時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

消えていなかったランターン

2011年10月24日 | 午後のティールーム

 

記憶の中のランターンは、これよりずっと大きく赤銅色で輝いていた。 





 
まだほんの10年くらい前のことのように思っていた。ある新聞記事を読んでいると、その光景が脳のどこからか浮かび上がってきた。もう30年近い年月が過ぎていたのだ。

道路に置かれたランターン
 青空がほとんど見えることなく、連日どんよりと曇った日が続いていた。寒気も厳しく、町も薄汚れた感じで活気がなかった。行きつけの書店があるチャリングクロス通り(古書店などが多い)も、人通りは少なかった。ある寂れた書店の前で、一見して労働者と思われる頑強な体躯の若者が2、3人、小さなプラカードを掲げてカンパを求めていた。前に置かれた段ボール箱には、わずかな貨幣と泥がついたままの野菜以外、ほとんどなにも入っていなかった。

 1984年から85年にかけて、イギリスの全国炭鉱労働者組合(NUM; National Union of Mineworkers) が、サッチャー政権へ抗議するストライキが大きな話題となっていた。当時、政治ストは違法とされていた。彼らはどこかの炭鉱町からロンドンへ出て、カンパに頼りながら抗議運動を行っていたのだ。そして、こうした行為には、警官が巡回して追い払うか、拘束しているようだった。労働組合を経済・社会の改革を阻害する組織勢力として敵対視した「鉄の女」The Iron Ladyの意志は強かった。結局、85年に組合の敗退は決定的になった。1992年までに多数の「非効率な」炭鉱が閉鎖された。

 カンパを募る箱の傍らに、見事な赤銅色に磨き上げられ、いかにも重そうな金属製の一個のランターン(坑内作業用の安全ランプ、デービー・ランプの名で知られる)が置かれ、小さくSale
と手書きされた紙が貼られていた。きっとこれまで毎日仕事が終わった後、入念に磨かれ、大切に手入れされていたのだろう。点灯されていたわけではないが、その重厚な存在感に、なにかあやしい魔力を秘めているかのように惹きつけられ、思わず見入ってしまった。

 ひと目でかなりの風雪を経たものと思われ、それ自体が生命を宿しているかに思えるほどだった。もしかすると、炭鉱夫の家で親子代々受け継がれてきたものかもしれない。ランターンはピケット
pickaxe (つるはし)
とともに、炭鉱夫にとっては入坑の際の必携品であり、彼らにとっては命とも思われる道具ではないか。それを手放そうとしている。しかし、道行く人の誰も見向きもしていなかった。

 
思わずランターンの魔力に引き寄せられるかのように近づいた時、23人いた若者の誰かが短く口笛を吹いた。そのとたん、彼らは路上に置いてあったわずかな品物をつかむと、あっという間に立ち去ってしまった。その数秒後だった。2頭の馬に乗った警官が現れた。組合の活動を厳しく取り締まっていたのだ。しかし、若者たちの姿は視界にはなかった。


 
1984年はイギリス現代史の上で、「炭鉱争議の年」として記憶されている。その後、労働争議も労働組合員数も激減していった。

 


湧き上がったカウンター・カルチュア
 ギリシャに端を発する世界的金融危機に、固唾をのむこの頃の世界だが、それでも今のロンドンは当時と比較すると、見違えるように明るくなった。人通りも多い。見事に再生を果たしたのだ。しかし、それは決して平坦な道ではなかった。

 「鉄の女」の時代は、パンクロックなど数多くの「カウンターカルチュア」(反体制文化)を生み出した。地底からわき上がるような文化のうねりが、源だった。次々と新しい音楽、演劇、小説などが生まれていた。ビートルズはずっと以前(1970年)に解散していた。



 天変地異が世界を揺るがしている今年、アメリカを含む多くの国で、政治への反発、不信が高まっている。新しい時代が生まれる前兆だろうか。

 まもなく、マーガレット・サッチャーに、名女優メリル・ストリープが扮した映画「ジ・アイアン・レディ」The Iron Lady が公開されるとのこと。ブログにも記した
『ソフィーの選択』 (1982年)、『めぐりあう時間たち』(2002年)以来のごひいきだ。どんなアメリカ版サッチャーとして現れるか、楽しみでもある。

 この後、ある集まりで、サッチャーの話をしかけて、途中で止めてしまった。彼女のことは、誰も名前程度しか知らなかった。



 

 

『「マーガレット・サッチャーの復活:「ニューヨークタイムズ・マガジン」から』『朝日新聞』GLOBE、2011年10月16-11月5日、日本語版は抄訳。原記事は下載。

‘The Iron Lady as Anti-Muse’ The New York Times Magazine, September 23, 2011.

上記記事中のThe 6th Floor Blog のAntiーThatcher Song には改めて驚かされます。

コメント (2)
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機能しないトランポリン・ネット (+ 追悼ジャック・テュイリエ氏)

2011年10月17日 | 労働の新次元

 

 17世紀は小氷河期であったともいわれ、酷寒、強風などの気象異変が、ヨーロッパ大陸の人々に農作物不作、飢饉などの多大な苦難をもたらした。そうした状景を描いたフレミッシュの画家の作品。

Flämisches Gemälde aus dem frühen 17. jh. ( DER SPIGEL, GESCHICHTE, NR.4,2011)



 世界は天変地異の時代に入ったのかと思うほど、いたるところで、さまざまな天災・人災が起きている。東北大震災と並んで世界を震撼させているギリシャ発の通貨危機も、源をたどれば人間が生み出した金融制度が破綻してしまったのだから、広く考えれば人災かもしれない。30年戦争の舞台となった17世紀ヨーロッパは「危機の時代」と呼ばれ、酷寒や酷熱、農産物不作、飢饉などが人々にもたらした苦難は今日の比ではなかった。


例のごとく、再び現代世界に飛ぶ。


 
  ブログで取り上げるにはあまりに重い課題だが、このところ頭から離れない、いくつかの問題がある。そのひとつは、民主党政権へ移行した頃から気になっている雇用政策のあり方だ。メディアに失業、雇用に関する政策が取り上げられることが、目に見えて少なくなっている。東北大震災・原発問題に追われ、政策強化が手薄になっているとしたら大変なことだ。両者は密接に関連している。

 
 このところ3年余り、NPO活動、「緊急人材育成支援事業」(民主党連立政権後に導入された月額手当付き職業訓練制度により、求職者を支援する制度、10月から一部制度改正「求職者支援制度」)などに関わることで、微力ながら職を求める人々の現場に接してきた。しかし、東北大震災発生以後すでに7ヶ月になる今、かなり衝撃的な事例に接するとともに、現在の雇用政策が果たす役割が格段に劣化しているという思いが強くなってきた。求職支援を求める人の中にも被災地関連の人々の姿がかなり目につく。

 
面接相談などで接する人々の年齢、性別、職歴、教育歴などは、これまで以上に多様化している。中心は20-30代の比較的若い年齢層、60歳代の高齢者層に入りかけている人々が多いが、次第に50歳代の中年層も含めた働き盛りの人も目につくようになった。若年層と高齢者一歩手前の人々の失業率が高いことは、欧米諸国の特徴であったが、日本でも同様な状況になっている。

 
高年齢層の人々の職歴、人生歴は当然かなり複雑なのだが、大学卒業以来ほとんど2年以上、職業といえる仕事に就いたことがない(就けなかった)という人たちの相談を受けることもきわめて多くなった。こうした人たちの話を聞き、最も憂慮するのは、安定した職業機会がきわめて少なくなっていることだ。さらに、技能研修・訓練などを求める人々の背景や希望は多様化が著しく、一律の対応ができない。

 職業訓練制度の脆弱化は著しく、支援・訓練期間修了までに就職できる人の比率はきわめて低い。そして、細々とした不安定な仕事を見つけながら、次第に失業者、そして生活保護者の段階へと降下して行く実態を見るのはきわめてつらい。本来、こうした時に力になるべき労働組合も組合員の雇用維持で、精一杯であり、非組合員の雇用斡旋などは、ほとんどできていない。

働く意欲を失う人々
 最近の日本の失業率が一見すると、欧米諸国より低位に見えるのは、仕事の機会が少なくなり、求職・就業の意欲を喪失して非労働力化してしまうことが大きな原因になっている。この点は失業の長期化からも明らかだ。長引く失業に心身ともに疲労し、すり減ってしまう。以前ならば、社会の中核を担う安定した仕事に十分つける能力を持った人々が仕事に就けない。

 「トランポリン・セーフティネット」という耳ざわりの良い政策スローガンだが、実態とはほど遠い。トランポリン機能はほとんど働いていないというべきだろう。下層のセーフティネットに降下するほど、意欲は喪失し、上昇志向は潰え、生活保護の現状にあまんじてしまう人が多い。現行制度はしばしば人々に自分で跳ね上がる意欲を奪っている。「求職者支援制度」などの存在を見出し、参加したいと考える人々には十分可能性は残されている。憂慮すべきことは、そうした制度の存在も知らず、あるいは知っていても無気力に過ごす人々の増加が静かに進行していることだ。

 
 職業訓練の実態を見ても、増加する希望者に対応できる訓練・指導能力を備えた人々自体著しく払底している。グローバル化が進み、社会の変化の速度が早くなった今日の社会では、こうした求職者は生活が窮迫化するにしたがい、先や周囲を見通す余裕もなくなる。自分の将来が見通せず、不安がつのり、うつ病的精神状況の人々にも多数出会う。

 
こうした状況を見ていると、政府は雇用政策を根本から考え直し、政策の最前線に押し出すべきだとの思いが強まる。多くのメディアは荒廃した雇用の実態だけを報じ、あるべき政策の提示ができていない。社会不安を高めるばかりである。グローバル化の展開とともに、労働の世界はコールセンターなどの例を挙げるまでもなく、人々の想像を超えるほど変化している。国境を越える労働力の流動化も主要国の受け入れ制限、保守化にもかかわらず、新たな形で進んでいる。政策構想が変化に対応できていないことを痛感する。

必要な過去からの脱却
 
雇用政策といっても、伝統的にその中心は失業者の救済、そして初めて労働市場に参入する新卒者の雇用確保に置かれてきた。言葉は適切さを欠くが、事態の後追いになっている。ひとたび失業者の段階に入ると、彼らをしかるべき雇用の場に戻すにはとてつもない努力と資金が必要になる。

 
全体として雇用政策の重点は、依然として、失業した人たちの救済、再就職への斡旋、訓練に置かれている。新しい雇用機会の創出が叫ばれていながら、(農林水産業を含めて)産業政策と雇用政策は明示的にリンクされ、一体化していない。両者の間により明瞭な政策のつながりを構築、国民に提示すべきだろう。雇用は最終需要、産業の拡大なくしては増加しえない派生的需要なのだ。

 
被災地復旧・復興にしても、被災地への政府機能の大幅移転を含めて、率先して雇用機会の創出に当たるべきだろう。とりわけ、国民を覆っている名状しがたい不安の源のひとつである原発問題の解決は、最重要課題だ。真の解決が生まれるのかさえ、定かでない現実である。

 こうした努力を通して、初めて被災地に光が射し始め、民間企業などの復活、移転も地に着いてくる。民間ヴォランティアなどの人々の努力にはひたすら頭が下がる。しかし、全体の復旧・復興には、政府の大きなてこ入れが欠かせない。精神的励ましは必要だが、それだけでは乗り切れない。

 
アメリカ、ヨーロッパなどで問題化している格差拡大の源を糾弾する運動を起こすほどの意欲が今の日本には失われている。一見、黙々と復興に努めているかに見えるこの国の病態は、先進国の中では格段に厳しい。被災地視察の回数?を誇る政治家もおられるようだが、本質を見ているのだろうか。残された時間は少ない。国家債務の破滅的増大を始めとして、Turning Japanese(日本人のようになる)とは、今や欧米諸国が最も恐れることでもある。

 当初、小さな憩い、やすらぎの場を考えていたこの小さなブログが、スタートした頃の意図から外れ、図らずも「危機の時代」であった17世紀、1930年代恐慌時の問題を多く取り上げているのは、最近のこの国の様相が同時代だけを見ていては見えてこないという思いもある。こうした危機から脱却するには、先を見通した政治家の英断が欠かせない。ニューディール政策も実際はかなり試行錯誤であった。しかし、後年ニューディーラーといわれる活動に参加した人々の回想を聞くと、そこには恐慌で打ちのめされたアメリカ経済をなんとか活力ある軌道へ押し戻そうとする人々の熱情ともいうべき思いがこめられていた。

 被災地とりわけ国民の不安の源でもある原発問題の一刻も早い解決のために、復興庁ばかりでなく、政府機能の大幅な被災地への移転など、こうした未曾有の危機的状況でしか実現しえないことが実行されるべきではないか。政府主導の地域復興に光が見えれば、民間企業などの復興基盤強化の動きも高まるだろう。雇用はそれ自体では生まれない。最終需要・生産活動の拡大があって、はじめて派生的に生み出される。最も問題の深刻な地域へ国の総力を結集するという思い切った政策実施への決断が望まれる。



 'Turning Japanese' The Economist July 30th-August 5th 2011.


☆ フランス17世紀美術史の大家 JACQUES THUILLIER ジャック・テュイリエ氏(コレージュ・ド・フランス名誉教授)が、2011年10月18日ご逝去されました。このつたないブログにも、度々お名前を登場させていただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


http://www.college-de-france.fr/default/EN/all/historique/jacques_thuillier.htm


http://www.latribunedelart.com/disparition-de-jacques-thuillier-article003316.html


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30年戦争の中のロレーヌ(3)

2011年10月11日 | ロレーヌ探訪

 

甲冑姿のロレーヌ公シャルルIV世 
銅版画との対比が興味深い

Portrait de Charles IV
Nancy, Musée Lorrain



 

  17世紀、30年戦争当時のテーマをブログで、何度か取り上げているのは、単なる懐古趣味ではない。明示してはいないが、長くブログにおつきあいいただいている皆様には、漠然としてではあるが少しずつ伝わっていると思う(笑)筆者のある思考のネットが背景にある。

 30年戦争が世界史最初の「国際戦争」ともいわれ、ヨーロッパのほとんどの国がさまざまに関わり、人口比にすれば第二次大戦を上回るかもしれないといわれる多数の犠牲者を生んだ悲劇の舞台を、できるかぎり客観的に知りたいという思いが根底にある。30年戦争は、近年新たな関心も呼び起こし、優れた研究者も現れている。事態はかなり複雑で、新たな史観、史実の解釈も生まれている。

 現在も展開しているアフガニスタン・イラク戦争は、およそ8年近くを費やしたヴェトナム戦争同様に泥沼化し 、21世紀の「10年戦争」 とまで言われている。最大の当事者であるアメリカはいったい何年、戦争に関わってきただろうか。戦争の原因はそれぞれに異なるとはいえ、人類はいつになってもお互いに殺し合うという愚行を改めることがない。そこではしばしば「正義」Justice という怪しげな言葉が掲げられることが多い。

 

再び17世紀へと時空を飛ぶ

 

ロレーヌをめぐるフランスの野望

  ロレーヌ公シャルルⅣ世は、フランスがメッス、トゥール、ヴェルダンの3司教区を保護領として手中にし、それらを足がかりとしてさらに公国への影響力を拡大・発揮することを嫌っていた。これらの保護領は、フランスから見れば公国へ影響力を発揮するいわば布石となっていた。トゥール、ヴェルダンの2つについては、すでにフランスの実質支配が成立していた。

 メッスは伝統的にフランスが支配力を発揮しようとするための拠点になっていた。シャルルは、なんとかしてメッスでのフランスの政治的影響力を弱め、中立化させようと考えたようだ。シャルルについては、リシュリュー嫌いの偏狭な君主という見方も強いが、自分なりに父祖伝来の地ロレーヌを守りたいという意気込みもあった。しばしば血気にはやり、傍目にも策謀と分かる考えで動いてしまうような人物だった。それでも、歴史に名を残した偉大な父祖たちの築いたロレーヌを守りたいと思いは強く流れていたようだ。勝ち目がない戦いと思っても、シャルルを君主と仰ぐロレーヌの人たちも少なくなかった。

 


17世紀30年戦争当時のアルザス、ロレーヌおよびフランシュ・コンテ(フランス東部の昔の州)。シャンパーニュはロレーヌの西側、パラチネート(プファルツ)は東北部に位置。南東部はスイス。


 

 16302月、シャルルの要請で2700人の神聖ローマ帝国軍がメッスを占領した。メッス司教区の飛び地領ヴィックとモイェンヴィックは、フランスからヴォージェ山脈を経由してアルザスへ向かう主要経路の拠点になっていた。この当時、別の外交危機に対応を迫られていた宰相リシュリューは、このシャルルの動きを過大評価してしまい、全面的に帝国軍がフランスへ進入してくる先駆けかもしれないと考えたようだ。そして、対抗手段として、シャンパーニュ(ロレーヌの西部)へ大軍を派遣した。

 ちなみにリシュリューの戦略は、時にこうした過剰な対応や、誤った判断もあったが、全体としてきわめて巧みであった(この点についても、近年リシュリューが関わった戦争について、新しい史実の発見などもあり、大変興味深い。戦略家としてのリシュリューの面白さについては、触れる時があるかもしれない)。
 

 実際には、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンドは戦線を拡大する意図はなかった。しかし、皇帝の周辺には、この機会を利用しようと思っていた人物もいた。フランス自体、しばしば内乱に揺れ動く、確固とした国家基盤ができていない時代であり、その隙に便乗しようとする者も多かった。

 たとえば、資産家パトロンのオリヴァーレ
はシャルルに資金援助し、ガストンにフランスへ侵攻させようとした。フランスがオランダを支援することを抑止するという意味を含んだこの対応は、実現すると、フランスには大きな問題だった。

 ガストンはアルザス、バーゼル、さらにヴュルテンベルグの支配下にあったモンペルガールなどへまで出かけ、兵隊を集めることに奔走していた。この時代、君主や領主に直属する兵士は少なく、主として傭兵であり、そのための資金力がものを言った。傭兵は戦時に金で雇われる。概して、支給される報酬と戦果をあげた時の報奨への期待で集まってきた。
1632年5月までに彼は2,500人の騎兵を集めた。他方、シャルルは15,000人を集めた。


 しかし、その集めた傭兵たちの統一のとれない実態を見て、策謀に走り、実戦経験に浅いシャルルは、自分には軍隊も十分管理できないことを悟った。さらに、そうした兵力が集結していること自体が、リシュリューの怒りを買い、フランスがシャンパーニュにいる軍隊をロレーヌに進入させるのではないかと恐れた。

 それでも、シャルルは
163110月にライン川を越えた。しかし、彼の軍隊は風邪にかかる者が多く、下パラティネート(現在のプファルツ)をスエーデン軍が占領することすら防げなかった。一ヶ月もしないうちにかろうじて生き残り、統制もなくなった7000人近い傭兵たちは、ライン川を渡り逃走に追い込まれた。

 

 ロレーヌからシャルルが離れている時を狙って、フランス軍は謀反したガストンへの軍事的対応を理由に、ロレーヌに侵攻した。12月末、帝国側軍隊はヴィックとモイエンヴィックで降伏した。フランス軍をなんとか追い払おうとした試みは、16325月、フランス軍の再度の侵攻を招いた。そして、620日にはリヴェルダンの講和で敗戦を認め、なんとか事態を治めざるをえなかった。 

 結局、シャルルの軍隊はロレーヌのいたる所で敗退、降伏し、フランスは3つの司教区と飛び地領などを確保し、戦略上重要なアルザスへの道を確固たるものとした。(迅速な連絡手段がない時代であり)、まったく悪いタイミングで、3日後にガストンはわずか5,000の軍でフランスへ進入した。彼はラングドックの知事の協力をかろうじてとりつけたが、ユグノーは痛いレッスンを受け、ガストンを支持して挙兵することはできなかった。ガストンは逃走したが、彼に協力した知事は処刑され、ガストンたちは163410月王とリシュリューに忠誠を誓わされる羽目になった。

ガストンとシャルルの晩年
 しかし、ガストンの反フランスの策謀はこれで収まらず、繰り返し同じような陰謀を繰り返した。一時はリシュリュー枢機卿暗殺まで画策、失敗している。しかし、1643年にルイ13世が死去すると、フランスの陸軍大将、1646年にはアランソン公になった。だが、フロンドの乱に際し、マザラン枢機卿といさかいを起こし、1652年にブロワに蟄居させられ、そこで生涯を終えた。ブロワ城はかつて母后マリー・ド・メディシスが、息子ルイ13世によって一時幽閉された場所でもあった。

 他方、ロレーヌ公シャルルはロレーヌ人としての独立心を強く抱いていたが、軍事戦略は拙劣であり、周辺にも適切な判断ができる軍事顧問もいなかった。結果として拙劣な行動に終始し、ロレーヌ公の地位を弟ニコラ・フランソワに譲り、亡命することになる。その後もさまざまな形で、反フランスの策動を図ったが、いずれも敗退した。1661年にいちおう復位するが、1670年には公国はフランスの占領するところとなる。シャルルは結局ネーデルラント継承戦争に神聖ローマ帝国軍の一員として参戦、軍務の間に死去した。

屈辱の時 
 
1634年11月8日、リュネヴィル市民のひとりひとりが、ルイ13世への忠誠誓約書に署名した。この時すでに、メッスにはフランスの高等法院、ナンシーとリュネヴィルにはフランス王室の総督が配置されていた。

 
小国ながら大国何者ぞという自立心が強く、誇り高かったロレーヌ人にとって、このフランス王への忠誠誓約は屈辱そのものであった。住民の中には、ロレーヌ公への忠誠を抱き、署名を拒否し、国外逃亡した者もいた。英明で武運に恵まれ、外交に巧みであった歴代ロレーヌ公と比較すると、凡庸で経験に乏しく、策謀に走りがちな君主であったが、公国の住民にとってはわれらが君主だった。 

 市の名士たちに連なって、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも表向きは迷いも見せることなく率先署名していた。しかし、画家の内心もロレーヌとフランスの間で揺れていたことだろう。その後の画家の生き方からその動きをうかがうことができる。

 

 

 

 

 

Q; さて、この短いフレーズの意味することは? お分かりの方は立派なロレーヌ・マニア(笑)かもしれません。

 

 

 

 

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30年戦争の中のロレーヌ(2)

2011年10月05日 | ロレーヌ探訪

 

没落の道をたどるロレーヌ:世界を見誤った君主たち

 

Charles IV, duc de Lorraine et de Bar.
Gravure, Paris, Bibliothèque nationale.
©Collection Boger-Violler

ロレーヌ公国シャルルIV世



 

 さまざまな危機をなんとか乗り切って17世紀にたどりついたロレーヌ公国だが、1622年にアンリ2世が死去すると、その後を強引に継承した甥のシャルル4世の時代に、公国の命運を定める大きな危機がやってきた。

策謀家シャルルのイメージ

 ロレーヌを版図に収めていた神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアンの妻エリザベス・レナーテは、ロレーヌ公シャルルの叔母であった。フランス宗教戦争の間、この一族は戦闘的なカトリック連合を主導してきた。ロレーヌ公の座についたシャルルIV(1604-1675)は、1620年代に繰り返し、この連合に入ることを試みたが受け入れられなかった。

 若い頃から策謀家の噂が絶えなかったシャルルは、きっとフランスと問題を起こすだろうと拒絶されてきた。シャルルは人間としては快活な人物であったようだが、生来策略が好きで政治外交上の資質に欠けていた。ちなみに、写真がなかった時代であり、シャルルのイメージを想像するのは、いまに残る銅版画などに頼るしかない。シャルルの肖像版画はかなり残っているのだが、容貌魁偉なものから普通の貴族風のものまであり、いずれが実在した人物に近いか、判断が難しい。ここでは出所その他から比較的穏当なものを選んでみた(上掲図)。

 
シャルルが策略家であるとの噂はどうもその通りだった。まもなく状況が決定的に自壊する時が来る。その原因を作りだしたのは、やはりロレーヌのシャルルだった。公位についたシャルルは、反フランス(なかでも反リシュリュー)の考えを明らかに掲げるようになった。あのロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生に決定的な転機が訪れたのも、この時からだった。

 
他方、こうした状況で、皇帝マキシミリアンがシャルルとの連携を強めたのは、ほとんど統制がとれなくなっていた神聖ローマ帝国の実態に半ば自暴自棄になっていたためだったとみられている。

醸し出された不穏な空気

  シャルルがハプスブルグ側に加担したことで、ロレーヌはフランスとハプスブルグの2
大勢力間で、一触即発の場に化した。フランスにとって、策謀家シャルルの動きは、新たな戦争の火付け役になる危険性が感じられた。シャルルのフランスへの反発は、多分に王に代わってフランスを支配する宰相リシュリューに向けられていた。国王ルイ13世に代わり、強大な権力を発揮した宰相リシュリューを嫌う貴族や宮廷人も多かった。

 
実際、ナンシーにあるシャルルの宮殿は、反リシュリューの考えを抱く亡命者などの巣窟になっていた。その中には、あのシェヴルーズ夫人も後年(1937年)、パリから亡命、ここへ逃げ込んだ。

王座を狙う男たち

 
この反リシュリューのグループは、その後ルイ13世の王弟ガストン・ド・オルレアンGaston Jean Baptiste de France (1608-1660)が加わることで、大きな政治の台風の目となる。ガストンは、フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの3男として生まれた。兄に後のルイ13世、姉にスペイン王フェリペ4世妃エリザベート、サヴォイア公妃クリスティーヌ、妹にイングランド王チャールズ1世妃アンリエットがいる。



Gaston d'orleans (image) painter unknown
painter in 18th century? 

 
  
リシュリューとそりの合わないガストンの存在は、スペイン王の着目するところになる。正統な王弟である以上、ユグノーの謀反者などと結ぶよりも、力になると考えたのだ。16316月、ガストンの母后マリー・ド・メディシスがブラッセルへ亡命するに及んで、ガストンも加わる。そして、主たる首謀者が1641年に敗北するまで、ガストンの存在は注目を集め続けた。

 
背景にはさまざまなことがあったが、ガストンはフランスにおいて、王権の奪取を含めて、もっと大きな権力を発揮することを求めていた。兄のルイ13世は1618年まで嫡子がなかった。ガストンは自分の結婚に反対する兄に反発していた。これはフランスの王座への潜在的な後継者になることを拒もうとする謀ごとだった。1632年1月ガストンは秘密裏にナンシーで、シャルル4世の妹マルゲリット・ヴォーダモンと結婚した。

 シャルルとガストンの組み合わせは最悪だった。双方がルイ13世とリシュリューに対決する考えであり、共に前後の見境いなく突っ走ってししまうタイプだったようだ。到底、老獪で百戦錬磨の宰相リシュリューの相手ではなかった。さて、ロレーヌはどこへ行く?(続く)。

  

 

 ★国家の命運が指導者の力量に大きく依存しているのは、今になっても変わらないようです。大国アメリカと中国の間にあって、衰退の色濃い日本。大陸と地続きだったらどうなっていたでしょう。

 

Reference 

Peter H. Wilson. Europe's Tragedy:A New History of the Thirty Years War. London:Penguin Books, 2010, 995pp.

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30年戦争の中のロレーヌ(1)

2011年10月02日 | ロレーヌ探訪

 

 ピーター・ウィルソンの30年戦争史である『ヨーロッパの悲劇』を読んで、最大の収穫は、この時代のヨーロッパ世界についての理解が格段に深まったことだ。30年戦争は、その後のヨーロッパ史を理解する上でも欠かせない重みを持っている。今年、ドイツの『シュピーゲル』DER SPIEGEL誌が歴史特集に取り上げていることからもうかがわれるように、近年新たな関心が生まれている。とりわけ、主戦場のひとつとなったドイツの歴史を理解するには避けて通れない重みを持っている。ちなみに、この特集はやや通俗的ではあるが、近年の研究成果も取り入れ、要領よく整理されており、この複雑な戦争のスコープを確保するために大変便利だ。ウイルソンなどの字数の多い大著の整理の上でも手頃な手引きとしてお勧めものである。かくして、ウイルソンの労作のような作品を読むことで、あたかも話題のタイムマシーンで、歴史の大転換を展望できる。


 世界の歴史を顧みて、戦争のなかった世紀はあったろうか。人類はいたるところで絶え間なく争いを繰り返してきた。とりわけ、
17世紀はヨーロッパに限っても、年表を戦争が埋め尽くすほど各地で戦争、内乱、暴動が起きていた。このブログに記しているロレーヌでの惨禍も、30年戦争の全体的広がりの中では、ほとんど局地戦といってよい状況だった。日本人の間では、ロレーヌ公国の存在自体ほとんど知られていない。

歴代ロレーヌ公の努力
 
17世紀のロレーヌ公国は、30
年戦争の主要な戦場ではないが、ハプスブルグ・神聖ローマ帝国とフランスの間にあって、見逃せない重みをもっていた。とりわけ戦略上、フランスがアルザス方面へ軍隊を派遣するに際しても、ロレーヌは大変重要な位置を占めてきた。現代ヨーロッパには小国でありながら、大国の狭間を縫うように巧みに独立と発言力を維持している国が多いが、当時のロレーヌ公国も外交力という点では歴代公爵が優れた力量を持っていたといえる。文字通り、ロレーヌの命運は彼ら公爵の時代を読む力にかかっていた。
下掲のボグダンの作品は、この点に焦点を当てている。




 
 
 この時代のロレーヌ公国は、所領という意味ではハプスブルグ家、神聖ローマ帝国の一部(公爵領)だった。しかし、地政学上はフランス王国にきわめて近い特色を持った地域であり、法制度や社会、文化もフランスの影響を強く受けていた。

 フランス王室はパリの防備のため、ロレーヌを東の緩衝地帯として政治外交上きわめて重要視していた。あの策略に長けた宰相リシュリューは、いずれロレーヌを完全にフランスに統合することを企てていた。こうしたなか、ロレーヌの人々は、小国ながらもロレーヌ公国として文化的にも大きな影響を受けているフランスと自らを区分し、微妙な自立性を維持してきた。この小国が生まれた9世紀頃から17世紀初め、シャルル3世の頃までは歴代ロレーヌ公は、内政・外交に力を注ぎ、小国の独立性を維持してきた。

 ロレーヌ公国の歴代君主は自らが置かれた微妙な地政学的位置を巧みに利用し、フランスの王室や政治にもさまざまに関与していた。そのための主たる戦略的政策は、各国につながる政略的婚姻策であった。この時代、ロレーヌに限らず、ヨーロッパ各国の王室や貴族の家系に生まれた娘たちは、自分たちの意思とは関わりなく、しばしば外交政策上の駒のように動かされた。当然、嫁いだ先の相手との相性、文化との違いなどが、さまざまな問題を引き起こした。

 フランス王ルイ13世の王妃となったアンヌ・ドートリッシュ(スペイン王フェリペ3世の王女)の一生あるいはシュヴルーズ公爵夫人などの奔放な行動などは、かなりこうした人間性を無視した婚姻政策への反発の一端ともみられる。その一端は、デュマの『3銃士』などに生き生きと描かれている。彼女たちが繰り広げた不倫、浮気ともみられる恋愛関係、そしてさまざまな謀略は、パートナーであった王や貴族たちのそれに匹敵するものであり、読み込むほどに深入りしてしまう面白さがある。しかし、一般の歴史書で、この複雑な関係を読み取ることはきわめて難しい。文学や絵画などの支援が必要になる(続く)。

 

 

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