☆しばらくぶりの「ラ・トゥールの世界」、ご関心のある方だけお読みください。
パリで宮廷画家の生活を経験したラ・トゥールも、ロレーヌの戦火がしばし収まったのを見てリュネヴィルへ戻り、制作活動を再開した。1645年、リシリュー亡き後、その意を受けた枢機卿マザランからロレーヌ地方総督に任命されたアンリ・ド・ラフェルテ=セヌテールが、この画家の作品を熱望したことは以前に記した通りである。
誰もが欲しがったラ・トゥール
ラフェルテは大変な美術愛好家でもあった。彼は、年始の贈り物として毎年地方総督に納められる大金よりも、ロレーヌの画家の作品を好んだ。これに対して、リュネヴィル市は画家から作品を買い取り、総督に寄贈するという形をとっている。その時支払われた価格は、記録によると作品により異なるが、大体500から700フランという破格の高額であった。ラ・トゥールに限ったことではないが、当時の画家の作品はいかなる要因で評価がなされたのだろうか。
ラ・トゥールは1645年から没年の1652年までほとんど毎年リュネヴィル市からアンリ・ド・ラフェルテ=セヌテールへ贈るための絵画の注文を受けている。最初の注文は、1645年「羊飼いの礼拝」(ルーヴル美術館所蔵のものか)と記録が残っており、700フランという高額が支払われている。
さらに、1949年「聖アレクシスの絵」をラフェルテはリュネヴィル市から受け取っている。この時に、ラ・トゥールには500フランが支払われている。作品を収める金の額縁のためには30フランが支払われた。
1650年に収められた「聖セバスティアヌス」の場合には、700フランが画家に支払われている。この時は額縁の製作のために45フランが彫刻家ジャン・グレゴワールに支払われた。画家と売買契約の時に飲むためにラ・トゥール家に持ち込まれたワイン3瓶が4フランであった。
1651年の作品「聖ペテロの否認」については、ラ・トゥールに650フランが支払われている。これらの記録を見るかぎり、ラ・トゥールの作品について、当時のロレーヌの社会における高い評価を作品価格という点から推測することができる。
作品の経済的評価
現代の絵画市場では画家と顧客clientsの関係は、通常の商品市場の売り手と買い手と本質的に変わりはない。中間に画商などが介在するとしても、買い手がその作品にどれだけの価値を見出し、値段をつけるか。売り手がそれに応じるかというプロセスである。基本的に市場メカニズムそのものである。
しかし、中世から近世にかけての画家と顧客あるいはパトロンとの関係は、かなり異なっていたようだ。当時の画家たちの作品がいかなる評価をされていたかは大変興味あるところである。しかし、その仕組み(市場)の実態を知ることはきわめて難しい。イギリスに滞在中に見つけて興味をひかれて読んだ文献に面白い記述があった。それらを参考にしつつ、17世紀にかけての画家とパトロン・クライアントの関係について考えてみたい。
15世紀の画家とパトロン
そのひとつは、15世紀ルネサンスのイタリア、フローレンスについての研究である*。イタリアは当時ヨーロッパ世界の文化の中心だった。その影響は美術の世界でも大変大きかった。この先進地域の状況は、ヨーロッパの他の地域のあり方を見る時に一つの基準となりうる。
バクサンドールは当時の絵画制作は社会的な関係の蓄積であるという。一方に、作品の制作にあたる画家がいる。彼は自分で創意に基づき制作活動に従事するか(ほとんど不可能だったが)、少なくも工房などで職人や徒弟たちの制作過程を指導、管理する。他方には、制作を依頼した者あるいは依頼した作品をなにかの目的に使おうと考えている者がいる。
彼らは15世紀フローレンスという社会の制度や慣行の中で積み重ねられた枠組みの下で行動している。その仕組みは現代の市場とは異なり商業的、宗教的な、あるいは作品の認識などを含める広い範囲での社会的な意味を持っている。
作品の制作を依頼し、支払い、使途を考えた者は、パトロンと呼ばれる存在である。ただ、この言葉はさまざまな含意を持っている。15世紀くらいの段階では、パトロンはしばしば有力な画家を資金力、販路、その他の社会的つながりで抱え込んだり、強い影響力を発揮していた。われわれが今日考える顧客・クライアントというイメージからはほど遠い。およそ顧客(クライアント)とはいえない注文主の強力な地位である。たとえば、美術史上著名なフィレンチェの富裕な商人ジョヴァンニ・ルチェライ Giovanni Rucellaiは、邸宅内にドミニコ・ヴェネツィアーノ、フィリッポ・リッピ、アンドレア・デル・カスターニョ、パオロ・ウッチェロなどの仕事場を抱え込んでいた。金細工師、彫刻家の仕事場もあった。
ルチェライのようなパトロンにとっては、イタリアの最も著名な画家たちを自分の傘の下に抱えているということ自体が満足だったのだろう。そして、神の栄光、市の名誉、そして自らの記念という満足を生む根源につながっていたと思われる。
複雑な評価の要因
必ずしも著名ではない画家の場合、それぞれの地域で祭壇、家族の礼拝堂のフレスコ画、寝室のマドンナ、書斎の壁画など、社会的に定まった作品を依頼されるという枠内で、仕事をしていた。それでも、基本的に注文生産の仕事であった。注文によらない作品としては、一般向けのマドンナの絵や、結婚の支度品としてのたんす類など家具什器の絵であったり、どちらかというと売れない画家が制作していた。
現代では、特定の目的のために製作依頼がある場合を別にすれば、画家の作品はレディ・メードで、それぞれの画家の知名度、作品評価などで市場価格が決まっており、画商、オークションなどの市場メカニズムを通して、購入される。
15世紀から近世初期にかけての絵画取引の市場は、かなり異なっていた。依頼者がテーマを提示し、画家がデザインをした構図を見せて了解を得た上で、細部の制作に入ることも多かった。そして、報酬の支払方法も色々あったようだ。大伽藍の天井画や壁画のような場合、時には平方フィートあたりいくらという支払いまであったようだ。大作品に複数の画家が関わるときには、社会的評価による画家ごとに異なる報酬が支払われたこともあった。また、画材、たとえば金、銀、ウルトラマリーン(ラピズ・ラズリなど)のような高価な画材が使われる時には、相応の配慮が行われた。また、製作に要する時間なども考慮された場合もあったようだ(ちなみに、時代は17世紀へと下るが、現存するラ・トゥールの作品でラピズ・ラズリが使われているのは、1点しかないようだ)。
浸透する市場メカニズム
ラトゥールの生きた17世紀には、画家とパトロンの関係は15世紀の状況とこれと比較すると、かなり変容していたと推定できる。依然としてパトロンやクライアントからの依頼による注文制作という面は残っているが、通常の市場メカニズムが働く部分が次第に浸透していることを感じることができる。ラ・トゥールを初めとする当時の画家たちの作品評価はなにによって形成されていたのだろうか。考えてみたい要因は数多い。
Reference
Michael Baxandall. Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy. second edition, Oxford University Press, 1972, 1988,