時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

二者択一ではない道

2010年04月27日 | 労働の新次元

 このところあるプロジェクトで、現在失職していて求職活動中だが、まだ職に就くことができないでいる人々に、現代の「仕事の世界」に関わる話をしている。参加者の年代は、20代から60代にわたり毎回100人を越える。これまでの社会経験もそれぞれ異なる人たちなので、話のトピックスの選び方がきわめて難しい。雰囲気も毎回異なる。そのため、一般論から初めて、聞き手の反応を待って、次に進むという形にしている。一方通行ではなく、相互に時代の動きを打診し合うような試みだ。

 最近のひとつの話題は、失業している場合には「どんな仕事でもないよりは(言い換えると、失業よりは)よいか」というテーマだ。ここで「どんな仕事でも」というのは、暗に短期で賃金の安い仕事を意味している。これは一般論としても、かなり答えるのが難しい。さまざまな条件が関わるからだ。

 ある調査では、失業者はたとえ一時的な仕事でも、失業しているよりは仕事に就いた方がよいという答を出している。その仕事が低賃金で質の悪い仕事であるとしても、努力して次のより条件の良い仕事へ移行する架け橋の意味を持たせられるという。確かに、履歴書などに空白の期間があると、応募の時にそれを指摘されて不利になるという見方もある。雇用保険給付などの財政負担も軽減するから、失業から脱却するという意味では、好ましいといえるかもしれない。

 他方、これとは異なった考えもある。失業状態から脱却しようと、先のことを考えることなく、目の前に提示された短期の低賃金の仕事に移ると、それが足かせになって、その後の労働条件を制約してしまうという。前に安い賃金の仕事に就いていたのだから、高望みなどしない方がいいという話にもなってしまう。

 デトロイトで、失業して社会保障給付などで生活している人々を労働市場へ引き戻そうと、”Work First” というプログラムが実施されたことがある。それによると、失業状態から一時的な仕事に就いた人々は、その後、就業前の2年間と比較して年収レベルで1000ドル近い低下になったという。他方、がんばって目の前の短期の仕事を選ばず、長期のフルタイムの仕事に就いた人は、仕事の安定性が寄与して、年収レベルで2000ドル上昇したという。

 一時的な(有期の)仕事に就くと、失業期間は短くてすむかもしれないが、雇用が継続することで生まれるポジティブな効果が現れる前に再び失業状態に陥り、仕事探し、精神的にも落ち込みかねない過程に入ってしまう。他方、長期のフルタイムなどの安定した仕事に就くためには、良い仕事が提示されるまでの待ち時間に加えて、新たなスキルの蓄積なども必要であり、再就職できるまでのストレスも大きい。

 求職者の考えもそれぞれの人が置かれた状況で、かなりの振幅で浮動する。景気の上昇期には、転職することが賃金水準の上昇につながるとの考えが有力だった。しかし、今のように不況が長引くと、求職者の考えもひとつの会社にできるだけ長く勤めたい、勤められるような仕事に就きたいという考えに傾いてくる。「上昇志向」よりは「安定志向」ともいうべき考え方だ。過去20年くらいの新卒者などの就職に関する動向調査などをみると、驚くほど振幅がある。

 こうした志向の現れ方には、かなりの個人差もある。その人が置かれている条件で相当異なってくる。いずれか一方が正解という二者択一の道ではない。職業ガイダンスは、応募者が置かれているマクロ・ミクロの状況をしっかりと見極め、適切な方向付けをしなければならない。「仕事の世界」についての深い理解と洞察が求められる。安易な「キャリア教育」と称するプログラムを義務教育段階や高校、大学に導入しても、それが望ましい効果を発揮するか、保証はできない。実際、かなり疑問がある。そして今、「仕事の世界」には地殻の大変動のような変化の兆しが感じられる。ブログではとても扱えない問題だ。しばらく耳を澄まし、その鼓動を探りたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思いがけないロレーヌ

2010年04月21日 | 雑記帳の欄外

ナンシーの町の一情景(Photo:YK) 

 

  毎日大量に届けられる新聞の折り込み広告、いつもはほとんど見ることもない。貴重な資源の浪費と思ってきた。どうしたことか今回は違った。最初に目に触れた折り込みから、いきなり「ロレーヌ」 Lorraine の文字が飛び込んできた。手に取ってみると、あるデパートの「フランスウィーク」と題する催し事の広告だった。キッシュ・ロレーヌ、マカロン、チーズからリュネヴィル窯のプレートも・・・・・・・・。日本の折り込み広告で、リュネヴィルの文字を目にするなど、思いもしなかった。メッスの一つ星レストラン「レクルーズ」のシェフも来日とのこと(アイスランド噴火騒ぎでも?)。フランス・フェチ?の多い日本人だが、ロレーヌ、ましてリュネヴィルがどこに位置するのか、知っている人はきわめて少ない。フランスでもどちらかといえば、地味な地域だ。ロレーヌに少しばかりのめりこんだこの「変なブログ」だが、一瞬目まいがしそうな朝だった。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒風に耐えて

2010年04月20日 | 午後のティールーム
 例年よりも開花が早く、春も早まったかと思っていたいつものチューリップだが、見通しは甘かった。四月半ば、季節外れの記録的な冷え込みが待っていた。文字通り出端をくじかれた感じだ。しかし、半年近くじっと地下で耐えていたフローラは、それにめげることなく、今年も華やかにお出ましになった。花が開いた一角は明るさが増したようだ。新たな力がみなぎる空間が生まれる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若者の大志の行方

2010年04月16日 | 絵のある部屋

 
Frank Brangwyn. Youthful Ambition. 1917, Lithograph on paper 45.5x35.5cn, Groeningemuseum, Bruge



  若者が大志(大きな志)を抱くことは当然だし、望ましいことでもある。大きな志はそれを実現しようとする意欲の充実や努力にもつながる。若い時から「小成」(少しの成功)に安んじることはない。大志を抱けるのは若い人の特権だ。歳を重ねるごとに、現実との軋轢を重ねて、かつての大志も「小志」になってしまうことは世の常のことだ。

 一人の若者が雨に濡れる岸壁に立って、海上はるか沖を見つめている。その視線の先におぼろげに見えるのは、巨大な軍艦だ。その後方にも別の船影が見える。これはなにを主題としたものか。しばらく考えた後、画家が『若者の功名心』 Youthful ambitions と画題を付していることに気づく。きわめてあっさりと描かれたリトグラフだ。制作年次は1911年。次第に画家が考えた主題の輪郭が浮かび上がってきた。

 遠くの沖合に霞む軍艦を眺める少年の姿からは、戦争に大きな期待を抱き、自分もそこで壮大なことを成し遂げたいというような強い野心のごとき思いは感じられない。細身の華奢な身体で、ポケットに手を入れ、自分になにができるだろうかという、ややはかなげな不安と期待のようなものが伝わってくる。

 画家の名はフランク・ブラングィン Sir Frank Brangwyn(1867-1956)というベルギー、ブルージュ生まれのイギリス人である。20世紀前半、油彩画家、版画家、製図家、陶芸家、デザイナーなど、造形美術の広範な分野で活動した。生前はヨーロッパ、そして世界レヴェルでも大変よく知られた芸術家であった。しかし、画家の没後、その名は急速に忘れ去られていった。名前や作品の一部は知っていたが、特別展カタログを読んで、画家への理解はかなり広がった。

 日本との関連もことのほか深い画家であった。上野の国立西洋美術館開館50周年記念事業として『フランク・ブラングィン特別展』が開催された背景の詳細を知った。国立西洋美術館の基礎となった「松方コレクション」の充実に大きな貢献をした人物なのだ。ブラングィンは、松方の依頼を受けて広範な協力をした。造船業経営者の松方幸次郎との深い交友が「松方コレクション」、そして国立西洋美術館の今日につながっている。これらの点については、ここでは記さない。

 この画家についてまったく知らないわけではなかった。以前にかなりの関心を抱いたことがあった。作品のいくつかは、イギリスでしばらく過ごした時にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館などで見たことがあった。ブルージュへ旅した時にもいくつかの作品に接した。

 最大の関心は、ブラングィンが多才な芸術活動の一部で、「労働」というテーマに大きなかなりのエネルギーを割いていたことにあった。この画家は、短期間ウイリアム・モリスに師事した後、本格的な制作活動に入った。

  「労働」の次元では、ブラングィンはトーマス・カーライル、モーリス師などのヴィクトリア朝労働観、イデオロギーを継承し、モリスの影響も受けて、労働(とりわけ男性労働)の持つ英雄的側面、社会への自己犠牲的貢献をテーマとする作品をかなり残していた。広い意味で「働く世界」の探索を続けてきた人生で、かなり関心を惹かれ、いつか暇になったら、この画家について少し詳細に立ち入ってみたいと思ったことがあった。しかし、その時間はなかなか与えられなかった。

 ブラングウィンが「労働」を扱うテーマの対象として描いた人物は、筋骨たくましい男性が多く、同時代で女性が殆どの対象であったロセッティ、レイントンなどの作風とは顕著な対比を見せている。ブラングィンの労働観については、大変興味深い点があり、記してみたいことも多いが、今はその余裕はない。

 カタログによると、ブラングィンは第一次世界大戦中、イギリス情報省からクラウセンなど9人の画家とともに、大戦のさまざまな光景を記録する一人あたり6枚のリトグラフの制作依頼を受けていた。作品は1917年にロンドンの画廊で「大戦:英国の努力と理想」展で公開、販売された。しかし、彼らに求められたことは直接的に戦争を賛美する「戦争画家」ではなく、戦地あるいは後方で起きていることをそれぞれに描出することであった。それが戦争という難事に画家ができる社会貢献と考えられたようだ。

 この依頼にブラングィンは「船乗りを養成する」のテーマで連作を出展し、このリトグラフはその一枚として制作された。この画家が描いた力強い労働者の姿とは、ほど遠い、いまだどこへ行くか定まらないような若者の姿である。日本やドイツにも存在した「戦争画家」の作品イメージとはかなり異なっている。

 ブラングィンが抱いていた労働観は、ヴィクトリア朝の労働観・イデオロギーを継承していた。造船所経営者であった松方幸次郎が好んだ造船所の風景や筋骨逞しい労働者たちの姿は、労働が持つヒロイック(英雄的)なイメージを象徴していた。言い換えると、労働を社会への自己犠牲的貢献の行為とみなしていた。こうした画家の力強い労働者像と比較すると、この若者が体現するとみられる大志 ambition とは、画家の心底でいかに結びついていたのだろうか。ブラングィンという忘れられていたもうひとりの画家の実像を測るひとつの鍵がありそうだ。



* このブログの記事と関連して、ブラングィンの作品 Men in a Bakehouse (「パンを焼く男」:東京国立博物館所蔵、エッチング、1908年)は、しっかりと強固に描かれた厳しい労働に従事する男の姿を描いている。幸い、日本には東京国立博物館を中心に、かなり多くのブラングィン作品が残されている。



国立西洋美術館『フランク・ブラングィン展』公式ホームページ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歳を重ねて賢くなるドイツ

2010年04月12日 | グローバル化の断面


大戦経験の風化の中で
 戦後長らく日本とドイツは、さまざまな点で比較されてきた。両国共に、第二次世界大戦の経験はすっかり風化しつつあるようだ。ある若い世代のグループに日独の戦後にかかわる話をする機会があったが、どれだけ分かってもらえたのかまったく定かでなかった。日本とドイツが第二次大戦における敗戦国であるという実感が想像以上に希薄化している。大戦についての現実感がまったくなく、「のれんに腕押し」という印象だった。時の流れの生み出す恐ろしさ、虚しさを厳しく感じる。

 総じて1980年代までは、両国ともに「奇跡の復活」をとげた国だった。とりわけ、ASEANなどのアジア諸国、そして中国、インドの台頭まで、かつての敗戦国日本はアメリカ、ヨーロッパとともに、世界経済の牽引車の役割を果たした。その後、日本はバブル経済破綻後の経済運営に失敗、長い停滞と国力の著しい衰退の過程にある。ドイツは日本ほどの決定的破綻は回避したが、ベルリンの壁崩壊による東西ドイツ統一の熱狂的高揚は急速に冷却していった。しかし、ドイツには今の日本のように国を覆いつくすような将来への不安感はあまり感じられないようだ。

オルソン仮説の生きた時代 
 今は亡き優れた経済学者M.オルソンが、イタリアを含めた第二次世界大戦の敗戦国が、戦後ある時期まで揃って高度成長を享受しえたのは、これらの国々が敗戦によって、戦前に蓄積した様々な政治・経済・社会的束縛、しがらみの多くを失い、アメリカやヨーロッパの戦勝国よりも進んだ最新技術、新産業の展開をなしえたことだと述べたことがあった。さらにこうした敗戦国は、財閥やコンツエルンあるいは労働組合などに代表される「特殊利益集団」の社会的束縛からも相対的に解放され、企業や労働者は自由な活動の場を享受しえたとした。

 しかし、その後のグローバル競争の場では、早い時期に脱落したイタリアを含め、日独両国ともにかつての輝きを失い、すでに長い時間が経過した。その間、敗戦という思いがけない歴史的出来事で、戦前の新たな経済効率や成長を阻害する要因が、これらの国々に形成されたようだ。主要工業の設備年数なども老朽化が進み、新興国に追い抜かれてしまった。ドイツにしても、東西ドイツ統一達成の輝かしいユーフォリア、高揚感に包まれていたのは短い時間であった。

 日本の惨状はもはや語るまでもない。この国は、次世代にあまりに大きな負担を残してしまった。戦後の硬直化した政治・経済・社会制度を修正しようとした規制緩和などの制度改革の試みは、全体的展望、時代的方向性、具体化の過程など、多くの点で重大な誤りを犯し、現在の深刻な状況を生んだ。その後、国民の失望と不信を背景に、政権交代に成功した民主党系連立政権も、国家としての基本構想、政策立案などの面で、国民に確たる方向性を示し得ず、惨憺たる混迷状況を続けている。あたかもオルソンが提示している経済的停滞をさらに「下方への悪循環」へと導く危険性が感じられる。

 もうひとつの極であり、世界の指導者を自負してきたアメリカも、その基盤は大きく揺れ動いた。オバマ大統領も就任当時の国民的熱狂はどこへやら、支持率も低空飛行を続け、医療改革はなんとか形をつけたが、秋の中間選挙への反転材料を確保するのにやっきとなっている。米ソ核兵器削減など、最近ようや人気回復・反転の時を迎えたとされているが、どうだろうか。

見直されるドイツとメルケル首相
 その中でこのところ注目を集めているのがドイツだ。国家として動きが鈍い、特色がないとの評判だが、予想外に弾力的だ。経済成長は2006年から低下の一方だが、失業率はなんとか一定範囲に抑え込んできた。EU域内のライヴァル国であるフランス、イギリスが不振を続ける傍らで、ドイツはヨーロッパのエンジン(Europe's engine: The Economist March 13th-19yh 2010)と積極的に評価されている。ドイツなしにEUは浮揚できない。

 評価が高まっているのは、アンゲル・ドロテア・メルケル首相だ。2005年CPU(キリスト教民主同盟)党首として、第8代ドイツ連邦共和国首相の座に就いた当時と大きく変わった。当時は「コールのお嬢ちゃん」Kohls Mädchenなどと揶揄されていたが、いまや「鉄のお嬢さん」 Eisenes Mädchenに変わっている。サッチャー首相の「鉄の女」に対比されていることはいうまでもない。メルケル首相のことを最初から注目して観察していたわけではないが、サッチャー、クリントンなどのアングロ・サクソン系の女性指導者と比較すると、デビュー時、そしてその後の活動ぶりがかなり対照的に見える。派手さはないが、抑えるところをしっかり抑えて危なげがない。もっとも、これはヨーロッパから離れて見ているからかもしれない。

 興味深いのは、西欧の政治世界ではスタンドプレーに走らず、地味な印象に終始してきたことだ。「最初は処女のごとく?」なんとなく控えめで、なにをやるのか、できるのか分からなかったが、着実に実績を積み上げてきた。東ドイツ出身、科学者、保守系、女性という出自・背景が影響しているのかもしれない。感情をあまり露わにしないのも、野党やマスコミの攻撃を抑えている原因かとも思う。果断さはあまり感じられないが、着実で安定している。ギリシャ救済問題でも、彼女の意思は強く、EU単独で救済した場合にドイツが最大出資者になることを恐れて強硬に反対を続け、ついに他のEU諸国の結束を揺るがし、意図を貫いた。隣国フランスのような派手さはないが、しっかりと国益は守るしたたかさを備え、なんとなく現代ドイツという国を象徴するような女性だ。 

 現在のドイツは、かつてのような先端技術産業の旗手というイメージはないが、自動車産業を中心に幾度となく大きな破綻を回避し、手堅い国家運営ぶりを示している。自動車企業もそれぞれ国際的な企業連携の道でなんとか生き抜こうとしている。

 もっとも、GDPに占める研究投資も先進国の間では、ほぼ中位に位置し、戦前と異なり、グローバルな市場で首位を走る産業・企業もさほど多くはない。高等教育でも過去にとらわれすぎ、卒業生の数が少なく、時代の変化に対応できていないともいわれる。かつて世界をリードした医学もアメリカなどにとってかわられた。科学技術国ドイツというイメージはかなり薄れた。他方、女性と移民労働者は十分活用されているとはいえない。多文化主義の理想は、破綻状態だ。

 統合後の東西ドイツは相互に近づいているが、真に融合するには多くの時間を要するだろう。アメリカや日本のように、政権が民主勢力に変わることはなかったが、政党の分裂状態はこの国でも避けがたい。

 このような問題を抱えつつも、ドイツには頑健さと安定感が感じられる。The Economist誌*が、ドイツの特集のタイトルに「歳を重ね、賢くなった国」と形容している。しばしば利害の衝突を見せながらも、EUにおけるドイツへの信頼と期待は強まっているようにみえる。かつて同じ道を歩んだ東洋の国は、ドイツからはどうみえるのだろうか。同じように歳はとったが、賢くなったという評価はどうも聞こえてこないのだが。 





*References
Olson, Mancur. The Rise and Decline of Nations: Economic Growth, Stagflation, and Social Regidities. New Heaven and London: Yale University Press, 1982.
“Older and wiser: A special report on Germany.” The Economist March 13th 2010

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昼の桜も

2010年04月11日 | 午後のティールーム

夜桜も美しいが、日の光の下で見る桜は劣らず素晴らしい。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福はすべてが幸いとはいえない

2010年04月05日 | 書棚の片隅から

 

 不合理で、煩わしいことも多い世の中を過ごしてくると、いつの間にか身についてしまった心の凝りのようなものを、解きほぐしたいような気になる。そうした折にしばし手にしてきた一冊がある。オスカー・ワイルド『幸福な王子』という小編だ。最初に出会ったのは10代半ばだったが、その文体に魅せられて何度も読み、かなり覚えてしまったほどだった。実はこうした肩こり解消?トランキライザーのような役割をしてくれるものは、他にもいくつかあるのだが、今日はこれにしよう。

 最初手にしたのは、英語と日本語の対訳版だった。出版事情も今のように良くなかったこともあって、紙質も装丁も貧しく、ページが散逸してしまった。ふとしたことで最近新版が刊行されたことを知って、早速手に入れた。Penguin Books Puffin Classicsというシリーズに入っている。この短編、ともすれば子供向けの童話として考えられ、実際児童書のコーナーに置かれていることも多い。ちなみにある大書店でオスカー・ワイルドのコーナーを見たが、『ドリアン・グレイの肖像』『ウインダミア夫人の扇』『獄中記』など他の作品はかなり揃っていたが、「王子さま」はみつからなかった。

 実は『幸福な王子』(および他の関連童話作品)は、大人が読むべき作品と思っている。オスカー・ワイルドは18世紀後半のヨーロッパで時代を代表するセレブリティであり、毀誉褒貶ただならぬ文人だった。生前は悪名の方が高かったかもしれない。しかし、ワイルドが書いたこの小品は、どれをとっても見事なきらめきと深みを持っている。この短編集には『幸福な王子』を含めて9編が収められているが、いずれも珠玉のような作品だ。そこには、愛、裏切り、利己心、純粋さ、犠牲、悪、美しさ、どう猛、残忍、真理、などこの世を組み立てる道具立てはすべて揃っている。ひとつひとつの話の底になにがあるかを考えながら読むのは楽しい。ごひいきの作品『幸福な王子』にも多くのことが含まれている。久しぶりに読み直す。少し最初の部分をご紹介しよう(管理人仮訳)

 幸福な王子

 市を見下ろす丘に建つ高い円柱に、幸福な王子の像が立っていた。王子は全身を純金の箔で覆われ、両目には明るいサファイアがはめ込まれていた。身につけた刀の柄には大きな赤いルビーが輝いていた。

 王子は誰からも賞賛されていた。「王子さまは風見鶏のように美しい」。美術眼があるとみられたい市会議員のひとりが言った。「あまり役に立たないけれども」と、彼は付け加えた。人が彼は実務的でないと思うのを恐れていた。実際、彼は役に立たなかったのだが。

 「どうしておまえは王子さまのようになれないの」と、お月さまが欲しいようと泣く小さな子供に、しっかりした母親は諭し、「王子さまはなにかを欲しがって泣いたりしないのよ」と言った。

 「世の中に本当に幸せなひとがいるとは素晴らしい」とすっかり絶望した男は、見事な像を眺めながらつぶやいた。

 「王子さまは天使のようだね」。深紅の上着に清潔な白い上っ張りをつけ、寺院から出てきた慈善孤児院の子供たちは口々に言った。

(中略)

 そしてある朝、市長と助役はくだんの丘の下を歩いていた。円柱の下を通った時、王子の像を見上げた。そして「おやまあ、なんと王子さまはみすぼらしくみえるのだろう」と市長は言った。「たしかにみすぼらしい!」といつも市長に同調する助役も声を上げ、王子の像を見に丘を登っていった。

 「ルビーは刀の柄から無くなっているし、王子さまの目もとれてしまっている。それにもう黄金の王子ではないぞ」と市長は言った。「これでは乞食と変わらない!」

 「乞食と変わりません!」助役も唱和した。

 「足もとには死んだ鳥が落ちている」、市長は続けて「ここで鳥は死んではいけないと布告を出さないといけないな。」そして、市の書記はその言葉を書きとめた。

 そして彼らは幸福な王子の像を円柱から下ろした。「王子はもう美しくないから、役に立たない」と大学の美術の教授は言った。

 彼らは王子の像を炉で溶かした。そして、溶かした金属でなにを作るかを決めるため議会を開いた。「別の銅像を作らねば」と市長は言い「それは当然私の像だ」と続けた。

 「いや私のだ!」と議員たちは口々に言いつのった。後で議会室をのぞいたら彼らはまだ言い争っていた。

 (話はもう少し続くのだが、読者のお楽しみに)

    
~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この話、人間の心を持っていた銅像の王子と一羽のつばめの物語なのだが、読むたびに印象が少しずつ異なってくる不思議な作品である。子供の時に最初に読んだ時は、ストーリーの美しさには魅せられたが、作品が持つ深い意味、とりわけ細部の含意にほとんど気づかなかった。王子の眼下に広がる心貧しく、荒んだ光景、王子に殉じた一羽のつばめの過ごした時・・・・・・。王子とつばめの幸せとは。考えてみると、オスカー・ワイルドは、多数の鋭い金言を残していることでも知られる文人だった。いくつか思い浮かぶ。

仕事とは、ほかになすべきことのない人の逃げ場である。


[削除 2010/04/11: 修正2010/04/15]
人間は不可能なことを信じることができるが、ありそうももないことを決して信じることはできない。

経験とは誰もが自分がおかした失敗につける名前だ。

 

                   
Oscar Wild. The Happy Prince and Other Stories. London: Puffin Edition, 2009.
 原作は1888年。(邦文は仮訳)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペインの苦悩

2010年04月03日 | 移民政策を追って

  グローバルな経済不況が続く中で、移民(外国人)労働者は各地で苦難な時を迎えている。そして、彼らを受け入れてきた国も苦悩している。移民労働者問題は、マクロ・ミクロの両面における不断の観察が欠かせない。とりわけ、メキシコ、スペイン、タイなどの経済圏の最前線にある国の動きが興味深い。

 EUの最前線スペインの動向は、ひとつのバロメーターとして注目している。スペインは10年近く、移民労働者の受け入れを続けてきた。経済成長が彼らを必要とし、受け入れを支えてきた。移民労働者もそれに応えてきた。しかし、その舞台はいまや急速に暗転している。スペインへ入国している移民労働者は、2009年第2四半期頃から減少に転じている。政府の制限的施策が効果を発揮したというよりは、不況がもたらした結果だ。スペインの失業者はあっという間に400万人を越え、失業率も20%に向かっている。

 移民を取り巻く環境は、さらに厳しさを増すことが予想されている。スペインは移民に優しい国かという国のイメージにかかわる論争が展開している。社会党首相のホセ・ロドリゲズ・ザパテロが、2004年に首相の座についてから、スペインには250万人の移民労働者が入国している。全人口に占める移民の比率は、2%水準から12%、560万人の水準まで上昇してきた。移民労働者がスペインの経済成長に貢献してきたことは疑いもない。国民に占める外国人の比率もヨーロッパの主要国と同程度の水準まで、時間的には四分の一くらいの期間で達してしまった。しかし、受け入れが速すぎたこともあって、移民と国民の統合はうまく行ってはいない。さまざまな政治経済、社会的摩擦が発生している。ほとんどの移民受け入れ国が経験し、悩んできた問題がここでは一気に露呈している。 

 かくて、スペインの移民労働者の見通しは急速に悪化している。移民だけをとりあげた失業率はいまや30%と、国民全体の平均よりかなり上だ。2008年に深刻な雇用削減が始まった頃に着手していれば、移民の失業者は、25万人は少なくてすんだとの見方もある。政策着手が遅れていたのだ。確かに、隣国ポルトガルは2008年にEU域外からの受け入れ枠減らす手を打ち、受け入れ枠を2008年の8600人から翌年は3800人に引き下げていた。中南米、アフリカからの移民を減少させることで労働需給を改善させることを図った。スペインも移民の帰国促進対象国を拡充するなどの手は打った。それでも対策は遅すぎたようだ。

 しかし、保守系スペイン人民党はヨーロッパの保守党の中で、フランスやイタリアのようには、移民を政治問題にはしないとしている。スペイン国民の多くは自らが出稼ぎ移民の歴史を知っており、移民を大きな問題とすることはしたくないという思いがある。しかし、不況と仕事をめぐる競争はそれをも変えてしまう可能性がある。

  スペインの経験している苦悩は、他の移民関係国が経験しているものでもある。これまでに、多くの経験が蓄積されてきた。しかし、それからレッスンが十分学び切れていない。同じような愚行が繰り返えされてきた。秩序ある出入国管理、迅速な政策対応、情報の共有、そして受け入れ国以上に、送り出し国の経済発展への国際協力が不可欠だ。しかし、それらを結ぶ糸はいつになっても切れたままだ。




Reference
“Bad new days” The Economist February 6th 2010

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年は夜桜

2010年04月02日 | 午後のティールーム

雨にも負けず、風にも負けず

 




 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家を脅かす密貿易

2010年04月02日 | 移民の情景

底なしの麻薬密貿易の世界:アメリカ・メキシコ  

 アメリカ経済の停滞で、国境間の人の移動が頭打ちになる中で、執拗に増加しているのが、麻薬密貿易だ。アメリカ・メキシコ国境で、新たな動きが注目を集めている。そのひとつの例を紹介しよう。

  アメリカ税関に勤務するマルガリータ・クリスピンは、テキサス州エルパソとメキシコ・シウダ・ヒアレスの間で麻薬取引などに関わる情報収集員を務めてきた。しかし、FBIはクリスピンが麻薬取引のマフィア組織に取り込まれたと内偵を進めてきた。

 ある日、彼女が運転し、FBIに追跡されて逃げた車から2.7トンという大量のマリファナが見つかった。彼女は告発されたが、FBIが驚いたことには、彼女は自白取引 plea bargaining(自白すると刑が減じられる) に関心を示さず応じなかったことだった。メキシコの麻薬組織は、FBIなど捜査当局に不利な情報提供をするようなことがあれば、ただではすまないぞと彼女を脅迫しているようだ。実際、こうした麻薬組織はアメリカ・メキシコの国境パトロール組織やメキシコの政府高官にまで深く入り込み、さまざまな犯罪を生む元凶であった。

アメリカこそが犯罪の元凶
 アメリカに流通するマリファナ、コカインなどの麻薬のほとんどは、メキシコ側から入ってくる。原産地はメキシコばかりでなく、コロンビアなど南米も大きな産地だ。そして、麻薬カルテルがあげる巨大な利益のほとんどは、アメリカ市場で生まれている。昨年メキシコのカルデロン大統領が勇敢にも挑戦、摘発対象としたような大きな偽善と巨悪がそこにはある。カルデロンはメキシコ中央政府高官の間に深く巣くっている積年の汚職、犯罪組織に、身の危険もかえりみず勇気あるメスを入れようとした。

 彼はアメリカ当局にも同様な行動を求めている。「アメリカの出入国管理などの腐敗や汚職が、世界最大の麻薬市場を繁栄させている。私がメキシコで行ったように、どれだけの高官がアメリカで実際に取り調べられたか」とカルデロンは厳しく問う。 これまでメキシコの麻薬密貿易問題に距離を置いていたアメリカも、最近ではクリントン国務長官自身、「麻薬密貿易戦争」にメキシコとアメリカ両国が共同してあたることを約束させられている。麻薬の最大市場がアメリカであることを、否応なしに認めざるをえない状況のためである。

正面突破を試みる麻薬組織
 麻薬取締機関がアメリカ・メキシコ国境で摘発した麻薬・薬物の量は2007年の357トンから、2008年には661トンまで増加した。関連して今年は6600人が死亡している。昨年は5800人だった。この増加の背景にはなにがあるのか。大きな理由として、国境管理の強化、とりわけ辺境地帯での取締体制の強化が影響したとみられている。従来、密輸の経路に使われた砂漠地帯でのパトロール体制が強化されたことで、密輸を企てる者は、逆に公的に開かれている国境の出入り口を使って、正面からくぐり抜けようとして発覚したりで、国境パトロールなどと対決、紛争などを起こしたようだ。

 税関でのトラック検査の腐敗は、しばしば贈賄か脅迫かという形をとるようになっている。アメリカの国境管理にあたる秘密情報員は、ギャングなどによる銃砲などでの物理的脅迫にはあまり動かされないといわれてはいる。

 他方、麻薬ギャングは、密輸取引に伴って目的以外で、余分な暴力沙汰などを起こさないように注意しているらしい。言い換えると、砂漠などで銃砲火を交えたりすることなく、正規の税関などから貨物などに隠蔽して麻薬などを持ち込もうとしている。他方、アメリカ国境の管理体制は強化され、パトロールの数も2001年の9000人から今日の20,000人近くに増強された。

 憂慮すべきは麻薬取引の発見、摘発にあたる捜査情報員が早い段階から組織へ取り込まれることだといわれている。増員される捜査・情報員の多くは新人なので、密貿易組織は彼らが仕事に慣れないうちから、組織に取り込んでしまおうとしているらしい。しかも、その魔手は、まだ国境税官吏や捜査員に任官しない若者にまで伸びているとされる。国境問題には関係国の社会の深部まで目をこらして見ることが求められる。事実は小説よりも奇なり。


References
Assets on the other side: Corruption on the border ” The Economist March 13th 2010
"Reaching the untouchables." The Economist March 13th 2010.
”Turning to the gringos for help." The Economist March 27th 2010.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする