時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

回想のアメリカ:政治を決める南部への関心

2023年04月17日 | 回想のアメリカ


赤色の濃さは1940年の人口に占める南部生まれ白人の比率(%)
★南部からの白人移住者は南北戦争時の北軍の州を好まなかった(右上)。
★モルモン教の本山のあるユタ州は、宗教上の差異で魅力が少なかったのかもしれない(左UT)
★南部諸州は右下灰白色部分
Source: The Economist April 1st 2023

このブログでも取り上げた「グローバル・サウス」の概念とイメージは、日本でも次第に浸透しつつあるようだ。そのひとつの起点ともなったアメリカ「南部」(the South)の本質そして実態は、アメリカでも必ずしも正しく理解されてこなかった。ましてや日本では一般にはほとんど知られていないテーマだ。

他方、アメリカではこの10年くらいの間に、南部への関心は急速に拡大し、新たな議論と研究のテーマとなってきた。ひきがねとなったのは、トランプ大統領という異色の人物の登場であった。南部の保守性の根源について新たな視点での研究や関心の掘り起こしが進んでいる。ここでは、その中から最近ブログ筆者の目に止まった記事を紹介しつつ、最近の南部についての関心の高まりの意味を考えてみたい。

ちなみに、アメリカでは共和党を支持する傾向を持つ州を赤い州」red state、民主党を支持する傾向がある州を「青い州」blue stateと呼ぶ。特に、2000年の大統領選挙に関わる紛争を契機に、保守とリベラルの対立激化、それを定める地域性が、南北戦争以来の対立のごとく、大きな注目を集めるようになってきた。一体、この色を定める要因は何だろうか。

“The Other Great Migration” The Economist, April 1st 2023

ブログ筆者は長年にわたり、人口・労働力移動の問題を研究対象のひとつとしてきたが、その出発点は
アメリカ綿工業の北部から南部への移転だった。人口や労働力の移動が、移動先へいかなる影響をもたらすか、

その後、アメリカに関わる領域で、注目してきた点は、南部から北部への人口移動がもたらした政治色の変化である。アメリカでは南北戦争(1861-65年)後、何百万人というアフリカ系アメリカ人(黒人)が南部の地を離れた。多くは新たに「
奴隷制」から解き放たれた人たちだった。彼らはデトロイトやニューヨークの製造業などで働くことで、より良く安全な人生に出会うことができた。この動きはアメリカ史上「大移動」great migration として今日知られている。彼らが落ち着いた土地では、文化や経済に変化をもたらした。北部の都市の政治については、永続的な左翼的力を付け加えた。南部で生まれ、アメリカ北部のいずれかの地域に住んでいる人々の数は、南北戦争(American civil war)の後、急速に増加してきた。白人は600万人を越えて増加しているが、黒人は1980年頃をピークに減少している。

しかし、これだけが「大移動」のもたらしたものではなかった。1900年から1940年の間に、およそ5百万人の南部白人が南部連合や隣接したオクラホマの土地を離れた。さらに本年末には発表されるとみられる「国勢調査」報告を先取りすると、南部から移動した白人労働者は数こそ多くはなかったが、各州へ広がり、文化的影響、そして政治的影響をもたらしたと思われる。

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「大移動」は、米国の歴史の中で最も大きな人々の移動の ひとつだった。1910 年代から 1970 年代にかけて、およそ 600 万人の黒人がアメリカ南部から北部、中西部、西部の州に移動した。大衆運動の背後にある原動力は、人種的暴力から逃れ、経済的および教育的機会を追求し、ジム・クロウ(Jim Crow:黒人差別政策)の抑圧から自由を得ることだった。
大移動は、多くの場合、2 つの世界大戦への米国の参加と影響と一致して 2 段階に分けられる。最初 の大移動 (1910-1940)で 南部の黒人は、ニューヨーク、シカゴ、デトロイト、ピッツバーグなどの北部および中西部の都市に移住した。1917年に戦争が激化したとき、より有能で頑健な身体の男性がヨーロッパ戦線に送られ戦った. ヨーロッパからの移民の減少と世界の他の地域からの有色人種の受け入れ制限により、労働供給はさらに逼迫した。これらの結果として、黒人人口が非農業産業の労働力となる機会が生まれた。 

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南部からの白人労働者移動
他方、南部からの白人労働者は人種の面でも黒人労働者と異なっていた。中には貧困な労働者もいたが、平均して黒人の移住者よりは富んでいた。移住先地域の住民とほぼ並ぶ富裕度だった。黒人移住者は都市へ移住した者が多かったが、白人移住者は西部などでは農村部など非都市部へ移った者が多かった。

人種的および宗教的に保守的な南部の白人移民は、経済的保守派との広範な連合に新たな選挙の可能性を見出した。かなりの地理的範囲で、これらの移民は、党派の再編成を早め、長期的には全国的な影響力を持つ新右派運動の触媒となり、強化するのに役立った。南部以外の保守的な有権者層を増やすだけでなく、彼らは福音派(エヴァンジェリカル)の教会を建設し、右翼メディアを拡大し、異人種間結婚や住宅統合を通じて混合することで、非南部人に影響を与えた。

保守化を強めた白人移住者の力
1960年の国勢調査によると、これら白人移住者は、教会を設立したり、新聞、ラジオなどのメディアで働く者が多かった。結果として、居住地域へ保守的な政治的影響を及ぼしたとみられる。1940 年までみると、北部では一人の南部からの白人の移住者の追加は、2000年から2020年において大統領選の共和党候補者に一人以上の追加票をもたらす効果があったと推定されている。結果として、立法、経済、社会問題の対応で保守派に有利に働いた。

南部黒人の北部移住
20 世紀には、アフリカ系アメリカ人の地方から都市部への移住の 大きな波が見られ、国の人口構成だけでなく黒人文化も変化した。

1910 年代から 1970 年代にかけて、およそ 600 万人の黒人がアメリカ南部から北部、中西部、西部の州に移動した。こうした大衆運動の背後にある原動力は、人種的暴力から逃れ、経済的および教育的機会を追求し、ジム・クロウの抑圧から自由を得ることにあった。.

第二次世界大戦の影響
世界大戦が勃発すると、国の防衛産業が拡大を開始、他の地域のアフリカ系アメリカ人により多くの仕事をもたらし、1970 年代まで活発だった大規模な移住を再び促進した。この期間中、より多くの人々が北に移動し、さらに西 に移動して、オークランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、オレゴン州ポートランド、ワシントン州シアトルなどのカリフォルニアの主要都市に移動した。第二次世界大戦の 20 年以内に、さらに 300 万人の黒人が米国中に移住した。

大移動の第 2 段階で移住した黒人は、住宅差別に遭遇した。これは、地域が制限的な規約とレッドラインを実施し始めたため、隔離された地域が作り出されただけでなく、米国の既存の富の人種格差の基盤にもなった。

近年の動向
今日、アメリカ人は反対方向へ動いている。2000〜2022年についてみると、トップ10州のうち9州までがアメリカ国内の移住者で見ると、他州への移住者が純増している州では、彼らの行き先は主として南部を目指していた。これについては幾分、これまでの北への移住の揺り戻しのようなところもある。かつての南からの移住者が多い北部在住の白人たちは、子供にエヴァンジェリカルの影響で、聖書関連の名前をつけることが多い傾向があるようだ。

人の移動に付帯する文化的要素、中でも宗教や政治についての考えが、移住先の政治的雰囲気を変化させることはきわめて興味深い問題であり、その動向はさらに注目を集めるだろう。

終わり


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回想のアメリカ:南部を知らずしてアメリカは分からない

2023年04月08日 | 回想のアメリカ

スヴェン・ベッカートの『綿の帝国』を紹介している時、日本人にとっては馴染みの薄い「奴隷制」や「奴隷貿易」については多少なりと記すことができたが、それと密接に関連する「南部」固有の風土、文化などについては余裕がなかった。

その間、トランプ大統領のニューヨーク州大陪審による起訴など、アメリカにおける前代未聞の事件は急速に展開していた。一般の人々は気がつかないかもしれないが、実はこうした出来事も深く南部とつながっている。

筆者もこのシリーズで取り上げたアメリカ東北部から南部への繊維工業の産業移転の調査などに始まり、
アパラチアの炭鉱、テネシーの自動車産業、ノースカロライナの鉄鋼ミニミルなどの調査でかなり多くの地域を訪れ、様々な光景をみてきたが、ベッカートや今回紹介する新著を読んで、改めて南部を知ることの重要性を感じている。南部を知ることなくしては、本当のアメリカは分からない。そして南部は極めて複雑で懐が深い。



南部を知るためにお勧めの一冊
偶々、前回紹介したベッカートの『綿の帝国』と前後して、それと重なり合う一冊の本が刊行され、全米で大きな評判となった。イマニ・ペリーの下掲の作品『アメリカにとっての南部:国の心を知るためのメーソン・ディクソン線の下の旅』である:

Imani Perry, South to America, A Journey below the Mason-Dixon to Understand the Soul of a Nation, Harper Collins, 2022.

本書は発刊以後直ちに注目を集め、2022年全米ノンフィクション賞を受賞し、さらに他の賞の候補にも挙げられている。『ニューヨーク・タイムズ』他でも激賞の対象になっている。

参考までに、上に表紙を掲載しておくが、この花がなんであるかは、もはや説明の要がないだろう。南部を象徴する綿花の一輪が描かれている。

著者ペリーはプリンストン大学のアフリカ系アメリカ人研究の教授であり、南部アラバマ州バーミンガムの生まれである。

多くの人々は、アメリカ南部というと、南北戦争、『風と共に去りぬ』、クー・クラックス・クラン、大農園、サッカー、ジム・クロウ(以前の黒人差別・政策)、奴隷制度、福音主義のプロテスタントなど、さまざまなことを思い浮かべるかもしれない。そこに住んだことがない人でも、象徴的ないくつかのことを思い出すことができるかもしれない。しかし、こうした事項のいくつかを知っているからといって、貴方がアメリカを知っていることにはつながらない。

彼女は言う:貴方の考えているアメリカは、本当のアメリカではない。わかっているように錯覚しているだけだ。南部を知らずしてアメリカは語れない。この地域の特異性、気質、習慣は、多くの人が認める内容よりも複雑なのだ。

本書は、黒人女性でアラバマ出身の女性が、いつも故郷と呼んでいた地域に戻り、新鮮な目でこの地域について考える物語になっている。移民コミュニティ、現代アーティスト、搾取的な日和見主義者、奴隷にされた人々、歌われていない英雄、彼女自身の先祖、そして彼女の生きた経験の物語を織り合わせて、イマニ・ペリーは他に類を見ない作品を生み出した。 South to America 『南部からアメリカ』は、並外れた洞察力と息をのむような明快さで、 米国がより人道的な未来を築きたいのであれば、私たちの関心のありかをメイソン・ディクソン線の下に集中させなければないと彼女はいう。南部と言わずに、この象徴的な一線、ラインの下方という意味は深い。

メーソン・ディクソン線
ペンシルヴァニア州とメリーランド州の植民地の境界紛争を解決するため、1763年から67年の間に、イギリス人C.メーソンとJ.ディクソンが設定した境界線。奴隷制廃止以前は、一般自由州と奴隷州とを分つ境界とみなされてきた。実際には1マイル及び5マイルごとに石の標識が置かれている。1963年、J.F.ケネディ大統領の時代に、設置記念200年祭が開催され、レプリカが設置された。
メーソン・ディクソン線は設置以降、しばしば北部と南部(Dixie)を分つ象徴的な一線として使われている。


Source: Wikipedia

北部と南部はどれだけ違うのか。
アラバマ生まれのアフリカ系アメリカ人の著者は、彼女がいつも故郷と呼んできた南部の地へ戻り、新しい目で見直してみようと、本書を書いた。

北部にはない南部特有のコミュニティ、かつて奴隷とされた人々たちの末裔、知られていない英雄たち、先祖、そして彼女自身の体験を、あたかもタペストリーのように紡ぎ出している。『南部からアメリカ』は、アメリカ人でさえ、正しく理解していないこの地域を新たな目で見つめ直すことで、アメリカという大国のイメージの再構築を図ろうとする。一読して引き込まれる。

彼女が故郷と考えるバーミンガムは、今では大都市だが、アラバマ州の「赤い大地」の奥深くにある。彼女は、異人種間に生まれた女性として、人種差別の経験を振り返り、黒人が歴史的に適応してきた方法を探り、「壊れたオアシス」という言葉を具現化するコミュニティへの訪問を魅力的に記録している。彼らのコミュニティは「白人至上主義の習慣によって」破壊されたと彼女は述べる。

ブログ筆者も、これまでの経験から南部あるいは南部人の一般的イメージとして、ともすれば保守的というイメージを抱きがちであった。南部人に特有な親切さ、ホスピタリティとでもいうべきものを感じたこともあった。夫が北(ニュージャージー)、妻が南(テネシー)という家族とも半世紀以上、親しく付き合ってきた。政治的には夫妻いずれもが共和党支持だったが、オバマ大統領の頃から、大分変わってきた。最近では置かれた状況で考えるという。それでも、食べ物の嗜好が一致しないことは若い頃から認めていたが、今でもこれだけは変わらないらしい。

ペリーは、南部は「状況保全という意味で保守的だ。しかし、それが意味することは、実際には政治用語で簡単に説明できるものではない」と記している。この問題は、多くのスキャンダルにもかかわらずトランプ前大統領の支持者が強固に存在することを理解するためにも、さらに研究に値するテーマとして残っている。

南部最大の特徴として、ペリーは、女性としての人種差別の経験を振り返り、黒人が歴史的に適応してきた方法を探り、「壊れたオアシス」という言葉を具現化するコミュニティへの訪問を魅力的に描写している。それは「白人至上主義の習慣によって」破壊されたと記されている。

本書は、実に見事に南部の世界の複雑さ、多様さを描き出しており、アメリカ人は言うまでもなく、ともすればアメリカという名で一元化して理解したつもりになりがちな日本人にとっても、多大な示唆を与えてくれる貴重な一冊と言える。


Imani Perry, South to America, A Journey below the Mason-Dixon to Understand the Soul of a Nation, Harper Collins, 2022.
仮訳
目次
著者からのノート
序章
I. 起源を巡る話
アパラチア荒地への旅
母の国:ヴァージニア
アニメ化されたルーレット:ルイヴィル
マリーの地:アナポリスと洞窟
風刺的な首都:ワシントン D.C.
II. 結束した南部
開拓地:アラバマ北部
バイブル・ベルトのタバコ・ロード:ノース・カロライナ
南部の王:アトランタ
記憶の土地以上のバーミンガム
豚に真珠:プリンストンからナッシュヴィル
ビール通りが話す時:メンフィス
南部の魂:ブラック・ベルト
III. 水のような人々
空飛ぶアフリカ人の家:ロー・カウントリー
ピストールと華麗:フロリダ
動かない女性たち:モーバイル
マグノリア墓地と東の線:ニュー・オリンズ
溶けたガラス:バハマとハヴァナ
結び
謝辞




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回想のアメリカ:アメリカの深層を訪ねて(2) 奴隷制〜かくも長き廃絶への道

2023年04月02日 | 回想のアメリカ


Erick Williams, CAPITALISM AND SLAVERY, THIRD EDITION, Cover

1965年12月合衆国憲法修正第13条の批准によって、アメリカの奴隷制度は公式に廃止された。


資本主義成立史論への衝撃
ヨーロッパに始まった資本主義の成立史論によれば、資本主義の萌芽は、プロテスタントの信仰に支えられて、勤勉に働いた人々によって、その国に固有な農村や産業・技術の環境から生まれ育ったと考えられてきた。実際、筆者が学んだ時代においては、西洋的近代化を理想としていた日本の資本主義論に「奴隷制」「奴隷貿易」などの概念は、全く登場していなかった。

その後、留学生として渡米し、筆者が衝撃を受けたのは、本ブログにも記した奴隷制の遺物でもある有色人種への偏見、市民の無関心などに加え、奴隷貿易の視点など、前回も記したカリブ海出身の同級生などからの新たな視角の提示であった。とりわけ、労働に関わる社会経済史セミナーの議論で、彼が提示したのは、エリック・ウイリアムズ Eric Williams が提示した『資本主義と奴隷制』Capitalism and Slavery(Andre Deutsch,1944)なる研究の内容だった。この著書がイギリスで出版されたのは、1964年、ケネディ大統領暗殺の前年だった。日本では専門研究者などを除いてはほとんど知られていないが、近年新たな脚光を浴びている。

* 例えば:

ウイリアムズの著作は、イギリス産業革命を西インド(カリブ)諸島海域との関連から見るという画期的な研究であった。奴隷貿易がイギリス産業革命を支えたという衝撃的な内容で、セミナーでは議論は沈黙してしまって終わり、その後議論に取り上げられることはなかった。産業革命がアフリカ人奴隷の「血と汗」によって支えられたという論旨は、当時のアメリカ人学生にとっては、初めて聞いたことでもあり、なかなか受け入れ難い内容だった。しかし、10名に満たないセミナーで毎週、外国人学生として隣りに座っていたTと私の間では、その後しばしばこのテーマが話題となった。

ウイリアムズが『資本主義と奴隷制』で提示した主要な論点は、今日では「ウイリアムズ・テーゼ」として知られるようになった。その中で最も著名な重要点は「大西洋奴隷貿易と西インド諸島での奴隷制から得られた利潤は、イギリス産業革命の経済的基盤になった」というテーマである。この主張は、産業革命はイギリス内部から生まれたというそれまでの伝統的主張にとって大きな挑戦となった。18世紀のほとんどを通じて、新大陸での奴隷制と奴隷貿易で生まれた富は、イギリス産業革命の初期を支えた重要な資金源とされた。

こうした主張は、必然的に16世紀から19世紀にかけて、アフリカから強制的に貿易対象として連れ出され、輸送されたアフリカ人奴隷の数の推定に及び、少なくとも1250万人以上が新大陸などへ奴隷船で搬送されたとみられている。

18世紀の奴隷船については
Slave Voyages のタイトルで、多大学共同による極めて充実した専門的な研究成果がIT上で公開されている。3Dの奴隷船slave vesselsも掲載されている。

さらに、奴隷貿易の研究は、アフリカ、なかでも大西洋沿岸部とヨーロッパや新大陸の間で、奴隷とされた黒人と、アフリカが求めた繊維製品など必需品との相互交易の側面にまで進み、「大西洋奴隷貿易」という経済活動の次元の解明へと拡大していった。

現実の歴史に戻ると、アメリカの独立でイギリスが新大陸で、帝国主義的支配を続ける関係は切断された。これによって、イギリスの資本家たちは急速に自由貿易へと転換した。そして、奇妙に聞こえるが、西インド諸島での奴隷制維持のため重商主義的手段で奴隷制を維持させる「独占」を批判するようになった。資本家が人間性や人間愛ではなく、貪欲から奴隷制反対へと転換したことになる。

アメリカ(独立)革命は、一方でアメリカの奴隷制に厳しい打撃を与えた。州が次々と奴隷貿易を廃止に動き、1790年代にはアメリカ(北部州)は奴隷取引を廃止した。北部諸州では奴隷制自体が廃止され、世界史上最初の廃止国となった。

自由となった黒人たちの社会が生まれ、彼ら自身が反奴隷制の政治リーダーになる動きが生まれた。「北部」the Northの形成であった。他方、「南部」the Southのプランテーション諸州も独立革命で揺り動かされた。

アメリカ独立革命( American Revolution): 18世紀後半の米国における13の英領植民地の反英国闘争から、戦争を経て統一国家を形成するまでの一連の動き:特に独立戦争(1775-83)を指すことがある。

奴隷制や奴隷貿易についての研究は、筆者の専門領域ではなかったが、カリブ海などへの関心は途絶えることがなく、OPEC, IBAなどに代表される開発途上国の天然資源輸出機構の成立と活動の実証研究などにしばらく引き寄せられた。

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石油産出国が自らの利益を擁護するため1960年に設立したOPEC(Organization of the Petroleum Exporting Countries)
石油輸出国機構は、世界に大きな衝撃を与えることになった。1970年代に2度発生したオイル・ショックは、世界経済に大きな衝撃をもたらした。石油にとどまらず、天然資源産出国の間にはOPECに触発された同様な機構が生まれ、筆者も調査団などで、OPECやIBAを調査のため訪れることになったInternational Bauxite Association:IBBA, 国際ボーキサイト連合。1974年結成。1994年解散。事務局はジャマイカのキングストンにあった)。
ジャマイカ関連記事(本ブログ内):
『ジャマイカ 楽園の腐敗』
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奴隷解放への紆余曲折 
こうした奴隷の解放に向かっての動きは、まもなく阻止されてしまう。一部はアメリカ革命それ自体によるものだった。イギリス、アメリカでの急速な経済発展によって、砂糖、ココア、そして何よりも木綿という奴隷労働が生み出す生産物への需要が拡大した。その結果、皮肉なことにアフリカ奴隷への需要が増加したのだ。

その結果、アメリカ革命から数10年して、北米、ハイチから人類史上初めての奴隷制を全廃する動きが生まれた。同時に反面で、ブラジル、キューバ、プエルトリコ、あるいはアメリカ南部に’’第二の奴隷制”ともいうべき奴隷制の大きな再現があった。

前回記した大西洋上で奴隷貿易を絶滅しようとの動きは、こうした矛盾した状況の下で生まれた。奴隷貿易の絶滅を企図する動きに抗して、なんとしてもそれを続ける動きが執拗に存続した。

奴隷貿易絶滅の動き
1794年と1800年に、アメリカ議会はアメリカの乗組員と船舶に、奴隷貿易に携わることは犯罪であることを明らかにした。1808年にはアメリカは全ての奴隷輸入を禁止した。1818年と1820年にはアメリカは全ての奴隷輸入を死刑に関わる海賊行為とした。結果として、違反は稀となったが、それでも奴隷とされたアフリカ人がアメリカに密輸されることは絶えなかった。

密貿易を支えるため、当時のアメリカの造船業は羨望の的だった。例えば、バルティモア クリッパーズという名で知られた帆船は奴隷搬送に適しており、大西洋の奴隷貿易を独占するまでになった。そしてそこにはいつも違法な航海をするアメリカ人の船長、乗務員がいた。彼らが航海するアメリカ、アフリカ、そしてブラジル、カリビアンのプランテーションの三角形を構成する一部の海路は合法だった。

こうした中、フランスは1830年代には本気で奴隷貿易を違法とし、取り締まりを始めた。数年後にはポルトガルはイギリスのように奴隷貿易の廃止に乗り出した。

このように、奴隷貿易の非人道性と非合法性が認識されたにも関わらず、それはなかなか根絶できなかった。イギリスが関わる協定に署名することを忌避するアメリカは、国家的利害と面目から奴隷貿易廃止の協定に署名することに不本意だった。

18世紀のほとんどを通じて新大陸での奴隷制と奴隷貿易で生まれた富は、イギリス産業革命の初期を支えた重要な資金源だった。1850年代以前では、ほとんどの不合理な奴隷貿易に関わる船舶はスペイン、ポルトガル、ブラジル国旗を掲げていた。

奴隷船の所有者の大半は拿捕されても処罰されなかったと言われる。一つの側面として、キューバとブラジル向けの奴隷貿易は繁盛していた。しかし、アメリカ行きは次第に困難になっていた。

リンカーン大統領の決断
かくして、全てが変わったのは、1861年に共和党の大統領が誕生し、上下院双方も掌握した時だった。リンカーン大統領は政権に着くやすぐにイギリスと奴隷貿易の禁止協定を締結、1862年に上院は直ちに承認した。これと同様に重要だったのは、奴隷貿易に携わった者への厳格な処刑だった。とくにニューヨークに重点が置かれた。最も注目を集めたのは、前回記した10年以上奴隷貿易に従事した商人ゴードンの処刑だった。リンカーンは強い意思であらゆる嘆願を否定し、刑の実施に加担した。こうした中、ポルトガルの会社は解散し、アメリカの奴隷貿易介入は幕を下ろした。

大西洋奴隷貿易が姿を消すのはアメリカの1865年の奴隷解放、キューバで1886年、ブラジルで1888年に実現した奴隷制度廃止によってであった。

しかし、19世紀後半まで続いた黒人奴隷貿易は、1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止し、さらに1833年に奴隷制度を廃止したからといって、世界的な奴隷貿易や奴隷制度が終わったわけではなかった。イギリスは人道的立場を理由に他国の黒人奴隷貿易をも取り締まったが、 キューバ]と ブラジルの砂糖プランテーション、さらにアメリカ合衆国南部の綿花プランテーション向けの黒人奴隷供給は19世紀後半まで続き、それらは密貿易として行われたので、18世紀の奴隷貿易よりも悲惨な状態がとなった。大西洋奴隷貿易が姿を消すのはアメリカの1865年の奴隷解放、キューバで1886年、ブラジルで1888年に実現した奴隷制度廃止によってであった。
 
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今も続く闘い
アメリカの奴隷制度は、1865年12月に廃止されるまで約250年間存続した。その後今日まで150年を超える年月が経過した。しかし、その負の遺産は十分撤去されることなく今に至るまで消滅していない。1940年代から1960年代にかけて、広汎な公民権運動が展開し、多くの差別的法律や慣行が撤廃された。しかし、地域によっては白人優越主義が根強く残り、多くのアフリカ系アメリカ人にとっては、平等、公正、公平を求める闘いは今も続いている。

資本主義と奴隷制の関係に最近関心が再燃しているのは、その事実を直視し、根源を再認識する必要に人々が気づき始めているからだろう。


 References:
John Harris, The Last Slave Ship:New York and the End of the Middle Passage, Yale University Press,2021.
Erick Williams, Capitalism and Slavery, Third Edition, (1944)1994、2021,
Chapel Hill, University of North Carolina Press.

終わり

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