時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

混迷からの脱却:イタリアの教訓

2012年03月26日 | グローバル化の断面

 

 

  近刊の雑誌の記事を読んでいると、いきなりかつて不慮の死をとげた友人マルコ・ビアッジの名が目に入ってきて、一気に10年前に引き戻された感じがした。話は1999年まで遡る。ローマでイタリアの硬直的な労働市場を改革し、より流動性を持たせたいと、中道左派の政府案作成に働いていた労働法のマッシモ・ダントーナ教授が、テロリスト「赤い旅団」によって暗殺された。この不慮の死を、後世の記憶に留めるための銘板(上掲)が悲劇の現場に貼られている。しかし、その後3年して、ダントーナ教授の描いた基準を政府案に採り入れようとしたマルコ・ビアッジ教授(労働法・労使関係)も、同じテロリスト・グループの凶手にかけられた。図らずも10年前の3月の出来事であった。

  イタリアではひとたび就いた仕事は一生のものとの考えが、社会に強く根付いており、労働者の解雇は企業倒産などの場合を除き、原則禁じられてきた。このことは、法律の改正が単に法制上の次元に留まらず、社会の制度や人々の考えに深くかかわっていることを示している。しかし、その後改革に着手することなく放置されてきた。硬直的な労働市場の弊害として、失業率は2012年1月で9.2%、若年層にかぎると失業率は31.1%の高率に達している。ヨーロッパでは、スペイン、ギリシャに次いで、ポルトガルとほぼ同じ高い水準だ。

Source: The Economist February 18th 2012.

 ギリシャ、ポルトガル、スペインなどに続き、財政危機、高い失業率に悩むイタリアでは、国民や議会で高い信任率を回復したモンティ内閣が、これまで労働者の解雇を原則禁じてきた同国の労働法を改め、企業が業績悪化などの理由で解雇ができるようにする改革案(労働者憲章法18条)を導入することを企図している。近く閣議決定の上、議会に提出する。モンティ首相は議会の圧倒的信任を背景に、この「聖域」改革に着手することに踏み切った。

 改正案では、企業の業績など経済的理由での解雇が可能になる。さらに、失業保険制度で給付の期間や金額が統一される。企業に男性の育児休暇制度の創設を義務づける。試用期間中の年金保険料は企業が負担するなどの改正が盛り込まれている。

 モンティ首相は、こうした改革によって、労働市場を流動化し、外国企業などの参入を促し、国際競争力を強化することを目指している。そして、5月に予定される地方選挙前に労働組合、経営者などの合意をとりつけたいとしている。

 しかし、同国最大労組「イタリア労働総同盟」(CGIL、組合員約600万人)は安易な解雇が増大するとして、激しく反対している。そのため、法案の帰趨はまったく分からない。

 この激動の時代にあって、ひとたび仕事に就けば安泰であり、その権利を奪うべきではないという考えは、ほとんど「幻想」に近い。そうした考えが根強いかぎり、若い人たちの仕事の機会は増えることはない。今日の世界では、仕事自体の存在、存続性が限りあるものになっている。限られた仕事の機会をいかに公平に分け合うか、話し合いは労使の間ばかりでなく、労働者の間でも必要だ。

 イタリアに限ったことではないが、法律の導入は正しく状況が見通されている場合には、一定の整理の役割を果たすが、方向を見誤ると、かえって世の中の変化への対応を妨げる桎梏にもなりかねない。グローバルな変化を十分見据えた新しい労働観に基づいた政策を、労使などの関係者は共有しなければならない。現状は、イタリアも日本もかなり混迷している。どこの国でも、労働組合など組織された側の勢力は、未組織の分野に本質的に冷淡である。国家的な危機ともいえる今、組織労働者、未組織労働者の別なく、グローバルな展開を背景とする新たな労働市場観の形成と共有が必要に思える。

 久しぶりに、カヴァレリア・ルスティカーノを聴いてみたくなった。

 

“Labour Reform in Italy: Dangermen” The Economist  February 18th 2012.

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日本人であることに誇りを持てるか

2012年03月23日 | 午後のティールーム

 
Book cover, The Iron Lady by John Campbell.
London: Penguin book, 2009 *1
 


 メリル・ストリープ。やはりすごい女優だ。映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を見る。すでに多くの感想、映画評が出回っているので、重ねて書くことはしない。

 この映画、主人公であるマーガレット・サッチャー、そしてそれを演じるメリル・ストリープという二人の女性の強靱さに、感動した。現実のマーガレット・サッチャーは引退後、老いと病を背負いながらも、日没への日々を過ごしている。マーガレット・サッチャーを知らない世代が増えている中で、彼女がイギリスの首相であった時代のイメージは、まだ強く管理人の網膜には残っている。

 他方、メリル・ストリープもごひいきの大女優だ。「クレイマー・クレイマー」、「ソフィーの選択」「マディソン郡の橋」など以来、しばらく主演の映画を見る機会がなかったが、期待を裏切らなかった。スクリーン上に見るまでは、はたしてサッチャーになりきれるかという疑問もあったが、実際に見てみると、ほとんど違和感を感じさせない。イギリス英語の発声練習までして、この作品に臨んでいる。もっともメリル・ストリープは「ソフィーの選択」の時には、主役ソフィーのポーランド訛りの英語まで体得したようだから、自らの役に徹底しているのだ。変えることのできない容貌の違いについても、メーキャップの工夫で,違和感はなかった(メーキャップ賞受賞)。アカデミー賞主演女優賞授賞は、最初から決まっていたのだ。

 映画の中で、サッチャー首相が、衰退の色濃いイギリスの実態を批判するだけの野党や自党の議員たちの反対派(wets)を叱咤激励する場面があった。その時の言葉:”Take pride in being British.” (イギリス人であることに誇りを持て)が強く残った。

 
かつて「21世紀は日本の世紀」などと傲慢な言辞が聞かれた時代もあった。しかし、いまやこの国は満身創痍の状態といってよい。もはや部分的手直しでしのげる段階ではとうにない。屋台骨が揺らいでいる。国民ひとりひとりがどこまで自分の足で立って行けるか。サッチャーと考えるところは必ずしも同じではないが、この言葉の意味するところに、共感する部分は多い。

 鳴り物入りで打ち上げられた国家戦略構想も、東北大震災の復興プランも、骨格はどうなっているのか、国民の琴線に響いてこない。日本はどこへ行こうとしているのか。

 サッチャー首相は言う。「人々はあまりに感情に流され、考えることをしない」(People spend too much time feeling not thinking.*2) 

 このたびの東北大震災は国民の心胆を寒からしめたが、国民ひとりひとりが、安易な風潮に流されることなく、自ら深く考えることをしないかぎり、自滅するばかりだ。考えることは違っても、この時代を大きく変えたマーガレット・サッチャーの言葉を深く受け止めたい。




 

*1 マーガレット・サッチャーの伝記はすでに数多く出版されているが、本書は考証がしっかりしており、お勧めの一冊。映画と併せて読まれると、理解は格段に深まる。

 *2 これらの言葉は、アメリカなどの言論界へも影響を与えている。たとえば、次の論説を参照されたい。

 http://www.americanthinker.com/2011/12/new_film_reminds_us_we_could_use_a_dose_of_margaret_thatcher_today.html 

December 29, 2011

New Film Reminds Us We Could Use a Dose of Margaret Thatcher Today

日本の政治家にも煎じて飲ませたい。

 
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北北西に進路をとれ:バルカン半島、国境を抜ける人たち

2012年03月18日 | 移民の情景

 

 

Source: wikitour


  経済活動のグローバル化がもたらした負の側面から回避しようと、さまざまな動きが起きている。自国民の雇用が脅かされるとして、移民の受け入れを制限する国が増える一方で、少しでも経済状態が改善されると思う地域へ潜り込もうとする人々の流れが生まれている。

 最近注目を集めているのはバルカン半島だ。かつては「ヨーロッパの火薬庫」ともいわれ、民族問題の複雑な地域でもある。世界を震撼させたギリシャ財務危機もここから起きた。その中心であるギリシャ、そしてEU加盟を目指すトルコは、越境移民が注目する国だ。

ギリシャが出発点、ゴールは西欧
 
ギリシャ財政危機の余波で、仕事が見込める西ヨーロッパへ潜り込もうとする人たちがいる。その中には、内戦状態が激化しているパキスタン、シリアなどから避難を試みる人もいる。しかし、彼らが目指すEU諸国の基軸国ドイツ、フランス、イギリスなどは、最近移民受け入れ規制を強化しており、入国条件が厳しい。しかし、国境でのパスポート・コントロールがないシェンゲン協定地域へ入り込めれば、目的は達成できると考える人たちは多い。

 
そうした中、不法越境の手引きをする密航業者が目立つのが、トルコ、ギリシャである。彼らの手引きで、トルコからEUの東の前線であるギリシャに入り込み、バルカン半島を北上して西へ向かい、ヨーロッパを目指す不法移民の道が生まれている。

 その出発点となるトルコとギリシャの国境を隔てるイヴロス川は、越境者が目指す最初の拠点になっている。闇に乗じて冬の冷たい川を小さなボートなどで渡る。ここにも人身売買・密輸業者が待ち受けている。グループで入国を試みる場合、一人当たり300ユーロ、約400ドルを彼らに支払う。

 Frontex(EUの国境警備機関)は係官を派遣、ギリシャの警官と国境警備に当たるが人手が足りない。3月に入っても、渡河を手引きする密輸業者とFrontexの警備官との間で銃撃戦が起きた。この時、船に乗っていたのは、19人のバングラデッシュ人と6人のパキスタン人だった。

 越境を志す側からみると、ここを抜ければ、ヨーロッパへの第一関門の突破だ。もし発見され、逮捕されると、警察に短期間拘留される。強制送還されることもある。2009年にギリシャ入国のためにエヴロス川を渡った不法移民は、8800人。2010年は47000人。2011年は55000人と急増している。最も多いのはパキスタン、続いてアフガン、バングラディシュ、アルジェリア、コンゴ人などである。ある推定ではギリシャには50万人近い不法移民が滞留しているとされる。ギリシャから逃げる人もいれば、潜り込んでくる人もいる。 

 最初拘留されると、多くの場合、30日間、ギリシャ滞在が認められる書類を入手できる。すると、彼らは越境地点に近い鉄道駅にある「カフェ・パリ」へ行く。そこには若いモロッコ人密輸業者がいて、その先の密航の相談に乗る。彼らの一部は、ギリシャからフランスへ、タンクローリーなどに隠れて密航するのだが、その費用は4000ユーロくらいが相場とされている。航空機での出国は極めて難しい。

バルカン半島を北上する長い旅
 そのため、多くの場合、陸路でバルカン半島から北上して、その後ヨーロッパへ入る。ギリシャからマケドニア→コソボ→(モンテネグロ)→セルビア→ハンガリーの経路をたどる。かつては、ルーマニア、ハンガリーから不法越境でギリシャに入り込む移民たちが多かった。名画「永遠と一日」の世界だ。今、流れは逆転している。

 ギリシャからオーストリアへ入り込もうとする越境者もいる。彼らは、ギリシャ、アルバニア、セルビア、モロッコ人などの密輸業者の手引きに頼る。費用はおよそ2800ユーロ。いずれにせよ、長い危険な旅路だが、越境者は所々で長期滞在し、身分証明書を確保したり、旅の費用を稼ぐ。ヨーロッパへの旅は長い。

移民で溢れるトルコ
 実はギリシャと国境を隔てるトルコも移民で溢れているという。彼らはアフガニスタン、イラン、パキスタン、そして最近では内戦状態のシリアからやってくる。トルコは不法移民をなんとか減らしたいと考えている。そのため、ギリシャへ向けての越境者に厳しく対していない。さらに、トルコ政府は膠着状態のEU・ブラッセルとの外交関係を改善するために、この移民を交渉材料に使おうとも考えているようだ。

 越境者の多くはギリシャからバルカン半島を北上し、ハンガリーをめざす。そうすれば、オーストリアへも容易に入国できるし、シェンゲン協定のおかげで国境管理なしに、イギリスを望むフランス大西洋岸カレーにまでも行けるからだ。越境者たちは、金さえ稼いでいればなんとかなると考えているようだ。かくして、アジア、中東から西ヨーロッパへの越境者の流れは絶えない。門扉を閉ざす者がいれば、それをくぐり抜ける者もいる。

 移民をめぐる議論は果てしない。極東の島国に住む日本人には、今でも遠い国の話としか聞こえていない。しかし、移民も観光客も来たくないような国に、日本をしてはならない。




Illegal immigration, The Economist  March 3rd-9th 20
ATHENS NEWS 17 March 2012

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ブログに収まらないテーマ

2012年03月11日 | 特別記事

 




 この日、メディアはあの想像を絶した大震災のことで埋め尽くされている。当然ではある。あの日から今日まで1日たりと、頭の片隅から消えたことはなかった。自分が消え去る時まで、そこに残るだろう。

 この大震災が起きる前から考えていたことがあった。この世の中の仕事に、「きれい」、「汚い」という区分はできるのだろうか、という問題である。突拍子もない問題だが、前回まで記してきた、貴族の「貴さ」(noble, nobility)とは、いかなることなのかという問にも関連している。

 福島第一原発の廃炉化に向けて、その最前線の現場で、多くは下請け労働者として、身の危険と隣り合わせて日夜働いている人たちの仕事は、危険で、しかもきれいさとは隔絶されたように遠いものだ。しかし、今日の文脈でみれば、本質的に最も「貴い仕事」ではないか。しかし、その仕事にいつ終止符が打たれるのか、誰にも分からない。

誰もやりたくない仕事
 
厭な仕事は誰がするのか Who will do the lousy work? という問いは、アメリカでは1970年代頃から折あることに提起されてきた。最近もある雑誌が「なぜアメリカ人は汚い仕事につきたがらないのか」Why Americans won't do dirty jobs.というテーマで、この問題をとりあげていた。

  いかに失業率が高い国であっても、自国民労働者が働きたがらない仕事がある。これらの仕事はしばしば lousy jobs (汚い、厭な仕事)あるいは文字通り dirty work (ダーティ・ワーク)と呼ばれてきた。しかし、その内容は一口に説明できない。国や時代、あるいはそれらが使われる状況によって受け取り方に違いがあるからだ。ちなみに、ODEによると、lousy とは「非常に劣悪な」という意味で、怒りやさげすみ、迷惑な、などの含意があるという。

 より狭めていえば、自国民が就きたくないと思う仕事と考えられてきた。賃金水準、労働環境、仕事のイメージなどが、劣悪、低質であり、失業者といえども働くことをためらったり、拒絶するような仕事である。

 他方で、「華やかな」政治やビジネスなどの舞台裏で、取り交わされる裏金取引のように、社会倫理に背く、後ろめたい、時に犯罪の匂いもするような仕事を意味することもある。国民の税金で養われながら、それに相当する仕事をしていない公務員や政治家も含まれるかもしれない。「公僕」とは、遠い昔の言葉になった。

 
今回は、前者に近い意味で、自国民が就きたがらない仕事の意味に限定して、最近いくつかの国で起きている問題を少し考えてみた。あくまで、メモにすぎない。雇用状況に改善の兆しが見られてきたアメリカでも、消えることのない問題だ。

 あなたはこの仕事をしますか Do you want this job?
 
アメリカでは、典型的には農業労働者、建設労働者、鶏肉、魚介などを処理する労働者、ホテルなどの清掃労働者などが「ダーティ・ワーク」の例として挙げられてきた。たとえば、分かりやすい例では、南部の魚加工工場で、ナマズなどの魚を処理する手作業である。海に囲まれ、魚好きな日本人と比較して、アメリカ人は魚を食べることが少ない。そのため、魚自体への偏見?もある。工場では、魚の腐敗を防ぐため、室温を低くし、コンベヤーなどの機械音が騒々しい室内で、一分間に8匹の魚を手作業でさばく。水浸しの作業で、汚れ除けの合羽と長靴姿でコンクリート床での立ち仕事である。しかし、時間賃率は7ドル25セント(600円くらい)と、州の最低賃金水準だ。

 
別の例は、日陰など一切ない炎天の農場で、トマトや苺などを採取する労働者だ。歩合制の仕事だから、がんばらないと生活すらできない。採取したトマトが入った重いコンテナーを担いで朝から夕刻まで働く。一日働くと、腰が痛くて翌日歩けないほどになる。寝るところは近くのトレーラーハウスだ。賃金はこれも最低賃金に近く、国内労働者は見向きもしない。

  アメリカでは農業労働は長い間、メキシコ人などの季節労働者に依存してきたことがあり、(一般には)アメリカ人の仕事とは考えられていない。不法移民への規制が厳しくなったこともあって、南部では収穫作業が行われず、野菜や果実が放置されたままの農場などが目立つようになった。

  こうした事態は南部諸州の一部で、新たな問題を生んでいる。メキシコなどからの不法移民の増加で、社会的摩擦などが激化したアラバマ州では、2011年9月29日、HB56として知られる移民新法を制定した。これによって、街頭などで不法移民とみられる人物に、警察官が尋問することを求め、合法入国を証明できる書類を保持していなければ、本国へ強制送還される。そればかりでなく、彼らを雇用した企業を処罰するという内容である。これまでもいくつかの州では、移民労働者を雇用する使用者に、合法移民であるか否かの確認を義務づける州はあった。しかし、不法移民抑制という点で、実際の効果ははかばかしいものではなかった。

 今回の新法の導入によって、アラバマ州などでは、不法滞在者が他の州へ流出する事態が起きた。さらに、明らかに移民と分かる人々への市民の冷たい対応が目立つようになり、合法的な移民まで州外へ流出するという状況が生まれている。農業労働者などがいなくなり、結果として多くの求人が埋められない事態が発生している。農場ばかりか、魚の加工工場などからも労働者が消えてしまった。

 当該新法を施行したアラバマ州では、現在20万人以上が失業している。しかし、アメリカ人はこれらの仕事に、もはや就く気持ちはないようだ。最大の理由は、賃金水準がきわめて低い上に、「移民の仕事」というラベルが貼られているからだという。ひとたび、こうしたイメージが根付いてしまうと、変えることはきわめて難しくなる。 

異なるイメージ
 イメージの形成は、仕事の内容と必ずしも関連していない。たとえば、ヨーロッパでは自動車工場の労働は、しばしば移民労働者と結びつけてイメージされてきた。単調で厳しい流れ作業の労働は、国内労働者から敬遠されてきた。


 他方、アメリカでは自動車生産は、今でもアメリカ人が就くべき工場労働の仕事と考えられている。最近のデトロイトの復活に際しても、アメリカ人の仕事が戻ってきたと歓迎されている。

 
別の例を見る。韓国では製造業の大半を占める中小企業が、厳しい人手不足に直面している*2。これまでかなりの部分を外国人労働者に依存してきたが、政府が導入した割り当て制(「外国人雇用許可制度」)のために、必要な数の労働者を確保できないという。今や同世代の8割近くが大学を目指すという高学歴指向のお国柄だ。国内労働者はIT産業など、高度な産業分野を目指し、賃金が低く労働条件の悪い中小企業には就労したがらない。

 そのため、外国人雇用許可制度の下で、外国人労働者の争奪戦が起きている。この制度では、外国人労働者を最長4年10ヶ月雇用できる。しかし、その数は割当制であり、政府の雇用センターへ申請の上、規定数の労働者が割り当てられる。国内労働者が働きたがらない職種がほとんどである。国内労働者の6割程度の賃金といわれ、自国民労働者では充当できず、外国人労働者を受け入れて、かなり依存してきた。発展めざましい韓国の産業を支える基盤の一部になっている。IT、自動車など、今では日本を追い抜く勢いの韓国産業だが、底辺部分の中小企業の様相は大きく異なる。

厳しい労働環境と高い労働移動率
 
日本では国民的議論にはならない。しかし、現実には同じ問題が、この国でも進行してきた。日本人が働きたがらない仕事の増加である。例として、1980年代の人手不足時代に急増した外国人労働者が働く仕事が挙げられる。「単純労働」といわれてきた熟練度の低い、労働条件が厳しい仕事である。日本人の労働者が集まらなくなり、外国人労働者が働くようになった。

 外国人労働者に依存する仕事の分野はその後、かなり拡大・多様化した。当初は土木、建築工事などの下働き、中小企業の肉体労働、農林・漁業、サービス業などの仕事が多かった。その後、彼らの就労する場は、自動車、電機など大企業のかなり基幹的仕事まで拡大した。日本の労働者には賃金などの労働条件が厳しく、魅力が少ない仕事と考えられた。。

 21世紀に入り、長く停滞した経済環境の下で、状況はかなり変化した。仕事を失った外国人労働者の中には、帰国する者も増えた。さらに、高齢化の進行に伴い、人手不足がゆえに放置されたり、減衰した産業分野も多い。中小・零細企業、伝統的職業などでは、消滅してしまったものもある。

 他方、介護・看護などの職業分野は高齢化の進行を反映して、仕事の数自体は拡大したが、労働条件が厳しく、離職率が高い。最も人の道に沿った仕事であるにもかかわらず、従事する人たちの労働実態は過酷である。

地元に吸引力を取り戻す
 アメリカ人のイメージする「ダーティ・ワーク」にしても、さまざまな改善の試みがなされてきたが、速効が期待できる対応策はない。中期的に効果が期待できるのは、こうした仕事の対価を着実に引き上げて行き、国内労働者を含めて、働き手が集まってくるような仕事の環境作りだ。移民受け入れ制限も程度が過ぎると、アメリカの農業労働者のような事態が生まれる。移民の受け入れ政策は、壁を高めるのではなく、適切な受け入れの経路と秩序の設定で対応すべき問題なのだ。

  福島県を含め、東北被災県から人々が流出している最大の理由は、原発の放射能という「見えない壁」の存在にある。津波の被害もさることながら、不安の源である原発の存在が人々の定着を難しくしている。「壁」の外へ心ならずも、移住しなければならない。そして、壁の存在故に故郷へ戻ることができない。壁の外に安心して働き,家族を養う場所も少ない。その不安の源を解消することが最大の問題であることはいうまでもない。

  復興庁本庁は霞ヶ関ではなく、被災県域内に置くべきだった。問題の根源に実行主体を出来るだけ近づけることは必須のことだ。やっと看板が掲げられた復興庁だが、その役割を果たすについては、被災地の要望に迅速かつ強力な支援で応えねばならない。被災疲れがありありと見える人々をこれ以上、流出させてはならない。震災後一年を経過した今、被災地の衰えた「地域力」だけでは、もはや復興はおぼつかない。ボランティアにも疲労の色が見える。精神的支援にとどまらず、地域の復興力を物心両面で支援・創出することは欠かせない。多様な能力を持った人たちが、域内に移住してくるように、魅力ある地域に発展させねばならない。

 そして、首都直下型地震の勃発が遠くないことを考えるならば、やはり「東北都」の実現に向けての政治、産業・雇用基盤の充実が欠かせない。復興庁は復興都庁になるべき役割を負うべきなのだ。この小さな日本列島で、次に被災するのは首都圏の人々である可能性はきわめて高い。マグニチュード7程度の大地震が、首都圏直下で起きる可能性は、30年で実に70%とまでいわれている(地震調査研究推進本部)。その時、支えになってくれるのは、現在の被災地であるかもしれない。

 

 

 

 ”Do You Want This Job? ” by Elizabeth Dwoskin. Why Americans won't do dirty jobs. Bloomberg Businessweek, November 20,2011.

*2 World Web Tonight, February 9th 2012

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貴族の処世術(10);ロレーヌ公国の下層貴族(続く)

2012年03月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会(ヴィック)銅版画
Emile auguin, Eglise Saint-Marien (Vic sur Seille), Gravure.
Source; Paulette Chone. Georges de La Tour

 

 

 

なにが、ジョルジュを貴族にさせたか

 画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品ならびに生涯については、美術史などの研究者の地道な努力によって、かなりのことが明らかになった。しかし、不明な部分の方がはるかに大きい。特に、少し立ち入って作品を鑑賞してみたいと思う側として、ぜひ知りたい中核の部分が明らかにされていない。たとえば、この画家が1593年3月14日、ロレーヌの小さな町ヴィック・シュル・セイユで洗礼を受けた後、16161020日、23歳で、同じ町の知り合いの子供の洗礼の代父として突如記録に登場するまで、公的な文書記録としてはなにも残っていない(1613年に同名の画家がパリにいたという謎の文書はあるが)。画家が最も重要な時期である画業の修業を、どこで受けたかという点についての情報がないのだ。これは、同時代のより知られていない画家については、ごく普通のことなのだが。 

  その後、画家の名が次第に公文書などの記録に残るようになってからも、不明な点は数多くある。そのひとつ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、ある時点からロレーヌ公国の貴族に列せられたことは確かなのだが、いつから、いかなる背景の下で貴族になったかという点は明らかでない。

 もちろん、ジョルジュが妻として娶ったディアヌス・ル・ネールの父親が貴族であったことは確実な記録として残っているが、貴族の娘を妻としたからといって、画家の夫が直ちに貴族に列せられることはまずない。そこには、さまざまな要因が働いたと考えられる。

 ラ・トゥールの才能を発掘したと思われるメッツ司教区ヴィックの代官ランベルヴィリエールなどの影響も十分ありうる。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの母親の家系は、貴族の血筋を引いていたかもしれないという研究もあるが、これが直接影響したとは考えられない。仮に幼いジョルジュが、その話を母親から聞いていたとしても、それがなんらかの結果に結びついた可能性はきわめて少ない。マウエ家の例のように、子孫が貴族であった先祖のことを持ち出して、復権・継承を請願するようなことはありえないだろう。もちろん、こうしたことが貴族への願望につながったことはあったとしても。

 1620年7月、画家が27歳までの間に、多くのロレーヌの画家のようにイタリアへ画業修業に赴いた可能性はきわめて低い。当時のローマなどイタリア文化礼賛の空気を考えれば、ローマに行っていれば、ロレーヌ公への請願書に記したことだろう。

 
画家についての謎は次々と浮かんでくる。あたかもクイズを解いていくような面白さがある。

 
今回、概略を紹介したロレーヌ公国の下級貴族マウエ家の記録文書は、ラ・トゥールと同時代を同じ地域で生きた貴族の生き様を伝えており、さまざまな点で参考になる。貴族となったジョルジュ・ド・ラ・トゥールの専横な振る舞いとされてきた点も、当時の下級貴族たちの生き方と多くの点で重なっており、とりわけラ・トゥールに固有な問題ではないと思われる。

  貴族に任ぜられた後のラ・トゥールの考えや行動にも、探索に値する多くの謎が多数残されている。画家本人に直接かかわる記録がなくても、同時代に生きた人々の記録などが、新しい理解につながる糸口となることは十分ありうる。

 

  もしかすると、今後もラ・トゥールに関する新たな文書あるいは作品が突然見出される可能性もないわけではない。作品の裏を読む興味が、長らくこの画家に惹かれてきたひとつの要因かもしれない。脳細胞が動いている間、もう少し探索の旅を続けてみたい。

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