時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

パートタイム労働者の国、日本

2006年06月28日 | 労働の新次元


  さまざまな格差論がジャーナリズムなど論壇をにぎわしている。政府は「多様な可能性に挑める社会」としているが、すでに拡大してしまった格差を正当化するような感じがする。首相は、個人の自由競争の結果なら、格差が出ることは悪いとは思わないと述べているが、その前提が危うい。再チャレンジ政策を提唱し、格差は拡大していないとの政府答弁の裏側は、拡大してしまった格差を暗に是認しているような印象である。

  いつの間にか、日本は世界有数のパートタイム労働者の国になっている。短時間雇用者を「平均週就業時間が35時間未満の雇用者」と定義すると、2005年で実に1,266万人、雇用者中に占める短時間雇用者の比率は24.0%になっている。1970年の時点では6.7%であった(総務省統計局「労働力調査報告」)

  OECD(経済協力開発機構)の国際比較統計によると、上記の数値とわずかな差異はあるが、日本はいまや先進諸国の中では際だってパートタイム比率の高い国である。そして、OECD事務局は、国際比較でみると、日本はもはや格差の小さな平等度の高い国ではないと述べている。

    パートタイム比率(雇用者全体に占めるパートタイマーの割合)をみると、オランダ、オーストラリアに次いで世界で3番目の高さである。イギリスやアメリカを上回っている。そして、パートタイマーに占める女性の比率も67.7%と高い。正社員とパートタイマーの平均賃金には大きな差があり、その差も拡大している。

  OECD事務局は背景にある、1)非正規雇用の増加、2)正規雇用への保護が厚すぎることを指摘している。日本政府代表は同年代の格差は高齢者層ほど大きくなる傾向を強調、「格差拡大の主因は高齢化」と反論しているようだ。非正規雇用が増えたのは、リストラの結果でこのまま景気が上向けば正規雇用が再び増える可能性もあると指摘。その上で「非正規雇用者への保護を手厚くすることが格差縮小につながる」と主張したようだが、政策提示は後手にまわり、いまや説得力はない。

  格差の評価は、さまざまな要因を考慮しなければならないことは分かるが、統計だけで判定ができるものでもない。国民の将来に対する漠たる不安感、そして急速に増加している社会のマイナスの諸現象(若者の無力感・アパシー増加、要介護者の生活窮乏など)の「体感」も、体温と同様に日本の健全度を判定するに際し、重視すべき判断基準と考えるべきだろう。

  OECDの日本評価では、外国人労働者の受け入れ促進を促す意見、需要急増の「介護」を就労資格に加えるべきだとの意見が出たと伝えられる。外国人労働者を受け入れて問題が解消するわけではない。「介護」についても同様である。しかし、このブログでもしばしば取り上げているように、根本に立ち返り、いかなる選択肢が残されているか、目先の利害に引きずられることなく、将来のあり方を見据えた国民的検討が必要なテーマである。

Reference
「OECD格差問題クローズアップ」『朝日新聞』 2006年6月27日
'Part-time work', The Economist June 24th 2006.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

画家とパトロン

2006年06月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

☆しばらくぶりの「ラ・トゥールの世界」、ご関心のある方だけお読みください。 

  
  パリで宮廷画家の生活を経験したラ・トゥールも、ロレーヌの戦火がしばし収まったのを見てリュネヴィルへ戻り、制作活動を再開した。1645年、リシリュー亡き後、その意を受けた枢機卿マザランからロレーヌ地方総督に任命されたアンリ・ド・ラフェルテ=セヌテールが、この画家の作品を熱望したことは以前に記した通りである。

誰もが欲しがったラ・トゥール
  ラフェルテは大変な美術愛好家でもあった。彼は、年始の贈り物として毎年地方総督に納められる大金よりも、ロレーヌの画家の作品を好んだ。これに対して、リュネヴィル市は画家から作品を買い取り、総督に寄贈するという形をとっている。その時支払われた価格は、記録によると作品により異なるが、大体500から700フランという破格の高額であった。ラ・トゥールに限ったことではないが、当時の画家の作品はいかなる要因で評価がなされたのだろうか。

  ラ・トゥールは1645年から没年の1652年までほとんど毎年リュネヴィル市からアンリ・ド・ラフェルテ=セヌテールへ贈るための絵画の注文を受けている。最初の注文は、1645年「羊飼いの礼拝」(ルーヴル美術館所蔵のものか)と記録が残っており、700フランという高額が支払われている。

  さらに、1949年「聖アレクシスの絵」をラフェルテはリュネヴィル市から受け取っている。この時に、ラ・トゥールには500フランが支払われている。作品を収める金の額縁のためには30フランが支払われた。

  1650年に収められた「聖セバスティアヌス」の場合には、700フランが画家に支払われている。この時は額縁の製作のために45フランが彫刻家ジャン・グレゴワールに支払われた。画家と売買契約の時に飲むためにラ・トゥール家に持ち込まれたワイン3瓶が4フランであった。

  1651年の作品「聖ペテロの否認」については、ラ・トゥールに650フランが支払われている。これらの記録を見るかぎり、ラ・トゥールの作品について、当時のロレーヌの社会における高い評価を作品価格という点から推測することができる。

作品の経済的評価
  現代の絵画市場では画家と顧客clientsの関係は、通常の商品市場の売り手と買い手と本質的に変わりはない。中間に画商などが介在するとしても、買い手がその作品にどれだけの価値を見出し、値段をつけるか。売り手がそれに応じるかというプロセスである。基本的に市場メカニズムそのものである。

  しかし、中世から近世にかけての画家と顧客あるいはパトロンとの関係は、かなり異なっていたようだ。当時の画家たちの作品がいかなる評価をされていたかは大変興味あるところである。しかし、その仕組み(市場)の実態を知ることはきわめて難しい。イギリスに滞在中に見つけて興味をひかれて読んだ文献に
面白い記述があった。それらを参考にしつつ、17世紀にかけての画家とパトロン・クライアントの関係について考えてみたい。

15世紀の画家とパトロン
  そのひとつは、15世紀ルネサンスのイタリア、フローレンス
についての研究である。イタリアは当時ヨーロッパ世界の文化の中心だった。その影響は美術の世界でも大変大きかった。この先進地域の状況は、ヨーロッパの他の地域のあり方を見る時に一つの基準となりうる。

  バクサンドールは当時の絵画制作は社会的な関係の蓄積であるという。一方に、作品の制作にあたる画家がいる。彼は自分で創意に基づき制作活動に従事するか(ほとんど不可能だったが)、少なくも工房などで職人や徒弟たちの制作過程を指導、管理する。他方には、制作を依頼した者あるいは依頼した作品をなにかの目的に使おうと考えている者がいる。
  
  彼らは15世紀フローレンスという社会の制度や慣行の中で積み重ねられた枠組みの下で行動している。その仕組みは現代の市場とは異なり商業的、宗教的な、あるいは作品の認識などを含める広い範囲での社会的な意味を持っている。

  作品の制作を依頼し、支払い、使途を考えた者は、パトロンと呼ばれる存在である。ただ、この言葉はさまざまな含意を持っている。15世紀くらいの段階では、パトロンはしばしば有力な画家を資金力、販路、その他の社会的つながりで抱え込んだり、強い影響力を発揮していた。われわれが今日考える顧客・クライアントというイメージからはほど遠い。およそ顧客(クライアント)とはいえない注文主の強力な地位である。たとえば、美術史上著名なフィレンチェの富裕な商人ジョヴァンニ・ルチェライ Giovanni Rucellaiは、邸宅内にドミニコ・ヴェネツィアーノ、フィリッポ・リッピ、アンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェロなどの仕事場を抱え込んでいた。金細工師、彫刻家の仕事場もあった。

  ルチェライのようなパトロンにとっては、イタリアの最も著名な画家たちを自分の傘の下に抱えているということ自体が満足だったのだろう。そして、神の栄光、市の名誉、そして自らの記念という満足を生む根源につながっていたと思われる。

複雑な評価の要因
  必ずしも著名ではない画家の場合、それぞれの地域で祭壇、家族の礼拝堂のフレスコ画、寝室のマドンナ、書斎の壁画など、社会的に定まった作品を依頼されるという枠内で、仕事をしていた。それでも、基本的に注文生産の仕事であった。注文によらない作品としては、一般向けのマドンナの絵や、結婚の支度品としてのたんす類など家具什器の絵であったり、どちらかというと売れない画家が制作していた。

  現代では、特定の目的のために製作依頼がある場合を別にすれば、画家の作品はレディ・メードで、それぞれの画家の知名度、作品評価などで市場価格が決まっており、画商、オークションなどの市場メカニズムを通して、購入される。

  15世紀から近世初期にかけての絵画取引の市場は、かなり異なっていた。依頼者がテーマを提示し、画家がデザインをした構図を見せて了解を得た上で、細部の制作に入ることも多かった。そして、報酬の支払方法も色々あったようだ。大伽藍の天井画や壁画のような場合、時には平方フィートあたりいくらという支払いまであったようだ。大作品に複数の画家が関わるときには、社会的評価による画家ごとに異なる報酬が支払われたこともあった。また、画材、たとえば金、銀、ウルトラマリーン(ラピズ・ラズリなど)のような高価な画材が使われる時には、相応の配慮が行われた。また、製作に要する時間なども考慮された場合もあったようだ(ちなみに、時代は17世紀へと
下るが、現存するラ・トゥールの作品でラピズ・ラズリが使われているのは、1点しかないようだ)。  

浸透する市場メカニズム
  ラトゥールの生きた17世紀には、画家とパトロンの関係は15世紀の状況とこれと比較すると、かなり変容していたと推定できる。依然としてパトロンやクライアントからの依頼による注文制作という面は残っているが、通常の市場メカニズムが働く部分が次第に浸透していることを感じることができる。ラ・トゥールを初めとする当時の画家たちの作品評価はなにによって形成されていたのだろうか。考えてみたい要因は数多い。

Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition,  Oxford University Press, 1972, 1988,

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移民と「ジャングル」

2006年06月25日 | 移民の情景

    ようやく輸入再開が決まったアメリカ産牛肉関連のニュースを読んでいて、興味をひかれた雑誌記事があった。

シンクレアの告発
  前世紀というと、いやに古めかしく聞こえるが、今年から数えてちょうど100年前の1906年、アメリカの社会主義者的思想を持った作家アプトン・シンクレアUpton Sinclair(1878-1968)が「ジャングル」The Jungleという小説を書いてかなりの評判を得た。この小説はアメリカの食肉加工業界、とりわけシカゴの食肉加工業の不衛生で、利権や犯罪が巣食う実態を鋭く告発した内容で、大反響を巻き起こし、食肉検査法の立法、成立につながる契機となった。「ジャングル」のように魑魅魍魎(?)がはびこる世界という含意だろうか。

  ところが、シンクレアの目的は、当時のアメリカ人に社会主義の思想を共有してもらおうという点にあったので、思わぬ方向での反響に失望したと伝えられる。彼はこの食肉加工業で働く労働者がいかに過酷で劣悪な環境で働いているかを描くことで、資本主義を刷新する社会主義思想に関心を抱いてもらおうと思ったらしい。小説の主人公はリトアニアからの移民で、過酷な労働ながらもアメリカン・ドリームにつながると考えて、働き出したが、それがまったくの虚偽の世界にすぎないことを知る。20世紀前半のこの時期には、こうした背景を持った小説は、かなり多い。もう知る人も少なくなった名画『陽の当たる場所』のベースとなった「アメリカの悲劇」の作者
セオドア・ドライサーもその一人だった。

アメリカン・ドリームはいまも
  このブログでもたびたび取り上げているが、アメリカへの不法入国者の流れは絶えない。その多くは「アメリカン・ドリーム」を求めてやってくる人たちである。しかし、今日のアメリカはかつてのように夢が実現できる場なのだろうか。

  記事が紹介する例は、アルベルト・ケイロスというメキシコ人である。彼は12年前に自動車の底部に隠れて越境し、ロサンジェルスの中国人経営の衣料工場で働いた。正規の書類を持った入国者は連邦最低賃金で働いていたが、ケイロスのような不法入国者はそれを下回る時間賃率2.50ドルしかもらえなかった。それでも、メキシコの賃金よりはかなり良かったという。(ちなみに、連邦最低賃金率は、1997年以降、時間あたり5.15ドル)。

  ケイロスは2年後、ノース・カロライナに移り、農場でブルーベリーを一箱5ドルの出来高給で摘み取る作業をする。一日12時間働いて、税なしで100ドル近くを稼ぐようになった。しかし、収穫期は短く2ヶ月しか続かなかった。そこで、次に探し当てたのが同じ州の豚の食肉加工業だった。一日、32,000頭もの豚をハムや食肉に加工する大企業である。

国内労働者が働きたがらない職場
  シンクレアの時代と比べて、この職場はどのくらい変わっただろうか。その実態はなかなか分からない。衛生上の理由とのことで、立ち入りを拒んでいる会社もある。2004年に公表されたある報告書では依然として大変危険で不衛生な職場という告発もある。

  今回の牛肉問題でアメリカの加工工場の内部もかなり映像で見ることができるが、加工の対象が対象だけに放映できない場面も多いことは、想像に難くない。しかし、食肉加工業もオートメ化が進み、ルイスの時代と比較すれば格段に労働条件は良くなった。工場も多くが都市内部から郊外へと移転している。しかし、作業の対象から想像できるように、そこでの労働は厳しく、アメリカ国内労働者はイメージ的にもあまり就労したがらない。その結果、多くの工場が移民労働者に依存することになる。食肉加工業が多いノースカロライナ州のように1990年と比較すると、ヒスパニック系人口が実に1,000パーセントも増加した州もある。

苦難の先には
  国境を越える人の流れが増加しているのは、彼らの母国での生活条件が厳しくなっていることと、他方で努力と幸運に恵まれ上昇気流に乗れた人たちがいるからだ。しかし、アメリカン・ドリームの虹を見る人は比率ではきわめて少ない。そこへたどり着くまでには、多大な苦難を乗り越える強い肉体と精神力そして幸運が必要とされる。

  合法・不法を問わず、アメリカ経済に移民がいかなる影響を与えているかを評価するのは大変難しい。移民法改正をめぐる上院と下院の法案の差異を埋める交渉は未だ決着がついていない。

  グローバル化を是認する以上、それに伴う労働力の国際的な移動も不可避である。ジャーナリズムの世界は手放しの開放論者が多いが、問題はいかに適度な範囲に移民の流れをコントロールできるかという点にある。そのためには、長期の構想、中期の政策、短期の施策を持った包括的な政策体系が必要なのだ。それにしても今の移民の実態は、あまりに犠牲が大きい。
成功すれば、貧困の「蟻(あり)地獄」から這い上がれるという伝統的移民観やプロセスも根本的に考え直す必要があるのではないか。

Reference
'Of meat, Mexicans and social mobility.' The Economist June 17th 2006.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリンの記憶

2006年06月23日 | 書棚の片隅から

  「ドルトムントの奇跡」もついに起きなかったが、この機会にドイツについての記憶を取り戻そうと、書棚から引っ張り出し、少し前から読んでいた本があった。アンドレーア・シュタインガルト(田口建治・南直人・北村昌史・進藤修一・為政雅代訳)『ベルリン<記憶の場所>をたどる旅』(昭和堂、2006年、218ページ)(Andrea Steingart. Schauplätze Berliner Geschite. Berlin: 2004)である。
  
  過去に幾多の悲惨で壊滅的とも思える経験をしながらも、ベルリンは都市としての美しさを維持し続けてきた。個人的にも思い出の多い都市である。緑の多い美しいベルリンだが、過去における幾多の深い傷跡を包み込んでいる。その傷跡の在りかに通りすがりの旅人は気づくことは少ないないだろう。一部を除き、その多くが所在を積極的に主張していないからだ。たまたま乗ったタクシーの運転手から、しばらく前まではここにあった「壁」の近くに住んでいたという話を聞かされ、突然頭の中でフィルムが巻き戻されるような思いがする。

  本書に取り上げられた場所は、ほとんどがドイツ現代史の影の部分に関わっている。序文を書いた「ツアイト」誌のベルリン支局長クラウス・ハルトゥングは、次のように結んでいる。「これらの物語には、歪み、矛盾し、そしてしばしば悲劇的であるベルリンの根本的性格が反映されています。さらにこれらの物語は、この都市の宿命を共有するよう求めるのです。この共有なしには、------それもまたこの都市の特殊性の一つですが------私たちがベルリンを理解することはまったく不可能でしょう。」

  ベルリンという都市は確かに美しいのだが、ある種の陰影を感じさせる。いかに空が抜けるように青く晴れ渡っていても、そこに形容しがたい翳のようなものを見てしまう。過去を意識してしまうためだろうか。ヨーロッパの他の都市では感じない独特のものである。

  本書では、ドイツの現代史にかかわる「皇帝と革命家のベル「リン」、「ナチスのベルリン」、「社会主義統一党のベルリン」、「分割されたベルリン----壁に囲まれた西側----」、「再び統一されたベルリン」の5グループに区分された43ヶ所が写真とともに紹介されている。冒頭には、池澤夏樹氏による「日本語版によせて:新しいホロコースト記念碑のこと」と題した、ベルリンのもうひとつの「記憶の場所」について、本書にふさわしいエッセイが掲載されている。この記念碑もドイツ現代史の最も深い暗部に根ざす出来事を後世に伝えるものだ。

  本書で取り上げられた場所は、総じてベルリンが経験した、どちらかといえば影の部分に関連している。このいくつかは私も訪れたことがあり、大きな関心をもって読んだ。ベルリンに必ずしもくわしくない日本の読者のために、訳者たちが現地を訪れて、「日本人のためのガイド」として補足説明や地図が付されている。総体として、読者に対して丁寧な編集がなされている。ぜひ再版の折には、関連年表を付けていただければと思う。ここに取り上げられた「記憶の場所」は、ドイツの若い世代でも知らない歴史的出来事になりつつあるからだ。風化は容赦なく続く。

  私の記憶に残る場所からひとつとりあげてみると、「国境地帯に生まれたトルコ人のタマネギ畑」Turkische Zwiebeln im Grengebiet であろうか。1980年代初め、ベルリンのカルテル・オフイスにつとめていた友人に連れて行ってもらった記憶がよみがえってきた。当時、クロイツベルクのトルコ人住宅地域を調査に行ったときに案内してもらった。その荒廃ぶりには言葉を失った。移民問題にのめり込むひとつの契機ともなった。最近訪れてみて、クロイツベルクもずいぶん変わったという思いがした。この「タマネギ畑」もきれいに維持されているようだ。

  ベルリンを訪れたことのない人々でも、現代ドイツ史に関心を寄せる方々には一読をお勧めしたい。ワールド・カップのどよめきの裏側にひっそりと存在する、これらの場所を確かに記憶にとどめるために。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神は細部に宿る:プラド美術館展を見る

2006年06月17日 | 絵のある部屋

茶碗・アンフォラ・壺 (Taza, anfora y cantarilla) 1658-1664年頃
46×84cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

Courtesy of Olga's Gallery of Art:
http://www.abcgallery.com/Z/zurbaran/zurbaran16.html

  梅雨入りの休日、東京都美術館展で開催されている「プラド美術館展」を見てみようと思い立った。2002年の「プラド美術館展」が好評だったので再び企画されたらしい。プラドはかつて在欧中に2度ほど訪れたことがある。現代の美術館としては、展示システムはややクラシックな感じがしたが、その作品の質の高さ、充実ぶりには圧倒された。

  当然のことだが、今回の展示にプラドの誇る重量級の作品は必ずしも多くない。しかし、出展数は81点、長い行列もなく、比較的ゆっくりと見ることができた。人ごみに疲れることもなく落ち着いて鑑賞できるという意味では、適度な規模だったかもしれない。会期が延長になったのも、満足度が高いからだろう。

  ティツィアーノ、ベラスケス、ルーベンス、ゴヤなどを含めて、黄金時代のスペイン、16-17世紀のイタリア、フランドル・フランス・オランダのバロック、18世紀の宮廷絵画、ゴヤという区分で、展示がなされている。作品数との兼ね合いでは、グルーピングが苦しいが、少数の作品をゆっくりと細部まで鑑賞できたのはよかった。まずまず充足感のあった展示内容だった。

  いくつか興味をひかれた作品があった。ルーベンスの「フォルトゥーナ」などごひいきを別にすると、とりわけ、ボデゴンbodegónといわれるスペイン独特の静物画が良かった。ボデゴンは、語源が1590年代までの下層の居酒屋を称したものであり、転じて居酒屋内部の情景、野菜・果物、什器備品、厨房内部などを描いた静物画を意味するようになった。今回出展されたボデゴンの数は少なかったが、スルバラン、ルイスの素晴らしい作品に出会えたのはうれしかった。

    フランシスコ・デ・スルバランは、セビーリャ派の巨匠とされ、黄金時代と呼ばれるスペイン17世紀前半という画家である。ほぼ同時代のラ・トゥールの作品が、スルバランではないかとされたこともある。人物を主題とした作品についてはラ・トゥールの方がはるかに上回っているが、ボデゴンにこめられた深い精神性という点では、どこかでつながる部分があるような気もする。

  たとえば、ここに示す4つの食器を描いた作品のひとつ『茶碗・アンフォラ・壺』。その前に立つと、その写実に富んだ卓越した描写から、深い精神性を感じさせる静謐さが伝わってくる。フランドルやオランダなどの静物画にはない深く訴えるものを持っている。実に見事な作品である。プラドの名品といってよいだろう。同時に展示されているルイス・メレンディスの『プラム、イチジク、小樽、水差しなど』も絶品である。

  対象の一点、一点が精魂込められて描かれている。どれも日常の生活になじんでいるものであり、注意しなければただの食器である。しかし、こうして描かれてみると、そのひとつ、ひとつが命を持っているようだ。神は細部に宿っているという思いが伝わってくる。小さな安らぎの一隅を見た。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モナ・リザもびっくり:中国絵画市場の実態

2006年06月15日 | グローバル化の断面

  今から20年以上前になるが、中国の現代美術、とりわけ農民芸術といわれるジャンルについて、関心を持って眺めていたことがあった。技法は決して洗練されたものではなく、むしろ稚拙ともいえるものだが、伝統的な中国絵画の制約から脱却しようとする意欲のようなものが感じられた。香港のイギリス系画商から年末に送られてくるカタログを見ているだけだったが、10年ほど前から価格が急激に上昇し、たとえ欲しいと思ってもとても手が出ない水準になってしまった。そのうち、買わない客と判定されたらしく、カタログも送られてこなくなった。

  他方、中世以来の西欧絵画の社会的評価がいかにして定まるか。その仕組みに関心を持って、いくつか資料を見ている時に、ちょっと驚くような記事*に出会った。最近の中国絵画市場の実態の紹介である。中国の絵画市場が活況を呈していることは、中国の友人などから聞いてある程度は知っていた。しかし、ここまでとは思わなかった。少し、紹介してみよう。

ブーム化する中国現代絵画
  中国では長い間、ビジネスはアート(技法)と考えられてきた。しかし、最近ではアート(美術)がビジネスの対象になっている。とりわけ、現代中国画家の作品に人気が集まり、ブーム状態が生まれているらしい。中国国内のみならず、海外でもクリスティやサザビーなどでオークションの対象にもなり、かなりの高額で落札されている。

    他方、驚くべき状況も指摘されている。香港の国境を越えた中国側深圳、「大芬油彩画村」といわれる地域がある。ここではまさに絵画がビジネスの対象になっているが、その内容がすさまじい。たとえば、深圳の郊外の町布吉Bujiには、およそ1キロ四方に乱雑なコンクリートの建物が立ち並び、700近い画廊ショップ(工房)が密集している。屋根のない店もあり、制作途上の作品や材料がいたるところに積み重ねられたりしている。天日で乾燥したり、少し高額の商品はエアコンがある建物で制作されている。

「美術工場」の実態
  客はここではどんな注文でもできる。ヨーロッパ有名絵画のコピーは当たり前で、モナリサのコピーなども人気があるらしい。もちろん、すべてが贋作だが、1点づつ油彩で仕上げられている。そして、コストはほとんど数ドル程度。なんと、額縁は50セント。近世までの西欧絵画の世界でも、パトロンは画家に依頼する作品の主題などにかなり注文をつけたことは事実だが、どうもそれとはかなり違う状況である。

  こうした場所は他にもあるが、いわば画家の工房を工場化したものである。町工場のような中で、「画家労働者」ともいうべき職人がいっせいに並んで仕事をしている。一人で一製品を手がけている場合もあるし、同じ主題の作品を渡り歩き、人物の手足など、ある部分だけを描くというように分業している場合もある。

  手本になっているのは画集、絵葉書、インターネット上のイメージだという。時には、ディジタル画像の輪郭を機械的にキャンバスに印刷し、職人が絵の具で着色している。

絵画も数で作られる
  大芬にはこうした画家労働者が5000人ほどいて安価なコピー作品を制作しており、さらに熟練度の高い画家労働者が3000人ほどいるといわれる。近くには10ヶ所近い工房村があり、「美術産業」に雇われている労働者は3万人にも達する。いまやあらゆるものを生産する中国だが、ついに絵画まで生産するようになった。その競争力は、これも安い労働コストである。

  ダ・ヴィンチ・コード・ブームにあやかって、「最後の晩餐」をマグダラのマリアで描いたコピーが人気らしい。「モナ・リザ」やゴッホの「ひまわり」も人気だという。中国風に描かれた「モナリサ」もあるという。客は世界中に分布し、新興のロシア人実業家、フロリダのコンドミニアム、中東のホテル、アメリカの小売業者、インターネットで家族の肖像画を依頼するアメリカ人もいる。もちろん、わが日本人も多いようだ。

  大芬の大手の工場は、毎月8万枚近い製品を押し込んだコンテナーを15から20は海外出荷するという。中国国内市場も活況を呈している。自分のオフイスに絵をかけておくと、訪問客が「この社長はいい教育を受けた」と思うらしい。そういえば、バブル期の日本にも、高額の絵を買い占めた社長さんたちが多数いましたね。自分の家を持つ中国人も増え、需要は増加、主題も西洋のものばかりでなく、中国の画家も人気が出ている。インターネット上でいくつかの工房をアクセスしてみると、確かになんでもありの状況である。

  「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則は、どうもこの世界にも通用するようだ。後世は現代について、いったいどんな評価をするのか、また空恐ろしい思いがした。


Reference  
*
"Painting by numbers" The Economist June 10th, 2006.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移住の未来

2006年06月14日 | 移民政策を追って

  日本のドミニカ移民についての判決が出た6月6日、国連から初めて移住に関する事務総長報告書が公表された。これによると2005年現在、生まれた国以外で(1年以上)暮らす人々は世界で1億9100万人に及ぶ。世界人口の約2%に相当する。

巨額な外貨送金とその使途
  移住者から本国へ送られる外貨送金は世界合計で、昨年1年間で2320億ドルに達し、1020億ドルだった95年に比べると倍以上となっている。ちなみに、外貨送金の受け入れが多い国はメキシコ、フィリピン、インドなどである。確かに、送金額は大きくなったが、それが生産的目的のために効率的に使用されているかについては議論が対立している。送金額の大きさと経済発展は反比例しているとの分析もある。人の流出が大きくなり、他方で流入する送金も増加しているが、「出稼ぎ風土」が定着し、国内に安定した産業や雇用の基盤が形成されにくくなる。移民依存型の経済は、外貨送金や熟練が効率的に活用されず、漏出する可能性も高い。

  受け入れた移民、言い換えると移住者の人口が多いのは、アメリカ合衆国である。移民で国家形成したので移住者が多いのは当然である。しかし、このブログでも継続的に取り上げてきたように、最近では移民、とりわけヒスパニック系不法滞在者と先住者の間での摩擦が激化し、社会的不安定の要因となる状況も生まれてはいる。

移民と社会的摩擦・紛争
    アナン国連事務総長は「移住することは、うまくいった場合、送り出した国にとっても、受入れ国にとっても移住した本人にとっても恩恵となる」として、移住人口の増加を前向きに評価した。しかし、最近はうまくゆかない状況も顕在化している。移住者=貧困層などの問題グループではないが、ある部分が重なっていることも事実である。それがいかなる背景とプロセスから生まれているかは、検討が十分ではない。

  報告書によると、不法適法を問わず、移住者が最も多く住んでいるのはアメリカで、約3840万人、以下2位ロシア(1210万人)、3位ドイツ(1010万人)と続く。 4位ウクライナ(680万人)、5位フランス(650万人)、6位サウジアラビア(640万人)、7位カナダ(610万人)、8位インド(570万人)9位イギリス(540万人)、10位スペイン(480万人)である。

見通しのない日本
  ちなみに、日本は20位(200万人)となる。移民の受け入れ国ではないし、現在でも移民を受け入れる枠組みも準備していないので、別に驚くことはない。外国人比率が低いから開放せよという議論も短絡している。外国人比率は今の枠組みのままでも時間が経過すれば、ヨーロッパ並みに近づいてゆく。世界に類のないような人口減少時代を迎えながらも、移民受け入れのあり方について、国民的議論がなにも行われていないことが問題とされるべきなのだ。

  日本の現状は相変わらすの成り行きまかせ、長期的構想は提示されない。国民的議論の場に出すことをむしろ回避しているとしか思えない。入管法の改正などは度々行われているが、政策立案の視野が狭小である。少子高齢化の対応にしてもあまりに遅すぎたために、実効が期待できる段階を過ぎてしまった。移民問題の検討も適切な時期は過ぎてしまったとの感が否めない。日本に残された時間はもう少ない。

Reference
「移住者受け入れ 日本20位」『朝日新聞』夕刊2006年6月7日

国連事務総長報告のベースとなったのは、昨年公表されたGCIM報告である。
Global Commission on International Migration (GCIM). Migration in an interconnected world: New directions for action.2005.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エレべーターとリスク

2006年06月11日 | グローバル化の断面

  東京でのエレベーター事故に関する関する報道をテレビで見ながら、思い当ることがあった。今は使用されていないと思うが、20年ほど前、ドイツやオーストリアのビルで入り口のドアもなく、単に鋼鉄の箱が連なり、一定の速度で昇降しているだけの文字通りエレベーターの原型のごときものに乗らざるを得なかった経験がある。れっきとしたオフイスビルだったが、大変怖い思いをした。とび乗る時より降りる時が怖かった。足を滑らしたら大変なことになると思った。エレベーターに乗ることは、危険と隣り合わせなのだということを思い知らされた。

とどまらない超高層ビルブーム
  たまたま世界の超高層ビルブームに関する記事*を読んでいたら、エレベーターに言及した指摘に出会った。超高層ビルは使用効率が悪いにもかかわらず、ブームは衰えないらしい。その背後には、1)人目をひくような投機的な企て、2)本社の誇示、3)偉大さを見せつけたい政府の支援、などが動機として働いている。
  こうして建造された高層ビルには、通常は中階層向け、高階層向けの二本立てでエレベーターが設置されている。しかし、最近の超高層では、これだけでは利用者の要望に応えきれないので、一本のリフト・シャフトの中に2、3本のリフトを走らせ、途中に「スカイ・ロビー」と称するスペースを設け、ほとんど待つことなく乗り換えできる仕組みを設定しているという。
  コンピューターと建設技術の進歩がこうしたことを可能にしたのだが、効率優先、技術至上主義の行方には一抹の恐ろしさを感じる。一昔前に見られたような、自分の手でがらがらと扉を開き、確認してボタンを押すとゆっくり昇降するエレベーターはなくなってしまった。このごろはエレベーターに乗ると、待ちきれないように扉の開閉ボタンに手を伸ばす人々が増えた。効率、便利さに慣れすぎる怖さを感じるのは私だけだろうか。

超高層ビルと不況
  さらに気になる指摘があった。超高層ビルは構想される時はブームの絶頂期であり、完成時にはしばしば大不況にぶつかることになることが多いということである。ニューヨークのクライスラービルが完成した時は、ウオールストリートが1929年の大不況に突入する瀬戸際であった。エンパイアステートが完成した時は、大不況のどん底だったといわれる。1934年の時点ではビルの4分の1は空室のままであり、Empty State buildingと揶揄されたらしい。
  クアラルンプールのペトロナスタワー(452メートル)が竣工したのは、東アジアの金融危機が始まった1977年の翌年であった。ロンドンのオフイス市場は、1974年、1982年、2002年に下降を記録している。今日の段階では世界最高といわれる台北の101ビルを訪れる機会があったが、アジアにも上海、北京など中国を中心にこれを上回る超高層ビルが建設中である。この異様な世界一争いは沈静化する気配はないらしい。空恐ろしいとは、このことをいうのでは。

*
'The skyscraper boom.' The Economist. June 3rd 2006. 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13歳の夏に僕は生まれた

2006年06月07日 | グローバル化の断面

映画のオフィシャル・サイト
http://www.13natsu.jp/

  最近珍しくかなり多くの映画評論家が、高いポイントを与えた映画が目にとまった。「13歳の夏に僕は生まれた」である。このブログの主題でもある移民の世界が対象であるだけに、「移民問題」ウオッチャーとしては見ておきたい。近くの映画館で上映されるまでは時間がかかりそうであり、早速出かけてみた。

  テーマはこのブログで再三とりあげてきたアフリカからヨーロッパへの不法移民問題である。主人公サンドラは、北イタリアの小都市プレシャの裕福な工場主のひとり息子。13歳の夏、父とその友人と出かけたクルージングで、過って海に転落するが、密航船に救助され、それまで知らなかった過酷な世界を知る。

  密航船は沿岸警備隊に発見され、移民収容センターに送られる。サンドロだけは身元が分かり、両親のもとに帰る。命の恩人であるルーマニア人のラドゥと、妹といって紹介された自分と同じ年頃の少女アリーナを信じきり、両親に引き取りを懇願する。息子の生還で生き返る思いをした両親もそれを聞き入れる。

  しかし、結果は厳しく裏切られる。サンドロは自分のまったく知らない世界を改めて知らされる。サンドロはどこへ行くのだろうか。

  こうしたテーマを取り上げた作品の多くがそうであるように、結末はオープンエンドで終わる。監督にも確たる答はないのだろう。映画自体の出来は決して悪くはないのだが、やはりもう一歩の踏み込みが足りない。結論が途中で見えてしまう。やはり移民の根源に立ち入り、究明しないかぎり、情念に訴えるだけで終わってしまい、不完全燃焼することになる。「愛」が問題の解決にはなりえないのだから。

  移民船の中でラドゥが言った 「動脈の血と静脈の血は隔てられ、決して混じりあわない」という言葉が耳に残った。 この映画の日本語タイトルにはかなり苦労したと思われる。しかし、原題QUANDO SEI NON PUOI PIÙ NASCONDERTI 「生まれたからには隠れられない」の意味は深い。

  

本ブログ内関連記事 

http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/8a35f37b7889280c4514cec256611fb9

*私事ながら、ヨーロッパ移民問題に造詣が深く、日米間の比較移民研究・調査を共にしたK.T.さんが亡くなられた。深い哀悼の意を表したい。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウッチェロの評価:初期ルネッサンスの画家たち

2006年06月04日 | 絵のある部屋

Courtesy of
http://www.wga.hu/html/u/uccello/4battle/1battle.html 

  そろそろ、ラ・トゥールのゆかりの地、リュネヴィルでの話に戻ろうと思っていた矢先、再びわき道に入ることになる。
前回のブログで、ウッチェロに言及した後、友人からこの画家の他の作品、評価などについて聞かれ、ひとしきり話の種となった。ウッチェロは、ラ・トゥールよりさらに古い時代、15世紀イタリア・初期ルネッサンスの画家である。日本では美術史などの専門家は別として、ラ・トゥール同様知る人は少ない。

  ウッチェロの作品を最初に見たのは、70年代頃であったと思う。ロンドン・ナショナル・ギャラリーであった。「サン・ロマーノの戦い」と題した作品である。もとはフィレンツェのメディチ宮殿のために描いた作品(3部作)が、ロンドン、パリ、フィレンツェに分かれて所蔵されている。独特の構図にひきつけられ、大変面白いと思った。いつか、暇ができたら画家の背景なども知りたいと思っていた。その後、オックスフォードのアシュモリアン博物館で『森の狩』に出会い、さらにこの画家への関心は深まった。

  日本では知る人も少ない。しかし、15世紀のイタリア美術史の文献を見ていると、頻繁に登場する著名な画家である。一時はモザイク画家あるいは数学者あつかいもされていたようだ。ヴァザーリの『美術家列伝』にも登場する。初期にはあの名だたるギベルティ工房で活動していた。透視画法(遠近法)に寝食を忘れて没頭していたという逸話もあり、さもありなんと思ってしまった。

  その後、ふとした折に、ジョバンニ・サンティGiovanni Santiという同時代の画家が、当時のイタリア、オランダなどで活躍する著名画家を詩の形で取り上げたリストに出会った。ちなみに、サンティは画家としては凡庸だが、詩などの才能に優れた教養人と評されてきた(わずかに残る絵画作品の写真などをみると素晴らしい絵と思うのだが、美術家の世界も毀誉褒貶が激しい)。

  この詩には、フラ・アンジェリコ、マザッチオ、フィリッポ・リッピ、カスターニョ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヤン・ヴァン・アイク、ピサネーロ、ベリーニなど、きら星のごとき画家たちが並んでいる。別に美術史を専門にしているわけでもなく、自分だけの好みで見ているので、なんのさしつかえもない。しかし、ちょっとうれしい思いがした。ごひいきの画家が評価されていたからである。ご参考までに、このリストを記しておこう。

Fra angelico (c.1387-1455)
Paolo Uccello (1396/7-1475)
Masaccio (1401-1428?)
Posellino (c.1422-1457)
Filippo Lippi (c.1406-1469)
Domenico Veneziano (died 1461)
Andrea del Castagno (1423?-1457)
Botticelli (c.1455-1510)
Leonardo da Vinci (1452-1519)
Filippino Lippi (1457/8-1504)
Jan van Eyck (died 1441)
Piero della Francesca (c.1410/20-1492)
Melozzo da Forli (1438-1494)
Cosimo Tura (c.1425/30-1495)
Ercole de' roberti (1448/55-1496)
Perugino (c.1445/50-1523)
Luca signorelli (c.1450-1523)
Rogier van der Weyden (1399/1400-1464)
Gentile da fabriano (c.1370-1427)
Pisanello (1395-1455/6)
Mantegna (c.1431-1506)
Antonello da Messina (c.1430-1479)
Gentile bellini (c.1430-1516)
Giovanni Bellini (c.1429/30-1509)

From the prose by Giovanni Santi quoted in Baxandall

Reference
Michael Baxandall. Painteing and Experience in Fifteenth Century Italy. Oxford:Oxford University Press, 1972, 1988(second edition).

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インドに見る医療立国の姿

2006年06月02日 | グローバル化の断面

  インド旅行中に、メディカル・チェックを受けた知人の話を聞いた。以前、このブログで、日本にとって医療立国の構想が必要なことを記したことがある。その先駆的な例として、シンガポールの状況を紹介した。対象とする患者の母集団を自国民という狭い範囲に限定せず、広くグローバルな市場へと拡大するという医療サービスの開放・立国の方向である。高度な医療技術、設備と丁寧な看護ケアを武器に、ラッフルズ病院などはその方向で成功を収めつつある。高度な医療環境のある国というシンガポールの国家的イメージ向上にもつながる。

  シンガポールのような人口小国にとって、IT産業の成功に次ぐ医療産業での発展は、国家的戦略としてきわめて重要な意味を持っている。日本には残念ながらこうした雄大な構想がない。医師はおろか看護師受け入れでも、目先きの対応だけで将来へのヴィジョンがない。

シンガポールを追うインド
  シンガポールに続き、インドが同様な方向での展開を目指している。インドは近年IT産業の分野で世界をリードする驚異的な発展をとげてきた。すでにソフトウエア開発では、確固たる地位を占めている。

  インドは中国と同様に東洋医学の長い伝統を保持している。その蓄積に加えて、西洋医学の先端を取り入れた近代医学の分野でも新たな方向を切り開こうとしている。 2005年、インドでの医療サービスを受けるために海外からやってきた患者は15万人を越えた。

  英語圏で、言語の壁がないこともITの場合と同様にインドの武器となっている。加えて、高度な医学教育を目指し、インド政府や民間関係者は人材育成に力を尽くしてきた。インド政府はこの方向に沿って、海外からの患者と家族の受け入れのためのメディカルヴィザの発給に踏み切った。

    この背景にはニューデリーを始めとして、インド国外に開かれた病院、医療機関が着々と成果を挙げつつあることを指摘できる。当初は海外に住むNRI(Non Residence Indian 非居留インド人)を対象としていたが、今ではインド人以外の患者が増える傾向にある。空港への送迎、治療費、入院費などすべて含めて血管造影が1日の入院で550ドルと、西欧の病院と比較して安価なことなどで人気を博しつつある。高い医療技術の維持・達成を目標とするこうした病院は、IT産業に次ぐ先端産業としてインドの発展を支えるものとなりそうである。こうした方向はドバイ、バーレーンなどの中東諸国も、模索している。

新たな雇用機会の創出にも
  日本では、雇用機会の海外流出が大きな懸念材料になっている。日本列島に残りうる産業はなになのか。高度な専門性、技術力を持った産業こそが将来の日本を背負うものである。そのひとつが、医療サービスである。日本はこの領域でアジアをリードしうる立場にある。

  世界では、高度な専門技術能力を持った人材の争奪が起きている。このグローバル化の時代に、国内の人材だけで一国の活力を維持してゆくことはできない。世界中から医師、看護師、医療技術者など広く人材を受け入れ、その成果を世界に還元するという視点が必要である。

  地域振興・開発のベースとしてグローバルに開かれた視点での医療サービスのあり方は、急速な少子高齢化で活力を失いがちな日本にとって、検討すべき大きな課題と思う。小児科や産婦人科医師が不足して、子供も安心して生めないという状況では、とても出生率の改善どころではない。高度な医療・看護環境に支えられた人間重視の国というイメージが生まれるような努力が必要ではないか。現実の医療・介護の現場をみると、過酷ともいえる現実が目に入ってくる。大きな視点の転換が必要に思われる。


本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/7f5278267f8243515ba252bca2619336

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする