時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

怪獣ビヒモスを追いかけて(9): 資本主義崩壊前夜?

2018年11月30日 | 怪獣ヒモスを追って

 

L.S. Lowry, Street Scene
L.S.ラウリー《街の光景》 

 

この短いシリーズで取り上げてきたテーマは、改めて述べれば、我々の生活が企業、とりわけ大工場で生産された製品に大きく依存してきたことをいくつかの例示を上げながら回顧し、素描してみようということを目指してきた。それ自体、とてつもなく大きなテーマであることは承知の上でのことである*1。思いついたのは、3世紀近い年月の断片が、ふと見た夢をよぎったからであった。どこかで「タイムマシン」が動いたのだろう。

産業革命がイギリスに生まれてから、すでに3世紀を経過した。思えば、現代に生きる人間は、生産者、消費者としての一翼を担い、多かれ少なかれ工場とともに生きてきた。

この過程を描くことは、それ自体壮大なテーマであり、ブログなどでは到底扱いきれない。一大長編映画でも不可能だろう。しかし、このたびのルノー・日産・三菱自動車の驚愕すべき事件などを目の当たりにして、製造業、とりわけ「大工場の時代」は、今や終わりを告げようとしているのだということを改めて実感した。製造業で働く労働者は、アメリカの例で見ると全雇用者のわずか8%にまで低下している。今後残りうる工場のイメージも大きく変容しつつある。一例をああげれば、ロボットがロボットを作る工場のように、人間は工場の表舞台にはあまり顔を出さない。

次の世代を支える産業は、いかなるものだろうか。AIの将来構想を含めていくつかの輪郭は提示されているが、十分信頼できるものには未だ出会っていない。できることはせいぜいこれまでの人生で見知ったことの断片を、記してみることぐらいだろう。このブログ自体がそうした思いから始まったものでもある。

イギリスが端緒となった繊維工業、蒸気機関などを軸とした第一次産業革命。当時の工場はウイリアム・ブレークが「暗黒の悪魔的工場」’dark satanic mills’ と形容したように、巨大な煙突、黒煙で真っ黒な工場、劣悪な労働環境が思い浮かぶ。チャールズ・ディケンズの描いた世界でもある。ディケンズの小説が今でも人気を失わないのは、彼の生きた時代の様々な場面が、失われることなく今日にも生きているからだろう*2

こうした工場システムは、綿工業を例にとると、イギリスから海を渡り、アメリカ北東部へ移行し、当初は地域によっては、多くの親たちが自分の娘を働かせたいと思うほどの「叙情的」’lyric’な宿舎、設備と環境を維持していた。その後は移民の流入などもあり、企業間の競争は激化の度を加える。それとともに、労働環境は悪化の一途をたどる。

次の段階では、労働組合が未組織で、生産費の安い原綿産出州の南部へと移る。工場は外観は美しく内部の機械体系も整然としているが、そこで働く労働者は工場町へと隔離され、低賃金、劣悪な条件で働くことになる。巨大な綿工場にとどまらず、それを支える石炭工業などの発展もあった。トランプ大統領などが主張する衰退してしまった石炭産業の再開発などはいかなる意味を持つのか。こうした大きな歴史の流れの一こまとして見る必要がある。

過去2世紀についてみれば、Homestead, River Rouge, そして最近ではFoxconnなどの著名大工場が作り出した大争議、劣悪な労働、環境汚染など様々な問題が思い浮かぶ。労働組合、児童労働、労働法制の展開などへ視野は拡大する。

日本の台頭、中国や東南アジアなどへの移転の過程は未だに進行中ではある。しかし、インターネットの驚異的な発展に見るように、世界を動かす産業は全く新しい様相を呈している。直近のカルロス・ゴーンの強欲な事件などを見ると、資本主義自体が崩壊の淵にあるようにも思える。

「第4次産業革命」と言われる技術革新の世界がいかなる姿を呈するか、若い世代の目には何が見えつつあるのだろうか。


続く

 

*1 幸い、いくつかの力作が出ている。例えば、下掲の研究書は主としてアメリカを舞台とした大工場を例にしているが、よくまとめられた良書である。

Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A HISTORY OF THE FACTORY AND THE MAKING OF THE MODERN WORLD, New York: H.B. Norton, 2018.

*2 シネマ『Merry Christmas !  ロンドンに奇跡を起こした男』上映中


哀悼:

K.K.先生のご逝去を心からお悔やみ申し上げます。

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怪獣ビヒモスを追いかけて(8):衰退に向かう大企業

2018年09月24日 | 怪獣ヒモスを追って


 

L.S. Lowry 

Industrial Landscape, Wigan
1925
Oil paint on canvas
40.5 x 36.5cm 
L.S.l ラウリー「産業の光景:ウイガン」

 

21世紀に入ってから世界は、急速に不安定で先の見えがたい状況にシフトしたように思える。地球温暖化による気象条件の大きな変化、地震、津波、豪雨などの自然災害にとどまらず、政治、経済、文化などあらゆる次元で、大きな転換期を迎えているようだ。しかし、その行方は文字通り混沌、五里霧中といってもよいかもしれない。社会科学、自然科学などの科学者たちは、それぞれの分野で問題に取り組み、打開の道を切り開こうえとはしているが、それらの努力が世界の抱える問題に顕著に「進歩」と言える形で繋がっているか、全く定かではない。

図らずも体験することになった北海道の地震も、地震学で予想されていた地域以外で発生している。人々が不意をつかれたような場所で突然発生する。さらに地震が引き起こしたブラックアウトは、瞬時をおかず全北海道を覆い尽くし、大きな被害と混乱を呼んだ。このシリーズで取り上げている経済、産業の面でも想像を超える変化が起きている。こうした変化が発生した時の人間の対応は無力とはいわなえいが、きわめて非力なものだ。人間の創り出したシステムが破綻したり、衰亡に向かっている。

このシリーズで断片的に記している資本主義的大工場システムに目を移そう。かつては日本列島を覆い尽くしていた重厚長大型の製造業は、いつの間にか表舞台から消えている。これらの地域では、見る人を圧するような巨大煙突が林立し、黒煙・白煙を吹き上げ、空気を汚染し、スモッグを生んだ。その中を朝夕おびただしい数の労働者が出入りをしていた工場を目にする機会は、明らかに数少なくなった。今日、巨大工場として目につくのは、自動車企業くらいだろうか。一時は造船王国を誇った日本だが、今は昔の物語である。炭鉱業も視界からほぼ消滅した。

こうした光景は、日本のみならず、世界の先進国でもすでにかなり以前から見られるようになっている。煙突も見えず、工場内も窓が少なく、外からは内部が見えない倉庫のような工場も増えている。その中では、作業をする人たちの姿もまばらだ。代わって、室内灯の光度を最低限に落とした室内で、大小の機械設備が様々に動き、その間を時々技術者や管理者たちが歩いている。「ロボットがロボットを作る」といわれる工場もある。

「恐るべき」工場地帯

産業革命の先駆者であったイギリスでは、その盛期、マンチェスターなどの木綿工場へは連日多数の見学者が訪れていた。工場自体が奇異なものに見えた。イギリスの産業革命の最盛期には、煙突の黒煙に真っ黒に汚れた今考えると’恐るべき’光景を作り出していた。まさにこのブログでも触れたことのある l.S. ラウリーやディケンズの世界だ。1960年代のロンドンでも、家庭の石炭ストーブの影響もあって冬はスモッグに覆われた薄暗い日々が続いていた。'Horrible' 「身の毛もよだつような」光景といえるかもしれない。

イギリスに次いで世界の工業国となったアメリカでは、ローウエルに代表されるように、河川の滝などを動力としていたため、環境汚染度はイギリスほどではなかった。しかし、工場の発展とともに、地域は油や埃、そして多数の人々の移住によって、汚染度が際立っていた。

1930年代、ミシガン州のヘンリー・フォードのハイランド・パーク工場でも大工場が多くの関心を呼び、多数の観客を集める光景が見られた時期があった。1971年、バトン・ルージュ工場には243,000人の訪問者があった。日本でも1990年代くらいまでは、ブログ筆者も多くの工場見学をした記憶が残る。

ビヒモスの後には
製造業雇用は次第に減少し、2000年以降、さらに落ち込んだ。長年、世界の経済をリードしたアメリカでも、今日では製造業で働く人たちは全就業者の8%以下にまでになっている。海外移転とオートメーションのもたらした結果である。例えば、シカゴ周辺で多数見られた製鉄、家具、新聞、自動車部品、木工、食肉加工などの大工場は今やほとんど見られない。地ビール、チョコレート、ポップコーンなどの食品工場などが散見している。ちなみに日本では製造業雇用は全雇用者数 (5819万人、2017年計)の約17.3%とみられる。ここでも製造業は急速に変貌し、社会の表面から後退している。

トランプ大統領が躍起となって、自国へうの輸入品へ高率関税を課し、アメリカから海外へ流出した企業を引き戻したいと思っているのは、鉄鋼や自動車、あるいはアップルなど大規模製造企業がイメージされているようだ。しかし世界の産業の主流とはどこか外れている。トランプ大統領の頭の中には、製造業、とりわけ彼の支持基盤である白人低熟練層の雇用創出がイメージされているようだ。しかし、トランプ大統領が思い浮かべているのは、巨大な煙突が立ち並び、延々と工場が立ち並ぶ「旧き良き時代?」の工場でもあるようだ。何れにしても、製造業雇用は今や国際政治の舞台における「武器」のようなものとなり、各国間で大工場の誘致合戦、取り合いが起きている。


 
世界でも、中国のFoxconnなどのような工場全体が、労働者で埋めつくされたような巨大企業も生まれたが、早くも主流の座を離れようとしている。巨大な低賃金労働力の農村を都市の背後に控える中国といえども、労働力不足になっている。人海戦術型の巨大工場は再編され、ヴェトナム、ラオス、アフリカなどさらなる低賃金労働力の雇用が期待できる地域へと移転している。巨大工場ビヒモスの衰亡は明らかだ。短い期間に巨大企業にまで急成長したアリババの会長が、突如として辞任したのも、その成長力に限界を感じたためともいわれる。同会長の話では100万人の雇用などといってもとても考えられないという。製造業、サービス業を問わず、1社で大きな雇用を生み出すことは不可能に近い。大規模工場システム終演のあとにはいかなる産業イメージが描けるだろうか。

次世代の企業イメージとはいかなるものか。筆者にはいくつかのイメージが浮かぶが、しばらく宿題としよう。


本シリーズのひとつ材料となった Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A History and the Making of Modern World, Norton, 2018.は第一次産業革命の発生とその後の展開を興味ふかい筆致で描き出している佳作である。


続く

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怪獣ビヒモスを追いかけて(7): 牧歌的時代の終わり

2018年08月06日 | 怪獣ヒモスを追って

 

繊維工場で働く女性たち:牧歌的時代


現代の資本主義が、デジタル・キャピタリズム、ITキャピタリズムなどと言われるようになっても、世界的規模でみれば製造業、とりわけ、大工場、怪獣ビヒモスは、したたかに生きている。産業の盛衰は激しいが、繊維衣服産業は産業革命以降、戦略的産業として、開発途上国を中心に一貫して重要な役割を果たしている。

近年話題となっているのは、中国勢の拡大だろうか。イタリアの繊維産業の中核であったプラトーは、ブログ筆者も訪れているが、今や完全に中国資本、そして労働者までも中国人になっている。産地表示だけはメード・イン・イタリーという妙な状況が生まれている。かつてのイタリア資本による企業との大きな違いは、中国企業が布からファッションの分野まで統合していることだろう。別の例は、やはり中国勢によるカンボジア、ヴェトナムなどでの拡大だろうか。いずれも中国本土よりも労務費の安い地域への進出と考えられる。


アメリカ、ロードアイランド州ポータケットのスレイター・シスムが衰退し始めた19世紀始めころ、ニューイングランド、マサチューセッツ州ウオルサム近傍に新たな大規模工場が生まれていた。企業の設立は当時の資本家兼起業家でもあったボストン・アソシエーツ Boston Associates によるものだった。

 

ニューイングランドの繊維工場の立地:水力を動力としたため大きな川に沿って分布していた。


それまでの工場が紡糸過程だけにとどまっていたのに対して、ウオルサム・システムと呼ばれた工場は原綿の紡糸、織布、染色、裁断などの過程を縦に統合(vertical integration)し、「綿糸から布」cotton-to-cloth と言われる、ひとつの企業内に最終製品までを包括する一連の製造過程を全て収めた当時としては革新的な工場体系だった。

そこで働く労働者は’mill girls’と呼ばれた近隣の町からやってきた若い女性たちだった。彼女たちのために建設された宿舎では厳しい門限があり、生活面でもモラル・コードを遵守するよう配慮していた。さまざまな情操教育も試みられた。そのため、娘たちを送り出す親たちにとっても安心できる場所であり、年限を終えて帰郷した女性たちは、教育を受け、しつけの良い子女として、結婚などでも一目おかれる存在であった。資本主義的な工場発展過程の”牧歌的時代”である。

その後、ウオルサム・システムはさらに展開を遂げる、フランシス・キャボット・ローウエルという起業家たちが手がけた事業だが、繊維産業の発祥の地イギリス、ランカシャーにおける苛酷な労働条件を持ちこんだ。週80時間労働、週6日の工場労働であり、寄宿舎の生活は早朝4:40分の起床、5時から働き始め、7時に朝食後、昼まで働き、30-45分の昼食時間を挟んで7時まで働いた。しかし、彼女たちが受け取る賃金は、当時女性に開かれていた家事手伝い、教師などの職業で得られる水準を上回っていた。さらに、この頃には現金で賃金が支払われた。ほとんどの農家は現金をわずかしか所有していなかったので、これは大きなメリットだった。牧歌的な時代といっても、労働条件や生活環境はこの程度であったのだ。

b1826年、およそ2,000人が居住することになった地は、1817年に亡くなったフランシス・キャボット・ローウエルの名を記念してローウエル Lowell と命名された。さらに20年が経過すると、人口およそ30,000人の都市にまで発展した。10社の大きな繊維企業が生まれ、12,000人の労働者(ほとんど女性)が働いていた。しかし、この地の繁栄も長くは続かなかった。新たな転機が迫っていた。


2014年に改行したカンボジャの工業団地「ボンレミー」は約160ヘクタールの敷地があり、中国や韓国の11の企業が建設中といわれる。「飢餓の國 服飾工場に変えた」「朝日新聞』2018年7月29日

Pietra Rivoli. The Travels of a T-shirt in the Global Economy, 2005 
ピエトラ・リボリ 雨宮寛+今井章子訳『あなたのTシャツはどこから来たのか?』東洋経済新報社、2007年

続く

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怪獣ビヒモスを追って(6):サミュエル・スレイター再考

2018年07月14日 | 怪獣ヒモスを追って

スレーター・ミル、ポタケット
現存するのはレプリカ 

 

サミュエル・スレイターという人物をご存知だろうか。アメリカの産業革命の歴史において、”製造業の父”と言われる反面、イギリスから当時は禁制の繊維産業技術を密かに持ち出した”産業スパイ”のごとき評価も下されてきた。この点は以前にも取り上げたことがあるが、評価はどちらが真実なのだろうか。一般にはやや過度に単純化された後者のレジェンドが流布されてきた。

近年、研究が進み、より客観的なスレーター像が描かれるようになった。いかなる先端産業でもその技術の核心は重要な企業機密とされ、秘匿されるのが競争力維持の要諦であった。当時のイギリスは繊維産業を中核に世界の最先進国であった。そのこともあって、イギリス内外で新たに企業化を意図する者はなんとか最先端の機械などの設計デザインを手中にすることを目指した。”アメリカ産業革命の創始者”として歴史に名を残すサミュエル・スレイターもその一人だった。

産業革命の先駆者であったイングランドは、戦略的産業である繊維技術の海外流出を懸念し、1843年まで関連情報の流出を厳禁していた。機械設計図などの海外搬出は厳しく取り締まられていた。その中で繊維技術者であったサミュエル・スレイターは、熟練技術者の新大陸への移住が禁じられていた中で、職業を隠して密かにアメリカへ渡航した。イングランドのベルパーで生まれたスレイターは当時、世界で最先端であったストラットJedediah Strutt の工場で、経営者の家族に入り込み、工場では技術習得のための技術者として働きながらアークライトの発明した最先端技術を体得した。さらに、スレイターは簿記、経営管理など、繊維企業の経営に必要な知識と技術を包括して体得した。

 スレーターが企業化の対象とした繊維工場は、伝統的な手工業のそれと比較して大規模だった。核心となる動力は水力で、通常工場の地下に水車として設置された。水車の回転から生まれた動力は、各種ギアの助けを借りて各階の機械へと伝達される仕組みだった。スレーターは全てを彼の頭脳に記憶していたと伝えられるが、機械や建屋の設計など、実際に記憶のみから生み出されたものか、真相は分からない。

19世紀、ストラット  JwswsihStrutt の工場内部 

当時、中心となる繊維機械はリチャード・アークライト Richard Arkwright がパテントを持つ機械だった。梳毛機械 carding machine (綿、亜麻、羊毛などの繊維をほぐし、くしけずって短繊維、夾雑物などを除き、長さの揃った繊維を揃える機械 )、紡糸機 spinning (綿のような短繊維を紡ぎ糸や撚り糸にする機械)だった。こうした機械配置の要諦は、1台ごとの機械精度と、工程のどこかにボトルネックが生じることなく、工場全体の操業が滞りなく進行することだった。

1789年、スレーターはその技術流出禁止の壁をくぐり抜け、誰にも意図を伝えることなく、イングランドを抜け出し、新大陸へ渡った。アメリカに上陸するや、直ちにプロヴィデンスの商人モーゼス・ブラウンに接触し、彼の企業であるアルミー・アンド・ブラウン A&B に雇われた。スイターは繊維機械技術者として、ロードアイランド、ポタケットに水力で動く繊維工場を設置することを期待された。イングランドの企業はレンガか石造りであったが、アルミー・アンド。ブラウンの工場は木造2階建の簡素なものであった。最初は小規模なスタートで、最初の労働者はなんと9人の地域の子供たちであった。1801年には100人を越える子供たちが働くまでになった。

A&Bはその後スレーターが自分の工場を所有することになり、別の経営体となった。スレーターの工場は河川の水量が少なく、さらに労働力の子供たちが地域で調達できなかったので、概して小規模だった。イギリスのように救貧院 the poor house がなかったので子供の供給力には限界があった。そのため工場側は地域の男性は熟練労働者として、子供は機械の見張り役として働かせる策をとった。しかし、人口の少なかった新大陸では工場の大規模化は困難に直面し、経営者は労働力を求めて工場を分散化した。1809年にはロードアイランド、東部コネチカット、マサチューセッツ南部に20社近い工場が操業していた。

アメリカの工場は基本的にイングランドの慣行を取り入れていた。とりわけ、児童労働の広範な使用だった。極端な例としては4歳の子供まで動員されていた。成人労働者、児童を含めて、労働の報酬は現金ではなく、金券のようなもので、企業の経営する店でしか通用しないものだった。これは後年、筆者が調査した1960-70年代の南部の大工場でも、同じであった。

アメリカの木綿繊維産業の歴史を辿ると、別の事業で財を成した商人と並び、小規模な、熟練職人などが経営の母体となった例がかなり多い。スレイターが雇われた起業家ブラウンは、西インド諸島の貿易で財を成し、自分のポータケット工場は機械化した紡機を導入しようと企図していた。スレイターは記憶に頼り、イギリス仕様の機械を設計、1790年12月に最初の紡糸を生産するに成功した。スレーターは大変エネルギッシュに事業を進め、多大な利益を計上し、新たな工場建設に乗り出し、1799年には自分の工場を持つまでになった。1806年までにロードアイランドの田園にはスレーターズヴィル Slatersville の集落が生まれた。

スレーターの工場 Slater Mill は国立歴史的ランドマークに指定され、ポタケットのブラックストーン河の岸辺に残っている。ただし、スレイター存命当時の工場ではなく、そのレプリカである。工場は北米最初の水力による木綿紡機工場でイングランドでリチャード・アークライトが発明した紡機システムを採用している。

 サミエル・スレーター ポートレイト、1830年代
Courtesy Pawtucket Public Library 

 

アメリカの繊維産業はポタケットに根を下ろした。そしてサムエル・スレーターはその中心的人物であった。しかし、単に技術だけでは企業は新大陸に根付かなかった。ポタケットの成功を生んだのはスレーターが体得した企業経営の包括的な経営思想であり、経営の技術や管理手法であった。これは今日残るスレーター関連の様々な資料をみるとよく分かる。スレーターがイギリスで海外持ち出しを禁じていたアークライトの設計図を、記憶、体現し、新大陸で再現したことは、当時の文脈からすれば議論の残る点かもしれない。しかし、機械だけでは企業経営は不可能であり、スレーターはイギリスでの修業の間に広く経営・管理の手法を蓄積しており、新大陸に来ても、絶えず研鑽を怠らなかった起業家として稀有な人物であった。

アメリカの繊維産業は、スレーターによる”ロード・アイランド” 型では終わらなかった。さらに新たなプロトタイプが生まれてくる。

 

続く 

References

Anthony Burton, The rise and fall of king cotton, BBC, 1984 

George Savage White, Memoir of Samuel Slater: The Father of american Manufactur: SCHOLAR'S CHOICE, second edition, Lwnox Library: New York,  1836

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怪獣ビヒモスを追って(5):アメリカのマンチェスター

2018年07月07日 | 怪獣ヒモスを追って

美しい運河に沿ってカーブしたレンガ作りのクラシックな建物。これがなにであるかを知る人は今や大変少ないでしょう。ヒントは、産業遺産、”アメリカのマンチェスター”


大工場システムの盛衰

イングランドに端を発した第一次産業革命において、”大工場システム・ビヒモス”のシンボル的存在は繊維産業だった。毛織物、木綿などの繊維産業はその後、産業革命発祥の地イギリスからヨーロッパ大陸、そしてアメリカ新大陸へと巨大な足跡を残した。ここに掲げたのはアメリカにおける産業革命の中核として発展し、衰亡した、ある大企業の在りし日の姿である。

その名はアモスキーグ製造会社 Amoskeag Manufacturing Company であり、19世紀初め、アメリカ、ニューハンプシャー州マンチェスターに立地し、19世紀を通して拡大し、一時は世界一の木綿繊維工場にまで発展した。しかし、繁栄は長く続かなかった。1996年には、廃業に追い込まれ、壮大で美しい工場タウンも一部の記念碑的建築を除き、取り壊され、博物館やパーキング・エリアなどになってしまった。

エレガントな煉瓦造りの工場も取り壊された

今日、トランプ大統領が関税引き上げなどの保護主義的政策を持って救済しようとしているのは、一部はすでに同様な状況に陥っている鉄鋼、アルミニウム、自動車などの産業である。マンチェスターの盛衰は、これらの産業の復活がいかに厳しいものであるかを物語っている。

過去の栄光
1807年、この地の起業家のひとりサミュエル・ブロジェットは、この地が”アメリカのマンチェスター”となることを構想し、メリマック河から引き込んだ運河の整備などの努力をしていた。1810年には町の名前デリフィールドはマンチェスターに取り替えられた。この年、ブロジェットは3人の兄弟とともにこの地に水力による繊維工場を建設する。

彼らはロード・アイランド州ポタケットに、イングランドから紡織機械を持ちこんだサミュエル・スレイターから中古の機械設備を買ったが、うまく機能しなかった。1811年には新しく綿から糸を紡ぐ機械が導入され操業を続けた。この地域の女性、子供を雇用する小企業、家内工業だった。こうした努力にもかかわらず、マンチェスターの工場は利益が生まれなかった。

ユートピア的工場・都市の実現
1822年ロード・アイランドのオルニー・ロビンソンが企業を買収した。しかし、経営には無能であり、事業は資金の貸し手であるサミュエル・スレーターとラーニッド・ピッチャーの手に移った。1825年には事業の5分の3はドクター・オリバー・ディーンなどに譲渡された。ディーンはこの地に移り、経営の刷新を図った。その結果、1831年にはアモスキーグ製造会社の名の下に本格発足した。その後、経営陣の努力もあって内容は顕著に改善され、工場のみならず、従業員の宿舎、学校など公共的施設も設置され、マンチェスターは、ローウエに比肩する、「ユートピア的工場ー都市計画」のモデルと見なされるまでになった。道路、建物、学校、病院、消防署、運河などを含む見事な都市計画の成果がそこにあった。従業員については手厚く、とりわけ女子の労働・生活についてはローウエルと並び、工場、宿舎の生活まで包括して計画・管理された。これらの設計を委ねられたのはエゼキール・ストローという19歳の技術者だった。1833年にはアンドリュー・ジャクソン大統領が視察に訪れ、その状況に感銘した。

若き技術者ストロー設計の在りし日の女子寮と設計図 

古いイタリアの広場の様に見えるこの場所もいまは取り壊されて存在しない

栄光から落日へ
1807年の創立以来、拡大を続け、その製品は質量ともに並ぶものがなかった。1875年にはこれらの工場は1日当たり143マイルの長さになる布を生産した。しかし、1920年代初めには、繊維産業の立地は賃金も安い南部の原綿産出州へと移転しつつあった。

この頃、マンチェスターの市民もアモスキーグ社を産業上の失敗のシンボルとみなす様になっていた。この巨大企業 は次第に市場の変化に適応できなくなり、1936年には工場のすべての資産が清算の対象となり、およそ80社の地域の企業などが、資産を分割し保有、経営することになった。1861年にはマンチェスター市の住宅局がコンサルタントのAD社に同市の再建、将来計画のプランニングを依頼した。報告書は同社と市の将来について厳しいものだった。大学などの歴史家や都市計画の関係者の間には、なんとかこの古典的な建造物を保全できないかとの願いはあったが、現実は冷酷であり、建物の多くは取り壊され、運河も埋め立てられた。そして同社は1969年に廃業の運命をたどった。ビヒモスは巨大な足跡を残したが、その結末は傷跡深く、破滅的なものだった。

この過程を調査、研究対象としていたボストン在住の若い研究者ランドルフ・ランゲンバッハは、”我々の都市を救う努力の中で、あまりに多くの人々の心を切り裂いてしまった”と記している(p.121)。

 

Tamara K. Hareven & Randolph Langenbach., AMOSKEAG: LIFE AND WORK IN AN AMERICAN-FACTORY-CITY, Pantheon Books, New York, 1978.
本書はアモスキーグ社のかつての従業員を対象に行ったインタビュー調査に基づき、この”壁の中の企業”ともいえるアメリカの工場・都市における労働者の生活と仕事の世界を描写した興味ふかい著作である。

A Doomed Industrial Monument, FORTUNE February 1969

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怪獣ビヒモスを追って(4): 靴磨きはどこへ行ってしまったのか

2018年06月06日 | 怪獣ヒモスを追って

 

*靴磨き The Independent Shoeblack, 1877 (クリックで拡大)

ディケンズは自らの経験から、幼い子供たちがロンドンの路上に放り出されたら、小さなひったくりや浮浪者になるしか生きる道がないことを知っていた。なんとか犠牲になる子供たちを救わねばならないとの思いがこの作家の作品には溢れているし、シャフツベリー卿 によって設立された The Schoeblack Society 靴磨き協会 などに寄付をしている。当時ロンドンには9つの靴磨き集団 brigades があったといわれるが、この少年は自分の仕事場 ‘pitch’ を選ぶため、どれにも属さなかった。(Werner and Williams, Dickens’s Victorian London, 1839-1901, Ebury Press, 2011, p.109)

日本でも終戦後はいたるところで、こうした路上で靴磨きを仕事とする人たちを多数見かけた(東京都内だけでも500人以上との推定もある)が、1960年代ごろから激減し、今日ではきわめて稀にしか見かけることがない。「東京シューシャインボーイ」などの歌が流行したこともあった。人々は、この頃はどこで靴を磨いているのだろう。靴修理のチェーン店などが一部を吸収したかもしれない。家庭がその機能を取り込んだかもしれない。そのほかにも多くのことが推定できる。都道府県や警察の「道路占用(使用)許可の厳格化などもあるかもしれない。開発途上の国へ行けば、今でもいたるところで見かける仕事だ。アメリカでも同様な光景が見られ、記録されている。

 

 

産業革命の展開に伴い、「工場制」という怪獣ビヒモスは、次第にその強大で残酷な力を見せ始めた。イギリスで始まった工場制は単に多くの人々が物珍しさで訪れ、驚嘆した工場という建屋と、そこで働く人々に止まらなかった。

壊される伝統のシステム
工場制システムという革新的な変化は、新しい生産様式、大量に動員される労働者、激しい労働条件の変化、そして彼等の生活、社会を大きく変容した。新たな工場制というシステムは社会の根幹に激しい変化をもたらしつつあった。その変化は瞬く間に多くの人々の想像の域を超え、これまで長きにわたって、総体としては安定した社会秩序を保ってきたメカニズムを破壊しつつあった。人びとが、新たに生まれた工場や蒸気機関車の走る鉄道を好奇心や遊覧の対象としている間に、怪獣はその巨大な足で既存の社会システムを踏み潰していたのだ。

産業革命期を生きた大作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)はご贔屓の作家なのだが、大作が多く全作品の3分の2くらいしか読んでいない。読み直すたびに新しい発見がある。200年近い年月を経ても、変わっていないと思う事も多い。この時期、ヴィクトリア時代のロンドンを知るには、この大文豪の作品を読むことが欠かせない。ディケンズの作品には当時の工場で働らく人たち、とりわけ貧困のどん底にあって虐待される子供たちの様子などが克明に描かれていて、もはやそこには牧歌的な農村の情景などはない。日没から夕暮れまで、自分のペースで日々を過ごしてきた農民や家内労働者たちはどこへ行ってしまったのだろう。

ディケンズも「靴磨き」をした
なぜ、ディケンズは貧民や児童労働に通じていたのか。この作家の生い立ちを調べてみて分かったのだが、ポーツマスに近いポートシーから家族がロンドンに出てきた翌年、父親が借金を返済できず収監されてしまう。働き手を失い、貧窮のどん底に追い込まれた家族のため、ディケンズは9歳で靴を黒く塗る工場 blacking factory で働らくことになった。ロンドンなどの大都市では、親方の縄張りの中で、町角などで靴を磨く「靴磨き」という職業も生まれていたが、靴工場で製品としての靴に色(多くは黒色)を塗り込む工員も増えていた。ディケンズはここで様々な体験をし、それは後々の作品に姿を変え登場する。父親が出所した後、ディケンズは学校へ戻ったが、当初志した上級の学校へ進学することはできず、中途で議会関係のレポーター(ジャーナリスト)として生きることになった。これらの経験は、彼の文才と相まってディケンズを世界的な小説家へと押し上げる。

ディケンズはその後次々と傑作を世に出し、イギリス、そして世界を代表する文豪にまでなった。しかし、ディケンズ自身は、自らが極貧ともいえる時期を過ごしたことを積極的に語ることはなかった。文豪の心理も複雑だった。

名作『オリヴァー・トウイスト』の主人公オリヴァーも、イギリスのとある町の救貧院で生まれた男の子で、生まれながらに孤児であった。その後、オリヴァーは苦難な日々を過ごし、ロンドンへ逃れたが、そこには凶暴な盗賊団が待ち受けていた。今日では、ディケンズの住んだ家のすぐ近くに救貧院があったことが判明していて、保存活動が進んでいる。

失われる職人の誇り
農村で十分に働く機会を得なかった農民たちは都市の工場へと駆り出された。彼等は新しい工場で課せられる様々な制約は、好きではなかった。さらにいままでとは違った技能の習得のあり方にも積極的ではなかった。これまで長らく職人の誇りでもあった親方に弟子入りして身についた熟練と、それを支える徒弟制は、次第に工場制へ取り込まれていった。

産業革命の中心であった木綿紡織工場では、従来家内工業といわれる場で継承されてきた糸を紡ぐ仕事は工場へ吸収され、機織り機は新しい紡織機械が取って代わった。そこでは、切れた糸をすぐに探し出し、腕力ではなく、か細い手指で手早く糸をつなぐ仕事が求められた。工場主たちは、若い、主として女子を労働者として雇用した。

劣悪な児童・女子の工場労働
1835年当時、イングランドでは木綿工場で働らく労働者のおよそ3分の1は、21歳以下だった。スコットランドではこの比率は2分の1近かった。彼女たちの中には7歳くらいの女の子もいた。工場主側は10-12歳くらいの子供たちを選んだことが多かった。工場によっては成人は監督者ただひとりだった。こうした状況は、ビヒモスがその足を北米に伸ばした時もそうだった。最初の頃は多くの工場主が昼夜一貫して操業してきた。勤務のシフトは12時間交代か13時間交代で、夜食の時間として1時間が割かれたに過ぎなかった。

工場は機械の騒音と綿糸の屑や埃で息苦しいほど汚染されていた。しかし、子供たちをこうした劣悪な工場労働に送り出さない限り、生活できない貧窮した家庭が、ロンドンやマンチェスターなどの都市には増加していた。これも産業革命が生み出した社会的・経済的変化の一面だった。

初期の工場は十分な数の労働者を集めることができず、貧窮院 Workhouses といわれる孤児など身寄りのない子供などを養育するきわめて劣悪な施設からも子供たちなどを受け入れて働かせた。この実態は、当面ディケンズなどを読んでいただくしかない。ロバート・オーウエンがラナークの経営を引き受ける前までは、工場で働いていた子供の中には5歳くらいの児童もいた。1823年の法律では雇い主の許可なく2-3ヶ月で工場を離れた者は3ヶ月も収監された。

綿工業の重要性と過酷な労働
この時代の工場はすでにかなり多岐にわたったが、圧倒的な重みを占めたのは木綿繊維工業だった。産業革命の柱だったといえる。綿工場での児童や女子労働の劣悪極まる労働は、まもなく多くの人々の注目するところとなる。

劣悪な労働という点では、伝統的な家内労働などの分野を含めて多岐にわたったが、注目を集めることは少なかった。良くも悪くも綿工業は産業革命の中心だった。

イギリス社会に広く知られるようになった綿工業のユニークな生産システムと劣悪な労働条件は間もなく議会でも大きな論争の的となり、「工場法」Factory Act として知られる一連の規制立法が制定された。当時のイギリスには多数の産業があったが、この立法が対象としたのは綿工業だった。それも劣悪な状況で働いていた子供たちが対象だった。他の多くのイギリスの労働者にとってはほとんど目立った改善の効果はなかった。木綿工業が当時のイギリスにとっていかに大きな存在であったことが分かる。

産業革命はさらに一段とその速度を増し、イギリスのみならず、新大陸アメリカでもさまざまな問題を生む。

 

続く

 

追記:
PCを修理に出した後、日本語変換システムが’反乱’を起こして、原因不明の誤作動、誤変換続出。入出力のポイントも大きくしていますが、ご迷惑をおかけしています。幕引きの時が近いようです。

 

 

 

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怪獣ビヒモスを追って(3): 新しい工場の世界

2018年05月25日 | 怪獣ヒモスを追って

 

クライド河畔に生まれたニュー・ラナークの工場と工場町
Anthony Burton p.44, 1984 

 

ディケンズなどの小説を読んでいると、時々文字を離れて、当時の社会のイメージを画像などでより具体的に思い浮かべて確かめてみたいと思うことがある。もちろん、ディケンズの作品で映画化されたものもある。しかし、いつでも見られるという訳ではない。例えば、作家の後期の小説『ハード・タイムズ』Hard Times (1836)には、当時勃興しつつあった工場の雑音、騒音、振動、蒸気機関が生み出す蒸気、煙突の煙などの描写が次々と現れる。ディケンズ自身、これらの新しい変化にはかなり関心を持っていたようだ。それまでの社会では経験したことのない音や空気などの雰囲気に文豪は関心を持ったのだ。社会に何か新しいことが起きている!

イギリスの産業革命の過程で次々と生み出された大工場は、それまでの時代とは異なるいくつかの特徴を持っていた。とりわけ毛織や木綿の紡織工場は、当時存在した伝統的な中小の企業とは全く異なっていた。建造物の大きさ、規模という点でみると、イギリスには中世から続く大寺院や修道院などがあり、規模でもはるかに巨大であった。そのほか17-18世紀頃からは病院、倉庫、事務所など、新興の大工場よりも規模が大きい建造物はすでに多数あった。

しかし、産業革命で生まれた工場は、全く新しいタイプの建造物だった。内部には水力や蒸気で動く重量のある機械類があたりを圧倒し、その間を縫うように多数の労働者が働いていた。見たことのない複雑な動きをする機械が轟音を発し、人の目を奪うような速度で動いていた。19世紀の前半には力織機 power loom が次第に増加した。これまで見慣れてきた手織りの織機とはまったく違っている。工場内に光を取り入れる必要もあって、独特の3角形をした屋根も考案、導入された。強力な鉄鋼を使った鉄骨の開発もあって、5階建の工場なども現われた。冬の寒さを和らげるよう、各階へ暖風を送る仕組みも生まれていた。文字通り、新たな「工場の体系」が根をおろしつつあった。

イギリス社会が何か新しい力で動かされていると感じた人もいた。産業革命は怪獣ビヒモスの単なる一歩か、それとも大きな一歩だったのか。産業革命の人類史的意義が問われ続けてきた。最近、この時代に新たなスポットライトが当てられている。長く続いた「工場制の時代は」21世紀で終わりを告げるのだろうか。

産業革命初期、大工場はしばしば人里離れた地域に建設されたが、人手の確保のために労働者のための宿舎、学校、病院など、小さな町のような光景を生み出すこともあった。他方、新たに生まれた工場には多くの見方が生まれた。その中で注目すべきは、「時間」のもたらした衝撃だった。これらの工場は、「時間」という新たな監視人で見守られる「監獄」のようになったとも形容された(Landes)。仕事の量や速度、多くのことが時間で決められる。しかし、多くの労働者は時計を持っていなかった時代であった。それまではせいぜい日の出と日没さえ大体わかれば仕事や家庭での生活には支障がなかった。

工場がツーリズムの対象に
こうして生まれた工場町には、イギリス国内のみならず、ヨーロッパ大陸、さらに新大陸アメリカからも様々な目的で旅行者が増えた。「工場ツーリズム」”Factory Tourism”と呼ばれた人の動きが始まった。あたかも近年の日本観光ブームの先駆のようなものだった。19世紀前半、1835年にマンチェスターを訪れたトクヴィル Alexis de Tocqueville は、それまでの建物と比較して、巨大な宮殿のようだと形容したといわれる。当時、人々が競って訪れた工場町のひとつに著名なニュー・ラナーク New Lanark があったが、現代人の目で画像を見ても、巨大で斬新な感じを受ける。外観ばかりでなく、工場の内部で目にした機械の力強さ、斬新さ、絶え間ない動き、生産性などには、当時の人々は、文字通り耳目を奪われたようだった。急増したツーリストを相手とする新しい店やアミューズメントも生まれた。ビヒモスの走り出しは好調のようだった。。 



ロバート・オウエンの革新

*ニュー・ラナークは今日では世界遺産に登録され、18世紀の紡績工場を復元したモデル・ヴィレッジとなっている。ここは、空想的社会主義者として知られるロバート・オウエンが構想し、築いた工場町でもあった。理想が感じられない現代の社会主義に対して、オウエンの構想はアイディアに溢れていた。その多くは現代的視点で見ても極めて新鮮である。折よく『オーウエン自叙伝』(五島茂訳、岩波書店、1961, 2018)が復刊された。若い世代の人たちにお勧めしたい本の一冊である。原著は、The Life of Robert Owen, Written by himself, 1857-58.いまになっても人類が実現できないでいる、驚くほど新しい考えに満ちている。


イギリス産業革命のその後を描き続けた画家 L.S.ラウリー

美術家が描きたいと考える対象は、多くの場合、なんらかの美的感覚に基づいて選ばれている。しかし、この画家は同時代の多くの画家たちは描こうと思わなかった工場やそこで働く人々の日常を好んで描いた。その結果は、今日時代とともに崩れ去ってゆく工場など産業革命が生み出した多くの足跡を今日に伝える貴重な資料として伝承されている。

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怪獣ビヒモスを追って(2):「工場制」システムの展開

2018年05月05日 | 怪獣ヒモスを追って

 

産業革命が生んだ煙突の山 

クリックで拡大

「工場制」という怪獣ビヒモスが世界を蹂躙、支配し始めてから、ほとんど200年が経過した。Information Technology(IT)やAIの発展で、近未来の工場制がどのような姿になるか、現時点ではほとんど明らかではない。これからの「工場制」がいかなる様相を呈するかは、日本の「働き方改革」にも関わることだ。来るべき仕事の世界の本質について、輪郭やイメージが納得できるほどには明確に提示されていない。多くの人々が共有できるような「仕事の世界」の全体的イメージが構想されてはじめて、真の「働き方改革」の方向も見えてくるはずだ。「働き方改革」は、さしずめ第4次産業革命の下での「工場法」にも相当する役割を負うはずだが、関係者の間にそうした認識は薄いようだ。

過去200年近く「工場制」の主流を占めてきた重厚長大型の生産様式も、かなり比重を落としたが、世界的視野でみると簡単には変われない。サービス化の進展に伴い、在宅勤務など、労働の形態が大きく変化するとされながらも、「工場制」がそのまま衰亡して行くとはにわかに考え難い。現に、現代中国などでは、見渡すかぎり労働者で埋め尽くされたような「人海戦術」的大工場も乱立している。18世紀産業革命期の新たな再現かと錯覚しかねない光景もある。

「工場制」が生まれ辿った歴史には、多くの興味ふかい点がある。その歴史のいくつかを見なおしてみて、今後の「仕事の世界」を展望する一助としたい。サービス化、IT化が進んだことで、労働市場の実態は大きく変化したが、これまでの主流であった「工場制」が消滅したわけではない。今日も産業革命の主流を占めてきた綿工業の変革にその一端を見てみよう。

 

操業中のミュール紡織機

産業革命と綿工業の重要性
前回、記したように世界最初の「産業革命」はイギリスに生まれ、世界へ拡大した。1721年に設立されたダービー・シルク・ミルは社名通り、絹を原材料として製品を製造することを目的としていた。しかし、イギリスで絹工業を大規模展開することは、原材料の質、入手難、消費者の好みなどで、競争力がなく、結局毛織物、木綿工業にシフトする。とりわけ、木綿工業は産業革命史において中心となる重要性を持つ。この意味で、筆者も綿工業の歴史には格別関心を寄せてきた。18世紀末のイギリスは綿花をエジプトや新大陸の奴隷により採取された綿花を含めて、世界中から輸入するほどになる。カール・マルクスが誇張はあるが「奴隷制なくして綿なし:綿なくしで近代産業はない」という言葉を残している。

紡錘から織布へ
イギリスの産業革命については膨大な資料が残るが、とりわけその中心となった木綿工業は驚くべき数に上る。その展開は、紡錘から織布へと次第に下流へ重点を移してゆく。1764年のハーグリーヴスのジェニー紡織機、18世紀後半のアークライトの水力紡織機、1779年のクロンプトンのミュール紡績機、1785年のカートライトの力織機など、画期的な発明が相次いだ。アークライトは大きな富をパテント収入から得ていた。

リチャード・アークライト()1732-1792)の肖像、背景に自ら開発した紡織機
Public domain 

動力も馬力から水力、そして1769年のワットの蒸気機関改良へと移行していった。綿工業はイギリスの産業革命を特徴づけたが、エイブラハム・ダービー2世のコークスを燃料とする製鉄法(1709)、ヘンリー・コートのパドル式錬鉄法(1784)の開発などもあって、幅広い分野での発展があった。


アークライトのノッティンガム工場は、300人近くを雇用しており、多くの子供が働いていた。のちにロバート・オウエンなどが取得したニュー・ラナークの工場は、1816年には1700人近くを雇用していた。その時までに、マンチェスターの蒸気機関による木綿工場には1000人以上雇用していた。当時としてはまさに巨大工場の誕生だった。工業機械の拡散という点でも、イギリスで作られた工業機械は1774 年に海外への輸出が禁じられたものの、1825 年には禁止が解除され、海外へ広く輸出されるようになる。大陸ヨーロッパ、アメリカへとビヒモスの足が伸びてゆく。


いうまでもないが、工場制は単に大きな建屋に機械設備を設置し、労働者をかき集めるだけでは、能率も上がらなければ、円滑な運営もできない。工場制は並行して開発・導入される経営管理のシステムと相まって、あるべき制度として機能し始める。そのためには、長い歴史の経過に伴う熟成が必要である。


煙突が林立するアルザスの産業革命  

 2014年には世界の綿工業をテーマとしたスヴェン・ベッカート『綿の帝国:グローバルな歴史』という大著が刊行され、高い評価を得た。今日では地味な印象を与える木綿工業がいかに長い歴史を持ち、複雑に入り組み、世界に巨大な足跡を残してきたかを再認識させられる。

Reference
* Sven Beckert, Empire of Cotton: A Global History: New York : Alfred A.Knopf, 2014

 追記(2018年5月6日) NHKBS 『三和人材市場:中国、使い捨てられる若者たち』
TV番組で、日給1500円で働く若者たちのドキュメンタリーを観た。1日働き、そこで得た賃金で3日遊ぶという繰り返しの日々を過ごしている。ネットとカフェ と安宿が彼らの世界だ。工場は11時間拘束され、簡単にはやめられないから、8時間のカフェで働らく方がよいという。彼らの多くは両親が都会に出稼ぎに行った後の「留守児童」が、家庭が壊れて農村にもいられなくなり、深圳などの都会へ出てきた若者だ。これも資本主義と「工場制」が結びついた「ビヒモス」の足跡と言えるだろう。

 
 続く

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怪獣ビヒモスを追って(1): 工場制の盛衰

2018年04月28日 | 怪獣ヒモスを追って

 

Sir Thomas Lombe's Derby Silk Mill in 1835
Source: Freeman 2018, p.2 

イギリス産業革命のモデル的工場として建設されたダーヴィー絹工場(1835年)

 

産業革命以降の歴史の流れを辿ると、改めて述べるまでもなく工場が生産にかかわる領域は想像以上に拡大してきた。それまで手作りで加工されていたものが、いつの間にか工場生産になっている。

イギリス産業革命期を挟んだ時代に、同時代人が世の中をどう見ていたのかという観点で編まれた『パンディモニアム 』を繰っていると、記憶の底に沈んでいたさまざまなことがとめどなく思い浮かんでくる。現代の巨大な産業社会を生み出した先人たちの努力、そして彼らを背後で強く駆り立てていた「工場制」factroy system についての思いが脳裏を駆け巡る。その結果は「第4次産業革命」といわれる現代の産業社会にまでつながっている。

産業革命が生まれた頃、当時の社会はどんな状態だったのだろうか。そしてその後いかなる展開をたどったのだろうか。『パンディモニアム 』に収録された同時代人がさまざまに語っているが、イギリス産業革命の原動力として生まれた「工場制」factory system は、その後世界的範囲へ拡大しで瞠目すべき大発展を遂げた。

 

18世紀中頃、イギリスの田園地帯に次々と作られる工場のイメージ

The Cyclops Works. drawing, probably in pen and ink heightend with wash and bodycolour, c.1845-1850. Photolithographic reproduction frm Messers Charles Cammell and Co. Ltd. (Sheffield: privately published, n.d. ), opp.1. Sheffield City Libraries.(Barringer p.194)


18世紀初め、イギリス中部ダービーシャーDerbyshire に初めて作られた John and Ghomas Lombe’s Brothers による絹工場は、5階建ての煉瓦作りの近代的建物であり、その巨大さと斬新さで当時の人々の大きな関心の的となり、見学者が長い列をなした。ダニエル・デフォー、アレクシス・ド・トクヴィル、チャールズ・ディケンズ、クワメ・エンクルマなど内外の著名人がこぞって訪れた。多くの人たちはこうした革命的変化の原動力である工場制と資本主義の負の側面には気づくことなく、わずかに、マルクス、エンゲルスなどの一部の経済学者たちがビヒモスの本質と結果を見通していた。

同時代の力織機を使った製糸工場内部

J.W. Lowry after James Naysmith, Power Loom Factory of Thomas Robinson, Esquire, Stockport, 1835.   Engraving, published by Charles Knight, frontispiece to Andrew Ure, The Philosophy of Manufactures: An Exposition of the Scientific, Moral, and Commercial Economy of the Factory System of Great Britain (London:Charles Kinght, 1835, Yale University Press Library.

イングランドの緑溢れる田園地帯に突如として現れた巨大な工場は、力織機を中心にし一貫した生産体系で、動力は23 フートの巨大な水車が訪れる人の目を奪った。ここに産声をあげた「工場制」なるシステムは、蒸気機関の発達などと相まって、さらに資本主義という激流と重なり合い、その後2世紀近くの間に、あたかも巨大な力を備えた「怪獣ビヒモス」のごとく、ヨーロッパ全土、アメリカ、日本などを蹂躙し、急速に世界を席巻する潮流となる。

最近のBREXIT問題やロナルド・トランプの発言を巡る騒動は、アメリカやEUにおける工場の盛衰と必ず一体となって提起される。例えば、鉄鋼、アルミニウム、自動車などの工場の盛衰である。これまで競争力のある国の工場から別の国への移転、他の地での新生、再生とリンクしている。

ブログ筆者は、これまでかなりの数の事例を目にしてきたが、かつての巨大な溶鉱炉が火を落とし、煙を吹き上げていた煙突群も次々と破壊されてゆく光景は見るに忍びないところがある。それまで繁栄していた工場都市といわれた光景とそれと切り離し難い地域の人々の生活スタイルも大きく変わる。東北大震災被災地のような場合は、衰退の原因は異なるが、近似する部分が多い。かつての繁栄の象徴も産業の盛衰とともに大きく姿を変える。

工場制盛衰の膨大なアンソロジーを展開することがここでの目的ではない。それはとてつもない仕事であり、多くの蓄積がある。その中から薄れた記憶が蘇る限りで、印象に残るいくつかの点をシリーズで記してみたい。

「工場制」factory system という巨大怪獣「ビヒモス」はイギリスで生まれ育ち、ヨーロッパを経て、新大陸アメリカへも影響力を拡大する。最初にビヒモスが足を踏み入れた北東部ニューイングランドも自然に恵まれた田園地帯であった。最初に工業化のモデルとなった綿工業は、ローウエル(マサチューセッツ州)に代表されるようにパターナリスティックな経営であった。全寮制で就業後には農村から出てきた若い女子の独立した人間としての育成にも応分の配慮を加え、宿舎において、詩集、文学などの手ほどき、工場生活を終わった後の女性としての独立への準備などさまざまな教育が行われていた。「ローウエル文学」の名で後世にも知られる。

しかし、その後、こうした牧歌的な労働環境は、猛々しさを加えた「工場制」ビヒモスによって排除淘汰され、厳しい経営、労働環境へと移行して行った。綿興行の南部原綿産出地への地理的移動も産業の性格を大きく変容させた。

19世紀に入ると、鉄鋼、自動車などの分野で、アンドリュー・カーネギー、ヘンリー・フォードなどの優れた経営者が輩出し、「工場制」の実態も大きく変わり、その後のアメリカ産業の基盤につながる発展を遂げる。さらにビヒモスの足跡はさらに拡大し、そのフロンティアは中国やアフリカへ移り、強大な怪獣の容貌を見せている。

「工場制」はアンビヴァレントな(愛憎併せ持つ)特徴を持っている。とりわけ、産業革命初期には巨大な生産力を持った工場が生まれ、仕事を創り出すなどのプラス面を提示した反面、故郷を失った労働者を多数生み出し、同時にかつてない貧困な都市下層を作り出した。こうした階層の分裂は、所により姿を変え、今日にいたり「格差問題」など深刻な問題をグローバルに露呈している。


 

References
Joshua B. Freeman, BEHEMOTH: A History of the Factory and the
Making of the Modern World, New York: Norton, 2018.

「工場制」システムの今日にいたる歴史を概観するには、簡潔に描かれ、分かりやすい良書である。惜しむらくは画像、図版の印刷があまり良くない。

Tim Barringer, MEN AN WORK・Art and Labour in Victorian Brotain, Published for the Paul Mellon Centre for Studies in British Art by Yale University Press, New Heaven & London, 2005

本ブログ内シリーズ「L.S.ラウリーとその時代」は、産業革命発祥の地マンチェスター周辺における産業と地域、人々の生活を丹念に描写した稀有な画家の生涯と作品について記したものである。

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