時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「博士と彼女のセオリー」:10年後に見る

2024年11月28日 | 午後のティールーム



映画「博士と彼女のセオリー」(原題:The Theory of Everything)をご覧になった方はどのくらいおられるのだろうか。ブログ筆者はかねて見たいと思っていたが、その機を逸していた。封切り以来、10年近くが経過してしまっていた。この度、偶々、TVで見ることができた(2024年11月27日BS1、映画は日本では2015年に封切られた)。大変美しい感動的な映画であった。

イギリスの理論物理学者スティーブン・ホーキング博士 Stephen William Hawking(1942-2018)の生涯を、元妻、ジェーン・ホーキングの回顧録に基づいて映画化したものである。博士はALS(筋萎縮性側索硬化症)に罹患し、「余命2年」と衝撃的な通知を受けながらも、ジェーンと結婚、長女ルーシーも生まれた。彼女の献身的な介護を受けながら、偉大な成果を上げる。しかし、病気の進行とともに声、そして行動の自由も失い、ジェーンとも別離することになる。

しかし、離婚をしても、博士の生存中は3人の子供と共に良い友人関係を築いているというホーキング博士とジェーンの関係が美しくも哀愁に満ちた情景が描かれている。

晩年、著書『ビッグバンからブラックホール』が世界的なベストセラーになり、アメリカでの授賞式にホーキング博士が献身的な看護師エレインを連れてゆくと話したことから、博士とジェーンは離婚する。ジェーンは、教会聖歌隊でピアノ教師をしており、子供たちの父親の代理のように慕われていたジョナサンと結婚する。ジョナサンも博士の置かれた状況を良く理解した素晴らしい男性だった。そして博士はエレインとも5年後に離婚している。博士の病状も日を追って悪化し、彼女に加わる負担も大変なものだったろう。

エディ・レッドメインの好演が目立つ。第87回アカデミー賞主演男優賞、第72回ゴールデン・グローブ賞ドラマ部門主演男優賞などを受賞した。

ホーキング博士の病状の悪化と並行して、歩行や意思疎通が困難になり、それに併せて車椅子も介添人が手で押すものから、コンピュータや発声装置まで装備した高度なものへと進化してゆく。映画では、その変化が詳細に示されている。

映画の主たる撮影場所は、ケンブリッジのセント・ジョン・コレッジとクイーン・ロードなどがあてられたようだ。メイボールの光景も筆者は見たことがあるが、大変美しい。

ケンブリッジで卒業式の後、いくつかのコレッジで開催される公式のダンス・パーティなどの行事。

ブログ筆者は、ホーキング博士とは研究分野も何の関係もない領域であったが、1995-96年にケンブリッジ大学に客員として滞在していた。ホーキング博士は、その頃すでに大変著名な人物であったが、健康の点では比較的お元気な時期であったのだろう。毎朝筆者が駐車していた経済学部の前の道、シジウイック・アヴェニューを付き添いも誰もなく、電動椅子で舗装も十分でない道路を横断し、移動しておられた。時間帯がほとんど同じで、滞在中、幾度となくその光景にであった。その当時の経緯は、以前に上掲のブログに記したこともある。「世界は小さい」The world is small. という表現が当てはまる経験であった。


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『虎に翼』の足下で(2):事実とフィクションの間

2024年10月12日 | 午後のティールーム



NHK連続テレビドラマ『虎に翼』が終了した。かなり評判は良かったようだ。結局3分の1くらいは見たかもしれない。前回記したように、筆者は新聞連載小説、TVの朝ドラは、これまで読んだり、見たりすることはなかった。

今回は時間的な余裕はあった。しかし、積極的に見ようとは思っていなかった。あまり気乗りがしない原因は他にもあった。筆者の体験あるいは見聞した現実とドラマの間には、かなりの間隙があった。いうまでもなく、フィクション(虚構)であるドラマである以上、事実の取捨選択、歪曲などは当然起こりうる。

今回は別の事情が加わった。偶々、筆者が、ドラマに登場した人物と同時代のかなりの部分を共に生きてきたということに加えて、筆者の近くにいた人たちが、実際には登場人物を支える裏方のような役割を果たしていたからだった。たとえば、戦後、しばらく筆者の義父も、最高裁判所設立当時、事務総局の責任者として日夜働いていた。

特に気にかかったのは主人公たちが演技する舞台だ。ドラマだけに余計な部分は捨象され、背景も美しく整然としている。しかし、ブログ筆者が理解した限り、戦後しばらくの間、最高裁判所を取り巻く環境は、ドラマより遥かに混沌とした状態だったようだ。敗戦によって、旧体制は崩壊し、新たに最高裁判所を頂点とする裁判制度自体が、戦前とは大きく異なる価値観に基づき構想されることを求められ、根本的な再検討を迫られていた。

ドラマの影響力
ドラマと現実は当然異なって当然なのだが、長い年月が経過すると、影響力あるドラマが生み出したイメージが歴史的現実を席巻してしまう。今回は珍しく関連出版物も多かったが、とりわけ気になったのは、それらの多くが、「団塊の世代」(1947-49年生まれ)よりも若い世代の手になる調査や叙述であり、筆者には臨場感が薄いものが目についた。利用された史料も出所が同じものが目立った。

戦後、さまざまな折に集まった法曹分野の人たちの間で、当時の思い出話などに花が咲いたことがあった。筆者は法曹界には関係ない職業に就いていたが、傍らで聞いていて共感したことが多かった。

ドラマの一場面から:
『虎に翼』、第10週の場面。終戦後、民法改正に携わることになった寅子(演:伊藤沙莉)は、思い出の公園で花岡悟(演:岩田剛典)と再会し、並んで弁当を食べる。ところが、食糧管理法に関する事案を担当している花岡は、法を犯して闇市で米を得ることを拒否、あまりに少なく質素な弁当を持参していた。

全国の裁判所の事務室に米つき瓶、蒸しパン製造器などが並んでいたのは珍しくなかったようだ。前者は玄米、粟、稗などの雑穀を一升瓶に入れ、棒で突いて簡易の脱穀器のように使っていた。手製の電熱の蒸しパン製造器なども、多くの家庭にあったのではないか。筆者の家でも使っていたのを記憶している。鶏などを飼って卵を得ていた家庭も珍しくなかった。筆者の家でも一時期、2羽の鶏を飼っていたことを思い出した。

こうした話の中で、裁判所に出入りしていた魚屋のSさんの話を思い出した。裁判所を訪れる客人との会食の際の素材などの供給をしていたようだ。当時は鰊、ホッケ、鱈などは比較的入手できたが、鮮度がすぐに落ちてしまう。他方、主食の米が全くないという、今の若い世代の人たちには想像し難い状況もあったようだ。

飽食の時代に住む今日の我々には想像できない、栄養失調・餓死と隣り合わせだった戦後日本の暮らしがそこにあった。深刻な食糧不足に陥った日本は、「生きるために法律を犯して闇米を食べるか、法律に従って餓死するか」という極限状態にあった。

東京区裁判所の判事だった山口良忠(1913–1947年)といった「法の番人」である裁判官も、「自分たちが法を犯して闇米に手を出すわけにはいかない」と、当時の食糧管理法という法律に沿って配給される食糧のみを口にし、1947(昭和22年)10月11日に栄養失調で餓死するという事件が起きている。当時最高裁判所事務局にいた筆者の義父が記していた日記にも、この出来事の新聞記事が書き残されていた。

今日に残る関連記事の多さを見ても、いかにこの出来事が衝撃的であったかが分かる。三淵忠彦最高裁長官のもとに過労で栄養不足の裁判官がいたら差し上げてくださいと、自宅の鶏が産んだ卵を届けた人もあったという。彼女は長官室に招き入れられている。その後、長官はこの事件を重く見て、マッカーサー司令官に裁判官の報酬を改善する制度の進言をしている。

この例に見られるような苛酷な状況にあって、最高裁判所を頂点とする新たな裁判所制度の構想を具体化するために、裁判所内外で多くの人々が努力を続けていた。英語の勉強会は、さまざまに行われていたようだ。戦後、義父の遺品整理をした折、英語の法律関係の書籍、当時の著名な思想家たち、とりわけイギリスの哲学者バートランド・ラッセル(1872-1970)の作品がかなり残っていたことが記憶に残っている。婦人解放運動に熱中し、ケンブリッジ大学から解任され、後にアメリカへ移住したこの偉大な哲学者の思想も、戦後の家庭裁判所構想などに何らかの影響を与えたのだろうか。


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時空を旅して:「進歩」とは

2024年09月11日 | 午後のティールーム



21世紀が始まって、ほとんど4半世紀が経過した。見るとはなしにTVを眺めていたら、あの2001年、9月11日に突如として起きたアメリカ同時多発テロの番組を放映していた。忘れようとしても忘れられない光景だ。今日はあの日から数えて23年目に当たる。過ぎてみれば、なんと短い時間だったのだろう。


世界にはこの間あまりに多くの悲惨な出来事が起きた。戦争は世界各地で絶えることなく続いてきた。

世界貿易センター(ワールド・トレード・センター)へ立て続けに2機の航空機が突入する衝撃的な光景が目の前に再現されていた。筆者もこのビルで働く友人に会いに何度か訪れたことがあった。このブログの初期の頃に、的確なコメントを寄せられていたK.N.さんもそのひとりだった。

World is Small
TV画面には、ブログ筆者自身、若い頃に短い期間ではあったが働く場所を共にした住山一貞さんが写っていた。筆者は間もなく転職したことで、その後再会する機会はなかったが。

住山さんの長男の住山陽一さんは、当時、34歳、当時の富士銀行で金融マンとして、世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)にある銀行のニューヨーク支店で働いていた。

このテロ事件によって、判明しただけで、日本人24人を含むおよそ3000人が犠牲になった。筆者のアメリカ人の知人も犠牲者に含まれていた。

陽一さんの遺族は、その後今日まで同時多発テロの真相を究めるため、多大な努力を費やしてきた。なかでも、父親の住山さんはアメリカの独立調査委員会がまとめた567ページにわたる報告書の邦訳に人生を捧げてきた。

Terrorism  Everywhere 
筆者自身にとっても、9.11は大きな心の転機をもたらした。この話は、本ブログにも短く記したことがある。

住山さんはテロリズムの真相を追って、その後の人生をその追求に費やした。言葉に尽くし難い日々であったろう。その後、テロリズムは世界中に拡散し、いつどこで、何が起こるか分からない時代となった。筆者もオウム真理教の地下鉄テロを電車一本の差で、免れたこともあった。

筆者の友人が遭遇して犠牲となったテロ事件は他にもあった。これもブログに記したことがある。テロリストに襲撃され、命を落としたイタリアの友人の話もそのひとつだ。
世界は小さくなり、リスクは至る所にある。

一時は大きな希望が寄せられていた21世紀だが、四半世紀を過ぎた今、その前途はかつてない多くの不安に包まれている。人類は果たして「進歩」しているのだろうか。「進歩」とは何か。終幕近い小さなブログでは、到底答えられない問いがそこにある。







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『虎に翼』の足下で

2024年08月24日 | 午後のティールーム




これまでTVの連続ドラマなるものは、出勤前の忙しさなどで、ほとんど見たことがなかった。最近早朝に目が覚めてしまうこともあって、時々見るともなしに見るようになった番組がある。そのひとつが『虎に翼』NHK総合1である。実はこの番組の後にMLBの試合があることも、ひとつの楽しみでもある。

偶然ではあるが、ブログ筆者の周囲には、ドラマの主役たちとほぼ同じ時代に、同じ職業領域で過ごした人々が多数おられた時期があった。判事、検事、弁護士、さまざまな法曹界の関係者である。中には、司法界の社交場として建てられた法曹会館の総務部長を務められた方なども含まれていた。雑談の折などに戦前から戦後にかけての法曹界の変化の断片などを、うかがったこともあった。例えば、戦前、そして戦後しばらくの間、最高裁判所に出入りされていた魚屋さんの話などを聞いたこともあり、戦後間もなく生まれたばかりの最高裁判所のイメージの一端に触れた思いもした。

ドラマでは裁判所等のロケ地は、東京ではなく名古屋が多いようなので(名古屋市市政資料館、市公会堂など)、史実上の場所とは一致しないとしても、筆者の記憶の片隅に残るイメージと重なるような部分もある。

そのひとつ、現在の法曹会館は、昭和12年(1937)に竣工したもので、尖塔のある塔屋や窓などがバランス良く配置され、特徴のある建物だ。お濠端という場所にふさわしい静かな雰囲気を生み出すよう配慮されたデザイン、尖塔屋根や正面にはめ込まれたステンドグラス、真紅の絨毯が敷かれた階段など、時々目に浮かぶことがある。

戦前の大審院の建物は、イメージにはあるが、内部へ入ったことはなかった。全く偶然ではあったが、筆者が最初に仕事に就いた職場は、法曹界とは全く関係はないが、千代田区隼町の現在の最高裁判所(上掲写真)のあるところに仮事務所があった。

昭和 22 年 8 月に着工した旧大審院庁舎の復旧工事は,昭和 24 年 10 月に完成した。昭和24(1949)年11月11日、最高裁判所新庁舎1階の大ホールに国会、政府関係者、各政党、法曹界から1,200名が出席し、落成式が行われた。昭和24(1949)年11月11日、最高裁判所新庁舎1階の大ホールに国会、政府関係者、各政党、法曹界から1,200名が出席し、落成式が行われた。マッカーサー元帥が祝辞で、日本の民主主義国家への再生・シンボルとして、大きな賛辞と期待を寄せたことが伝えられている。残念なことにこの建物はその後取り壊され、現在は高層の東京高等裁判所合同庁舎が建てられている。

隣接の司法省庁舎は昭和23(1948)年から25(1950)年にかけて改修工事が行われ、法務省本館として使用された。その後、1991年から1994年に外観を創建時の姿に復元、重要文化財に指定されている。建物内には法務総合研究所と法務図書館があり、内部は最初に建てられた当時の室内写真をもとに復元され、見学もできる。筆者は一度見学した記憶がある。

不思議なご縁で、ドラマに出てこられる登場人物、内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年 ー2000年)先生とも、後年、先生が教育界に転じられてから、親しくお話を伺ったこともあった。

ブログ筆者は法曹界には直接関わったことはほとんどなかったが、間接的にはかなり多くの人々とのつながりが生まれていた。これまで気がつかなかった見えない糸のあれこれが連続ドラマへの関心を繋ぎ止めているようだ。
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美術館の将来:入館料は何で決まる?

2024年04月19日 | 午後のティールーム

Photo: YK


The Economist 誌に興味深い記事が掲載されていた。美術館の入館料はいかにあるべきかというテーマである。子供の頃から大の美術好きだったので、これまの人生でかなりの数の内外の美術館に出入りし、およそ想像し難い額を入館料やカタログなどに支払ってきた。時には海外にまで出かけたこともあった。圧倒的に持ち出しかなと思っていたが、今になってみると人生の楽しみのひとつとなり、コスト・ベネフィット比ではかなり取り戻した感がある(笑)。

’A different sort of art heist’  The Economist March 30th 2024
海外美術館の入館料については、同上記事を参照した。

最近、世界の主要美術館は次々に入館料を引き上げている。個々の美術館の常設展入館料は、映画館などと比較してみると、高いとは思わないのだが、しばらく前から企画展などは随分高くなったなあと感じる時も増えてきた。

どこまで上がる入館料?
ニューヨークの近代美術館の例が取り上げられている。この美術館の入館料については、「美術館は無料であるというのは、ほとんど道徳的義務である」Glenn Lowry, director of the Museum of Modern Art (MOMA)という考えがこれまではかなり有力だった。2002年時点では、MOMAの入館料は$12(今日の価格ではほとんど$19)であったが、その後引き上げられ、最新時点では昨年10月に$30に引き上げられた。今後はどこまで上がるのだろうか。

ニューヨークのメトロポリタン美術館 Metropolitan  Museum of New York は長年にわたる「払いたいと思うだけ払う」”pay what you will” policy を2018年に廃止、2022年に市外からの訪問者の入館料を$30に引き上げた。美術館側からは「推奨料金」とされ、ほとんど義務化されている。

昨年夏には、サンフランシスコ近代美術館、フィラデルフィア美術館、ウィットニー美術館、グッゲンハイム美術館などもこの流れにに従い、標準入館料を$25から$30にした。アメリカ大都市にある有名美術館の入館料は、当面$30がひとつの基準値であるようだ。

コスト上昇が背景に
美術館側はコスト上昇と、長引いた”コロナ禍”が財政面を圧迫していると、値上げを弁護している。確かに、アメリカでは3分の1の美術館だけが、コロナ前の入館者数を確保あるいは上回っている。

アメリカではおよそ30%の美術館は無料だ。さらにスミソニアンや民営でもロサンジェルスのゲッティ美術館などは無料だ。寄付などで十分に支援を受けている美術館は、入館料を無料にすべきだとの考えが有力なようだ。

状況はヨーロッパでもほぼ同じらしい。エネルギー価格の上昇、労務費の上昇はヨーロッパでも入館料引き上げを生んでいる。アメリカ同様、2024年1月、ベルリン国立美術館、ルーヴル、システィン礼拝堂を含むヴァチカン美術館は、入館料をそれぞれ20%、29%、17%引き上げた。

入館料が引き上げられていないのは、アジア、中東の美術館だけらしい。歴史が短く、国家などの財政支援が寛容なためと推定されている。

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N.B. 常設展の例
国立西洋美術館 常設展
常設展観覧料

個人
団体 (20名以上)
一般
500円
400円
大学生
250円
200円

高校生以下及び18歳未満、65歳以上、心身に障害のある方及び付添者1名は無料。 
文化の日その他、美術館が特別に指定した日 [常設展無料観覧日は、Kawasaki Free Sunday(原則毎月第2日曜日)、国際博物館の日(5月18日)、文化の日(11月3日)]は無料。
出所:同館HP

国立新美術館(六本木)は入館は無料だが、観覧料は展覧会によって異なる。
日本の美術館の入館料の平均は、大体1000円前後〜2000円前後と推定される。
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しかし、美術館協会 The Association of Art Museum が主張するように、美術館がいかに料金設定しようと、運営費をカヴァーできないとの見解もある。アメリカの美術館において、入館料は2018年時点で全収入の7%程度に過ぎないとの調査もある。会員制度がある場合は、さらに7%程度の追加の寄与になる。予算の残りの部分は、美術館によって異なるが、通常は、endowments 基金、寄付金、charitable donations 慈善的献金、grants 贈与、ショップなどの小売事業によって賄われている。

ヨーロッパの美術館は、入館料への依存はアメリカよりは少ない。というのは政府の助成金で手厚く保護されているからだ。そのため、入館料を高くして納税者にさらに負担を強いるのは気まずいし、実際に二重課税となる。多くの美術館は若者、年金生活者及び当該地方居住者には割引を適用している、

イギリスの全ての国家機関は入館料は無料だ。中国でも国家が運営する美術館は無料だ(但し、特別展示などは例外)。

減少する観客と適正な入館料
諸物価が風船のように嵩んでゆくにつれ、美術館がより広範な観客に美術を鑑賞する機会を与えるべきだとの考えに対応できなくなってくる。今でも多くのアメリカ人が美術館やギャラリーを訪れる機会を減少させている。しばらく美術館には行ったことがないという人が増えているようだ。2017年と2022年の間に観客数は26%も減少した。コロナ禍の厳しさを痛感する。

未だ10代の頃、当時かなりのめり込んでいた正倉院展などにはしばしば2〜3時間も並んだことを思い出した。娯楽や知的関心を喚起する対象が少なかった時代だったので、どこも大変な行列だったが、あまり苦痛に感じなかった。

近年、一般の美術館への関心低下、とりわけ若年層の減少は、公的支援に大きく依存する美術館にはとって厳しい挑戦となっている。こうした傾向は、美術館へ行かない人たちは、将来、政府支援のない美術館や入館料が高い美術館へ行かない人たちを増加させることになるかもしれない。他方、高額な入館料支払いを厭わない美術好きは、美術館の中のギャラリーに彼らだけの場所を設けることも予想されている。いわば同好者サークルのようになるかもしれない

しかし、美術館へ行くコストを大幅に切り下げることが解決につながるとも考え難い。西欧の美術館が今後どんな価格設定が良いか議論するとしても、入館料をゼロにするというのは最もありえない答だろう。美術館の将来には、これまでとは異なった新しいヴィジョンが必要に思われる。

とりわけ日本の美術館は規模の差異などは別として、国際的にみても全体に常勤職員の数も少なく、労働条件も非常勤職員での補充など、低下傾向がみられる。今後加速化が予想される人口減少を含め、いかなる形で充実を図るか、将来像が判然としない。財政面での弱体化への対応も不安を残している。

博物館学 museum studies や経済政策の領域では、かなり興味深いテーマになりうるかもしれない。残念ながら、筆者にはこれ以上検討する時間が残っていない。
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しばしのお休み(2): 旅の道連れ

2022年10月22日 | 午後のティールーム

 白老のウポポイや苫小牧などについては記したいことは多いのだが、旅の途上でもあり、あきらめて近くの登別温泉に向かう。秋の山々は美しいが、コロナ禍の影響で人影は少ない。タクシーの運転手さんが問わず語りにコロナ禍前後の町の変化を語ってくれた。一時はインバウンドの観光客目当てのコンビニ、ドラッグストアまで開店し、大変盛況だったようだが、今はほとんど廃業してしまったとのこと。ホテル、旅館が林立する有名温泉街も昔日の面影はなく、多くの店が入り口を閉めており、昔日の賑やかさは想像もし難いほどで寂寞感が漂っていた。直後の旅行制限の撤去がどれだけ改善効果を発揮するだろうか。

旅の徒然に
林芙美子と内田百閒
旅に出る時は、若い頃からの習慣で途中で読む本を持っていく。大体肩の凝らない随筆とか短編が多い。今回は刊行されたばかりの林芙美子(1903年〜1951年)『愉快なる地図』(中公文庫、2022年)と内田百閒(1889年〜1971年)『蓬莱島余談』(中公文庫、2022年)の2冊にした。戦後書籍の出版数が少なかった頃、林芙美子、内田百閒、獅子文六などの作品は両親、更には両親の友人の蔵書まで借りて読んだ。その記憶が残っており、長らく読むことがなかった著者の名前が懐かしく久しぶりに手に取った。戦後生まれの若い世代の人たちは、ほとんど手にとることのない著者であり、作品だろう。



今回読んだのはいずれも広く紀行文の内に入る作品といえる。この作品は、1930年から1936年にかけて、台湾、樺太、パリなどへの旅に関わるエッセイである。『女人芸術』、『改造』などに寄稿された短い印象記などが後に編集され、一冊となっている。代表作ではないが、林が文壇に登場した頃の飾り気のない人生の時期が記されており、波瀾万丈であったこの作家を理解する上で得難い作品である。

林は昭和3年「改造社」刊行の自伝的小説『放浪記』がベストセラーになり、一躍文壇に登場した。彼女自身が幼い頃から貧窮な生活を経験しているがゆえに、貧民街に泊まることなどを物怖じしない、率直で飾り気のない文体で記されている。今の時代の若い人たちも抵抗なく読めるのではないか。文庫版表紙のイメージは、着物と下駄で旅先を走っていた林芙美子の時代、人生とは違和感を覚える今風のものになってはいる。

樺太を除くと、ブログ筆者も訪れたことのある場所があり、懐かしい思いがした。台湾の旅は林にとって初めての海外旅行でもあり、婦人作家との団体旅行だった。帰国後、『放浪記』(改造社)が予想を上回り売れに売れて、女性の新人作家としては異例のベストセラーとなった。

彼女は『放浪記』の印税が思いがけず入ったことで、3百円の現金を腹巻に、パリに始まるヨーロッパ大陸への旅に出た。インド洋を経由する海路もあったが、月日も費用もかかることもあって陸路を選んだ。時は昭和6年満州事変の最中であった。スポンサーも出版社などのアテンドもあるわけではない、女ひとり、3等列車の旅の情景が描かれている。

ブログ筆者の時代には、ヨーロッパへの旅の主流は航空機に転換しつつあり、モスクワ経由でヨーロッパへ旅する経路が一般化していた。シベリア鉄道を利用するのは、安価な学生旅行など、例外的になっていた。その意味でも、林が経験した大戦直前の中国、ロシアの庶民の日常の光景がきわめて興味深い。次々と入れ替わる乗客たちの描写は、何の飾り気もない粗野で貧しい庶民の振る舞いそのままだが、旅を終わってみると、彼女にはロシア人が最も人間らしく好感が持てる存在として残る。ブログ筆者の友人にもロシア人(カナダへ移住)の親友があり、20代から今日まで交友を続けてきており、同感することが多々ある。ロシアのウクライナ侵攻が、ロシア人一般へのマイナス・イメージを作り出したことに深い悲しみを感じる。

パリでの生活では、貧困な日々ではあったが、フランス語習得に「アリアンス(AllianceFrançaise)に通ったり、努力を怠らない人であった。

林は旅行好きで前後8度中国大陸に渡航、その中に2度は従軍して戦線に向かった。しかし、その思想、言動の故にかなり嫌な体験もしたようだ。戦時中は『放浪記』などは風俗撹乱の恐れある小説として発禁になったこともあった。貧困に背中を押され、原稿依頼を断ることがなかったこともあってか、林芙美子の著作数はきわめて多い。実生活では毀誉褒貶ただならぬ人生であったが、林本人としては最後までひたすら走っていたのだろう。

人と人とのつながりも、いまはあまり魅力を感じなくなった。私は旅だけがたましいのいこいの場所となりつつあるのを感じている
(『私の紀行』序、新潮文庫、1939年7月)。

1951年(昭和26年)6月28日心臓麻痺で急逝した。享年47歳。

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內田 百閒(1889年- 1971)も、その軽妙洒脱な筆致で肩が凝らない作品が多く、『 百鬼園随筆』『阿房列車』など、かなりの作品を読んだ。

百閒が 陸軍・海軍関連の学校、法政大学などで教鞭をとった後、しばらく失職していたが、友人辰野隆の計らいで1939年(昭和14年)、 日本郵船嘱託(文書顧問 - 1945年)の職を得た。今回の『蓬莱島余談』は、その間の出来事を台湾旅行を中心に関連する旅行談、周遊記、交友談などをまとめたものだ。

嘱託といっても実に優雅な勤務で、午後2時から半日づつ、水曜か木曜は休み、月二百円の手当だった。公務員の初任給が月70円か80円くらいだったといわれるので、大変恵まれた仕事だった。郵船側も百間になにか特別な期待をしていたとも感じられない。良き時代の大会社郵船の「社会サーヴィス?」だったのだろうか。

時には郵船の大型船の船上に当時の著名文士や知名人を招き、社費で盛大な宴会を開催するなど、金繰りに奔走したなどと言いながらも、優雅な仕事?を楽しんでいたようだ。大型豪華客船の一等船室に泊まり、豪華な食事に好物の麦酒(ビール)を飲み、日常の些事はボイ(ボーイのこと)に頼んで旅を楽しむ光景は、どう考えても借金に苦しむ貧しい生活とは見えないのだが。

                 
 点描
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借金と錬金術
旧制岡山県立中学校在学当時から父の死により実家の造り酒屋が倒産し、以後金銭面での苦労が多かった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。

宮城道雄との縁
今回の『蓬莱島余談』にも、頻繁に登場してくるが、百間は岡山時代から箏曲の名手宮城道雄と親しく交流していた。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の 葛原しげる らともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。

1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、随筆「東海道刈谷驛」を記している。

円本
1926(大正15)年末から、改造社が刊行し始めた『現代日本文学全集』を皮切りに、出版各社が次々に刊行し始めた、一冊一円の全集類のことだが、これによって出版業界に製本から販売までのマスプロ体制が確立されたといわれる。印税で円本成金になった文士たちが相次いで海外旅行などに出かけたようで、百間もその例に漏れなかった。

林芙美子さんとの出会いもあったようだ。新造船八幡丸に神戸から林さんが乗船されるとのことで、高名な巾幗(キンカク:女性の意)作家をご招待し、歓待しようとしたが、そっけない対面だった。どうも波長が合わなかったようだ。このくだりも百間は記しており、読んでみて面白い。林芙美子の側にはこの時については何も記述も残っていないようである。スポンサーに恵まれ、苦労もない贅沢文士にしか見えなかったのだろうか。

1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳
老衰で原稿が書けなくなっていたと伝えられる。



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​しばしのお休み:北方への旅

2022年10月09日 | 午後のティールーム


爽秋の1日、思い立って北に向かって旅をする。素晴らしい快晴に恵まれ、残り少なくなった人生の旅を楽しんだ。

旅のスナップショットから、いくつかお見せしよう。直ちにどこであるか分かった方は、特別かもしれない。この施設の開設は2020年7月12日であったが、コロナ禍で大きな影響を受けたようだ。筆者は以前にも2度ほど訪れたことがある地だが、あたりの光景は一変していた。







場所は北海道白老郡白老町。ウポポイと呼ばれる場所である。
この新しい施設が生まれる以前の白老を訪れた時の印象は、寂寞とした雰囲気が漂っていたが、明るい観光拠点になっていた。アイヌの貴重な文化遺産の継承という意味では、今後の拠点となりうるだろう。しかし、何か大切なものが失われたという思いが残った。

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ウポポイは、北海道白老郡白老町にある「民族共生象徴空間」の愛称とされる。主要施設として「国立アイヌ民族博物館」、「国立民族共生公園」、「慰霊施設」を整備しており、アイヌ文化の復興・創造・発展のための拠点となるナショナルセンターとして開設された。「ウポポイ」とはアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味している。
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館内の展示から:織物の作例

アイヌ民族は、近世には北海道全域、東北北部、樺太、千島列島という広い地域に居住、暮らしてきた。交易民として本州や北東アジアと関わり、独自の言語や文化をもった海洋民であり、日本の先住民族でもあった。しかし、世界の多くの地域で先住民が移住者などにより抑圧され、迫害を受けたり、衰退した事実はアイヌの場合も例外ではなかった。

「アイヌ」という言葉は、アイヌ語で「人間」を意味する。この言葉は民族間の接触が増えてから広く使われるようになったといわれる。


その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました。

〜知里幸恵〜

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知里 幸恵(ちり ゆきえ、 [1903年~ 1922]は、 北海道 登別市出身のアイヌ女性)。19年という短い生涯ではあったが、その著書『 アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
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北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の記念碑


トウレッポン:ウポポイのPRキャラクター
トウレプ(オオバコユリ)の年頃の女の子

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森鴎外と西周:両雄並び立たず?

2022年08月12日 | 午後のティールーム



2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。

ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。

他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。

西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。

森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。

偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。


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西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
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1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。

林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。

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*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。

相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
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林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。

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相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
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鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2

その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。

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*2 
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
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森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。

さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。

西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。

この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。

実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。

池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。

ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。


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鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
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参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。


宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。

中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。



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水晶球占いより確か?:2020年の世界を予測する 

2022年01月18日 | 午後のティールーム




例年、年末年始になると、さまざまな回顧や予想が行われる。この2年余りcovit-19のパンデミックを過ごしてみて、世界の人々は近未来であっても、この社会に起きる事象の変化を予想することがいかに難しく、不確かであるかを肌身に感じることになった。世の中には限りなく多くの未来予想に関わる言説が横行している。しかし、3年前、誰がコロナ禍の発生とその拡大を予想していただろうか。

予想、とりわけ未来についての予測は難しい。頻繁に起きる事象については統計的モデルを作ることは比較的可能であり、実用に耐える予測も不可能ではない。しかし、それも統計的計測に耐える歴史的(時系列)データが存在しない場合はかなり困難だ。

そうした場合に、手がかりとなるのは 「多数の知恵」”wisdom of crowd”とも言うべき手段で、一例としては株式市場における投資家たちの行動を集計した株価予想が挙げられる。

将来の政治的あるいはニュース上の事象について、イギリス、アメリカなどに多い職業的予想屋の力を借りることも可能だ。The Economistは、賭博取引、予想会社、賭け屋であるBetfair, Metaculus, PredictIt, Smarketsの力を借りて、次のような領域についての予想を行っている。

予想は2022年1月1日号(print edition)と1月4日号に掲載されている。具体的には、ワールド・ニュース、Covit-19、政治、ビジネスと経済、スポーツとカルチュアの分類で行われている。いくつかの例を挙げてみよう。

1月1日号によると、 次のような問題について、どのくらいの確率で起こりそうかを示している。来るべき新年に問題となる点のいわば断片だ。数値が高いほど、当該事象が「起こりそう」likely なことになる。

「少なくも65億人分のcovid-19ワクチン接種が世界で2020年中に実施される」(63%)、「アメリカで共和党が下院の過半数を占める」(82%)、「ノルウエー・チームは冬のオリンピックで金メダルのほとんどを獲得する」(78%)、「エマニュエル・マクロンはフランスの大統領選で勝つ」(63%)、「ロシアがウクライナに侵攻する」(43%)、「オミクロン株は年末でも猛威をふるっている」(44%)、「ボリス・ジョンソンはダウニング街にいられなくなる」(46%)、「2022年、アメリカのインフレ率は4%を越える」、「アメリカで民主党は下院で過半数を維持」(30%)、「ウエスト・サイド・ストーリーは、映画でオスカーのベスト映画となる」(24%)。「原油価格は年末にはバレル当たり$60以下になる(21%)、「世界の航空機旅客数は6月までにパンデミック前までに復活する」(10%)、「中国と台湾の間で武力衝突が起きる」(10%)・・・・・・。

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N.B.
IT edition (January 4th 2020 edition)は、デジタル版もあり、上述のプリント版とは別の事象を取り上げている。そのいくつかを挙げてみよう:
「英国がEUを離脱(exit)する」(99%)、「石油価格は年末にはバレルあたり$70以下となる」、「ドナルド・トランプはアメリカ大統領としての最初の任期を達成する」、「ビットコイン価格は年末には$7,500以下となる」、「スコットランド議会は国民投票で独立に投票する」(45%)、「ジョー・バイデンは民主党の大統領指名を受ける」(38%)、「グレタ・トゥーンベルははノーベル平和賞を受賞」(31%)、「’パラサイト’はオスカーの最優秀映画賞を受ける」(28%)、「英語圏の富裕な諸国で住宅価格が低落」(28%)、「英国は新しい君主をいただく」(30%)、「アメリカは次の12ヶ月の間に不況に陥る」(20%)、「世界の最高平均気温がNASAによって記録される」(25%)、「イングランドはEURO2020の男子サッカートーナメントで優勝」(18%)、「中国はオリンピックで金メダルのほとんどを獲得」(9%)、「S&P 500株式指数は年末には少なくも10%は下落」(11%)、「アメリカはNATO脱退の通告をする」(6%)・・・・・・。
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さて、現実にはどんなことになるでしょう。プロの予想がどれだけのものか、この1年、注目してみたい。

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歳をとり小さくなる国、日本の近未来

2022年01月13日 | 午後のティールーム

日本の人口逆ピラミッド
縦軸:人口グループ
横軸:100万人
1980年、2020年、2060年(予測)



出所:人口社会保障研、THE WORLD AHEAD 2022 The Economist 


成人の日。久し振りに着飾った若者たちの集団に出会った。コロナ禍に鬱々とした日々を2年以上にわたって過ごして来た若い人たちが、しばしの開放感を楽しんでいる光景を見るのは、ホッとする思いがする。

年末から年始にかけて、世界の多くのメディアが新年、近未来についての予想を特集している。その中で、半世紀近くにわたって購読してきた雑誌のひとつ、The Economist誌の年末・年始の特集は、いつも楽しみにしてきた。しかし、この10年近く日本についての記事には考えさせられてきた。ひとつは、日本に向けられる関心度が顕著に低下していることだ。もうひとつは、世界でほとんど最高(正確には韓国に次ぐ)となったこの国の高齢化がもたらす活力低下の記事増加だ。この二つは相互に関連しているところがある。最近の記事を素材に少し記しておく。


SPECIAL REPORT: On the front line, The Economist, December 21st, 2021
Getting on THE WORLD AHEAD 2022:The Economist’ 2022


五城目町の場合
人口をテーマに取り上げた「古い国(歳とった国)」The old countryという小さな記事が掲載されている。ここでは、例として秋田県の五城目町、人口8307人くらい(2021年12月推定値)という小さな町が取り上げられている。500年近い歴史を持ち、500年近く続く朝市、城館跡、古民家集落など日本の原風景を今に残す魅力のある町である。しかし、コロナ禍の影響もあってか、観光客も少なく、住民数の減少が続いている。この町の人口は1990年以来、ほとんど半減、しかも住民の半数以上は65歳を越えている。そして、このイメージは日本の近未来と重なっている。


五城目町と全国の年齢別人口分布(2005年)五城目町の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 五城目町
■緑色 ― 日本全国
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
出所:Wikipedia 五城目町

縦軸:年齢グループ、横軸:人数
最上掲の日本全体とは年齢軸が逆になっていることにご注意
出所:五城目町HP


かつて The Economist誌は「信じられないほど小さくなる国」と題して、日本を特集した。人口減少が止まることなく進行している。反転の可能性はあるのだろうか。もしあるとすれば、いつのことで、何が反転の機運となりうるだろうか。筆者は幸いこの世にいないので心配することもないのだが、同様の記事を見るたびにやはり気になってしまう。

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N.B.
人口は年齢増加(長寿)と出生率の減少の二つの相乗結果である。2020年、日本の出生数は1899年いこう、史上最低の840,832人に過ぎなかった。他方、死亡数は1,372,648人で、自然増減数は531,816人で、これまでの最大の減少となる。自然増減率は4.3で数率共に14年連続減少、低下となった。
(厚生省人口動態統計月報年計概数)
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新成人を制度的に作り出しても、この実態はほとんど変わらない。2018年に制定された新制度で2022年4月から成年年齢が20歳から18歳へ引き下げられる。これでおよそ200万人の新成人が一夜にして生まれることになる。これは成人の下限が1876年に定められて以来の制度改正になる。そして選挙権が2016年から20歳から18歳となった。

制度上で成人の範囲を拡大したところで、日本の高齢化の構造が変わるわけではない。日本ではすでに29%以上が65歳以上である。ちなみに、イタリアでは23%、アメリカ17%、イギリス19%となる。

日本のベビーブーマーの高齢化はとりわけ顕著だ。1947-49年生まれのコーホートのおよそ8百万人が来年には75歳以上になる。

日本では65-69歳のほとんど半分、70-74歳層の約3分の1が働いている。日本老年学会では65-74歳層は”pre-old”と呼ぶべきだと提唱している。しかし、75歳以上では構図が大きく変わる。仕事についているのは、10%と急減する。

こうした状況は、ほぼ既知のことであり、これまでもさまざまな対応がなされてきた。地域の例として挙げられた五城目町の場合も、ふるさと納税をはじめ、地域おこしの努力を行ってきた。しかし、コロナ禍が続く中で、リモートワークなど、地域の制約を解き放す変化も進行してはいるが、流出人口の抑制に有効なほどの変化は生まれていない。観光客の増加にも限度があり、人口減少、高齢化進行に歯止めをかけるほどの効果を生み出すことは、極めて難しい。

全国レヴェルで見ても外国人の受け入れ数は、産業維持に欠かせない数にまで達している。労働力不足に対応するために、さらに受け入れ増が必要になるが、解決すべき問題は増え、一筋縄ではゆかない。ロボットから税金をとる日は案外近いかもしれない。

追記(2022/01/15):
「スポチカラ:秋田ノーザン・ハピネッツ」NHK BS1 (2022年1月15日再放送)は、バスケットチームの力で地域再生を目指す、秋田県民の努力を興味深く提示している。




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ニューノーマルの入口に立って

2022年01月05日 | 午後のティールーム


ウイルヘルム・ハマスホイ 《Interior. Young woman seen from Behind》

扉の向こうにはなにが

「ニューノーマル」が生まれるまで
2019年末、中国武漢に発したと思われる新型コロナウイルスCV-19は、世界的規模に感染・拡大し、次々と変異株を生み出した。2021年にはオミクロン株という聞きなれない名前の変異株が世界を席巻し、新年になっても収束の見通しは見えてこない。アメリカでの感染者数は新年早々1月には200万人を越え、日本でも全国で2600人を越えた。第6波の到来は不可避な状況を呈している。旧年末には、日本はなんとかオミクロン株の感染拡大を抑え込んだのではないかとの見方が高まったのだが、期待は脆くも裏切られた。

多くの混迷と混乱が世界を覆っている。新型コロナウイルスの感染範囲は世界的範囲に及び、限られた地域の病気 endemic ではなくなった。人々はコロナとの絶え間ない戦いに翻弄され、疲れ切って、安定ともいうべき状態を希求するようになっている。

新型コロナウイルスの感染拡大に先立って、今世紀初めの頃から「ニューノーマル」New Normal (新常態)*という新たな概念が提示されるようになった。この新しい概念の意味する内容に少し立ち入ってみたい。材料として、前回提示した The Economist の短い論説をひとつの素材としてみよう。

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N.B.
元来、このNew Normal 「新常態」「新規範」という新語は、2007年から 2008年にかけての リーマンショックとして現れた世界金融危機後の産業社会の本質について述べられた概念といわれる。しかし、その後2020年年初からの新型コロナウイルス感染症(COVID-19)がパンデミック(世界的な大流行)にいたっているとのWHOテドロス事務局長の認識などもあって、このニューノーマルなる概念は金融界を超えてさらに広い意味で使われるようになった。しかし、その概念は十分確定したものではない。
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時代を変えた9.11:世界は予測不可能に
このブログでも再三記したように、2001年9月11日の同時多発テロの勃発は、その後の世界を大きく変えた。人々の記憶は移ろいやすいが、この出来事の後、しばらく空の旅は不安とリスクに満ちたものとなった。ロックされたコックピットのドア、武装した航空保安官、液体ボトル、刃物、ラップトップなどの機内持ち込み禁止などの規制を思い起こしてほしい。この同時多発テロ以後、何が起きるかわからないという意識が人々の間に忍び込んだ。予測できないことが頻発する時代になったという感覚は、この頃を境に強まった。それを裏付けるように、9.11の後、リーマンショックが起き、金融界のみならず、産業界全般に不安定感が浸透した。

新型コロナウイルスによるパンデミックはこの延長線上に起きた。2020年年初から既に2年間、世界の人々はマスクの着用を強制され、旅行の制限、禁止、ロックダウン、ワクチン接種証明など、変異株の出現ごとに多くの規制に縛られた社会に生きることを強いられている。これらは、疾病と共に生きるために支払う価格と言えるかもしれない。

さらに、地球規模の気象変動への危機感、アメリカ・中国という2大スーパーパワーの関係悪化などもあって、地球自体が著しく狭小化したことを人々は認識することになった。

パンデミックが変えた世界
コロナ禍は2022年に入っても、収束し消え去る気配はない。ポストコロナの時代に持ち越されるとみられる変化の数々が挙げられている。その内のいくつかは、AIなど新技術の変化、ロボット化、巨大IT企業の影響力拡大など、コロナ禍の発生以前から進行していた変化も含まれている。オンラインに代表される働き方の変化、学校教育や医療システムにもたらされる変化、デジタルノマドなど、社会のほとんどの領域にわたり数多い。

こうした諸変化が一体となって、人々の考え方も変え、以前とは明らかに異なった時代になったと思わせる新たな状態を生み出し、世界に根づきつつある。New Normal「新常態」ともいうべき時代を画する規範の域にまで及びつつある。後世の歴史家が現段階をいかに位置づけるかは別として、明らかに新時代を画する諸変化が次第に根付き、新たな地盤変化をもたらし、人々の考えや生活スタイルに影響する規範ともいうべき変化が起きている。注目すべきは、パンデミックがアクセルの役を果たし、コロナ禍以前から進行していた変化を大きく押し進めたことである。リモートワークでの仕事や教育は、パンデミックの後押しで急速に進んだ。デジタル革命がその背後で進行している。仕事の2極化も大きな注目点だ。多くの先進国で中間層の崩壊が進む。その先にはいかなる光景が広がるのだろうか。

ニューノーマル時代の特徴
コロナ禍後、世界はより安定した時代へ戻れるだろうか。世界は2020年以前の時代へ戻れるだろうか。戻れると考える人々は恐らく極めて少ないだろう。ノスタルジックに過ぎる望みともいえる。新型コロナ感染がもたらした諸変化はあまりに大きく、2020年前に一部が復元したとしても、中核的部分は不可逆的なものとして根を下ろすだろう。時代は大きな境界を越えたといえる。

閾値を過ぎると、どんな小さな一押しでも古い均衡から外れ、新たな次元の均衡へと進むことができる。半分開きかけた扉を軽く押すような感じ(nudge)である。しかし、その扉が再び閉ざされることはない。現在、世界が立っているパンデミックの時代はいわばドアの入り口であり、そこを通り抜けると戻ることがない。

コロナ禍後、ニューノーマルの時代に指摘できることは、時代の不透明性が強まるということだろう。今日世界が直面している状態では、かなりの事象が「予測不可能であること」を予測できる時代が到来していることが特徴として認められる。予測技術の進歩によって、かなり正確に近未来の変化を予測できる可能性も高まっている。その反面で、新型コロナウイルスのように、予測できない事象で世界が揺り動かされるという時代が生まれている。


Reference
’The new normal’ The Economist, December 18 -31st December 2021
James K. Galbraith, The End of Normal, New York: Simon & Schuster, 2014

追記(2022/01/09)
本ブログ中の関連記事は多いが、差し当たり下記を参照いただきたい。

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新年おめでとうございます

2021年12月31日 | 午後のティールーム

Photo:NK/yk

新年おめでとうございます

2022年元旦


普通の年ならば、もろ手を上げて新しい年の始まりを祝いたい。しかし、今年はかなり様子が違う。

オミクロンという多くの人々がこれまで聞いたこともなかったウイルスの変異株が、世界を揺り動かして不安な様相を呈している。日本でもほんの僅か前には、今度は収束に成功したかと安堵しかけたのも束の間、新年早々から第6波の到来に脅かされる状況が生まれている。

新型コロナウイルスに限らず、気象変動、米中対立など、世界に甚大な影響を及ぼす可能性のある問題が山積している。世界はしばらくの間、先のよく見えない時代を過ごさねばならないだろう。

年末に配達されたばかりの英誌 The Economist は、巻頭に、’The new normal:The era of predictable unpredictability is not going away’* (「ニューノーマル:予測不可能なことが予測される時代はまだ終わっていない」)  と題した短い論説を掲げている。内容を紹介する機会があるかもしれないが、タイトルが暗示する通りである。

なんとか、禍いを転じて福としたい。

The new normal:The era of predictable unpredictability is not going away
The Economist , December 18th - 31st 2021



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しばしの幕間:コロナ禍合間のコンサート

2021年11月08日 | 午後のティールーム

開演前の会場

長かったコロナ禍も漸く収束の兆しが見えてきたようだ。まだ手放しでは喜べないが、ワクチン接種、マスクなど万全の準備?をして、少しずつ活動範囲を広げたい。呼吸器の弱い筆者は、既にインフルエンザ、肺炎球菌の予防ワクチン(2回)まで接種している。

10月の週日、久しぶりに音楽コンサートへ出かける。ご贔屓のピアニスト辻井伸行の『音楽と絵画コンサート《印象派》』という催しである。場所は東京芸術劇場。気軽に行かれる場所である。入場者のマスク着用、手の消毒など、基本的な感染症対策は守られており、声援や掛け声も禁止されていて、場内は静かであった。入場者数は分からないが、7割程度の入りだろうか。S席では間隔を空けることなく隣接していてほぼ満席だった。

音楽と絵画という2つの芸術作品をどう結びつけるのかと思ったが、演奏者の頭上のスクリーンに印象派画家の作品を投影するというかなり安易な企画だった。

辻井伸行さんのピアノは、いつもながら輝きがあり、美しい。選曲と映像の組み合わせは、ピアニストとは別人が行うので、ad hocな感じは否めない。時には映像が目障りでピアノだけの演奏を聴きたいと思う場面もあった。映像は、印象派といわれる画家の作品の放映だが、印象派に影響を与えた葛飾北斎、歌川広重の作品などからの投影もあった。

印象主義の音楽は、ドイツ後期ロマン派に対抗して展開してきたので、かなりムード、雰囲気などに比重を置いていて、肩は凝らないが後に残らない。ドビュッシーを中心とする第1部と対抗してのラヴェル、サティ、ラヴェルなどの第2部に分かれていて、両者の音楽史上の差異は感じることができる。満足度はあまり高くはなかったが、美術展もコンサートも徐行運転中なので、仕方ない。

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第1部
ドビュッシー:2つのアラベスク
       アラベスク第1番
       アラベスク第2番
       映像:ルノワール
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
       第1曲 「前奏曲」
       第2曲 「メヌエット」
       第3曲 「月の光」
       第4曲  「パスピエ」
       映像:ルノワール、スーラ、クレー
ドビュッシー:《映像》第1集
       第1曲「水の反映」
       映像:葛飾北斎
       「千絵の海 総州銚子」1833年
       「富嶽三十六景 神奈川冲波裏」 1830-32年
       「富嶽三十六景 甲州石班沢」
       「富嶽三十六景 駿州江尻」
       第2曲「ラモーを讃えて」
        映像:歌川広重
       「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」
       「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」
       「名所江戸百景大はしあたけの夕立」
       第3曲「運動」
       「富嶽三十六景東海道金谷の不二」
       「富嶽三十六景関谷の里」
       「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」
        富嶽三十六景山下白雨」
第2部
サティ:3つのジムノペティ
       ジムノペティ 第1番
       映像:クリムト
       ジムノペティ 第2番
       映像:ミュシャ
       ジムノペティ 第3番
       映像:ロートレック
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
       映像:クロード・モネ
ラヴェル:水の戯れ
       映像:クロード・モネ
ラヴェル:ソナチネ
       映像:クロード・モネ








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パンデミックの中に咲く芸術の花

2021年09月16日 | 午後のティールーム


パンデミックが芸術の領域まで大きな打撃を与えるとは、当初ほとんど誰にも見えていなかった。しかし、この新型コロナウイルス covit-19が音楽、演劇、美術などの世界に衝撃を与えている実態は次第に明らかになってきた。パンデミックがアメリカの芸術の領域へ与えた影響については、このブログでも紹介した。しかし、日本においては観光や飲食業そして東京オリンピック、パラリンピックなどに焦点が集まり、芸術などの分野でいかなる問題が生じているかについては、あまり報道がなされてこなかった。

たまたま目にしたTV番組がオーケストラの世界に起きた変化を報じていた。東京フィルハーモニー交響楽団(東京フィル)がコロナ禍の1年半に公演が開催できず、経営が圧迫され、演奏家たちの間でも喪失感や絶望感が浸透していた。

音楽公演は流行語となった「不要不急」なのだろうか? オーケストラの存在意義が問われていた。

世界的指揮者チョン・ミョンフンが名誉音楽監督である東京フィルはブラームス交響曲公演(東京オペラシティ)を今秋に予定していた。コロナ禍が収束しない今、はたして1年半ぶりのマエストロの来日を迎えて開演できるのだろうか。楽団員を含め焦燥感や苦悩が高まっていた。状況は一転、開催が決まり、歓喜のコンサートになる。

 チョン・ミョンフン 鄭 明勳(Myung-Whun Chung, 1953年1月22日 - )は、韓国・ソウル生まれの指揮者、ピアニスト。


BS! スペシャル「必ずよみがえる〜魂のオーケストラ 1年半の願い〜」9月15日 BS1午後8時

この番組を見ている時に脳裏に浮かんだのは、これもブログで紹介したことのある『
クレイドル・ウイル・ロック』The Cradle Will Rock(「ゆりかごは揺れる」の意味)という映画であった。ブログ筆者のご贔屓の映画だが、今では知る人も少ないだろう。1930年代ニューヨークで起きた出来事を取り上げた感動の作品だった。

1930年代の大不況の中で、アメリカン・ルネサンスと言われた1937年、ニューディールの一環として構想されたFederal Theatre Project 『連邦劇場プロジェクト』*をめぐる出来事が主題となっている。オーソン・ウエルズが映画化を切望したといわれる。彼も「ゆりかご」の中の一人として演出を担当していた22歳の青年だった。大不況で失業していた数万人の失業した演劇人を本業に復帰させようとの試みの一コマが取り上げられた。

このプロジェクトFTPは連邦雇用促進局の傘下で企図され4年間で3000万人の観客を創出すると期待されていた。

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N.B.
1929年10月24日、「暗黒の木曜日」The Great Crash として知られるウオール街の株式大暴落に始まった大恐慌は失業者1300万人を生んだといわれる。当時のアメリカ合衆国の人口は約1億5千万人であった。

上演が企画された演劇『クレイドル・ウイル・ロック』は非米的な内容だとして、政府は急遽中止を命令した。監督ティム・ロビンズは「表現すること」の自由を求め、関係者とともに開幕に向けて働いた。
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東京フィルの公演成功までの指揮者、楽団員などの努力はそれぞれ印象に残ったが、番組は掘り下げ方が足りなかった感がある。下敷きになる前例はいくつもあったので、もう少し考えればより感動的な映像作品になったろう。

その点、『クレイドル ウイル ロック』は、映画でもあり、周到な企画に支えられ、時代の息吹気が強く感じられる名作となった。芸術は閉ざされた人間の心、精神を解き放つ大きな力となりうる。閉塞したコロナ後の世界を生きる上で見直されるべき大きな要因ではないだろうか。


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復活するか;ハドソン川の白い帆

2021年09月10日 | 午後のティールーム

Frances E. Dunwell, The Hudson: America's River, New York: Columbia University Press, 2008, cover


世界中を震撼させた9.11から明日で20年が経過する。2001年9月11日、世界貿易センタービルにテロリストにハイジャックされた2機の旅客機が突入し、ニューヨークのダウンタウンは地獄絵図と化した。まさかと思っていた犠牲者の中には知人の息子さんの名もあった。世界は小さくなっているということを知らされた。

9月11日NHKTV 『「事件の涙」米テロ20年』で、Sさん夫妻が過ごした20年の苦悩の日々が報じられていた。改めて心から哀悼の意を表したい。
 
9.11やNew Yorkに関わる様々な報道や記事の中から少し明るい話題をひとつ。

軽妙な語り口で知られるタレント・レポーター、マイケル・マカディアさんの『 キャッチ!世界のトップニュース 』(NHK BS!) 9月10日のNYC@では、ニューヨークの西側を流れるハドソン川を小さな帆船で上下航し、流域の農産物や産品を運び、販売する試みが紹介されていた。

ハドソン川は”アメリカのライン川”(1939年『LIFE)』誌の命名)とも呼ばれたこともあったが、大変美しい川であり、この川を航行することで、アメリカ史の多くの出来事を知ることができる。

ブログ筆者の知る河川の中でも、セントローレンス川と並び、非常に印象に残る川のひとつになっている。このブログでもその一端を何度か記した*1

この川は全長500km余りでアメリカ東部を南北に貫いて流れている。上流のエリー運河(1825年12月完成)を使うと、五大湖までつながり、ヨーロッパが大西洋経由でつながることになった。アメリカ大陸の開発の歴史を見るように、沿岸には多くの風光明媚な地点と併せて著名な史跡が点在している。

TVで紹介されたのは、150キロ上流の町ハドソンから農産物などを帆船に積んで下り、ニューヨーク市内で販売するという試みである。帰途は市内の産品を載せて上流へ戻る。石油に頼らず「風で運ぶ」ことが狙いのようだ。かくして運ばれた商品にも付加価値が生まれる。

19世紀から20世紀初めにかけて、かつては白い帆をかけた多くの帆船が行き交ったハドソン川だが、その後の蒸気船航行*2に始まる水上の技術革新で、今は特別の行事などの時以外はほとんど見られなくなった。

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N.B.
*2  1807年、ロバート・フルトン Robert Fulton (1765 - 1815)の発明による初航海の蒸気船は、ニューヨーク港から上流のオルバニーまで、150マイルを逆風で32時間で航行した。帰途は30時間かかったが、向かい風でも無風でも蒸気機関の船は確実に航行できることを実証し、その後の蒸気船の発達に大きく寄与した。
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ハドソン川の風向きは15分ごとに変わるともいわれ、帆船にとっては決して航行が容易な川ではないようだ。しかし、このたびの帆走の試みで風力という自然エネルギーで航行する帆船が復活すれば、廃油などで汚染されないかつての美しいハドソン川の風景を楽しむことができる日も来るかも知れない。



*1
2016年9月1日

2009年12月8日

2009年9月21日

2009年7月21日

2009年5月10日

2005年2月19日
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