時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

謎は謎を生む:『アルノルフィーニ肖像画』が描かれた背景

2020年01月27日 | 書棚の片隅から

 

前回、『アルノルフィーニ夫妻』像について記した時、確かどこかにあるはずだと思った一冊の研究書があった。目につくところを探したが、直ぐには見つからなかった。これまでかなりの数の蔵書を涙を呑んで断捨離したり、ディジタル・ライブラリーに寄贈してきたので、あるいはと思ったが、幸い書棚の片隅に残っていた。『アルノルフィーニ夫妻像』は、かつてブログ筆者がイギリス滞在中、好んで通ったロンドン、ナショナル・ギャラリーが所蔵する至宝の一枚である。

Carola Hicks, GIRL in a GREEN GOWN: The History and Mystery of the Arnolfini Portrait, Vintage, London, 2011

 

この作品、前回記したように、この時代には大変珍しく制作年が1434年と、画面の中心部に明記されている。テンペラではなく3枚のパネルに油彩で描かれた作品である。テーマとしても、中流階級の安らぎと一夫一婦婚の姿を描いたと思われる貴重な作品でもある。さらに、画家はこの作品に描きこまれたあらゆるものに全て意味を持たせたと思われる。画面を見ると、実に細々としたものが描きこまれている。しかし、15世紀の人々にはそれらが何を意味するものかは、暗黙のうちにも伝達され、かなり容易に理解されてきたと思われる。少なくも、何を意味するかを考える材料となっていた。しかし、長い年月が経過するうちに含意の内容は風化したり、忘れられて、現代人には理解できないものになってしまった。


描かれたのは誰だったのか

この絵を鑑賞する時にしばしば話題に上がる美術史家のエルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は、この絵の制作年(1434)から500年後の1934年に図像学を駆使した画期的な論文を発表している。しかし、それで全て謎が解明されたわけではない。その後多くの研究が積み重ねられてきたが、上掲の美術史家カロラ・ヒックスの研究を見ると、謎はかえって深まった感じもする。カロラ・ヒックスはパノフスキーの時代には知られていなかった古文書などを掘り起こし、この謎の多い作品に新たな光を当てた。

それによると、これまでに解明されたと思われた事柄が、実は謎のままに残されていることが判明した。例えば、作品に書き込まれた制作年と思われる1434年の時点では、作品に描かれた夫妻と思われるジョヴァンニ・アルノルフィーニとジョヴァンナ・セナミは結婚していなかった。彼らが結婚したのは1447年であり、画家ファン・エイクの死後6年を経過した後のことであった。

そこで次の可能性が探求され、従兄弟のGeovanni di Nicholas Amolfiniと結婚したCosstanza Trentaではないかとの推定が行われた。彼らが結婚したのは1426年だったが、妻のコスタンザは、この絵画が制作された1年前の1433年に子供の出産時に死亡していたことが判明した。そうなると、描かれている女性はコンスタンツアか、夫が再婚した女性の婚約記念?なのかも分からなくなった。画家ヤン・ファン・エイク夫妻ではないかとの推定も行われている。こうした背景も考慮してか、今日のナショナル・ギャラリーは、作品の表題にThe Arnolfini Portrait と簡単に記している。

謎はこれだけに留まらず、次々と現れてきた。カロラ・ヒックスの研究書にはこの他にも多くの興味深い指摘・発見が含まれている。画家ヤン・ファン・エイクや、その作品、時代背景などに関心を寄せる人にとってはお勧めの一冊でもある。

この興味深い研究書の著者カロラ・ヒックスは、ケンブリッジ大学のキングス・コレッジのステンドグラスの研究(The King’s Glass: A study of Tudor Power and Secret Art, 2007)でも知られている。彼女はケンブリッジのニューナム・コレッジで20年以上、美術史を教えた。

ブログ筆者の専門は美術史ではないが、たまたまケンブリッジに滞在時に彼女の話を聞く機会があった。筆者もケンブリッジ近傍のイリー大聖堂の建築過程に関心を抱いていたので、大変興味深く記憶に残っている。惜しむらくは、カロラ・ヒックスは新著の刊行直前の2010年に世を去り、その後は夫の手によって遺稿が整理されて出版が実現した。

作品が辿った数奇な経路
この絵がブルッヘの持ち主の手を離れた後、ハプスブルグ家一族の所有を経て、フランダースからスペインの王室へ移り、その一隅に掲げられていた時もあった。ベラスケスも見る機会があったのではと考えられている。ナポレオン戦争の渦中でウエリントン公の軍隊によって没収され、スコットランド軍将校のコレクションに入った。その後、摂政皇太子に贈られたが関心を惹くことがなく、1842年にロンドンのナショナル・ギャラリーに600ギニアで買い取られた。その後一時はヒトラーの手に入ったこともあるらしい。その後、1991年からナショナル・ギャラリーに展示され、多くのファンが生まれることになった。この作品が辿った来歴 provenance についても未解明な点があり、カロラ・ヒックスの著書はその面でも興味深い点を指摘している。

カロラはパノフスキーなどの先行研究を再検討し、作品に描かれた鏡の周囲の装飾から、ブラッセル・グリフォンとして知られる足元の犬に至るまで、興味深い再検討を行っている。記述はこの作品の現代の美術や風刺画への影響まで及んでいる。例えば、鏡のアイディアはその後多くの画家によって、様々に導入されている。

改めて読み返すと時間を忘れる。断捨離されないで良かったねと、一冊の本の幸運を思った。

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アルノルフィーニ夫妻像:世界史での登場

2020年01月22日 | 絵のある部屋

Jan van Eyck (active 1422; died 1441)
Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife (Portret van Giovanni Arnolfini en zijn vrouw: The Arnolfini Portrait)
1434, oil paintings on 3 oak panels, 82.2×60.0cm
The National Gallery, London

ヤン・ファン・エイク『アルノルフィーニ夫妻像』1434年、ナショナル・ギャラリー、ロンドン

今回で最後となる大学入試センター試験の問題を見ていると、世界史Bの第1問にファン=エイク兄弟(ファン=兄弟)の弟ヤン制作の『アルノルフィーニ夫妻の像』が掲げられていた。この絵についての短い説明を読んで、正しいもの(選択肢)ひとつを選ぶ4択問題になっている。この絵の制作された時代と同時代に世界史上で起きていた出来事について該当する選択肢ひとつを選ぶというものだ。例えば、①ギベリン(皇帝党、皇帝派)とゲルフ(教皇党、教皇派)とが争った。②マッツイーニが、両シチリア王国を占領した。③、④・・・・・などからひとつを選択する。


率直にいって、この問題ならばこの絵をわざわざ持ち出す必要もないと思われた。絵と設問があまりうまく噛み合っていない印象を受けた。無理に作った印象を受ける。この絵を取り上げるならば、もっと絵の時代背景、描かれた作品の人物などに踏み込んで別の内容の問題を作れば良かったと思われた。現在の高校世界史の授業でどれだけ、この絵画作品について説明がなされているのか明らかではない。西洋美術史では極めて著名な作品ではあるが、世界史の授業ではどれだけその内容が伝えられているだろうか。

謎のいくつか
しかし、今回はその点に立ち入ることはしない。ここでの関心は、ブログ筆者が知る限りで、この多くの謎を含んだ作品のいくつかの興味深い点に触れることにある。
日本では『アルノルフィーニ夫妻像』として知られるこの絵は、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた作品とされている。

描かれたのはブルッヘ(現ベルギー)在住のイタリア・ルッカ出身の商人でバンカーでもあったジョヴァンニ・アルノルフィーニと、同じルッカの商家出身のジョヴァンナ・チェナミが婚姻の誓いを立てているところを記念して描いたと言われている。ブルッヘにあった夫妻の邸宅内部を背景として描いた作品とされる。中流階級の家の室内、調度などが貴族的雰囲気の下で描かれているという不思議な印象を与える。

15世紀には、結婚は司祭など聖職者のいる教会で挙げなくても証人が二人いればどこでも成立した。婚姻の秘蹟は夫と妻の問題であり、公式に披露するには翌日教会で聖体拝領を受けることで、時には証人すら必要なかった。それから一世紀以上経って、トレント公会議で聖職者と証人の立ち合いが婚姻の儀式に必要になった。このアルノルフィーニ夫妻の場合は、背景にある鏡面に二人の証人が写っている。彼らは多額の金銭、財産が関わる婚姻証明書の社会的な公式化のためにも必要な存在だった。

このプロセスはこの結婚が「左手の結婚」’”left-handed “ marriage と言われたものであったことで欠かせないものだったかもしれない。この絵では男性が通常の右手ではなく左手を女性の手に差し伸べている。この形式は両者の出自、階層が平等ではない場合に見られた。ここでは女性の出自が男性より低かったようだ。結婚に際して女性はそれまでの家族に関わる全ての継承権を放棄するとともに、万一寡婦になった場合、十分な財政的手段を保証されることを意味していた。morganatica として知られる新郎から新婦への贈り物を意味する行為から由来する。

描かれた富裕な商人でバンカーでもあった新郎の複雑なようで表情のない顔、商家出身の新婦の若々しい容貌にも注目される。夫妻の身に付けている衣装の類いは、当時の流行を反映しているが、取り立てて上流、貴族階級などの反映ではないようだ。

いずれにせよ、この作品は夫妻から結婚あるいは婚約記念の図として、制作依頼があり、画家がその持てる才能、知識を最大限に発揮して描いた傑作とされる。厳粛な雰囲気に満たされた2人の全身像肖像画として記念碑的な作品であり、ヨーロッパの宝といわれるファン・エイクの代表作である。

ロンドンのナショナル・ギャラリー (The National Gallery, London )で、ブログ筆者が初めてこの作品を見た時、多少の予備知識はあったが、実際の作品に接して、画面の細部に渡って込められた画家の絶妙な配慮に魅了された。

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N.B.

美術史家の貢献
この絶妙な作品の解釈については、多くの美術史家の功績があった。中でも、美術史家のエルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は、この絵の制作年(1434)のちょうど500年後に当たる1934年に美術史専門誌『The Burlington Magazine』に、図像解釈学に基づいて、この絵を結婚記念の図と読み解いた論文を発表し、これが定説となったようだ。手を取り合う男女は結婚のしぐさ、ベッドは子孫繁栄、シャンデリアに灯された1本のろうそくは結婚のシンボルなど描きこまれた全てのモチーフに意味がある。図像学の知識に関するテスト問題のようだ。しかし、その解釈については、かなりの異論も提示されてきた。

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重要な鏡の役割
この作品で特に重要な意味を持つ鏡にも注目してみたい。こうしたガラスの鏡は当時は中流階級でも持っていなかったといわれる。多くの人たちはよく磨き込まれた金属面を鏡として使用していたらしい。この鏡面(凸面鏡)には流麗な書体で「Johannes de eyck fuit hic/1434(ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年)」とラテン語の記載がある。本作品以外にファン・エイクが絵の中に署名した作品はない。画面中央のシャンデリアと鏡の間に重みを持って署名されているということは特記すべきことだろう。今日に至るその後の時代においてもにおいても、署名は通常、作品の片隅に小さく付されていることが多いからだ。このことは、画家の署名は単に作品の制作者ということにとどまらず、夫妻の結婚の証人であったということを示す重要な証左ではないか。

作品の舞台:貴族階級を支えた商人たち
当時のブルッヘは、北ヨーロッパの交易の一大中心地であった。ロシア、スカンディナビアからは木材、皮が、ジェノア、ヴェニスからは絹、カーペット、香料が、スペイン、ポルトガルからはレモン、いちじく、オレンジなどが持ち込まれた。交易の対象となった品数の多様さなどで、富裕な土地としてヨーロッパに知られ、その後数十年最強の政治的な中心でもあった。とりわけ、フレミッシュの繊維産業は繁栄をきわめ、豪華で貴族的な環境が生まれていた。

そうした社会的環境の下で、ファン・エイクのこの作品は、聖から俗への移行に止まらず、貴族的からブルジョア的な主題への移行を示している。画家はブルゴーニュ公の宮廷付き画家であったが、画家が世俗の世界を描くことを許容していた。その背景には勃興する産業に関わる商人たちの活動が、貴族層にとっても財政的リスクを軽減するとともに積極的な繁栄の支えとなっていることを感じていたからだろう。

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トランプの壁は何を変えるのか: 後退するグローバリズム

2020年01月19日 | 移民政策を追って


トランプ大統領のこれまでの政権運営を見ていると、日本で言う「マッチポンプ」という行動様式が目に浮かぶ。さまざまなことで、メディアを賑わす大騒ぎをするが、任期を終わってみると、この大統領は何をアメリカあるいは世界にプラスしたのかという思いがするのではないか。最近時の弾劾裁判などは、一線を踏み外し、自分の衣に火がついたような感じさえする。

和製語。マッチで火を付ける一方、ポンプてで消火する意。意図的に自分で問題を起こしておいて自分でもみ消すこと。またそうして利益を得る人。(広辞苑第7版)

こうした状況で、トランプ大統領が就任前から公約として強く主張していた政策が、アメリカ・メキシコ国境の壁を強化するというものだった。ブッシュ大統領以来のこの物理的壁を増大・強化するという政策は、一部の賛成者には分かりやすいが、他方で多大な反対を引き起こしてきた。国境で越境を試み、拘留される者の数はオバマ政権下では減少し、トランプ政権下では2019年に入り増加している。メキシコからの越境者の間では、国家的に破綻状態のグアテマラへ送られることへの恐れも高まっているという。トランプ政権下の変化を少し整理しておこう。

アメリカ・メキシコ国境で拘束された不法越境者数推移





[これまでの経緯]
2017年1月、トランプ大統領は 大統領令13767 に署名した。これをもって、既存の連邦資金を使用してメキシコ国境に沿って壁の建設を開始するよう米国政府に正式に指示したことになる。 2019年2月、トランプ は国家緊急事態宣言に署名し、  米国とメキシコの国境の状況は、壁を構築するために他の目的に割り当てられた資金を必要とする危機であると述べた。 議会は緊急命令を覆すために共同決議を可決したが、トランプは決議を拒否した。 2019年7月、最高裁判所は、  他の法的手続きが継続して いる間に壁を構築するために、国防総省の抗薬物(麻薬)資金から25億ドルの再配分を承認した。 2019年9月には、さらに36億ドルが流用された。今回は、アメリカ兵の子供のための学校を含む、世界中の米軍建設プロジェクトから流用された。2019年9月、トランプは2020年の終わりまでに450〜500マイルの新しい壁を建設する予定であると述べた。

トランプ大統領以外にこれまで移民に対する壁、あるいは敵対的政策を政治的プラットフォームに据えた大統領はいない。大統領就任以来2019年10月まで議会はこのために$3.1bnを拠出している。トランプは防衛予算から多額の転用を行ってきた。そのため本来の目的に支障をきたしかねないため、連邦最高裁は10月こうした転用を禁止した。壁はメンテナンスを含まず、建造費用だけで1マイルあたり$25mを要する。

壁の費用は当初のトランプ大統領の主張のようなメキシコ側負担ではなく、アメリカの納税者の税金でまかなわれている。これはトランプの任期中に少なくも障壁を構築しようとのトランプの意志の現れと考えられる。  

メキシコと米国の障壁は、現実にはひとつの連続した構造ではなく、「フェンス」または「壁」としてさまざまに分類される物理的な障害物のシリーズからなっている。地域によっても、その実態はさまざまなものがあることはこのブログでも記してきた。

さらに、物理的な障壁の間で、国境のセキュリティ確保のため、 国境警備隊のエージェントを(不法)移民などの疑いのある場所に派遣するために使用されるセンサー、カメラ、ドローンなどの探査機を含む。この 大陸境界線の全長は1,954マイル(3,145 km)とされている。

トランプは「壁」の構築法にも自分のイメージを主張してきた。アメリカの新しい境界壁は、コンクリートで満たされた高さ30フィート(約9メーター、場所によっては18フィート)の鋼鉄製支柱で作られる。コンクリートの基礎に6フィートの深さまで埋められ、さらによじ登ることを防止するよう5フィートの鋼鉄製防御障害物で覆われている。場所や建設コストによって、いくつかのヴァリエーションがある。

トランプ大統領のイメージする国境壁のプロトタイプ

地域的には、エルパソからサンディエゴにかけての変化がとりわけ顕著であり、単に従来存在した低い不完全な障壁を入れ替えるというだけではなく、動植物の移動をも許さないような容易には進入し難い頑丈で高い壁が続き、以前の光景とは一変したものになっている。

エルパソの「壁」の実態
最近注目を集めているのは、アメリカ、ニューメキシコ州のエルパソ El Pasosとメキシコ側のシウダ・フアレス Ciudad juarezで構築されている壁の実態である。この二つは現実には一つの都市と見た方が良いと思われる状態にある。例えば、フアレスの教育熱心で豊かな家の両親は、毎日子供をアメリカ側の私立学校へ送り迎えする。他方、フアレスでさまざまな専門家としての仕事をする人の多くは、エルパソ側に住みたがる。毎日平均すると約8万人がファレスからエルパソ側へ車や徒歩で移動している。

アメリカ・メキシコ国境の壁の設置状況

2019年12月時点でエルパソには、27.5マイル(44km)の壁が作られ、さらに24マイル(38km)の壁建設の契約が締結される予定になっている。民主党議員の中には、トランプの壁は、従来あった低い壁を取り換え(replace)ただけと評する人もいる。しかし、現実には取り換えただけではない。新たに作られた壁を抜けたという不法入国者もいるが、コヨーテといわれるブローカーの手を借りたとしても、厚い壁を電気鋸などで切り抜くには最低でも4時間近くを要するとされ、以前の低い壁のように簡単には乗り越えられない。しかし、時間をかければ抜けられないわけではない。

変化する壁の役割
この事実は、移民という人間の移動に壁が立ちはだかったばかりでなく、国境地帯に生存する動物や植物の移動に障害となるという自然な生態系環境の破壊につながる事態が生まれる危険性が指摘されるようになった。

専門家の分析によると、国境の残りの1,300マイル(2,100 km)に沿って壁を建設する実際のコストは、1マイルあたり2,000万ドル(1250万ドル/ km)に達する可能性があり、総費用は最大450億ドル、私有地の取得とフェンスのメンテナンスのコストが合計コストをさらに押し上げている。  

アメリカへ働くために不法越境する人の数は減少しており、増加しているのは、難民申請の条件を充足していると思われる家族、随行者のいない子供などが拘束されるケースである。彼らにとっては壁は取り立てて障害となっていない。拘束されても、救済される可能性が高いと思われる体。この点は下院のナンシー・ペロシあるいは民主党の反トランプの人たちが壁を「不道徳的」と呼ぶ理由だ。壁の建設自体は本来不道徳ではないが、こうした目的のために使用することは問題ではある。物理的に強固で建設費の高い壁よりも、電子的な探査装置のネットワーク整備などの方が経済的だが、トランプは政治的に「壁の建設者」という評判を確保したいのだろう。

BREXIT以降のヨーロッパと併せて、アメリカ大陸でもグローバリズムの後退が進んでいる。

Reference
‘Borderline disorder’ The Economist December 21st 2019 and others

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蜜柑が放った人生の輝き

2020年01月12日 | 午後のティールーム

 

この季節、日本の八百屋、スーパーなどの店頭を飾る果物の代表は蜜柑だ。日本は柑橘類が豊富なのか、名前もよく知らない品種もある。その中で蜜柑は日本人の生活に深く溶け込んできた。

みかんを見るとしばしば思い浮かぶ芥川龍之介の短編『蜜柑』を、年末に読み直してみた。長年、ブログ筆者が折に触れ愛読してきた一篇でもある。

舞台は横須賀発上りの二等客車の中である。当時の客車の車窓は開けることができた。しかし、客車を牽引するのは、石炭火力のSL、蒸気機関車だ。トンネルなどに入ると、煤煙が客車に吹き込んできた時代の話である。

芥川本人と思われる主人公は、この列車の二等車に一人乗っている。今の時代ならばグリーン車だろうか。そこに、粗末な身なりで、顔立ちも主人公には貧相に見える十三、四歳の娘が発車間際にせわしなく入ってきた。大きな風呂敷包みを抱え、霜焼けで赤くなった手には三等の切符が握られていた。二等車も三等車の区別も分からないのかと、主人公は見てみないふりをするように努めていた。あたかも主人公の心の平静を乱す存在かの様な扱いである。

列車が走り出し、墜道(トンネル)に入る。客室に煤煙が入るのを気にもせず、女の子は窓を開けようとする。困った娘だと煙にむせながら主人公が思った時、列車は墜道を抜ける。その時、娘は懐から数個の蜜柑を取り出し、窓外で何やら声を挙げている三人の子供たちに投げてやる。それまで小娘のことを視界から追いやりたいほど厄介に思っていた主人公は、一瞬にして事態を悟る。

娘の弟たちが家計の助けにと奉公に出る姉の見送りに、踏み切りの所で待っていたのだ。小娘と見えたのは、この子供たちの姉であったのだ。懸命に手を振る弟たちのために、娘は蜜柑を投げてやった。蜜柑は旅の徒然にとおそらく誰かが餞別代わりに娘に持たせたのだろう。蜜柑は娘の手を離れ、鮮やかな蜜柑の色を見せて子供たちの手に乱落して行った。
 
そして、主人公の心の内などどこ風吹くかのように前の席に戻ってきた娘は、「大きな風呂敷包みを抱えた手に、しっかりと三等切符を握っている。・・・・・・」

作家(私)は、この一瞬の情景を次のように結んでいる。「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そしてまた不可解な、下等な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜

娘の手を離れた数個の蜜柑が、それまで世俗に汚れ、疲れて落ち込んでいた主人公(芥川)の頭脳に一瞬の輝きを放ったのだ。この短篇に限らず、芥川の作品には『上海遊記』にも散見されるように、当時としてもかなり差別的あるいは侮蔑的な言辞を弄している部分がある。『蜜柑』においても、同じ客車に乗り込んできた娘を視野に入れたくないような存在として描いている。しかし、そのことが主人公の人間を見下したような人生観に、娘の行動が一撃を加えるような衝撃となったことを際立たせている。「疲労と倦怠」の状態にあり、「不可解な、下等な人生」とは、主人公(恐らく芥川)のそれを指すものと考えるべきだろう。

『文末解説』(石川透)によると、芥川はこの題材を、有島武郎が伊太利亜アッシジの旅で目の当たりにした、貴婦人が列車の窓外の子供たちに菓子箱を投げてやった光景を記した『旅する心』(1920年11月)と題した情景から構想したのではないかと、後世の批評家などから推測されているようだ。

しかし、そうだとしても、そのことが芥川という稀有な作家が安易なすり替えを行ったとは考え難く、芥川の非凡な構想力が生んだものとブログ筆者には考えられる。見慣れた蜜柑が宝石の様に輝いて見える。

芥川竜之介『蜜柑・尾生の信他18篇』岩波文庫、2017年

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鴉の話 芥川龍之介『上海遊記』を読む

2020年01月10日 | 午後のティールーム

 


昨年末、NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た折、その下敷きとなった、この鬼才とも言われる作家の作品『上海遊記』を読み直してみたいと思った。実はこの作品、ブログ筆者が初めて上海を訪れたほとんど半世紀前にも読んだ記憶があった。しかし、当時はそれほど強い印象を得たわけではなかった。芥川の作品には短編が多いが、この作品も長さは中程度であり、小説というよりは紀行文に分類されるものである。芥川は『大阪毎日新聞』の海外特派員として大正10年(1921年)3月28日、門司から、上海を訪れ、3週間ほど滞在し、その後中国各地を旅している。

今回読みなおしてみると、想像した以上に順調に読むことができた。芥川は31歳、すでに作家として令名を馳せていただけに、自信に溢れた筆致で書き進められている。今日読むと、旧字体の漢字に悩むかもしれないが、ほぼ問題なく読み切れた。この上海への旅は、最初から芥川は体調が悪く、風邪をこじらせ、気管支加答児が全治しないままに日程を延期したり、上海でも里見医院へ乾性肋膜炎の診断で入院したりしている。そして、帰国後しばらくして昭和2年7月23日夜半には、体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺をするという心身ともに下降し始める時期であった。不眠に悩み、里見医院へ入院中にも医師には内証で毎晩欠かさずカルモチンを呑んでいた。それでも特派員という責任感からか、当時の上海に見たまま、感じたままを生き生きと伝えている。

それにしても、この時、芥川龍之介は31歳。漢籍を含め、その知的蓄積、博識に感嘆する。ちなみに、芥川は東京帝国大学文科大学英文学科の卒業であった。

『上海遊記』は漢字、仮名遣いなどが今日とは異なるが、大きな問題なく読むことができるのではないだろうか。

それでも、ひとつクイズ?を記しておこう。『上海遊記』に次のような記述がある。
 
以下、引用

上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。ーーー卓子を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。
 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
 「いえ、あれは惡作です。」
 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

引用終了。

当意即妙、なかなか興味深い対応である。宇野浩二 (1891年〜1961年 )は芥川と年齢もひとつ違いの盟友であり、この応答をどう受け取ったのだろうか。 『鴉』は自明の通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説である。或る夫人が誤ったのは、大正10(1921)年4月1日発行の『中央公論』で、この宇野浩二の「鴉」の後に,、芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう。ところで、この「鴉」とは、なんでしょうか。直ちにお分かりの方には大いなる敬意を表したい(答は本ブログ文末)。

『上海遊記』に描写されている上海は、古い時代の情景が至る所に残っているが、それらが今は全て消え失せているわけではない。今日の上海は、東京を上回るほど活気があり、表向きは近代化しているが、街の裏側に回れば、あちこちに芥川が感じた当時の古い上海の名残りが残っている。


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鴉、 烏     共にカラスと読む。
スズメ目カラス科カラス属およびそれに近縁の鳥の総称。日本では主としてハシブトガラスとハシボソガラスの2種。雌雄同色、黒くて光沢がある。多くは人家のある所にすみ雑食性。秋・冬には集団で就眠。古来、熊野の神の使いとして知られ、また、その鳴き声は不吉なものとされる。ヒモスドリ。万葉集(14)「ーとふ大をそ烏の真実(まさで)にも」
「広辞苑」第6版。

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