時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

パリでウエイターとなる

2024年12月05日 | 書棚の片隅から


A waiter in Patis
Edward Chisholm, A Waiter in Paris: Adventures in the Dark Heart of the City, London:Monoray, 2022, cover

現代の世界を見渡して、パリほど華やかさや活気で溢れた都市は少ない。世界中から観光客ばかりでなく、この都市で働きたいとやってくる人たちも多い。

今回は、エドワード・チザム Edward・Chisholmなるイギリス人の若者が、ロンドンで就職できず、将来が見通せないままに、失意の身でパリのレストランでウエイターとして働くことを目指し、信じがたい環境の下で働き、記した体験記を紹介したい。本書は2022年に刊行以来、大きな注目を集め、ルポルタージュ文学の傑作とされたジョージ・オーウエル『パリ・ロンドン放浪記』(原著1933年、岩波文庫、1989年)に匹敵する現代版とも言われ、ベストセラーとなった。

waitingの語源(本書巻頭)
waiting noun
 BrE/weiting/
      1. the factor of staying where you are
         or delaying doing something until 
        somebody/something comes or 
            something happens
       2. the fact of working as a waiter or waitress
 
Oxford Advanced Learner’s Dictionary

ジョージ・オーウェルGeorge Orwell(1903―50)は、イートン校卒業後、インド帝国の警察官としてビルマに勤務した後、は1927年から3年にわたって自らに窮乏生活を課す。その体験をもとにパリ貧民街のさまざまな人間模様やロンドンの浮浪者の世界を描いた。人間らしさとは何かを生涯問いつづけた作家の出発にふさわしいルポルタージュ文学の傑作とされる。

労働の世界の底辺で
レストランという、人々にエンターテイメントを提供する<労働の世界>で働くことが、いかなるものかを考えてみたい。世の中に大企業などの組織で働く人たちの世界を描いたルポルタージュ・ドキュメントは多いが、レストランという表面的には華やかな働き場所に覆い隠された非人間的な実態を描いた作品はさほど多くはない。

例を挙げれば、上掲のジョージ・オーウエル『パリ・ロンドン放浪記』に加え、日本では鎌田慧『自動車絶望工場:ある季節工の日記』(講談社文庫、1974年)などが思い浮かぶ。

筆者チザムは、イギリスで高等教育(London School of Orienta and African Studies)
の過程を修了した後、ロンドンで職探しをしたが、適職に就けず困窮し、再起して自らの夢を実現しようと、2012年、パリへ赴いた。職探しをするが、良い職業に出会えない。仕方なく、イギリスから見ると、華やかさなどで、しばしばファンタジー化されていたパリの有名レストラン Le Bistrot de la Saine (仮名)に職を得る。しかし、そこはかねて思い描いた光の当たる華やかな場所とは程遠い、厳しくも冷酷で非人間的な階層社会であった。

フランスで働き暮らす際の気が狂いそうな官僚主義、例えば社会保障番号を取得することの煩瑣な手続きや、賃貸住宅に入居する場合、所有者にle dossier (家主の証言を含む賃貸履歴のフォルダー)を提示することの不合理など、パリで働くことに関わる多くの煩雑さが描かれる。

現在のパリは、もはやピカソやヘニングウエイの時代とは大きく異なったものになっている。ブールヴァルやきれいな公園はガイドブック上のものだ。この都市に住んでみると、街路や住居がゴミその他で、ひどく汚れていることにも気づく。歩道にダンボールやごみが散乱した街だ。

テーブルと椅子、さまざまな客たち
着飾った客たちがさんざめくパリのレストランのテーブルは、食器の触れ合う音、人々の話し声、ワインの香りなどで満ちたいわば表舞台、劇場である。そこは、さまざまな国から集まる、階層も異なる客たちと、ウエイター、シェフたちとの間で虚々実々の会話が交わされる舞台なのだ。

白いエプロンなど、ユニフォームを身につけたウエイターは、しばしば 20−30代の若者には憧れの職業といわれる。

しかし、チザムが割り当てられた仕事は、調理場と客席まで料理の皿を運ぶ runnerと呼ばれる文字通り最低の内容だった。ここでの労働に支払われる賃金はあまりに低いため、彼らは客からのティップが期待できるウエイターを目指し、日々、虚々実々の戦いをしている。着飾った客たちが賑やかに食事を楽しむテーブルは、ウエイターにとっても客層の嗜好に合わせ、<外交的な>会話を楽しむ場のように見えるが、内実は人間の醜さ、利己的野心など、さまざまな欲望が渦巻く場所でもある。

いかにすれば、客たちに楽しい一時を過ごしたと思わせるか。適切な話題、間の取り方など、応対の仕方にも多大な蓄積が必要となる。ティップについても、例えば、有名人は日頃、タダで欲しいものが手に入ることもあって概してケチだ。アラブ人は小銭を持っていないことが多いなど・・・・・・。

Q:一般にフランス人はほどほどにしか払わないが、最も高いティップを払う客層はどこの国から来た人か(Q1)。ヨーロッパの客の中で、少しのティップしかくれないのは?(Q2) 外貨の交換レートを間違え、時に高いティップを払っているのは?(Q3)。[答:  Q1. 日本人、ブラジル人、Q2, フランス人、オランダ人、Q3. アメリカ人]

その日暮しの日々
反面、料理を作るキッチンはさまざまな食材、調理の匂いに溢れ、コック長を頂点として幾重にもなる階層で構成される働き手がざわめく場所であった

レストランの裏側に当たる調理場は、別の世界だ。想像とはおよそ異なる厳しい労働環境で、賃金は最低であり、家賃や高い生活費と不安が常に重なり合い、日々再計算しながら働いているような状況だった。厳しさに耐えかね、仕事を辞める人も多い傍ら、チザムは過酷な重圧に耐えながらも、パリのサービス業の一端で当初の目的を成し遂げようとする。

夢を叶えたいとパリでやっと辿り着いた賃金は、月額税込みで€1086.12だった。1日14時間のシフト、週6日勤務だった。職場での食べ物といえば古くなったロールパンかディナーの残り物。彼のわずかな慰めは、タバコだけだった。

テーブルでは顧客からの屈辱、とりわけ何度でも突き返してくるセレブの客、嫌なら辞めろとばかり、ひどい対応をする使用者、騙しあい信用できない同僚など、想像し難い日々が続く。一見、綺麗に整頓、セットされたレストランのように見えても、内実は恐ろしく汚れたキッチン、掃除したことのないようなカーペットなど、全てに耐えねばならなかった。

ウエイターとして過ごした間に、チザムは得難い教訓も得る。フランス固有のエティケット、人々の個性の相違、世界でも有数の生活費が高い都市て生き抜くさまざまな術を学ぶ。

我が物顔に振る舞う客たち、横暴な雇い主, 信用できない同僚・・・・・。実際、彼の周りのウエイターと言ったらナルシスト、麻薬の売り手、滞在許可証を持っていない移民、元外国人部隊兵士、脱走兵などまで混じっていた。30歳代の若者たちが多く働く場所ではあるが、人生について展望を持たない者には出口の見えない地下の底にいるような感じさえ与える。しかし、そこでも人生で得難い友情を感じた同僚もいた。

本書は、読者としてチザムの経験した苦難に、憐憫の情を共有させることとは別として、ただ若く高等教育を受けていても、それだけでは現代の厳しい世界を生き抜いてゆくことは非常に難しいことを示唆している。

パリのレストラン・ウエイターのような世界がどの程度存在し、執拗に存続しているのか、その仕組みは分からないことが多い。しかし、20ー30代の若者にとって、秩序のようなものがなく、希望を抱かせないような仕事の雰囲気が良く伝わってくる。ともすれば、数字ばかりに目を奪われる労働経済の分析では、到底分からない現実がそこにある。

チザムは、結局7年近くパリに住み、ウエイター、バーの下働き、美術館の警備など、さまざまな劣悪、低賃金、そして働き続ける意義を感じさせないような仕事で働いた。それらが無益な経験ばかりであったわけではない。他では到底得難いものも学んだ。そして、今はイギリスに戻り、文筆業として生きる道を模索し始めたようだ。

本書の成功で、彼はその一歩を踏み出したといえる。

パリという現代資本主義社会の只中にある大都市で、30代の若者が将来のキャリアを模索しながら、レストランという「食物連鎖の末端」と言われる場で働くということが、いかなることを意味するか、多くの暗闇と僅かな光がそこにある。


A waiter in Paris
Edward Chisholm, A Waiter in Paris: Adventures in the Dark Heart of the City, London:Monoray, 2022, pp.370
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猫の世界は謎だらけ

2024年06月13日 | 書棚の片隅から



フィリップ・J・デーヴィス作・マーガリート・ドリアン絵(深町真理子訳)『ケンブリッジの哲学する猫』表紙

我々の日常的生活の中で目につく動物で際立っているのは、犬と猫ではないだろうか。それでは、人間から見て「哲学者」のイメージに最も近いのは? これはちょっと難しい。

犬は長らく人間の良き友とされ、その忠誠さがしばしば話題となってきた。忠犬ハチ公のイメージは典型的といえる。しかし、少し近すぎる感がしないでもない。いつも主人である飼い主のことを考えているように見える。犬独自の時間はあるのだろうか。

それでは猫はどうだろう? 猫も多くの人々にとって、大変近い動物なのだが、なんとなく人間と離れた「猫の領域」を固守しているようなところがないだろうか。時々、どこかへ行ってしまうような行動も見せる。ある距離を置いて、人間を観察?しているのではないか。

ここに取り上げるのは、世界の名門ケンブリッジ大学ペンブルク学寮に住みついた若い雌猫(トマス・グレイと名づけられる)と、人間たちのファンタジックなフィクションである。ブログ筆者の愛読書の一冊だが、それほど頻繁に読んだりするわけではない。度重なる断捨離の荒波にも耐えて、書棚のあまり目立たない片隅に置かれてきた。ちなみに邦訳は名訳者の名が高い深町真理子氏の手になるもので、丁寧で独創的な訳文に感嘆する。

主人公である雌猫(彼女)は、どこからケンブリッジにやってきたのか。別に由緒ある生まれの猫ではない。この大学町の周辺イースト・アングリアに広がる荒涼たる沼沢地(フェン・ランドと呼ばれる)から、縁あって川を伝わって船旅(フェンには浅い川に適した平底船が多い)などをしつつ、ケンブリッジの著名な学寮(カレッジ:発音はコレッジに近い)のひとつ、ペンブルグ・カレッジにたどり着き、階段の下に勝手に住み着くことになった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
フェンという沼沢地は、推察されるように、人間が住むにはあまり適した場所ではない。遠くに灌漑用の風車などが見えたりするが、その他には目立った景観はない。ブログ筆者は、この地の荒涼とした光景が好きで、ケンブリッジに滞在していた間、その中を通る一本道をボロ車を運転しては大聖堂で有名なイーリー(Ely)などへしばしば通った。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ケンブリッジ周辺の略図 本書 p.12

さて、ペンブルグ学寮にたどり着いた名前のなかった猫は、学寮の最高機関であるハイテーブルで、議題とされ、その白と灰色の毛色の縁でトマス・グレイという名前で認知され、学寮の階段下で生まれた5匹(ニャン)の子猫も、めでたく然るべき飼い主に引き取られた。トマスは永住を認められ、出納長の手で養われることになる。

カレッジの正餐用のテーブルで、フロアーが一段高く設定されていることが多い。そこに着席を許されるのは、フェローと言われる限定された人たちに限られる。正餐の時は全員がアカデミック・ガウンの着用が義務付けられている。

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N.B. ペンブルック・カレッジは実在する名門カレッジで、創設は1374年。ケンブリッジで3番目に古い歴史あるカレッジ。

本作品には、次のような仮想の人物が登場する。
学寮長(マスター)、ロード・エフトスーンズ卿、大学全体の副総長を兼ねる。
出納長、文学修士ロダリック・ヘーゼルミア
管理主任ヘッド・ポーター、H・J・スティーヴンズ
25人のフェロー

#ちなみに、ブログ筆者の今は亡き友人となったW.B.は、これも著名な学寮ダーウイン・カレッジのマスターで、大学全体の教学・研究担当副学長であった。経済学部長も務めた。長年の交友の間に普通のヴィジターでは知り得ない興味深い事実を知ることもできた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

図らずもトマス・グレイと深い親交を結ぶことになったのは、大学で自然科学史を専門とする特別研究員のルーカス・ファイスト博士で、世俗的なものに背を向けた、純粋で心やさしい人物である。詩的素養も深いが、少なからず奇矯な面もある。このふたり(?)を中心に、ファンタジックでユーモラスな物語が展開する。

カレッジの住人たちは、歴史上、妻帯が認められなかったこともあって、長年、外の世界とは一線を画した生活を送っていた。カレッジ内の上下関係は明瞭で、フェローは手紙一通を出すにも、カレッジの外に出る必要はなかったと聞いたことがある。学寮外の世界は、そこに住む俗人に任せておけばよかったのだ。

作者は「猫の世界」に通じていた。猫関連の詩や詩人が作中に散りばめられている。中でも、聖書研究に励んでいた無名の修道士が残した詩(ネズミ捕りに精出すパングル・ボーンという名の猫が出てくる)についての考察など、大変興味深い。

ここに紹介するのは、猫のトマス・グレイとペンブルック・カレッジの教員フェローにして、いくぶん奇矯な性格の持ち主であるルーカス・ファイストの両名の関係である。ふたり(?)の共同研究は知の世界において、双方にすばらしい栄誉をもたらしたが、同時に、結果として、あまたの形而上学的な問題を提起するにいたった。

人間たちは気づいていないのだが、トマス・グレイは独自に学寮内を探索したり、学者たちの会話を聞いたりして思索する猫なのである。学寮内の出来事には、猫の特権?を生かして、どこにでも出入りし、ほとんど全てに通じている。あの有名なフィッツウイリアム博物館も、出入り自由の身なのだ。いつの間にか、カレッジの住人にとって、トマス・グレイは ”絶対不可欠な” sine qua non 存在となっていた。

トマス・グレイは互いに親密感を抱くファイスト博士に大きな知的ヒントを与えることになり、その成果を「共同研究」として発表したり、ユーモラスだが極めて刺激に満ちた世界を作り上げてきた。


読書中の"猫背先生"(p.166)

ユーモアとエスプリに満ちた本書を読み進めると、大きな転機?がやってくる。ある日、トマス・グレイが失踪してしまうのだ。大騒ぎとなり、ケンブリッジ警察まで捜索を依頼するが、問題にもされずあしらわれてしまう(笑)。余談だが、最近ブログ筆者の住む地域では、迷子になった(あるいは逃げてしまった)飼い犬、そして時には飼い猫の失踪で、情報提供を求める広告が入ることがあるようになった。

トマス・グレイが失踪するのも、猫の本性によるものなのだ。それを知らずにここまで過ごしてきた学問の町の住人の行動が滑稽に描かれる。

多少なりとケンブリッジという「蔦とランプという静謐な世界」(p.174)である学者の世界の片鱗をうかがってみると、外の世界の住人には理解し難いことも多々ある。一体彼らが日々やっていることはどんな意味があるのだろう。

長い目で見れば、カレッジ住人の仕事がなにになるだろう? あの有名な警句がここにも記されていた。キングズ・カレッジのジョン・メイナード・ケインズが、『確率論研究』の基本的な概念についての注釈のなかで指摘したように、”長い目で見れば、われわれはみんな死んでいる”のだ(p.175)。

さて、トマス・グレイはどこへ行ってしまったのだろうか。幸い彼女は生きていた。思いがけない場所であった。その場所はブログ筆者にとっても予想外ではあったが、思い出深い地であった。

ご関心のある向きは本書をお読みいただくしかない。


ブログ筆者の感想:かなりハイブラウでエクセントリックな範疇に入る作品だが、多くの学問やそれが生まれる世界は、部外者にはなんの役に立つのか分からないことが多い。その点を理解してページを繰るならば、日常あまり使うことのない脳細胞の活性化に役立つかもしれない。話は下掲の目次のような筋書きで展開する。


フィリップ・J・デーヴィス作・マーガリート・ドリアン絵(深町真理子訳)『ケンブリッジの哲学する猫』(THOMAS GRAY: PHILOSOPHER CAT by PHILIP J. DAVIS, Illustrated by Marguerite  Dorian) 社会思想社、1992年。
ケンブリッジの哲学する猫 (ハヤカワ文庫 NF 275) 文庫 、 2003年4月


目次
登場
1     いかにしてトマス・グレイはケンブリッジに来たりしか
2    いかにしてトマス・グレイはその名を得たりしか
3    ハイテーブルにて
発見
4    ゲダンケンツォー
5    彼女の意味ありげな尾
6    発見
7    数17の平方根
8    ソナタ・アパショナータ
勝利
9    私的な言語
10    ジョージ、ご婦人をもてなす
11      フィッツウイリアムにて
12    デミタス
13    ル・ブランクフォール
14    耳に聞く元老らの喝采をとどろかせ
憂悶
15    失踪
16    ウオーターフェン・セント・ウイローの哲学者たち
17    夕べの祈り
18    貴賤結婚?
決断
19     アーケスデン家にて
20    省察された情熱
21    反芻されぬ学問のかたまり
22    さまざまなシミュレーション
23    ジョージの助力
24       最後の対話
謝辞

追記
偶々、下記の展覧会が開催されているので、ご参考まで:

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アートと経済

2024年05月31日 | 書棚の片隅から


ジュリアン・ブライアン・ウイルソン『アートワーカーズ:制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』表紙


「アート(芸術)」と「経済」という領域は、双方がかなりかけ離れた位置を占めるように思われるかもしれない。しかし、筆者の思考の中では長らく互いに近接し包摂し合う領域として存在してきた。17世紀の画家たちに惹かれ、探索を始めた動機のひとつは、画家という職業を社会的に支えた徒弟制度という熟練形成(人的資本投資)の仕組みであり、作品の販路としての市場形成を含め、彼らの生きた時代環境を「額縁」という狭い視野から開放して、広く美術作品の社会経済的・文化的位置を考えてみたいという点にあった。世の中の一般のブログとはかなり異なる断片的な覚書きを、四半世紀近く継続している理由でもある。


混迷の中の現代アート
西洋美術史上のバロックの時代を過ぎ、印象派、そして今日の現代美術に到ると、そこは17世紀をはるかに上回る激動と混乱の時代であった。現代美術は統一された主導的モティベーションを喪失し、行方の定まらない分裂、離散の状態に置かれている。

美術に限らず、広く芸術の置かれた地位は、大きく揺らぎ、分裂していた。資本主義経済のダイナミックな荒波に巻き込まれ、画家、音楽家、批評家を始めとする広い意味でのアーティストたち、そしてそこに生み出された作品は、目に見えない巨大な力がもたらした分裂・激動の渦中に放り出されていた。

二つの世界大戦を経験し、20世紀も半ばを過ぎた1960年代のアメリカには、ケネディ大統領の就任、そして悲劇的暗殺、ヴェトナム戦争への反戦運動、ブラックパワー、フェミニズム、大規模な労働争議、さまざまな暴動など、社会を激しく揺り動かす激震が展開しつつあった。この社会変動に、アートの世界も無縁ではなかった。激動に抗して、「アートワーカーズ」という集団的アイデンティティが生まれつつあった。自らを「芸術労働者」(アートワーカーズ)と定義することによって、さまざまな社会的アクションを起こしたアーティスト・批評家たちの動きが台頭していた。

書店の店頭でふと目にした書籍の表題に惹かれ、読むことになったのが、今回取り上げる下掲の一冊である。

ジュリアン・ブライアン・ウイルソン『アートワーカーズ:制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』(高橋沙也葉+長谷川新+松本理沙+武澤里映訳) フィルムアート社、2024年
Julia Bryan Wilson, ART WORKERS: Radical Practice in the Vetnam War Era, University of California Press, 2009

著者ジュリア・ブライアン゠ウィルソン:  現在、コロンビア大学美術史・考古学部教授、ジェンダー・セクシュアリティ研究科教員。芸術的労働の問題、フェミニズム・クィア理論、工芸史などを研究している。



本書を実際に手にとって読んでいる内に、ブログ筆者が表題から想像した内容とは、かなり異なったものであることに気づき、正直なところ、最初は少なからず落胆した。

実は、ブログ筆者は1960年代というまさにこの時期に、アメリカ、とりわけニューヨークにおいて「労働」問題の研究に没頭しており、なかでもヴェトナム戦争がアメリカ社会に引き起こしたさまざまな社会変動について多大な関心を寄せていた。そうした事情もあって、本書にはアメリカ全体をカヴァーする「アートワーカーズ」の資本主義への対抗、脱却の動きなどを期待したのだった。


本書プロローグは次の如き、刺激的な文面で始まる(以下、引用部分は緑色表示):

1996年、匿名で書かれた一通の手紙がニューヨークの美術界に出回った。そこに記されていたのは次のような宣言だ。「我々は自分たちが身を置いているシステムを打ち倒し、変革への道を切り開くことによって、革命を支援しなければならない。このアクションは、資本主義から芸術制作を全面的に切り離すことを意味する」。手紙にはただ「とあるアートワーカーより」とだけ署名されていた(邦訳 p.19)。


この時代、現代美術の世界はすでに完全に資本主義経済の濃密な網目に組み込まれていた。美術はその発想、制作から商品化され、作品は商品として美術市場において取引される対象であった。

アートワーカーが自らを組織化し、資本主義的な美術市場の廃絶、さらには革命にまで到ることが出来るのだろうか。

ブログ筆者が懸念した通りだが、本書の焦点は、1960年代、ニューヨークの美術界という特定の時代と歴史的文脈に焦点を定め、その中心となった人物の生き方、活動を追求したものであり、包括的なアートの資本主義化とその呪縛からの脱却を描いたものではなかった。


著者ジュリアン・ブライアン・ウイルソンは、「日本語版の序文」で次のように述べる:
本書は、資本主義的市場からのアーティストの独立、組織化という包括的な主張を展開したのではない。

アメリカのベトナム侵略戦争に対する抵抗を中心とした左派が団結した1960年代後半という爆発的瞬間、そこでの労働と芸術については語れるべき物語があると確信(p.11)したという。


「4人の芸術家(カール・アンドレ、ロバート・モリス、ルーシー・リパード、ハンス・ハーケ)がいかにして左派的な芸術(家?)の組織化に加わったか。」という視点でのケース・スタディにかなり近い。

さらに、「今なら、『アートワーカーズ』という表題はつかないだろう。なぜなら、「彼らはワーカーではなかった」とする方が適切だからだ。」(著者自らが、本書主題設定に際しての事実誤認を認めたというべきだろうか)。

アメリカ国内の芸術は1960年代後半から70年代初めて本格的に「始動」したが、それはアーティストと批評家が共に自分たちをアートワーカーとして自認し始めた時期でもあった(p19)。


彼らが運動の足場として構想した「アートワーカーズ連合」(Art Workers’ Coalition、AWC)は、1960年代末にニューヨークでアーティストや批評家たちによる連合として結成された。AWCへの参加者は、美術館や企業のベトナム戦争への加担、美術館制度の特権性、労働者としてのアーティストの権利などに焦点を当て、さまざまな行動を起こしていたが、AWC自体は数年で活動を終了した。

「日本語版への序文」から、著者の設定した仮説通りには現実は展開しなかったことが判明するが、そのこと自体は本書の価値を低めることにはならない。というのも、この激動の時代には、数多くの衝動的、突発的、革命的な運動や試みが至る所で行われていた。

ベトナム反戦運動、フェミニズム、反人種差別運動、美術制度批判……
1960年代アメリカで、自らを芸術労働者(アートワーカーズ)と定義することによって、アクションを起こしたアーティスト・批評家たちの格闘の記録を鮮やかに描き出されている。

このような混乱の時代、「芸術はいかに社会に応答しうるか?」というのが、著者の提示した主題だった。

ベトナム反戦運動を筆頭に、フェミニズム運動、ブラックパワー運動、ゲイ解放運動、大規模なストライキなど、政治的・社会的な運動が巻き起こった騒乱の1960–70年代アメリカ。美術界では、こうした「アートワーカー」という集団的アイデンティティが生まれつつあった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B. ブログ筆者の記憶から思いつくままに、順不同だが、いくつか記してみよう:
1960年代アメリカの主要社会的事件、変動

1961 年 ケネディ大統領就任演説に始まった1960年代のアメリカは、戦争、政治不信、社会的混迷など、激しい変動の時期を迎えていた(ケネディ大統領は、1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺され、不慮の死を遂げた)。

アメリカのヴェトナム戦争への加担を口火として、アメリカ社会が大きく揺らぎ、分裂、分断の動きが顕著に発現していた。とりわけカリフォルニアなどの街角には、黄色の衣装をまとったヒッピーの姿が各所に見られた。ドラッグ文化、エコロジー、フェミニズム運動など、さまざまな「対抗文化」counter culture が展開した。

大学キャンパスでは、召集令状を皆の前で焼き、召集を拒否する学生、カナダなどへの越境、逃亡を企てる学生などの動きが話題となっていた。他方、いくつかのキャンパスでは、ROTC(予備役将校訓練課程)などの訓練が行われていた。

長距離バスでの人種分離に反対し、人種差別のないバスで南部を目指すフリーダム・ライダースが南部へ向かってワシントンD.C.を出発したが、アラバマでは地元民の暴動が発生、戒厳令が施行された。    

1962年、連邦最高裁が認めた黒人学生のミシシッピ大学入学を州知事と大学が認めず。反対暴動を連邦軍が鎮圧するという事態が発生した。

1964年 公民権法成立

1967年 ニューアーク、デトロイト、ミルウオーキーなどで黒人暴動

1969年、ハーヴァード大学、コーネル大学、シカゴ大学など、全国の諸大学で、紛争が勃発、ROTCの中止要求などが出された。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


芸術に関わるすべての行為を〈労働〉と捉えたアートワーカーたちは、芸術作品/仕事(アートワーク)の意味を拡張し、ベトナム戦争時代の社会不安に立ち向かう。1969年に設立された「アートワーカーズ連合」や、翌年に同連合から派生した「レイシズム、戦争、抑圧に抵抗するニューヨーク・アート・ストライキ」のアクティビズム的な熱を帯びた活動は、ミニマルアートやコンセプチュアルアートなど、制度としての芸術に異議を唱える動向と密接に関係しつつ、展開していく。しかし、内部に多くの矛盾や葛藤を抱えたその活動は短命に終わってもいる。

本書では、ミニマルな作品によって「水平化」を目論んだカール・アンドレ、ブルーカラー労働者との同一化を夢想したロバート・モリス、批評や小説の執筆、キュレーションという「労働」を通してフェミニズムに接近したルーシー・リパード、そして情報を提示する作品によって制度批判を行ったハンス・ハーケという4人の作品や活動を徹底的に掘り下げるケーススタディから、アートワーカーたちによる社会への関与の実相を追求する試みがなされている。

作品という枠組みを超えて、アーティストはいかに自らの態度を社会的に表明できるのか。今日の社会において真の連帯は可能なのか。アートワーカーたちのラディカルな実践は、短い期間に終息したが、その試みと影響は今日でもさまざま形で継承されていると考えられる。

本書を構成する4本柱ともいうべきケース・スタディは、この時代のアーティストたちが試みた先駆的試みとその結末を生き生きと映し出している。しかし、AWCに代表されるそれらの試みが比較的短時日の間に消滅した事実は、この主題を一般化することの困難さを象徴しているといえる。

ブログ筆者としては、1930年代、大恐慌の嵐と労働者のストライキの中、ニューディール政策の一環として、「フェデラル・シアター・プロジェクト」の名の下に展開された動きの中で、さまざまな劇場人たちが活動した事実なども、検討する意味が大きいと考えている。

この時代、音楽家、劇場関係者、警官、教師、消防士、技術者など、従来は労働組合などの組織化とは無縁の職業においても、労働組合、アソシエーションなどの組織化が行われた。しかし、多くの試みが長続きせず、消滅した。こうした経験も本書の如き考察と併せ、検討する価値があるだろう。

参考
目次
日本語版への序文
プロローグ
ラディカルプラクティスに向けて│ベトナム戦争時代

1 アーティストからアートワーカーへ
連合のポリティクス│アート対ワーク│一九六〇年代後半から七〇年代初期におけるアメリカの労働│ポスト工業化社会における職業化
【解題】 「境界」をめぐるアーティストたちの闘争──AWC解説  笹島秀晃

2 カール・アンドレの労働倫理
レンガ積み│ミニマリズムの倫理的土壌│アンドレとアートワーカーズ連合│物質を問題にする/問題を物質にする│戦中のミニマリズム
【解題】 カール・アンドレの階級闘争  沢山遼

3 ロバート・モリスのアート・ストライキ
仕事/作品ワークとしての展覧会│スケールの価値│アーティストと労働者、労働者としてのアーティスト│プロセス│デトロイトと建設労働者/ヘルメット集団ハードハット│ストライキ│勤務時間中のモリス、勤務時間外のモリス
【解題】 ワーカーとしてのロバート・モリス──「脱物質化」のジレンマのなかで  鵜尾佳奈

4 ルーシー・リパードのフェミニスト労働
女性たちの仕事│アルゼンチン訪問│三つの反戦展│アートについて/として執筆する女性たち│抗議を工芸クラフトする
【解題】 個人的なこと、集団的なこと、政治的なこと──執筆家ライター/活動家アクティビストとしてのルーシー・リパード  井上絵美子
「挑発」としての批評とアクティビズム  浜崎史菜

5 ハンス・ハーケの事務仕事ペーパーワーク
《ニュース》│AWCとコンセプチュアルアート──美術館を脱中心化する│情報インフォメーション│ジャーナリズム│プロパガンダ
【解題】 制度批評のありか──ハンス・ハーケと情報マネジメントの芸術労働  勝俣涼

エピローグ
謝辞
訳者あとがき


索引
著者略歴/訳者略歴/解題執筆者略歴/註訳者略歴

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リベラルアーツ論の源流を訪ねて:西周『百学連環』再読

2022年08月28日 | 書棚の片隅から

西周肖像
森林太郎「西周伝」『鷗外全集』第3巻、岩波書店、1972年、国立国会図書館コレクション

英語のencyclopediaは、日本語ではさしづめ「百科事典」とでもいうことになるだろうか。ところが、その語源を訪ねると、「子どもを輪の中に入れて教育する」という予想もしない意味になる。今回の話はそこから始まる:

英國の Encyclopedia なる語の源は、希臘のΕνκυκλιος παιδειαなる語より來りて、即其辭義は童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり。故に今之を譯して百學連環と額す。
(西周「百學連環」第1段落第1-2文)

英語の Encyclopedia という語は、古典ギリシア語のΕνκυκλιος παιδεια〔エンキュクリオス・パイデイア〕に由来しており、それは「子どもを輪の中に入れて教育する」という意味である。そこで、これを「百学連環」と訳して掲げることにしよう。
(上掲部分現代語訳:山本貴光、p.481) 

「輪の中の童子」が「円環を成した教養」となり、西先生の「百学連環」となるかは、上掲の山本氏の推論が大変興味深いので、山本著該当部分(第2章)をぜひお読みいただきたい。


安易な教養ブーム
この数年、書店の棚を見ると「教養」の必要性、身につけ方を掲げた本が多数目につくようになった。しかし、その多くは雑学本に近く、中には一日1ページを読み、一年後読了するころに教養が身に付きますと麗々しく記した本もある。

さらに最近はリベラルアーツ論も目立つようになった。リベラルアーツというと、筆者には前々回に取り上げた西周、さらに筆者が訪問したアメリカでのいくつかのリベラルアーツ カレッジが思い浮かぶ。筆者がかつて在学した総合大学は、この分野の草分けともいえる大学のひとつだが、
新しい形でのリベラルアーツ教育が、絶えず試みられてきた。

西は明治時代にリベラルアーツを「藝術」という訳語として造語した。現代の用法からすると、いまひとつという感じはあるが、日本におけるリベラルアーツ議論に際しては、明治の啓蒙家としての西の思想と努力を欠かすことはできない。リベラルアーツは、元来ビジネスマンに必要な知識、あるいは社会人として身につけるべき教養といった軽い意味のものではない。そこにはギリシャ、ローマ時代以来の長い歴史が脈々と存在するものであることは、西周の著作などを通して筆者も感じ取っていた。

かなり以前の話である。ブログ筆者が世紀の変わり目に当たり、所管することになった大学で、近い将来、大学が目指すべき姿を提示したいと思った。そこでの目標のひとつは、新たな時代環境で考えうるリベラルアーツを基盤とする教育の再編・充実であった。ギリシャ、ローマの時代へ戻そうというのではない。歪みに歪んでしまった日本の大学教育に小さな梁を入れたいと思ったに過ぎない。そのために、明治期に学園創設者が熱意を持って説いた学問の世界についてのヴィジョン、その体系化に、教職員の注意を集めたいと思った。

日本の大学の危機が次第に認識されるようになった21世紀の初頭に当たり、今後の教育の指針を示すことが、教育、運営の責任を負う者の責務であるとの思いが背景にあった。不完全なものであっても、海図と羅針盤なしに激動する教育の世界を漂流することは無責任だと感じた。

言い換えると、大学の未来をいかに設定すべきかという課題である。それまで日本の大学は、国公私立の別を問わず、総じて時代の成り行きに任せ、入学希望者の増加するままに拡大してきたという傾向が多分にあった。教職員の間でも、自分が勤務する大学の将来をどう構想するかという思いは希薄だった。

形骸化が進んだ「般教」
各大学の置かれたポジションで異なってはいたが、総じて大学教育のあり方について、深く考え、検討するという空気はあまり感じられなかった。事態は深刻であった。筆者は大学に勤務する前に日本・外国の企業、国際機関など、異なった組織風土を体験していたが、日本の大学ほど改革が難しい組織も少ないと感じていた。大学は潰れることはないと思い込んでいる教員も少なくない。

ひとつには、大学における一般教養課程については、形式的な面で制度改革が一段落し、多くの大学が専門課程に進むに先立って、一般教養科目(教養課程)の整備を済ませていて、改革の必要はないと思い込んでいる教員も少なくなかった。。しかし、大学は激しい競争の渦中にあることは紛れもない事実なのだ。そうした中で一部の大学を除き、建物などの建造、改築は進むが、教育内容の充実は進度が遅かった。

当時から日本の多くの大学では、一般教養課程は専門課程よりも一段下という評価がいつの間にか出来上がってしまい、しばしば「般教」の名で学生の間にも軽視する風潮が広がっていた。大学の重点は専門課程にあるので、「般教」は早く済ませたいという受け取り方が強かったように思えた。

確かにリベラルアーツを日本語に訳すと「教養教育」が最も近い。しかし、リベラルアーツはしばしば一般教養課程と重ねて考えられがちな従来型の教養教育とは全く別物なのだ。

リベラルアーツは「般教」ではない
リベラルアーツの原義は、「人を自由にする学問」、「自由学科」のことであり、それを学ぶことで、自由人たる思考・行動の素地が身につくとされてきた。

筆者はたまたまアメリカ、イギリスなどで、研究・教育の機会を経験したが、彼の地で共有されているliberal arts のイメージと内容は、日本で使われている教養教育とは大きく乖離していた。

筆者はリベラルアーツ論の源流に立ち戻って、マンネリ化しつつあった教養課程活性化のための教職員の理解を深めたいと考えた。そこで出会ったのが、西周の著作集だった。大学執務の傍ら、手に取った著作の中に「百学連環」があった。文章全体は決して長いものではないが、文語体にギリシャ語、英語の引用が混じり、現代人にとってはかなり難渋する部分がある。それでも丁寧に読むと、明治人が感じとった当時の西洋の学問体系の地平が見えてくる気がした。それから150年余りを経過した今日、学問の世界はどのように展望できるのだろう。

「百学連環」は西周の著作を集めた全集の第4巻(宗高書房、1960-1981年)などに収められている。しかし、明治期の文語体で書かれた著作は現代人にはかなりハードルが高いものになっている。『即興詩人』など森鴎外の著作の現代語訳が求められる時代である。それでもその後刊行された現代語訳などを参考に読めば、理解に困難を感じることはないだろう。

その後、大学を退職し自由な身になった時にふと手に取った書籍が、山本貴光氏による「百学連環を読む」であった。大変興味深く読了した。ややマニアックな感はあるが、「百学連環」の最善のコンメンタールであると推薦に値する。著者の絶え間ない探索力に支えられた旺盛な思索の過程を辿ることができ、長らく忘れられてきた明治の啓蒙家が描いた学問の世界のマップ・地平のイメージが目に浮かぶようになる。
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山本貴光「百学連環を読む」三省堂、2016年

改めてこの労作を読み返し、もう少し早く刊行されていたならば、と思ったことしきりであった。世俗化し、本来の方向とは別の方向へ走り、定着してしまった日本での「リベラルアーツ」の概念を正しい道に引き戻すことは容易ではない。筆者の始めた試みも、全学共通カリキュラムの導入などに多大な時間をとられてしまった。新たな時代におけるリベラルアーツ再興への関心も育たなかった。数は少ないが、一部の大学は積極的にこの方向へ移行の努力をされ、成功を収めつつある。

リベラルアーツは本来「自由の技術」であり、(一般)教養とは大きく異なる。そこにはギリシャ、ローマ以来の長い語源上の歴史が存在している。現代において『百学連環』の輪郭はどう描けるのだろうか。

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N.B.
リベラル・アーツの起源は古代ギリシアにまで遡り、自由人としての教養であり、手工業者や商人のための訓練とは区別されてきた。古代ローマにおいては、技術(アルス ars)は自由人の諸技術・方策( artes liberales)と手の技である機械的技術・方策(artes mechanicae)に区別されていた。前者を継承するのが「リベラル・アーツ」である。人間社会のさまざまな制約から自らを解き放ち、自由人として生きるための技術と言える。
ローマ時代の末期にかけて、自由技術は七つの科目からなる「自由七科」(septem artes liberales)として定義された。自由七科はさらに、主に言語にかかわる3科目の「三学」と主に数学に関わる4科目の「四科」の二つに分けられた。 それぞれの内訳は三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽である。音楽がここに入るのは不思議な感じもするが、当時は技術の範疇に含まれていた。哲学はこの自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられた。
その後、時代が下り、13世紀のヨーロッパで大学が誕生した当時、自由七科は学問の科目として公式に定められた。

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激動する現代社会において、世界を見通す手がかりとして、150年近い時空を遡り、日本が理想に燃えていた明治期の啓蒙思想家の知の世界の展望を再体験することは、見え難くなった世界への新たな可能性を提示もしてくれる。西周は当時のオランダ、ライデン大学におよそ2年間滞在し、西欧世界の学問の体系と輪郭を確認し、帰国後日本に生かすための基盤材料とすることを企図していた。そのためには、先進地域である西欧の学問の体系、その輪郭を確定し、学問相互の間の関係を理解することに努めた。「百学連環」の表題はその作業にふさわしい。

複雑さを増し、行動が制限されることが多くなった今日、制約が多くなり生きにくくなった社会で、自らの力で壁を乗り越え、切り開き、自由な発想で生きてゆく術を考えることは、学問に携わる者、これから激動する世界で生きる者にとって、必要なことなのだ。専門化が進み、学問の全体俯瞰ができなくなっている複雑な世界であるからこそ、「百学連環」の視点が必要になっている。西周が現代に立ち戻ったとしたら、いかなる展望と内容で学問の体系を提示してくれただろうか。晩夏の時を迎えたブログ筆者の真夏の夢の一齣である。





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『晩夏』も過ぎて:『石さまざま』を読む

2021年07月08日 | 書棚の片隅から



新型コロナ・ウイルスの感染再拡大の危機を目前にして、2014年の広島の豪雨災害、線状降水帯の発生、このたびの熱海の土石流災害の惨状などを伝えるTVニュースなどを見ていると、日本はさながら災害列島と化したようなイメージである。毎年のように、どこかで大災害が発生している。

いつ頃からこのようなことになったのか。あれこれ考えながら、新着の雑誌を見ていると、思いがけない記事に出会った。

19世紀初めの作家アーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter 1805~1868)の短編集が初めて英訳されたとの紹介である。

Motley Stones, By Adalbert Stifter, Translated Fargo Cole, New York Review Books, 2021, 288 pages.
(The Economist (June 26th-July 2nd 2021)の新刊紹介欄参照)

このブログではかつてこの作家の名作
『晩夏』Der Nachsommer に関わる記事を記したことがある。ブログ筆者の読書歴でも心に残る一冊なのだが、ふたたびこの19世紀の作家について思いめぐらすことになるとは予想もしていなかった。不意をつかれた感じがした。シュティフターの作品も半数程度しか英訳されていないことにも驚かされた。

このたび英訳されたのは、シュティフターの短編集『石さまざま』(Bunte Steine; MOTLEY STORIES)である。ブログ筆者は邦訳*2で読んだことがあるが、その後30年近い年月が経過していた。

今回、邦訳、英語訳を対比して収録された作品を読んでみて、改めて感じるものがあった。この作品は6つの鉱石名が付けられた短編集ともいうべきものだが、鉱物とは特に関係がない。

「水晶」の世界とは
例えば、「水晶」はクリスマスの夜、山岳地帯に住む幼い兄妹が隣村からの帰途、迷い込んでしまった山頂付近の氷の洞窟で、自然の厳しさと美しさに出会い、自分たちの村の上に神が宿るような光が輝くのを見て感激する。子供たちは夜が明けて二人を探しに来た村人たちに救い出される。骨格はこれだけの話である。氷の洞窟の情景が水晶を想起させる。しかし、そこには人間の世界と神のつながりなど、清く爽やかな雰囲気が醸し出されている。

そこは現代における地球温暖化や環境汚染などとは無縁の世界である。登場人物は理解しがたく、予想もできない自然の変化と苦闘するしかなかった。

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N.B. シュティフターについては、NET上でもすでに多くのことが記されているので、短い心覚えだけを記す。

シュティフターは1805年、オーストリア領であった南ボヘミアの麻布織物、亜麻の商人の長男として生まれた。信仰に厚く、勉学熱心でベネディクト派の修道院学校を経て1826年ウイーン大学で法学を専攻したが、彼の関心は自然科学から音楽、芸術、文学など幅広い幅広い領域に及んだ。深く広い教養の習得を追求していた。

生計を立てるため、家庭教師となって上流階級との子弟の教師として優れた評価も受けた。宰相メッテルニヒの子息リヒャルトの教師も務めている。シュティフターはこの時期、画家志望でもあり、作品には買い手もついていた。1848年からオーストリア北部のリンツに移住、同地の小学校視学官の任についた。その後、同職に従事しながら小説などの執筆活動を続けた。1853年には今回取り上げている石に因んだ表題を持つ5編からなる作品集『石さまざま』Bunte Steine (2 vols.)を出版。自然への深い畏敬と人間性への希求の念が込められた作品である。1857年には、アルプス山麓に位置する館を舞台にした教養小説 『晩夏』を出版した。最晩年(1865-67年)には12世紀ボヘミアを舞台とした歴史小説『ヴィティコー』Witikoを著した。

私生活ではシュティフター夫妻は子供に恵まれず、二人の養女にも先立たれた。1867年に肝硬変を患い、その苦しみから逃れるため1868年自ら頸部を切り、死去した。

この作家の作品は、オーストリアを主とするドイツ語圏では今日でも読まれているが、英語圏ではほとんど未知に近い存在であり、作品の半数近くは翻訳もない。日本では主要作品について、邦訳が刊行されている。

シュティフターの作品の評価については、『晩夏』について記した時に例示したが、同時代人のヘッペルのように厳しい評価をしたものもいたが、総じてきわめて高い評価が与えられてきた。
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ブログ筆者はゆっくりと時間をとって読む作品として、この作家の作品『晩夏』を愛読書の一冊としてきたが、現代の若い世代には退屈でおよそ受けないだろうと思っていた。実際その通りなのだが、『石さまざま』のような短編集については、コロナ禍で在宅、自由な時間が多い時にゆっくりと楽しみながら読むには素晴らしい作品と思える。

自然の威圧の前の人間
実際、シュティフターという作家のことなど今更取り上げる人などいないのではと、思いこんでいた。この作家が今日改めて注目を集め、英語訳も出たのは、シュティフターが舞台としていたオーストリアの自然環境において、予測しがたい自然環境の変化などに対応しようと苦闘していた人々の姿が、今日の世界につながるものがあると思われたからだろう。しかし、彼の時代には地球温暖化などの地球環境、自然現象の激変は、話題にもなっていなかった。およそ予想もできず、推論すら不可能な自然の厳しさに圧倒されながらも、この作家は人間がそれに対抗して生きる道を、小説において模索してきた。

シュティフターは、社会の秩序、個人の忍耐、家族の絆の大切さなどを重視しながらも、実際の小説の主人公はそれに反するようにさまざまな悲惨と心の痛みに苛まれていた。

描かれたものは、牧歌的楽園の中での深い断裂、悲劇的惨事ともいうべき次元であった。シュティフターはこうした世界を初めて作品として取り上げた作家のひとりだった。6編の内で4編は雨霰を伴う嵐、猛吹雪、洪水そして悪疫が背景となっている。

牧歌的楽園と自然の脅威
現代人から見ると、シュティフターの世界は、ロマンティックな時代において破壊的力を持つ自然の突発、誇示が舞台ともいえる。例えば、『水晶』においては二人の幼い兄妹は神の存在を感じ、氷雪吹き荒ぶ情景が一貫してストーリーを支配している。そして、一瞬だけ奇蹟が現れる。

英訳を担当したコールによれば、人間の側面に限っても、シュティフターの世界では、人は自らの行方を予想もできなければ、合理性を見出すこともできなかった。自然の猛威に困惑し、圧倒されながらも、作家の描いた人間は、自らが理解できない環境面での災害に必死に対抗していた。地球温暖化など、まったく考えられてもいなかった時代である。


*2
Bunte Steine (MOTLEY STORIES,『石さまざま』) 目次
CONTENTS:
Translator’s Forward
Preface
Introduction
Granite (Granit 御影石)
Limestone (Kalkstein 石灰岩)
Tourmaline (Turmaline 電気石)
Rock Crystal (Bergkristall 水晶)
Cat-Silver (Katzensilber 白雲母)
Rock Milk (Bergmilch 石乳)


日本語訳として、今日でも入手できるのは、
手塚富雄・藤村宏訳 『水晶 他三篇』岩波文庫、1993年
『シュティフター・コレクション』 (全4巻 所収) 松籟社
のいずれかと思われる。今回、英語版でもアクセスできるようになったことは、英語圏への普及と理解を深める意味で貢献度が大きい。





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人生を支える絵画に出会う(3)

2021年07月01日 | 書棚の片隅から


シエナのSala dei Noveに描かれた良い政府の寓話、フレスコ画(部分)
 
  前回取り上げたアンブロージョ・ロレンツェッティの「善政・悪政の寓話」(フレスコ画)について、もう少し記しておきたいことがある。基本的にはブログ筆者のメモ、心覚えなのだが、長らくこの妙なブログに付き合ってくださった方々にとっても、多少は役立つと思っている。

世界に存在する美術作品を鑑賞するあり方は一様ではない。前回記したように、この作品は単なる美的次元にとどまらず、人間がこの世に生を受け、人生を送るに当たって避けがたい舞台ともいえる政治・社会的次元の問題を追求している。14世紀のイタリア、シエナを舞台に、その過去、現在、未来を包含する大きな構想に支えられた作品なのだ。このように歴史に残る美術の中には、作品を見る側に洞察力や思索が求められる作品もあることを知っておく必要がある。

モデルはシエナ
Sala dei Nove (“Salon of Nine”)の壁面に描かれたこの作品は、シエナの市政から始まり、広くトスカーナの風景をモデルとしたものと推定されている。画面は水平方向に広がる三つの層で構成されている。

繰り返しになるが、「善政の美徳」は、6人の王冠をかぶった堂々とした女性像によって表されている。向かって左側が「平和」、「不屈の精神」、「慎重さ」、右側が「威厳」、「節制」、「正義」を代表している。画面の左端には、「知恵」が持つスケールのバランスを取りながら、正義を司る女性の姿が描かれている。 

描かれた女性像はおそらくシエナの女性の美しさの理想を表したのだろう。足元には、遊んでいる2人の子供がいる。彼らは、 ローマの伝説に基づくシエナの創設者であるレムスの息子であるアスシウスとセニウスであると推定されている。

画像の下には大略次のような趣旨の文章が記されている:彼女が支配するこの聖なる美徳[正義]は、市民の多くの心を団結させるように誘導し、そうした目的に沿って、共通の善を作り出します。市民の状態を統治するために、その周りに座っている美徳の輝いた顔から目を背けないことが期待されます。善き政府が勝利することで、十分な税金、賛辞、町の主権が市民の下に確保されます。 戦争がなければ、すべての市民には市政への信頼、そして楽しい生活がもたらされます。

「善政の寓話」が意味する平和な都市のイメージは14世紀のシエナの平和な都市のパノラミックな市民生活であると推定されている。より一般的な平和な都市ではとの異論もあるようだが、シエナが主たる舞台として構想されていることは確かなことだろう。
平和」のあり方
筆者が注目するのは描かれている6人の女性の中で、「平和」を象徴するとみられる女性の姿にある。真っ白なドレスで物憂げに椅子に座っている。他の女性たちが正面を向いて正座しているのと比較して、その描かれ方は注目を集めてきた。画家は何を意図していたのだろうか。


なぜ、彼女はそこにいるのか。Sala dei Noveと名付けられたその部屋は、Sala della Pace, ‘Hall of Peace’(平和のホール)としても知られてきた。彼女は描かれた主題のガヴァナンス(統治)のシステムを司っていると考えられる。描かれたその姿態から、彼女は何かを待ち、監視し、耳を傾けていると思われている。耳に当てられた掌は、半分、我々の方(市民)に向けられている。ホールの外、人々の間に起きていることを知ろうとしているようだ。

さらに彼女の足元、そして肘をついているクッションの下にある黒く描かれたものは、なんと甲冑ではないかと推定されている。平和が存在すれば、武具は不要と思われるのだが、これは矛盾語法ともいわれている。平和な市政の防備や保護のためには、武具も必要という意味でしょうか。しかし、現実には軍備もないとすれば、いかなる武装が必要なのでしょうか(Hisham 2019, p.38)


N.B.
暴君の位置づけ



ロレンツェッティの「悪い政府のフレスコ画の影響」は、このフレスコ画の状態が悪いこともあり、「良い政府の影響」ほど広範囲に書かれていません。悪い政府の影響のフレスコ画が描かれている壁は、以前は外壁であったため、過去に多くの湿気による損傷を受けてきた。この作品を見る人が壁画を調べると、角や牙で飾られ、斜視のように見える邪悪な姿に直面する。この人物は、短剣を持って山羊(贅沢の象徴)に足を乗せて、即位して座っているティラムミデス(専制君主)と判別されている。


References
Hisham Matar, A Month in Siena, Penguin Books, 2020
Erich Kaufer u. A. Luisa Haring, LA PACE E’ ALLEGREZZA, FRIEDEN IST FREUDE, Innsbruck, 2002


後者は筆者の半世紀を越える友人の著作である。このブログ記事にも何度か登場しているが、この友人の人生にブログ筆者は多くを学んでいる。




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人生を支える絵画に出会う(2)

2021年06月20日 | 書棚の片隅から
人生の途上で読んだ一冊の書籍が、その後の人生のあり方を変えたということは耳にしたことがある。しかし、一枚の絵画に出会ったことで、人生が大きく変わったという人はどれだけいるだろうか。

ひとつ例を挙げてみよう。
絵画が制作の対象とするものは、具象、抽象、実に様々だが、政治・経済などを主題としたものがあるだろうか。皆さんは何か思いつかれるでしょうか。



この画像は筆者の本棚にあった一冊である。この表紙に採用されている絵画の出所はなんでしょう。実は、これは前回取り上げたシエナ派の画家の手になる作品のひとつである。それがお分かりの方はかなりの’イタリア美術史’通といって良いでしょう。前回の記事 Hisham Matar, A Month in Siena でも取り上げられています(Matar, pp.35-47)。

画家の名前は、Ambrogio Lorenzett アンブロージョ・ロレンツェッティ、製作年は1338~1339年頃、フレスコ画 [7.7 x 14.4m (room)]であり、シエナのPalazzo Pubblico、より正確には Sala dei Nove (“Salon of Nine”)、シエナの9人の評議員たちが務める council hall(市議会ホール)の壁画として描かれた。壁画は彼ら9人が行う決定が、いかなる重みを持つかを想起させることを意図して製作されたと考えられており、画家ロレンツェッティの疑いない傑作と高く評価されています。

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N.B.
このフレスコ画が意図したものは、自治都市国家について、「良い政府と悪い政府の寓話とその影響」 The Allegory of Good and Bad Government を描くことにあったと推定されている。このシリーズは下記の6つの異なった場面から構成されているが、タイトルは現代的視点から後年につけられたものである。
良い政府の寓意
悪い政府の寓意
都市における悪い政府の結果
農村における悪い政府の結果
都市における良い政府の成果
農村における良い政府の成果
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アンブロージョ・ロレンツェッティは、シエナ派のイタリア人画家だった。彼はおよそ1317年から1348年まで活動していたことが判明している。1327年の時点ではフィレンツェで画家や顔料職人のギルド「Artedei Medici e Speziali」のメンバーとして仕事をしていたものの、その後はシエナ派の画家として知られていた。シエナにあった絵画学校は、13世紀から15世紀にかけてフィレンツェに匹敵する内容であったと言われていた。アンブロージョ・ロレンツェッティは1348年にペストで亡くなっている。

この時代、自治都市は互いに覇権を競い合う状況にあり、皇帝派(ギベリン)か教皇派(ゲルフ)のいずれかを旗印としていた。フィレンツェは前者、シエナは後者の雄として互いに争っていた。

市民代表の合議制によって都市を運営するにあたり、彼らはその成功例を共和政ローマ、古代ギリシャのポリス市民社会に求めていた。そうした思想が作品の根底に色濃く流れている。

良い政府の寓話


Ambrogio Lorenzetti, Allegory of Good Government, Palazzo Pubblico, Siena, 1338-40

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N.B.
ローレンツェッティの作品は、ほとんど残っていない。彼の最も初期の既知の作品は、1319年に描かれたマドンナと子供だった。上掲のSala dei Noveの壁のフレスコ画に加えて、彼の他の作品には、サンフランチェスコのフレスコ画が含まれている。トゥールーズの聖ルイの調査(1329)、1332年からのサンプロコロの祭壇画、聖ニコラスとプロキュラスのマドンナと子供、ボンベイのフランシスコ会の殉教/(1336)と題されたサンフランチェスコの別の祭壇画、サンタペトロニラの祭壇画、1342年からシエナ大聖堂のサンクレシェンツォの祭壇などの依頼があったようだ。

それらはシエナの歴史の保存・継承において重要な作品であり、鋭敏な政治的および道徳的観察者としてのこの画家の特徴を示している。

とりわけ、1337年から1339年にかけて描かれた上掲のフレスコ画は、共和国の統治における寓話的な美徳の持ち主である人物の世俗的な表現とみられる。よく統治された都市と農村の他に、悪しき統治をされた都市、農村の状況を描いた
フレスコ画が今日まで継承されている。後者は外壁に面していたなど偶々劣化がより進みやすい壁面に描かれたらしい。意図して劣悪に描かれたわけではないといわれている。

これらの今に残る作品の中で、善政の寓話は、シエナの安定した共和政の価値についての強い社会的メッセージを伝えている。それは、世俗的な生活の要素を、当時の都市における宗教の重要性への言及と組み合わせて描いたものとみられる。

善と悪の政府シリーズの寓話と影響》は市民グループである Sala dei Novo(市議会)から完全に委託された。当時のほとんどの芸術とは異なり、主題は宗教的ではなく市民的な意味を持っている。

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このPalazzo Pubblicoに描かれたフレスコ画は、14世紀のトスカーナの理想であり、偶然にも、当時の日常生活と習慣について、思いがけずも正確な描写を現代にまで伝えていることができているようだ。作品についての学術的研究は大変多く、かなりの数にのぼる。

この壮大な意図を持ったフレスコ画作品の目的と考えられるのは、1355年までシエナで権力を保持していたゲルフ(教皇派)であった政府の政治的信条を高めることにあったと思われる。

自治都市(コムーネ)の良き政府の寓話的な表現では、繁栄している市民が通りで交易と踊りをしている光景が、城壁の向こうには、農作物が収穫される緑豊かな田園地帯が描かれている。

他方、悪い政府についての寓話では、犯罪が蔓延しており、病気の市民が崩壊しつつある都市を歩き回っており、農村は旱魃に苦しむ光景が描かれている。

良い政府の寓話

Sala dei Noveに描かれた良い政府の寓話、シエナのフレスコ画(部分)

アンブロージョ・ロレンツェッティは、シエナ市議会ホール Palazzo Pubblicoの議会室Council Room (Sala dei Nove)の壁に、これらのフレスコ画を描いた。主題は善(良)・悪の政府とその市及び農村への影響だった。

良い政府の寓話は窓側とは反対の小さな壁に描かれている。その構成は3つの水平な層で出来ている。最前面には当時のシエナと思われる人々が描かれている。その後ろのステージには良き政府を代表する寓意的な人物が二つのグループに分かれて描かれている。二つのグループは評議員たちの行列につながっている。上方の層は様々な身体無き徳が浮遊している天空の領域と思われる。

真ん中の層の右側で王座に就いている人物はシエナの市を代表すると見られる。彼の頭上にはCSCV (Commune Saenorum Civitatis Virginis)の文字は人物のアイデンティを説明している。足元に描かれている二人の子供は、レムスの息子であるアスシウスとセニウスで、ローマの伝説によるシエナの創設者であると思われる。シエナの両側には善き政府の徳が6人の厳かな女性として描かれている。平和、不屈の強さ、賢明さは、左側に、寛大さ、中庸、正義は右側に位置している。フレスコ画の左側遠くには正義を代表する女性が再び描かれ、賢明さによって支えられる秤で均衡を図っている。

この作品に魅せられた人々
これまでの歴史において、このフレスコ画に影響を受けた人々はきわめて多いと考えられる。画題と細部の解釈については、今日でもさまざまな見解が示されている。

実は、ブログ筆者の半世紀近くにわたる
オーストリアの友人も、これらの作品に出会い、大きく人生のあり方を変えた。それまでは現代経済の先端分野で、立派な業績を残して来たが、50歳に近いある日突然それらを全て放棄し、イタリア語を学び、この時代の社会経済史学に転換、大学研究所長を経て名だたる研究者になった。絵画作品の持つ力の偉大さを感じさせられる。

かつて訪れたシエナで、このフレスコ画の含意の説明を受けた時、絵画がこうした対象まで描きうることに感動すると共に、日本とは隔絶した政治、文化の有り様は今日まで深く脳裏に刻み込まれていた。






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​人生を支える絵画に出会う(1)

2021年06月14日 | 書棚の片隅から



 Matar, Hisham マタール、ヒシャーム*1という作家をご存知だろうか。あるいはDuccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ*2 という画家は?

 Quizというわけではない。海外ではそれぞれの分野でかなり知られている。しかし、日本では一部の人々を別にすれば、ほとんど馴染みがない名前だろう。
 
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N.B.
*1
ヒシャーム マタール,Hisham Matar,作家。
1970年、ニューヨークでリビア人の両親の間に生まれる。幼少年期をトリポリ、カイロで過ごす。1986年以降、イギリス在住。2006年、In the Country of Men (邦訳『リビアの小さな赤い実』金原瑞人・野沢佳織訳、ポプラ社、2006年)で小説家としてデビュー。自伝的要素の色濃い作品は高い評価を受け、ブッカー賞の最終候補にノミネートされたほか、英国王立文学協会賞など、数々の賞を受けた。

続いて、リビアのカダフィ政権崩壊後に発表したThe Return. In the Country of Men (邦訳『帰還―父と息子を分かつ国』金原瑞人・野沢佳織訳、人文書院、2018年)はさらに高い評価を受けることになった。
『帰還』は、2017年のピューリッツァー賞(伝記部門)ほか、数多くの文学賞を受賞した。バラク・オバマ、C・アディーチェ、カズオ・イシグロなどの著名人が絶賛する世界的ベストセラーとなった。

 1018年7月には、オバマ前米大統領が、退任後初のアフリカ旅行を前に、「この夏、お薦めの本」の一冊にあげて、話題になった。ナイジェリア出身の女性作家、チママンダ・アディーチェは本作について、「心を動かされ、涙した。愛と故郷について教えられた」と述べ、英国の作家カズオ・イシグロも「引き裂かれた家族をめぐる、不屈の精神に貫かれた感動的な回想録」と称賛している。[以上、上掲書PR文などから]


*2
Duccio di Buonibsegna ドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(ca1255/1260〜ca 1319)は中世ゴシック期のイタリアの画家、13世紀末から14世紀初頭、シエナ(イタリア共和国トスカーナ州中部の都市)で活動した。

シエーナあるいはシエナはフィレンツェからさほど離れていないが、独立精神が強い。とりわけ美術の面に見られる。この画家は、13〜15世紀に発展した美術史上の「シエナ派」Siena school の祖ともいわれる。ちなみにSienaの現地発音は「スィエーナ」に近い。

ドウッチョは、ゴシックとルネサンスの橋渡しをした西洋絵画史上重要な画家の一人として知られる。
「シエナ派」は、グイド・ダ・シエナ(13世紀後半に活動)を先駆者として、ビザンティン美術の影響を受けたドウッチョ・ディ・ブオニンセーニャが偉大な画家として登場した。彼がシエーナ大聖堂のために製作した巨大な多翼祭壇画《荘厳の聖母》は、今ではかなり散逸しているが、色彩にこめられた新しい感性、洗練された線描、物語表現などの面で、ビザンティン美術の伝統を刷新したものを継承している。さらに彼の影響を受けたシモーネ・マルティーニ、ドメニコ、タッデオ・ディ・バルトーロ、サセッタ、マッテオ・ディ・ジョヴァンニなどが活躍した。
 
シエナ派のなかでは、ジョットから多くを学んだピエトロ・ロレンツェティ、アンブロージョ・ロレンツェッティの兄弟などが知られている。
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シエナで1か月を過ごすまで
さて、今回取り上げるのは、現代の作家ヒシャム・マタールの手になる下掲の新著である:
 
Hisham Matar, A Month in Siena, Penguin Books, 2019 、(邦訳なし、表題仮訳『シエーナで過ごした1か月』)

小著ながら、作者の自伝的前作を継承する大変印象深い作品である。ブログ筆者が取り上げたのは、前著『帰還―父と息子を分かつ国』を読み、感動したことによる。

ヒシャム・マタールは19歳の時、ロンドンでの学生時代を過ごしていた。当時ガダフィ体制への反抗者であった父親は、カイロで誘拐され、リビアへ連れ戻されて投獄され、「水に塩が溶けるように消し去られた」。ここに至るまでの家族の人生遍歴は凄まじいとしか言いようがない。このトラウマのような体験の影がこの新著にも色濃く反映されている。

マタールはロンドン在住時から13〜15世紀イタリアのシエナ派の作品に魅せられてきた。彼が最初その作品に出会ったのは、ロンドンのナショナル・ギャラリーであった。マタールは昼食時にギャラリーを訪れていた。そして一枚の絵画にほとんど一時間を費やしていた。なんと彼の父親は、この時に誘拐されていた。「絵は見ていない時に変わる。思いがけない方角に」。

時が過ぎ、かつては建築学専攻だったマタールは、シエナ派の作品のシンメトリカルな形、キリスト教のシンボリズムに魅惑されていた。そして、かねてからの願望達成のため、シェナに1か月ほど滞在し、美術と都市を実体験するためにやってきた。しかし、彼は前著に記した体験に強くとらわれていることに気づく。ここから人生の新しい次元へ脱却、移行できるのだろうか。

シエナはフィレンツエから遠くはないが、芸術、とりわけ美術の領域では独立精神が強い都市である。13-15世紀に発展した「シエナ派」の拠点として知られている。ブログ筆者も二度訪れたが、中世の姿をそのままに残す美しい町だった。



吸引力は美術館
マタールが魅了されていたのは、シエナ派の著名画家ドウッチョの『受胎告知』The Annunciation や『盲目で生まれた男の治癒』などの作品だった。マタールは「色彩、微妙なパターン、そしてこれらの作品の時間が停止したドラマが自分のために必要なのだと考えていた」。

 
Duccio, The Healing of the Man Born Blind, Tempera on wood, 45.1 x 46.7 cm, 1311, National Gallery, London
ドウッチョ《盲目に生まれた男の治癒》

このドウッチョの作品を見ても、色彩の明るさ、線描の洗練、堅実な物語表現などの点で、ビザンティン風を刷新するものが感じられる。画面中央、キリストに見えない目を拭われた杖をついた男は、右側の泉で目を洗い見えるようになり、杖を捨てている。絵の構成は稚拙とも言えるが、時間を止めたこの奇蹟の表現は当時の人々には分かりやすい。

マタールがシェーナで1か月を過ごすことを決めた最大の理由は、美術館であった。毎日出かけては長い時間を一部屋で過ごす。それに気づいた美術館スタッフが折り畳み椅子を持ってきてくれるまでになる。最初は断ったが、まもなくそれが有用なことが分かる。

美術館を訪れた後は旧市街城壁まで行き、ひとつの町としての存在を確かめる。旧市街は「シエナ歴史地区」として世界遺産に登録されている。建築学専攻だけに、その描写は細部に入り巧みだ。

小著だが、随所に著者がシエナへ到るまでの旅で出会い、心を打たれた絵画作品のイメージが挿入されており、コロナ禍の重苦しい夏に楽しみながら、疲れた心のセラピーとして読むにもふさわしい。ちなみに、1348年、シエナは黒死病の流行で打撃を受けている。新型コロナウイルスの感染に苦悩する現代世界と重なるところがある。

最後のページに挿入されているのは、マタールが仕事でロンドンからニューヨークへ飛び、後から合流した妻ダイアナと共に、滞在中毎週のように訪れていたというメトロポリタン美術館所蔵のジョバンニ・ディ・パオロ《パラダイス》(1445年)のテンペラ画である。



Giovanni di Paolo,(Giovanni di Paolo di Grazia) (Italian, Siena 1398–1482 Siena), Paradise, Tempera and gold on canvas, 1445
ジョヴァンニ・ディ・パオロ《パラダイス》1445年

この作品はメトロポリタンが所蔵する《パラダイスの創造と追放》と併せてシエーナのサン・ドメニコ教会にあった祭壇画のベース(predella)を構成していた。この二つの作品は画家の最傑作に位置付けられている。画家はフィレンツェで見たフラ・アンジェリコの作品に強い影響を受けたが、そのフィレンツッェ様式は斥け、架空の上掲のようなタペストリー様式を採用した。

美術作品には、しばしばそれを見る人々の心の内に入り込み、傷ついた心を癒やしたり、時には人生の方向まで変える力がある。シエナへの旅がマタールの創作活動にいかなる変化をもたらしただろうか。マタールがニューヨークであった友人夫妻(夫は大学教授、妻は成功した弁護士)は外見だけを見れば、人生での成功者であるかに映る。しかし、彼らが述懐するように、内面的にはさまざまな苦悩、不満、願望などを抱えている。取り上げる絵画が14-15世紀イタリアの作品であろうとも、現代人に与える多くのものを内在している。多くの不安に満ちた時代にあって、いかにすれば人生を豊かに生きる作品に出会えるか。
この小著の先には何が待っているのだろうか。楽しみにその時を待ちたい。




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巨匠の重み:レンブラントをめぐって

2021年03月30日 | 書棚の片隅から


Rembrandt The Complete Paintings: 350 Years Anniversary Edition, Edited by Volker Manuth, TASCHEN, 2019/09/22, 743 pages  cover


最近はIT技術の進歩で、世界の美術館などが所蔵する絵画や彫刻作品でもweb上で、かなり鮮明に見ることができる。しかし、作品の大きさ、画材や紙質など実際に展示されている実物を見ないと分からないことも多々ある。さらに、個々の作品の鑑賞、展覧会図録、美術研究書など、どうしても印刷物として手元に置いてゆっくり確認したり、解説を読んだりしたいものも多い。

最近折に触れ眺めている美術書の1冊に、17世紀オランダの巨匠レンブラントRembrandt Harmensz. van Rijn (1606–~1669)の没後350年を記念して編纂、発行された絵画の全作品図録がある。レンブラントの絵画作品330点全てを収録した圧倒される一冊である。圧倒されるのはレンブラントという稀有で偉大な画家が残した成果にとどまらない。作品の世界を伝える媒介としての書籍というメディアに投入された凄まじいばかりの努力である。印刷、製本という技術が到達した最前線がいかんなく具体化されている。

17世紀オランダ絵画の黄金時代は多数の素晴らしい画家を生んだが、レンブラントは図抜けて傑出した存在である。この画家は外国へ行ったことはなかったが、多くの絵画ジャンルにわたって、きわめて影響力のある芸術作品を残した。とりわけ、肖像画はユニークであり、突出している。光と影と線影の醸し出す絶妙な表現は、比類がない。技法については油彩画とエッチングは抜群に素晴らしい。しかし、今日その作品は世界中に分散し、全てを見ることは研究者であってもほとんど不可能に近い。ましてや時間の制限なく、鑑賞することなどとても考えがたい。

そのため、こうした出版物は画家とその作品を愛する人にとっては得難い一冊でもある。印刷、製本技術の驚くべき進歩によって、膨大な作品とその解説、研究成果までがXXLな一冊に収められている。

筆者が専門としてきたのは経済学の一分野だが、半世紀近く17世紀の美術や文化にもかなりのめり込んできた。とりわけ、大学教育と経営の責任を負った時期から、若い人たちが今後の複雑多岐な世界で生きてゆく上で、リベラルアーツ教育の必要性を痛感してから、文学、美術、音楽などの文化的領域への関心が深まった。いつのまにか、身辺に画集など美術書などが累積するようになった。コンクリートを打った別棟の移動書庫はとうに満杯となり、床暖房のある仕事部屋にまで進出し、床が耐えられるか心配な状況だ。

ふと気がついたのは、経済関係の書籍と比較して、美術書は形状も大きく、重量もかなり重いものが多いということだった。経済学関係の書籍では、筆者の周囲にある限り、さしずめ辞典類ぐらいが最大のものである。一冊の重さはさほど驚くものではない。

他方、
美術書の重量についてブログにも記したことはあるが、最近のいくつかの書籍を見ていて、よくもこれだけの印刷物にまで仕立て上げたという思いがする。とりわけ、ここに取り上げるレンブラントの図録は圧巻である。

最初に驚くことはその重量だ。正確に秤量したわけではないが、30kgくらいあるかもしれない。足にでも落としたら、ほとんど間違いなく、大変な負傷となる。
床から机上に移すだけでも一苦労する。膝の上に乗せてページを繰るなど、とてもできない。


実際の重さはこうした画像ではとても実感できない。

収録された708点の描画作品は今回初めてと言われる抜群の色彩再生で、314点のエッチングは純粋な線画再生技術で、印刷、収録されている。これらを全て目にすることでレンブラントという画家の類い稀なる鋭い観察眼、巧みな手技、感性の深さを目前にすることができる。レンブラントが単なる画家という域を越えた稀有な人間であることを知らされる。『ベルシャザルの饗宴』(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵、1635年)から『テュルプ博士の解剖学講義』(マウリッツハイス美術館蔵、1632年)まで、一貫してほぼ全ての作品を体系的に一望できる。

実物と印刷との間の微妙な違いなどへの多少の注文などは、霧散してしまう印刷・製本技術の粋が投入されている。現代の技術をもってすれば、ここまでできるという自負を誇示するかのようだ。それには敬意をもって感嘆するが、利用者の観点からすれば、箱入り2分冊などの選択肢は無かったのだろうかと思ったりする。閲覧するには、丈夫で大きなテーブル上に置いて広げるしかない。

もしかすると、こうした壮大な試みは、書籍として最後の到達点に達しているのかもしれない。急速に発達している電子メディアがとってかわる日が近づいている。紙の書籍というメディアが到達した金字塔ともいえるかもしれない。いずれにせよ、レンブラントを愛する人にとっては言葉に尽くせない圧倒的に素晴らしい一冊である。


Rembrandt The Complete Paintings: 350 Years Anniversary Edition, Edited by Volker Manuth, TASCHEN, 2019/09/22, 743 pages



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長編を凌ぐ短編:『レンブラントの帽子』

2021年01月24日 | 書棚の片隅から


このところ偶然なのか、レンブラントについての小さな記事をいくつか目にした。そのひとつはこの大画家の大作『夜警』についての後世の加筆をめぐる真贋鑑定の問題、もうひとつは、『レンブラントの身震い』The Creativity Code(邦訳)と題されたAIの可能性に関する英国の数学者マーカス・デュ・ソートイの著作だ。それらについてここでは触れることはしない。

連想で思い出したのが、レンブラントを題材としたアメリカの小説家バーナード・マラマッド(1914-1986)の短編だった。画家の描いた帽子については、このブログでもジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「召使いの黄色の帽子」、フェルメールの『若い士官の帽子』などを記事として書いたことがある。

Bernard Malamud, Rembrandt’s Hat, New York: Farrar, Straus & Giroux
バーナード・マラマッド(小島信夫・浜本武雄・井上謙治訳『レンブラントの帽子』、集英社、1975年;夏葉社、2010年) 
本書には「レンブラントの帽子」の他、「引き出しの中の人間」、「わが子に殺される」の2篇の他、「注解」、「レンブラントの帽子について」(荒川洋治解説)が収録されている。


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NB
マラマッドはソール・ベローやフィリップ・ロスと並び、20世紀、同時代のユダヤ人作家である。この小説家を知ったのは、筆者が大学院生だった頃出会ったユダヤ人の英文学者との交友を通じてであった。文学専攻ではない筆者にとっては、当時は単にそうした作家と作品があることを知っただけで、読む時間もなく、いずれ来るかもしれない余暇のために記憶されただけだった。長らくカリフォルニアの有名カレッジで教鞭をとっていたこの友人は、大変優れた文学者で交流を通して多くを学んだが、とりわけアメリカ社会におけるユダヤ系の置かれた特別な位置について、知らされたことが多かった。知性の点でも大変優れた人たちであったが、社会における少数派という特徴を守るために、血縁者の関係が強く保たれ、教育に極めて熱心だった。教育こそが自らの社会的少数派という劣位を挽回しうる最重要な要因と考えられていた。彼らの生活態度、思考様式をみていると、マラマッドの作品内容と重なることが多々あることに気付かされた。

マラマッドについては、その後かなりの年月が経過した時、多少時間が出来た折に、いくつかの作品を読んだ。この作家は慎重な制作態度で、多作ではなかった。今に残るのは小説8編、短編小説54編といわれている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今回、手にした『レンブラントの帽子』は実は以前に読んだことがあった。今回、たまたま手元に残っていた邦訳を目にしたので、再度読んでみることにした。最初に表題を見た時に思い浮かべたのは、レンブラントの多数の自画像の中で、画家がかぶっているかなりフォーマルな広いつばのあるフォーマルな感じの帽子だった。この短編で想定されている白い帽子ではなかった。





ストーリーは簡単といえば、実にその通りだ。同じ大学に勤めるルービンという彫刻家と彼より一回り若い34歳の独身男で美術史を担当するアーキンという男の間に起きた小さな行き違い、いざこざがテーマだ。大学の教員や芸術家と言われる人間に、ともすれば見かける神経質で、偏狭な性格の男の間で起きた小さな問題だが、二人にとっては始終頭から離れないような大きな問題の顛末である。

これまで、二人の関係は仲が良いとはいえるが、友人というほどの間柄ではなかった。ある出来事をきっかけに二人の関係に波風が立つ。ある日ルービンが被っていた白い妙な帽子に、アーキンが「レンブラントの帽子そっくりですよ」と、美術史家としての蓄積の一端を口にしたことから始まった。

聞き流してしまえば、どうということのない日常の挨拶のような話なのだが、ルービンがなんと思ったか、やや厳しく受け取ったことで、二人の関係は、一転冷え込み、深刻なものとなった。この発言の後、二人の関係は両者の人格をかけたような重みを持つようになる。アーキンもなにかまずいことを言ってしまったかと、レンブラントの作品に描かれた帽子を再度調べてみると、どうも間違ったことを言ってしまったような思いがしてきていた。それにしても、どうしてこんなにこじれてしまったのか。ストーリーは主としてアーキンの思考を軸に、両者の微妙な感情的変化を描くことで展開する。

結末は思いがけない形でやってきた。(読まれる方の興をそがないようこれ以上は記さない。)

彼は白い帽子をかぶっていた。レンブラントの帽子に似ているように思えた、あの帽子だった。それをルービンは、あたかも挫折と希望の王冠のごとくかぶっていた。」(小島他訳、pp.28-29)

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再読して感じたのは、まさに短編のために熟慮を積み重ねられたプロットであるということだ。他愛のない話といえば、それで終わってしまうかもしれない。

小説家にとって短編はさまざまな意味を持つ。ほとんど短編しか書かない小説家もいる。短編は中編、長編の間のつなぎのような位置付けとするような作家もいる。さらに短編は中編・長編のいわば素描のようなエネルギーの投入で書かれていることもある。短編に作家としてのエネルギーのほとんどを費やす小説家もいる。ヘミングウエイなどは、短編であっても最初から短編を意図したわけではなく、結果として短編になったのではないかと思われる。

イギリスの小説家アンソニー・バージェスがマラマッドについて評したと伝えられる『アメリカのユダヤ人であることを忘れることがなく、アメリカの都市社会でユダヤ人であるという立場を採るときに最良である』との感想を改めて思い出した。この話の中には、大きく広がる社会性などは感じられない。しかし、限定された領域の中で、微妙に揺れ動く人間の感情が、質を低下させることなく、凝縮して描かれていると感じた。アメリカ文学の中で主流とはいえないが、自ら定めた確たる位置を守り抜いている作家だ。


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近未来への予知能力を高める:クリストファー・イシャウッドの小説

2021年01月08日 | 書棚の片隅から


クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年


クリストファー・ウイリアム・ブラッドショー=イシャウッド(1904-1986)、この名前を知っている人はどれだけいるだろう。英文学史上では、第一級の小説家とは評価されていないかもしれない。没後20年近く経過し、作家のメモワールや800ページを越える大部の伝記*1は残るものの決して同時代のサマーセット・モームやトーマス・マンなどに比肩しうるとは思えない。しかし、ブログ筆者には心の底でどこかつながっている人物、小説家である。時々、記憶の奥底から浮かび上がってくる。そして、まだ自分も生まれてはいなかったが、あの時代、ナチス台頭直前のベルリン、不安な時代のイメージが頭をよぎる。

新型コロナウイルスの感染が世界的規模へと拡大した昨年、2020年、行きつけの書店の新刊書の棚で偶然出会った1冊がある*2。はるか昔に読んだ小説やそれを基に生まれたミュージカル 『キャバレー』Cabaret を見ていたことが脳細胞に残っていたのだ。自由な外出もままならず、社会全体が重い空気に覆われている時、歴史の追体験を期待して久しぶりに再度読んでみようかと手に取った。以前は英語だったが、今回は邦訳を選んだ。幸い達意の訳文であり、滞ることなく読み終えた。ちなみに訳者はD.H.ロレンス『チャタレー夫人の恋人』(光文社古典新訳文庫)、サマーセット・モーム『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』(木村政則訳) 光文社古典新訳文庫)なども手がけられている。


*1 ISHERWOOD A Life Revealed, By Peter Parker, Illustrated, Random House, 2004, 815 pp


Christiopher and His Kind by Christopher Isherwood, Sylvester & Orphanos, n.a. 
イシャウッド自身によるメモワール

*2 クリストファー・イシャウッド(木村政則訳)『いかさま師ノリス』白水社、2020年

作家になるまで
イシャウッドは1904年、イングランド北西部チェシャーで生まれた。ケンブリッジ大学やロンドン、キングズ・コレッジなどに入学するが、いずれも短期間で退学し、幼馴染の詩人W・H・オーデンの示唆を得て、1929年ベルリンへ移った。

この時代のベルリンは芸術・文化の花咲くヨーロッパ屈指の都市であったが、同時に裏面においてはあらゆる歓楽、退廃の文化が繰り広げられていることでも知られた悪徳、快楽そして犯罪に満ちた都市でもあった。イシャウッド自身も積極的にこの世界へ入り込んでいる。当時は社会的に認知されなかった同性愛者であることを特に秘匿していた訳ではなかった。大学を卒業していなかったが、後世の評価からすれば知識階層に属し、思想的には左翼であった。作家、劇作家、詩人などのグループに含まれ、作品はその経験に裏付けられたものである。

イシャウッドは自ら進んでベルリンの怪しげで不安な世界に没入するとともに、映画や文筆業にも積極的に手を染め、脚本や自伝的小説などで作家としての名声も獲得した。1939年に発表された”Goodbye to Berlin”『さらばベルリン』は、本書 “Mr. Norris Changes Trains”『いかさま師ノリス』(1935)の後に刊行された短編集である。これらの作品は後年 Berlin Stories という形で編集されている(ちなみに筆者はこれを読んでいた)。

ここに取り上げる『いかさま師ノリス』も、作家のベルリン時代の体験を背景にしたひとつのフィクションである。しかし、虚構は当時の時代環境を鋭く反映している。衰亡の色が日々強まるワイマール共和国の黄昏とナチスの台頭する1930年代初期のベルリンを描いた作品である。イシャウッド (イギリス人だが1946年アメリカに帰化) が自ら過ごしたベルリンでの生活(1929-33年)に基づいている*3

*3 イシャウッドが1929-1939年に住んだベルリン、シェーネベルグ 地区の家には記念銘版が残されている。

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時代背景
ナチス台頭前夜:ワイマール文化の黄昏
この小説の展開する舞台は、1930年末から1933年前半は、ドイツが共和制を採用していた時代の末期に当たり、しばしば「ワイマール共和国」と称される時代である。1919年6月、ドイツはヴェルサイユ条約を承認するが、その内容は海外領土放棄、軍備制限、異常に多額な賠償金を伴う報復的な内容を伴うもので、結果として国民の間に政府に対する不満を生み、ナチス台頭の要因となった。7月にはワイマール憲法が採択され、翌8月には公布された。
「ワイマール共和制」の下ではその理想とは離れて、民主主義が十分根付かなかった。さらに1929年には世界恐慌が始まり、ドイツ国内には深刻な社会的不安が引き起こされた。

この中で、「共産党」(1918年結成)と「国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)」(1919年「ドイツ労働者党」として結成 )の左右両勢力が激しく対立しながら、拡大していった。共産党は元来ドイツ労働党という極小政党に過ぎなかったが、1920年には党名を改め、21年にはヒトラーが党首となってから、急速に成長していった。1933年にはヒトラーが首相に就任、2月には国会議事堂放火事件が発生したが、ヒトラーの提言を受けて、緊急大統領令が発令され、共産党の非合法化など他政党の勢力が極度に抑圧された。3月にはヒトラーは全権委任法を定め、事実上ワイマール憲法は効力を失い、名実ともにワイマール共和国は消滅した。1934年にヒンデンブルグが他界したのを契機に、ヒトラーは総統の地位に就き、独裁者の地位を確保した。
Reference; イシャウッド(邦訳)
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『いかさま師ノリス』は熟達した訳文、そして読者に親切な年表などにも助けられて、読み進む上で支障はない。ストーリー自体は喜劇的、コメディ調であり、テンポの良い展開に押されて読み進んでしまう。しかし、次第に世馴れない主人公ウイリアムとともに、自分も切迫した恐るべき状況へ取り込まれてゆく感じが強まっていくことを感じる。青年ウイリアム・ブラッドショーは、イシャウッドの小説における身代わりの役割を負っているようだ。

作品ではウイリアムが冒頭から登場する。外国生活に憧れ、英語を教えて生計を立てている。ウイリアムはオランダからドイツへの列車の旅で乗り合わせたノリス氏という一見していかがわしいイギリス人中年男と時間潰しの会話をする。見るからに信頼し難い男なのだが、巧みに相手を話に取り込んでしまう能力がある。ウイリアムはノリスのそうした怪しさに半ば気づきながらも、単に列車でのいっときの相手にとどまらず、その後の日々で付き合うことになる。

ノリスはベルリンの影の社会に深く身を置き、この出会いの後、巧みにウイリアムを自らのいかがわしい暗黒な世界へと引き込んでゆく。次々と喜劇的な場面が登場する傍ら、怪しげでスパイ的なストーリーが絶え間なく展開する。

小説ではありながら、作者自らが刻々と迫る危機の時代に身を置いていることが、喜劇的描写を超えて来るべき破滅的な事態への突入を読者に感じさせる。ナチス台頭前夜の恐るべき日々が描かれている。次々と喜劇的なプロット展開を提示しながらも、次第に高まる説明しがたい恐怖の増加を感じさせる。

邦訳についてひとつ残念に思うのは表題にある。『いかさま師ノリス』ではノリスが最初からいかさまを働く人物であることが読者に刷り込まれてしまう。この作品で、列車の意味するところは大きい。原著はMr Norris Changes Trains であり、次々と相手や場所を変えながら、ノリスが次第に深みへとはまってゆく過程が重要なのだから。列車は最後まで重要な舞台装置となっている。タイトル Mr Norris Changes trains(仮訳『ノリスは列車を乗り換える』)は文字通りこの作品のテーマを暗示している。

おりしも、世界は新型コロナウイルスという見えざる脅威に翻弄されている。現代のように技術が高度に発達した社会においてもその世界的次元への感染拡大を予測することはできなかった。近未来の社会への感知能力を研ぎ澄ます上で、文学がノン・フィクションを凌ぐ可能性を持つことに注目したい。
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「くるみ割り人形」の舞台裏

2020年12月24日 | 書棚の片隅から


E.T.A. Hoffmann, Nutcracker, Pictured  by Maurice Sendak, London: THE BODLEY HEAD, 1984, pp.102

新型コロナウイルスの猛威に押し潰されそうな世界。多くの国で人々は外出も制限され、クリスマス・シーズンも家庭で静かに過ごすことを余儀なくされている。例年、どこからか聞こえてくる「第9」もほとんど聞こえず、全体に静かな年末だ。クリスマスで例年は賑やかなシーズンだが、外出するすることも適わないということになる。することも限られてくる

偶々、海外ラジオ番組を聴くともなしに聴いていると、チャイコフスキーのバレエ組曲『くるみ割り人形』が響いてきた。クリスマス・シーズンの西欧諸国では「第9」よりも「くるみ割り人形」の方がポピュラーだ。

バレエ音楽なので、華やかで心も多少は軽くなる。チャイコフスキーの3大バレエ『白鳥の湖』『眠りの森の美女』『くるみ割り人形』は、いずれもこのシーズンに聴いていて楽しい。

『くるみ割り人形』の組曲を聴いている間に、一冊の絵本のことを思い出した。断捨離した記憶はないので、例のごとく、どこかにあるはずと未整理の書籍の山を崩し始めた。幸い比較的大型の本であったので、なんとかみつかった。チャイコフスキーは何を手がかりにこのバレエ音楽を作曲したのだろうか。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜
NB
*1 
くるみ割り人形は日本人にとってすぐに思い浮かぶものではない。元来ドイツの伝統工芸品で、テューリンゲン州ゾンネンベルク、エルツ山地のザイフェン村など、山間部の地域の特産品として知られてきた。木製の直立した人形で、顎の部分を開閉させて胡桃を噛ませ、背中のレバーを押し下げて殻を割る仕組みになっている。しかし、日本の胡桃は殻が硬く、この人形では割れない。



※2 
実は作曲家ピヨトル・チャイコフスキーは、童話作家ホフマン (E.T.A. Hoffmann )が1816年に書いた童話『くるみわり人形とねずみの王様』Nusknacker und Mausekonig を思い浮かべ、作曲の発想をしたようだ(ホフマンのこの著作には複数の邦訳もある)。ホフマン版はストーリーの展開が、夢と現実の区別があいまいで想像力を掻き立てられるとの評があるが、かなり難解のようだ。ブログ筆者はホフマン版を読んだことはない。チャイコフスキーが直接参考にしてしたのはホフマンの原作ではなく、アレクサンドル・デュマによるフランス語版小説(小倉重夫訳「くるみ割り人形」東京音楽社、1991年)とされている。さらに、チャイコフスキー作曲、プティパの振り付けで成功を収めた『眠れる盛りの美女』(1890年)の次作として、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場の支配人であったイワン・フセヴォロシスキーが構想し、チャイコフスキーに再度作曲を依頼したものであった。
チャイコフスキーが作曲したのはバレエ音楽であり、演奏時間は短く約1時間半(作品番号71)くらい。バレエ組曲ならば約23分である。

初演は1892年12月18日、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場だった。

当初はあまり人気が出なかったが次第に盛り返し、チャイコフスキーの主要作品のひとつとなった。バレエばかりでなく、多くのアニメ、映画、音楽作品が生まれている。

余談ながら「外出自粛の夜に オーケストラ孤独のアンサンブル」(NHK BS 2020/12/30)でも「花のワルツ」を演奏している奏者もいましたよ。

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さて、このブログ記事で取り上げている絵本は、ホフマンの作品をモーリス・センダック Maurice Sendack が児童向け絵本として描いたものだ。ストーリーも挿絵もなかなか面白い。しかし、英語は1800年代のもので、それほど容易ではない。センダックは2012年に没した。

ストーリー自体は、子供向けとのことだが、(子供の心を持った)大人が読んでも結構面白い。話しはクリスマス・イヴから始まっている。音楽を聴いている人でも、ストーリーを知る人は不思議と少ない。しばし、コロナ禍を忘れ、音楽を聞き、メルヘンの世界に浸るには格好の一冊といえる。







Contents
INTRODUCTION
CHRISTMAS EVE
THE PRESENTS
MARIE'S FAVORITE
STRANGE HAPPENINGS
THE BATTLE
MARIE'S ILLNESS
THE STORY OF THE HARD NUT
THE STORY OF THE HARD NUT CONTINUED
THE STORY OF THE HARD NUT CONCLUDED
UNCLE AND NEPHEW
VICTORY
THE LAND OF DOLLS
THE CAPITAL
CONCLUSION
ACKNOWLEDGEMENTS
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繁栄の意味を考える:黄金時代のオランダ文化

2020年12月14日 | 書棚の片隅から


Simon Schama, The Embarrassment of riches: An Interpretation of Dutch Culture in the Golden Age, Vintage Books, New York: NY., 1987, 698pp.
サイモン・シャーマ『富の恥ずかしさ:黄金時代のオランダ文化の解釈』
ニューヨーク:ヴィンテージ・ブックス、1987年、698ページ 表紙


Original: Jan Steen, The Burgher of Delft and his Daughter, 1655, "Private collection, United Kingdom"

“Let those who have abundance that they are surrounded with thorns, and let them take great care not to be pricked by them.”
John Calvin
Commentary on Genesis
13:5・7
(上掲書引用)

初めから終わりまでコロナに翻弄された一年となったが、終息の先はまだ見えない。他方、人生の終幕までにしておきたいことも少なからず残っている。

このブログを開設した動機のひとつとなった17世紀ヨーロッパ美術への好奇心は依然強く、もう少し追いかけてみたいことがある。

いくつかの関心事がある。唐突に聞こえるかもしれないが、そのひとつは、この時代、ヨーロッパの中心的存在であったオランダの評価である。スペインやポルトガル、フランスなどをしのいで繁栄を誇った。繁栄を享受、牽引する中心地は時代とともに変化する。

17世紀オランダはしばしば黄金時代と呼ばれるが、見方によると、ヨーロッパという「困窮の海に浮かぶ小さな繁栄する島」のような存在だった。多くの旅行者などが驚いたように、市民の住宅は小綺麗に飾られ、衣服、食べ物なども豊かであった。美術、科学、建築、印刷などの領域で優れた成果が目立った。

17世紀半ばまでにアムステルダムは、ローマのサンピエトロ寺院、スペインのエスコリアル宮殿、ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿だけが規模や壮大さでそれに匹敵するほどの大きさの新しい市庁舎を建設した。富、力、文明の高水準を達成した象徴ともいうべき建物である。



Gerrit van Berckheyde, The Dam wuth the Town Hall, Amsterdam, Rijksmuseum

人口200万未満の三角州に、膨大な富が吸い込まれていった。地理学的には決して恵まれた場所ではない。そこで膨大な富と繁栄を生み出したものはなにだったのだろうか。富を追い求めること,そして富んでいること自体は恥ずかしいこと、当惑することではないのか。サイモン・シャーマ(ハーヴァード大学歴史学教授)が、本書で掲げるこの問は、現代にも通じるテーマでもある。刊行された当時、一度通して読んだことがあったが、その後は辞書のようにほとんど10年近く、机の上に置かれ、折りに触れ開かれてきた。

本書が目指したものは、17世紀黄金時代といわれるこの時期のオランダの政治経済的地位と文化の解釈である。シャーマの学問的蓄積、学殖の豊かさが十分に発揮された作品に仕上がっているといえる。圧倒的な視野の広さとバランス感覚に驚かされる。この時代のオランダ絵画というと、フェルメールばかり思い浮かぶ人があるかもしれないが、それがいかに偏っているかが分かる。それほどにこの時代の美術の広がりは多岐にわたる。本書でも美術史の範疇に入る叙述は多いが、シャーマは独学であるという。

上記の問に答える形で、シャーマはこうした膨大な資料的蓄積の上にこの作品を完成したが、通常の歴史書という範疇には入り難い。むしろ、ヨハン・ホイジンガが試みた「17世紀のオランダ文明」の遺産に関する図像的スケッチに近い。それでも、彼の壮大な研究は、オランダあるいは芸術の歴史の領域をはるかに超えている。

魅力的なパノラマ
17世紀以来、今日に継承されているオランダの宗教的規律、道徳と家庭経済の関係の探索は本書を貫くテーマである。オランダの富とその誇示的消費はシャーマの関心事であり、厳格なカルヴァン主義がもたらす抑制とこの国に生まれた富をいかに考えるかというテーマが追求されている。


Jan Steen, Saying Grace: National Gallery, London
Quoted from Scharma p.485
ヤン・スティーン 『食前の祈り』

シャーマがスポットライトを当てた点は数多い。普通のオランダ人の日常生活、飲食、衣服、個人的な持ち物、愛、礼儀などローカルな慣行、社会的問題、銀行や株式取引、家族、とりわけ子供の存在、など多彩にわたる。



Pinter Claesz., Still Life with Herring, Roemer, and Stone Jug. Boston Museum of Fine Arts, Quoted from Scharma p.160 
ピンター・クラエズ『鰊のある静物画』

それらは、多かれ少なかれ統一されたカルヴァン主義の社会における道徳的文脈の中で取り上げられ、論じられている。個々の解釈は多岐多彩にわたるが、シャーマは強制はしていない。いかなる対象も反対解釈は可能であり、その余地は残されている。

シャーマはマックス・ウエーバーの資本主義とカルヴィニズムの関係の解釈をかなり改めるとともに、黄金時代の新たな文化的解釈を提示している。オランダ人の自己認識は、神の選民に相当し、旧約聖書のイスラエルのように位置づけている。興味深いのは、地理的版図としては小国の部類に入りながらも、そこに展開する領域の振幅の大きさである。宗教的基盤という意味でも、カルヴィニズムにとどまらない。オランダのほぼ中央部に位置す 
ユトレヒトには14世紀以来の塔が残るが、カトリックの流れは、イタリアから戻った北方カラヴァジェスティの作品画風とともに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールなどに独自の影響力を発揮した。

スペインそして自然との戦い
試練(または信仰の試練)の後には、贖いと繁栄(恵みのしるしとして)が続いた。それは彼らの叙事詩であり、カルヴァン主義の「道徳的地理」(シャーマの言葉)の賜物であった。新しいカナンに入ったイスラエルの生まれ変わった子供たちでもある。試練(または信仰の試練)の後には、贖いが続く。

オランダの道徳的地理は、絶え間ない恐れと警戒を要求した。自由と水防(水力工学)は密接に関係していた。時々、堤防はスペイン人に対して(1574年ライデンの包囲)または100年後にルイ14世の前進する軍隊に対抗するものだった。時々、堤防は外圧に耐えきれず崩壊し、土地を氾濫させた。1726年と1728年の壊滅的な洪水は、ソドムの兆候と解釈された。1731年までに、北海沿いの巨大な堤防が崩壊した。

貧しい人々、病気の人々、孤児、不自由な人々、ハンセン病患者、老人、弱者のための慈善団体が国民を支えた。オランダの社会福祉は、世界の他の多くの地域の羨望の的となった。

オランダ人はとりたてて好戦的ではない。19世紀まで、この国には騎馬像はなかった。しかも、彼らは最も非典型的である。英雄的な記念碑は単にオランダ人ではありません。地元の民兵グループは、ハールレムのフランス・ハルスによる有名なシリーズのように最も華やかなものでさえ、実際には「武装した民間人」のグループの肖像画だ。

スピッツベルゲン島からタスマニア、ニュージーランドまで、オランダ人は常に素晴らしい旅行者だったが、海外に定住したいという衝動を感じた人は比較的少数だった。ニューヨーク、とりわけマンハッタン島はニュー・アムステルダム Nieuwe Amsterdamといわれたが、そこに住んだのはジョークの的にされるようにアメリカ人だった。

サイモン・シャーマは、彼の縦横に描かれた本「富むことの恥ずかしさ」に込められた芸術的な富について恥じることはないだろう。この大著に掲載された幾多の文化遺産の絵画、写真は飽きることがない。惜しむらくはカラーではないことだ(このブログではカラーで掲載した)。

いかなる斬新な試みも逃れがたいが、この大著にも批判がないわけではない。たとえば、本書はオランダ共和国についての恣意的、選択的歴史であり、重要な歴史的視点が欠けているともいわれる。とりわけ、オランダの植民地活動の多くが捨象されており、スペイン、ポルトガルを上回る奴隷貿易のもたらしたものをほぼ無視しているという指摘である。確かに奴隷貿易、そして東インド会社の活動の側面は、ほとんど登場してこない。

しかし、この大著は通常の歴史書とは言い難く、オランダ文化の華麗な集積とその側面としての富の具体像についての華麗な展示ともいうべき存在に思える。698ページという大著であり、一見手に取ることをためらわせるが、興味を惹く分野から読むことも可能であり、新型コロナウイルスが強いる閉塞感を忘れさせる楽しさを深く秘めている。



Judith Leyster, "Yellow-Red of Leiden! from Tulip Book, Frans Hals Museum, Haarlem



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ゲームセンターのマルクス:デジタル資本主義のひと駒

2020年12月09日 | 書棚の片隅から


Jamie Woodcock, MARX at the Arcade: Consoles, Conttrollers, and Class Struggle: Consoles, Controllers, and Class Struggle, Hay MarketBooks, Chicago, Illinois, 2019
ジャミー・ウッドコック『ゲームセンターのマルクス: コンソール、コントローラー、階級闘争』(邦訳なし)


現代資本主義のプラットフォーム(舞台)が急速にデジタル社会へと変化しつつある。産業革命以降、資本主義の中枢部分を構成する産業は段階を追って変化してきたが、いまその中軸はデジタル化という次元へと移っている。

ビジネスや教育の場でのオンライン化は、予想を上回る規模と速度で展開している。新型コロナウイルスの感染拡大はその動きを加速化している。在宅勤務、テレワークやオンライン教育など、当初の予想を超えて浸透した動きもある。他方、コロナ禍拡大の前から見られた変化だが、労働環境の劣悪化が憂慮されている動きもある。

年末、アメリカ人の友人とのやりとりの中で、現代の労働に関するいくつかの本が話題となった。その中から興味深い1冊(上掲)を紹介してみよう。

『ゲームセンターのマルクス』
意表をつくテーマだが、ビデオゲーム産業をマルクス経済学の視点から分析を試みた作品である。マルクスもエンゲルスも現代のビデオゲームとはまったく関係ない。彼らが生きていた時代には存在もしなかった産業である。しかし、著者のウッドコックはマルキストの経済学者として、本書でれらを結びつけようと試みた。

著者はオックスフォード大学のインターネット研究所に所属するリサーチャーだが、これまでにもイギリスのコールセンターで働く労働組合組織化などの研究で知られてきた。マルクス主義の立場からビデオゲーム産業とそこに働く人々を分析することを目指した著作である。


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ビデオゲーム*(Video game)とは、英語圏における「据え置き・携帯機(コンソール)ゲーム、テレビゲーム」「アーケードゲーム」「PCゲーム」などの総称である。「テレビゲーム」に限定される言葉ではない。
DFC Intelligenceの調査によると、2020年半ばの時点で*ビデオゲーム*の消費者数が約31億人に上っていたことが明らかになった。 全世界の人口*は約80億人なので、人口の約40%がなにかしらのビデオゲーム*をプレイしていることになる。 このうち最も急増しているのは、スマートフォンだけでゲームをする層である。本書で主として取り上げられているのはアメリカだが、アメリカ、イギリス、日本などでも実態は近似している。日本については、下掲の分析などを参照されたい

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最初にビデオゲームが世に出たのは1940年代だった。現実に退屈した技術者たちは、コンピュータの上でゲームをすることに夢中になってきた。結果としてビデオゲームは急速に世界中へ広がった。Forbes誌からの引用として、今日ではPOKEMON GOの遊戯人口のおよそ69%は、仕事中に遊んでいるという。新しいゲームは、しばしば2億人のスマホ画面に登場している。アメリカではエンターテインメントに費やす金額の51%はビデオゲームだとも言われている。音楽産業への支出の3倍近い。気づかないうちにビデオゲームはグローバル文化で大きな領域を占有している。

本書は2部に分かれる。I 部:Making Videogames 歴史、産業の実態、II部:Playing Videogames: ゲームである。産業の実態がもっとも面白いと感じたので、その部分を少し紹介しよう。目次は下掲。


現実に飽きて
ゲーム産業は現実の世界のアイロニーだ。ビデオゲームがまだ初期の段階だった頃、ゲームの開発者たちは「働くことや、規律、生産性向上などが嫌いな」連中だった。時間表に合わせての生活も嫌いで、レジャーと快楽主義に耽っていた。反体制的な若者も増えた。

彼らがプレイするゲームもきわめてイデオロギー化し、政治的な方向性を含むものとなる。有名なゲーム「モノポリー」Monopoly も最初の億万長者の地位に「技能」と「幸運」で到達することを目指す形から、「私的財産」が手段に含まれ、さらに「階級闘争」、「社会主義」(労働者が勝つ!)、「Barbarism 」(The Capitalist Win!)など、現実の世界に近づけ、政治的思想を盛り込んだものも現れるようになった。

資本主義を律するルールも時代とともに変わった。ビデオゲーム産業で働く人は、仕事の内容を公表しない協定 NDA: Nondisclosure agreement にサインすることなしには、雇用主は採用面接に応じない。労働者側から提示される情報は少ない。はっきりしていることは、無権利の苦汗労働への後戻りなのだ。何千という企業がゲームを開発している。そして彼らは全てひとつのプレイブックに従って行動し、労働者は雇われ、仕事をしている。

彼らは当初、まずまず decent と思われる給料でデベロッパーとして雇われるが、その後は手当のようなものもなく、週90時間はフルに働かせられる。その結果、実質給料は半減以下となる。ロイヤリティも仕事の保証もない。こうした厳しい拘束期間(crundh クランチ)が終わり、指定された製品が完成すると、労働者はクビになる。彼らはまた新しい製品の開発計画があると、以前の仕事とは無関係に雇われることになる。

クランチとは、新作ゲームのリリース前に、ときに強制的に行われる過酷な長時間労働。ゲーム産業では広く見られる。

劣悪な労働だが
この産業はレイシズムとセクシズムで満ちている。女性は見下され、15%は低い賃金で雇われる。労働者は製作工程をきわめて狭く区分され、仕事をしているので、自分が作っているゲームには誇りも持てず、出来上がったゲームにクレディットもつかない。最後にいかなる製品になるのかもわからないのだ。労働者の仕事は、フォード・システムの自動車組み立てラインの一部を割り当てられているようだ。最終的にどんな作品の一部となるかも分からない。仕事へのモティベーションなどなく、フラストレーションだけはきわめて高い。

しばしば週100時間を越える長時間労働や残業代の未払い、会社都合の大量レイオフなど、劣悪な労働環境が横行するゲーム産業だが救いはあるだろうか。

実際、これは100年以上前の産業革命当時の仕事の仕方であり、異なるのはそこに新技術が加わっているだけだ。シリコンヴァレーの億万長者が生まれる背景は、現代ではしばしばこうした労働を背景にしてのことなのだ。なんだ! これでは昔と変わりがないではないか。表題にマルクスが出てきたのはこのことか。

歴史は繰り返す
この本にわずかな明かりが見えるとしたら、労働者が自らが対面している問題に気づき、交渉力強化のために組織化を企てていることだ。主要な組合は目もかけないが、ニッチの組合が組織化の方法を教えたりしている。

こうした歴史が繰り返すということはきわめて残念なことだ。解決への方法も代わり映えしないではないか。著者ウッドコックはなにを言いたいのか。

ビデオゲーム、コンピューターゲーム、電子ゲームなどの名前で呼ばれるゲームは、いつの間にか20世紀を構成する資本主義のパラダイム媒体となりつつあった。

ウッドコックの著書は、ビデオゲーム産業において人々が各持ち場でいかにプレイし、生産し、利潤を生み出しているか、そして現代資本主義においてビデオ産業が果たしている役割の拡大を、ラディカルな視点から分析している。一見、表題から判断しかねないキワモノではない。しっかりとした論理と考証で裏付けられている。

ビデオ産業は、現代アメリカでは3240万人がかかわり、推定収益は1084億ドル以上を稼ぎ出すといわれ、映画や音楽をはるかに凌いでいる。しかし、これまで他の形式の芸術や娯楽産業と同様に調査・分析されたことはなかった。さらに、ビデオ産業では、劣悪な労働状態が広く蔓延していた。そのため、労働者のさまざまな抵抗や組織化が行われてきた。著者ジャミー・ウッドコックはマルクス主義の枠組みでアーティスト、ソフトウエア開発者、工場や出荷・配送などの労働者による広大なネットワークが形成されてきた実態を分析した。

ラディカル・アナリストとして知られる著者は現代の若者世代に人気のゲーム産業の隠れた現実に踏み込み、とてつもなく膨大な製品群の中で働く目に見える、あるいは隠れて見えない労働者の流れに注目する。そして、未だ十分には認識されていないこの産業が経済や仕事の世界で果たしつつある役割に注目する。

ギグ・エコノミーの実態は
ここに取り上げたビデオ産業などで急速に拡大している新たな働き方は、「ギグ・エコノミー」といわれるようになったインターネットを活用したフリーランスとしての働き方だ。「ギグ」とは、音楽業界で活躍するアーティストなどにみられる、その場かぎりの単発のライブを指す言葉として使われてきた。それから転じて、インターネットを経由して単発の仕事を受注する働き方、そしてそれに基盤をおいた経済のあり方を「ギグ・エコノミー」と称するようになった。また、こうしたスタイルで働く人達を「ギグ・ワーカー」と呼ぶようになった。

 インターネットの発達は、かつて雇用の主流であった企業に所属して長期的にそこで働くというワークスタイルにも大きな変化をもたらし、今後の労働市場のあり方を決めることになっている。ギグ・エコノミーでは個人のスキルに着目し、企業とフリーランスが単発で仕事を受発注することで成り立っている。ギグ・ワーカーといわれる新たな労働者、そして働き方がどれだけの比率を占めるかは未だ不確定だが、今後の仕事の世界の構図に大きな変化をもたらすことは確実である。

テレワークなどのオンラインの仕事への移行は、予想外に浸透・拡大したが、医療や教育の分野ですでに露呈しているように、行き過ぎてて破綻している部分もある。パンデミックの終息とともに、望ましい状態への復元努力が必要になることは必至と思われる。

コロナ後の仕事の世界、労働市場がいかなる形で再構成されるか。表題にとらわれずに読めば、本書はコロナ後の産業や仕事のあり方についていくつかの重要な論点を提起している。




CONTENTS
Introduction
Part I: Making Videogames
A History of Videogames and Play
The Videogames Industry
The Work of Videogamers
Organizing in the Videogames Industry


Part II: Playing Videogames
Analyzing Culture
First Person Schooters
Role-Playing, simulations, and Strategy
Political Videogames
Online Play
Conclusion: Why Videogames Matter

Reference
柳川範之・桑山上「家庭用ビデオ産業の経済分析ー新しい企業結合の視点=











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真夏の夜の一冊:ブライズヘッドへの旅

2020年08月21日 | 書棚の片隅から



新型コロナウイルスの世界的拡大で始まった今年の夏は、いつもとは大きく異なるものになった。Stay Home とGo to Travel という相矛盾する耳慣れない言葉が行き交う中で、多くの人はいかに夏をすごすべきか、それぞれに戸惑うことになった。

熱中症のことも考えると、やはり家で静かに暮らしているのが安全なようだ。何度繰り返したかわからない整理という名目で、いつとはなく積み重なってしまった紙の山を崩しては、別の山を作るという愚かしいが、多少は疲れた頭脳が活性化する作業をしている。昔読んだが、十分には理解できず「断捨離」の対象には思いきれなかった書物が現れてくる。

『再訪のブライズヘッド』
その一冊、イーヴリン・ウォーの「回想のブライズヘッド」(1945*)が、目についた。この名作、日本では必ずしも広く知られていない。かつて筆者がイギリス、ケンブリッジに客員として滞在していた頃、友人の大学副学長(ダーウイン・コレッジ学寮長)W.Bを含むフェロー3人の話の中で浮上し、読んだことがあった。「20世紀の小説で後世に残るべき作品はなにか」という話題の中で浮かび上がった一冊である。およそ30冊くらいが話題になった。当時話題となっていた『日の名残り』Remains of the Day もそのひとつだった。その他、W.フォークナー、オルダス・ハックスレー、J. スタインベック、E. ヘミングウエー、G.オーウエル、A.カミュ、J. サリンジャーなどが頭に浮かぶ。

WBは昨年秋に急逝し、今年4月にケンブリッジで追悼の会を開催することが予定されていた。それも新型コロナ禍で中止になってしまった。WBはオックスフォード出身だが、ケンブリッジで人生の後半を過ごした。

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N.B.
*Evelyn Waugh, Breideshead Revisited (1945), 1960
イーヴリン・ウォー(小野寺健訳)『回想のブライズヘッド』(岩波書店、2009年)
本書には英語版でもかなり多数の版があ
る。それに伴い、表紙も上掲のようにさまざまで未読の読者には、内容について異なったイメージを与える。ブログ筆者はシンプルなペンギン版(1962)を参考にした。
邦訳も吉田健一訳などがあり、表題も異なる。今回は小野寺健訳(岩波書店、2009年、全2冊)を参考にした。達意の訳者の手になるこの版は上巻終わりに「解説イーウ”リン・ウォーと『回想のブライズヘッド』」が収録されており、構成上はかなり違和感がある。下巻で最期のページに行き着かない前に解説が出てきてしまうのだ。

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梗概については触れないが、画家である主人公チャールズ・ライダーのローマ・カトリックへの回心(conversion)が暗黙裡に一本の糸となって、ストーリーが展開する。話の舞台となるのは、チャールズが学生時代を過ごしたオックスフォード、次いで実家があり、第一次世界大戦後のイギリスの象徴でもあるロンドン、そして主人公の精神的遍歴、回心にとって最重要な土地ブライズヘッドである。ブライズヘッドは架空の地である。学問、友情、純粋、成長などを育んだオックスフォード、欲望、奢侈、背徳、虚栄、堕落、絶望などがうごめくロンドン、贅沢、洗練、崇高、純粋、神秘などに満たされる究極の場としてのブライズヘッドと、人間の人格形成にそれぞれ異なった重みを持つ。
描かれている世界は、あくまでイギリス社会の最上層を占める上流(貴族)階級の内側である。社会を構成する大多数の中下層階級は視野の外にある。しかし、この恵まれた、しかし多くの問題を抱えた一部の人たちに触れないでイギリス社会を理解することはできないのだ。

小説では20世紀の前半におけるイギリス社会の文化的荒廃の中で、上流(貴族)階級の一角を構成する登場人物の精神的遍歴が描かれている。オックスフォードやケンブリッジはイギリス社会の中ではいわば飛び地のような存在であり、外の社会の世俗性とは隔絶された場所である。ブログ筆者もケンブリッジのコレッジに滞在してみて、その秘密主義、独立性、特異性が継承されていることを感じた。古いコレッジではシニア・フェローになれば、外へ出かけなくとも生活にさしつかえない。今ではほとんどのコレッジが男女の区別なく受け入れているが、かつては原則男子だけであった。小説の主要登場人物の一人セバスチャンも、コレッジに多いゲイとして描かれている。これもコレッジの環境では珍しいことではない。

画家を目指す主人公チャールズが抱く絵画は写真より優れているとの考えに、終生の友人となるセバスチャンは魅了される。
夏休み、セバスチャンはチャールズをブライズヘッドのマーチメイン公爵家の大邸宅に招く。そこはセバスチャンの実家であり、カトリックの教義の下、厳格だが贅沢な貴族の暮らしの場であった。二人はそこで関係を深める。他方、チャールズとセバスチャンの妹ジュリアの恋も、政略結婚が支配する中では実ることはなかった。その後、セバスチャンはアル中の上に、心に大きな傷を負い、モロッコへ流れてアヘン中毒者としてほとんど廃人となってしまう。

時は流れて戦争の時代を迎え、チャールズは上級将校として多くの思い出を刻むブライズヘッドを訪れる。かつてセバスチャン、妹のジュリア、そして母であるマーチメイン公爵夫人が住んだ大邸宅の軍事的接収が任務だった。身近かにさまざまな愛や葛藤に明け暮れた人たちの姿はそこにはない。

‘It’s NOT a bad camp, sir’, said Hooper. ‘ A big private house with two or three lakes. You never saw such a thing.’
‘Yes I did.’ I replied word-wearily. ‘I have been here before.’
 I had been there; first with Sebastian more than twenty years before on a cloudless day in June, when the ditches were creamy with meadowsweet and the sentences heavy with nostalgia. 

〜Evelyn Waugh, Brideshead Revisited 〜

カトリックへの回心
ブログ筆者が本書を最初に読んだ時、十分理解できなかった点がかなり残ったが、とりわけチャールズが最期の段階でローマ・カトリックへの遠からぬ入信を思わせる経路であった。その後の知識の獲得で多少理解が進んだと思うこともあった。そのひとつはイーヴリン・ウォーが1930年に英国国教会からカトリックに改宗していた事実だった。なにがこの作家を少数派のカトリックへ導いたのか。

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N.B.
イギリスでは国王ヘンリー8世がローマン・カトリックから離脱し、英国国教会を作って以来、プロテスタントがカトリックよりも優位に位置していた。そのため、英国国教徒(アングリカン)カトリックは少数派であった。この小説でマーチメイン公爵家のような貴族がカトリック教徒であることはきわめて珍しく、ブライズヘッドの家系に深い影を落としている。小説でも宗教間の微妙な駆け引きが理解を深める上で大きな役割を果たしており、微妙な陰影を落としている。
さらに、小説では明示的には扱われないが、オックスフォード・ムーヴメントOxford Movementというひとつの宗教的運動が影響を与えたともいわれている。オックスフォードを舞台とした「教会には国家や国教制度から独立した神から与えられた権威が存在する」という理念に基づき、教会、文学を含む知的活動、文化に一定の影響を与えた。英国国教会の上層の一部がアングロ・カトリック(イングランド・カトリック)につながるという変化が社会の精神的、物価的面に影響を与えたと思われる。この運動は文学のあり方にも大きな影響を与えたとされる。
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コロナ禍、熱中症の嵐が世界を襲う異例な夏、暑さしのぎの断捨離仕事で再会したこの一冊、案の定一筋縄では行かなかった。一行、一節に考えさせられ、行ったり来たりの時を過ごした。一行に作家の深い思いがこめられている。その間、暑さや新型コロナのことは忘れていた。目指した「断捨離」作業は進まず、本は本棚の片隅に戻された。再び出会うことはあるだろうか。









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