時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「最後の審判」:プランタンの祈願

2009年11月24日 | 絵のある部屋

Jacob de Backer(b.1555/60, Antwerpen, d.1585/90 Antwerpen)
The Last Judgement c.1580 Oil on panel, 140x105cm (center panel), 140x52cm(wings) O.-L.
Vrouwekathedraal, Antwerp


 クリストファー・プランタン、前回ブログで取り上げたアントウエルペン(今日のベルギー、アントワープ)を活動の拠点として、16世紀激動のヨーロッパを舞台に縦横に生き、名を成した一大印刷・出版業者である。貧しい農民の子から身を起こし、ある時は人違いといわれるが暴漢に襲われて、命にかかわるような大きな怪我を負ったりもした。カトリック信者であったが、一時は異端審問に付され、追求から逃れるためパリへ身を隠したこともあった。それにもかかわらず、終生アントワープを拠点として自ら目指した印刷・出版事業の拡大へ全力を尽くした。

 努力と強い精神力で、多くの苦難を切り抜け、成功した実業家であった。この16世紀の乱世を生き抜いた希有な人物が、その晩年に自分の死後や家族になにを望んでいたか。それが推測できれば、大変興味深い。気づいた点だけをメモ代わりに少し記したい。  

 プランタンの生きた時代は、ネーデルラント独立戦争の最中、聖俗双方の世界に関わる激しい戦いが続いていた。カトリック・スペインの支配下にあったアントワープで、プランタンは斬新な印刷技術の実用化に努め、単に印刷ばかりでなく、出版の世界でも瞠目する大きな成功を収めた。宗教的にはカトリック世界を背景に、「多国語対訳聖書」(ポリグロット・バイブル)を始めとして多くの書籍の印刷、販売を展開した。あのメルカトール図法の地図の販売も任せられていた。

 プランタンの強い進取の気性と行動力は、ローマ教皇庁やスペイン・フェリペ二世などの支援を取り付ける傍ら、スペイン支配から独立を志すユトレヒト同盟の仕事も引き受けるという、したたかな仕事を支えた。
そして1589年に死去するまで、アントワープで仕事を続け、印刷・出版の事業で大きな成果を残した。

 名声と成功の双方を手にした実業家が、晩年を迎えて考えたことは、アントワープの教会への宗教画の寄進だった。当時の成功した市民の間で見られたひとつの慣わしだった。カトリック教徒であったプランタンが考えた画題は、「最後の審判」The Last Judgementであった。祭壇画の制作を依頼した画家は、当時のアントワープですでに著名になっていた若手のヤーコブ・デ・バッカー Jacob de Backerだった。

 制作された作品は、プランタンの死後、教会祭壇に飾られる予定だったとみられる。3連から成る祭壇画の中心部分は、1589年のプランタンの死の前に完成していたとみられる。ただし、作品の両翼の部分は、恐らくプランタンの死後、寄進者の生前の意を体して別の画家によって追加されたのではないかと考えられている。ちなみにバッカーは大変売れっ子の画家であったようで、過労の故か30歳という若さで世を去っている。 

 作品「最後の審判」の場で、キリストは中心の雲の上に描かれている。周囲には多数の聖人が描かれているのが分かる。左の部分には、青色の服のマリアと赤色の服のヨハネ、右側には石版を持ったモーゼが描かれている。キリストの足下にはトランペットを吹く天使など、エヴァンジェリストの象徴が描かれている。さらに天国へ導かれる者と退けられる者が描かれている。 

 寄進者のプランタンは左翼パネルに描かれている人物である。傍らに描かれた子どもは夭折した息子クリストファーであり、それを示す赤い十字がつけられている。幼いキリストを背中にした聖クリストファーがその背後に位置している。

 右翼にはプランタンの妻と六人の娘、その内一人は夭折したといわれる。そして守護聖人洗礼者聖ヨハネが背後に描かれている。

 両翼の部分は後に追加されたとしても、16世紀末ヨーロッパという聖俗双方の世界が大きく揺れ動いていた時代を、自らの努力と堅忍不抜の精神で生き抜いた人物が、晩年に思い描いていたことが「最後の審判」であったことは大変興味深い。当時のアントワープを中心とするフランドル地方は、カトリック、プロテスタントの対立がきわめて厳しかった地域であった。とりわけ、ネーデルラント独立の宗教的支柱となったプロテスタント、カルヴァン派の教義は、勃興する資本主義の精神的基盤を準備したとまでいわれてきた。カトリック、プロテスタントが対立し、複雑な風土を形成していたアントワープの地で波乱多い人生を貫いた一人の実業家が最後に思ったことが、自分と家族の「最後の審判」の場への願いであったことは、多くのことを考えさせる。

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世界を変えた印刷の力

2009年11月19日 | 書棚の片隅から

インタリオ印刷の工房風景


 最近の「キンドル」などの電子書籍出版の成果を見ていると、ディジタル・インクといわれる文字の技術もさることながら、人物像などの図版の美しさに感心する。人類の歴史において、印刷が果たしてきた役割を改めて考える。

 ジャック・ベランジェジャック・カロなど、17世紀前半のロレーヌで活躍した銅販画家の作品を見ていると、銅版画の精緻さもさることながら、図版と印刷文字の結合の美しさに魅惑され、その技法を知りたくなる。今日、PC上などで文章の間に図版を挿入するのは至極容易だが、木版や銅版の時代はきわめて高度な技術を要した。

 この当時、高い技術を要する印刷は、その多くがヴェネティア、パリ、リヨン、アントワープ(アントウェルペン)などの都市で行われたことに思いいたる。そういえば、あのガリレオ・ガリレイの『新科学対話』も、新教国となったオランダで1638年頃に印刷された。今も学術出版の分野で著名な「エルゼビア社」Elsevir として、その名が残るライデンの「ハウス・オブ・エルゼヴィル」(1569-76年)が引き受けたようだ。2005年には、エルゼビア社の425周年記念祝典が行われた(この出版社の書籍には素晴らしいものが多いが、価格も高い(涙))。

 いうまでもなく、活字印刷の創始者として、ヨハン・グーテンベルグの名はよく知られており、世界史に残る偉大な業績だ。印刷技術・文化の歴史で、それに続く重みが感じられるのが、アントワープ(アントウェルペン)の印刷・出版業者クリストファー・プランタン Christopher Plantin が残した功績とされている。プランタンはその高度な印刷技術と旺盛な出版事業によって、印刷事業の発展に大きく寄与した。しかし、プランタンのことは、日本ではあまり知られていない。

 アントワープのプランタン・プレスは、最盛期の1575年頃は印刷機20台、80人近い職人を雇い、ヨーロッパ中で多数の書籍を印刷、販売していた。当時のヨーロッパでも、印刷業者としては瞠目すべき大規模な事業者だった。

 フランス人だったプランタンChristopher Plantinは、この地に1550年に住み着いた。しかし、最初志した製本と革職人の道を不慮の迫害による負傷であきらめ、1555年頃から印刷業に転じたらしい。実は、この人物の生涯をみると、当時のネーデルラント独立運動ともからんで、波乱万丈、大変興味深い。アントワープという当時、繁栄の極致にあった旧教都市を活動拠点とし、宗主国であったスペインやローマ教皇庁などを主たる活動の場にしていた。プランタンはカトリックを信じていたと思われるが、活動のある時期は熱心なカルヴァン派の人物に支援されていたことなどもあって、その心の内は複雑であったのかもしれない。

 プランタンは印刷、出版者にとどまらず、印刷物や地図の販売業者でもあった。彼はアントワープという地の利点を十二分に活用した。銅版画、木版画をインタリオIntaglioといわれる新たな凹版印刷の技法、ブロック版を活用して、本文中に挿絵として使用した。プランタンは、すでに1560年代にインタリオ印刷の斬新な使途に目途をつけていたが、実際に大規模に活用したのは1570年になってからだった。こうした新しい方式を印刷に利用しようとする試みはそれ以前にもあったようだが、余り注目されなかったようだ。

 出版の世界でもプランタンは多くの斬新な試みを行い、たとえば「多言語対訳聖書」poliglot bible といわれる当時としては画期的な印刷物を創り出した。彼の生涯に制作された書籍は1,887点に達したといわれる。特に1563年のトレント公会議中止以降、標準的なカトリックのテキストの売れ行きは良く、プランタンの新しい技術を使うことを可能にした。特にアントワープを支配していた旧教国スペインの市場が大きく貢献した。

 その成果やその後の印刷にかかわる膨大な資料を、アントワープのプランタン・モレトゥス印刷博物館Plantin-Moretus Museumが所蔵している。博物館で最初に世界文化遺産に認められた。最近、印刷史の研究者Karen L. Bowen and Dirk Inhofは、広い範囲にプランタン工房の印刷物の利用が拡大していった過程を精緻に検討し、その成果を新著とした。著者の一人インホフはこの博物館の稀覯本と史料部門のキュレーターである。

 
16世紀後半から17世紀にかけての時代が、世界史的にもきわめて注目すべき時期であったことに改めて気づかされた。印刷が世界を大きく変えた時だ。現在進行している電子出版も、後世から見ると、間違いなく大きな転換期を画した発明として記憶されるだろう。

 Karen L. Bowen and Dirk Inhof. Christopher Plantin and Engraved Book Illustrations in Sxteenth Century Europe. Cambridge University Press, 2008.458pp. 

●なお、邦文による下記論文は、プランタン工房とプランタン・モレトゥス博物館の訪問記を含む適切な紹介である。
芝木儀夫「アントワープのプランタン~16世紀のネーデルランドと印刷工房の歴史~」『精華女子短大紀要』47-54、2007-2008年

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労働者の声を誰が代表するか

2009年11月16日 | 労働の新次元

  現代社会において、労働者の声や利害はいかにして政治や経済の場に反映されるのだろうか。そのひとつの担い手とされてきたのは、労働組合である。労働組合という組織の力が勝ち取ってきた成果は大きい。

 しかし、今日の多くの先進国で、労働組合の組織率は大きく低下している。労働組合員は、日本では全労働者の18%(1988年)、アメリカでは民間部門はもはや7.3%にすぎない少数グループである。アメリカにいたっては、労働組合に関する統計は、すでに公的統計としての重要性は薄れ、研究者などによって推計されてやっと分かるほどだ。こうした事実は労働組合に関心を持つ人の間でも意外に知られていない。そのため、「過去の栄光?」に惑わされていて誤った判断をしていることもしばしば見かける。

 これまでの歴史において労働組合が果たしてきた役割が大きいことはいうまでもないが、これほどまでに地盤沈下してしまった組織が、労働者を代表すると考えるのは、どれだけ正当性があるか、当然議論が必要だ。労働組合がその傘下に含まれない労働者の利害をどれだけ代表できるか、大きな疑問が持たれてきた。端的にいえば、長期雇用が期待できる正社員とパートタイム労働者、派遣社員などの非正規社員は、現実の雇用の場においては、明らかに相反する利害関係に立っている。パートタイム労働者は正規社員の雇用にとって安全弁なのだ。こうした事情もあって、アメリカのAFL-CIO(米国労働総同盟産別会議)は、長年にわたりパートタイム労働者の組織化を実質的に行ってこなかった。ここではその問題に深入りするつもりはないが、最近のオバマ政権と組合の関係について、考えてみたい。

 共和党のブッシュ政権下にあっては、労働組合への対応は厳しかった。たとえば、3年前の航空管制官争議の際には、争議参加者の解雇、初任給切り下げ、職場のドレスコードまで定められた。 民主党オバマ政権になってからは、かなり対応が柔軟になった。職場の服装についても、今ではジーンズでも執務はできるようだ。

 オバマ大統領は選挙対策もあって、大統領選のころから組合に好意的な方針をとってきた。民主党は伝統的に組合寄りだが、選挙対策上もその方が有利だからだ。カーター大統領以来、最も組合寄り、プロ・ユニオンな大統領といわれる。

 AFL-CIOなどのアメリカの労働組合にとって当面の最重点課題は、「従業員自由選択法」Employee Free Choice Act (カードチェック)といわれる法案の成立だ。組織化の対象になりうる適格者のうちで、最低限50%の労働者が組合組織化に賛成し、組合カード(union card)に署名すれば、従来の秘密投票という手続きをとることなく組織化を可能とさせる法案である。成立すれば、労使の協約締結への時間も短縮され、労働者の権利侵害への厳しい罰則が課せられる。結果として低迷著しい組合活動にとって、有効な支援材料になると組合側は考えている。

 組合側は1970年代からこの法案の実現に向けて運動してきた。しかし、今日でも上院で可決に必要な議員数を確保することはできていない。さらに、この4月にオバマ大統領がNLRB(National Labor Relations Board:全国労働関係委員会)の委員のひとりに組合寄りとされるクレイグ・ベッカー Craig Becker氏を任命したことで経営側の怒りを買っている。 アメリカの組合の組織率は、すでに1970年代から下降傾向を続けてきたが、2006年から2008年にかけては下げ止まった。しかし、今年2009年には再び低下したとみられる。長い期間にわたり組合運動を見てきた多くの観察者は、NLRBの委員が入れ替わったくらいで、これまでの組合衰退傾向が大きく反転するとは考えられないとしている。

アメリカの部門別労働組合組織率の推移(%)
反組合風土が弱い公務員部門を除き、すべての分野で低下が著しい。


 Quoted from “Love of Labour” The Economist 31st 2009


 組合組織率の低下はアメリカに限ったことではない。日本を含めた先進国でほぼ共通に見られる。その原因にはさまざまなことが指摘されているが、組合の組織率が高かった製造業の地盤沈下、逆に組織率が低かったサービス産業などの拡大が挙げられることが多い。公務員などを除けば、ほとんどの産業、職種で組合員数は減少している。

 アメリカでは、カードチョック法案が成立しても、組合の今後は厳しいとの見方が強い。反組合的経営風土が根強いアメリカでは組織化が進むほど、企業業績は低下するとの見方もある。オバマ大統領が、組合が望むことをすべて受け入れたとしても、組合員数の増加はわずかなものにとどまるだろうとも見られている。 いずれにしても、アメリカの労働組合が、かつてのような強大な組織力を取り戻すことは考えがたい。時代が1960年代へ逆転するというのなら別だが、そうしたことは起こりえないからだ。

 組合という組織はそれ自体、個人の労働者では達成できない力を生み、労使の交渉を通して、組織の成員に利益をもたらす。他方、組織の成員でない者、未組織労働者は交渉力が弱い。不況期などの人員削減にも対象にされやすい。賃金などの労働条件でも大きな差が生まれ、組合員である正社員と非組合員である非正規社員の間には、深い溝が作られる。

 現代の労働者の大多数は、未組織な状態に放置されている。彼らには組織的な発言の道がほとんどない。今回の不況でパートタイム労働者、派遣労働者などの非正規労働者の労働条件改善がはかばかしくない理由のひとつでもある。組織的な活動のベースを持たない状況で、彼らが自らの実態をいかなる形で表明し、その立場の改善・向上を図って行くか。新たな発言のチャネルはいかにすれば形成しうるか。その過程で従来の労働組合という組織活動がとりうる位置と役割はなにか。この問題は、傾向としてはアメリカと同じ方向に向かっている日本にとっても、重要な検討課題だ。NPOなどで、いくつかの実験的試みはあるが、大きな流れにはなっていない。現民主党政権は「連合」という組織勢力に頼っており、未組織労働者の声は政治的にも雇用政策の場へ届きにくい。厳しい競争にさらされる雇用の現場へ近づくほど問題は深刻だ。新たな「発言」の経路の模索と確立、非正規労働者を組み込んだ真の意味での従業員代表制のあり方の検討・再構築は、現代労使関係の最重要課題だ。




 “Love of Labour” The Economist 31st 2009

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日の当たる場所?:東ドイツの日々

2009年11月12日 | グローバル化の断面

未来を見るために過去を見る

 ベルリンの壁崩壊20年目の今年、世界中のメディアがさまざまに、この歴史的出来事を回顧している。その中のほんのわずかを目にしたにすぎないが、ひとつの感想を記してみよう。

 マーガレット・サッチャーの回顧録によると、彼女の首相在任中に起きた東西ドイツ統一についてとられた政策は「まがうことない失敗」unambiguous failure だったとしている。それによると、彼女は旧東ドイツの民主革命を歓迎はしたが、壁の崩壊後すぐに、ドイツの国民的性格と統一後のドイツが中央ヨーロッパで占める位置と規模から、多くの人々が期待したヨーロッパの安定化ではなく、逆に不安定化の力が生まれると思ったという。イギリスのドイツ・アレルギー?が感じられる。

 確かにベルリンの壁が崩れた当時、ドイツを中心に世界へ広がったユーフォリア(多幸感)は急速に薄れ、代わって強まったのは「混沌」、「不安」、「格差」、「貧困」などネガティブな側面だった。今日では、東ドイツの時代への懐旧すら生まれている。統一ドイツの下で恵まれない人たちに限ったことだと思われるが、彼らには「日の当たる場所」Auf der Sonnensiteだったのだろうか。

 確かに西側世界も、東の人たちが想像していたような、正義が貫徹し、政治家も官僚も信頼できるという希望に満ちたものではなかった。計画経済の世界は崩れ、市場経済が席巻する世界にはなったのだが、期待が大きすぎたのだ。

 サッチャーの感想が当てはまるかに見えるが、そのままには受け入れがたい。ドイツ統一についての各国の政策がどうあろうと、いずれは起きた変化だ。その後の金融危機にいたる大激動の根源を壁崩壊に求めるのは、正しくないだろう。この多元化した世界で、ベルリンの壁崩壊というひとつの歴史的出来事から、その後の世界の大きな変化が連鎖的に展開したと考えるのはナンセンスに近い。

 他方、ベルリンの壁崩壊に先だって、予兆が感じられたことは事実だろう。ジャック・アタリによると、壁崩壊に先立つ1987年、ゴルバチョフは民衆に発砲するなと指示していたようだ。すでに地鳴りが聞こえていたのだ。衝撃的なことは、今日でもロシア人の7割は、壁がなぜ構築されたか、そしてなぜ崩壊したかを知らないと答えていることだ。

 20年という時間は短くもあり、長くもある。ドイツでも国民の記憶は急速に風化し、壁があった時代を実感しがたいと答える若者が多いと伝えられる。日本ではどうだろうか。いくつかの話を聞くと、肌寒い感じがする。同じような企画の洪水には辟易もするが、壁崩壊前後を、追体験し、回顧することは必要なことだ。過去を振り返ることなくして未来は見えてこない。




「ジャック・アタリ
が語る市場経済の20年」BS1 2009年11月9日

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魔術の世界:『夜のガスパール』から

2009年11月09日 | 書棚の片隅から

Jacques Callot. Scapino and Zerbino

 

 詩を読む機会は、最近まであまりなかった。若い時は比較的よく読んでいたのだが、その後人生の雑事に追われ、詩文の世界とは遠く離れた日々を過ごしてきた。

 ベルトラン(1807-41)の散文詩は、部分的に目を通したことはあった。しかし、韻文詩とは違った斬新さには魅力を感じたが、それ以上に多くを出なかった。最近、ふと手にして目を見張った。以前はなにを読んでいたのだろうか。まったく別の印象であった。ほとんど記憶の底にも残らなかった詩文が、なぜ急に身近なものとなって迫ってきたのだろう。日々感動が薄れ、失われて行く記憶を嘆いていたが、生き残っていた脳細胞もあったのだ。

 ベルトランは、韻文と散文の境界に細心な注意を払い、あまりに短かった人生の最後まで未完と思う作品は惜しげもなく削除することを常に考えていたようだ。鋭く、感性に溢れた詩人だった。内容は深く、今読んでみても、作品をどれだけ理解しているのかまったく分からない。

 ただ、この鋭利な感性を持った詩人が、悪魔、魔術という中世的世界に深く惹かれていたことに驚かされた。19世紀の詩人の世界を、これほどまでに魔術が占めていたことに驚かされた。魔女、魔宴にかかわる部分から、いくつか引用してみよう。


序 
 芸術は常に対照的な二つの面を持っている。言ってみれば、片面はポール・レンブラント*2の、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。―――レンブラントは白髯の哲学者、寓居にかたつむりの如く隠遁し、瞑想と祈りに心を奪われ、目を閉じて思念に耽り、美、学問、叡智、愛の精霊と語り合い、自然の神秘的な象徴の中に分け入って、生命を使い尽くしているのである。―――一方カローはほら吹きであけっぴろげな傭われ兵、町の広場を気取って歩き、酒場で騒ぎ、ジプシー女を片手に抱いて、自分の剣と喇叭銃しか信用せず、ただ一つの気掛かりといえば口髯に油を塗り込むことだけの男である。

*2 レンブラント・ファン・レインのことと思われる。

 

9. 魔宴(サバト)への出発 

彼女は夜半に目覚め、蝋燭を灯し、箱を手にして身体に秘油を塗り、二言三言の呪いで魔宴に運ばれて行った。
ジャン・ボダン『魔女狂研究』
 

そこに集まった十人ばかり、棺桶を囲んでスープを啜っていた、手にするスプーンは死者の前腕骨。  

暖炉は燠(おき)で赤々と燃え、蝋燭が煙の中に茸の如く林立し、皿から春の墓穴の臭いが立ち昇っていた。  

マリバスが笑ったり泣いたりする時には、顎の外れたヴァイオリンの三弦の上で、弓が愚痴るように聞こえた。  

その時年老いた兵隊あがりが、獣脂の燃える光の中で、机の上にさながら悪魔のように一冊の魔法書を開くと、一匹の蠅が羽根を焼いて落ちて来た。

ぶんぶん唸っている蠅の毛むくじゃらの巨大な腹からは、一匹の蜘蛛が現れて魔法書の縁をよじ登った。  

だが既に、魔法使いも魔女も、箒に跨り、火鋏みに跨り、そしてマリバスは鍋の柄に跨って、煙突を抜けて飛び去っていた。

 

11. 魔宴の時  

     こんなに遅く、誰が谷を通って行くのか?  H・ド・ラトゥーシュ『魔王』  

 

此所だ! ―――はやくも暑い茂みの中、小枝の下にうずくまる山猫の目の燐光が燦いていた。 

夜霧と蛍とに光る野茨の髪を、絶壁の闇の中に浸す巌の中ほどに、  

松林の頂に白い泡を奔らせ、城館の奥深くには灰色の霧となって沫を降らせる、急流の岸の上に、  

魔物の群が数限りなく集まる。ところが背に薪を負い、小径を登る年老いた木樵(きこり)には、物音は聞こえるが、目には何も見えない。  

そして樫から樫へ、丘から丘へ、気味悪く恐ろし気な幾千もの叫び声が混じり合い、響き合う。―――《フム! フム!―――シュッ! シュッ!―――クークー! クークー! クーク-!》  

さてここには絞首台!―――彼女の霧の中から一人のユダヤ人が現れて、首吊り人の腕を拾い、その金色に輝く魔法の光の中で、しめった草むらに何か物を探している。

 

 アロイジウス・ベルトラン作 及川茂訳『夜のガスパール レンブラント、カロー風の幻想曲』岩波文庫、2009年

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ロレーヌ魔女物語(13)

2009年11月06日 | ロレーヌ魔女物語
a sight of village in Lorraine, Photo YK


  近世初期、16世紀末から17世紀初めにかけてのフランス、ロレーヌの魔女裁判にかかわる文献を読んでいて興味を惹かれることはきわめて多いのだが、そのひとつに17世紀という時代がそれほど遠く隔たった昔ではないと感じることがある。人間の思考や行動様式は、根底において一般に想像するほど変化していないということかもしれない。 

 当時、魔女裁判によって裁かれ、処刑されることになった者は、処刑前にいつから魔術にかかわり悪行を行うことになったか、共謀者は誰かといった内容を再確認されるのが決まりだった。そこにいたる前の尋問、特に拷問などで、むりやりに被害者にされた者を改めて救済するなどのねらいもあったようだ。 

 すでに告白された悪魔との関わり、魔宴 sabbatに参加したか、悪魔と交わったかなどのお決まりの点を述べさせられている。当時のロレーヌの審理手続きは、フランスのそれと比較すると、被疑者にとって絶望的といってもよいほど、著しく不利なものだった。上告する上級審もなく、地方の裁判所に多い素人裁判官の誤りをただす道もなかった。ナンシーでまとめてレビューされる手続きも、限界的な役割しか果たしていなかった。ロレーヌで魔女審問がかなり多発した背景には、こうした状況で、拷問が有力な解決手段として多用されたことがかなり影響したようだ。大変不幸なことだった。そして、定式化されていた審問手続きは、被疑者にしばしばお定まりの告白を求めていた。 

 当時の魔女審問は具体的次元でみるとかなり多様な形をとっているが、根底には共通したものが流れている。悪魔、魔女あるいは魔術について相当程度画一化された概念が、暗黙にも共通の輪郭として形成され、共有されていたことに気づく。現代のように情報が流動的でない社会、とりわけ農村において、実際にはきわめて定式化され、固定化した概念や理解が共有されていたことは驚きだ。  

 日没とともに、漆黒の闇に閉ざされることに象徴されるこの時代、夜や森は魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい場所だった。そこでなにが行われているかは、想像にゆだねるだけにすぎない。夜も光に満ちあふれた現代社会の状況からは、考えられない次元だった。とりわけ、闇の時間が長い農村は魔術や呪術の舞台として格好なものだった。いつの間にか、魔術や魔女が飛び回る風土が生まれ、深く根付いていた。 

 魔術にかかわったとされたある女性の告白の例をみてみよう。彼女の10年ほど前の記憶によると、セントローレンスの祭日に、遠くの親戚を訪ねた寡婦が再婚話を反対され、闇夜をひとり帰宅する途上、森を通った時に、悪魔に誘惑され、その後悪魔が自分に乗り移ったと思うようになった。そのしるしに、自然と神を呪う言葉を口にするようになった。悪魔はお前を守ってやると言い、一本の杖を渡す。そして、彼女を憎み、脅かす者や動物がいたら、その杖で打つことで救われると言った。そしていつも、お前の力になると言われたという。 

 これに類似した告白はフランスのみならず広くヨーロッパに見出され、あるステレオタイプ化した悪魔や魔術のイメージが、いつとはなく社会に深く浸透していた。 近世初期の社会の現実は、統一されたというにはほど遠い複雑なものであったが、基本的にはかなり同質的な世界観が支配していたと思われる。それは、自然と超自然、現実と仮想、具体と抽象といった区別ができるほど進んだものではなかった。

 農村などの地域社会には、社会階級と結びついた権力者と虐げられ、嫌悪の対象となる者がつくり出されていた。当時の社会に多かった家庭における夫の暴力、近隣住民との軋轢、対立なども、特定の住民に厳しい状況を作り出していた。 相次ぐ戦争による軍隊の略奪、飢饉などで農村の困窮が進み、幼い子供を抱えた寡婦や老人など貧窮の底に沈み、共同体の片隅でかろうじて生きている者もいた。 

 魔女にかかわる事件は、自然の災害がもたらした飢饉や悪疫などの流行などを契機に、突発することも多かった。原因の分からない家畜の死亡なども、魔女の仕業とされた。 

 こうして見ると、当時の社会は憎悪と恐れ、不安と緊張に充ちていたかに思われるが、戦時や飢饉、悪疫流行などの時を除くと、町や村落の日常生活は概して平穏といってよいものだった。むしろ、10年1日のごとく過ぎて行く日々だった。しかし、さまざまな不安に根ざした時代の深層は、なにかのきっかけに表面化し、噴出するのだった(続く)。
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帰国した日系ブラジル人の苦悩

2009年11月05日 | 移民の情景

 労働市場の停滞が日本人の労働者ばかりでなく、外国人労働者にも厳しい対応を迫っていることは、このブログでも伝えてきた。最近では、NHKBS1(10月30日)が、日系ブラジル人労働者とその家族が直面する苦難を報じていた。不況が進行すると、最初に採用中止、解雇などの対象になるのは外国人労働者であることは、これまでの内外の数多くの経験が示してきた通りである。これは日本に限ったことではない。不況が長引くと、出稼ぎ先での仕事の機会がなくなり、帰国する外国人労働者も増える。今回、取り上げられたのは、ブラジルへ帰国した日系人の苦悩だ。

 日本に出稼ぎにきたブラジル日系人のほとんどは、自動車、電機などの下請け部品企業で働いていた人たちが多い。日本人が就業しなくなった製造業の単純作業と言われる領域だ。不況の浸透とともに最初に職を失った。求職活動を続けたが、次の職がなく、結局帰国を決意した人たちである。今回日本政府は、かつて石油危機後の不況期にヨーロッパの国々が実施した帰国費用支給制度を取り入れた。自主的に帰国する日系ブラジル人労働者、本人には30万円、扶養家族には20万円が支給される。ただし、この制度を利用し帰国した者は、3年間は来日できない。こうしたことを考慮してか、来日した日系人の多くは、景気回復を期待してじっと耐えている。しかし、日本での仕事探しに絶望し帰国した人も13,000人に達している。

 問題はブラジルへ帰国した人たちが仕事につけないことだ。その原因はいくつかあるが、帰国したが母国で活用できる技能を身につけた人たちが少ないことだ。日本で10年以上、時には20年近く働いていた人たちも多いのだが、多くはいわゆる単純労働についていたため、帰国しても評価される技能が身についていない。さらに、日本で生まれ育ち、親たちの母国語であるポルトガル語が話せず、ブラジルでの学校生活に適応できない子供たちの問題まで生んでしまった。

 ブログで再三強調してきたことだが、海外出稼ぎが効果を上げるためには、労働者が出稼ぎ先で習得した新たな技能が、帰国後母国の発展に役立つことである。しかし、この例のように、日本で長く働いても、帰国後、母国に寄与できる技能が身についていないことは多い。この責任の一端は、外国人労働者に技能上達の機会を与えず、こうした仕事をさせてきた日本の使用者にもある。(そうした選択をした外国人労働者にも一端の責任はあるとはいえ)ほとんどの場合、外国人労働者には仕事の選択の自由がない。雇い主側がいかに美辞麗句を連ねようと、多くの外国人労働者はその場かぎりの役割しか与えられなかった。悪名高い技能研修制度についても、同じ問題がついてまわった。

 移民(外国人)労働者については、日本はヨーロッパなどの経験から十分学びうる立場にあった。しかし、最重要な点については、ほとんどなにも学んでいないのだ。(当のヨーロッパも行きつ戻りつしているといえるかもしれない。)この誤りを後世に繰り返さないために、外国人労働者を含める新たな雇用政策は、あるべき道に戻らねばならない。この領域、ともすれば「木を見て森を見ない」議論が多いが、人口減少の坂道に立った今は姿勢を正す最後のチャンスだ。

 日本で働く外国人労働者にも、彼らを受け入れる以上、日本人労働者に準じたあるいは同等な機会が与えられねばならない。外国人労働者を受け入れながら、当初から彼らを「二流、三流市民」に位置づけることは、大きな禍根を残す。単純労働の分野に残留させることなく、国内労働者同様に技能水準の上昇の可能性も保証されねばならない。出稼ぎ先で一定の成果を残した後に帰国し、新たに身につけた技能で母国の発展に寄与できることが必要だ。そして、なんらかの理由で帰国せずに出稼ぎ先へ定住することを選択した人々に対しては、子女の教育機会を含めて、自国民にできるかぎり準じた待遇・条件を整備することが欠かせない。

 

Reference
2009/10/30 BS1 「日系ブラジル人 帰国後の厳しい現実」

コメント (3)
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