L.S.ラウリー《ウイガンの産業光景》油彩・カンヴァス、40.5x39.6cm, 1925
Courtesy of Salford Local History Library
描かれているのは産業革命後、世界的に著名となったランカシャー木綿工業の工場群。この地域の湿った空気は当時は繊維工業に最適と考えられていた。林立する煙突からは黒煙が吐き出され、汚れて、青空は見えない。赤い煉瓦建の周囲に僅かに緑が残っている。
Kirkless Iron Works,New Springs, Wigan
ほぼ同時代、同上地域の写真。今では地域の絵葉書として販売され、コレクターが多い。
今日の同地域の写真。犬の散歩や自転車に乗った子供たちが見られるような光景に変わっている。
Photo credit, Clark and Wagner, 2003
今では有名だが
ローレンス・スティーヴン・ラウリー(Laurence・Stephen・Lowry, 1887 - 1976)といえば、現代のイギリス人の間であれば、知らない人はほとんどないといわれるほど有名な画家である。名前は知らなくとも、どこかで作品あるいはそのコピーなどを見たことがあるだろう。実際、イギリス人の友人たちとは、話題にすれば、かなり興味深い話になることが多い。なにしろ、一国の首相がクリスマスカードに使うほどなのだから知名度も高い。ケネス・クラーク、エルンスト・ゴンブリッジ、ヘンリー・ムーアなど、名だたる美術評論家や美術史家が、それぞれに高い評価を与えている。今や絶大な人気を確保している画家だ*。
過小評価されてきた画家
しかし、この画家の作品に描かれることが多いイギリス北西部の労働者階級が多く住む地域への偏見、あるいは「マッチ棒のような人間」といわれるこの画家独特の表現に着目されたこともあって、画家の歩んだ道は決して平坦なものではなかった。ラウリーが第一級の画家と認められるようになったのは、画家人生の後半であった。ロンドンのお高い批評家などの間には、暗に当時の画壇に支配的であった「印象派」の流れを汲んでいない傍流の画家というような評価もあったようだ*。
「マッチ棒のような人間」が描かれた作品だけを見て、人間の個性が分からないと即断する人もいるかもしれない。しかし、これはラウリーが創り出した独自の産物であり、この画家しか描けない世界だ。さらに、2000点近いといわれる作品は、上掲のような「産業の光景」にとどまらず、肖像画、風景画と幅広いジャンルにわたっている。ラウリー・ファンといえども、実際に見たことのない作品も少なくない。
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*日本でラウリーのことがほとんど知られていないのは、西洋美術史におけるイタリア、フランスへの過度な偏重、それと関連するイギリス美術への過小評価(美と国民性の問題)、その流れにおける印象派重視、現代美術における価値観の分裂と近代以前への美術史の後退、輸入学問に起こりがちな研究者などの視野の狭小、バランスを欠いた美術史教育などの諸要因が重なった結果と思われる。このブログでも取り上げてきた「美」とはいかなる概念なのか、誰がそれを定めるのかなど、これまで指摘した問題とも関連している。ラウリーは、これらの諸問題を考えるにあたって、大変興味深い画家でもある。
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産業が画題に
ラウリーが画題として取り上げた対象の中では、今では「産業風景」’industrial landscapes’ or “industrial scene”として知られるイギリス北西部の産業の実態が著名だが、そこにはこの画家だけが提示できる独特の世界が創り出されている。今日であったならば、写真を撮ることで済ませてしまうような煙突が乱立するような光景、あるいは多数の人々の行き来などを労を厭わず丹念に描きこんでいる。その結果、およそ写真では表現できない全体の構図、その場の雰囲気などが、不思議な迫力を伴って見る人に伝わってくる。上掲の例からも明らかなように、今に残る当時の同じ場所の写真と比較して、ラウリーの作品の方がはるかに見る人を惹きつけるものがある。
普通の画家であったならば、制作意欲が湧かないばかりか、場合によっては忌避したい対象である。しかし、ラウリーはこうした対象に積極的に立ち向かった。
上掲の作品のように、広い画面に黒煙を吐き出す多数の煙突と暗黒色、茶褐色などで彩られる多数の工場群だけが描かれた作品もある。通常の画家ならば、目を背け、およそ画題として考えないような光景である。しかし、ラウリーの作品を見ていると、そこには産業革命が作り出した恐るべき自然破壊の結果とその進行過程に生きる人々の姿が、不思議な魅力を伴って描かれており、知らず知らずのうちに画面に引き込まれてしまう。特に工業化の進行過程で、土地や家を失い、工場でしか働く場所が無くなってしまった人々への画家の思いが切々と感じられる。画家が自らが生まれ育った地域と人々に対する深い愛情が作品を支えている。
18世紀後半、産業革命がもたらした工業化は、多くの人々にとっては教科書で学んだ繊維や鉄鋼、機械工業の写真など、いくつかの光景が網膜に残っているかもしれないが、ラウリーはその後の産業展開の過程で、自らが生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごしたマンチェスター周辺地域の景観、人々の生活の隅々までがいかに変貌したかをスナップショットのように、つぶさに描いて今日に伝えた。写真では伝わってこない「時代の空気」がそこに感じられる。美の根源は、対象の美しさではないことが伝わってくる。
ブログでも取り上げた18世紀のイギリス社会を描いたウィリアム・ホガース(1697-1764)は、しばしばシニカルあるいは辛辣に、変わりゆく社会の断面を描いた。他方、ラウリーは産業革命後、20世紀前半のイギリス北部の産業・社会の変貌を地域への愛をもって今日に伝えている。
時代と場所は、あのジョージ・オーウェル『ウイガン波止場への道』(1930)とも重なる部分がある。平穏な人間らしい生活を奪ってしまった工業化の破壊力、そこに生まれた人々の間の大きな貧富の格差と明暗など、通常の画題には登場することはない対象が、カンヴァスに描き出される。
何度かの産業革命を経て、建物や人々の姿も変わり、スマホやAIの時代に生きている現代人にとっては、単なる過去の光景と映るかもしれない。しかし、それらは単なる歴史上の一コマにとどまらず、さまざまな形で今日につながっている。画家は自分の生まれ育った環境が、工業化に伴い、いかに変容したかを克明に描き、写真が伝えられない時代の空気を今日に伝えている。
「働き方の国際比較」を研究対象のひとつとしてきたブログ筆者にとっては、離れ難い魅力を秘めた画家である。
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ラウリーが生涯のほとんどを過ごしたイギリス北西部マンチェスター近傍の地域は、多くの点で世界の注目を集めてきた:
1900 マンチェスターは世界で9番目の人気都市になる。
1901 マンチェスターに最初の電車が導入され、労働者階級にも便利な交通手段となる。
1901年 国勢調査でサルフォードはイギリスで最も死亡率の高い地域のひとつとなった。主たる原因は劣悪な住宅事情とされた。
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画家ラウリーは、その作品にとどまらず、自らの人生の生き方においても多くの人々を惹きつけるものを残した。ラウリーの作品は、彼の生き方と表裏一体であった。それはどのような背景から生まれたものか。その生き様を少しでも伝え、共有してみたい。
References
T.J.Clark and Anne M. Wagner, Lowry and the paintings of Modern Life, Tate Publishing, 2013.
Judith Sandling and Mike Leber, LOWRY'S CITY, The Lowry Centre, 2000.
続く
お知らせ:
このところ、ブログの更改が大変遅れています。取り上げたいトピックスは山積しているのですが、問題整理と入力が遅くなっているなど、ブログ閉鎖の時期もほど遠くないようです。