書斎で満足げな哲学者ルネ・デカルト(G.Parker, 2013 図版)*
この画像、なにを意味しているか、お分かりだろうか。すぐにお察しの方には大きな敬意を表したい。描かれた人物は17世紀きっての哲学者ルネ・デカルトである。この偉大な人物が馬鹿にしたように踏みつけている本は、アリストテレスと背表紙にある。この時代、きわめて高価な本を足で踏みつけるとは! 他方、彼が読んでいるのは、1638年に購入した同時代の天文学者ガリレオ・ガリレイの論説(「新科学対話」だろうか)である。デカルトは「この書を読むのに2時間を要したが、余白に記すことはなにも見つからなかった」と記している。*2(上記Parker図版説明)。画像はクリックして拡大。
このシリーズが脱線、横道に入ったのには、ある理由があった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、これまでの17世紀ヨーロッパ史そしてその傍流である美術史は、その視野設定にかなり限界があると思っていたからだ。一部の例外を除けば、この時代のヨーロッパ美術史では、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、フランドルなどの北方美術の地域に主たるスポットライトが当てられていた。しかも、多分に作品あるいは当該画家個人の次元に検討の重点が置かれてきた。
グローバル化の曙
このなにを目指しているのかわかりがたい断片的なブログの記事を、今日まで辛抱強く読んでくださった皆さんは、すでにお気づきの通り、グローバリゼーションは17世紀美術の世界でも、背景として明らかな展開を見せていた。今はオックスフォード大学へ移った歴史家ティモシー・ブルックが、フェルメールの一枚の絵の中に描かれた若い兵士がかぶっている帽子が、遠く新大陸カナダのセント・ローレンス川流域につながっていることを指摘したように、貿易という手段はすでに当時の世界に大きな変化をもたらしていた。同じ作品に描かれている背景の壁にかけられた地図は、地理学者が見た当時の世界のイメージを示すものだった。
こうした点に関心をもたないかぎり、フェルメールも一枚の美しく描かれた風俗画を見ただけの印象で終わってしまう。ブルックの著書の副題は「17世紀とグローバルな世界の暁」であった。この書物を読まれた方は直ちに気がついたように、この著作は美術書ではまったくない。フェルメールの作品の美術的次元や評価はほとんどなにも含まれていないのだ。
開かれていた海路:冒険家と宗教家
航海術の進歩もあって、マゼランやドレークなどの冒険者によって、16世紀末までには世界一周の海路は明らかにされていた。その背後には宗教の力も働いていた。1552年北イタリアの小さな町に生まれたマテオ・リッチは、1534年、イグナティウス・ロヨラなどによってパリに設立されたジェスイット会(イエズス会)に加わり、1577年インドへの布教の旅に加わる。そして最終的には中国にまで旅をし、1610年に北京で死去している。イグナティウス・ロヨラのジェスイット会創始者のひとり、フランシス・ザヴィエルもリスボンから、ポルトガル領ゴアへ旅発ち、1549年には中国、日本に到着した。彼もまた、1552年に中国で死去している。このように、宗教上の情熱は、宗派間が競いあう力と相まって、彼らを遠い異国の地へと向かわせた。
ヨーロッパに起きていた変化
ヨーロッパの中でも大きな変化が進行していた。ローマは何世紀にもわたり、世界の文化の中心であることを誇っていたが、その影響力も次第に新興の大都市パリあるいはオランダへと移転しつつあった。
それらの地を往来した人々、そしてかれらが運んださまざまな品が、新たな環境を生み出していた。絵画の世界についてみれば、画業を志す人々のローマへのあこがれ、そしてそれを達成し、故国へと戻る人の流れがあった。故郷へ戻ることなく、イタリアの地にとどまった画家たちも多かった。
人の流れは、作品や画風に関する情報の地域間の移転を生み出した。イタリアのカラヴァッジョの作風がその流れを継承するカラヴァジェスティによって、北方ユトレヒトなどへもたらされたのも、ひとつの流れだった。しかし、ラ・トゥールやレンブラント、フェルメールの時代には、カラヴァッジョもすでに過去の人になりつつあった。
シェークスピア(1564-1616)も、同時代の偉大な詩人・劇作家であったが、英仏の覇権争いもあって、大陸への浸透には時間を要した。時にイングランド国王はチャール一世であった。王は1600年の生まれだが、在位は1625-1649年、国家への反逆者として処刑された。国の元首が処刑される時代であった。もっともチャウシェスクやサダム・フセインなどの例を見る限り、今日でも例がないわけではない。他方、かのオリヴァー・クロムウエルは、王と1年違いの1599年の生まれ、1658年にこちらは病死したとされている。
この時代の芸術文化や学芸、科学などの流れと盛衰には、それを動かす人たちがいた。当時のヨーロッパの中心パリにいて、王を通して国を動かすといわれ権勢並ぶ者なき存在であったリシュリュー枢機卿(1585ー1642)は、文化政策を政治策略の一部と考え、イタリアからパリへの美術品の買い付けと移送にも采配を振るっていた。前回、記した希有な天文学者、博物学者で美術品、骨董品の収集に大きな関心を寄せていたペイレスクが驚くほどに、金に糸目を付けない枢機卿の指令の下、多数の美術品がパリへ集まっていた。その一部は現在のルーヴル美術館の土台になった。
リシュリューと同時代の探検家シャンプラン(Samuel de Champlain:1570-1635)は、イギリスと争奪を繰り返しながら、新大陸にニュー・フランス植民地を建設していた。彼は37年間の間に実に27回フランスと新大陸の間を往来した。しかもその間、一隻の船も失うことがなかった。
こうした背景には、天文学の成果を背景としての優れた航海術の発達があったことを容易にみてとれる。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の時代でもあった。
グローバルな危機とヨーロッパ
こうしてみると17世紀は、文化・芸術・科学などが発展した時代と思いがちだが、現実にはヨーロッパ世界を覆い尽くした大きな危機の時代だった。このブログで、断片的に記してきたように、戦争、異常気象による干ばつ、大雨による洪水、農作物飢饉、悪疫の流行などが、人々を苦難と恐怖の渦中へと追い詰めた。
17世紀はなによりも戦争の世紀でもあった。ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱を機に勃発して30年戦争(1618ー1648)をはじめとして、数え切れない大小の戦争が繰り広げられていた。とりわけ、神聖ローマ帝国(主として現在のドイツ)はその主戦場と化し、荒廃をきわめた。この時代のドイツ美術が語られることが少ないことには理由があった。長期間にわたる戦争と傭兵などによる略奪によって、ドイツの国土は荒廃し、ペストなどの悪疫の影響もあって、人口の激減をみるほどに衰退した。
とりわけ30年戦争を理解することなしに、この時代を語ることはできない。多くの戦争の立役者が舞台に登場した。なかでもボヘミアの傭兵隊長から身を起こしたヴァレンシュタイン、他方迎え撃つ側のスウェーデン軍を率いたグスタフ2世アドルフは共に戦場で死を迎えた。さらに、フランスの参戦によって、権謀術数を駆使したフランス宰相、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、そして神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の繰り出す戦略と軍隊が衝突する。
1648年のヴェストファーレン(ウエストフェリア)条約の締結にこぎつけるまでは到底書き尽くせない出来事があった。戦場となった地域はきわめて広範にわたり、フランスと神聖ローマ帝国の狭間にあったロレーヌ地域も荒廃した。ジャック・カロがその残酷、非情な光景を克明に描いている。
さて、17世紀が「危機の時代」であったことは、これまでさまざまに語られてきたが、実は危機はヨーロッパの地域に限られたものではなく、グローバルな危機であった。ヨーロッパの危機を鮮明に描き、われわれの前に提示した歴史家G・パーカーは、最近の力作 Global Crisis でその実態を見事に展開させている。その内容を見ると、17世紀という時代と現代がどれだけ違うのだろうかという思いがしてくる。汚れた東京の空では、ガリレオの望遠鏡をもってしても、木星の衛星はもはや見えがたい。人類はどれだけ進歩したのだろうか。パーカーの新著には中国はいうまでもなく、日本も登場する。機会があれば、その何分の1かでも記してみたいと思うのだが。
*
Geofrey Parker. Europe in Crisis 1598-1648. second edition, Oxford: Blackwell, 2001, pp.326.
Geoffray Parker. Global Crisis: War, Climate Change & Catastrophe in the seventeenth century. New Heaven and London: Yale University Press, 2013, pp.871.
*2
デカルトはガリレオの所説に好意的であった。自らの自然学哲学を論述した『世界論』を出版しようとした矢先、ローマでガリレオが地動説支持のかどで断罪されたことを知る。そこでデカルトは自らの『世界論』の出版をとりやめた。それは内容がガリレオと同様に地動説を認めるものであり、加えてローマ教皇庁が認めるアリストテレスの自然学をはっきりと斥けるものであったためである。この『世界論』とその終章に相当する『人間論』が刊行されたのは、デカルトの死後であった。
小林道夫責任編集「デカルト革命」『哲学の歴史』5巻、中央公論社、2007年。