時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

おめでとう! 富岡製糸場世界文化遺産へ

2014年04月27日 | 特別トピックス

 




Photo YK(2009)




  富岡製糸場が世界文化遺産へ登録される見通しとのニュースは、最近暗い出来事ばかり多い日本に一点の輝きをもたらした。このブログにも5年前の5月に、製糸場再訪の記事を載せたこともある。あれからもう5年も過ぎたかという思いもする。

 不思議なことに、このたびのニュースに接したのは、ちょうど「富岡製糸場総合研究センター」所長の今井幹夫さんによる新著を読み終わった時でもあった。この書籍、新書版ながら、大変正確かつ平易に、富岡製糸場がたどった推移と状況が記されており、この日を待っていたような著作である。これを機会に「富岡製糸場と絹産業遺産群」のことをもう少し勉強したいと思う人たちには格好の入門書としてお勧めできる。

 若いころ、この製糸場の歴史に関わる資料を読み、アメリカ、イギリス、フランスなどの製糸・繊維工場のいくつかを訪ね歩いたことなどもあって、富岡は大変なじみのある場所でもある。最初に富岡を訪問した頃は、まだ片倉工業という企業の工場として操業していた。今では知る人も少なくなったが、東京駅北口前の『日本工業倶楽部』の屋上正面には、織機の杼(シャトル)を手にした女子労働者とつるはしを持った男子鉱山労働者の像が置かれている。日本の産業発展を担った二つの基軸産業の労働者の象徴である。

 
 富岡製糸場は、1872年に明治政府が設立した官営の製糸場であり、国内の養蚕・製糸業のモデルとして大きな役割を果たした。日本はフランスと共に、絹産業については古い歴史を持ち、産業の発展をリードしてきた。これも偶然ではあるが、今年4月5日まで、パリで日本の皇室が継承されているご養蚕にかかわる展覧会も開催され*2、日本とフランスの絹産業の交流もテーマとなっていた。

 イギリス、アメリカなど欧米諸国では、繊維産業が産業革命の中心となり、産業発展の原動力となり、アメリカ、ニューイングランドや南部の主要な繊維産業の栄えた町では、当時の工場が操業していた状況が工場建屋などとともに、博物館などとして維持・継承されてきた。富岡製糸場の原型となったフランスでも、リヨンやトロワなどには立派な博物館などがある。

 富岡製糸場は、日本のみならず世界の絹産業の発展に大きな役割を果たした。その意味でこの製糸場の具体的なイメージを遺産として残し、製糸場とそこで働いた人たちの姿を、なんとか次世代に継承してほしいと思っていた。そのため、今回の世界文化遺産としての決定で、最も望ましい形で継承されることになったことは、非常にうれしい。工場建築物としても、今日まで損傷が少なく在りし日の状況がきわめて良好な状態で保存されている。赤い煉瓦の壁面が美しい建物である。よく見ると、製糸場責任者が住んだブリュナ館、現場で指導に当たったフランス人女性労働者がすんだ女工館、工女の寄宿舎なども、それぞれに時を超えた美しさを留めている。さらに同時に認められた周辺の絹産業遺産群も、他ではほとんど見られない良好な状態で今日まで保存されてきた。そのために注がれた関係者の大きな努力が伝わってくる。

 日本の産業遺産ということを考えると、喜んでばかりいられないことがある。いうまでもなく、あの福島第一原発のことだ。人類史上の負の遺産ではあるが、しっかりと廃炉工程を完了し、放射性廃棄物の処理に目途をつけ、次世代の人たちが、深い反省と安心とを併せ持って、発電所跡地を訪れることができるようにすることが、現世代が負うべき責任だろう。この難事を成し遂げ、福島第一原発跡を世界遺産へ申請できる日は、果たしてくるのだろうか。
 
 

 

 

 

 今井幹夫編著『富岡製糸場と絹産業遺産群』ベスト新書(KKベストセラーズ)2014年3月刊

*2 フランス、パリ、宮内庁主催『蚕-皇室のご養蚕と古代裂、日仏絹の交流展』。2014年4月5日閉幕

 

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少し離れて見る世界(7): ヨーロッパを制するガス管

2014年04月18日 | 特別トピックス

 


Photo YK



  このブログ、開設当初から「近いところ」は、なるべくトピックスにとりあげないように意識してきた。日々変化するこの国の実情など至近距離の問題は、多数のメディアが得意とするところ、そこへさらに小さな一石を投じるつもりはなかった。

 ただ、「近い問題」に関心がないわけではないし、新たな問題を見出すことも多い。それでも、歳を加え、多少人生の経験も積むようになるにつれて、少し距離を空けて、時には意図して距離をとって、世界を見てみたいと思うようになった。あまり近づきすぎると、見えるものも見えなくなってしまう。人類の将来を現時点で見通すことはきわめて難しいが、17世紀くらいまでタイムマシンで戻って、現在を見ると、「進歩」したと感じるのは武器の殺傷力くらいではないかと思うことすらある。戦争も疫病も、異常気象もなにひとつ無くなっていない。格差問題も改善どころか、拡大している。そして、経験したことのない真の危機はかなり近くにまで迫っている。次の世代はさらに厳しい状況に直面することを考えねばならない。もはや先延ばしにしたり、避けては通れない。


極端に分かれる見方
 あまり近くで見たり、結論を下すと危ういと思うことは多々ある。
ひとつの例を挙げてみよう。最近大きな書店、図書館などに出向いて気づくことのひとつに、中国についての出版物がかなり増えたことがある。ひとつの大きなコーナーを設けた書店もある。ひところと比べて驚くほど多数のタイトルが目につく。とりわけ日中関係が悪化してから、この問題に関わる書籍は驚くほど増えた。そのタイトルも刺激的となり、「没落する中国」から「中国が世界を支配する日」まで、極端な振幅がある。見る側にそれなりの蓄積、見識がないと、きわものを選んでしまいかねない。それを避けるための手段として、対象との間の距離の取り方は、ひとつの留意すべき条件と思う。

 ウクライナ問題にしても、日本のメディアがあまり詳しく報じない間に、実態は急速に悪化した。もはや明らかな内戦状態である。プーチン大統領は、クリミヤの電撃的編入とは手法を変えて、ウクライナ東部については、じわじわと実効支配による組み入れを企図している。今のプーチン大統領にはロシア系民族の圧倒的支持を背景に、強面の外交で、譲る気はない。中国が外交的にロシアに近づいていることもあって、ロシアは孤立する不安が少なく、今こそソ連邦崩壊で失った領土を取り戻す絶好の時と考えているようだ。

 ロシアがウクライナを手中に入れれば、ヨーロッパとロシアの距離は急速に縮まる。正確なニュース源は不明だが、ヒラリー・クリントン氏はウラディミール・プーチンのクリミヤ編入を1938年のアドルフ・ヒットラーのチェコスロヴァキア侵略に比したと伝えられる。当時、ヒットラーはズデーテンランドに住むドイツ人の保護を軍事的発動の理由に掲げた*1


打つ手のないメルケル首相
 ウクライナ問題をめぐっては、EUの基軸国、とりわけドイツのメルケル首相の打つ手が見えてこない。KGBの指揮官として東ドイツ時代、ドイツ語をしっかり身につけたプーチン大統領と、東ドイツ出身でロシア語堪能のメルケル首相は互いに十分手の内を知り尽くしているはずだ。ほとんど毎日電話していると伝えられる。

 しかし、プーチン大統領は今回は強気で押している。時間をかけてもウクライナを編入すれば、EUとロシアの地政学的状況は大きく変わる。ロシア系住民の力を梃子に、ロシアは軍事的介入の可能性をちらつかせながら、ウクライナから東欧諸国に居住するロシア系民族を支援することで勢力版図の拡大を狙う。こうした軍事力を背後にしたロシアの版図拡大が続けば、EU拡大の夢は消え、ヨーロッパは西方へ向けて押し戻される形になる。

 プーチン大統領の表情を見つめる厳しい顔のメルケル首相のイメージが掲載されているが、今回は一筋縄ではいかないという感じが両者の表情からうかがわれる*2

ガス管が切り札となる
 「ドイツ化するヨーロッパ」(Ulrich Beck)の指導者メルケル首相に、このところ迫力がないことには理由がある。日本ではあまり報道されていないが、ロシア側が強気の背景には、ロシアがヨーロッパに供給する天然ガス問題がある。

 ロシアからヨーロッパ諸国にかけて、ガスプロム(GAZP 政府系天然ガス企業)の天然ガスの供給ラインが、いわば動脈のように流れている。ロシアからウクライナを通り、ヨーロッパを横断し、スロヴァキア、オーストリア、ドイツ、イタリアにかけて、延々とロシアのガス供給ラインは伸びている。

 EU-28ヵ国のガス調達量に占めるロシア産の比率は、2012年時点で24%だが、リトアニア、エストニア、ラトビア、フィンランドは100%、ブルガリア、スロヴァキア、ハンガリーなどは80%台の高率だ。さらにオーストリア60%、ポーランド59%、チェッコ57%、ギリシャ56%、ドイツは37%と依存率が高い。ヨーロッパで、ロシア産のガスにほとんど依存していないのは、イギリス、スエーデン、スペイン、ポルトガル、アイルランド、クロアチア、オランダなどだ。フランスは自国に産出するガスと原子力に頼っている*3

 すでにプーチン大統領は、ドイツを含む18カ国首脳に、ウクライナが未払いの天然ガス料金を支払わなければ、ロシアは同国に対するガス供給を削減する可能性があり、結果としてウクライナ経由のロシア産ガスのヨーロッパへの供給も減少する恐れがあると警告している。すでにガスプロムはウクライナへのガス供給は、前払い条件にしており、価格も引き上げられた。

 福島原発事故を契機に、再生可能エネルギーを主軸とする方向へ、エネルギー源転換過程*4にあるドイツだが、ロシア産天然ガスへの当面の依存は避けがたい。エネルギー源の短時日での転換は難しい。メルケル首相のプーチン大統領への電話も恐らく迫力に欠けることだろう。

 さらに、ロシアの天然ガスへの依存が高い国は、どうするか。エネルギー源転換には長い時間がかかる。ドイツやフランス、オランダ、ベルギーなどは、国内にシェール・ガスの油層が存在することは、ほぼ確かめられている。しかし、技術開発、環境問題など、こうした代替エネルギーの選択には新たな難問が控えている。プーチン大統領の強気は、軍事力の示威ばかりではない。ガス送油管もきわめて強力な武器となっている。

  かつてこの国日本にも、「石油の一滴は、血の一滴」というスローガンが躍っていた時代があった。この句の意味と環境を正確に語れる人たちも少なくなった。エネルギーの調達のあり方は、国の盛衰に大きく関わる。福島原発事故で流した血がどれだけのものか。簡単に原発再稼働の決定などあってはならない。この事故によって図らずも、これまで十分認知していなかった原発の裏面の一端を知った。使用後の核燃料廃棄物の処理を含め、問題は次の世代以降まで持ち越される重みを持っていることを熟思すべきだろう。

 

 
 

 

*1-2 
"Which war to mention?" The Economist March 22nd 2014


*3

"Conscious uncoupling" The Economist April 5th 2014

*4
ドイツの総発電量に占めるエネルギー源としては、天然ガスは2013年暫定値で10.5%とさほど大きな比率ではない。しかし、脱原発に転換した同国の現在の原子力比率15.4%の今後の低下と併せると、ロシアを源とする天然ガス分を他の資源で直ちに代替することにはかなりの困難が伴う。安定的なエネルギー比率へ以降するまでの間、苦難の道が続く。プーチン大統領の攻めの外交はしばらく続くはずだ。


Arbeitsgemeinschaft Energiebilanzen e.V. 2013.12.12.


 

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ジャック・カロ:溢れるファンタジア(2)

2014年04月08日 | ジャック・カロの世界

 

下に掲げる作品部分(Détails)



 上に掲げた図(拡大はクリック)を見てどんなことをイメージされるるだろうか。専門家でも一瞬ぎょっとすること請け合いである。この奇々怪々なもの?はいったいなにを描いたものか。現代のアニメの先端?のようだと考える人もあるかもしれない。それにしても、なんと奇怪で奇想天外な発想だろう。

 実は、あの17世紀の天才銅版画家ジャック・カロの手になる『聖アントワーヌの誘惑』と題する作品のほんの一部分である。、作品といっても、原寸の大きさは 画面下の説明部分を除いたイメージは縦横 31.3 x 46.1cm)ほどである。しかし、そこに描かれた(彫り込まれた)内容の壮大さと複雑さは驚くべきものがある。ちなみに、
この怪物は画面右下にルーペで見ないと分からないほど小さく描かれている。



ジャック・カロ『聖アントワーヌの誘惑』(第2作)
Jacques Callot. La Tentation de saint Antoine: deuxième planche gravée par Callot et tiree apres sa mori à Nancy, 1635 (I., 1416), (Musée des Beaux-Arts, Nancy) 35.6 x 46.2 cm

 カロが制作に際して思い巡らした想像の世界は、奇想天外、現代人の想像の域をはるかに越えるものがある。この「聖アントワーヌの誘惑」(ラテン語:アントニウス、英語:アンソニー)と題する作品は、これまでブログで折に触れ見てきたような、カロが好んで制作したファンタジーでもなければ、残酷な戦争や貴族や貧民の描写でもない。聖アントワーヌをめぐる逸話をイメージにした作品である。

 この聖人の逸話をめぐる作品は構図としては、一大劇場風の展開となっている。地上の善と悪の戦いが一場の光景として描かれる。聖アントニウスは構図の中では全体の片隅にいる小さな存在である。伝承によると、この聖人は、他の修道士たちの場合と同様、砂漠における禁欲生活の間に、さまざまな幻影にとらわれた。美術の世界では、それらは悪魔の恐ろしいあるいは性的な誘惑という形で描かれることが多かった。悪魔はしばしば野獣や怪物、そして魅惑的な女性の姿をもって現れ、アントワーヌの肉体を引き裂こうとするが、光に包まれた神が現れると、逃げ去ってしまう。カロ最晩年の作品である

この時までに画家は自らの故郷であるロレーヌそしてネーデルラントやフランスにおける大規模な戦闘を画家として記録する仕事も行ってきた。世の中の苛酷さ、貧富の格差のもたらす実態を体験しながらの画家人生だった。この『聖アントワーヌの誘惑』は、それらの体験が濃密に集約された作品といえる。

 聖人アントワーヌは構図の右下に近い洞窟の入口で、襲いかかる巨大な悪魔に十字架をもって敢然と立ち向かっている。画面には当時伝承されていた聖アントワーヌに関する伝記を基礎に、それまでに作品化された他の画家ボスやピーテル・ブリューゲル(父)などの作品などの影響を受けてか、あらゆる悪を体現した悪魔や奇々怪々な怪物が描き込まれている。カロはその生涯でイタリア、フランス、ネーデルラントなどに旅しているので、これらの地でも先人画家の同じテーマの作品を見ていたものと想像できる。

 前回の続きを多少記すと、フローレンスでコジモII世の支援の下で、活発な制作活動を開始したカロだが、パトロンであるコジモII世が死去すると、美術家たちを取り巻く環境も変化してしまう。有力な支援者を失ったカロは、帰国を決意し、1622年ロレーヌ公国のナンシーへ戻ってきた。ここはシャルルIV世の時代となっていた。ロレーヌ公国の混迷、衰退の因となったこの人物については、このブログでも多少記したことがある。

 カロはフローレンスでは知られた画家となっていたが、故郷ナンシーは両親などの説得にもかかわらず、逃げるようにしてイタリアへ去ったいわくがある土地であった。それでも、画家として独立したからには生計をたてる道を探さねばならない。しかし、帰国(1621年)したロレーヌ公の宮廷から仕事の依頼はしばらくなかった。

  そこでカロが最初に手がけたことは、当時の美術先進国イタリアにおける研鑽の成果を、ロレーヌの地で再現したり、作品をロレーヌ公に献呈したりすることで、その実績を故郷で認めてもらうことだった。前回、紹介したGobbi のシリーズ、そして『聖アントワーヌの誘惑』などの作品は、ナンシーで再彫刻された。その後少しずつ、カロの銅版画家としての力は宮廷筋でも認められるようになり、多額の恩給も給付されるようになる。

 カロは銅版画家として、その後の人生をほとんどナンシーで過ごした
。わずかな例外は1628年、オランダに招かれ、ネーデルラント軍とスペイン軍の戦争における『ブレダの包囲戦』 の全景を描写した作品を制作したこと、1629年に『ロシェルの陥落』 『レ島の攻略』 などの制作のため、パリそして戦地へ赴いたことなどであった。1630年にはナンシーへ戻っている。しかし、3年後ナンシーはルイXIII世の軍隊に占領され、1633年9月25日、フランス軍に降伏した。カロはこのナンシーの陥落を記念する作品を依頼されたが、故郷の悲劇であり、断っている。

 こうして、カロは同時代人の間で有名であったし、フランス美術史上も忘却されることなく、ほぼ正当に評価されてきた。当然、作風を模倣する者も多かった。カロの作品の中で最も好まれた主題は、現在開催されている企画展*2でほぼ十分に見ることができる。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 カロはこの主題で2つの作品を制作しており、ここに掲げたものは第2作(ヴァージョン)の構図である。第一作はカロがフローレンス滞在中に制作されたと推定されているが、その銅版から印刷された作品はほとんど見ることがない。銅版の摩滅など、なんらかの理由で印刷作品が残っていないようだ。この第2ヴァージョンはカロの没年に画家の生涯の友人として知られるイスラエル・アンリエが版元になって出版された。

*2 
 国立西洋美術館で開催されている『ジャック・カロ リアリズムと奇想の劇場』は、今のところ空いていて落ち着いて作品鑑賞ができる。銅版画は概して作品が大変小さいので、観客が多く、混んでいると満足できる鑑賞は期待しがたい。これまでにも近年の「アウトサイダーズ」展を初めとして、カロの作品は国内外の展示でかなり見てきたが、今回初見の作品もあり、新たな知見も得ることができた。ご関心のある方にはお勧めの展覧会だ。一枚一枚の作品が大変小さいことに加えて、経年変化も加えて、印刷インクの色が薄いことが多く、携帯ルーペは必携の品だ。残念なことは、作品の絵はがきがないことだ。必要ならばカタログを見ればよいのだが、絵はがきはそれ自体別の用途があり、折角の企画展なので惜しまれる。美術館所蔵の作品なので、いずれかの時に主要作品の絵はがきが発行されることを期待したい。

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ジャック・カロ:溢れるファンタジア(1)

2014年04月06日 | ジャック・カロの世界

 




Jacques Callot
Les Gobbi, BdN, Paris


  ジャック・カロ(1592-1635)の企画展(国立西洋美術館)が近づいてきた。この希有な銅版画家については、さまざまなイメージが思い浮かぶ。17世紀を代表する銅販画家でありながら、一般に知られた戦争の惨状を描いた作品ばかりでなく、その反面でファンタジーに溢れ、ダイナミックな創造的作品を多数残している。戦争の世紀ともいわれる過酷な時代に身を置きながら、それに押し流されることなく、冷静な目で時代の隅々まで目を配りながら、ファンタジーの世界でも同時代の人々ばかりでなく、21世紀の現代人でも瞠目するような創造の成果を開花させた。

 後者のファンタジーに溢れた作品は、前者のリアリスティックな作品に比較して、日本ではあまり知られていない。画家の天才的ともいうべき空想・幻想の力を存分に発揮した作品には、あっと驚くような人物や仕掛けが次々と繰り出される。現代人の目からすれば、時に当時の人々にとっても、グロテスクに感じられるようなイメージも提示される。いったい、これはなにを描いたのだろうと思わせる奇矯な人物も次々と登場する。しかし、それらは画家の時代を踏まえた確たる創造力の冴えが背後で支えていた作品だった。

17世紀理解に不可欠な画家
 ジャック・カロはジョルジュ・ド・ラ・トゥールと並んで、17世紀ロレーヌ、そしてヨーロッパの世界を理解する上で欠くことの出来ない画家だ。カロの場合は、ラ・トゥールのように長い間歴史の闇に埋もれることはなく、現代にいたるまでほぼ正当な評価を受けてきたといえるだろう。これにはその作品の素晴らしさとその広範な普及を助けた銅版画というメディアが、大きな役割を果たした。カロの作品に影響を受けた画家、文学者は枚挙にいとまがない。

 このブログでも時々記してきたが、カロはラ・トゥールの1年前に生まれ、43歳という働き盛りに世を去っている。その間に残した作品は1400点を越えるといわれる。画家が銅版に刻み込んだ光景はきわめて多岐にわたり、今日その作品世界を知るためには、時代背景の理解を含めて、鑑賞する側にかなりの努力が必要となる。

画家としてひたすら生きたい
 ここでは、カロが銅版画家を志し、修業過程を経て独り立ちするまでの跡を少し追ってみたい。ナンシーの貴族の家系に生まれたジャック・カロだが、父親ジャンはロレーヌ公の紋章官(宮廷の祭事、紋章などの管理を行う)であったこともあり、父親ジャンは教会の司祭のような聖職か自分のような宮廷官吏への道を選ぶのが当然と考えていたらしい。しかし、ジャックは絵を描くこと以外はまったく関心なく、学業は徹底して嫌いだった。そして、先にイタリアへ行った友人の手紙などに刺激を受け、家出をしてローマへ行こうと試み、志半ばで連れ戻されることなどがあったようだ。

 カロの両親は度重なる説得にもかかわらず、息子が画業以外にはまったく関心を示さないことで、ついにイタリアへ修業に行くことをしぶしぶ同意した。この折、ロレーヌ公シャルルIII世が亡くなり、公位継承者アンリII世はローマへ状況を知らせる特使を送ることになった。ジャックは父親の力もあったのだろう、この特使の随員に加えてもらい、ローマを訪れることができた。

 ナンシーを出発したのは1608年12月1日と記録されている。翌年年初にローマに着いたジャックは、子供時代の友人で一足先にイタリアへ行っていたイスラエル・アンリエ Israel Henriet とも再会することができた。

 ローマで解放されたジャックは、水を得た魚のように活動を始めた。最初は画家テンペスタ Tempesta の工房で修業したといわれる。さらにフランスの版画家で当時はローマに住んでいたフィリップ・トマッサン Philippe Thomassin の工房で3年近く働き、銅版画の技術を完璧に修得した。

画家としての自立
 1611年の末になると、フローレンスへ移り、当時画家・銅版画家として活躍していたジュリオ・パリジ Julio Parizi の下へ身を寄せた。この時期、トスカーナは以前にも記した天文学者ガリレオ・ガリレイも支援していた熱烈な文芸・美術愛好者でもあったメディチ家のコジモII世が統治していた
。幸いカロの後援者にもなってくれて、カロはたちまちその潜在的な能力を発揮し始めた。

 1615年、トスカーナ大公はウルビノのプリンスのために大きな祭事を企画しており、カロはこの祭典の記録版画を制作するよう依頼された。これは、カロにとってその後の名声を生み出すことになった仕事だった。そして、翌年にはパリジとの間での雇用契約も終わり、カロは独立した親方職人となった。

 カロは自らのオリジナリティを発揮した最初の作品 "Caprices" を斬新なデザインで構想し、"Varie figure di Gobbi, di Iacopo Callot, fatto in Firenze l'anno 1616"と題したシリーズとして製作した。カロは後に故郷ナンシーに戻った時に再彫しているが、その前書きに、「美術的価値あるものとして制作した最初の作品」と記している。他人に依頼されて製作したものではなく、自らが主題を構想し、下絵を描き、銅版に彫刻するという、独立した画家としての喜びと自負が感じられる。ローマで働いていた当時は、カロは下絵を描き、彫り師が別にいた。

 このブログには、
"Gobbi"(背中の丸い、猫背に人の意味)と題されたシリーズから、数枚を掲載してみた。いずれも奇妙にデフォルメされ、不思議な印象を与える作品である。当時の祝祭のコメディ、仮面劇や町中で見られた音楽師などの姿を、画家がシリーズとして構想したものだ。

 これらの作品は一見、グロテスクにも見えるが、当時のフローレンスの祭事の一部を写したものであり、フローレンスの人々にはなじみのある場面の数々であった。多くの作品は当時上演されたコミカルな場面であった。

 特に毎年10月18日の聖ルカの日に Imprineta と呼ばれる盛大な祭礼が開催され、多数の人々が楽しみに参集した。これらの光景を描くことはカロが得意とするところであった。

続く





          

Jacque Callot. Les Gobbi
BdN, Paris

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