時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遙かなる昔、そして今:ルーマニア移民の明暗

2014年05月25日 | 移民の情景

  

Victoria Arcade, Bucharest




  偶然見たTVに、なつかしい光景が映っていた。『世界ふれあい町歩き』(NHKBS1 2014年5月20日)で、ルーマニアの首都ブカレストを映していた。いたるところ、これはパリではないかと思わせる雰囲気のある街並みを見かける
。ここは小パリ(Micul Paris)ともいわれてきた、東欧で唯一ラテン系の文化を継承する洒落た雰囲気が感じられる都市だ。隣国ウクライナは紛争地帯として世界の注目を集めているが、同じ農業国でも両国の印象はかなり異なる。

 遙か昔、この国を訪れたことがあった。このブログにもその印象を少し記したことがあったが、最初はまだ共産党一党支配によるチャウシェスク政権下(1918-1989)の時だった。その後まもなく、1989年の民主革命でチャウシェスク大統領夫妻が逮捕、処刑され、大きく体制が変わった。

革命前のイメージ
 最初に訪れた時は革命前であり、ブカレスト
にはいたるところ厳しい、陰鬱な雰囲気が漂っていた。電力不足で町は暗く、食料不足もあって人々の表情もさえなかった。言論統制が厳しく、印刷はすべて国家の印刷局で行われていた。ブカレストの町中を歩いても、首都としての活発さ、生気がほとんど感じられなかった。共産圏の専制国家とは、これほどまでに人々を変えてしまうのかと、暗澹たる気持ちで旅をした。

 それでもいくつか思い浮かぶことがある。TVにも映されていたが、街角に花屋が多かった。北駅から旧市街へ向かう道路の交差点にあった花屋が映っていた。TVのカメラマンを通してだが、なんと24時間営業しているとのこと。よほど花の好きな国民なのだろう。TVではカメラマンへの挨拶が「ボンジョルノ、アリデヴェルチ」とイタリア語だった。最初訪れた時は、ルーマニア語しか聞かれなかったが、こちらがルーマニア語を知らないことがわかると、フランス語をに切り替え
て試してくれた。暗い印象が残ったブカレストだったが、住宅のベランダなどを彩る花々が印象に残った。

 地理的な近さもあってか、今ではイタリアの影響も大きいようだ。この国はかつてロシア、オスマン・トルコに囲まれていた時期があった。そのためか、東西文化の複雑な影響を受けている。町中にはjフランス風のバケットなどをウインドウに並べたパン屋があるかと思えば、水煙草を吸わせる店なども残っている。チャウシェスク時代に、かなり歴史的な建造物が破壊されてしまったが、今に残る19世紀に作られたといわれるヴィクトリア・アーケードなどは、当時の美しさを伝えている。

変わりゆくブカレスト
 ブカレストの街並みは今大きく変わっているようだった。古い街並みを残しながらも、新しいビルがあちこちに建てられ、多数の新しい車が走っていた。かつて共産主義体制下、あまり人の姿が見られなかった有名なチェルニカ修道院は400年以上の歴史を誇るが、今は美しく補修され、多数の人で賑わっていた。かつて訪れた時は、人も少なかった。多少、観光地化したようだ。歴史的な街並みを自らそこに住みながら、補修事業を行っている若い人たちもいた。

 2007年にルーマニアとブルガリアは、希望していたEUへの加入が認められた。しかし、EU諸国の中で両国共に、経済的に遅れが目立つ後発国だ。そのため、ドイツ、フランス、イギリスなどEUの基軸国へ出稼ぎに出る人が多い。かつてポーランドがEUに加入した時にも、EU側はどれだけの移民労働者がやってくるか、推定が難しく大変憂慮していた。

移民労働者規制を強化するEU
 ほぼ無条件でポーランド労働者を受け入れたイギリスなどは、予想を上回る流入で対応に苦慮した。そのため、今回のルーマニア、ブルガリアの加入については、最初から警戒的であった。イギリスの移民労働者統計は複雑で、実態を知るのが難しく、しばしば物議を醸す。2013年3月時点でイギリスで働くルーマニア、ブルガリア人労働者は144,000人と公表された。今年2014年3月では140,000人と少し減少している。右派政党などが掲げたような大量流入はなく、イギリス政府もひとまず胸をなでおろしたようだ。このところ急速に移民労働者の受け入れ制限に動いているイギリスは、ルーマニア、ブルガリアからの労働者が失業給付を申請するには、最低3ヶ月は待たねばならないという新たな規制措置を導入した。*1

 フランスもルーマニア、ブルガリアからの労働者受け入れには厳しい対応を見せてきた。とりわけ、ロマ(ジプシー)人のフランスでの行動をめぐって激しい議論が行われてきた。ヨーロッパ諸国とジプシーの関係は長い歴史があり、さまざまな問題を経験してきた。ロマ人の多くはルーマニアから旅をしてくると言われている。現在のフランスにはおよそ2万人のロマ人が100近い都市の外縁部に掘っ立て小屋などを作り、住んでいる。しかし、地域住民との間では度々紛争を引き起こしてきた。極右政党の国民戦線などは、以前からロマ人をシェンゲン協定を結んでいる地域(シェンゲン圏★)に受け入れることに強く反対してきた。フランスにおける反移民感情は年々高まっており、その先頭には反EUを掲げる極右政党、国民戦線が立っていて、今や第一党に迫る勢いだ。

 ルーマニアとブルガリアは2014年のEUへの加盟によって、シェンゲン圏に入ることが予想されている。 しかし、加盟国の多くはルーマニア、ブルガリアがEU域外からの移民労働者の突破口になることを心配している。というのは、この両国は国境管理、旅券、査証審査、警察などとの関係が緩く、十分でないと懸念しているためである。そのため、域外から両国へ入り込んだ移民労働者が、EUの基軸国などへ自由に移動してくることを恐れている。

外国へ行った人・残った人 
 再び、今のブカレストを映したTVに戻る。ブカレストには活気が戻っていたが、それでもなんとなく寂しげな雰囲気が町や人々の表情に残っている。念願のEU加盟を果たしたが、多くの国民が外国へ出稼ぎに行ってしまう。しかし、出稼ぎ先で彼らの多くは良い仕事にありつけない。受け入れる側はますます規制を強化している。他方、外国へ出稼ぎに行けない人たちには、折角の機会を放棄しているような挫折感もあるようだ。活力のある人たちは出国してしまい、さまざまな事情で出国出来ない人たちがブカレストの仕事を支えているような雰囲気だった。

 こんなことを考えている時に、これも興味深い記事に出会った。ドイツのある研究機関によると、移民労働者は自分の行動が正しかったか否かを、離れてきた自国の経済状況との比較で判断する傾向があるという。ドイツで働く移民労働者についての調査結果である。その要旨は、彼らは外国で働きながら、母国の経済状況が良くなると憂鬱になるが、自国の失業率が悪化すると、自分の決断が正しかったと思うのか、かなり元気になるという。こうした感情はこのブログでとりあげたこともある、ドイツの Schadenfreude (他人の不幸を喜ぶ心情)に近いもので、彼らはおそらくそれまでにこうしたドイツ語を知るにいたるほど、ドイツに住み着いているのだろうというオチがついていた*2。

 

 ★ 1985年にシェンゲンで署名された協定でヨーロッパ26カ国が加入。その地域をシェンゲン圏という。渡航者はシェンゲン圏に入域あるいは圏外へ出る場合には国境検査を受けるが、圏内で加入国の国境を越える際には検査は必要ない。シェンゲン圏にはアイスランド、ノルウエー、スイスなどEUに加盟していない国も含まれている。ただし、アイスランド、イギリスは例外でシェンゲン協定を施行していない。シェンゲン圏内の人口は4億人を越える。

References

*1 ”Bulgarian and Romanian immigration-what are the figures?” BBCNEWS 14 May 2014


*2 "The great escape" The Economist 17th May 2014



 

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未来からの移民(2):ロボットが人間を超える日

2014年05月19日 | 特別トピックス

 

ロボットのイメージ:「鉄腕アトム」

 

 

  このところ、海外著名メディアでロボットがかなり話題になっている。「ロボット」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは、人様々だが、日本人は一般に、人間に類似した形状のヒューマノイド・タイプが好みらしい。1950年代初めに登場し、TV放映もされ、世界的に知られた手塚治虫の「鉄腕アトム」(アメリカではアストロ・ボーイの名で放映されてきた)などから、ロボットとはこういうものだとのイメージが生まれたようだ。その後、1970年代の「マジンガーZ」などが登場、実際のロボットとしては、アシモ(Asimo)やあざらしの子供のようなパロ(Paro)などに結実してきた。

 他方、この二足歩行型の人型ロボットあるいは動物型には、西欧諸国ではイメージが人間に近すぎると好まない人もいる。「フランケンシュタイン」や「ターミネーター」のように、いつか人間に反逆するようなイメージも影響しているともいわれる。日本人はロボットと人間との距離、境界の認識が不分明で、どこまでをロボットとみなすか、曖昧になっているといわれる。ロボットにかなり親近感のようなものも感じるようだ。日本ではほとんど抵抗なく受け入れられ、増殖?している「ゆるキャラ」なる奇妙な存在も、違和感があるということを聞いたことがある。そういわれてみると、ボールパーク(野球場)やサッカースタディアムにも、ディズニータイプの動物型ぬいぐるみやチアーガールズは登場しているが、一見すると由来のよく分からない「ゆるキャラ」型は、あまり見た記憶がない。

 しかし、西欧においても、総じて近未来のロボットは人間に似た、二足歩行型タイプが主流になると考えられている。多機能型には、ヒューマノイド型の方が向いているのだろうか。
 

 最近、ヒット商品として話題になっているルンバ Roomba もこれから展開するロボット革命のほんの初期段階とされている。ルンバも性能が急速に改善されて、日本でも競争製品が市場にでているほどだが、形状はシンプルな円盤型だ。そのため、これをロボットと思わない人たちも多い。しかし、製品開発にこめられた思想は、明らかにロボットによる家事労働の代替だ。室内の清掃という家事労働の中心的部分に向けられている。あらかじめ設定しておけば、住人が仕事などで外出している間に、一生懸命に働いてくれる。人間のように、一息入れたり、さぼったり?することなく、エネルギーがあるかぎり、きまじめすぎるほど働いてくれるようだ。家事でも、洗濯や料理などについては、すでに機械による代替がかなり進んでいるから、残った領域でかなり手間のかかる掃除という仕事を、機械で代替しようと開発者たちが考えたのは、きわめて自然だった。

 近未来には、洗濯、清掃、料理、自宅にいる高齢者や病人や来客への対応(宅配便受け取り、番犬?など)など、家事全般をまとめてやってくれる一体型のロボットが出現する可能性は十分あるようだ。怪しい者が近づくと、吠えたり、記録をとるロボット・ドッグはすでに実用化されている。こちらは抵抗がないのか、最初から犬のイメージが採用されている。

 ロボットの可能性は、かぎりなく多様だが、これまでの開発目的のひとつは省力化にあった。とりわけ、バブル期に日本で使われ、世界に広まった「3K労働」(汚い、きつい、危険な仕事、英語では3D)といわれる領域に多い、単調、反復労働などを代替するロボットが開発され、実用化した。比較的、低い熟練度の仕事が対象となるが、福島原発の廃炉作業のように、ロボットなしには実施できない。文字通り危険な仕事を、ロボットに託することになる。

 近未来に最も数が増加するのは、中程度のスキルを持って、かなりの難度の仕事をこなすロボットが主流になりそうだ。この領域のロボットは、恐らく人間を上回る安定したスキルと正確な実務能力を持ち、人間の仕事を脅かすだろう。大量生産が進むと、ロボットのコストダウンも進み、競争力を持つと思われる。人間のブルーカラー。ホワイトカラーの仕事はかなり省力化される。当然ロボットによる工程などの操業管理、プログラミングなども行われるようになり、技術者の仕事に近接する。ロボットがもたらす仕事の質の変化は大きい。

 遺伝子工学の発達で、クローンの誕生も起こりうる。他方、人工頭脳の急速な進歩で、人間とロボットの関係はきわめて微妙なものになる。今日すでにロボット工学としては試みられている、制作者にかぎりなく外見を近づけたロボットを見ると、肌寒くなる。恐らく家族や友人でも外見からは区別がしがたいほど似ている。皆さんは、自分と外面は寸分違わないロボットが、町を歩いていたら、どんな反応をしますか。近未来に生きる若い世代は、真に人間しかできない、人間らしい仕事のスキル修得を目指す必要がある。教育のあり方にも関わる重大事だ。それはいったいどんな仕事? それこそ、人間が考えねばならない。



* 東京丸善本店に、「手塚治虫書店」の名で、この世界的に大きな影響を与えた作家の全作品を集めたコーナーが4月に開店した。


Referencs
「ロボットと人間の未来」Newsweek, April 29-May 6, 2014
"Rise of the Robots" The Economist March 29th-April 4th, 2014


 

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未来からの移民(1)

2014年05月08日 | 労働の新次元

 



The Economist cover
March 29th-April 4th 2014



  このブログが頼りとする「タイム・マシン」The Time Machine は、このところ乱気流に出会う時が多くなった。時代の行方が急速に重く濃い霧で覆われるようになった。尖閣、ウクライナ、大気汚染、温暖化、中国、韓国が突きつける
「歴史問題」、居丈高な中国政府、北朝鮮の異様な姿、アメリカ、EUの衰退..........。先が見えがたい問題が次々と起きている。連休中にもかかわらず、さまざまなことを考えさせられた。

 「ラテン民族の国々では、中年、高年の男子の話題は、政治だけで十分、下層階級になると、それにスポーツが加わる。アングロサクソン系の場合は、政治はむしろ経済や金融にとってかわり、時に文学などもつけたしに出てくる」(ミッシェル・ウエルベック、『地図と領土』)とのことだが、日本人はどうだろうか。このブログから政治は意図して落としてきたが、このところ不本意ながら取り上げることもある。

 
これだけ重要課題が迫ってくると、次世代のために多少なりと記したいと思うことも出てくる。ウクライナ問題にしても、一部に短期終息と楽観する見方もあったが、ブログが予想したとおり、内戦状態となり、もはや長期化は避けがたい。世界が幸い次の安定期を迎えるとしても、それまでかなり長い動乱・動揺の時期が続く。ヨーロッパ、そして世界の勢力地図がかなり塗り替えられるだろう。当面、アメリカの外交力の低下、EUの弱体化が目立ち、燃えさかる事態に対する消火能力は期待しがたい。これまでならば、間もなく軍事介入をほのめかしたアメリカも、ヴェトナム戦争以来、他国での戦争への介入による後遺症は深く、国力、外交力の衰退は覆いがたい。その間隙を狙ったプーチンの力の外交が押し気味だ。EUを含め、民主主義体制を標榜する国は、活力がなくなり、後退が目立つ。

 政治に限らず、大気汚染、自然破壊などを含めて、現代社会が抱える重大問題、そして近い将来起こりうる国家の破滅につながりかねない重苦しい予兆が次々と起きている。

 目前の問題に目を奪われて、時代を見通す視点を失いがちな政治家や官僚のあり方に強い懸念を感じる。それは国民自身の問題でもある。近未来に予想される重要問題がひとたび発火すれば、国家の衰亡、破綻につながる惨憺たる事態になりかねない。その火種はいたるところにある。しかも犠牲となるのは、これからの若い世代だけにことさら懸念は強まる。

首都圏直下型地震の危機 
 ひとつの例を挙げてみたい。
5月5日早朝、東京首都圏を襲った地震が発生した時、幸い管理人は目覚めていた。地震発生の瞬間、あわや直下型地震かと思った。地震を予知する警報もなく、突如揺れ出したからだった。

 幸い、地震のマグニチュードは心配したほど大きくはなく、東京直下型地震との関連性は薄いとの気象庁の発表で、少しばかり胸をなで下ろした。それでも、直下型地震発生の可能性自体が否定されているわけではない。かなりの確度で近い将来に勃発する可能性が指摘されている。その規模次第では、政治、経済など、すべてが東京に大きく依存しているこの国は壊滅状態に陥りかねない。

 それにもかかわらず、東京への人口集中はさらに進み、東京へ向かう人口の流れはとどまることがない。このままでは、東京にこの国のすべての運命が託される、きわめて危うい状況がさらに強まるばかりだ。

生き残る道は
 南海トラフ地震の可能性についてのニュースに加え、保険会社の地震関連保険の料率引き上げ、津波のアジア諸国への波及などの報道もされるようになった。考えたくもない光景だが、日本の太平洋岸のほぼ全域、そして周辺アジア諸国が、地震と津波で壊滅的な被害を被ることさえ起こりうる。

 この国の危機対応のあり方には、不安がつのる。嫌なことは考えたくないのは、人間の常だが、やはり東京の機能は分散しなければならないという確信が強まるばかりだ。以前に記した「東北都」構想にしても、小さな会合などで、少し突き詰めて議論をすると、反対、異論はまったくなく、政府、東京都はすぐにも着手すべき最重要課題だという結論に収斂する。ところが、肝心の政治家や行政は、こうした問題に、関心も危機感も持っていないようだ。3.11はなにを残したのだろう。

必要な「新生」のイメージ
 「東京オリンピック」にしても、管理人としては「東北オリンピック」であるべきであったと今も思っている。もちろん、そのスローガンでは採用されなかったろう。重要なことは、被災地を単に以前に近い姿に戻すのではなく、まったく新たな構想で、二度と大災害の起きない、安全で健康に心豊かな生活ができる地域を実現させることだ。いうまでもなく、被災した地域を故郷とする人々の間
つながりは、できうるかぎり確保された上での話である。そのイメージは震災以前の状態に戻すという「復興」「再生」を超えた「新生」を目指す。

 といって、被災地に巨大都市を構築せよとか、被災地域の復興をあきらめるというのではまったくない。この未曾有の災害を契機に、被災地と支援する人々の間に生まれた「人間の信頼のつながり」を基盤とした、世界のどこにもないヒューマニスティックな居住地域を、英知を集めて描き、構築する方向が選択されるべきなのだ。そのためには東北だけでも、道州制の先駆として県の行政枠を撤廃した広域プランが欠かせない。東北を次の世紀にも生き残る、文化的にも日本の先端地域として創り出すようなイメージが必要ではないかと思う。

 東京五輪の施設構築のために、東北被災地、福島原発などで厳しい条件下で働く労働者が、賃金につられて吸引されてしまうなどの話は、本来あってはならないないはずだ。安倍内閣が掲げる
戦略特区にしても、どうして被災地の中に、日本の未来をかける高度な生活モデル特区を構想しないのかと思う。短いブログで「復興」のイメージ論を記すつもりなどないのだが、「少し離れて見れば」、まったく新しいプランが浮かんでくる。

破綻してからでは間に合わない 
 日本の人口にしても、多くの人は実感していないが、驚くべき数で減少している。増加から減少への転換点となったのは、2005年であった。その後、間もなく10年が経過する。その間反転する兆しはなく、日本の人口は加速度的に減少の坂道を下ってきた。このまま行くと、国立社会保障・人口問題研究所の予測では、現在約1億2730万人の総人口は、2060年には8674万人と減少してしまう。

 日本が直面する人口減少の問題は、これまで硬直的な予測に頼りすぎ、背後で展開する大きな社会変化を十分認識できず、有効な政策対応ができなかった失敗に主として起因している。現在進行中の人口減少には慣性効果が働いていて、出生率が仮に下げ止まったとしても、反転上昇させることは、少なくとも近未来にはほとんど不可能に近い。人口減少は経済力などに反映し、国家の衰退につながってゆく。

 こうした危機的局面にいたっても、政治の世界から生まれてくる対応は国民を欺瞞するような内容だ。たとえば、日本の歴代政権は、「移民」受け入れという問題を国民的議論の俎上に載せることを極力回避してきた。とりわけ不熟練労働者の受け入れは、一貫して行わない方針であった。その裏で、歴代政権は巧みにそれを隠蔽し、そうした労働者を受け入れてきた。他方、本来積極的に受け入れるべき高度な技術・技能、専門性などを持った人々は、日本にほとんど来てくれなかった。そして、最近唐突に打ち上げられている構図は、およそ的外れで欺瞞的だ。

 簡単に言えば、国民的議論もないままに、2015年から毎年20万人づつ移民を受け入れ、2030年以降には合計特殊出生率が2.07に回復していることを条件に、日本の総人口を2060年に1億989億人の水準にまで戻すという構図が提示されている。まったくの数あわせで、体裁を取り繕う考えとしか思えない。

 さらに、4月には制度創設以来、本来国の方針とは異なる不熟練労働者受け入れの隠れ蓑となってきた「技能実習」制度の規制緩和を行い、従来の最長3年の上限を撤廃し、2年間の延長を認め、最長5年間の在留を認めることにした。さらに、3年間の技能実習を終えて帰国した外国人に再入国を認めることまで容認することにした。そして、その実施については、「技能実習」制度そのものは手をつけず、法務大臣の裁量的運用に委ねる具体的規定のない「特定活動」という既存の在留資格を援用するという、制度のあるべき姿を完全に無視したとしか思えない、こそくな方策だ。

 本来、この制度は日本で身につけた技能の成果を、送り出し国の発展に役立てるという眼目で生まれたはずだ。それが、日本の特定業界における不熟練労働者の人手不足を補うために使われてきた。制度創設段階から、この問題を見てきた管理人には、もはや救いがたいという思いがする。

 さらに、国民の間でいまだ十分に理解されていない「移民」と「外国人労働者」の概念を、ご都合主義で使用している。これまで、さまざまな機会に説明してきたが、国際的には両者は、”migrant workers” として今日では、ほぼ同義語なのだ。

 分かりやすい例として、近年アメリカで問題になっている1200万人近くの国内に滞在する「不法移民」をあげることができる。その多くは、入国時に求められる旅券や査証などの必要書類を保持することなく国境を越え、賃金の高いアメリカで労働者として働き、本国の家族などに送金し、なんとかアメリカ市民権を得ることを考えている。彼らの多くは、不法入国時からアメリカに居住することが目的で帰国するつもりがない。

正しい道へ戻る 
 
このことは、日本でいう「外国人労働者」なる者も、そのある部分は滞在年数の経過とともに、帰国することなく、日本に定住し、そのままでは「不法滞在者」となる可能性が高いことを意味している。滞在期間が長くなれば、それだけ帰国の意思は薄れる。「外国人労働者」という名目で受け入れれば、実態を熟知しない国民には「移民」に見えないという、言葉の上での欺瞞ともいえる。

 日本でも外国人労働者はもはや珍しい存在ではない。日系ブラジル人を初めとして、中国、韓国などアジア諸国からさまざまな経路で入国し、働いている外国人労働者が増加した。滞在期間も長期化し、外国人労働者という名の移民が増加し、住宅、医療、社会保障、犯罪など、さまざまな問題が生まれた。
 
 人口減少に対する政策として、外国人を受け入れる方針ならば、理路整然と制度を整備、再構築して実施しなければ、次の世代にとって大きな負担を残すだけだ。いうまでもなく、国民的議論を十分尽くすことが欠かせない。

 国家衰亡の兆候はすでにさまざまな分野に見られる。人口が減少するままで、平均寿命だけは世界最高水準にあるため、高齢化が急速に進行し、社会の活力が失われ、社会保障などの財政負担に国も家庭も耐えられなくなっている。

 一国の急激な人口減、それに伴う高齢化の問題に対応する手段として「移民」受け入れが有効な時代は確かにあった。しかし、いまや移民に関わる内容と環境は大きく変わった。移民はもはや人口や労働力不足への対応案にはならない。EUの盟主となったドイツでさえも、「多文化主義は失敗に終わった」とメルケル首相が明言するほどだ。移民を受け入れるからには、これまでとはまったく異なった考えと覚悟が必要なのだ。日本ではほとんどまともに議論されたこともない。

 人口減少に対して、本来最重要な政策は、改めていうまでもなく出生率の改善であり、国家的政策の基軸となるべき最も望ましい方向である。しかし、今の日本には、出生率が顕著に改善することが期待しうる政策的対応や基盤は決定的に不足している。このままで、女性がさらに働くことになれば、出生率はもっと低下してしまう可能性が濃い。政策立案者は現実を見ているのだろうか。

未来からの移民は?
 そして、残された最後の手段。それは今回表題とした「未来からの移民」である。日本を救うまったく新しい方向になりうるだろうか。

 2012年時点で、日本の保有する製造業における産業用ロボットは311千台(人)、アメリカの169千台、ドイツの162千台、韓国の139千台を上回っている。ロボットはすでにはるか以前に、SFの世界を飛び出し、現実の人間とともにある。

 かつて1960年代にアメリカで、未来の家事用ロボットのモデルなるものを見たことがあった。高さは人の背くらいで円錐状の胴体に目鼻のついた頭があり、長い手足が動いていた。当時、このロボットは、簡単な家庭内の掃除
、来客があると入口まで出てきて Hello! welcome くらいの挨拶ができた。これを見た人々は大変驚いていた。今でははるかに人間に近い、精緻なロボットが生まれている。

 世界で爆発的に売れている掃除用ロボット、ルンバは、1990年にMITから生まれたベンチャー企業アイロボット社の製品だが、過去12年間に1000万台以上も売れている。人間に換算したら、1000万人の家事労働者が参入して、働いていることになる。競合製品も出てきたようだから、全体でははるかに多くなる。一般にイメージされる人間の形に近いロボットよりは、一見ロボットとは見えないロボットの方が数は多い。

 問題の多い移民受け入れよりは、「未来からの移民」といわれるロボットとの共存を図る方がまだ対応の選択肢が多いだろう。ロボットに象徴される技術の問題のひとつは、省力化である。欧米諸国はこの点を懸念している。しかし、労働力不足がさらに深刻化する日本にとって、ロボットは開発の方向を誤らなければ、かなり頼りになる存在となりうるかもしれない。

 ロボット技術の発展ぶりはめざましく、すでに予想もしない分野で使われている。福島第一原発の廃炉作業もロボットなしには、実施できない。医療技術分野でのロボットの活躍もめざましい。プログラミングと個別データの入力さえ正確ならば、練達した外科医を上回る分野もあるといわれる。最近のThe Economist 誌の表紙には、子供を保育、見守るロボット、高齢者の食事を補助するロボット、人や宅急便を輸送する無人の航空機まで、カリカチュアされているが、そのかなりのものはすでに実用化している。

 ロボットはどこまで人間に近づくか。工場やオフィスではロボットは、はるか以前から人間の労働者と並んで働いている。家族が働きに出ている日中はロボットが、家の管理、掃除、洗濯、手紙や宅急便の受け取り、時には要介護者を助けながら、仕事をこなし、夜に戻ってきた家族とロボットが対話しながら、食事をする風景は、もう近未来の光景になる。

 ロボットと人間の関係には、ここでは触れないが、倫理問題など、これまで想像しなかった新たな領域の問題が生まれている。人間を超えてしまうかもしれないロボット技術の将来を、今から十分考えておかねばならない。深く考えると、背筋が冷えてくるようなこともある。難しいことやいやなことを代わりに考えてくれるロボットはいないものか。そうなれば、連休も本当の「お休み」になったのだが。


 ”Rise of the Robots; Immigrants from the Future” The Economist March 29th 2014.

 

 

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神に出会う時:闇を歩んで

2014年05月01日 | 特別トピックス

 



ヘンドリック・テルブルッヘン『福音書書記者聖ヨハネ』







   現代人はさまざまな
不安を感じながら生きている。自分、そして人類や地球が、将来このままの形で存続していくとも到底思えなくなっている。未来へのいい知れぬ不安は、恐らく多くの人の抱くものだろう。なにかにすがって生きたいと思う人も多い。心の拠り所を求めて、宗教あるいは超自然的なものへの関心は着実に高まっている。

 本当に神は存在するのだろうか。あるいは超自然的、霊魂 spiritual のごとき
ものに出会えるのか。個人として、その存在を実感することはありうるのか。こうしたことを考える本人はもとより、神学者や牧師、説教者などに突きつけられた問いは、重く、簡単には答えられない。

「神に出会うことはできるのか」
 その中で、ひとりの女性説教者の考えが注目を集めている。アメリカを代表するキリスト教説教者バーバラ・ブラウン・テイラー女史はそのひとりである。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー本リストの常連でもある。それらを通して、不安に満ちた時代の状況が分かる。「どこへ行けば、神に出会えるのか」。最近のTime誌の表紙を飾っているのは「暗闇に神を見る」というテーマでもある。こうした宗教的、スピリチュアルな問題が、多数の人が目にする、このような著名な雑誌や新聞書評に大きく取り上げられることは、それほど多くはない。しかし、現代アメリカを代表する説教者のひとりとしての彼女の考えに、やや興味を惹かれた。このブログに記してきた内容と多少関わってもいる。

 取り上げられているテーマは神 God あるいは霊的、超自然的な存在 spiritual と、それとの遭遇の可能性ともいうべきものだ。ここで使われている神とは、自ら説教師でもあるテイラーの立場から、キリスト教の神が想定されてはいるが、漠然と超自然的な存在を含んでいる。
 
暗闇に潜む鍵
 これまで、多くの説教家や霊的な求道者は、神を光、啓発 enlightment と結びつけて考えてきた。実際、enlightmentには、なにかを照らし出すという含意がある。神は光として、あるいは光の中に見出されるという暗黙の想定である。しかし、テイラーは、違った考えを提示している。多くの現代人があまり目を向けなかった闇 dark, darkness の存在である。彼女は光とともに闇の重要性を説く。そこに現代人が神や救いの存在をイメージする鍵が潜んでいるという。彼女はそのことを森の洞窟や自宅の暗い部屋などで過ごすことを通して、少しずつ闇から学んだという。

 神の存在を証明すること自体、宗教家や説教者にとって、究極の問題なのだが、きわめて困難な課題だ。ここでは簡単にテイラーという宗教家の考えの輪郭を理解したかぎりで平易に書き直し、提示してみたい。

闇に向かって歩く
 彼女はいう。森や林などの暗闇に向けてゆっくりと歩み入ってごらんなさい。現代の人はあまりそうしたことに慣れていないでしょう。そこに、なにかを見出すというような気負いなど抱かずに、あてもなく旅するという感じで一歩を踏み出しなさい。そうして歩いている時に、どこかでふとなにか違ったものを感じたり、聞いたりすることがありますか。

 神や霊感について考えながら歩いていると、どこかにかすかな光、月の光のようなものが射していることに、気づくかもしれません。信仰や神、霊的な存在について、しばらく深く思索してきた人には、そういう時が生まれることがあります。長い間、神学の領域では、深く暗い闇には悪がひそんでいて、大きな未知な空間であり、怖ろしく、単純に闇はネガティブ、悪のイメージで見られてきました。

 iPhone、PC, タブレット、ラジオ、コーヒーポット、.....いつも使っている人工の品々を忘れ、プラグを抜いて、それらの器具に関わる人工の光、輝きをひとつひとつ捨てて行きます。それらが生む光のすべてが消え去っても、あなたの外側あるいは内側から光るような思いがした時、あなたはなにか超自然なものを見出すのです。人工の光に満ちあふれた都会にあっても、神を見ることは不可能ではありません。すべての灯りを消した自宅の一室で、静かに深く闇に沈み込み思索する時、暗闇の中に新たな生が始まるのです。(B.B.Taylor. Learning to Walk in the Dark, 2014 Quoted in Time, Atpri 28, 2014、筆者意訳)。

 テイラーはこのように、分かりやすい表現で、神、超自然的な存在を、現代人でも感じ取ることができるという。

「初めに光ありき」
 テイラーは神と暗闇は互いに長い間結びついてきた、隣人のような関係であるともいう。神は「初めに光ありき」といったではないか。聖書は光を聖なるものとし、闇を悪、地獄とイメージさせてしまった。神とは光と共にあるといつの間にか、人々は思い込んでしまった。人は暗黒の中にいるかぎり、神はそこにいないのだと思い、そして、人はいつの間にか闇を怖れ、遠ざけてきた。子供は夜を怖がり、大人はしばしば病気や失業と闇、暗黒を重ね合わせてきた。暗闇はいつの間にか、なにか人間を脅かすものと、理由がないままに結びつけられてきた。

 現代社会では、人間が悲しさ、惨めさに耐える文化的許容度が低下している。人々の心は弱くなっている。われわれの文化は光に重きを置き過ぎ、悲惨さを受け入れる力が弱まっている。そして、ひたすら暗さ、闇を消そうとしてきた。確かに、現代社会は人工の光には溢れている。反面で闇を怖れ、嫌い、ひたすら抹消しようと斥けてきた。

闇と対峙する
 闇から目をそらすことなく、正面から対峙する。それは現代人を悩ましている多くのことを癒し、治療する道につながっているとテイラーは考える。

 「暗闇の中を歩むこと」を習う、というのがテイラーの新著のエッセンスでもあるようだ。人は子供も大人も闇を怖れ、暗闇に立ち入ることを避け、人工の光で闇を消そうとしてきた。現代社会にも昼があり、夜がある。しかし、その夜は気づかずにいれば、昼とはほとんど変わりはない。闇が秘める超自然的、霊的存在を人間は怖れ、遠ざけてきた。こうしたテイラーの考えは、キリスト教神学の古い考えを再生させているともいえる。

 ここまで来ると、賢明な読者は、もう話の行方がお分かりかと思う。テーラーが言わんとすることは、実際に特定の神を求めたり、どこかの暗い森の中を歩いて見なさいというわけではないのだ。彼女はこう記している。「もしあなたが暗闇の中で落ち込んでいるとしても、そのことはあなたが人生を失敗した、あるいはとんでもない誤りをおかしてしまったということを意味するのではありません。長年にわたりこのような問題や疑問、そして神はいないのではないかということも考えてきました。それらはすべて私の信仰が欠けている証拠なのです。しかし、今ではこれこそが時代の精神、スピリットが向かっている道なのだと思うようになりました」(Time April 24,2014)。

  信仰というものがこの世に生まれてから、暗闇には神の神秘が静かに座してきた。そして、古来、ながらくの間、闇は日没とともに訪れ、希望や活力に充ちた昼の世界、光の世界を消し去り、怖れ、恐怖、そしてしばしば悪魔や魔女が飛び交い魑魅魍魎がうごめく世界をもたらすものでもあった。

 「危機の時代」ともいわれた17世紀は、とりわけそうした闇の世界が大きな存在であった。当初は「夜の画家」ともいわれ、夜や闇の深さを描いた画家ともいわれるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの宗教画、そして他の同時代の画家の作品には、蝋燭や松明の光とは別に、
どこからか超自然的な光が射し込んでいる。時には昼とも夜ともつかない不思議な背景の下に人物などが描かれている。しばしば画面の全体を覆う闇、暗黒の世界は、人間の力が及ばない、神や悪魔が住む次元とみなされてきた。しかし、この画家の世界には、どこからともなく光が射し込んでいる。光源は分からないが、その光は人物をはっきりと映し出している。ラ・トゥールと現代をつなぐ光であり、闇がそこにある。 



 "Finding God in the Dark" The Time, april 28, 2014


この世の最後まで神とご自身の関係を真摯に考えられていたS.T.先生、今はその思いをかなえられていることでしょう。ご冥福を祈りながら(2014.04.25)。

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