時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥール瞑想:ノルウエーの闇と光

2013年08月26日 | 書棚の片隅から

 

ノルウエーの詩人P-H ハウゲンによるジョルジュ・ド・ラ・トゥールに
ついての詩集
 


暑さから逃れて

 酷暑、豪雨、旱天と異常気象が矢継ぎ早に日本列島を襲った夏だった。ある日、猛暑の昼下がり、近くの行きつけのイタリアン・レストランに入る。若いイタリア人の経営で、予約が必要な人気の店だ。幸い空いていた。間もなくお隣の席に、中年の外国人男性が一人座った。手持ち無沙汰のように見えたので、コーヒーの時に、「イタリアからいらしたのですか」と聞いてみた。

 すると、思いがけない答えが戻ってきた。「いいえ、ノルウエーですよ。妻は日本人で子供も日本の学校へ行っています」との答えである。近所に外国人が増えたことは、感じていたが、ノルウエーの人までとは思わなかった。なにかと住みにくくなった日本だが、住んでくれる外国人もいることは有りがたいことだ。

原発がない国
 早速今年の猛暑が話題となる。日本の暑さは厳しいが、今はなんとか過ごしていますよとのこと。かつて管理人が訪れたオスロー、フィヨールド探訪の拠点ベルゲンなどの話になる。ベルゲンは雨の多いことで有名で、すぐにその話に移る。ちなみにノルウエーは国土面積は日本とほぼ同じだが、人口は450万人くらいで、自然環境、社会環境はまったく異なる。うらやましいことに水力、石油、天然ガス、石炭とエネルギー資源に恵まれ、国内発電能力の大部分は水力で充足している。原子力発電は基礎研究はしているが、発電所の計画もない。しかし、他の北欧諸国同様、核燃料廃棄物の放射能の減衰年月と〈安全性を考えて最終格納場所まで研究されているようだ。

 こんなことを話題にする日本人はほとんどいないようで、会話は弾んだ。外国に住んでいて、自国のことを知っている人に出会うことは、一寸した驚きで、また喜びでもある。こちらも、最新情報を教えてもらう。

ラ・トゥールに出会う
 
さらに話は思いがけない次元に飛ぶ。ノルウエーの詩人パールーヘルゲ・ハウゲン Paal-Helge Haugen(1941-) の詩集 『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール瞑想』 Meditations on Georges de La Tour のことである。日本では、フランス通といわれる人の間でも、意外に知られていない画家である。ハウゲンはノルウエーでは著名な詩人でスエーデン・アカデミーの文学賞を含めて、ノルウエーの主たる文学賞5つを受賞している。



Paal-Helge Haugen 氏イメージ 

  ラ・トゥールに関する同氏の詩集がノルウエーで出版されていることは、聞いたことはあったが、英語版が刊行されたことは最近になって知った。この17世紀フランスを代表する画家については、実にさまざまな試みがなされてきた。その一端はこのブログでも記している(まとまった紹介を考えてはいるが、果たせていない)。日本ではほとんど知る人も少ないが、世界中でこの画家と作品を題材とした文学作品は数多く刊行されている。

 さて、このハウゲンの詩集は、1990年にノルウエー語で書かれ、同国批評家賞 Norwegian Critics' Prize
を受賞した。そして1991年に英訳もされたが、今年2013年にはノルウエー語と英語並記の詩集が刊行された。17世紀激動の時代に数奇な生涯を過ごしたラ・トゥールという画家の世界と作品について、詩の形式で思索、瞑想したものである。ラ・トゥールの時代と作品について、かなり詳しくないと、理解不能と思われる。

 ラ・トゥールが生きた17世紀ロレーヌの闇と、北欧ノルウエーの闇とは、同じヨーロッパであっても、かなり異なる。しかし、この画家には時代や国境を超えて共鳴しあうなにかがある。


 この詩集が刊行された今年春の出版記念会 Book Raunch において、ハウゲンの作品の一部が紹介かたがた朗読されている。読んでいるのは英語版への翻訳者Roger Greenwald である。この朗読を聞いて、共鳴できる方は、相当のラ・トゥール・フリーク(?)であることは間違いない。


 詩集の概略と朗読の動画サイトはこちら。 

   

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Read by Roger Greenwald 

ちなみにハウゲンが詩の対象としたのは、ラ・トゥールの「ヴィエル弾き」を含む五点の絵画です。

 

Paal-Helge Haugen, Mediations on Georges de La Tour, Translated by Roger Greenwald, BookThug, Canada, 2013.

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画家の見た17世紀階層社会(17):ジャック・カロの世界

2013年08月18日 | ジャック・カロの世界

 

ジャック・カロ『ロスピス』(ハンディキャップを持った人々の
ための家、病院)
Jacques Callot, L'Hospice, c.1622, Etching 53 x 79cm
The British Museum, London, Department of Prints and Drawings

画面クリックすると拡大(以下同じ)

 

 

重要な情報源であった銅版画
 日本列島はどこへ行っても猛暑のようだ。暑さを避けて(?)、17世紀ロレーヌの世界に戻ることにしよう。幸い、行動の制限もなくなった。

  これまで鑑賞してきた17世紀ロレーヌの画家ジャック・カロは、銅版画家であったことにより、油彩画などよりもはるかに多くの人々、顧客に向けて、その作品を頒布することができた。イタリアから戻ったカロの工房は、生地ナンシーの中心部におかれた。カロはここから驚くほど多様な次元にわたる作品を発信し続けた。銅版画は通常は単色で彩色されていないため、油彩画のような迫力に欠けるとはいえ、カロの作品は、画題もきわめて広範にわたり、ともすれば視野が限られる当時のヨーロッパにおいて、多くの人に広い世界を見るためのさまざまな情報を与えていた。

 カロは貴族たちや貧民を自らの画題にとりあげるに際して、どの程度厳密に意識していたか判然としない部分もあるが、、いくつかの類型に分けていたようだ。貴族層(プリンス、プリンセス)については、このシリーズ前半で、その概略を見てきた。

 他方、社会階層として反対の極にあった貧民 paupers の場合は、農民、巡礼、物乞い、ジプシー、放浪者、地域から孤立した人物などを描いている
。その際、画家は注意深く互いのグループを区分できるよう配慮していた。

 カロのこのシリーズのひとつの特徴は、作品に説明も制作番号も付されていないことにある。それらがあれば、画家の制作に際しての思考方向、社会的評価の順位なども推測できるかもしれない。カロはことさら、それを避け、観る人の評価に委ねたと思われる。

 たとえば、カロは当時の「物乞い」 begger に一定の同情や憐憫を感じていたと思われる。同じ人間として生まれながらも、さまざまなハンディキャップによって、社会の他の人々から施し alms (聖書:善行)を受けねば生きることができなかった人たちへの思いである。ローマ、フローレンスあるいはより小さなナンシーなどの都市は、いたるところこうした貧民たちで溢れていた。

 画家カロがナンシーの町へ出れば、ただちに貧しい人たちを目にした。カロが修業したフローレンスでも同じであった。ナンシーのカロの工房は、町の中心部のきわめて立地の良い場所に位置していたが、貧民はそこでも多数見られた。多くの宮廷画家は貧民を画題にするようなことはなかったが、カロの画家として天性、素晴らしい点のひとつは、決して貴族層の好む題材ばかりを描いていたのではないことにある。

巡礼の旅
 この時代、世の中には多くの苦難や不安が満ちており、それを背景として自らの心の救いやよりどころを求めて、さまざまな聖地へ巡礼する人たち、巡礼者も多かった。彼らの身なりは質素であり、しばしば長旅に汚れた衣服を身につけていた。キリストやその使徒たちも、基本的に富や華美を求めず、簡素な生活を旨としていたこともある。大きな町や巡礼者が旅する地では、信仰のために旅をする人々に、教会や修道院が食事、時には宿泊の場所を提供していた。また、宿泊費を支払える人たちには安価な旅籠屋もあった(下図)。


ジャック・カロ『旅籠屋』
Jacques Caoolt, L'Auberge, from Capricci
c.1622, Etching, 57 x 79 mm
Albert A. Feldmann Collection

 

巡礼者を装う物乞い
 しかし、なかには巡礼者に扮した偽者も多く、巡礼者と単なる物乞いの区分をすることは、当時の世俗社会での必要事であった。これらの偽巡礼はしばしば犯罪などにもかかわっていた。

 画家は物乞い beggers は汚れ、破れた衣類、靴をはいていない、帽子が破れているなど、細かに観察して描き分けていた。カロにとって、重要な課題のひとつは、単に教会や土地の人々から施しをうけて生きている物乞いと、宗教的な目標を抱いて、巡礼などの旅の途上にある者を区分することであった。このことはその当時、日常さまざまな機会に彼らに対していた社会の人々にとって、生活上必要なことでもあった。カロやカラッチなどが描いた貧しい人たちを、いかに理解するか、その後も多くの論争が繰り広げられてきた。

 カロは当時の社会階層の大多数を占めた農民については、しばしば農具や動物と共に、そしてなによりも屋外で働く姿で描いている。基本的に彼らは家族で農地を耕し、質朴そしてしたたかに生きていた。カロは、土地に束縛され、重税に苦しみながらも、懸命に働く彼らに同情の心を抱いていたようだ。

物乞いと巡礼者の区分 
 他方、物乞いで生活する放浪者はほとんど家族はなかった。家庭を持てるだけの生活上の物的、精神的安定もなかったのだろう。家族は離散していたり、母子家族など、生活上安定した状況ではなかった。現代の目で、カロの作品をつぶさに見ると、そこには身体上の障害を持った人たちがきわめて多いことに気づく。杖をついたり、目が不自由なために、犬を連れた老人などもいる。簡単なカートに座って、他の人に押してもらっている人たちもいる。なんとなく、高齢化が進行した日本の一面を見るような思いもする。

 カロは貧乏や貧困は、この世に生まれて以降、多くの場合その人にとって生涯つきまとう条件と考えていたようだ。実際には戦争や飢饉などが原因で、貧困から抜け出した者、あるいは逆に貧困に陥った者などの個別の違いはあったようだが、概して人々は自ら生まれ育った地域、家族、階級などの制約によって、社会における位置を定められていた。カロが残した作品は、こうした社会の最下層部におかれた人たちの状況、生活を理解する上で貴重な資料でもある。

 国家による社会保障など存在しなかった時代であり、人々は個人の持つ力を軸に、自ら定められた人生を懸命に生きていた。しかし、生活の手段を奪われ、他人の善意にすがるしか生きるすべがない人たちはあまりに多かった。他方、少数で特権的階級である貴族は、優雅な暮らしを享受し、時に功労や名誉に応じ、君主から年金を授与される慣行もあった。しかし、これはあくまで君主が与える褒賞、功労金の一種であった。

 個人の出自は、その後の人生を決定的に定めていた。カロやラ・トゥールは才能、努力、運などに恵まれ、例外的に社会階層を昇り、貴族に叙せられ、画家としても恵まれた人生を送った。こうした事情もあって、多くの画家は宮廷などの限られた社会で認められるための作品制作に専念し、彼らの外の社会に多数存在する貧民の姿に創作意欲をかき立てられるようなことはなかったようだ。

 しかし、カロはこうした社会通念をかなり逸脱して、社会の下層に位置する貧しい人たちを積極的に描いた。カロは概してこれらの人たちに同情、憐憫の念を抱いていたようだ。若いころ、祖父の代以降、維持継承されてきたロレーヌ公の宮殿に関連する仕事に就くことに反発し、家出のような形でイタリアに画業修業に行ったカロにとっては、悲惨な状況にありながらも、自立して生きている貧しい人々を画題としても、排除することはなかった。唯一の例外は、ヨーロッパ各地で放浪の生活を送っているジプシー(最近はロマ人とよばれることもある)に対してであった。、彼らに対する当時の社会的受け取り方も反映して、こそ泥、詐欺を平然と行う者として、警戒、侮蔑の感を抱いていたようだ。この点については、いずれ詳しく記すことがあるかもしれない。

  ジプシーは、地域に定住することなく、家族や仲間で、時には多くのキャラヴァン(馬車などの隊列)を組んで移動していた。しかし、描かれた画題で農民と大きく違うのは、ジプシーの場合、詐欺や掏摸などの犯罪を犯している場面が多い。実際、この時代、ジプシーは村や町を渡り歩き、日用品の修理、農作業の手伝いなど小さな手仕事をしながらも、そうした悪事に手を染め、各地を放浪していたようだ。そして、そのイメージはすでにヨーロッパ各地で、多くの人々の見方にしみ込んでいたらしい。

 ジプシーを含めて、カロの他の『貧民』グループについては、改めて記したい。どう見ても夏向きの話題ではありませんね。




Jacques Callot, Le Mendiant au couvot
ジャック・カロ『手を温めている物乞い』

続く
 
 

 

  

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危機の時代:酷暑によぎる思い

2013年08月12日 | 特別トピックス

 しばらく、自由に身体が動かせない時間を経験した。頭脳の方はそれを補おうとするのか、これまで以上に色々なことを思い浮かべ考えてしまう。とりわけ気になるのは、このごろの日本人の「忘れやすさ」だ。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざもあるが、今年の酷暑などは早く過ぎ去ってほしいし、忘れたいことだ。しかし、決して忘れてはいけないこともある。そのひとつを挙げておきたい。

 福島第一原発から海に流出する放射能物質による汚染水が1日300トンに達するという衝撃的なニュースに
言葉を失った。これまでは配水管の漏れで数リットルといった報道ばかりだったのが、突然驚愕すべき水準の数字になっていた。しかも、地上ではなく海へ流出しているという。さらに驚いたのは、当面有効な抜本的対策はないと明言されていることだ! 

 小さな井戸を掘って地下水をくみ上げただけで、これだけの流水を阻止できないことは、素人でも推測できる。あれだけ海への流出が懸念されていたのに、関係者は汚染された水を貯蔵するタンクが果てしなく累積する先に、いったいなにを見ていたのだろうか。結局、その場しのぎの対策しか持っていなかったのではないか。汚染された水が海流に乗って、世界へ広がることを思うと、背筋が寒くなる。被爆国としての体験を後世に伝える努力はなんとか続けられてきた。しかし、
その国が犯したこの出来事はどう伝えるつもりなのか。

 マスコミは総体としてこの衝撃的ニュースを短く報じたが、その後いかなる状況にあるかを客観的、詳細に知らせることなく、ほとんど沈黙を維持しているのはどういうことなのかという疑念も生まれる。3.11の震災と原発事故発生直後は他のニュースなど報じられないほど、汚染拡大への懸念一色だった。責任の追求が、自分たちに向くことを恐れているとしか思えない。情報が積極的に公開されない、秘匿されているということは、さらに疑惑を深めかねない。 

 あの大事故直後ならば、全体像も見えず、多少あたふたしても仕方なかったとしても、すでに2年5ヶ月もの年月が過ぎた時点で、開き直ったような事実が突如明らかにされるとは、この国の企業や政府の危機管理はいったいどうなっているのだろうか。

 やはり「東北都」を創って、政府など政治・経済活動の一部を被災地近傍へ移し、政治家も現場に近く、緊迫度をもって国家の危機に対する気構えが必要ではなかったのかと改めて思う。国家の危機管理の上でも、政治・経済ベースの分散は望ましい。産業の新生や雇用の創出にもつながる。復興ソングは美しい。しかし、現実は言葉にならない。

 原発報道に加えて、この酷熱の夏、全国で大小の災害が相次いでいる。ながらく17世紀への旅を続けてきた。近世初期「危機の時代」といわれた世紀である。この400年余りの間に、人類はどれだけの「進歩」をしたのか。このことを考えるだけでも、われわれは過去からの教訓を十分学んでいないことを感じる。実際、以前に紹介したG・パーカーの新著『グローバル危機:17世紀の戦争、異常気象と破滅(カタストロフィー)』などを見ていると、17世紀と21世紀の前後関係が危うくなるほど近似している。とりわけ戦争がもたらす惨禍は、現代になるほど使用される武器の破壊力が圧倒的にすさまじいだけに、その後の破滅的状況が恐ろしい。再生は不可能に近くなる。世界各地で発生している戦争、紛争、そしてその可能性までふくめるならば、われわれは「危機の時代」に生きているというべきだろう。

 酷暑が続く夜、偶然見たBS1のEL MUNDOなる番組(8月11日、18日再放送)で、ニューヨークのセントラールパーク*2など、市内の大小さまざまなパークで行われている美化、再生や新企画の活動状況を目にした。

 1960年ー70年代にかけては、立ち入ることが危険な場所とまでいわれ、荒廃していたセントラルパークが、今素晴らしい市民の憩いの場に変容していた。パークの中にある『不思議な国のアリス』像を見つけようと、友人と歩き回った日々が思い浮かぶ。当時はヴェトナム戦争の最中、パークにはヒッピーといわれるタイやミャンマーの僧侶のような黄色の衣を身につけた若者たちが、なにをするというわけでもなくたむろしていた。パークの東側を北上すると、多数の美術館が建ち並び、目が洗われるような時間があった。パークは確かに荒れてはいたが、危険を感じることはなかった。広大なパークを吹き抜ける夏の風は爽やかだった。パークの周囲の高いビルなども、パークの美しさを守っているようにさえ見えた。



 その後、3.11という歴史的大惨事を経験したニューヨーク市だが、今は大人も子供も広大な芝生や緑の木々の美しさを楽しんでいる。そして、感銘したのは、危険な場所のひとつとされ、市民からも敬遠されたこのパークが、驚くほど美しく修復・再生されたことだ。ニューヨーク市が財政危機で破綻状態であった頃、市民の自発的な活動で募金が行われ、素晴らしい別天地のように生き返り、輝いてみえた。あの時代、パークばかりでなく、ニューヨークの道路や橋梁などもこれが世界有数の大都市と思うほど荒れ果てていた。

 パーク新生の契機となったのは、あの3.11の出来事だった。あの経験を背景に、市民の間に同じ地域に住む人間としてお互いにもっと理解を深めようという動きが持ち上がり、その具体化を目指して健全で真摯な努力が実ってきた。かつて輝いていたパークの復活はそのひとつだった。晴れた夏の日、セントラルパークの広大な芝の上に寝そべって、木々の間を吹き抜ける爽やかな風と頭上に広がる透き通るような青空を体験してみたいと思う人は多いだろう。大人や子供、犬などが跳ね回っていた。そして、公園のそこここで、小さなコンサートも開かれていた。かつてパークを構想した人たちの理想が再現されている。市民の地域に向ける愛と情熱、斬新で大きな構想と小さな努力の積み重ねが、こうした結果を生む。



 被災地となった東北にいつ爽やかな風が吹くのだろうか。単なる「再生」ではなく、「新生」new bornとなるような構想の再構築と迅速かつ強力な具体化を、若い世代に改めて託したい。そのためには、世界から「新生」のプランを募集してもよいだろう。いまや「福島」そして「東北」は日本だけの関心事ではないのだから。



Geoffrey Parker, Global Crisis: War, Climate Change & Catastrophe in the Seventeenth Century, Yale University Press, 2013.

*2
 セントラル・パークは1857年から1860年にかけて創られたアメリカ最初の都市型の公園である。マンハッタン島のほぼ中心部に、およそ336ヘクタールを占める広大な公園である。1850年頃のニューヨークは階級、宗教、人種、そして政治によって分裂状態にあった。資産階級や名士たちは、街路での暴力や犯罪を恐れ、憂いていた。パークの構想を練った企画者の一人、フレデリック・オルムステッドはパークを市民の教育の場と考え、貧富、アイルランド系移民やエピスコパリアン(アングリカン)教徒が多かった先住白人などのコミュニティを統合する空間にしたいと考えた。候補地に選ばれた地域は、マンハッタン島で最も荒涼として、無法がまかり通っていた。公園の構想と完成に伴う秩序の維持、規則の遵守などの徹底は、公園空間のすばらしさ維持に役立った。1866年にパークには783万人を越える入場者があったが、110人が逮捕されたにすぎなかった。春夏、秋には野外コンサート、劇、冬はスケートなど四季を通して賑わった。その後、時代の推移とともに、パークの性格も変化したが、今もニューヨーク市民の最大の憩いの場であることに変わりはない。
 

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画家の見た17世紀階層社会(16):ジャック・カロの世界

2013年08月04日 | ジャック・カロの世界

フランスの切手にも採用されたジャック・カロの貧民を描いた作品
クリックすると拡大、以下同じ

 

 ジャック・カロの貧民シリーズには、総じてこの希有な画家が当時の貧しい人々に抱いていた同情、憐憫の思いが込められている。しかし、中には少数ながら一部の貧民あるいは貧しさを逆手にとり、善良な人々を欺瞞、詐欺的犯罪を犯す者たちへの非難、反感が感じられる作品もある。その例を見てみたい。

 下に掲げた図を見てほしい。乱れた髪、破れた衣服など見るからに貧しげな一人の男が描かれている。カロの描く貧しい人々は、ほとんどはそれぞれ貧しいなりに身なりを整え、しっかりと大地に脚を踏ん張り、生きているように描かれている。容貌やまなざしも真摯なものが感じられる。しかし、この男はかなり異なるようにみえる。容貌もなんとなく卑しく、片目はフェルトの帽子に隠れているが、口はだらしなく半ば開かれている。右手は三角巾のように布で支えられている。本当に右手は動かないのだろうか。あたかも、怪我をして働けなくなったとでもいいたげである。

 画家カロは、他の貧しい人たちとは別の視角でこの男を描いたようだ。描かれた男の片目は意味ありげにこちらに向けられている。そして、左手で担いでいる旗のようなものには、”Capitano de Baroni”と書かれている。この時代、17世紀初期には、baroni という言葉は「悪党、ごろつき」という意味を暗に持っていたらしい。16世紀末のローマには ”Compagnia delli Baroni
”と呼ばれた、身体は別に悪いところはないが、怠け者で働くことをせずに、他人からの施し物に頼って生きている者の集団があったようだ

 彼らは、しばしば詐欺、窃盗などの明らかな犯罪行為も犯していた。その存在は、当時大きな社会的問題になっており、町村によっては、外部からの流入者を制限するという対抗措置までとっていた。 時には、多数の放浪者が村や町へ入り込み、平和な地域の秩序を乱すという出来事があったらしい。町の中心の広場がこうした浮浪者で占拠され、住民が困惑したという出来事がヨーロッパ中で頻発していた。この時代、多くの町がそれぞれに高い城壁で外部からの侵入者を防ぎ、城門で出入りを制限していた。ナンシーなどの都市でも、外部から町へ入ってくる者を制限した時があった。
カロは、善意の施しをする地域の人々を欺いて生きている、こうした狡猾な者たちへの批判と嫌悪をこの男に象徴させているようだ。

 彼の持っている旗に首領 capitano という文字が記されているのは、同じような怠惰で反社会的な人間が多数いることを暗示している。そして、それを示すように、この男の背後には多くの同様なことをしている放浪者たちが描かれている。左手に見えるように、こうした放浪者たちは町に入ると、まず教会へ行き、施しを求めた。 

 

Jacques Callot, Frontispice 

 カロの貧民シリーズは、貴族たちを描いたシリーズと違って、2点を除き、人物の背景が描かれていない。あたかも、彼(女)らはなにも頼るものもなく、孤独に人生を過ごしていることを暗示しているかのようだ。その点、上記のいかがわしい貧民と下に掲げる「二人の放浪者」という作品だけに背景がある。カロは背景に特別な意味を持たせたことが推定される。

 17世紀のヨーロッパ社会の通念では、貧民を慈善の対象に値する者と値しない者に二分して見ることが一般的であった。カロはその点、両者を区別することなく描いているが、評価は観る者に委ねている。しかし、そのための材料は克明に描き込んでいる。

 その例として、下に掲げる「二人の放浪者」は、顔つき、目つきなどがどうもうさんくさい。真面目に巡礼をしている旅の者とは違うようだ。背景には旅の者に施しをしている善良な市民らしい姿が描かれているが、この二人がそれに値するかは、観る者の判定次第ということらしい。
 


Jacques Callot, Les Deux pelerins

 17世紀ヨーロッパには、教会の慈善を初め、少しでも良い生活をしている人たちの施しによって生きていた貧しい人々、あるいはそれに便乗して悪事を働く者など、貴族たちの優雅な世界とはまったく別世界が並存していた。ジャック・カロは鋭い観察眼を持って、その多様な断片を描いている。レンブラントがカロの作品に注目したのは、当然のことであった。

 

Reference
 Exhibition Catalogue, Princes & Paupers, 2013.

★しばらくの間、時間はあっても文献確認、入力などの身体的自由を制限されていたため、記憶に頼った断片的な記事になっている部分があります。幸い機会に恵まれれば不足部分を追加したい。

 

続く 

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