時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(9):ジャック・カロの世界

2013年05月31日 | ジャック・カロの世界

 

書斎で満足げな哲学者ルネ・デカルト(G.Parker, 2013 図版) 
 この画像、なにを意味しているか、お分かりだろうか。すぐにお察しの方には大きな敬意を表したい。描かれた人物は17世紀きっての哲学者ルネ・デカルトである。この偉大な人物が馬鹿にしたように踏みつけている本は、アリストテレスと背表紙にある。この時代、きわめて
高価な本を足で踏みつけるとは! 他方、彼が読んでいるのは、1638年に購入した同時代の天文学者ガリレオ・ガリレイの論説(「新科学対話」だろうか)である。デカルトは「この書を読むのに2時間を要したが、余白に記すことはなにも見つからなかった」と記している。*2(上記Parker図版説明)。画像はクリックして拡大。

 
 このシリーズが脱線、横道に入ったのには、ある理由があった。誤解を恐れず言い切ってしまえば、これまでの17世紀ヨーロッパ史そしてその傍流である美術史は、その視野設定にかなり限界があると思っていたからだ。一部の例外を除けば、この時代のヨーロッパ美術史では、イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、フランドルなどの北方美術の地域に主たるスポットライトが当てられていた。しかも、多分に作品あるいは当該画家個人の次元に検討の重点が置かれてきた。


グローバル化の曙
 このなにを目指しているのかわかりがたい断片的なブログの記事を、今日まで辛抱強く読んでくださった皆さんは、すでにお気づきの通り、グローバリゼーションは17世紀美術の世界でも、背景として明らかな展開を見せていた。今はオックスフォード大学へ移った歴史家ティモシー・ブルックが、フェルメールの一枚の絵の中に描かれた若い兵士がかぶっている帽子が、遠く新大陸カナダのセント・ローレンス川流域につながっていることを指摘したように、貿易という手段はすでに当時の世界に大きな変化をもたらしていた。同じ作品に描かれている背景の壁にかけられた地図は、地理学者が見た当時の世界のイメージを示すものだった。

 こうした点に関心をもたないかぎり、フェルメールも一枚の美しく描かれた風俗画を見ただけの印象で終わってしまう。ブルックの著書の副題は「17世紀とグローバルな世界の暁」であった。この書物を読まれた方は直ちに気がついたように、この著作は美術書ではまったくない。フェルメールの作品の美術的次元や評価はほとんどなにも含まれていないのだ。

開かれていた海路:冒険家と宗教家
 航海術の進歩もあって、マゼランやドレークなどの冒険者によって、16世紀末までには世界一周の海路は明らかにされていた。その背後には宗教の力も働いていた。1552年北イタリアの小さな町に生まれたマテオ・リッチは、1534年、イグナティウス・ロヨラなどによってパリに設立されたジェスイット会(イエズス会)に加わり、1577年インドへの布教の旅に加わる。そして最終的には中国にまで旅をし、1610年に北京で死去している。イグナティウス・ロヨラのジェスイット会創始者のひとり、フランシス・ザヴィエルもリスボンから、ポルトガル領ゴアへ旅発ち、1549年には中国、日本に到着した。彼もまた、1552年に中国で死去している。このように、宗教上の情熱は、宗派間が競いあう力と相まって、彼らを遠い異国の地へと向かわせた。

ヨーロッパに起きていた変化
 
ヨーロッパの中でも大きな変化が進行していた。ローマは何世紀にもわたり、世界の文化の中心であることを誇っていたが、その影響力も次第に新興の大都市パリあるいはオランダへと移転しつつあった。

 それらの地を往来した人々、そしてかれらが運んださまざまな品が、新たな環境を生み出していた。絵画の世界についてみれば、画業を志す人々のローマへのあこがれ、そしてそれを達成し、故国へと戻る人の流れがあった。故郷へ戻ることなく、イタリアの地にとどまった画家たちも多かった。

 人の流れは、作品や画風に関する情報の地域間の移転を生み出した。イタリアのカラヴァッジョの作風がその流れを継承するカラヴァジェスティによって、北方ユトレヒトなどへもたらされたのも、ひとつの流れだった。しかし、
ラ・トゥールやレンブラント、フェルメールの時代には、カラヴァッジョもすでに過去の人になりつつあった。

  シェークスピア(1564-1616)も、同時代の偉大な詩人・劇作家であったが、英仏の覇権争いもあって、大陸への浸透には時間を要した。時にイングランド国王はチャール一世であった。王は1600年の生まれだが、在位は1625-1649年、国家への反逆者として処刑された。国の元首が処刑される時代であった。もっともチャウシェスクやサダム・フセインなどの例を見る限り、今日でも例がないわけではない。他方、かのオリヴァー・クロムウエルは、王と1年違いの1599年の生まれ、1658年にこちらは病死したとされている。

 この時代の芸術文化や学芸、科学などの流れと盛衰には、それを動かす人たちがいた。当時のヨーロッパの中心パリにいて、王を通して国を動かすといわれ権勢並ぶ者なき存在であったリシュリュー枢機卿(1585ー1642)は、文化政策を政治策略の一部と考え、イタリアからパリへの美術品の買い付けと移送にも采配を振るっていた。前回、記した希有な天文学者、博物学者で美術品、骨董品の収集に大きな関心を寄せていたペイレスクが驚くほどに、金に糸目を付けない枢機卿の指令の下、多数の美術品がパリへ集まっていた。その一部は現在のルーヴル美術館の土台になった。

 リシュリューと同時代の探検家シャンプラン(Samuel de Champlain:1570-1635)は、イギリスと争奪を繰り返しながら、新大陸にニュー・フランス植民地を建設していた。彼は37年間の間に実に27回フランスと新大陸の間を往来した。しかもその間、一隻の船も失うことがなかった。

 こうした背景には、天文学の成果を背景としての優れた航海術の発達があったことを容易にみてとれる。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の時代でもあった。

グローバルな危機とヨーロッパ 
 こうしてみると17世紀は、文化・芸術・科学などが発展した時代と思いがちだが、現実にはヨーロッパ世界を覆い尽くした大きな危機の時代だった。このブログで、断片的に記してきたように、戦争、異常気象による干ばつ、大雨による洪水、農作物飢饉、悪疫の流行などが、人々を苦難と恐怖の渦中へと追い詰めた。

 17世紀はなによりも戦争の世紀でもあった。ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱を機に勃発して30年戦争(1618ー1648)をはじめとして、数え切れない大小の戦争が繰り広げられていた。とりわけ、神聖ローマ帝国(主として現在のドイツ)はその主戦場と化し、荒廃をきわめた。この時代のドイツ美術が語られることが少ないことには理由があった。長期間にわたる戦争と傭兵などによる略奪によって、ドイツの国土は荒廃し、ペストなどの悪疫の影響もあって、人口の激減をみるほどに衰退した。
 とりわけ30年戦争を理解することなしに、この時代を語ることはできない。多くの戦争の立役者が舞台に登場した。なかでもボヘミアの傭兵隊長から身を起こしたヴァレンシュタイン、他方迎え撃つ側のスウェーデン軍を率いたグスタフ2世アドルフは共に戦場で死を迎えた。さらに、フランスの参戦によって、権謀術数を駆使したフランス宰相、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、そして神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世の繰り出す戦略と軍隊が衝突する。

 1648年のヴェストファーレン(ウエストフェリア)条約の締結にこぎつけるまでは到底書き尽くせない出来事があった。戦場となった地域はきわめて広範にわたり、フランスと神聖ローマ帝国の狭間にあったロレーヌ地域も荒廃した。ジャック・カロがその残酷、非情な光景を克明に描いている。

 さて、17世紀が「危機の時代」であったことは、これまでさまざまに語られてきたが、実は危機はヨーロッパの地域に限られたものではなく、グローバルな危機であった。ヨーロッパの危機を鮮明に描き、われわれの前に提示した歴史家G・パーカーは、最近の力作 Global Crisis でその実態を見事に展開させている。その内容を見ると、17世紀という時代と現代がどれだけ違うのだろうかという思いがしてくる。汚れた東京の空では、ガリレオの望遠鏡をもってしても、木星の衛星はもはや見えがたい。人類はどれだけ進歩したのだろうか。パーカーの新著には中国はいうまでもなく、日本も登場する。機会があれば、その何分の1かでも記してみたいと思うのだが。

 

 



Geofrey Parker. Europe in Crisis 1598-1648. second edition, Oxford: Blackwell, 2001, pp.326.

Geoffray Parker. Global Crisis: War, Climate Change & Catastrophe in the seventeenth century. New Heaven and London: Yale University Press, 2013, pp.871.

*2
 
デカルトはガリレオの所説に好意的であった。自らの自然学哲学を論述した『世界論』を出版しようとした矢先、ローマでガリレオが地動説支持のかどで断罪されたことを知る。そこでデカルトは自らの『世界論』の出版をとりやめた。それは内容がガリレオと同様に地動説を認めるものであり、加えてローマ教皇庁が認めるアリストテレスの自然学をはっきりと斥けるものであったためである。この『世界論』とその終章に相当する『人間論』が刊行されたのは、デカルトの死後であった。
小林道夫責任編集「デカルト革命」『哲学の歴史』5巻、中央公論社、2007年。

 

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(8):ジャック・カロの世界

2013年05月21日 | ジャック・カロの世界

 

  文学座『ガリレイの生涯』の公演も来月に迫ったので、もう少しだけ横道に入り、ガリレオ・ガリレイとその周辺の世界について記しておこう。ガリレオについてはすでに多方面での膨大な研究の蓄積があり、それ自体がひとつの研究領域を形成している。

 ここで取り上げるのは、ガリレオの新発見、新説に対する旧体制、とりわけ教会、異端審問所などによる厳しい追及から、ガリレオを支援し保護しようとした人々のことである。ガリレオの生涯についての研究や文学
作品は多いが、ほとんど取り上げられることがなかった人たちもいる。その一人に、このブログでも短く記したことのあるニコラ・ペイレスクがいる。

 ペイレスクは1600-1601年の間、イタリアのパデュアに滞在した時、ピネリのアカデミーに研究の場を置いていた。彼はそこでガリレオに初めて出会った。そして、生涯を通しての友人となった。


生涯に1万通の手紙を書けますか

 ペイレスク自身も天文学者であり、考古学に関心を抱き、さまざまな骨董品の収集者であることで知られているが、とりわけ後者については、現代の日常使われている、古くて、市場価値のある品々を集めるという意味とは異なっている。むしろ、この地球や世界を理解するための品々を集め、研究するいわば博物学者の立場に近い。化石、珍しい植物、古代のメダル、書籍など、彼が興味を抱いたあらゆるものを収集していた。

 さらに驚くべきことには、ペイレスクは西はマドリード、東はダマスカス、カイロに及ぶ広範な地域にわたって500人を越える有識者、政治家たちと手紙のやりとりをしていた。その書簡の数は彼の死後、確認されたものだけで、1万通を越えるといわれる。そのほか自らヨーロッパを旅することで、多くの知見を積み重ねた。とりわけペイレスクはこうした活動を通して、科学知識の組織化を意図していたとも考えられる。その関心範囲の広さから「芸術・科学革命の時代のプリンス」ともいわれている。科学者、哲学者、政治家などで当代一流といわれる人々と、対等な立場で交流ができるということは並大抵なことではない。

 電話、ましてやインターネットなど考えられない時代であり、遠隔地にいる人々との交流はほとんど手書きの書簡による交信であった。それだけにペイレスクのような存在は大変貴重であった。いわば、ヨーロッパ世界における文化交流の中心のようであった。ペイレスクに連絡すれば、ヨーロッパの動向がほぼ分かるという情報センターのような働きをしていた。
世界の最高レベルの人々との交流を通して、ペイレスクも時代を代表する教養人であった。

 ペイレスクにとって、ガリレオが考え出した新説に対しての反対や非難は、無知と不安の入り交じった典型的な状況に思われた。そして教会内部にいるガリレオの友人たち、とりわけマッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバンVIII世)およびフランセスコ・バルベリーニ枢機卿が、ガリレオを神学的立場から論難することが信じられなかった。

 彼にとって、惑星や星座の名前のように、あるいは発掘された古代の宝石がなんであるかを確認することのように、信仰にはいかなる損傷を与えることなく、コペルニクス体系の真偽を論じることができるはずだと考えていた。キリスト教の教義とはなんら関係ない次元での議論と考えたのだ。教会内部にもそう考えている人もいた。たとえば、ペイレスクの友人メルセンヌ神父は「聖書は哲学や数学を教えるように書かれたものではない」と記している。

メディチ家の星々
 
銅版画家ジャック・カロもそうであったように、貴族ではないが、さまざまな才能ある者(平民)が、それを生かすには庇護者(パトロン)の存在が欠かせなかった。とりわけ、家族その他のことで絶えず金銭的窮乏状態にあったガリレオにとって、有力なパトロンを確保することは、研究を続けて行く上でも重要であった。メディチ家の第4代トスカーナ大公(在位1609-1621年)コジモII世は、人格温厚で教養豊かな人物であった。大公になる前、一時期はガリレオから数学も習っていた。当時の貴族たちは所領の管理などで、数学の知識を必要としており、若い貴族で数学に関心を寄せる者は多かったといわれる。

 メディチ家とのつながりを強めたいと考えていたガリレオは、1610年3月4日付のパデュアからの書簡で、自らが発見したばかりの木星の4つの衛星について、1609年よりトスカーナ大公となったメディチ家のコジモ2世に敬意を表して “Cosmica Sidera”(コジモの星々)と命名したいと記した後に大公の提案に従って “Medicea Sidera”(メディチ家の星々)と改名した。大公だけでなく、メディチ家の4兄弟コジモ、フランチェスコ、カルロ、ロレンツォ全員に敬意を表したものである)。ガリレオは書簡で大公殿下の最も忠実なしもべと記している(ガリレオが大公に送ったこの書簡はメディチ家の継承財産の中に保存されていた)。
 

 ガリレオのこの発見は1610年3月半ば、550部の 『星界の報告』 Sidereus Nuncius としてヴェネツィアの印刷所から刊行された。

 1615年3月、ナポリの神父パウロ・フォスカリーニは、コペルニクスの説を聖書に敵対するものと考えるべきではない、と主張するパンフレットを出版した。ガリレオはその著作の写しを受けとり、自らの発見に自信を深めた。(後に禁書目録に入る)。

 しかし、世の中、とりわけ教会内部、異端審問所の動きはガリレオにとって不利な方向へと動いていた。さらに、彼が大きく頼りにしていたトスカーナ大公コジモII世が1621年に若くして亡くなり、ガリレオを支える環境は急速に悪化していった。コジモII世は政治力はなかったが、メディチ家が伝統としてきた文化興隆の支援者であり、よき理解者であった。あのジャック・カロもトスカーナ大公のおかげで、その才能を開花させることができた。

 ガリレオにとっては、さまざまな出来事が続いた後、1631年2月、『天文対話』がフィレンツェの出版所で刷り上がった。ガリレオの友人たちは感動し、敵対者は恐れおののいた。しかし、予想されなかったことはかつてガリレオの友であり、熱心な支持者であった教皇ウルバヌスが敵側にまわったことであった。その背景は複雑でブログなどでは到底扱えない。この時代の科学、宗教そして異端と正統にかかわる思想環境は、ブログで多少記した魔女審問の世界とも関連している。

 その後の展開は、多くの人が知るところでもあり、ブレヒト劇の核心でもあるため、ここではこれ以上記さない。ただ、17世紀という時代、知識人とみられていた人々が、いかなる手段と経路で情報を得て、自らの思考を形成していたか、その一端を紹介してみたいと思ったまでである。

Reference
Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(7):ジャック・カロの世界

2013年05月11日 | ジャック・カロの世界

ジャック・カロ 『リムプルネッタの市』
Jacques Callot. L'Impruneta.
クリックして拡大

L'Impruneta, details.
同上詳細 

 度々の中断で、このシリーズ、思考の糸が切れ切れになっている。多少(?)横道に入るが、少し修復作業をしてみたい。

カロの精密な仕事ぶり
 
ジャック・カロの作品を見ていると、これは制作に際してかなり強度な拡大鏡などを使わなければとても無理ではないかと思うようになった。たとえば、上掲の作品は、カロのフローレンス時代の代表作のひとつである。毎年、聖ルカの祭日にトスカーナの小さな町イムプルネッタで繰り広げられる市の光景を描いたものである。全体の構図、そしてその細部を見ていると、とても人間の目と手
だけでこれだけの細密な銅版の彫刻をやりとげられるとは考えがたい。拡大鏡の助けを借りても、恐ろしく大変な仕事と思う。

 それでは、カロはどうやってこのような精密な銅版彫刻を続けられたのか。管理人の考えたひとつの仮説をご紹介しよう。

 ジャック・カロ(1592-1635)は、43歳という当時でも比較的若い年齢で亡くなった。その短い生涯に驚くべき多数(およそ1400点)の作品を残した。1592年にロレーヌのナンシーで生まれたが、1608-1621年のほぼ13年間をイタリアで過ごした。最初はローマで修業と制作の活動に没頭した。自ら選んだ職業とはいえ、カロの仕事ぶりは今でいうワーカホリックに近かったのではないかと思うほど超人的だ。これもシリーズ前回までの繰り返しになるが、後半はフローレンス(フィレンツェ)へ移り、若いトスカーナ大公コジモII世付きの画家として働いた。その経緯を少し詳しく記すと次のようなことである。

 1611年、著名な銅版画家アントニオ・テムペスタ Antonio Tempesta がカロの力量を見込み、スペイン王妃、マルゲリット・オーストリアの葬儀のためにギウリオ・パリジ Giulio Parigi とテムペスタ自身が制作した装飾を版画化するため、カロを雇った。マルゲリットは、スペイン王フィリップIII世の妃であり、トスカーナ大公コジモII世の妻マリア・マグダレナの姉であったが、1611年11月3日に逝去し、葬儀はフローレンスのサン・ロレンゾ教会で執り行われた。

 カロはパリジのサン・ロレンゾのための装飾を版画化し、マルゲリットの人生のイメージから選び出して描いた26枚のグリザイユ(灰色の焼き付けによる画法)画の15枚を受け持って銅版画として制作した。これらの銅版画は1612年、フローレンスでスペイン王妃の追悼譜として、アルトヴィト・ジョバンニ Giovanni Altovit のまえがきとともに刊行された。葬祭の儀式の次第も追悼譜も、コジモII世の依頼によるものだった。


 この仕事によってカロは初めてメディチ家との縁を得た。そして、その後さらなる庇護の関係へと広がり、1614年にはフローレンス・メディチ家大公コジモII世付きの画家に任ぜられた。コジモII世の治世下、フローレンスは文化的に繁栄し、さまざまな祭典が行われた。それらの多くは、宮廷画家となったカロの手で、詳細な銅版画に制作された。

 この後、1621年3月、コジモII世が31歳で早世されたことで、後援者を失ったカロは、仕事の場を失い、故郷のナンシーへ戻ることになった。

ガリレオ・ガリレイとコジモII世
 ここで思い浮かぶのが、ガリレオ・ガリレイである。フローレンスでは1608年に自分の教え子であったコジモII世がトスカーナ大公になられた。生涯、いつも金策に頭を悩ましていたガリレオは当時ピサに居住していたが、フローレンスへ移る可能性が生まれたことを知り、大変喜んだようだ。1608年のコジモの結婚式には、大公妃クリスティーナの招きで出席もしている。そればかりか、若いコジモに数学を教えるべく、夏をフローレンスで過ごすことにした。滞在費以外は支払われなかったらしいが、ガリレオは宮廷とのつながり強化に賭けたのだった。

 さらに1609年には、オランダで眼鏡職人が遠方の物体が3-4倍に見える望遠鏡を製作したとの噂を聞き、自らのアイディアではるかに性能の良い望遠鏡の製作に成功した。天体望遠鏡発明の栄誉は誰に帰属するかについては、多くの論争があるが、ここでは立ち入らない。すでに、1590年代にイタリアで製作されたとの説もある。

 そして、1610年5月、彼はフローレンスに近いピサ大学で授業をしなくてもよい首席数学者に指名された。加えて、トスカーナ大公付き哲学者兼首席数学者に指名された。9月にはふたりの娘をともなって、フローレンスへ移った(1631年にはフローレンス郊外アルチェトリの修道女となった娘がいる修道院近くの別荘に移り住んだ)。フローレンスとピサは管理人も何度か訪れたが、車があれば簡単に移動できる距離だが、せいぜい馬車しかなかった当時は、移動するにかなり苦労したことは間違いない。

 ガリレオはすでに大変著名な人物となっていた。同じ宮廷に大公付き画家として雇われていたジャック・カロが、そのことを知らないわけはない。恐らくさまざまな折に、二人は宮廷その他で会っていたと思われる。この時点では、天文観測に使うほど精密ではなくとも、数倍の拡大レンズは、宮廷内では見ることができたのではないか。もし、この仮説が成立しうるならば、カロがあれだけ精密な作品を製作した秘密の一端も推測できることになる。

 まもなく、文学座でベルトルト・ブレヒトの『ガリレイの生涯』 の上演が始まる。ブレヒト・フリークの管理人にとっては大変待ち遠しい(ブレヒトについては、このブログでも何度かとりあげた)。ここに記したカロとブレヒトのレンズについての仮説は、管理人が想像したものにすぎないが、ガリレオがこの時期をいかに過ごしたかという点を舞台上でも見られるのは、きわめて楽しみなことだ。

 さらに、カロばかりでなく、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールへもつながる仮説が生まれてくる。長くなるので、それはまたの機会のお楽しみにしよう。


Reference
Georges Sadoul. Jaccques Callot :miroir de temps, Paris:Editions Gallimard, 1990.

 

 

 

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歴史は繰り返す:バングラデシュのビル火災 (最新結果追記)

2013年05月03日 | グローバル化の断面



「トライアングル・シャツウエイスト火災事件」で、多くの人々の涙を誘ったイラスト記事。
Source:"Tad in the New York Evening Journal expresses the sentiment of many",
quoted in The Triangle Fire by Leon Stein, ILR Press (an inprint of Cornell University Press), Ithaca: New York, Centinnial Edition, 2011.



  タイムマシンはまた現代へ舞い戻ることになった。5月2日、PBSの番組 NEWS HOURで、4月28日、バングラデシュの首都ダッカ近郊サバールで、縫製工場などが入るビルが崩壊し、その後火災を起こし、若い女性労働者を中心に370人を越える死者(5月4日現在では500人以上との推定)を出した大惨事について、2人の専門家とキャスターが議論をしていた。専門家はグローバル化の研究者であるジョージタウン大学のリポリ教授とタイム誌記者のポンドレール氏だった。

 それによると、4月28日、最後の生存者と見られていた女性の救出作業中に火災が発生し、女性は死亡した。この世界に伝えられた悲惨な事故で、4日以上におよんだ生存者救出作業で、女性は唯一の希望の光となっていた。彼女はすでに夫を亡くしていたが、一人残った息子のために必死で生きようとしていた。

 議論で注目されたことは、リポリ、ポンドレール、そしてキャスターの3氏が、それぞれにニューヨーク市で1911年3月25日に発生した「トライアングル・シャツ・ウエイスト火災」事件を例に挙げていたことだった。日本ではアメリカ史の研究者の間でも必ずしも知られていない悲惨な事件だが、当ブログではすでに何度かとりあげている。

 バングラデシュの事故での犠牲者の多くは、崩壊したビルの中にあった縫製企業の女子工員だった。最新の統計では、バングラデシュの衣服産業は、中国に次ぐ世界第2位の同国を支える重要輸出産業である。バングラデッシュのアパレル産業は年間産出額200億ドル、直接的には300万人を越える労働者を雇用し、製造業雇用の40%近くを占める。間接的には1千万人を越える労働者がアパレル・繊維産業で働いている。バングラデシュのアパレル製品の輸出が始まったのは、1970年代末であり、その後の成長ぶりは驚異的なものであった。現在では中国に次ぐ。同国の主たる輸出先はEU15カ国とアメリカである。

 バングラデシュのアパレル産業の競争力は、世界のアパレル産品輸出国の中でも際だって低い労働コストにある。これに加えて、同国の衣服加工産業は、手工業時代から伝統産業として長い歴史を有してきた。そのために、ニットの分野などではローカル産業が根強い競争力を蓄積してきた。

 そして、最大の競争力である労働力は、圧倒的に若い女性たちである。彼女たちは信じられないほど低廉な賃金、そして劣悪な環境下で働いている。トライアングル・シャツウエイスト・ファイア事件の犠牲者が、ほとんどすべて若い移民労働者の女性であったように、今回の事故の犠牲者も若い女性たちだった。

 ビルの所有者はモハメド・ソヘイ・ラナと呼ばれる富豪で、建物はラナ・プラザとして知られ、3つのアパレル加工企業が操業していた。火災は建物の崩壊後、生存者の救出のためにコンクリートを補強していた鉄線を切断する作業でスパークしたことが原因のようだ。

 ビルの所有者ラナはインドへ逃走中に国境付近で逮捕され、ダッカへ連れ戻された。ビル内に工場を持つアパレル加工企業グループは、3.122人を雇用していたと発表したが、当日実際に何人が働いていたかは明らかではないとしている。生存者は約2,500人と伝えられている。これらの企業の経営者も逮捕されたようだ。

 図らずも明らかになったことは、ここで働いていた労働者の劣悪な賃金だった。彼女たちは月38ドル(4000円弱)という驚くべき低賃金で働いていた。そして、加工された製品は中間加工業者を経由して著名な国際的企業のブランドで世界中で販売され、年間数百万着のシャツなどの衣服が生産されていた。現在の段階では、このビル内にあった企業で生産された製品が最終的にどこの企業の製品ブランドで販売されていたかは明らかにされていない。

 このラナ・プラザ火災事件は今の段階では未解明な点が多いが、バングラデシュの歴史に残る国民的な出来事として、末永く記憶されることだけは間違いない。こうした悲惨な事件は、その後の労働安全衛生、建築規制などの改善につながったことが多い。この事件がそうし改善につながることを期待したい。

追記

 5月11日現在、犠牲者の数は1043人という悲惨きわまりない数に上った。唯一の救いは若い女性ひとりが17日ぶりに救助されたことだ。この事故の詳細な評価がいずれ行われるだろう。

 

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画家が見た17世紀ヨーロッパ階層社会(6):ジャック・カロの世界

2013年05月01日 | ジャック・カロの世界

 

「貴族の目に映ったフィレンツェ」

フィレンツェ、ドゥオモ広場の光景(クリックすると拡大)
Plazza del Duomo, Florence 

  予想外のことが次々に起こり、思考の糸が度々切れてしまう。今回のボストン・テロ事件なども、ジャーナリズムに任せておけばよいのだが、そこにはまったく書かれることがないような個人的な体験などが次々と浮かび上がり、頭脳のどこかで断たれていた糸が再びつながったような思いがして、例のごとくメモ代わりにと記してしまう。

 さて、再びタイムマシンを駆動させて、17世紀のロレーヌ、ナンシーへ戻ることにしたい。このごろはマシンも操縦者も歳をとって、エンジンの始動もおそくなった。

カロ、故郷ナンシーへ戻る
  ナンシーでは
主人公のジャック・カロもイタリアから戻ったところだ。メディチ家のトスカーナ大公コジモII世が1621年に若くして世を去り、唯一最重要なパトロンを失ったカロにとっては、生まれ育ったが、愛憎に充ちた地でもあるナンシーへ戻る以外に選択の道はなくなった。13年ぶりの帰郷であった。

 カロは親が強く望んだ道を選ばずにナンシーを離れ、イタリアで銅版画家になることを選んだ。それだけに戻ってきたこの地で、生きるためには銅販画家としてしっかりと自立した姿を示す必要があった。とりわけ宮廷都市であったナンシーで自立するには、カロがトスカーナ大公の支援を受けたように、ロレーヌ公の後ろ盾を得ることが必要であった。ひとたびは親に反抗し、宮仕えの道を断り、故郷を捨てたようなカロにとって、当初はさまざまな葛藤があったことだろう。

 しかし、すでにイタリアでは立派な成果を上げていたカロは、故郷のナンシーにおいても短時日の間にその才能を十二分に発揮し、名声を確立する。しかし、画才だけではなかなか生きることが難しかった時代、カロも名家の娘と結婚することで社会的地位、名誉を獲得するという選択をしている。1623年、ナンシーの富裕な名家の娘カトリーヌ・クッティンガーと結婚している。これによって、カロの名前はナンシーに広く知られるようになり、社会的地位も急速に上昇した。個人や宗教関係、そして宮廷からの版画の注文が来るようになった。

 結婚を機に画業も隆盛の道をたどるという姿は、この時代にはかなり見られたことであった。あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールもそうであった。しかし、カロもラ・トゥールも結婚以前に立派に一人前の画家に成長し自立してていた。ただ、この時代の慣習としては、修業の時期を終えたらできるだけ早く結婚するということになっていた。

 カロはラ・トゥールよりも恵まれていたところもあった。カロの生家は貴族としては2代目で、とりたてて名家というわけではなかったが、ロレーヌ公とのつながりを維持していた。カロがナンシーへ戻ってしばらく、反目していた父親との間にもなんらかの折り合いがついたのだろう。

貴族になったカロ 
 
ナンシーにおけるカロの画業生活はこの後、急速に隆盛をきわめる。ロレーヌ公宮廷に集う貴族たち、名士などとの社会的つながりは広がり、恵まれた生活が訪れた。カロは43歳という若さで1635年に世を去ったが、1630年頃の作品には、"Jacob. Caoolt Nobilis Lotaring" (Jacques Callot Lorrainese Noble) 「ジャック・カロ、ロレーヌ貴族)などの署名が記されている。

 カロを含めて、ロレーヌ公の宮殿に集まった貴族の男女、プリンス、プリンセスたちが、どんな生活をしていたのかは、文献では必ずしもよく分からない点もある。写真、動画などまったく存在しなかった時代であったから、唯一当時のイメージを具象化して見るには、絵画に頼るしかなかった。その中で、版画は複数のプリントが可能で、多くの人たちの目に触れる機会を与えるという意味で、当時もそして記録として見る今日でもきわめて重要な意味を持っている。

 さて、このシリーズで焦点を当てようとしている『プリンセスと貧民たち』というテーマは、カロという名版画家が描き出した17世紀社会の階層の実態を、その作品から推定してみようという試みである。前回に続き、当時のナンシーの宮廷社会で noble (高貴な人たち、貴族)と呼ばれていた人々のイメージをいくつかお見せしたい。下に掲げたイメージをクリックすると拡大)。

 

 この時期のカロの作品には、人物の表情などにコミカルな印象を与えるものがかなりある。これはカロがイタリア時代、年齢では20歳代、祝祭や演劇などの情景を描いた作品がきわめて多いことに遠因があると思われる。フィレンツェ時代、トスカーナ大公の宮廷画家にまでなっていたカロは、同地に受け継がれ、頻繁に上演もされていた宮廷祝祭の光景を多数作品に残している。たとえば、「コンメディア・デッラルテ」といわれる即興劇を描いたシリーズには、仮面をつけたり、奇怪な服装をした人物が多数登場する。

 こうした人物の中に、当時の貴族階層と思われる人々も、混じって描かれている。当時、ヨーロッパ世界で最も豊かで華美をきわめたローマ、フィレンツェなどの宮廷社会の姿を想像することができる。

 その後、ナンシーに戻ったカロの作品は、イタリア時代と違って急速に現実味を深める。その点はフィレンツェとナンシーの文化格差を反映するものでもあるが、人物の表情などにイタリア的なものを感じるイメージも多い。恐らく現実の宮廷人たちはいつもこうした表情をしていたのではないだろう。作品の販路を拡大するためには、それなりの創意工夫もあったに違いない。顧客開拓に宮廷人が好みそうなファッショナブルな衣装や顔かたちがあったのだろう。宮廷人の世界も、さまざまな駆け引き、策略などで充ちていた。ラ・トゥールの『いかさま師』や『女占い師』などに描かれた華麗な衣装の裏側に働いていた油断もならない現実の厳しさなどにもその一端が示されている。

 興味深いのは、こうした宮廷人や貴族たちの衣装であり、少なくもこれらは当時の流行を伝えるものだろう。そして、さらに探索したいことは、ファッショナブルな衣装をまとった彼らの生活、そして心のうちである。

続く




アラダイス・ニコル(浜名恵美訳)『ハーレクインの世界 復権するコンメディア・デッラルテ』岩波書店、1989年。

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