時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

人生を支える絵画に出会う(2)

2021年06月20日 | 書棚の片隅から
人生の途上で読んだ一冊の書籍が、その後の人生のあり方を変えたということは耳にしたことがある。しかし、一枚の絵画に出会ったことで、人生が大きく変わったという人はどれだけいるだろうか。

ひとつ例を挙げてみよう。
絵画が制作の対象とするものは、具象、抽象、実に様々だが、政治・経済などを主題としたものがあるだろうか。皆さんは何か思いつかれるでしょうか。



この画像は筆者の本棚にあった一冊である。この表紙に採用されている絵画の出所はなんでしょう。実は、これは前回取り上げたシエナ派の画家の手になる作品のひとつである。それがお分かりの方はかなりの’イタリア美術史’通といって良いでしょう。前回の記事 Hisham Matar, A Month in Siena でも取り上げられています(Matar, pp.35-47)。

画家の名前は、Ambrogio Lorenzett アンブロージョ・ロレンツェッティ、製作年は1338~1339年頃、フレスコ画 [7.7 x 14.4m (room)]であり、シエナのPalazzo Pubblico、より正確には Sala dei Nove (“Salon of Nine”)、シエナの9人の評議員たちが務める council hall(市議会ホール)の壁画として描かれた。壁画は彼ら9人が行う決定が、いかなる重みを持つかを想起させることを意図して製作されたと考えられており、画家ロレンツェッティの疑いない傑作と高く評価されています。

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N.B.
このフレスコ画が意図したものは、自治都市国家について、「良い政府と悪い政府の寓話とその影響」 The Allegory of Good and Bad Government を描くことにあったと推定されている。このシリーズは下記の6つの異なった場面から構成されているが、タイトルは現代的視点から後年につけられたものである。
良い政府の寓意
悪い政府の寓意
都市における悪い政府の結果
農村における悪い政府の結果
都市における良い政府の成果
農村における良い政府の成果
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アンブロージョ・ロレンツェッティは、シエナ派のイタリア人画家だった。彼はおよそ1317年から1348年まで活動していたことが判明している。1327年の時点ではフィレンツェで画家や顔料職人のギルド「Artedei Medici e Speziali」のメンバーとして仕事をしていたものの、その後はシエナ派の画家として知られていた。シエナにあった絵画学校は、13世紀から15世紀にかけてフィレンツェに匹敵する内容であったと言われていた。アンブロージョ・ロレンツェッティは1348年にペストで亡くなっている。

この時代、自治都市は互いに覇権を競い合う状況にあり、皇帝派(ギベリン)か教皇派(ゲルフ)のいずれかを旗印としていた。フィレンツェは前者、シエナは後者の雄として互いに争っていた。

市民代表の合議制によって都市を運営するにあたり、彼らはその成功例を共和政ローマ、古代ギリシャのポリス市民社会に求めていた。そうした思想が作品の根底に色濃く流れている。

良い政府の寓話


Ambrogio Lorenzetti, Allegory of Good Government, Palazzo Pubblico, Siena, 1338-40

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N.B.
ローレンツェッティの作品は、ほとんど残っていない。彼の最も初期の既知の作品は、1319年に描かれたマドンナと子供だった。上掲のSala dei Noveの壁のフレスコ画に加えて、彼の他の作品には、サンフランチェスコのフレスコ画が含まれている。トゥールーズの聖ルイの調査(1329)、1332年からのサンプロコロの祭壇画、聖ニコラスとプロキュラスのマドンナと子供、ボンベイのフランシスコ会の殉教/(1336)と題されたサンフランチェスコの別の祭壇画、サンタペトロニラの祭壇画、1342年からシエナ大聖堂のサンクレシェンツォの祭壇などの依頼があったようだ。

それらはシエナの歴史の保存・継承において重要な作品であり、鋭敏な政治的および道徳的観察者としてのこの画家の特徴を示している。

とりわけ、1337年から1339年にかけて描かれた上掲のフレスコ画は、共和国の統治における寓話的な美徳の持ち主である人物の世俗的な表現とみられる。よく統治された都市と農村の他に、悪しき統治をされた都市、農村の状況を描いた
フレスコ画が今日まで継承されている。後者は外壁に面していたなど偶々劣化がより進みやすい壁面に描かれたらしい。意図して劣悪に描かれたわけではないといわれている。

これらの今に残る作品の中で、善政の寓話は、シエナの安定した共和政の価値についての強い社会的メッセージを伝えている。それは、世俗的な生活の要素を、当時の都市における宗教の重要性への言及と組み合わせて描いたものとみられる。

善と悪の政府シリーズの寓話と影響》は市民グループである Sala dei Novo(市議会)から完全に委託された。当時のほとんどの芸術とは異なり、主題は宗教的ではなく市民的な意味を持っている。

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このPalazzo Pubblicoに描かれたフレスコ画は、14世紀のトスカーナの理想であり、偶然にも、当時の日常生活と習慣について、思いがけずも正確な描写を現代にまで伝えていることができているようだ。作品についての学術的研究は大変多く、かなりの数にのぼる。

この壮大な意図を持ったフレスコ画作品の目的と考えられるのは、1355年までシエナで権力を保持していたゲルフ(教皇派)であった政府の政治的信条を高めることにあったと思われる。

自治都市(コムーネ)の良き政府の寓話的な表現では、繁栄している市民が通りで交易と踊りをしている光景が、城壁の向こうには、農作物が収穫される緑豊かな田園地帯が描かれている。

他方、悪い政府についての寓話では、犯罪が蔓延しており、病気の市民が崩壊しつつある都市を歩き回っており、農村は旱魃に苦しむ光景が描かれている。

良い政府の寓話

Sala dei Noveに描かれた良い政府の寓話、シエナのフレスコ画(部分)

アンブロージョ・ロレンツェッティは、シエナ市議会ホール Palazzo Pubblicoの議会室Council Room (Sala dei Nove)の壁に、これらのフレスコ画を描いた。主題は善(良)・悪の政府とその市及び農村への影響だった。

良い政府の寓話は窓側とは反対の小さな壁に描かれている。その構成は3つの水平な層で出来ている。最前面には当時のシエナと思われる人々が描かれている。その後ろのステージには良き政府を代表する寓意的な人物が二つのグループに分かれて描かれている。二つのグループは評議員たちの行列につながっている。上方の層は様々な身体無き徳が浮遊している天空の領域と思われる。

真ん中の層の右側で王座に就いている人物はシエナの市を代表すると見られる。彼の頭上にはCSCV (Commune Saenorum Civitatis Virginis)の文字は人物のアイデンティを説明している。足元に描かれている二人の子供は、レムスの息子であるアスシウスとセニウスで、ローマの伝説によるシエナの創設者であると思われる。シエナの両側には善き政府の徳が6人の厳かな女性として描かれている。平和、不屈の強さ、賢明さは、左側に、寛大さ、中庸、正義は右側に位置している。フレスコ画の左側遠くには正義を代表する女性が再び描かれ、賢明さによって支えられる秤で均衡を図っている。

この作品に魅せられた人々
これまでの歴史において、このフレスコ画に影響を受けた人々はきわめて多いと考えられる。画題と細部の解釈については、今日でもさまざまな見解が示されている。

実は、ブログ筆者の半世紀近くにわたる
オーストリアの友人も、これらの作品に出会い、大きく人生のあり方を変えた。それまでは現代経済の先端分野で、立派な業績を残して来たが、50歳に近いある日突然それらを全て放棄し、イタリア語を学び、この時代の社会経済史学に転換、大学研究所長を経て名だたる研究者になった。絵画作品の持つ力の偉大さを感じさせられる。

かつて訪れたシエナで、このフレスコ画の含意の説明を受けた時、絵画がこうした対象まで描きうることに感動すると共に、日本とは隔絶した政治、文化の有り様は今日まで深く脳裏に刻み込まれていた。






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​人生を支える絵画に出会う(1)

2021年06月14日 | 書棚の片隅から



 Matar, Hisham マタール、ヒシャーム*1という作家をご存知だろうか。あるいはDuccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ*2 という画家は?

 Quizというわけではない。海外ではそれぞれの分野でかなり知られている。しかし、日本では一部の人々を別にすれば、ほとんど馴染みがない名前だろう。
 
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N.B.
*1
ヒシャーム マタール,Hisham Matar,作家。
1970年、ニューヨークでリビア人の両親の間に生まれる。幼少年期をトリポリ、カイロで過ごす。1986年以降、イギリス在住。2006年、In the Country of Men (邦訳『リビアの小さな赤い実』金原瑞人・野沢佳織訳、ポプラ社、2006年)で小説家としてデビュー。自伝的要素の色濃い作品は高い評価を受け、ブッカー賞の最終候補にノミネートされたほか、英国王立文学協会賞など、数々の賞を受けた。

続いて、リビアのカダフィ政権崩壊後に発表したThe Return. In the Country of Men (邦訳『帰還―父と息子を分かつ国』金原瑞人・野沢佳織訳、人文書院、2018年)はさらに高い評価を受けることになった。
『帰還』は、2017年のピューリッツァー賞(伝記部門)ほか、数多くの文学賞を受賞した。バラク・オバマ、C・アディーチェ、カズオ・イシグロなどの著名人が絶賛する世界的ベストセラーとなった。

 1018年7月には、オバマ前米大統領が、退任後初のアフリカ旅行を前に、「この夏、お薦めの本」の一冊にあげて、話題になった。ナイジェリア出身の女性作家、チママンダ・アディーチェは本作について、「心を動かされ、涙した。愛と故郷について教えられた」と述べ、英国の作家カズオ・イシグロも「引き裂かれた家族をめぐる、不屈の精神に貫かれた感動的な回想録」と称賛している。[以上、上掲書PR文などから]


*2
Duccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(ca1255/1260〜ca 1319)は中世ゴシック期のイタリアの画家、13世紀末から14世紀初頭、シエナ(イタリア共和国トスカーナ州中部の都市)で活動した。

シエーナあるいはシエナはフィレンツェからさほど離れていないが、独立精神が強い。とりわけ美術の面に見られる。この画家は、13〜15世紀に発展した美術史上の「シエナ派」Siena school の祖ともいわれる。ちなみにSienaの現地発音は「スィエーナ」に近い。

ドウッチョは、ゴシックとルネサンスの橋渡しをした西洋絵画史上重要な画家の一人として知られる。
「シエナ派」は、グイド・ダ・シエナ(13世紀後半に活動)を先駆者として、ビザンティン美術の影響を受けたドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャが偉大な画家として登場した。彼がシエーナ大聖堂のために製作した巨大な多翼祭壇画《荘厳の聖母》は、今ではかなり散逸しているが、色彩にこめられた新しい感性、洗練された線描、物語表現などの面で、ビザンティン美術の伝統を刷新したものを継承している。さらに彼の影響を受けたシモーネ・マルティーニ、ドメニコ、タッデオ・ディ・バルトーロ、サセッタ、マッテオ・ディ・ジョヴァンニなどが活躍した。
 
シエナ派のなかでは、ジョットから多くを学んだピエトロ・ロレンツェティ、アンブロージョ・ロレンツェッティの兄弟などが知られている。
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シエナで1か月を過ごすまで
さて、今回取り上げるのは、現代の作家ヒシャム・マタールの手になる下掲の新著である:
 
Hisham Matar, A Month in Siena, Penguin Books, 2019 、(邦訳なし、表題仮訳『シエーナで過ごした1か月』)

小著ながら、作者の自伝的前作を継承する大変印象深い作品である。ブログ筆者が取り上げたのは、前著『帰還―父と息子を分かつ国』を読み、感動したことによる。

ヒシャム・マタールは19歳の時、ロンドンでの学生時代を過ごしていた。当時ガダフィ体制への反抗者であった父親は、カイロで誘拐され、リビアへ連れ戻されて投獄され、「水に塩が溶けるように消し去られた」。ここに至るまでの家族の人生遍歴は凄まじいとしか言いようがない。このトラウマのような体験の影がこの新著にも色濃く反映されている。

マタールはロンドン在住時から13〜15世紀イタリアのシエナ派の作品に魅せられてきた。彼が最初その作品に出会ったのは、ロンドンのナショナル・ギャラリーであった。マタールは昼食時にギャラリーを訪れていた。そして一枚の絵画にほとんど一時間を費やしていた。なんと彼の父親は、この時に誘拐されていた。「絵は見ていない時に変わる。思いがけない方角に」。

時が過ぎ、かつては建築学専攻だったマタールは、シエナ派の作品のシンメトリカルな形、キリスト教のシンボリズムに魅惑されていた。そして、かねてからの願望達成のため、シェナに1か月ほど滞在し、美術と都市を実体験するためにやってきた。しかし、彼は前著に記した体験に強くとらわれていることに気づく。ここから人生の新しい次元へ脱却、移行できるのだろうか。

シエナはフィレンツエから遠くはないが、芸術、とりわけ美術の領域では独立精神が強い都市である。13-15世紀に発展した「シエナ派」の拠点として知られている。ブログ筆者も二度訪れたが、中世の姿をそのままに残す美しい町だった。



吸引力は美術館
マタールが魅了されていたのは、シエナ派の著名画家ドウッチョの『受胎告知』The Annunciation や『盲目で生まれた男の治癒』などの作品だった。マタールは「色彩、微妙なパターン、そしてこれらの作品の時間が停止したドラマが自分のために必要なのだと考えていた」。

 
Duccio, The Healing of the Man Born Blind, Tempera on wood, 45.1 x 46.7 cm, 1311, National Gallery, London
ドウッチョ《盲目に生まれた男の治癒》

このドウッチョの作品を見ても、色彩の明るさ、線描の洗練、堅実な物語表現などの点で、ビザンティン風を刷新するものが感じられる。画面中央、キリストに見えない目を拭われた杖をついた男は、右側の泉で目を洗い見えるようになり、杖を捨てている。絵の構成は稚拙とも言えるが、時間を止めたこの奇蹟の表現は当時の人々には分かりやすい。

マタールがシェーナで1か月を過ごすことを決めた最大の理由は、美術館であった。毎日出かけては長い時間を一部屋で過ごす。それに気づいた美術館スタッフが折り畳み椅子を持ってきてくれるまでになる。最初は断ったが、まもなくそれが有用なことが分かる。

美術館を訪れた後は旧市街城壁まで行き、ひとつの町としての存在を確かめる。旧市街は「シエナ歴史地区」として世界遺産に登録されている。建築学専攻だけに、その描写は細部に入り巧みだ。

小著だが、随所に著者がシエナへ到るまでの旅で出会い、心を打たれた絵画作品のイメージが挿入されており、コロナ禍の重苦しい夏に楽しみながら、疲れた心のセラピーとして読むにもふさわしい。ちなみに、1348年、シエナは黒死病の流行で打撃を受けている。新型コロナウイルスの感染に苦悩する現代世界と重なるところがある。

最後のページに挿入されているのは、マタールが仕事でロンドンからニューヨークへ飛び、後から合流した妻ダイアナと共に、滞在中毎週のように訪れていたというメトロポリタン美術館所蔵のジョバンニ・ディ・パオロ《パラダイス》(1445年)のテンペラ画である。



Giovanni di Paolo,(Giovanni di Paolo di Grazia) (Italian, Siena 1398–1482 Siena), Paradise, Tempera and gold on canvas, 1445
ジョヴァンニ・ディ・パオロ《パラダイス》1445年

この作品はメトロポリタンが所蔵する《パラダイスの創造と追放》と併せてシエーナのサン・ドメニコ教会にあった祭壇画のベース(predella)を構成していた。この二つの作品は画家の最傑作に位置付けられている。画家はフィレンツェで見たフラ・アンジェリコの作品に強い影響を受けたが、そのフィレンツッェ様式は斥け、架空の上掲のようなタペストリー様式を採用した。

美術作品には、しばしばそれを見る人々の心の内に入り込み、傷ついた心を癒やしたり、時には人生の方向まで変える力がある。シエナへの旅がマタールの創作活動にいかなる変化をもたらしただろうか。マタールがニューヨークであった友人夫妻(夫は大学教授、妻は成功した弁護士)は外見だけを見れば、人生での成功者であるかに映る。しかし、彼らが述懐するように、内面的にはさまざまな苦悩、不満、願望などを抱えている。取り上げる絵画が14-15世紀イタリアの作品であろうとも、現代人に与える多くのものを内在している。多くの不安に満ちた時代にあって、いかにすれば人生を豊かに生きる作品に出会えるか。
この小著の先には何が待っているのだろうか。楽しみにその時を待ちたい。




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ある晴れた日に: 東京湾沖合へ出る

2021年06月09日 | 特別トピックス

梅雨入り前、快晴のある日、東京湾上へ出る。かねて遺言書に記載されていた友人夫妻の希望により、海上での散骨の式を執り行うためである。妻はすでに数年前に世を去っていて遺骨として保管されてきた。夫はコロナ禍の初期に別の病いで死亡したが、コロナウイルスの感染予防のため遺言が実行できずにいた。今春になり、新型コロナウイルス対策としてのワクチン接種も実効性が期待できるまでになり、ようやく実行可能になった。



参加者総数30人くらい、晴海の埠頭から沖合へ向かう。空も海も青く、気温は28度近く真夏を思わせるほどだが、甲板に吹く風は爽やかで心地よい。

船はひたすら白波を立てて東京湾沖合へと向かう。散骨が許可されている地点までは一時間近くかかる。あたりの沿岸は工場や高層マンションが立錐の余地がないくらい立ち並んでいる。ガントリー・クレーンが立ち並ぶ地域もある。近くの羽田空港から発着する航空機が、はっきりと確認できるような低空で行き交う光景を見ることができる。洋上はるか遠くには、かなりの大型船が航行しているのもはっきり分かる。



一時間近く海上を航行した後、しばらく停船し、散骨の儀式が執り行われた。夫妻共に弁護士として、社会的弱者と言われる人たちの地位改善のためにその一生を捧げた生涯だった。二人共に死後の遺骨の取り扱いにはほとんど固執していなかった。海上での散骨は夫の遺言に記されていた。生前、本人も時々口にしていたことだった。

高齢化、新型コロナウイルスの感染拡大が続くこの頃では、こうした葬祭の形も増えているようだ。





晴天に恵まれ、波も静かで、船は散骨の地点を旋回して帰路に着いた。広々とした海上の空気にも助けられて、参加者の雰囲気も爽やかに感じられた。

東京オリンピックの招聘・歓迎マークに出会ったが、心なしか華やかさを欠いていた。散骨の形での葬祭は、海上ばかりでなく、陸上でも構想、実施されているが、終活のひとつの形が現実味を帯びて迫ってきた。大海原に戻るのも良いかもしれないという思いが強まってきた。








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