時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

世界の仕組みを理解する: 危機の時代の羅針盤作り

2021年01月27日 | 特別トピックス


Richard Haas, The World: A Brief Introduction
New York: Penguin Press, 2020       Cover


危機の時代に生きる
今世紀の初め頃から、世界はさまざまな天災、人災に脅かされることが多くなった。同時多発テロ、大震災、津波、地球温暖化、そして2020年の年初の頃から世界を脅かすことになったCovit-19のパンデミックなど、様々な危機的な事態が連続的に発生している。この時代が歴史上、「危機の時代」として後世に記憶されることはほとんど間違いない。

さらに幸にも新型コロナウイルスの世界的な感染が収束した後、いわゆる「コロナ後の世界」はいかなるものとなるだろうか、すでにおびただしい数の予測・ヴィジョンが提示されている。それも単なる占いのようなものから、世界の賢人ともいえる人々の将来構想のようなものまで、実に多種多様である。

それらのいくつかを読んでみた。それぞれが興味深いが、実際にそのような展開になるのか保証は全くない。このことは、新型コロナウイルスの世界的感染という危機の発生を誰も予測できなかったことからも明らかだ。さらに自然界と違って、人間は目前に不利な事象の発生が予想されると、それを避けるように行動する。そのため、予想とは違った結果が生まれることがある。

こうした不透明な状況の中で来るべき未来にいかに備えるか。極めて困難な課題ではあるが、現在の世界でそれぞれが立つ相対的な位置をできるだけ客観的に把握し、自らのあり方を確認することが求められる。

自分の力で考える
そのためには何を拠り所に求めればよいか。思考を整理し、構想するための手がかりをどこに求めたらよいか。世界に溢れている様々な予想や推測に翻弄されないためには、個人が自分の力で考え、思考、判断して自らの足元を見定めることが望ましい。これは、筆者が教育の現場に身を置いていた時、そしてこの小さなブログにおいても、基本的にとってきたスタンスでもある。

しかし、現実にはなかなか難しい注文である。こうした要請に答えるように書かれたのが、本書である。自分の力で考えるにしても、何らかの手がかりが必要になる。そのための骨組み作りに役立つと思われる。

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Richard Haas, The World: A Brief Interpretation, Penguin Press, New York, 2020

著者のHaasは、2003年から無党派の外交問題評議会の議長を務め、1989年から1993年までは、国家安全保障会議のメンバーとして ジョージ・G.W.ブッシュ大統領に助言し、さらに同大統領の下で、国務省の政策計画スタッフのディレクターも務めた。国家の国際的位置や役割に関する多くの著書を刊行している。こうした作品の著者としては、極めて適任な人物である。
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このブログが17 世紀の画家の世界から端を発し、第一次、第二次の世界大戦を経て、リーマンショック、そして今日のコロナウイルス・パンデミックの発生に至るまでの
「危機の時代」の様相を回顧・展望してきたのも、来るべきコロナ後の世界を見通す視点を確保するためでもあった。そのためには、かなりの情報量の蓄積も必要だった。ブログ記事の扱う範囲がかなり広範に及んだのもそのためであった。

グローバル・リテラシーの必要
本書を手に取るか否かは別として、この書籍が想定する現代世界を理解するための枠組み作りは、このブログでこれまで筆者が展開してきた考え方にきわめて近いことを記しておきたい。コロナ後の世界がいかなるものとなるか、予断を許すものではないが、他人頼りではなく自らの力で世界を作り上げている仕組みを考えることが必要になる。著者 Haasは、これからの時代に生きるには、世界がいかなる仕組みで動いているか、言い換えると、Global literacy グローバル・リテラシーが必要になると強調している。

本書の構成は次のような4部からなっている。

PART I: THE ESSENTIAL HISTORY
PART II: REGIONS OF THE WORLD
PART III: THE GLOBAL ERA
PART IV: ORDER AND DISORDER

最初の第一部は全編を貫く歴史軸の構成と説明になっている。今回は、この部分をやや詳しく説明しておこう。

歴史軸の起点は、17世紀の30年戦争に始まり、第一次世界大戦(1618-1914)までの期間として、設定される。

現代の国際システムのルーツは、17世紀に求められる。しばしば起きることだが、一つの時代から次の時代への移行の契機となるのは紛争、戦争であることが多い。この時期に起きた画期的な出来事は30年戦争だった。1618年に始まり政治的及び宗教的要素を含むものだった。主要なヨーロッパ諸国が関わり、領地と境界線をめぐって対立した。国境はさほど重要なものとはみなされず、大小の戦い、争いが頻繁に起きた。国境、領地の境界線の取り合いによる変更は絶えることがなかった。

30年戦争の終結はウエストファーリア条約によってもたらされた。この条約は現代の国際システムの基礎を構築した。ナポレオン戦争までは、比較的平和が続いた。

30年戦争を近代史を考える歴史軸の起点として設定することは、この小さなブログでも同じである。画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはまさにこの戦争の時期に生まれ、その禍中で活動した画家であった。

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ウエストファリア条約
1648年、30年戦争を集結させるため、ドイツとフランス、ドイツとスエーデンの間に締結された諸条約の総称。スイス・オランダの独立、カルヴァン派の承認、ドイツ諸領邦国家の主権確立がもたらされた。
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かくして、歴史の軸では、30年戦争から始まり、第一次世界大戦、第二次世界大戦の期間(1934-1945)、冷戦の時期(1945-1985)、第一次冷戦期から今日まで(1989-現在)の期間に便宜上時代区分がなされる。

本書はこうした歴史軸を設定した上で、続いて地球上の主要地域とを結ぶためにヨーロッパ、東アジア・太平洋地域、南アジア、中東、アフリカ、中南米の領域をベンチマークとして歴史軸上の各時期と交差させる。

続いて、グローバル化の時期を設定し、テロリズム、反テロリズム、核拡散、気候変動、移民、インターネッt、サイバースペース、サイバーセキュリティ、グローバルな健康、貿易・投資、通貨・金融政策などを展開させる。

そして、秩序と破綻の領域として、主権・自己決定・勢力バランス、合従・連衡、国際社会、戦争、リベラルな世界秩序、の概念領域を設定する。

本書の細部に踏み込むと、止めどなくなるので、これまでにしておきたい。いずれブログでも機会があれば、さらに立ち入ることにしよう。


web上では、すでに数多くの動画プレゼンテーションが見られるが、そのひとつをYoutube からお借りして掲載しておこう。



Virtual Meeting: "The World: A Brief Introduction" by Richard N. Haass







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長編を凌ぐ短編:『レンブラントの帽子』

2021年01月24日 | 書棚の片隅から


このところ偶然なのか、レンブラントについての小さな記事をいくつか目にした。そのひとつはこの大画家の大作『夜警』についての後世の加筆をめぐる真贋鑑定の問題、もうひとつは、『レンブラントの身震い』The Creativity Code(邦訳)と題されたAIの可能性に関する英国の数学者マーカス・デュ・ソートイの著作だ。それらについてここでは触れることはしない。

連想で思い出したのが、レンブラントを題材としたアメリカの小説家バーナード・マラマッド(1914-1986)の短編だった。画家の描いた帽子については、このブログでもジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「召使いの黄色の帽子」、フェルメールの『若い士官の帽子』などを記事として書いたことがある。

Bernard Malamud, Rembrandt’s Hat, New York: Farrar, Straus & Giroux
バーナード・マラマッド(小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳『レンブラントの帽子』、集英社、1975年;夏葉社、2010年) 
本書には「レンブラントの帽子」の他、「引き出しの中の人間」、「わが子に殺される」の2篇の他、「注解」、「レンブラントの帽子について」(荒川洋治解説)が収録されている。


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NB
マラマッドはソール・ベローやフィリップ・ロスと並び、20世紀、同時代のユダヤ人作家である。この小説家を知ったのは、筆者が大学院生だった頃出会ったユダヤ人の英文学者との交友を通じてであった。文学専攻ではない筆者にとっては、当時は単にそうした作家と作品があることを知っただけで、読む時間もなく、いずれ来るかもしれない余暇のために記憶されただけだった。長らくカリフォルニアの有名カレッジで教鞭をとっていたこの友人は、大変優れた文学者で交流を通して多くを学んだが、とりわけアメリカ社会におけるユダヤ系の置かれた特別な位置について、知らされたことが多かった。知性の点でも大変優れた人たちであったが、社会における少数派という特徴を守るために、血縁者の関係が強く保たれ、教育に極めて熱心だった。教育こそが自らの社会的少数派という劣位を挽回しうる最重要な要因と考えられていた。彼らの生活態度、思考様式をみていると、マラマッドの作品内容と重なることが多々あることに気付かされた。

マラマッドについては、その後かなりの年月が経過した時、多少時間が出来た折に、いくつかの作品を読んだ。この作家は慎重な制作態度で、多作ではなかった。今に残るのは小説8編、短編小説54編といわれている。
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今回、手にした『レンブラントの帽子』は実は以前に読んだことがあった。今回、たまたま手元に残っていた邦訳を目にしたので、再度読んでみることにした。最初に表題を見た時に思い浮かべたのは、レンブラントの多数の自画像の中で、画家がかぶっているかなりフォーマルな広いつばのあるフォーマルな感じの帽子だった。この短編で想定されている白い帽子ではなかった。





ストーリーは簡単といえば、実にその通りだ。同じ大学に勤めるルービンという彫刻家と彼より一回り若い34歳の独身男で美術史を担当するアーキンという男の間に起きた小さな行き違い、いざこざがテーマだ。大学の教員や芸術家と言われる人間に、ともすれば見かける神経質で、偏狭な性格の男の間で起きた小さな問題だが、二人にとっては始終頭から離れないような大きな問題の顛末である。

これまで、二人の関係は仲が良いとはいえるが、友人というほどの間柄ではなかった。ある出来事をきっかけに二人の関係に波風が立つ。ある日ルービンが被っていた白い妙な帽子に、アーキンが「レンブラントの帽子そっくりですよ」と、美術史家としての蓄積の一端を口にしたことから始まった。

聞き流してしまえば、どうということのない日常の挨拶のような話なのだが、ルービンがなんと思ったか、やや厳しく受け取ったことで、二人の関係は、一転冷え込み、深刻なものとなった。この発言の後、二人の関係は両者の人格をかけたような重みを持つようになる。アーキンもなにかまずいことを言ってしまったかと、レンブラントの作品に描かれた帽子を再度調べてみると、どうも間違ったことを言ってしまったような思いがしてきていた。それにしても、どうしてこんなにこじれてしまったのか。ストーリーは主としてアーキンの思考を軸に、両者の微妙な感情的変化を描くことで展開する。

結末は思いがけない形でやってきた。(読まれる方の興をそがないようこれ以上は記さない。)

彼は白い帽子をかぶっていた。レンブラントの帽子に似ているように思えた、あの帽子だった。それをルービンは、あたかも挫折と希望の王冠のごとくかぶっていた。」(小島他訳、pp.28-29)

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再読して感じたのは、まさに短編のために熟慮を積み重ねられたプロットであるということだ。他愛のない話といえば、それで終わってしまうかもしれない。

小説家にとって短編はさまざまな意味を持つ。ほとんど短編しか書かない小説家もいる。短編は中編、長編の間のつなぎのような位置付けとするような作家もいる。さらに短編は中編・長編のいわば素描のようなエネルギーの投入で書かれていることもある。短編に作家としてのエネルギーのほとんどを費やす小説家もいる。ヘミングウエイなどは、短編であっても最初から短編を意図したわけではなく、結果として短編になったのではないかと思われる。

イギリスの小説家アンソニー・バージェスがマラマッドについて評したと伝えられる『アメリカのユダヤ人であることを忘れることがなく、アメリカの都市社会でユダヤ人であるという立場を採るときに最良である』との感想を改めて思い出した。この話の中には、大きく広がる社会性などは感じられない。しかし、限定された領域の中で、微妙に揺れ動く人間の感情が、質を低下させることなく、凝縮して描かれていると感じた。アメリカ文学の中で主流とはいえないが、自ら定めた確たる位置を守り抜いている作家だ。


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至福のひと時:戻ってきた19世紀の音

2021年01月19日 | 午後のティールーム
辻井伸行Xパリ《ショパンが舞い降りた夜》

辻井伸行さんのYoutubeを探索していると、興味深い1本に出会った。パリ市内セーヌ左岸の古いピアノ工房を辻井さんが訪れ、修復された19世紀のピアノに接し、弾くことを許された場面である。

            〜動画は中段に〜

最高の贈り物
いかに優れたピアニストとはいえ、現代のピアノとは異なる古楽器を初対面で、しかも視力の障害がある身で直ちに弾くことができるとは普通では考えられない。かなりの試行錯誤の上で、すでに体得している平易な曲などを弾くことになると考えるのが普通ではないだろうか。

驚いたことに、この稀有なピアニストは手探りで鍵盤に触れたかと思うと、いきなりショパンのバラードを弾き出したのだ。ピアノが置かれた工房の片隅には、このピアノの修復再現を行なったピアノ職人が腕組みをして眺めている。着古した作業衣にエプロンを着け、いかにも気難しそうな職人気質の雰囲気が漂っている。自分の手がけたピアノの難しさは誰よりも承知の上だ。簡単ではないぞという思いがその様子にうかがえる。

普通のピアニストならば、最初は鍵盤の位置や配列、オクターブの範囲など演奏に必要な仕組みを手探りで調べた上で、練習曲などを弾くのだろうと思うのが自然なことだ。職人は、お手並み拝見といった顔つきである。

しかし、辻井さんがそうした職人の思いなどまるで感じないかのように弾きだすと、職人は次第に魅入られたようにピアノの側に引き寄せられてゆく。これはただものではない(実際そうなのだが)という受け取り方が、その動きや表情に現れて大変興味深い。19世紀の音に満たされた室内、没我の境地だ。最初のバラードが終わった時、拍手を送り、「このピアノでバラードを弾いたのは辻井さんが最初だ、素晴らしかった」と、一転感嘆の表情で感想を述べる。

続いて、《ラ・カンパネラ》を弾きだすと、職人はピアノの側に寄り添い、辻井さんの華麗な指の運びを見つめるまでになる。職人は曲に合わせて首を振り、この贅沢な時を楽しんでいる。自分が復元、修理したピアノの潜在価値を引き出してくれたピアニストがついに現れたという喜びと驚嘆の表情が率直に現れている。さらに、辻井さんは自ら作曲した《セーヌ川のロンド》まで弾きこなし、これまでの修復努力に応えている。職人にとっては、多大な努力が実を結び、19世紀の音を誰よりも早く楽しむことができた、まさに至福の時と言える。この職人さんは人生でも極めて得難い時を得たのではないか。

Source: 工房の雰囲気を感じていただくために、以下の動画はYoutubeからお借りしました。



Nobuyuki Tsujii performs ballad and Campanella on a 19th century piano



セーヌ左岸のピアノ工房の話
この動画を見ながら、かつて読んだパリのピアノ工房についての一冊を思い出した。

パリに住むアメリカ人の作家がセーヌ左岸 on the rive gauche の引っ込んだ場所にあるピアノ修復工房との出会いと経験を描いている。この工房は頑固な職人気質で古いピアノを修理、復元し、限定した顧客に売ることをしている。しかし、その職人気質が一筋縄ではないのだ。
    
一見の客であるカーハートは最初、店に入れてもらえなかった。その後、別の顧客の紹介などもあって、職人のリュック Lucに快く迎えられる時がくる。工房にはあらゆるメーカー、年代物のピアノが置かれていた。

フェルトが積み上げられた閉ざされたかび臭い洞窟の奥に、蠱惑的に光り輝く中古ピアノの黄金郷があった。

スタインウエイ、プレイエル、ファツィオーリ、ベーゼンドルファー、シュティングル、ヤマハ、ベヒシュタイン、エラール・・・・・果ては中国製のピアノまで。

カーハートは工房に通い詰め、まもなくもっとも歓迎される顧客の一人となる。そして自分のアパートへ一台、買い入れる決心をするが、リュックは簡単にはこれがいいという推薦をしない。彼はピアノは家族の一員のようなものと考えている。

リュックのピアノへの信じ難いほどの愛と熱意に惹かれ、カーハートはピアノのレッスンを受け、ピアノの歴史についての知識を習得する。

ニューヨークのスタインウエイのショールームや工場、さらにはイタリアのファツィオーリまで出かけることになる。

カーハートはピアノが持つ深い魅力に引き込まれ、忘れかけていた音楽の歓びを取り戻してゆく。ピアノとはいかなる存在なのか。

職人のリュックにとって、ピアノは単なる楽器ではない。命が宿った家族の一員のような存在なのだ。カーハートはリュックとの単なる職人と顧客という関係を遥かに超えて、ピアノそして音楽について実に多くのことを学んでゆく。特に明確なストーリーがあるわけではない。しかし、ピアノが好きな人には、本書はまたとない読み物であり、いつも手元に置きたい一冊となるだろう

分野は異なるが、ブログ筆者は17世紀の画家の世界に始まり、絵画作品が生み出される工房(アトリエ)の世界に格別の関心を抱いてきた(工房に関するかなりの記事が含まれている。時には北イタリアの家具や衣服のアトリエまで出かけたこともあった)。

このような形で、19世紀のピアノが修復、復元される一齣を紹介できることを大変嬉しく思う。


THE PIANO SHOP ON THE LEFT BANK: The Hidden World of a Paris Atlier by T.E. Carhart (T.E. カーハート(村松潔訳)『パリ左岸のピアノ工房』新潮社、2001年)

日本語のタイトル、惜しむらくは『パリ・セーヌ左岸のピアノ工房』であったらと思う。



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心の赴くままに:コロナの嵐の中に響くピアノ

2021年01月13日 | 午後のティールーム

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新型コロナ・ウイルスの感染拡大で、生活スタイルは明らかに変わった。とりわけ緊急事態宣言が発出されてから在宅時間が長くなり、その過ごし方もいつの間にか変化している。

あまり自覚していなかったが、筆者にとって最も変わったのは、音楽が流れている時間が長くなったことである。調べ物や断捨離などの仕事をしている時間が多くなり、単調な環境を少しでも改善しようと、BGMとしても何かを聴いている時間が多くなった。

聴いている曲で最近増えているのはピアノ曲、ピアノ協奏曲が多い。古くはディヌ・リパッティ Dinu Lipatti (1917-1950)、ウラディミール・アシュケナージ Vladimir Davidovich Ashkenazy(1937年ー) 、マウリツィオ・ポリーニ Maurizio Pollini(1942ー)、マルタ・アルゲリッチ Maria Martha Argerich(1941年ー)など、そして最近ではでは辻井信行さんなどが多くなった。

ディヌ・リパッティ Dinu Lipatti 1917-1950 は長いお付き合いだった。しかし、今ではリパッティのことを知る世代も少なくなり、出番も少なくなった。リパッティはルーマニアのピアニストだが、33歳の若さで亡くなっている。病気はホジキンリンパ腫と言われる。このピアニストに魅せられるようになったのは、未だLP全盛の時であった。クリスタル・クリアと言おうか、清麗で透明感のある音色のピアノである。一回聴いただけで魅せられてしまった。純粋に徹し、この人だけが持つ洗練された演奏と思った。ショパンやモーツアルトなどを得意としたピアニストだが、ショパンのワルツ集は現在でも絶品とされている。ブザンソンの最後のリサイタルでは、演奏途中で体力が尽きたといわれているが、音楽に生命を賭けたピアニストには壮絶な感がある。

アシュケナージはかなり長く聴いている。活動範囲が広く、息の長いピアニスト、指揮者だ。元来ソ連のピアニスト、指揮者と思っていたが、今はアイスランド国籍でスイスに住んでいるようだ。父方はユダヤ系だが母方は非ユダヤ、ロシア人と言われる。確かH.G.ウエルズがユダヤ系はオクターブ感覚に優れ、音楽家として世界で活躍するトップ10人のうち7人はユダヤ系と記していた記憶がある。

アシュケナージは、ショパン・コンクールをきっかけに国際的な名声を確立した経緯もあってショパンの作品には精力的に取り組んでおり、その評価も高い。さらに、ラフマニアの作品に積極的に取り組んできた。このピアニストは派手なジェスチュアや演奏態度で聴き手を圧倒するというより、安定して美しい音楽的魅力を十二分に発揮してきたと思う。音楽史上、指折りのマエストロの名にふさわしい。さらに、指揮者としての貢献も大きい。辻井伸行さんの師とも言えるのだろう。引退を決意されたようで、大きな時代の終わりと思った。音楽史上も壮大な貢献と言えるだろう。

辻井伸行さんといえば、2009年、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したこの若きピアニストのCD、DVDも最近はかなり聴くようになった。Youtubeもかなり開くことが多くなった。アシュケナージが心がきれいだからと評するように、辻井さんの演奏は最初のタッチからこの人にしかない、音楽そのものが伝わってくる。ベートーヴェン ピアノソナタ第14番『月光」など、一瞬背筋が緊張したような気がした。このピアニストの脳裏には、どんな月の光が射しているのだろう。

辻井さんが学生時代を過ごした東京音楽大学附属高校の近くを年数回は通ることがある。雑司ヶ谷の墓地の近くである。歩いていると、ピアノやオケの音が聞こえてくることもある。上野学園大学の近くも一時はよく歩いていたが、この頃は出かけることはほとんどなくなった。

最近よく聴いたり見たりしているのは、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23、ワレリー・ゲルギエフ指揮、ピアノ辻井伸行によるマリインスキー劇場管弦楽団の演奏だ(上掲)。

ちなみに、このブルーレイ版には、下記の演奏も含まれている。
ラフマニノフ:プレリュード嬰ト短調作品32の12
辻井伸行:それでも、生きてゆく
チャイコフスキー:トロイカ
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 作品135
[ライヴ収録]
2012年7月8日、サンクト・ペテルブルグ
マリインスキー・コンサート・ホール

人生の終幕近く、心の奥底に響くような音楽を聴いていると、コロナの騒ぎもどこかへ消えてゆく。一時期、自分も何か楽器を演奏できればと思った時もあったが、その才能も練習する時間もなかった。いつも走っているような時期が多かった。ピアノも諦め、フルートも親友のフルート奏者K君に手ほどきを受けたが、成人気管支喘息を発症してからは、諦めてしまった。その友もはるか前に世を去ってしまった。リパッティや辻井伸行さんのピアノを聴いていると、自分が今どこにいるのかと思う時が増えてきた。


関連:
2021年1月16日NHKテレビ011
「フジコ・ヘミングさんが語るコロナ禍こそ音楽の力」
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近未来への予知能力を高める:クリストファー・イシャウッドの小説

2021年01月08日 | 書棚の片隅から


クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年


クリストファー・ウイリアム・ブラッドショー=イシャウッド(1904-1986)、この名前を知っている人はどれだけいるだろう。英文学史上では、第一級の小説家とは評価されていないかもしれない。没後20年近く経過し、作家のメモワールや800ページを越える大部の伝記*1は残るものの決して同時代のサマーセット・モームやトーマス・マンなどに比肩しうるとは思えない。しかし、ブログ筆者には心の底でどこかつながっている人物、小説家である。時々、記憶の奥底から浮かび上がってくる。そして、まだ自分も生まれてはいなかったが、あの時代、ナチス台頭直前のベルリン、不安な時代のイメージが頭をよぎる。

新型コロナウイルスの感染が世界的規模へと拡大した昨年、2020年、行きつけの書店の新刊書の棚で偶然出会った1冊がある*2。はるか昔に読んだ小説やそれを基に生まれたミュージカル 『キャバレー』Cabaret を見ていたことが脳細胞に残っていたのだ。自由な外出もままならず、社会全体が重い空気に覆われている時、歴史の追体験を期待して久しぶりに再度読んでみようかと手に取った。以前は英語だったが、今回は邦訳を選んだ。幸い達意の訳文であり、滞ることなく読み終えた。ちなみに訳者はD.H.ロレンス『チャタレー夫人の恋人』(光文社古典新訳文庫)、サマーセット・モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』(木村政則訳) 光文社古典新訳文庫)なども手がけられている。


*1 ISHERWOOD A Life Revealed, By Peter Parker, Illustrated, Random House, 2004, 815 pp


Christiopher and His Kind by Christopher Isherwood, Sylvester & Orphanos, n.a. 
イシャウッド自身によるメモワール

*2 クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年

作家になるまで
イシャウッドは1904年、イングランド北西部チェシャーで生まれた。ケンブリッジ大学やロンドン、キングズ・コレッジなどに入学するが、いずれも短期間で退学し、幼馴染の詩人W・H・オーデンの示唆を得て、1929年ベルリンへ移った。

この時代のベルリンは芸術・文化の花咲くヨーロッパ屈指の都市であったが、同時に裏面においてはあらゆる歓楽、退廃の文化が繰り広げられていることでも知られた悪徳、快楽そして犯罪に満ちた都市でもあった。イシャウッド自身も積極的にこの世界へ入り込んでいる。当時は社会的に認知されなかった同性愛者であることを特に秘匿していた訳ではなかった。大学を卒業していなかったが、後世の評価からすれば知識階層に属し、思想的には左翼であった。作家、劇作家、詩人などのグループに含まれ、作品はその経験に裏付けられたものである。

イシャウッドは自ら進んでベルリンの怪しげで不安な世界に没入するとともに、映画や文筆業にも積極的に手を染め、脚本や自伝的小説などで作家としての名声も獲得した。1939年に発表された”Goodbye to Berlin”『さらばベルリン』は、本書 “Mr. Norris Changes Trains”『いかさま師ノリス』(1935)の後に刊行された短編集である。これらの作品は後年 Berlin Stories という形で編集されている(ちなみに筆者はこれを読んでいた)。

ここに取り上げる『いかさま師ノリス』も、作家のベルリン時代の体験を背景にしたひとつのフィクションである。しかし、虚構は当時の時代環境を鋭く反映している。衰亡の色が日々強まるワイマール共和国の黄昏とナチスの台頭する1930年代初期のベルリンを描いた作品である。イシャウッド (イギリス人だが1946年アメリカに帰化) が自ら過ごしたベルリンでの生活(1929-33年)に基づいている*3

*3 イシャウッドが1929-1939年に住んだベルリン、シェーネベルグ 地区の家には記念銘版が残されている。

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時代背景
ナチス台頭前夜:ワイマール文化の黄昏
この小説の展開する舞台は、1930年末から1933年前半は、ドイツが共和制を採用していた時代の末期に当たり、しばしば「ワイマール共和国」と称される時代である。1919年6月、ドイツはヴェルサイユ条約を承認するが、その内容は海外領土放棄、軍備制限、異常に多額な賠償金を伴う報復的な内容を伴うもので、結果として国民の間に政府に対する不満を生み、ナチス台頭の要因となった。7月にはワイマール憲法が採択され、翌8月には公布された。
「ワイマール共和制」の下ではその理想とは離れて、民主主義が十分根付かなかった。さらに1929年には世界恐慌が始まり、ドイツ国内には深刻な社会的不安が引き起こされた。

この中で、「共産党」(1918年結成)と「国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)」(1919年「ドイツ労働者党」として結成 )の左右両勢力が激しく対立しながら、拡大していった。共産党は元来ドイツ労働党という極小政党に過ぎなかったが、1920年には党名を改め、21年にはヒトラーが党首となってから、急速に成長していった。1933年にはヒトラーが首相に就任、2月には国会議事堂放火事件が発生したが、ヒトラーの提言を受けて、緊急大統領令が発令され、共産党の非合法化など他政党の勢力が極度に抑圧された。3月にはヒトラーは全権委任法を定め、事実上ワイマール憲法は効力を失い、名実ともにワイマール共和国は消滅した。1934年にヒンデンブルグが他界したのを契機に、ヒトラーは総統の地位に就き、独裁者の地位を確保した。
Reference; イシャウッド(邦訳)
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『いかさま師ノリス』は熟達した訳文、そして読者に親切な年表などにも助けられて、読み進む上で支障はない。ストーリー自体は喜劇的、コメディ調であり、テンポの良い展開に押されて読み進んでしまう。しかし、次第に世馴れない主人公ウイリアムとともに、自分も切迫した恐るべき状況へ取り込まれてゆく感じが強まっていくことを感じる。青年ウイリアム・ブラッドショーは、イシャウッドの小説における身代わりの役割を負っているようだ。

作品ではウイリアムが冒頭から登場する。外国生活に憧れ、英語を教えて生計を立てている。ウイリアムはオランダからドイツへの列車の旅で乗り合わせたノリス氏という一見していかがわしいイギリス人中年男と時間潰しの会話をする。見るからに信頼し難い男なのだが、巧みに相手を話に取り込んでしまう能力がある。ウイリアムはノリスのそうした怪しさに半ば気づきながらも、単に列車でのいっときの相手にとどまらず、その後の日々で付き合うことになる。

ノリスはベルリンの影の社会に深く身を置き、この出会いの後、巧みにウイリアムを自らのいかがわしい暗黒な世界へと引き込んでゆく。次々と喜劇的な場面が登場する傍ら、怪しげでスパイ的なストーリーが絶え間なく展開する。

小説ではありながら、作者自らが刻々と迫る危機の時代に身を置いていることが、喜劇的描写を超えて来るべき破滅的な事態への突入を読者に感じさせる。ナチス台頭前夜の恐るべき日々が描かれている。次々と喜劇的なプロット展開を提示しながらも、次第に高まる説明しがたい恐怖の増加を感じさせる。

邦訳についてひとつ残念に思うのは表題にある。『いかさま師ノリス』ではノリスが最初からいかさまを働く人物であることが読者に刷り込まれてしまう。この作品で、列車の意味するところは大きい。原著はMr Norris Changes Trains であり、次々と相手や場所を変えながら、ノリスが次第に深みへとはまってゆく過程が重要なのだから。列車は最後まで重要な舞台装置となっている。タイトル Mr Norris Changes trains(仮訳『ノリスは列車を乗り換える』)は文字通りこの作品のテーマを暗示している。

おりしも、世界は新型コロナウイルスという見えざる脅威に翻弄されている。現代のように技術が高度に発達した社会においてもその世界的次元への感染拡大を予測することはできなかった。近未来の社会への感知能力を研ぎ澄ます上で、文学がノン・フィクションを凌ぐ可能性を持つことに注目したい。
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家庭に戻った仕事の意義を考える

2021年01月04日 | 労働の新次元
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18世紀の 家庭での紡糸作業と21世紀のホームワーク
Source:’Factories and families’ The Economist December 19th-January 1st 2021


新型コロナ・ウイルスが世界的に猛威をふるいだすとまもなく、多くの国でオフイスや工場の事務などの仕事がオンライン、テレワーク、リモートワークという形で家庭へと移行し始めた。変化は学校教育などの分野でも急速に展開した。これには、SlackやZoomなどのIT技術が大きな支えとなっている。

この変化はデジタル化路線の先取りのように評価される反面、コロナ・ウイルス感染が収束すれば以前のオフィス中心の路線にかなり戻ってゆく動きとも見られている。

18~19世紀でも家庭での労働は重要だった
英誌The Economistが興味深い指摘をしている。それを材料に少し考えてみる。1600年ごろから19世紀半ばにかけて産業革命の先端を切った英国では、怪獣BEHRMOTHに例えられる大工場への労働力の移動が進んだが、同時に家庭では靴下編み物やウールの紡ぎ、乳牛の搾乳などさまざまな仕事が行われていた。衣装から靴、さらにはマッチ箱まで、工場ではなく家庭の居間や物置の片隅で作られていた。

’Factories and families’ The Economist December 19th-January 1st 2021


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NB
18世紀イギリス繊維産業における家庭労働の断片

 
18世紀イギリス ヨークシャーで紡糸作業などをする家内労働者

The Jersey wheel として知られる家庭内紡糸機械

1776年、アダム・スミスが『国富論』で有名なピンの製造について記した時、彼の頭のなかには10人程度の小さな作業場がイメージされていたのではないかと思われる。当時勃興しつつあった巨大で悪魔的なイメージの工場ではなかった。

英国でも1800年代半ば頃までは使用に耐える統計はなかった。その意味では、この時期の実態は文学、美術その他からの印象も重要だ。『クリスマス キャロル』のスクルージは counting-house 会計室で働いていた。18世紀の家の多くは2階に大きな窓があり、ホームスパンなどの織布などの仕事は明るい光を取り入れて行われていた。

1900年頃、フランス政府は家庭生産で産業の主導権を取ろうとしていた。労働力の3分の1は家庭で働いていた。同じ頃デンマークではおよそ10分の1は家庭での生産に従事していた。アメリカでは1800年代初期には全労働力の40%以上が家庭で働いていた。
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家庭に基盤を置く産業の労働力 (at-home industrial workforce) の台頭には二つの理由がある。1600年頃からのグローバルな貿易の成長と個人所得の増加だ。ウール製品や時計への需要が増大した。しかし、台頭した技術は大規模工場よりは小規模な作業場に適していた。産業革命に力を与えたジェニー紡機が実用化されたのは1760年代以降だった。

19世紀後半、イギリス Coat’s of Paisley に雇われ働く児童労働者

この時に浮上したのは “putting-out system”(問屋制家内工業:商人から原材料の前貸しを受けた小生産者が自宅で加工を行う工業形態のこと)と言われた出来高ベースの仕事だった。労働者は原材料を受け取り、しばしば道具や機械類もデポから受け取った。それら家に持ち帰り、作業をし、製品の引き換えに、賃料を受け取った。労働者はいわば独立の契約者 independent contractorsであり、出来高払いで時間給ではなかった。

歴史家によると、このシステムでは労働者は容赦なくこき使われたという。機械と原材料を持つ者は権力を握っていた。劣悪な報酬、労働条件でも、嫌なら仕事などするなという状況だった。

事態を改善しようと労働組合が発展し始めたのは1850年代からだった。その効果も多少あって、工場制労働者は家庭労働者よりも10-20%高い賃金を受け取っていた。

工場システムへの支持と反抗
18世紀末からの工場システムの発展を評価する歴史家もいる。生産性と言う点では工場の方が高かった。しかし、工場制への反対もあった。19世紀、機械打ち壊しを目指すラッダイトへの参加もそのひとつだった。彼らは自分たちの仕事を奪うものとして機械を破壊した。

家庭の労働者は賃金は低かったが他の手段で埋め合わすこともできた。しばしば給付された原材料をうまく使って余剰を作り出した。家庭で働く労働者は自分の時間についても工場労働者よりも柔軟にコントロールができる。要求された質と量の仕事さえしていれば、後は仕事の仕方や時間には規制は受けない。労働と余暇のミックスを適切に設定できる。

19世紀の工場労働者
当時の工場労働者は一日12−14時間は働いていた。ハーヴァードの著名な歴史家デヴィッド・ランデス David Landesのような後世の経済史家がやや戯画化して言えば、18世紀の労働者は19世紀より短時間労働だった。日曜日の夜にしこたま酒を飲んで、月曜日は休みにし、火曜日はいやいや仕事をして、水曜日に体を温め、木曜日、金曜日は懸命に働き、土曜日は休みという働き方もあった。睡眠時間も長かった。

自律性を維持できることは母親にとっては特に重要だ。女性は子供のケアと家庭の所得の双方に寄与できる。

1920年、マックス・ウエーバーは労働者の仕事の場が彼らの家庭から切り離されることは「深い影響力を持つ」結果につながると述べた。工場は、家庭に基盤を置き仕事をする従来のシステムよりも効率的である。それと同時に工場労働では、労働者が自らの生活、人生をコントロールする力を失い、楽しみも失う場所が増えることを意味する。この考えにならうならば、今日のパンデミックが誘発した家庭への仕事の移行も同様に深い影響力を発揮するだろう。

参考:「時間」の長さの歴史
イギリス、週平均労働時間(実績)


Reference
モノクロ写真は下記文献から 
Anthony Burton, The Rise & Fall of King Cotton, Andre Deutsch, BBC, 1984
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