時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

創られた所に立ち戻る

2008年04月30日 | 雑記帳の欄外

  春は生気をもたらす。気温が上がり、花々が咲き乱れ、新緑があたりに満ちてくると、冬の間眠っていたような思考の世界にも、光が差し込んでくるようだ。日々の生活の折々にふと思い浮かんだ雑多なことを、書き記している。とはいっても、無意識にある程度のふるいわけをしている。世の中の憂きこと、煩わしきことには、ほどほどに付き合い、タイムマシーンで過ぎ去った世界をめぐる。日常の生活ではあまり考えないことを考える。

  いつの頃からかタイムマシーンのひとつの停泊地は、17世紀の画家の世界となった。画家たちの日常に入り込む。作品を見ているうちに、画家の制作風景、工房の生活、それに連なる外の世界などが、次々と思い浮かび、想像がかき立てられる。時には、その手がかりを探し求めてさすらう。 ひとつひとつは他愛もない些事なのだが、積み重ねている間にイメージが浮き上がってくる。これまで闇に埋もれて見えていなかったことが見えてくる。記憶の衰えは避けがたいが、書き記すことである程度はおぎなえる。次々と思い浮かんだことを脈絡を考えることなく書き留め、あちこち行き来している間に、思いがけずも隙間が埋まったりする。

  あのテル・ブルッヘンの「キリストの磔刑」が、塵や埃で読めなくなっていたモノグラムの発見で、にわかに脚光を浴びたように、光はしばしば小さな合間から入ってくる。

  「神(真理)は細部に宿る」とは、けだし名言だと思う。1960年代末の頃だったか、歴史で概論が書けない時代になったという話を聞いたことがあった。歴史に限らずあらゆる学問領域で専門化が進んだ。それまで概論・総論を組み立てる土台になっていた部分に新たな発見が次々と生まれると、土台が揺るぎだし、ある程度落ち着くまで総論が描けなくなる。確かに書店の棚を眺めても、多くの分野で「○○概論」、「○○原論」というタイトルが少なくなった。他方で専門化の弊害も感じられるようになる。一口に言えば「木を見て森を見ず」という状況だ。

  絵画作品が作られた時に立ち戻って、追体験をしてみたい。単に作品だけを見るのではなく、工房に入り込む。そんなことはできるわけではないが、タイムマシーンにはほど遠いにせよ、インターネットはプリミティブな疑似体験をさせてくれる。衰えた脳の活性化には、多少の効用もありそうな気がする。

 

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お見落としなきよう:メトロポリタン

2008年04月25日 | 絵のある部屋

Johannes Vermeer(Dutch, 1632-1675). A Woman Asleep at Table, c. 1657
Oil on canvas, 87,6 x 76,5 cm
Metropolitan Museum of Art, New York


  メトロポリタン美術館などニューヨークの美術館に関しては、個人的には興味深いことが多々あるのだが、少し深入りしてしまった。折からのゴールデン・ウイーク、この辺で中休みとしよう。それでも、この連休にメトロポリタンを訪れる方もおられるかもしれない。ひとつだけ記しておきたい。

  メトロポリタンのヨーロッパ美術、とりわけオランダ絵画部門は大変充実しており、「オランダ回廊」Dutch Galleries があり、「フェルメールの部屋」もある。この部屋には、レンブラント、フェルメールを始めとして、多数のオランダ絵画が展示されている。しかし、日本からはるばる見に行った知人から、メトロポリタンは大きすぎて疲れる、フェルメールにしても、同じ部屋になぜ全部一緒に展示していないのかという感想を聞いたことがある。確かに同館所蔵のフェルメールの作品は全部で5点(5点も!)なのだが、「フェルメールの部屋」にそのすべてが展示されているわけではない。

  メトロポリタン(所蔵点数200万点を越える)に限らず、ルーヴル、プラドなどの大美術館は時間に限りのある旅行者としてみると、展示点数が多すぎて疲れるし、見たい名画も多く注意力も散漫になる。あらかじめ、お目当ての作品に目星をつけて観ることにして、後は時間と気力・体力が許す限りにするのがよいかもしれない。個人的には小さな美術館がはるかに好きだ。

  5点のフェルメールのうち、
1点だけ別の部屋、「アルトマン回廊」 Altman Galleriesに展示されているのは、メトロポリタン発展の歴史を知る上で興味深い。ブログにも記したが、遺贈者アルトマンからの条件として、作品を館内でばらばらにしないでほしいとの制約がつけられていた。そのため、遺贈目録に含まれていたフェルメールの「眠る女」A Maid Asleep(上掲イメージ)だけは、近くの「アルトマン回廊」に展示されている。メトロポリタン美術館にとってアルトマン遺贈は、空前絶後の大規模な遺贈でもあり、その絶大な好意に応えたのだ。こうした例としては、同様な大遺贈でもある「ロバート・リーマン・コレクション」(いずれ記すことがあるかもしれない)などがある。

  こうした遺贈・寄贈者の遺志や希望は、今では必ずしも受け入れられないが、「ロバート・リーマン・コレクション」や
「アルトマン回廊」は特別の計らいであった。それだけ、これらの遺贈がもたらした重みが大きかったといえよう。別の美術館の例になるが、メトロポリタンの近くにある「フリック・コレクション」のように、所蔵作品を門外不出とする条件がついているような場合もある。

  さて、メトロポリタンが今日所蔵する5点のフェルメール作品の中で、一番新しく追加されたものが、「ある少女の像」Study of a Young Woman (下掲)である。

  


  

Johannes Vermeer(Dutch,1632-1675), Study of a Young Woman, ca.1665-67. Oil on canvas. 17 1/2 x 15 1/4 in.(44.5x40cm). gift of Mr.and Mrs. Charles Wrightsman, in memory of Theodore Rousseau Jr.,1979 (1979.396.1)

  第二次大戦後、メトロポリタンへの遺贈・寄贈はピークは過ぎたが、1970年代におけるひとつの注目すべき高まりが、この作品を含めたライツマン夫妻 Charles and Jayne Wrightsman の寄贈であった。石油産業で富を成し、長らく同美術館の理事も務めていたライツマン夫妻は、このフェルメール作品を含めて、およそ60点の作品を寄贈してきた。戦後ではかなり大規模な寄贈者になる。

  この「ある少女の習作」は、フェルメールが描いた3点の「トローニー」 tronie (オランダ語)の一枚ではないかとされてきた。「トローニー」は今は使われなくなった用語だが、17世紀オランダで、頭、顔あるいは表情を意味する人物画のひとつのタイプを意味している。レンブラントやそのグループの作品にその例が見られる。オランダのトローニー作品は、ほとんどモデルがいたといわれているが、通常の肖像画とは異なる。

  後者は、しばしば依頼に基づいており、描かれたモデル(model, sitter)にどれだけ近似しているかが、ジャンル判別の特徴である。さらにモデルの尊厳の維持が暗黙に問われている。他方、前者トローニーは一見肖像画に見えるが、画家の目指すところは習作にあったと思われる。そこで追求されたのは、人物の表情、タイプ、画家に興味ある容貌(外国人、若い女性?など)であった。さらに、モデルが身にまとう衣裳の珍しさ、外国風、古風、高価で豪奢なこと、そして画家が自らの技術の高さを示すに都合がよいと思うものなどが選ばれ、作品として描かれた。美的洗練度、普遍性、美術的実験など、「モデルへの近似性」以外の要因のウエイトが大きい。17世紀オランダには、トローニーへの需要はかなりあったようだ。特定個人に帰着する肖像画と違って、美術市場での商品性も高かった(肖像画の場合でも、実物以上に見目良く描かれている場合が多いが、究極には依頼者など、特定のモデルにどれだけ似ているかが、問われたと思われる)。

  1696 年にアムステルダムで行われた、美術界では著名なディシウス Dissius の競売の際の説明に、フェルメールの作品の中に3点のトローニーが含まれていると記されていたらしい。そのうち1点は古風な衣裳で描かれていたともいわれる。しかし、ここに掲げた作品が、それに該当するか、実際のところはよく分からない。

  1829年までこの作品が、ベルギー、ブラッセルのアレンベルグ公 Prince auguste d'Arenberg のコレクションに含まれていたことはほぼ確からしい。1850年代末までは作品の所在は判明していたが、第一次大戦勃発とともに、アレンベルグの子孫たちが、収蔵品を安全に確保するためにヨーロッパにあった城に隠匿していたようだ。アレンベルグは大戦中もドイツ国籍を所持していた。戦後、これらの収蔵品は押収され、「敵性財産」として売却されたが、フェルメールのこの作品はどういうわけかその対象指定から免れていたようだ。1950年代半ばに突如として市場に姿を見せた。そして、1955年にアメリカの富豪チャールス・ライツマンがアレンベルグの子孫から$325,000で購入した。

  この作品、フェルメールの作品の中では保存状態がよいといわれている。実物に接してみて、確かに画面が大変美しく保たれている。しかし、少し注意深くみていると、なんとなく不気味な感じがしないでもない。実際にこうしたモデルがいたのだろうか。あの「真珠の耳飾の少女」これもクローニーとの推定もある)とも異なる雰囲気が漂っている。実際の人間ではなく、別の世界から来たようにさえ思える。少女を描いたようではあるが、顔がのっぺりとしていて、少年でもよいような、なんとなく中性的な感じだ。じっと見ていると、魅入られるような気持ちになってくる。そろそろ退散しよう。

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画家も作品も辿る数奇な運命

2008年04月21日 | レンブラントの部屋

Portrait of Gerard de Lairesse, ca. 1665 Rembrandt (Rembrandt Harmensz. van Rijn) (Dutch, 1606–1669) Oil on canvas; 44 1/8 x 34 1/2 in. (112 x 87.6 cm) Robert Lehman Collection, 1975 (1975.1.140)

   
  この作品を最初に見た時、一寸異様な感じがした。描いた画家はレンブラントである。描かれている人物は青年らしいのだが、なんとなく健康さが感じられない。来歴などを改めて見て、なるほどと思った。

  描かれているのは、エラルート・デ・ライレッセ Gerard de Lairesse (1641–1711)というレンブラントと同時代のオランダで大変成功した画家、銅版画、そして美術理論家だった。レンブラントよりやや若い世代だが、画家として天賦の才に恵まれていた。 しかし、不幸なことに先天性梅毒に罹患しており、そのために1690年頃に失明してしまう。その影響は、若さが感じられない肌の色、歪んだような鼻や顔の輪郭など、描かれた容貌からもうかがわれる(ライレッセ25歳くらいの頃である)。この大変不幸な運命を負ったモデルに、レンブラントは正面から臆せず対しながらも、そこに人間としての尊厳さを留めて描いている。

  二人は友人の間柄だったが、ライレッセの絵画の理想として美術理論は、レンブラントのスタイルと反対の方向を志向していた。ライレッセはレンブラントを尊敬していたが、晩年のレンブラントの作品を「カンヴァスの上に流れる泥」と酷評していた。しかし、描かれたライレッセの肖像には、レンブラントのこの画家への思いやりが感じられる。


Gerard de Lairesse(Dutch, 1641-1711), Apollo and Aurora, 1671. Oil on canvas, 80 1/2 x 76 1/8(204.5 x 193.4 cm), gift of Manuel E. and Ellen G. rionda, 1943 (43.118). The Metropolitan Museum of Arts.


  ライレッセはベルギーのリージェに生まれたが、後にオランダへ移住し、アムステルダムに住むようになる。そこで著名な画商ヘンドリック・ファン・アイレンビュルフに才能を見出される。レンブラントと知り合ったのは、こうした関係からだろう。ライレッセの寓意を含んだフランス風の古典志向の作品は当時大変人気があり、「オランダのプッサン」といわれた。 ライレッセが失明する以前に描いた作品は、バロックの流れに位置づけられる華麗で古典的なものである。レンブラントの画風とはかなり異なっている。このことは、たとえば上掲のライレッセの作品「アポロとオーロラ」とレンブラントの作品を比較してみれば、一目瞭然である。

  ライレッセは役所や富裕な邸宅などの壁面を飾る作品をしばしば依頼されていた。ハーグの議事堂 Binnenhofの一室、アムステルダムの街路などに、画家の名前がつけられている。ライレッセは視力を失った後は、作品制作はできなくなり、代わって美術理論に専念するようになった。その美術理論*は、18世紀のオランダ絵画に大きな影響を与えたといわれている。

  レンブラントが描いたこのライレッセの肖像画にも、舞台裏ではさまざまなことがあった。作品は時を経てアメリカに渡り、1940年代中頃、ボストン美術館に50,000ドルというレンブラントの作品としては破格な廉価でオッファされた。ところが、そのオッファは断られてしまった。その理由として伝えられているのは、ボストンの名家であり、イタリア美術の愛好者であった館長の意を受けた美術館の理事たちが、この作品を「ある梅毒患者の肖像」と理事会で紹介したためと言われている。

  これについては、これより以前に自分の支援するベルリン美術館のために、レンブラントの作品を取得したいと考えていた画商ウイルヘルム・ボーデが、競争相手をあきらめさせるために同じ手法を使ったといわれていた。その手法は功を奏し、ボーデの仲間のコレクターで、当時ベルリンの銀行家レオポルド・コッペル Leopold Koppel (d.1933)が入手した。その後第二次世界大戦を逃れ、ベルリンを去ったコッペルの息子アルベルトが、作品を伴ってカナダへ渡った。

  それをアメリカのコレクター、ロバート・レーマンRobert L. Lehman(1891-1969)が1945年に画商を介して取得することになった。その結果、レーマンの死後、3000点に及ぶロバート・レーマン・コレクションの一部として、1975年にメトロポリタンへ遺贈された。今日、メトロポリタン美術館を訪れると、ロバート・レーマン・ウィングで、この絵に対面できる。作品の運命も画家に劣らず、数奇なものがある。



* たとえば、Gerard de Lairesse. Het Groot Schilderboek,

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レンブラントに賭けた美術館

2008年04月19日 | レンブラントの部屋

Rembrandt van Rijn(1606-1669),
Aristotle with a Bust of Homer 1653
Oil on canvas, 143.5 x 136.5 cm
Purchase, special contributions and funds given or bequeathed by 
friends of the Museum, 1961 (61.198)

Metropolitan Museum of Art, New York


  ブリュッヘンの「キリストの磔刑」を、メトロポリタン美術館が初めて自力で購入してから4年後の1961年、メトロポリタンは今日にいたるその歴史において、最も華々しいといわれる高額な作品購入を行った。購入の対象はレンブラントの「ホーマーの胸像に手を置くアリストテレス」Aristotle with a Bust of Homer だった。ニューヨークで行われたアルフレッド・エリクソン夫人 Mrs Alfred Erickson が所有していた作品の競売だった(エリクソン家の所有になるまでの経緯は「大西洋を越えたフローラ」参照)。

  激烈な競売は、時間にしてはわずか4分で終わり、それも競売会場でそれまで聞いたことのない$2,300,000という高額で落札された。世界の美術市場でもこれだけの作品を購入できる者は限られており、価格も記録的な高さであった。

  この作品は仮想の世界の作品だが、レンブラントの作品の中でもよく知られているもののひとつである。作品を依頼したのは、富裕なシシリアの貴族 ドン・アントニオ・ルッフォ Don Antonio Ruffoであり、レンブラントのほとんど唯一のオランダ国外のパトロンだった。レンブラントは出来上がった作品を、1654年にシシリーのメッシーナに送り、報酬として500グルデンを受け取った。レンブラントが財政的に困窮への下り坂に入った頃だった。

  単にパトロンから要望された一人の哲学者アリストテレスを描くことではなく、この常にイノヴェーティブな発想を大事にする画家レンブラントは、紀元前4世紀の3人の偉人を描こうと考えた。すなわち、アリストテレス、ホーマーそしてアレキサンダー大王である。ギリシャの偉大な哲学者アリストテレスは、自らの書斎でルネッサンスの人文主義者の衣裳をつけて描かれている。彼はホーマーの胸像に手を伸ばし、アレキサンダー大王のメダリオンを掛けている。アレキサンダー大王は一時アリストテレスの弟子であったといわれる。

  ホーマーの胸像は、レンブラントが収集していたいくつかのヘレニスティックな胸像に基づいて描かれている。描かれたアリストテレスのイメージは、アムステルダムのゲットーに住んでおり、画家が聖書にちなむ画題で、しばしばモデルとしたユダヤ人の名残を見せている。アリストテレスの書斎の静謐さ、盲目の詩人の胸像に置かれた哲学者の指の重み、そしてなににもましてこの哲学者の神秘的な容貌が、深い思想のイメージを画面にみなぎらせている。

  この作品が取得された1961年までに、ほぼ42点のレンブラントの手になると思われる作品がメトロポリタン美術館のものとなった。「アリストテレス」は、その中でメトロポリタンが購入した最初で、唯一のレンブラント作品だった。

  この購入はメトロポリタン美術館の歴史において、自らの収集・所蔵方針を明確にした画期的なものとなった。これだけ巨額な投資を行いうるまでに資金的基盤も生まれ、収集計画も確立されたことを意味するものである。創設以来長い間、富豪たちの善意に依存してきたメトロポリタンの自立を示すモニュメントであった。

 

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壊れ始めた北京への道(2)

2008年04月16日 | 雑記帳の欄外

    チベット暴動後のオリンピック聖火リレーが苦難の道になることは、ほとんど予想したとおりだった。ある意味で、中国は自ら問題を作りだしてしまったのだ。ラサでは、いつかこうした事態が起こりかねないことは、いくつかのメディアが予測していた。それにもかかわらず、最悪の事態が起きてしまった。中国首脳部が最も恐れていたことである。

  問題は、暴動勃発後の中国の対応だった。力による弾圧、ダライ・ラマに対する一方的非難、そして対話の拒否。これでは解決は望み得ない。ラサやチベット人の多い地域での暴動は、中国首脳部としてできれば国民に見せたくない光景だろう。国内では極力放映されないようにしているようだ。しかし、それも限度がある。他方、聖火リレーの通過国での妨害行動は、インターネットの時代、視聴制限ができない。中国報道官が口にしたように、こちらは中国国民の愛国心を煽るために利用するという方向だ。偏った情報注入は、不条理な行動につながる。
 
  スポーツと政治は別の次元の問題と関係者がいくら強調しようと、現実にはスポーツの政治化は、改めて指摘するまでもないほど深く進行してしまっている。アメリカではサンフランシスコで聖火を倉庫に避難させたり、式典を中止したり、なんとか形だけつけて通り過ぎてもらうことに大わらわだったようだ。今、この難しい時期に中国との間で大きな問題を起こしたくないという配慮が働いているのだろう。パキスタンで聖火リレーを競技場に閉じこめて行ったというのは、まさに戯画的光景だ。英誌The Economistが指摘するように、北京で、「チベットの独立を」などと書かれたTシャツを着た観客が入ってきたらどうするのだろうか。すでにフランス選手団が「平和バッジ」の着用を提唱し始めた。

  中国首脳部は、今ではギリシャ、オリンピアの地から北京へ航空機移送をすればよかったと思っているだろう。彼らがコントロールできない地域での反中国的行動は、自らの失態を世界にさらすことになる。オリンピックを目覚しく発展する現代中国を、世界に誇示する重要な機会と考えていただけに、首脳部の衝撃は想像以上に大きいに違いない。オリンピック終幕まで、どこで何が起きるか分からない。どうすれば面子を失わずに終わらせることができるか。おそらく始まらないうちから、終幕のあり方を考えていることだろう。本来ならば政治の対立も忘れて楽しむはずのスポーツの祭典が、極度の緊張の中で進められることになってしまった。

  開幕まで時間がなくなってくると、中国首脳部にとって打つ手の選択肢は限られてくる。とりわけ、彼らが恐れるのは自爆テロのような防ぎようのないことが起こることだ。そして、首脳部が最も恐れることは、それが国内問題の爆発につながることだ。
  
  1989年の天安門事件の時も、インフレと政治的不満が背後で結びついて爆発した。何が起こるかわからないことが、対応を非常に難しくしている。チベット族以外の少数民族への連鎖も目が離せなくなった。


  改善のために動かねばならないのは、中国首脳部であることは間違いない。非難の応酬に終始するかぎり、緊張度は高まるばかりだ。ダライラマとの対話など、一番いやなことに手をつけねばならない。 しかし、それが最も確実な事態改善への唯一の道なのだ。少なくとも対話が続く限り、大きな破綻は避けられる。



Reference
“Orange is not the only protest.” The Economist April 12th 2008.

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よみがえったブルッヘン

2008年04月13日 | 絵のある部屋

The Crucifixion with the Virgin and Saint John, ca. 1625
Hendrick ter Brugghen (Dutch, 1588�1629)
Oil on canvas; 61 x 40 1/4 in. (154.9 x 102.2 cm)
Funds from various donors, 1956 (56.228)



  美術館が所蔵する作品の中には、数奇な運命を辿ったものもある。作品の来歴 provenance を見ることで、時には思いがけないことを知ることができる。波乱万丈の自伝を読むような気がすることもある。メトロポリタン美術館の歴史にそのひとつの例を見た。

  1956年、メトロポリタン美術館は、カラヴァッジォの流れを汲んだユトレヒトの画家ヘンドリック・テル・ブルッヘンHendrick ter Brugghen(1588-1629)の手になる「キリストの磔刑」The Crucifixion with the Virgin and Saint John (ca.1624-25)を購入した。この作品、テーマやイメージから見て個人の礼拝堂か“隠れた”カトリック教会の祭壇を飾っていた作品と考えられている。一見して、その古風な様式や雰囲気から、このブログでも話題としたことのあるアルブレヒト・デューラー(1471-1528)やマサイアス・グリューネヴァルト(1475・80―1528)を思い起こさせる。実際、そう考えられたこともあるらしい。さらに、ブルッヘン自身もカトリックではないかと推定された(今日では、誤りとされているようだ)。

  よく見てみると、グリューネヴァルトの作品にも大変似た様式で描かれたものがある。しかし、陰鬱な印象が強いグリューネヴァルトと比較して、こちらは色の使い方、光など、なんとなく新しさを感じる。実はブルッヘンは、友人であったホントホルストと並び、かなりごひいきの画家なのだが、この絵はあまり好みではない。

  この作品、実は初期の来歴は闇に包まれている。最新の調査の結果では、1624-25年頃の作品と推定され、19世紀後半から20世紀中頃まで80年近くの間、ロンドンのサウス・ハックニーにある小さなヴィクトリア風の教会クライスト・チャーチの小礼拝堂に掲げられていたことが分かっている。ルーベンスの「キリストの降架」Deposition のコピーと並んで掲げられていたらしい。その当時は作品自体がかなり汚れており、ラベルもなにもついていなかった。クライスト・チャーチ最後の司祭の息子にあたるニジェール・フォクセルNigel Foxell によると、イタリア、カラッチ派の画家の作品とされてきたらしい。

  これから明らかなように、当時は作品につけられていたブルッヘンのモノグラム HTBに、誰も気づいていなかった。このモノグラムは後になって発見されたのだが、作品に描かれている十字架の下部、頭蓋骨の上辺りに記されていた。なぜ、モノグラムに気づかなかったのだろうか。保存状態があまりよくない教会堂で、画面が汚れており、読めなかったのかもしれない。確かに、この部分は暗色に塗られていて気をつけてみないと分からないと思われる。

  クライスト・チャーチは第二次大戦中に爆撃を受け、その後、1955年に撤去され、教会自体が消滅してしまった。幸いブルッヘンの作品とルーベンスのコピーは、画家や来歴などを調べられることもなく、近くのより大きな教会であるセント・ジョン教会に移管された。戦後のどさくさで余裕もなかったのだろう。

  その後まもなく、フォクセルがこの教会に立ち寄り、自分の父親の教会にあった、あの「カトリックのような」“popish” 絵画はどうなっているか調べたところ、教会身廊nave の聖具室の屋根に画面を上にして放置されていたのを見つけた。漆喰や塵が作品の表面を覆っていたけれども、幸い特に損傷していないことが分かった。そこで、フォクセルは牧師に80ポンドという当時としてもささやかな額を差し出し、この絵を引き取った。

  その後、1956年の秋のこと、著名な競売会社サザビーズのスタッフがこの絵を鑑定し、ブルッヘンの作品であることを確認した。それを知って、フォクセルはこの作品をロンドンのオークションに出品した。結果として、ニューヨークのメトロポリタン美術館が、美術品ディーラーのハリー・スパーリングを介して落札した。価格は15,000ポンドという破格な高額だった。フォクセルは、この取引で得た利益をロンドンの教区へ寄付した。

  ブルッヘンは、時に作品がラ・トゥールと間違えられたこともあるホントホルスト Cerrit van Honthorst(1592-1656)などと同時代人である。ハーグに生まれ、1590年代にユトレヒトへ移った。この時代の多くの画家の憧れの地であったローマへ画業の修業に行っている。時期は1606年頃ではないかとみられ、カラヴァッジォが活躍していた時期と推定されている(カラヴァッジォは罪を犯し、1606年にローマから追放された)。その後、1614年にユトレヒトへ戻ると、伝統的なオランダ絵画の主題に新たな試みを持ち込み、宗教的あるいは世俗的主題において、当時の最新のイタリアの様式を導入した。それはカラヴァッジョの作品から学んだラディカルな自然主義とドラマティックなキアロスクーロ(明暗法)だった。ブルッヘンは蝋燭あるいは油燭の明かりによる独特な雰囲気を生み出した。

  かくして爆撃を受けた廃墟からよみがえった作品は、オークションという場を介して、大西洋を渡った。ブルッヘンは、ユトレヒト、オランダの画壇においても、アウトサイダーであり、孤立した存在だったとされている(しかし、研究は必ずしも十分なされているとはいえない)。この作品からは想像しがたいが、他の作品におけるリア
リスティックな描き方、光の使い方などから、ユトレヒトにおけるカラヴァッジョ風の画家と考えられている。その後のオランダ絵画への影響力はさほどではなかったが、その光と色の扱い方は、レンブラントやフェルメールの先駆者とみなされている。(ラ・トゥールとも大変近い点が処々に感じられるが、その問題はいずれ記したい。)

  ブルッヘンの「オランダ的でない」祭壇画は、自然な風景や人物画を好んだ19世紀末から20世紀初頭のアメリカの古い世代のコレクターにはアッピールしなかったようだ。当時の富豪や画商の「お買い物リスト」にも載らなかった。この意味でメトロポリタンがブルッヘンのこの作品を取得したことは、時代の嗜好の変化を示すものとして注目される。メトロポリタン美術館は、次第に自らの収集方針を明確にし、ある程度は自力で作品を購入できるまでに充実してきた。実際、このブルッヘンも、多数の個人の寄付金で購入されている。メトロポリタンは、富豪たちに支えられてきた状況から、自らの方針を持った美術館として独り立ちする日を迎えていた。画期的な転機が間もなくやってくる。



Reference
Walter Liedtke. Dutch Paintings in The Metropolitan Museum, Yale University Press, 2007.



  

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虚々実々:富豪と画商

2008年04月11日 | 絵のある部屋

The Allegory of the Faith
1671-74
Oil on canvas, 114,3 x 88,9 cm
Metropolitan Museum of Art, New York
    


 20世紀初頭、アメリカの富豪の財力には、改めて驚かされるものがある。いまや世界の美術館の羨望の的であるフェルメールの作品にしても、メトロポリタン美術館はこれまでついに自力では一点も購入できなかった。云ってみれば、富豪たちが代わって買ってくれたのだ。フェルメール・ファンが多い日本だが、かつてバブルに沸き立ち、ミリオネアが続出したにもかかわらず、国内には所蔵品は一点もない。企画展のたびに海外から借りてきて観客を集めている。貸し出す側にとっては、たぶん大きな収益源なのだろう。  

 アルトマンの画期的な遺贈に続いて、1920年代から1930年代にかけて、さらに多くのオランダ絵画の名作が、メトロポリタン美術館のコレクションに加わった。その中でも特記すべきは、アルトマン百貨店 B. Altman, Co.の経営者であったアルトマンの甥にあたり、共同経営者として、そしてアルトマン没後は後継者として経営の任にあったマイケル・フリードサム Michael Friedsam (1585-1931)の遺贈だった。   

 1931年にフリードザムも亡くなると、オランダ絵画の名作を含む150点近い作品がメトロポリタンへ遺贈された。オランダ、フレミッシュ絵画に加えて、イタリアの貴重な絵画も含まれており、当時の価格で10,000,000ドルと評価された巨額な遺贈だった。オランダ絵画の中には、ルイスデールの「穀物畑」、ファン・デル・ネールの「本を読む女性」、レンブラントの「ベローナ」Bellona などの逸品も含まれていた。 とにかく、この時代の富豪の力は驚くべきものだった。その蓄財の秘密は、これまた大変興味深いテーマなのだが、ここでは立ち入ることを控えて、絵画の世界へ注目する。

大富豪が興味を示さなかったフェルメール  
 さて、このフリードザム遺贈には、メトロポリタン美術館にとっては、4枚目となるフェルメールの作品「カトリック信仰の寓意」 Allegory of the Catholic Faith も含まれていた。この作品は来歴 provenance を辿ると、最初1699年にアムステルダムで売りに出された後、いくつか所有者が転々とした後、オランダ美術の最初の専門家として知られるブレディウス Abraham Bredius が、1899年ベルリンの画商から購入した。購入価格はおよそ700ギルダーくらいと推定されている。当時は、フェルメールではない別の画家(Eglon van der Neer)の作品とも思われていた。

 ブレディウスは、当時ハーグのマウリスハイツ美術館の館長で、オランダ絵画の著名なコレクターでもあった。彼は作品を見るなり、フェルメールの手になったものと直感したらしい。しかし、ブレディウスは、この作品は好みでなかったらしく、「大きいが大変不器用なフェルメール」‘a large yet very awkward Vermeer.’ と評していた。   

 この絵はフェルメールの作品の中では数少ない宗教的テーマを扱ったものだが、他の作品ほど含意が見る者に伝わってこない。カトリック信徒である個人のパトロンあるいは小さな「隠れ」教会などが依頼したのものと推定されている(ちなみに、フェルメールはカルヴァン派であったが、結婚などを機にカトリックに改宗したのではないかとの議論がある)。フェルメールの現存する作品の中では、数少ない宗教的寓意を扱ったものだが、あまり人気を集めてこなかった。 確かに、美しく描かれてはいるが、訴えるものが少ない。画面には多くのものが描きこまれているが、散漫な感じがする。しかし、フェルメールの宗教的背景を推論するには大変興味深い作品として印象に残った。
  
 作品の解釈は専門家に任せるとして、印象としては富裕な「隠れ」カトリック教徒の家で、祭壇画風に飾られていたのではないかという気がする。プロテスタントの国オランダでは、十分ありうることではないか。そのために、依頼主の要請もあってやや過剰に、さまざまな寓意を籠めたものが描きこまれているような気がする。

モルガンはなぜ買わなかったか  
  さて、1911年12月ブレディウスは、この作品を鉄鋼業で財をなした富豪コレクターの J.P. モルガンに見せた。この頃までに、フェルメールの作品はアメリカでも人気が高まり、記録的な価格がつけられるようになっていた。モルガンは決断の早い人物といわれていたが、この作品には関心を示さなかった。モルガンは自分の好みに合わない作品は、世間でいかに人気があっても手を出さなかったようだ。ブレディウスが、「信仰の寓意」 について、いかなる評価をしていたのか、正確なところは分からない。しかし、フェルメールの作品であることを交渉材料に、どこかの富豪か画商に売りたかったのだろう。   

 この年は数少ないフェルメール作品が動いた年で、1月、フィラデルフィアのコレクター、ワイドナー P. A. B. Widenerは、フェルメールの「天秤を持つ女」 (現在National Gallery of Art, Washington, D.C. 所蔵)に115,000ドルの価格をつけ、相応する4点の作品と交換した。 同年、これも著名なコレクター、ヘンリー・フリック(フリック・コレクションの創設者) は、彼の2枚目のフェルメールとして、「士官と笑う女」 (Frick Collection, New York所蔵)に225,000ドルを支払った。   

 ブレディウスが1899年に入手した「寓意」の価格は、大変安く、700ドイツマルク以下だったといわれる。モルガンに売りそこなったブレディウスは、結局パリの画商に手放してしまう。そして、ほぼ30年後の1928年、マイケル・フリードザムは、300,000ドルというかなりの額を支払って入手した。 この作品も、フリードサムの死後、メトロポリタンに遺贈されたことは前回に記した。

絵画コレクションは富豪の条件?   
 この時代、アメリカには数多くの富豪が生まれていたが、その多くが絵画の収集を行っていた。それが純粋な美術への愛好によるものか、有り余る資産の保有形態のひとつとしてなのかは、即断はできない。しかし、美術品収集は、この時代の富豪たちの多くが行っていた時代のファッションだった。アンドリュー・メロンやヘンリー・C・フリックのように、自ら大西洋を渡って状況視察や買い付けを行っていた者もいた。ニューアムステルダムといわれたニューヨークでは、オランダ絵画の収集欲は大変高まっていた。その中でも、レンブラント、フェルメール、ルイスデール、ハルズなどの巨匠の作品は、所有しているだけでもコレクションの価値がランクアップすると考えられ、驚くべき高額で取引されていた。しかし、舞台裏では悲喜こもごもなエピソードもあった。その一つを記しておこう。

画商デュヴィーンの掌の上?    
 株式ブローカー、ジュレス・バチェJules Bache (1861-1944) も著名な画商ジョセフ・デュヴィーンを介して、コレクションを築いていた。この画商は、当時の美術品取引の多くの場面にその名が出てくる著名人物である。以前に記したように、ヨーロッパと新大陸を股にかけて、大きな事業を展開していた。旧大陸の没落貴族と新大陸の新興富豪が、彼の重要な顧客だった。アメリカの富豪で、デュヴィーンを介して美術品を購入しなかったのはないくらいだった。デュヴィーンの片腕として働いたベルナール・ベレンソン Bernard Berenson は、時には怪しげで、後に疑問符がつくようなお墨付きまで添えて、作品を売りまくった。画商と顧客としての富豪の関係は、虚々実々、騙し合いのようなところがあった。富豪も画商なしには、作品の在り処や真贋を確定することはできなかったし、画商は高く買ってくれる顧客としての富豪は、おろそかにはできない存在であった。   

 デュヴィーンは、ヨーロッパ美術市場の細部にまで通暁した辣腕の画商とも言わていた。かなり強引な取引もしたようだ。他方、作品や位置づけについては、他の画商より抜きん出た情報を持っていた。そのため、多くのコレクターがこの画商に依存していた。このデュヴィーンという画商は、毀誉褒貶の多かった人物であり、オランダ系ユダヤ人が出自のイギリス移民だった。同じく美術品のディーラーだった父親の後を継いで、美術品取引の世界に入るが、それまでの画商のイメージとは大きく異なる路線を歩いたようだ。これも、大変面白い部分であり、いずれなにかの折に立ち入ってみたい。   

 他方、バチェはまったく自分の所有欲や満足感のために絵画を収集し、それを公開することなど考えていなかったようだ。しかし、デュヴィーンの美術作品についての目利き、評価については、絶大な信頼を置いていた。その後、画商デュヴィーンの巧みな説得が功を奏して、次第に考えを変えていった。デュヴィーンは時代の流れを読み、美術品の私有から公有、公開への道を示唆していた。画商として、かなり開けた考えも持っていたようだ。   

 バチェの死後、5年が経過した1949年、遺言に基づき、メトロポリタンは、彼のコレクションから60点以上のヨーロッパの古い巨匠の作品の寄贈を受けた。その中には、数点のオランダ絵画の名品も含まれていた。

高くついた授業料?    
 バチェのメトロポリタンへの寄贈の中には、2点の“レンブラント”と言われた作品、そして ”フェルメール”では、といわれた作品も含まれていた。レンブラントと言われた作品については、学者や鑑定家などのお墨付きもつけられていたようだが、後年、真作ではなく、同時代の画家の作品とされた。生前、バチェはかなりの高額をもってこれらの作品を入手したのだが、その後2点ともに真作ではない、あるいは明らかな贋作であったことが判明している。富豪もかなり高い「授業料」を支払ったようだ。   

 バチェはことのほかフェルメールがお気に入りで、この画家の作品を取得できれば、自分のコレクション自体が一段とレベルアップすると思っていたらしい。 1928年という年は、画商デュヴィーンにとって大きな商談が成立した年といわれているが、顧客であったバチェも、待望の“フェルメール”を入手できたと思った年だった。しかし、それはまもなくぬか喜びに終わることになる。   

 画商デュヴィーンは、アメリカの富豪たちに作品を売りつける反面で、かなりのフィランスロピックな寄付もした。イギリスの多くの美術館に美術品を寄付したり、美術館や画廊の補修や拡大のための助成もしている。こうした貢献が認められて、1919年にはナイトの称号を授与され、1933年にはバロンになっている。   

 バチェが、ウイルダーシュタインという画商から134,800 ドルという高額を支払って入手した「本を読む若い女」A Young Woman Reading という作品があった。これについても著名な学者、鑑定家の積極的評価がつけられていた。しかし、その後の鑑定で、バチェが取得した1928年の少し前に作られた現代の贋作であることが判明した。当時のアメリカ美術市場での過熱した「フェルメール病」につけこんだものと推測されている。   

 大変興味深いことは、これら問題の贋作は、公開されることはないが、メトロポリタン美術館の倉庫に保管されているらしい。巨匠の名前だけを追った富豪たちの美術熱も、危うい部分を含んでいることを如実に示している。ともすれば、資金力に物言わせた買い漁りといわれてきたアメリカの富豪コレクターの美術趣味も、時にはこうした手痛い経験をしながらも1940年代には、ヨーロッパと十分に肩を並べる水準に達したといわれるまでになった。   

 第2次大戦後になると、アメリカの美術館のコレクションの充実も地に着いたものとなり、メトロポリタンにとどまらず、公私多数の美術館が生まれ、バランスの取れたコレクションが生まれるようになった。遺贈・寄贈は美術界での大きな流れとなるとともに、美術館自体の基金も個人の寄付金などによる支援体制が充実・拡大し、安定した運営が行われるようになった。富豪やその身近にいる人々以外、見ることができなかった名作の数々は大邸宅を出て、市民が集う美術館へ滔々と大河のように流れ出した。

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後の世に名を残す方法

2008年04月06日 | 絵のある部屋


上掲の作品は、今どこにあり、誰が寄贈したものでしょうか。この問に直ぐに答えられ方は、相当の美術館通でしょう(答は以下に)。

富豪たちの競う場 
  アメリカには実に多数の美術館があるが、その代表というべきものが、ここで話題としているニューヨークのメトロポリタン美術館である。ルーブル、プラドなどと並ぶ世界的な美術館である。美術館としては、巨大すぎて取りつきにくいのだが、さまざまな点で別の興味を引き出してくれる。いわば百科事典のような存在だ。個人的にも思い入れのある場所である。脳の奥底に埋もれてしまった記憶を引き出す糸口として、書き出したら次々と思い出すこともあり、止まらなくなってしまった(?)。

  この巨大なメトロポリタン美術館も、1872年にニューヨーク市5番街681番地のダンシング・アカデミー跡に開館した時の所有点数はわずか174点だった。それが、今では200万点を超えるというから信じがたいほどの驚異的な増加である。その発展の過程で個人などの寄贈、寄付が果たした役割はきわめて大きいことはこれまでにも記した通りである。

  寄贈者の名前が記されている銘板を見ると、富豪や名士ばかりではない。しかし、第二次大戦前についてみると、アメリカ史を飾る大富豪たちが所蔵していた素晴らしいコレクションが遺贈、寄贈などの形で美術館へ譲り渡され、その後の発展の基盤を築いたといっても過言ではない。 とりわけ、ここでとりあげているレンブラント、ヴァン・ダイク、フェルメールなどの17世紀オランダ絵画の名品は、富豪たちが競って収集する対象であった。

「金ピカ時代」の産物
  多数の富裕層が登場、活躍した「 金ピカ時代 Gilded Age (ca. 1875–1900)」と呼ばれる繁栄の時を含む19世紀末から20世紀初頭の美術品市場は、こうした富豪たちの財力、知力を駆使しての競り合いの場だった。その内側を少し覗き込んでみると、興味深い事実が浮き上がってくる。

    日本人が好きなフェルメールを例にしてみよう。現在、フェルメールの真作とみられるものは世界で35点前後といわれているが、アメリカ国内には12点が所蔵されている。そのうち8点はニューヨークにあり、その中の5点はメトロポリタン美術館が所蔵している。残りの3点は、フリック・コレクション(The Frick Collection, 1 East 70th Street, New York, N.Y., www.frick.org)の所蔵である。ちなみに、フリック Henry C.Frick(1949-1919) は、20世紀初頭に鉄鋼業で財を成した実業家である。

  さて、メトロポリタンの所蔵するフェルメールはすべて寄贈あるいは遺贈によるものだ。最初の寄贈は1889年、今のところ最後の寄贈は1979年ということになっている。参考までに、年代順に記すと:

「水差しを持つ若い女」1889年、ヘンリー・G・マルカンド寄贈

「リュートを弾く女」1900年、コリス・P・ハンティントン遺贈

「眠る女」1913年、ベンジャミン・アルトマン遺贈

「カトリック信仰の寓意」1931年、マイケル・フリードサム遺贈

「若い女の肖像」1979年、ライツマン夫妻寄贈

  こうした絵画のコレクターであった寄贈者たちは、いずれもアメリカ史に残る実業家たちであったが、その仕事の傍ら美術品の収集に力を入れてきた。その動機は個人的な楽しみ、投機的な対象、自らのコレクションの評価を向上させるためなど、さまざまであった。 マルカンドのように、純粋に美術を愛し、1870年の美術館設立の際に、1000ドルの寄付をしていたほどの富豪もいた。

  2点目のフェルメール寄贈者コリス・P・ハンティントン(1821-1900)については、以前のブログで記したが、成功した鉄道経営者だった。彼の妻のアラベラは、コリスのコレクションを充実させるに力を注いだ。1900年にハンティントンは亡くなったが、遺言でコレクションのすべてをアラベラに、アラベラの死後は息子アーチャーに、さらにその後はメトロポリタン美術館に寄贈するようにと、最終的な落ち着き先まで記されていた。こうなると、相続人も大変ですね。

  ベンジャミン・アルトマン(1940-1911)についても、前回記した。3点目の寄贈者である。アルトマンは、仕事以外は趣味の美術品収集だけが関心事だったともいわれる。とりわけレンブラントがお気に入りだった。アルトマンは1913年に亡くなる以前にコレクションのメトロポリタンへの遺贈を決めていた。その数は実に1000点以上、総額1500万ドルに達した。文字通り、美術館もびっくり! 

  彼の事業を引き継いだのは甥のマイケル・フリードサム(1860-1931)だった。彼は美術への関心もアルトマンから受け継いだようで、4点目のフェルメールは彼の寄贈となっている。

  そして5点目は戦後であり、オクラホマの石油王チャールズ・B・ライツマン(1895-1986)の寄贈によるものだった。ちなみに夫妻は共同して多数の名品を獲得し、作品をメトロポリタンへ寄贈した。ルーベンスの「ルーベンスと妻と息子」、ラ・トゥールの「悔い改めるマグダラのマリア」*も、このライツマン夫妻の寄贈である。

The Penitent Magdalen 1638-43 Oil on canvas, 133,4 x 102,2 cm Metropolitan Museum of Art, New York


  もちろん、メトロポリタンについても、富豪ばかりでなく、美術を愛好する一般市民を含め、寄贈、遺贈、寄付など、さまざまな形で貢献した人々は、数え切れないほど多い。しかし、美術館の創成期の基盤が、多くの富豪たちの善意によって築かれたことは、ほとんど明らかである。現世の毀誉褒貶を帳消しにし、後の世にその名が残る確実な方法だ。世のお金持ちの方々に、ご一考をお勧めしたい。

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今年の桜は色あせているか

2008年04月05日 | 午後のティールーム

  東京での会議のため、台湾から来日した友人のL夫妻と一夕、歓談の機会を持つ。L氏は台湾の国立大学で経済学を教えている。奥さんのM女史は美術館の館長であり、自ら絵筆もとる。長年にわたり、ほぼ毎年、時には年に何回も会っているので、お互い頼りあう間柄だ。例年よりずっと早い桜の開花で、夜桜を見ながらの久しぶりに楽しいひと時となった。
  
  それぞれの専門分野が異なることもあって、話題はあちこちに飛ぶのが面白い。台湾は、総統選で国民党の馬英九候補の当選が決まった直後で、話は選挙戦の様相と結果から始まった。選挙戦終盤に、チベット暴動などの突発要因もあったが、ほぼ順当な結果のようだ。下馬評ではもっと接戦になると見られていたようだが、結果はかなりの大差となった。
  
  民進党の8年にわたる長い政権に、国民が飽きたというのが今回の結果を生んだ背景らしい。陳水扁前総統が就任した頃は、清廉、潔白なイメージが強かったが、その時がピークで急速に後退し、終盤は就任時とは逆のイメージになってしまった。産業基盤も次第に中国本土へ移転し、活気がない。民進党政権下、中国側はいつも選挙戦の頃に台湾有事を想定してとの理由で、軍事演習などで示威行動をする。このあたりも軍事大国意識が出て、いやな面だ。しかし、台湾側もこうした挑発には乗らず、危機発生にはいたらなかった。表面では鋭く対立する面を見せても、危機を回避するさまざまな地下水脈が働いているようだ。

  このあたりで、心機一転、国民党に任せてみようという機運が生まれたのだろう。国民党政権になったからといって、中国に吸収されてしまうわけではない。新総統に選ばれた馬英九氏も、これまでの過程では外省人で大陸寄り、国籍問題など、大分いじめられていたが、巧みに切り抜けた。台湾人は戦後の長い歴史の過程でしたたかなバランス感覚を身につけたようだ。

  繰り返し、一触即発の緊張を経験してきた
だけに、台湾の人は危機を巧みに回避する術にかなり長けているようだ。現実主義者が多い。馬新総統もその点で、中国とは一線を画すことは明言している。1989年の天安門犠牲者の慰霊祭には出席するとみられるし、ブッシュ大統領には遅れているF16戦闘機の引渡しを求めるだろう。今回の国民党の総統誕生で、多くの支持者が喜んでいるのは、大陸との交流が進むこと、そして台湾が最後の頼りにするアメリカとの関係が改善することだ。陳水扁前総統の独立志向の「冒険主義」は、危ういと感じたこともあろう。中国本土に在住する選挙権のある台湾人は約100万人といわれるが、そのうち20万人くらいは投票のために帰国したと推定されている。

  新総統の下で、台湾は再び新たな活力を取り戻すきっかけを得たようだ。完全な機能不全状態の日本の政治を考えると、窓外の桜も、今年はなんとなく色があせているような気がした。

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正夢となった白昼夢:年金記録喪失

2008年04月03日 | 雑記帳の欄外

  まさか自分が年金記録問題の対象者となるとは、予想もしていなかった。しかし、5000万人ともいわれる数字を目にすれば、確率上は多少の危惧もあった。決して順風ばかりの人生航路を歩んできたわけではない。職業経歴も断続している。そこへ先日、「ねんきんお知らせ便」が配達されてきた。やはり来たかと思い、目を凝らしてチェックしてみると、たちまち、明らかに誤記としか思えない数字が目に入った。それも1ヶ所ではないので、ショックだった。
  
  手元にある資料をチェックし、説明のつかない部分を関連機関などで確認した上で、最寄りの社会保険事務所へ連絡するが、電話がなかなかつながらない。ようやくのことで相談予約をとりつける。1ヶ月くらい先の夕方、その日最後の時間帯である。
  
  予約当日、社会保険事務所へ出向く。すでに夕暮れ近くだが、予約なしだと25人待ちという状況であった。事務所の光景は問題発生以前とは、様変わりしている。ひとつのフロアは、ほとんどのスタッフが、年金記録対応の体制のようだ。相談を待つ人々の間には虚無とも、脱力感ともつかない雰囲気が漂っている。
  
  事務所の相談スタッフの応対は、丁寧である。訪れる人たちはそれぞれにいらだちや不安を持っているのだから、応対が大変なことも推測できる。
  
  順番が来て、送付された内容について不審と思われる点を、担当スタッフに照会、確認を依頼する。驚いたことに、相談中にもうひとつの欠落が明らかになった。案件としては、比較的処理しやすい内容と思ったが、過去の記録作業における不注意な事務処理ミスと思われる点が目につき、愕然とする。明らかに単純な入力ミスと思われる。今回、通知を受けなかったら、事実を知ることなく受け取り未了のままに人生を終わっていただろう。重大
な国家的犯罪であるとの思いが強まるばかりだった。
   
  誤った記載が修正されても、補正された年金が支給されるのは来年のことになるという。しかも、それが正確にいかなる額になるのかも分からない。未払いの分は遡及して支払われるとしても、厳密にいえば、未払い分の利子調整などはなされるのだろうか。分からない点が多々ある。どこで、誰がいかなる理由で誤記を行ったかさえ、確認できない。
   
  厚生労働分野には多少基礎知識を持っていたこともあって、自分の問題の輪郭についてはほぼ把握しえたが、それでもいくつかの疑問が残る。窓口でひとつひとつ確認していたら、さらに何時間かかるかも分からない。確かな原資料と引き合わせるため、大変時間がかかる。担当者の答えられる権限も限られているようだ。改めて、自分で年金額を試算しなおさねば正確な額すら分からないのだが、今回の被害者の間で、それが出来る人がどれだけいるだろうか。周囲の相談風景を見ていて、問題の根深さを思い知らされる。メディアは厚労相の問責案が提出されると伝えているが、担当大臣が代わったくらいで問題が解決するとは到底思えない。社会保険庁の掲示が絵空事で虚しく感じられる。

  未払いの問題ばかりではない。この問題対応のために、いかに巨額で無駄な追加費用が支出されていることか。そして、被害者など関係者がこの起きてはならなかった問題の解決のために、どれだけの時間を割いているか。大きな国民的損失である。背筋が寒くなる思いだ。

  しかし、ここまで要した時間はすでに1時間半を超え、夜の帳が下りていた。この国の未来を思い、暗澹たる思いで事務所を後にした。


社会保険庁
平成19年9月19日

年金記録問題への対策(社会保険庁)

今回の年金記録問題につきまして、心よりお詫び申し上げます。徹底した対応を行い、昔からのこの問題を一掃します。最後のお一人まで正しく年金をお支払できるよう着実に対策を進めています。

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早すぎるフローラのお出まし

2008年04月01日 | 雑記帳の欄外

  今年は、花と春の女神フローラのお出ましが大変早い。冬は例年より寒かったが、桜前線は駆け足でやってきた。すでに東北地方まで達している。例年より2週間くらい早いだろうか。昨年は5月の連休前に盛岡や角館まで、前線を追いかけても間に合った。それに比較すると、驚くほどの早さといえる。

  昨年秋に新春を見越して、小さな庭にチューリップの球根を植えた。桜とともに春を告げる花だ。例年、4月中旬くらいに開花期がやってくるのに、今年はすでにほとんどが開花している。長い冬にじっと耐えて春を待っていた自然の摂理にはいつも驚くばかりだが、年々のスピードアップには大きな不安もある。

  地球温暖化が進んでいる兆候なのだろう。今年の3月は130年ぶりの暖冬だとのこと。20の観測地点で観測史上最高の記録という。洞爺湖サミットを前に、日本の提案には賛同が得られず、難航している。後の世代に大きな負担を残さないことを願うばかり。ひとりひとりが出来る限りの環境維持を心がけて、日々を送る以外に道はない。

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