時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

短くも長き日々

2012年09月30日 | 特別トピックス

 

 この小さなブログの管理人が、日本の現状を憂い、行く末を考え、そのあり方に頭を痛める必要はないとも思う。自分にその成り行きを見届ける時間は、ほとんど確実に残っていないのだから。しかし、それでも考えてしまう。とりわけ、考えることは人間の愚かさについてである。

  一方で、これまでの歴史における人間の英知の素晴らしさに感動しながら、他方で深い絶望に近い思いに沈みこむ。20-21世紀と、ふたつの世紀を生きてきたが、この世界に戦火が絶えた年はあっただろうか。無意味な殺戮は絶えることなく、地球上のいたる所で行われている。

 このたびの領土問題の推移を見ながら、これまで30-40年近い年月、折あるごとに語り合ってきた中国、台湾、韓国あるいはアメリカの友人の顔が浮かぶ。年を追って、知人・友人の数も少なくなってきた。幸か不幸か、北方領土に関連するロシア人の友人はできなかった。これはただ機会がなかっただけのことだ。

 とりわけ、専門領域の関連で、韓国の友人はかなり多かった。机を並べていた友人もあった。しかし、その多くは今はもう会えない人たちだ。中国の友人たちのことを思い浮かべる。かなり長いつき合いで、不思議と日本人以上になんでも話し合うことができる人たちがいる。体制、国情が違いすぎるので、かえって話しやすいのかもしれない。

体制の違い
  日本の社会の事情は、比較的オープンにされているので、彼らも世情にうとい私以上に知っていることがある
。しかし、韓国、中国については、時々仰天するようなことを見聞きすることがある。とりわけ中国共産党体制が内在する歪みや弱みには、その一端に接して驚愕したこともあった。たとえば、拠点大学の学長や管理職は、筋金入りの共産党員でなければ、なれないと聞かされた。多くの人たちは、そうした地位に就くだけの立派な識見、学問的業績、人格の持ち主だと思う。しかし、時には驚くほどの傲慢さに、辟易した経験もあった。

 彼ら友人たちも、今の状況を苦渋の思いで見ているだろう。皆等しく、1966年に始まった文化大革命で、苛酷な下放の時代も経験している。1989年天安門事件の現実も知り尽くしている。そして、その後の改革・開放路線がもたらした光と影を厳しく噛みしめている。彼らがこれらの体験を自ら語ることはほとんどない。とりわけ公的な場ではまず耳にすることはない。私もあえて聞くことはしない。しかし、彼らがいかなる思いでそれぞれの日々を過ごしたかは、これまで共に語り合った日々の断片的な話からでも、お互いに分かりすぎるほど分かっている。

刷り込まれたイメージ
 今日、TVなどの映像から見る限り、反日を掲げて衝動的に暴動に参加する若者たちは、すべて戦争を知らない世代だ。文化大革命すら自ら体験することはなく、それらを切実な感覚を持って感じてはいないだろう。他方、それを複雑な思いで見つめる日本人も、ほとんどは戦争を知らない世代が増えた。言い換えれば、教育などでイメージとして形成された戦争観、対相手国観に基づく行動が主流を占めるようになっている。とりわけ、中国には日中戦争における日本軍の残虐行為を後世に伝える記念館などが各地に作られている。これを目のあたりにして、日本が好きになる中国人はまずいないだろう。反日を醸成する素地はいたるところに残されている。

 他方で、改革・開放制作の結果、大きな経済発展をとげ、かつての『経済大国』日本を追い抜いた中国、そして追い抜こうとしている韓国の社会には、さまざまな優越感も生まれている。友人たちの国が豊かになることに羨望感は生まれない。日本が大方は経験済みのことだからかもしれない。しかし、物質的な豊かさは、時にバブル期の日本の社会に見られた一種の傲慢さに通じるものも生み出してしまう。

 こうした明暗にもかかわらず、これまで半世紀以上にわたり、東アジアが戦火を回避し、悲惨な体験をせずに今日まで到達できたということは、積極的に評価すべきことだろう。

ゲーム化し、危うい紛争の前線
 インターネットの発展もあって、さまざまな情報が世界を乱れ飛ぶ。ITゲームの盛況もあってか、なんとなく危うい戦争ゲームを弄んでいるような側面もある。国境(領海というべきか)を挟んでの挑発的な言葉の応酬や水のかけ合いは、事情を知らない遠くはなれた国の人々からは、馬鹿げていると思えるかもしれない。実際、そうした外国報道もある。しかし、それが突然、戦火の場面に変わりうる危険があることは改めていうまでもない。

 今日の外交は情報経路の発達もあって、お互いに手の内をかなり知りえた上での交渉でもあり、これまで国家間のほとんど唯一の交渉の経路であった外交という次元を超えて、国民のさまざまなレヴェルで接触面が増えている。しかし、インターネットの発達で、誤った情報操作や為政者の政治的意図から、数億単位の人々がマインド・コントロールされて動くという恐ろしい側面もある。誤った情報でも、繰り返し注入されていると、いつの間にか真実が分からなくなってしまうことが多いことは、歴史に多数の例がある。

 図らずもこのブログの主題でもある17世紀のフランス王国と神聖ローマ帝国に挟まれた小国、ロレーヌ公国がたどった歴史を考えていた。荒唐無稽なことだが、もし日本が中国とアメリカに地続きで挟まれていたら、どんなことになったろう。

 政治家の責任はきわめて大きい。日本の国力の衰退は避けがたいとしても、精神的に成熟した文化国家として、世界の国々が一目置いてくれるような大人の国であってほしいと願っている。それこそが、来たるべき時代の「先進国」であるはずだ。

 

 

 

 

 

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17世紀フランスを代表する画家は?

2012年09月19日 | 午後のティールーム

 





ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのデッサンではないかと推定される若い女性の顔
(個人蔵)


 深刻な問題ばかり多い昨今の日本、ティールーム向けの話題をひとつ。

 17世紀のヨーロッパ美術は大変素晴らしいのですが、日本での画家・作品紹介はきわめて偏っていると管理人はかねがね思ってきました。ヨーロッパの人々がこの時代について挙げる画家の名前と、日本人が好むあるいは知っている画家が大きく異なっていることにお気づきでしょうか。日本ではほとんど未紹介に近い、あるいは少数の美術愛好家しか知らない画家が多数存在します。17世紀フランスにかぎらず、18世紀でも開幕したばかりの「シャルダン展」(東京三菱1号館美術館)のシャルダンを知る日本人はどれだけいるでしょう(実は筆者はラ・トゥールと並び、シャルダン・フリークでもあります。やっと日本でもという思い!がしています)

 一般のフランス人に、17世紀を代表するフランス画家はと尋ねると、プッサン、クロード(ロレーン)かな、という答えが返ってきます。しかし、奇妙なことに、この2人とも生まれは今のフランスではありますが、このブログでも記したことがあるように、画業生活の主たる部分は、ほとんどローマで過ごし、彼の地で生涯を終えています。プッサンにいたっては、ルイ13世の下、リシュリュー枢機卿に三顧の礼?で招聘されながら、2年ほどでローマへ帰ってしまい、二度とパリへ戻ることはありませんでした。日本人でフェルメールに群がる人々は多数いても、プッサンを知っている人は驚くほど少ないのです。他方、プッサン、ラ・トゥールは、フランスの国民的画家と思われるほど、多くのフランス人が知っています。

 シャルル・ルブランあるいは最大のライヴァルだったピエール・ミグナールはどうでしょう。日本では、ほとんど知られていないといって良いでしょう。パリで活動したル・ナン兄弟も19世紀に浮上、注目を集めましたが、その後忘れられていました。

 ブルボン朝ルイ13世、14世の時代で、宮廷画家のシモン・ヴーエ、フィリップ・シャンパーニュはどうでしょう。これも知らないという日本人があまりに多いですね。

 そこで登場するのがわれらの(?)ジョルジュ・ド・ラ・トゥールです。この画家も17世紀、ルイ13世もごひいきの<有名な画家>で、自室にラ・トゥールの作品だけを掛けさせたとの話が伝えられているほどです。この画家の作品は、カラヴァッジョのようなダイナミックなところはなく、多くはクラッシクですが、難しいアトリビュートについての知識も、ほとんど必要としません。いずれも時が止まったかのように静止しています。しかし、その時間の消滅の中から、美しさが浮かびあがってきます。最近もミラノで企画展が開催されました。


 しかし、その後まったく忘れ去られ、1934年までは美術史上からも消滅したような状況でした。1750年の競売で、ラ・トゥールの『辻音楽士のけんか』(ロス・アンジェルス、ポウル・ゲッティ美術館蔵)が売りに出されましたが、カラヴァッジョ派の画家とされ、28リーヴルの価格しかつきませんでした。他方、すでに著名だったプッサンの2点は、それぞれ1,122リーヴル、1,415リーヴルという高値で落札されています。

 ラ・トゥールという画家を現代に生き返らせ、17世紀フランスの巨匠という認識を形成するに貢献した重要な展覧会があります。1934年、1972年、1997-98年の企画展です。いずれもパリで開催されました。1934年の「現実の画家」展は、2006/7年に当時と同じ展示で再現されました。ラ・トゥール・フリークを任じる管理人は、まだ生まれていなかった1934年展以外はすべて見ることになりました。しかし、2006/7年の「現実の画家 1934」展も見ているので、すべてを見たといえるかもしれません。1996/97年のNational Gallery of Arts/Kimbellの企画展まで見る機会に恵まれ、フリーク冥利に尽きるかもしれません。

 日本で西洋美術史家と称する人の間でも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールGeorges de La Tour(1593-1652)を、18世紀の肖像画家カンタン・ド・ラ・トゥール Maurice-Quentin de Latour(1704-88)とを取り違えている人がいるのには驚きます。この2人はまったく別人です。

 ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについては、その生地ロレーヌのVic-sul-seilleに小さいながらも郷土の生んだ巨匠を称える美術館が誕生し、まずまずの観客を集めています。この画家を主題とした映画もあり、A.ハックスレーやパスカル・キニャールのように、文学者も多大な関心を寄せてきました。他方、プッサンの生地であるノルマンディーの Le Andelys に作られた美術館は、地元政治家も住民もまったく無関心で近く閉鎖されるとのことです。

 最近、かつてルーヴル美術館長もつとめた17-18世紀フランス、イタリア美術の大家ピエール・ローザンベール氏(アカデミー・フランセーズ会員)が、こうして考え直してみると、上記の問いへの答えはラ・トゥールかもしれないと記しているのも興味深いところです。さて、皆さんはどうお考えでしょう。    

 

 Pierre Rosenberg, "Alla gloria de Georges de La Tour." L'Adorazione dei pastori San Giuseppe falegname, Milano; SKIRA, 2012

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フェルメールの少女に押し寄せる人波

2012年09月10日 | 午後のティールーム





Johanness Vermeer

Girl with a Pearl Earring (detail)c. 1665
Oil on canvas
Mauritshuis, The Hague 

  

 九月号の『芸術新潮』に美術ジャーナリストの藤田一人氏が「わたし一人の美術時評;フェルメール・ブームの煽られ方」と題した一文を記されている。東京都美術館『マウリッツハイス美術館展』と国立西洋美術館『ベルリン国立美術館展』に出品されているフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》と《真珠の首飾りの少女》をめぐっての過剰なブームづくりについてである。友人のオランダ人美術史家が、日本人のフェルメール好きに驚いていたが、今回の状況をみたらなんというだろうか。

 藤田氏は、日本ではこれまで《青いターバンの少女》として知られてきた作品(前者)の題名がいつの間にか《真珠の耳飾りの少女》と変えられていることにも言及されている。フェルメールに限ったことではないが、17世紀の絵画の題名は画家が必ずしもつけているわけではなく、後世の美術史家などによって付されたものがきわめて多い。さらに、今回両美術館に出展されている2作ともに、従来あくまでフェルメールという画家(それも長い間忘れ去られていた)の代表作という位置付けに過ぎなかったものが、「美術ファン必見!の名作」として祭り上げられていることも問題とされている。

 展覧会場の混雑ぶり、とりわけ上記の作品の前は、満員電車の混雑ぶりに匹敵する。とても落ち着いて鑑賞できる雰囲気ではない。長い行列のあげくに、この二点の作品をなんとか「見た」ということが、美術館に押し寄せた人々の満足感であるとすると、いささか悲しい。

 フェルメールの作品を一点も保有しない国の美術館が、折から大改修中の外国の美術館から高額な貸出料を支払って、作品を借り出し、展覧会を企画し、メディアや企業が大騒ぎをして、どうみても過剰なブームを作り出すということは平常ではない。この異常さに驚き、喜んでいるのは、深刻な財政難に悩む中、思いがけないお宝を持っていたことで、高額な収入が期待できる外国の美術館かもしれない。

 遠く海を越えて、極東の島国日本にまでやってきたくだんの「少女」(肖像画ではなく、トロニー)は、彼女を一目見ようと押し寄せる大群衆をどう感じているか、尋ねてみたい気がする。

 

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晩夏;よみがえったある記憶

2012年09月03日 | 書棚の片隅から

 






画像拡大はクリックしてください。


  猛暑の日々も峠を越えたのか、暑さのなかにも秋の気配が感じられるようになった。晩夏の時である。この意味を実感するようになって、かなりの時が経過している。気温が下がり、脳内温度?が低くなったからか、思いがけない記憶が戻ってきた。

  以前に、シュティフターの『晩夏』について短いメモを、このブログに記した時には思い出すこともなかったことである。それが今頃になってまったく突然、閃いたのだ。そのこととは、文芸評論家の高橋英夫氏が書かれた「『晩夏』の無限時間 シュティフターを読む」と題したエッセイを読んだ記憶が、前後の脈絡もなくよみがえってきたことだ。すでに10年以上も前に手にした書籍である。しかし、その内容はかなり鮮明に記憶に残っていた。人間の頭脳の仕組みの複雑さを改めて実感する。

 後回しにすると、たいていは遠い彼方へ記憶が飛び去ってしまう。急ぎ思い浮かんだことのメモをとる。書棚に二重・三重に書籍が押し込まれ、奥の方の書籍は表題が見えなくなり、いまやほとんど本来の役をしなくなっている書庫に向かう。文字通り書棚の片隅ではあったが、案に反して意外に簡単に見つけることができた。

 エッセイは、高橋氏が某大学のドイツ文学科で毎週1回、学生とともに『晩夏』を読まれていたことから始まる。ドイツ語の本文だけで725ページもある著作であり、大学院生といえども、到底1年で読み通せる代物ではない(邦訳では文庫本二冊に収まり、大冊という感じはない)。現に高橋氏のエッセイが初出の『群像』に掲載された1992年時点で、購読開始後7年目になり、ようやくこの長大な著作のほぼ半分に達したところだと記されている。一年間で50ページ弱の進度だから、読了するまでには後7、8年はかかりそうだと記されている。

 もちろん、高橋氏は読了されており、それだからこそ思うことがあって、テキストに採用されたのだろう。しかし、もし学生がこの授業だけで読むとなると、15年近く在学しなければならないことになる。髪が白くなりそうで気の遠くなる時間である。もちろん、高橋氏自身、一年間で読了することなどはお考えになっていないようで、仮に一章しか読めなくても、折に触れて全体について適切な説明、補填はされていたのだろう。

 この作品、読んでいて時間が経過しているのか、ほとんど意識できない。高橋氏が「無限時間」と形容されているように、作品には悠久の時が流れ、ストーリー自体把握するに長い時間と忍耐を必要とする。シュティフターの構想とテーマ展開のあり方に改めて、考えさせられる。インターネット時代の人々にとっては、ほとんど耐えがたい緩やかさかもしれない。

 部分的にほぼ同様な経験をした筆者ではあるが、到底ドイツ語で一冊読み通してみようという意欲はまったく起きなかった。その後、藤村宏氏の翻訳が刊行されて、ようやく全貌を見通せるようになった。ドイツ語学習のテキストに、難解で主題の全容もほとんど分からないこの著作のわずか一部分を使用することは、他にいくらでも適当なテキストがあるのにとその時は思った。しかし、ドイツ語の能力は進歩しなかったが、この難解な作品の存在については、記憶の片隅にはっきり留められていた。脳細胞のどこかにかすかに生き残っていたのだった。

 本書を使ってドイツ語の購読を担当された先生は、その後若くして世を去られたが、高橋英夫氏同様、心中なにか期することがあって、テキストとして採用されたのだろう。

 夏の終わり、西の空の美しい夕焼けを見ながら、また一章でも読み直してみるかという気持ちが生まれている。

 

 


高橋英夫『ドイツを読む愉しみ』講談社、1998年

 

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