ジャック・カロの肖像
Lucas Vorsterman, after sir Anthony van Dyck,
Portrait of Jacques Callot
さまざまなメディアが発達した現代では、世界の貧富の格差、実態などについては、努力次第でかなりのことまで知ることができる。統計のみならず、実態調査を映像で確認することも可能だ。
他方、ラ・トゥールやフェルメールが生きた17世紀、ヨーロッパの人々の生活実態、格差はいったいどんな状況であったのだろうか。そして、どのようにイメージされていたのだろうか。写真やTV、インターネットなどがなかった時代でもあり、旅行するのも容易ではなく、同時代の人々がその貧富や階層化の実態を知り、概略を理解することは困難をきわめた。現代人の観点からすれば、今日まで継承されているさまざまな記録遺産(公文書を含むさまざまな文書、絵画、衣食住にかかわる遺産など)の類から、当時を想像するしかない。タイム・マシンがないかぎり、時空を超えて、17世紀のヨーロッパへ飛ぶことはできないからだ。
この情報伝達のメディアとして、当時から大きな役割を果たしていたのは、画家が精密に描いた作品であった。いわば現代の記録写真に相当する。とりわけ、印刷という技術が使用できる場合には、一枚の作品を多数印刷して、流布させるという方法が大きな影響力を持ちうる。
17世紀になると、版画、とりわけ銅版画の技術が大きく進歩した。もちろん、一枚の油彩画が見る人に与える影響力という点では、版画は迫力において劣るかもしれない。しかし、一定の情報を多くの人々に伝えるという点では、版画は格別の力を持っている。実際、管理人がとりわけ好んで見てきたジャック・カロの作品は彼の生涯を通して、ヨーロッパ中で評判になり、人気があった。17世紀イタリアおよびフランスの著名な美術評論家フロレンティン・フィリッポ・バルディヌッチとアンドレ・フェリビアンの二人が、カロの画家としての力量を高く評価もしていた。
ラ・トゥールと同時代・同郷
このブログにもたびたび登場させているジャック・カロJacques Callot(1592-1635)という版画家について、再び考えたい。日本ではあまり知られていないが、欧米諸国では近年再び関心が高まっている。あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同じロレーヌ出身、生年も一年違い(ラ・トゥールは1年後)である。発見された史料によると、二人が出会った可能性はかなり高い。ラ・トゥールの生地ヴィック・シュル・セイユとナンシーは目と鼻の先の距離である。カロはナンシーとフィレンツェに長らく住んだ。ラ・トゥール、カロ、共にこの時代を知るには欠かすことのできない画家だ。
カロは、ラ・トゥールが夢見たが、行けなかったかもしれないイタリアに強く憧れ、ナンシーを離れ、ローマやフィレンツェで画業生活も送った。その後、故郷ナンシーへ戻った。バロックの1600年代、ナンシーはエッチングの中心地であった。ジャック・ベランジュ、ジャック・カロ、アブラアム・ボスなどがよく知られている。
カロの生涯は、43年という決して長いものではなかったが、その間実に1400枚近い銅版画を精力的に制作した。レンブラントやゴヤなどの巨匠も、大きな影響を受けた。カロはヨーロッパの各地を旅し、選んだ題材もきわめて幅広く、宮廷生活、祝祭劇、パレード、そして当時のヨーロッパをかき乱した悲惨な戦争の実態、軍隊や戦闘の状況、さらには社会の底辺に生きるさまざまな貧困者たちの姿など、驚くほど多方面にわたった。描かれた対象の中には、道化師やさまざまな奇怪な装いの人物?も登場する。
17世紀、ヨーロッパ社会の成員の3分の2近くが農民であった。領主たちや宮廷に出入りする貴族たちと対極に位置していたさまざまな貧民層の姿は、カロに優雅さと憐憫を同時に持たせたのかもしれない。しかし、カロが若いころから父親のように貴族の道を選ばなかったことは、社会の底辺に生きる人々への同情、愛があったように思われる。シリーズ『戦争の悲惨』も、時代のあらゆる場面を描いて残したいというこの画家の思いが感じられる。画家の力をもってしても、いかんともしがたい悲惨、残虐な現実。その実態を克明に描いて、世の中に知らせたいという考えが働いていたのかもしれない。現代社会の最大の病弊のひとつである階級の断絶、限界化 marginalization は、すでにこの時代に歴然と進行していた。その一端はアウトサイダー化した人々の存在という意味ですでにブログに記したこともある。
二つの階級
ジャック・カロ『二人の女性のプロフィール』
Deux femmes de profil, Caprice, 1617
Etching 57 x 77cm
Saint Louis Art Museum
才能溢れた画家
カロの銅版画家としての優れた技量は、銅版画史上に大きな革新と遺産を残し、ほとんどそのままに今日まで継承されてきている。現代の版画は素材も色彩もさまざまで、油彩、水彩などの技法にひけをとらない。しかし、カロの時代は濃淡のある黒色が中心であった。カロの作品の規模も大小、多岐にわたるが、『ブレダの占領』 The Siege of Breda などは高さも1m以上ある大きな作品である。しかし、克明に彫り込まれ、細部は拡大鏡が必要なほどだ。もしかすると、同時代のイタリア人天文学者ガリレオ・ガリレイが制作したレンズのことを知っていたのかもしれない。
近年、カロの作品への関心は世界的に高まっている。ラ・トゥールなどと違って、生涯の記録がかなり残っており、これまで不明であった部分もかなり判明してきた。カロの残した膨大な作品群を通して、17世紀ヨーロッパの新たなイメージを作り上げることが可能になってきている。今回は、当時の社会階層を思い浮かべることができる一連の作品を取り上げた最新の企画展『プリンセスと貧民たち』 Princes & Paupers* に展示された作品を中心に、17世紀ヨーロッパへの旅を試みてみたい。
以前にも多少記したが、今回はこのたぐい稀な銅版画家の生い立ちについて、今日判明している最新の資料にも依拠して、その輪郭を追ってみよう。
貴族になりたくなかったカロ
ナンシーでカロの生まれた家は、ロレーヌ公シャルルIII世の時代に祖父が貴族に列せられ、父は宮廷式部官(紋章官) court herald の職に就いていた。親たちは当然カロを自分たちの地位と生活を最上のものと考え、息子のカロにもその道を強いた。
ナンシーは祝典、祭儀の盛んな都市であり、カロは父親とともに、1606年ロレーヌ公の息子アンリII世とマルゲリータ・ゴンザーガの結婚式、その2年後のシャルルIII世の盛大な葬儀も見ていたに違いない。こうした途上で、宮廷画家クロード・アンリエに出会い、息子のイズラエルとは生涯の友となった。イズラエルは後年ナンシーでカロの作品の発行者となる。
他方、カロは頑迷な父親との妥協として、1607年ナンシーの金細工・彫刻師のクロック Demenge Crocqの工房へ4年年期の徒弟入りする。クロックはロレーヌ公の装飾、貨幣のデザインなどを行っていた。そして1608-11年のある年、念願のローマへと旅発った。
17世紀最初の10年はローマは芸術の都であり、古代、ルネサンス美術を学ぶ所だった。銅版画技術のエングレーヴィングは当初北方、とりわけアントワープが印刷業の中心として繁栄していた。続いて、技術の流れはイタリア・ローマへと向かった。エッチング技術は17世紀初め、イタリアで開花した。
こうした中で、カロは銅版画親方のフィリップ・トマソンの工房へ入った。その後、テンペスタ Antonia Tempesta の工房へ移った。フィレンツェで最新の技法を修得したテンペスタはこの若い絵師に、大きな影響を与えたようだ。テンペスタはバロック・ローマとアントワープの架け橋のような役割を果たしていた。ローマで最初の銅版画師 peinter-graveur といわれるまでになったテンペスタは手広くエッチングの可能性を拡大し、斬新な作品を送り出した。生涯で何千といわれる作品を制作したテンペスタは、ローマにしっかりと根付いた印刷工房を運営していた。
テンペスタはイズラエル・アンリエとクロード・ドゥルエというふたりの優れた画家を雇っていた。カロはこのテンペスタ工房でエッチングの技法を修得したようだ。その後、1611年、カロはテンペスタと共に働くため、フィレンツェへ移った。メディチ家の保護の下、文化の花が開き、驚くべき数の美術家たちがヨーロッパ中から集まっていた。
そして、カロの時代も始まる。(続く)
長く書き過ぎました。そろそろ終わりにしなくては(笑)。
*
Princes and Paupers: The Art of Jacques Callot
The Museum of Fine Arts, Houston
January 31-May 5, 2013
いうまでもなく、この企画展タイトルは、アメリカが生んだ大作家マーク・トウェインの著名な作品The Prince and the Pauper 『プリンスと乞食』(1881)を思い起こさせる。