領が広島を訪問したことだろう。サミットの流れとは別の次元の問題ではある。ケネディ大統領暗殺当時から、日米の関係をひとりの観察者として見てきた者にとって、ここまでたどり着くに70余年という歳月が必要であったという事実に改めて言葉を失う。JFKの暗殺後、歴代大統領の考えに着目してきたが、広島(長崎)訪問の機運は生まれなかった。それが、今回はアメリカ側も周到に日米国民の距離を計り、オバマ大統領の広島訪問を実現した。「謝罪」の問題は、70年余という長い年月が経過したこともあって、大きな論議にまではいたらなかった。異論はあったがこれで良かったと思う。被爆の実態をかろうじて後世に伝えうる人たちが生きている間にという意味でも、ぎりぎりの訪問だった。戦争の加害者、被害者の判別議論は、中国の王外相が南京事件を直ちに口にしたように、政治化すると、思わざる火種を生みかねない。

 ブログ・テーマとの関係で、今回のサミットの課題に戻ると、重要な検討課題のひとつであったテロリストおよび難民・移民問題は、ひとつ間違えばEUの崩壊につながりかねない危機的課題となってきた。日本はこの問題には従来一貫して距離を置き、世界で積極的役割を果たすことはなかった。今回は、日本で開催のサミットであるだけに、傍観者ではいられない。政府も急遽シリア難民を2017年から留学生として5年間で最大限150人受け入れると発表した。ヨーロッパや中東の国々の場合と比較すると、議論に入れてもらうための付け焼き刃のような感じもするが、この厳しい時代、少しでも積極面を評価したい。移民・難民問題は発生源側と受け入れ側双方の対応が必要なのだ。復興への資金拠出で解決するわけではない。日本では人手不足時代到来が反映して、急にアベノミクスのひとつの戦略として外国人受け入れ拡大が口にされるようになったが、経験の少ない国が急に窓口を拡大しても、背後にある社会との間で、大きな軋轢を生む可能性は高い。実際、日本の受け入れ制度は、かなり歪んでいて問題が多い。

ヨーロッパの命運を定める難民・移民問題
  サミット首脳宣言では「難民の根本原因に対処。受け入れ国を支援」というきわめて当然ともいえる骨子であった。すでにドイツのメルケル首相、フランスのオランド大統領など、政治的にはかなり追い詰められている指導者もいる。サミットのスナップショットでもメルケル首相の表情には、なにかかげりのようなものが感じられた。ある世論調査では「64%がメルケル首相の再任を望んでいない」ともいわれる

たとえば、最大数の難民、庇護申請者を受け入れているドイツでは、収容施設が限界に達している。ドイツ連邦共和国は難民としての受け入れが認められた外国人について、ドイツ語の学習などを義務付ける新法を制定したばかりだが、すでに対応に大きな支障が出てきている。たとえば、最大の難民収容施設数を持つベルリンでは住宅、教育などの面で厳しい制約が生まれている(2016年5月26日 SPIEGEL online)。メルケル首相としては、昨年今頃の高揚した気分が、次第に冷めて行くことを感じているのではないか。

 EUとトルコの協定に基づき、EUに流入する難民・移民は昨年秋をピークに、数の上では減少したが、問題自体は混迷の度合いを強め、ほとんど先の見えない泥沼状態にある。G7に先駆けて、イスタンブールで開催された「世界人道サミット」では世界におよそ6300万人の難民が存在することが認識された。祖国を失い、安住の地がなく、世界をさまよう漂泊の民である。

トルコ国内だけでも、約270万人のシリア難民が収容されている。昨年の春の段階では、120万人くらいといわれていた。1年足らずで驚くべき増加である。他方、先の協定で合意が成立した、ギリシャなどから難民認定をされず、トルコへ送還される人は、300人程度ときわめて少ない。そして、トルコにいるシリア人の多くは、高齢者、女性、子供などで、夫や父親などの男性が幸いEUのどこかの国で働いていても、合流することはできず、トルコにとどまらざるを得ない。戦争で荒廃した祖国シリアへ戻る道はほとんど閉ざされている。ドイツ連邦共和国でも、昨年1年間で100万人以上の難民が流入しており、難民による犯罪なども増加し、難民に厳しい姿勢に転じている。最近では、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの3カ国を「安全な出身国」と規定し、これらの国々からの難民については本国に送り返すことになった。

  事態の変化はきわめて早い。EUートルコ協定が成立した段階で、トルコのダヴトグルー首相は退任してしまった。エルドアン大統領とそりが合わなかったようだ。大統領はますます専横的、傲慢になっているとEU側は感じている。そして、EU側はトルコ国民のシェンゲン域内への「ヴィザ無し渡航」(visa-free travel)について、それを認めるために72項目の条件を提示している。しかし、その充足状況はEU側からすれば、現時点では半分程度と厳しい評価だ。トルコは10年以上にわたり、この問題を交渉してきた。マレーシア、ペルー、メキシコ人などは、今日ヴィザ無しでEU域内を自由に旅行できるのに、なぜトルコは認められないのかというのが、トルコ側の不満だ。トルコは長年EU加盟を要望してきたが、キプロス問題などがあり、EUとしては難民とトルコのEU加盟を結びつけて議論することに強く反対してきた。本来、難民・移民問題とヴィザ問題は別の次元で扱われるべきものだ。しかし、難民流入に苦慮したEU側が、トルコとの取引条件としてテーブルに載せたのだ。


 人権問題などをめぐってエルドアン体制へのEU側の不満は強い。しかし、シリアなどからの難民の収容にトルコが尽力することを条件に、トルコ国民のEU域内ヴィザ無し渡航、さらに60億ユーロの支援には同意してきた。しかし、協定成立後も難民への対応は遅々として進まず、EUは不本意ながら譲歩を余儀なくされてきた。ヴィザ
問題は最短で進めば、5月4日が最近、最速の解決期限だった。しかし、到底妥協にはいたらず、EUとトルコは「互いにボールを蹴り出し合っている」。難民・移民問題の解決には、遠く、長い険しい道が続く。


References

'Clearing customs' The Economist April 30th 2016
European Commission, Towards a sustainable and fair Common European Asulum System, Brussels, 4 May 2016
Europe's murky deal with Turkey'  The Economist May 28th 2016

# PC不具合のため、脱落など、不十分であった点を加筆しました(2016/05/30 )。

 

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いかさま師物語(11):ゲームからギャンブルへ

2016年05月17日 | いかさま師物語

 
Cover
Arthur Flowers and anthony Curtis, The Art of Gambling Through the Ages, Las Vegas: Huntington Press, 2000




 最近,野球賭博、スポーツ選手が裏カジノに出入りし大損(?)など、ギャンブルにかかわる話題がメディアを賑わせている。断捨離作業の時の一冊が思い浮かんだ。ダンボール箱の「さようなら!」の一箱に入っていることは記憶していた。『歴史にみるギャンブルの美術』(上掲表紙)なる一書である。出版元はラスヴェガスにあり、なんとなくうさんくさいが、内容はきわめて真面目な美術史の書籍だ。人類史のこれまでを彩ってきたゲーム、ギャンブルの光景をそれぞれの時代の画家たちが、描き出した作品の小さな集積だ。それでもほぼ百人の画家たちの名と作品が挙げられている。


紀元前まで遡るギャンブルの歴史
 人類の歴史におけるゲーム、そしてギャンブリングの起源は、紀元前500年前  BC500 頃にまでさかのぼるといわれる。古代
ギリシャの壺に刻まれたダイス・ゲームらしきものに興じる2人の戦士アジャックスとアキレスの情景が描かれている。

Ajax and Achilles Playing Dice, c.530 B.C.
Exekias,
Museo Nazionale di villa Giulia, Rome 

最初は、誰かが思いついた暇つぶしのたぐい、単なる一場の遊びとしてのゲームが、賭け、賭博、ギャンブルの段階へ移行したのが、いつ頃からかは分からない。最初はきっと負けた側がビールやコーヒーをおごったことなどから生まれたのだろう。ギャンブルは人間の生活のかなり根源的部分から生まれたものだ。

 ギャンブル以前のゲーム
 さて、この書を手がかりに美術とギャンブルのつながりに少し立ち戻ろう。ゲームやギャンブルを描いた作品を見ていると、ひとつにはゲームの持つ本来的な楽しさ、娯楽性が前面に出た作品群がある。

  典型的な例が、幼い子供たちが楽しげに興じているダイスやカード遊びを描いた作品である。17世紀の画家ムリリョの「貧しい子供たちのダイスゲーム」がその一例だ。描かれている子供たちは、当時の多くがそうであったように、極貧で身につけている衣服もみずぼらしい。しかし、画家は純粋にダイスゲームを楽しむあどけない子供たちの表情を叙情的に描いている。歴史家の研究で、この遊びが当時アラビアから由来した「クラップス」Craps というゲームであることも今ではわかっている。こうした風俗画は、その時代の一齣を写し取り、今日に伝える貴重な情報源だ。



Bartolommeo Murillo, Small Beggars Playing Game of Dice, Alte Pinakothek, Munich, ca1650

 

 同時代の作品を見ても、純粋な遊び、楽しみが動機のゲームと、それが博打、ギャンブルの手段となっている光景が混在している。すでにこのブログでもおなじみの16、17世紀のカラヴァッジョやラ・トゥールの『いかさま師』は後者の流れを代表する圧巻の作品であることがわかる。本書でも最初に登場するのは、ラ・トゥールの「クラブのエースを持ついかさま師」だ。ゲームやギャンブルを題材にした作品にもさまざまな流れ、流行がある。画家たちも、過去やその時代の流行を研究し、それらからさまざまに学び取っていた。子供ばかりでなく、戯画化された豚や犬など動物たちが遊んでいる作品も少なくない。

ギャンブル性の兆し
 そうした画家たちの目がどこに向けられていたか。その一枚がカラヴァッジョや16世紀初頭の最も独創的な画家のひとり、オランダのルーカス・ファン・ライデン の作品「カードプレーヤー」である。カラヴァッジョや、ラ・トゥールのテーマが共有するギャンブルのいかがわしさ、猥雑さなどの怪しげな要因が忍び寄っている時代の空気を感じることができる。

多数の着飾った男女がすべて半身像で描かれるスタイルは、画面の次元を拡大し、次の時代へのひとつの道筋を示した革新だった。。総数8人という多くの男女が、それぞれの役割でプレーに参加している。テーブルの中心に位置する女性は女主人公のようであり、ゲームをとりしきっている。顔だちや衣装も整っており、いかがわしさや怪しさはあまり感じられない。しかし、よく見ると、女主人公の背後に立った女が指でサインのような合図をしていいるようだ。プレーヤーの間に微妙なやりとりが行われており、単なるゲームの域を脱し、ギャンブルの段階へと移行していることが明らかだ。この一枚の作品から多くの興味深い点を見出すことができる。とりわけ、`kibitzing`といわれるゲームをしている人々の背後で、あれこれ言ったり、怪しげなサインを出している見物人や取り巻きたちの姿は、すでにこの作品に描かれている。

Lucas van Leiden(1494-15339, The Card Players, c.1508
National Gallery of Art, Washington, D.C.

 

ギャンブルを題材とした作品には勝敗がつきものだ。ラ・トゥールの「占い師」のように、他の人に不幸が起きた時、それが周囲の関係者にいかなる心理的変化を生みだすかという、きわめて奥深い人間心理の根底に迫るような作品もある。

ゴヤ、セザンヌ、ピカソ、ドーミエ、ヴァン・ゴッホなどの著名な画家たちが、ゲームやギャンブルをしている情景をそれぞれのスタンスから作品として描いている。これは、ギャンブルという行為には人間の持つさまざまな本性が表れていることが画家たちの興味をかき立てていることが、背景にあるといえよう。

ゲーム・ギャンブルから見る時代の様相
 ブログで取り上げたことのある他の画家、セザンヌの『カード遊びをする人』なども含まれている。本書で表題と内容がやや異なるのは、作品が年代順ではなく、ランダムに配列されていることである。しかし、そのためにさまざまな想像の種が生まれる。原則、1ないし2作品が一ページに掲載されていて、来歴、画題の含意などが簡潔に記されている。見ているとあきることがない。

このブログでもこれまでその一端に触れているが、ギャンブルは美術史においてひとつの立派な(?)ジャンルを形成していることが分かる。この一風変わった書籍の序文を書いているルロイ・ナイマン LeRoy Neiman(1921-2012)は、知る人ぞ知るアメリカの表現派の画家である。本書の刊行後2年後に世を去っている。ネイマンの作品は鮮やかな原色が画面一杯乱れ飛ぶような、独特な作風で、運動選手、音楽師、カジノ風景などを描いてきた。ギャンブルの手段となっているのは、、カード、バックギャモン、ルーレット、競馬、ダイス(サイコロ)など、さまざまだ。

  本書にはネイマンの作品がかなり掲載されているが、下掲の作品はカジノのルーレット・ギャンブルで、ルーレットが回り出す直前、人々がそれぞれの思惑でチップを置いている場面を描いたものだ。さまざまな色が雑多に飛び散るような光景である。画家はそれをもって、現代社会の一断面としてのカジノの刹那的、荒涼として深みのない状況を描こうとしたのだろう。
 

LeRoy Neiman, The Green Table, 1972, Collection of the Artist
ルロイ・ネイマン「カジノ・緑色のテーブル」 

LeRoy Neiman, New York Stock Exchange, 1971,  Collection of the Artists
ルロイ・ネイマン「ニューヨーク株式取引所」

 これらの作品を見ていると、画家がギャンブルの光景を画題としている意味はきわめて多様であることが分かる。純粋にゲームの面白さに魅了された子供たちの情景や、暇をもてあました大人の遊びの光景から、人間の欲望の争いを決着しようとする手段として、表現されている場合、さらには享楽的、華美な極限に達した現代文明の断面としてのカジノ風景など、実に興味深い。 現代社会でITゲームに没頭している若者たちの姿は、画家たちの目にはどう映っているのだろうか。

さらに、 ネイマンは現代社会における投機的ギャンブルとして、株式投資もカジノの世界から遠くないと考えた。ニューヨーク証券取引所の荒涼としていながら、騒然とした状景が描かれている。そこで働く場立ちの人たちは、他人の資金を運用するという意味からも、最も迅速で統一性のない動きを見せている。現代世界の投機化、ギャンブル化はさらに進むとみられるが、後世にいかなる形で伝えられるだろうか。

 時の人、ドナルド・トランプ氏 Donald Trump、 日本ではまさに「トランプ」として知られるカードゲームの「切り札」の意味を持っている。その語源は、17世紀初期にTRIUMPHの変化した言葉として、同じ意味で使われたとされる(ODE+OSD)。政治もギャンブル化の色合いを深めているようだ。


 かくして、一時は「さようなら!」の箱に入ったこのユニークな美術書だが、再度眺めている間に新たな興味も深まり、「もうしばらくご滞在!」の床積みに戻ってしまった。断捨離のために残された時間も刻々と過ぎて行く。


 

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「見えない国境」:移民政策の成否を定めるもの

2016年05月04日 | 移民政策を追って



断捨離の作業?をしていると、懐かしいもにに出会う。
今は廃刊となって久しいLIFE(September 1990)の表紙である。
HOW WE CAME TO AMERICA と題されたエリス島入国管理事務所改装の記念号。
アメリカの移民史を飾る出色の一枚だ。 


 ある学術研究雑誌の依頼に応じて、「見える国境・見えない国境」(『日本労働研究雑誌』(2004年10月)(本文はクリック表示)という短い巻頭論説を寄稿したことがあった。テーマは戦後の日本の移民(外国人労働者)政策がもたらした結果のスナップショットであった。字数に制限があったこと、 読者の少ない学術誌ということもあって論旨が広く伝わったとは思えないが、その後10年ほどの間に、このタイトルがさまざまなところで使われるようになってきた。論説自体も、いくつかの大学で入試問題にも採用されていた。今回は説明不足であった点などを、少し補っておきたい。

薄れる記憶
  かつて日本で外国人労働者問題がクローズアップされた1980年代、東京の上野公園や代々木公園などに、休日、イラン人、バングラデッシュ人、パキスタン人など中東系外国人が集まるようになり、メディアの話題となったことがあった。それまで日本人があまりよく知らない国々の労働者、しかも男性が多数集まっている光景は衝撃的だった。実際には彼らは休日などに集まって、言葉の通じる同国人たちと、仕事の機会の有無など、情報交換などをしていた。自国の食べ物、日用品などを売る露店もあった。外国人が多かった大泉町などでは駅前の公衆電話の前に長い列ができていた。その後40年近い年月が経過したが、IT時代の今では、こうした事実があったことを知る人も少なくなった。

他方、時間の経過とともに、日本で働く外国人労働者の数は年々増加してきた。今では工場や店舗で働く外国人労働者の姿はあまり違和感なく、多くの日本人の目に映っているようだ。人口の大減少時代を迎えて、さすがに国内労働力では対応しきれないことが実感されるようになったのだろう。メディアによると、安倍首相などから、「移民政策」はとらないが「外国人労働者」の受け入れ拡大に向けた対策を強化するようにとの関係閣僚への指示も出ているようだ。2020年に予定される東京オリンピックに向けて、増大する建設需要に対応するため、15年度から緊急受け入れ措置が始まり、2020年度までに延べ7万人程度の受け入れが想定された。しかし、16年度2月までの受け入れ実績はわすか293人にとどまっているとされる(『日本経済新聞』2016年3月12日)。

注意すべき用語の含意 
 移民問題に関わる用語はかなり多い上に、その意味も多義的であって、少し説明が必要かもしれない。特に日本では、「移民」migrant, immigrant という用語は、戦前から戦後にかけて多くの日本人が移民船でブラジルなどへ移り住んだように、受け入れ先の国へ定住するとの含意が残っている。

しかし、今日では、受け入れ国における定住をかならずしも前提としない。たとえば、イギリスのBBCなどは、migrantを入国審査で難民として認定されなかった者を除くすべての外国人入国者(季節労働者、期間の定めのある労働者などを含む)とする定義を使うこともある。これに対して、日本では「移民」という用語がしばしば「定住」の権利とむすびつけられて考えられている。その場合、「外国人労働者」は、定住を認められていないと暗黙裏に考えられているようだ。しかし、国際的には「移民」は、定住、非定住に関係せず、「外国人労働者」も含まれている。当初は1~2年で帰国する予定であった労働者が、結果として定住にいたるということは、この世界ではよく起こりうることだ。また、移民労働者の多くは数年の海外での労働生活の後、母国へ戻ることをと予定している。

「難民」refugees, 「庇護申請者」asylum seekers は、「迫害、戦争その他生命の危険をもたらしかねない要因のため、母国を離れ国際的な保護を求める人々」と定義されている。庇護申請者は難民の認定申請をする前の段階と考えられているが、現実には区分が難しい。「移民」、「難民」の区分は現実的な対応においては、政治的判断の必要もう加わり、困難なことがある。たとえば、このたびのEUにおける難民問題にしても、真に難民に該当するか否かの実務上の判定は、かなり困難をきわめる。意図的に国籍などを証明する証明書を携行していない者もいる。本国照会などの事務手続きなどを考慮すると、時には半年以上も時間を要し、その間庇護申請者は収容施設などで、不安な日々を過ごすことになる。

「移民」と「難民」あるいは「庇護申請者」の間には、定義上も明らかな違いがある。やや煩瑣のため詳細は別の機会にしたい。

逆行する現実

    さて、戦後日本における移民受け入れ政策の展開を長らく見てきたが、1980年代とあまり変わらない議論が今日でも依然として横行していることに気づかされることがある。最近のEUにおける難民・移民問題の検討の際に論じたが、難民・移民の入国阻止のため、有刺鉄線などの国境障壁を急遽設置した国があった。ハンガリー、マケドニア、オーストリアなど、それまでEUのシェンゲン協定国として域内における人の移動の自由を認めていた国である。明らかに目に「見える国境」の復活であった。EUが、シェンゲン協定で協定国間(域内)の人の自由な移動を認める段階まできたことからすれば、明らかに後退である。

他方、フランス、ベルギーなどで、大規模な連続テロなどが発生し、テロリストが中東とEUの間を自由に出入りしていたこと、移民の中にまぎれてEUに入り込んでいたこと、などが明らかになった。関係者にとってきわめて衝撃的であったことは、すでにアメリカ、9.11同時多発テロの時に問題となっていたが、彼らが移民として入国を認められていた国で、テロ行為を実行したことだった(home-grown terrorism)。

 さらに、
外国人が自国民の仕事の機会を奪う、宗教との関連では移民にイスラーム教徒が多く、キリスト教文化主体の国になじまないなどの反発が生まれてきた。これらのある部分は「外国人嫌い」xenophobia といわれる域にまでいたっていることなどが指摘されるまでになった。なかには、公然と外国人入国制限を表明したり、「豚肉給食問題」(デンマーク)のように、かなりあからさまにイスラーム教徒を差別・排斥するような動きも出てきた。これらの動きの多くは、極右政党の台頭、勢力拡大と関連している。これらは、「差別」の分類でいえば、外国人に対する「明白な差別」に近い。他方、一見すると判別しがたいが、さまざまな形で次第に外国人を遠ざけるような「明白でない(隠された)差別」もある。

かつて、フランスの「郊外問題」の発生の時、目にした異様な光景が思い浮かんだ。そこはパリでありなが、ほとんどフランス語が通じなかった。アルジェリアなど、主としてアフリカから来た人々の住む地域だった。見えない国境の壁が厳然とたちはだかっていた。移民は受け入れ先国にあって、自国民が多く集まって住む傾向がある。その結果、「集住地域」「コロニー」のような場所も生まれる。

 「見えない国境」は、多くが人々の心の中に作り出される。トランプ氏のいうアメリカとメキシコとの国境は目に見える。しかし、そうした壁を構築するという考えは、人々の心の中にいつの間にか生まれた「目に見えない国境」とつながっている。

 移民(外国人労働者)政策とは、単に受け入れる外国人労働者の数や比率を増減したり、定住権を付与することにとどまらない。「見えない国境」が人々の心や社会に生まれないようにすることが、きわめて重要なことだ。国境の後ろに広がる「社会的次元」も重要な政策対象領域となる。定住を認める場合においても、外国人に日本語の習得を義務付けることは必要だが、国民の側にも偏見や差別を生まないための教育など、多くの施策が欠かせない。

日本はこれまで移民問題を
政策的中心課題として取り上げ、国民的議論とすることを避けてきた。その結果、国民の多くは日本がこの分野においていかなる立場にあるかを正確に理解できず、「技能実習制度」のように、多くの批判にもかかわらず、歪んだままの現実が依然としてそこにある。それだけに、人口激減時代に窮余の策として提示される選択肢としての移民(外国人労働者)政策は、国民に開かれた問題提起と議論が欠かせない。

 



 





 

 

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