時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

歴史の軸を溯る(4):「コンスタブルの国・故郷」へ

2021年02月28日 | 絵のある部屋



ジョン・コンスタブル(1776~1837)はイギリス美術界では、今でこそジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(1775~1851)と並ぶ国民的巨匠の地位を確保しているが、その生涯は順風満帆というわけではなかった。

コンスタブルが生まれた1776年はターナーの1年後だったが、名誉あるロイヤルアカデミーの正会員として入会を認められたのは、1829年、52歳とかなり遅かった。これに対し、ターナーは1802年、26歳の時だった。二人ともにロイヤルアカデミーの附属美術家養成課程に在学したことも同じであった。しかし、コンスタブルの画家としての評価は生前のこの事実にも象徴されるように、決して恵まれて華やかなものではなかった。

コンスタブルはしばしばターナーと比較されてきた。ターナーは画題も極めて広く、水彩から油彩、伝統的な風景画から抽象画に近いものまで、常に斬新で革新的な試みを続けた。

これに対して、コンスタブルの画風は保守的であり、画題も古典的、平穏な郷土の自然、風景を緻密に描いた。画家の好んで対象としたは、’Constable Country’として知られる郷土近傍の自然描写にかなり限定されていた。この場合の’ country’ とは、この地の風景を描かせたらコンスタブルに比肩する者はいないという、画家と土地・地域が切り離せない領地 domain あるいは王国のようになっているという意味である。そこは画家が生まれ育ち、生涯こよなく愛した田園が広がる故郷でもあった。画家の生前の活動範囲と合わせて、今日ではおおよその輪郭・線引きがなされている。

コンスタブルの風景画で特筆すべき点のひとつは、日常の絶えざる風景、気象の観察に基づく濃密な自然描写であり、時代を追ってイギリス人の間に根強い愛好家を生んでいた。この地域に少し住んで旅してみると、コンスタブルの描いた空のようだと思ったこともしばしばだった。

ターナーとコンスタブル
ターナーがロンドン、コヴェントガーデンの理髪師の家に生まれ、都会っ子であったのに対して、コンスタブルは豊かな自然と田園風景が広がるイングランド東部サフォークの裕福な製粉業者の家の生まれだった。そして地域の風景に制作の対象をほぼ限定していた。出自の違いは、二人の画家の制作環境、対象に強く影響していた。

ターナーと比較して、コンスタブルの作品には見る人を瞠目させるような動的な要素は少ない。平穏そのものとも言える風景が濃密に描かれている。コンスタブルの作品はイングランドよりもフランスで高い評価を得て、作品の多くはフランスで人気があった。バルビゾン派に影響を与えた画家でもあった。その後、コンスタブルの作品はイギリス人の間でも急速に人気が高まり、ゲインズバラ、ターナーと比肩する風景画家としての地位を得るまでになった。

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N.B.
生い立ち
画家コンスタブルはイングランド、サフォーク、イースト・バーゴートの豊かな穀物商人で製粉業者ゴールディング・コンスタブルと妻アン(ワッツ)の間に、次男として生まれた。ゴールディングは最初は 同地のフラットフォード、その後エセックスのデダムのミルを所有、経営していた。小麦粉、穀物などをロンドンに運ぶために小さな船 The Telegraphも所有していた。夫妻には三人の息子と三人の娘がいた。ジョンは4番目の子供だった。

長男は知的障害があったようで家業の後継者にはならなかった。そのため次男のジョン・コンスタブルが継承すると期待されていたが、本人はそのつもりはなかったようだ。ジョンは短い期間ラヴェナム Lavenhamの寄宿学校に在学したが、家業を継ぐことには乗り気でなく、その後デダム Dedhamの学校へ移って歩いて通学した。卒業後、しばらく穀物の商売に関わったが、1799年、コンスタブルは父親を説得し、画家になることを承諾させた。ロイヤルアカデミーの附属学校へ見習生として入学、オールドマスターの技法などを学んだ。画家がこの時期に学んだ大家の中にはクロード・ロランなどに並び、かつて本ブログにも記したゲインズバラも含まれていた。製粉場の経営は、いつの間にか弟エイブラハムが引き継ぐようになっていた。

ジョン・コンスタブルの父親は家業の後継者と考えていたジョンが画業を志すことについては、あまり良しとしなかったが、次第に考えを改め、ジョンが40歳近くになるまでは金銭的支えなどもしていたようだ。むしろ、母親の方がジョンの隠れた才能を認めていたといわれる。さらに、生家の近くの素人画家がジョンの画業への志を支えたようだが、ごたぶんにもれずジョンの父親とは良い関係ではなかったようだ。父親とジョンの意思決定にかなり強い影響を与えたのは、ジョンが19歳の時出会ったサー・ジョージ・ボーモン Sir George Beaumontというアマチュアの美術家であり、富裕な美術収集家であったともいわれている。さらに、ジョンはその後に出会った画家などから絵画制作の手ほどきを受けたようだ。こうした経緯の後に、1799年父親はそれまでの頑なさをやや緩め、ジョンがロイヤルアカデミーに入学するに必要な資金援助をすることにしたらしい。他方、ジョンはアカデミーが歴史画や肖像画を重視し、そのための指導に重点を置くことに意気喪失したようだ。そして風景画の制作のために郷里に戻った。

このように、未だ幼い少年、若者の隠れた才能を見出すに何が契機となったかという問題は、このブログで取り上げているラ・トゥールの場合と比較しても興味深いものがある。

今回は、コンスタブルが作品制作の主たる対象としたいわゆる’Constable Country’の中で、画家として自立する前に過ごした地について、ブログ筆者が感じた限りで記しておく。画家の生涯では中心的部分では必ずしもないが、幼い時期の体験は後に大きな動機となることもある。一般に'Constable Country' と呼ばれるこの地域は SuffolkとEssexの境界地域、東のWalton-on-the-Nazeと西のCastle Hedinghamに挟まれる領域である。

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中世以来の珠玉のような土地:ラヴェナム
ここに紹介するラヴェナム Lavenham は、15ー16世紀半ばまで、ウールの生産、織布で繁栄した町である。画家はこのローカルな寄宿舎学校で、短いが画家を志す心が満たされない時期を過ごした。いじめにも会ったようだ。人生の行方定まらず、鬱々と過ごした日々もあったのだろう。

繊維業に関心を抱いていた筆者は、在英中に数度この地を訪れたことがあった。近くにあるロングメルフォードと並び、ウールの織布加工で繁栄した町である。ラヴェナムは、美しい木造の家々が今に残り、大変興味深い。街並みを彩る家々の中には、年月の経過とともに歪んだり傾いたものもかなりあるが、地震国でないイングランドでは幸いそのままに保存されてきた。16世紀ラヴェナムのウール産業は、オランダの難民がコルチェスターで始めた、より安価でファッショナブルな企業に立ち遅れ衰退したが、財政困難で古い建物を新しくする余裕が生まれなかったことが、今日に残る趣きある街並みを残しているといわれる。


Lavenham Wool Hall, built in 1464


傾き歪んだ家々

St Peter and St Paul's Church

スワン・ホテルといわれる今に残るホテルも美しく、当時の面影を伝えている。ギルドホール、15世紀の教会 St. Peter and St. Paul, Lavenhamはサフォークで最も素晴らしいとされ、「イーストアングリアの宝石」ともいわれる。イングランド有数の規模でもある。

コンスタブルがラヴェナムを去り、ロイヤルアカデミーでの修業など、いくつかの体験を経て本格的に画業に専念してから制作した作品のひとつに、デダム・ヴェール Dedham Valeと題した作品がある。デダムはエセックスとサフォークの境界に近い自然の風景の美しい場所である。画家の家から遠くなく、頻繁に足を運んでいたようだ。

26年後の制作では
1802年、コンスタブルが26歳の時、今日、画家の主要な作品のひとつと考えられるDedham Vale と題した最初の大作を描いている(Victoria and Albert Museum, London所蔵)。それから26年後の1828年、画家は同じ場所に戻り、The Vale of Dedham(National Gallery of Scotland, Edinburgh所蔵)と題したほとんど同じ構図の作品(下掲)を制作した。

大変興味深いのは、この作品にはジプシーの母親が焚き火の傍らで子供をあやしている光景が小さく書き込まれていることにある (どこであるか、お分かりですか)。そこは、ジプシーがキャンプするに適した場所ではあった。画家が以前の作品とは異なるジプシーの姿を描き込んだことについては、画家は何も書き残していない。1820年代はサフォークは農業不況で社会不安も醸成されていた。画家はそれについて何らかの思いを抱いたのだろうか。それとも、ほとんど緑色の画面に一点赤色を加筆することで画面の活性化を意図したのだろうか。ちなみに本ブログではジプシー(ロマ)については、かなり多くの記事を掲載している。
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コンスタブルの生涯並びに作品の対象として著名になった今日では、’Constable Country’ を歩いたり、自転車、ボートなどで尋ね、画家が選び抜いたと思われる場所を発見することも可能になっている。世界的なコロナ禍で人々の移動が制限され、展覧会も大きく減少している今、「コンスタブル展」は、イングランドの静かな風景を居ながらに楽しむ得難い機会でもある。



John Constable, The Vale of Dedham, National Gallery of Scotland, Edinburgh
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​歴史の軸を遡る(3):「コンスタブルの国・故郷」へ

2021年02月23日 | 絵のある部屋

ウインダー Winderは前回取り上げた歴史旅行の本で、17世紀のフランス(正確にはロレーヌ公国)の有名画家として、ラ・トゥールについて記すとともに、ロレーヌ生まれながらイタリアで画家としての人生を終えた風景画家 クロード・ジェリ(ロラン) Claude Gellée ( Lorrain, ca.1600~1682)も取り上げている。

S
imon Winder, LOTHARINGIA: A Personal History of France, Germany and the Countries In Between, 2019, p.257


ロレーヌ生まれだが・・・・・
クロード・ジュリ(ロラン)は、生まれは現代のフランス、ロレーヌ、ラ・トゥールが工房を持ったリュネヴィルの南西に位置するシャマーニュの町に生まれた。貧困な家庭環境だったが画業修業のためイタリアを訪れてから、画業生活のほとんどをローマなどイタリアで過ごし、終世故郷に帰ることはなかった。しかし、画家がロレーヌを愛していたこともあって、ロレーヌのクロード・ロラン ’Le Lorrain’として知られていた。

ヴィンダーは17世紀フランス画壇の3大巨匠とされるラ・トゥール、プッサン、クロード・ロランの中で、プッサン(ノルマンディ生まれ)、ロラン(ロレーヌ生まれ)の二人は一応フランス(文化圏)生まれではあるが、画家としての活動はほとんどイタリアであったという点で、直ちにフランスの巨匠と考えるのは一寸おかしいとしている。この点はブログ筆者も以前に指摘したことだが、フランス美術界とすれば、フランスの栄光誇示という点ではフランス人画家として考えたいのだろう。

風景画好きなイギリス人



クロード・ロラン『シルビアの雄鹿を撃ったアスカニウスのいる風景』Landscape with Ascanius shooting the Stag of Sylvia、油彩、カンヴァス
アシュモリアン美術館、オックスフォード大学

その点はともかく、ウインダーはオックスフォード大学のアシュモリアン美術館所蔵のクロード・ロランの歴史風景画の作品『シルビアの雄鹿を撃ったアスカニウスのいる風景』Landscape with Ascanius shooting the Stag of Sylvia をめぐり、夫妻の間で評価が別れた逸話を記している。ロランは神話を主題とした風景画家で名声を確立した画家だが、風景画のジャンルは長年低い位置づけに甘んじてきた。そのため、評価がかなり別れることがある。ブログ筆者は、風景画は比較的好きだが、特にイギリス人、男性が好む人が多いという印象を持っていた。イギリス滞在時、ロイヤルアカデミーでの風景画の展覧会で、見ている人のほとんど全てが男性という場面に出会ったこともあった。

この作品、アシュモリアン美術館で見た時、クロード・ロランの影響を受けたと言われる古典的風景画の作品として大変美しいと思ったが、イギリス人の好きな多くの風景画の中に含めると埋没しかねないとも感じた。

コンスタブル展
他方、コロナ禍の下、各地の美術展などが次々と中止されてきた中で、東京の三菱一号館美術館で本年2月20日から『
テート美術館所蔵 コンスタブル展』が開催されることになった。コンスタブル (あるいはカンスタブル) John Constable (1776~1837)は、ブログ筆者にとってはかなり懐かしい思いがする画家である。このブログでも「ンスタブルの世界」「牧歌は聞こえない:イギリス労働」など何度か記したことがある。



ジョン・コンスタブル『ベルゴート・ハウス』
John Constable, East Bergholt House, c.1809,
Turner Collection: John Constable: Nature And Nostalgia
Oil paint on canvas
Presented by Miss Isabel Constable 1887 

筆者はかつてケンブリッジ大学に滞在中に、暇ができると自ら車を運転して何度もコンスタブルが描いたイーストアングリア、さらに北東部イングランドといわれる地域を訪れたことがあった。西はケンブリッジから東は提携校 University of Essexのあるコルチェスターをカヴァー、北はキングス・リンからノーリッジをカヴァーする地域で、風景ばかりでなく、ピューリタン運動などイギリス史の上でも、重要な地域である。

 コンスタブルはクロード・ロランのことを「世界が今まで目にした最も完璧な風景画家」だと述べ、クロードの風景では「全てが美しく-全てが愛らしく-全てが心地よく安らかで心が温まる」と絶賛している。クロード・ロランの他、コンスタブルが影響を受けたと思われる画家としては、 トーマス・ゲインズバラ, ピーター ・ポウル・ルーベンス,アンニバレ・カラッチ、ジェイコブ・ライスデイルなどが挙げられることが多い。

さらに、コンスタブルはターナーと全く同時代の画家であり、ジャンルも重なる部分が多かった。二人の画風の特色、ライヴァル関係は美術史的にも極めて興味深い。

コンスタブルはサフォーク州イーストバーゴルドの裕福な製粉業者の家庭に生まれたが、生家は19世紀中頃に取り壊された。ただ生家の前面部分(上掲作品左上の館)だけは画家の作品 East Bergholt Houseから知ることができる。

コンスタブルの作品制作の対象となった地域は East Bergholt, Dedham Vale, など、彼の家の近隣地域が多く、今では「コンスタブルの国・故郷」“Constable Country”として知られている。この点については、次回にしよう。





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歴史の軸を遡る(2):国境が生まれた頃

2021年02月19日 | ロレーヌ探訪



前回記した「ヨーロッパの操縦室」と言われたロタリンギアの地も17世紀に入ると、かなり変わってきた。神聖ローマ帝国とフランス王国との間に挟まれたように、小さな国のようなロレーヌ公国 Duchy of Lorraine が生まれた。Lorraine(ロレーヌ)の語が公文書で使用され始めるのは 15世紀前後のことである。

ヴェルダン条約の締結
AD843年、フランク王ルイ1世(敬虔王)の死後、息子であるロタール、ルートヴィッヒ(ルイ)、シャルルの3人がヴェルダンに会して、残されたフランク王国を三分して支配することを定めた。歴史上、ヴェルダン条約として知られる。イタリア、ドイツ、フランスの3国が形成される出発点といえる。しかし、それまでの間、この地はしばしば激動の渦に巻き込まれた。例えば1562年には、かつてはロレーヌの領土であったメッス、トゥール、ヴェルダン司教領をフランス王アンリ2世が占領するなどさまざまな変化が起きている。

ロレーヌの名で知られる地域は、現在のフランスの北東部、「聖なるペンタゴン(六角形)」の一角にあたる。1766年フランスへ統合されるまで、ロレーヌ公国 Duchey of Lorraine として、多くの波乱、激動を経験した地である。

ロレーヌ公国といっても、現代の我々が思い浮かべるような境界線(国境)によって明瞭に他国と隔てられ、あらかじめ定められた地点からのみ入出国が許され、国家による出入国管理が行われる現代の国境事情とはきわめて異なる様相を呈していた。国や国家という観念自体が未成熟であった。

この点を17世紀初め、1600年頃のロレーヌの地を示した図で見てみよう。


Source: Tuillier, Georges de La Tour, Flamarion, 1993 p.6

一見して明らかだが、あたかもロレーヌという海に幾つかの司教領が島のように散在するようなイメージである。こうした司教領などの領邦都市や町はしばしば高い城壁で堅固に囲まれた城郭都市であった。

説明:
地図: 1600年頃のロレーヌ
薄黄色:ロレーヌ公国(Duchy of Lorraine公領)
薄緑色:メッス司教領
紫色:トゥール司教領
オレンジ色:ヴェルダン司教領

この時代、17世紀フランス画壇の巨匠とされる画家ラ・トゥールが生まれたVic=sul=Seille(通称Vic) はメッス司教区の飛び地であった。画家がその後貴族の娘と結婚し、移住を希望したリュネヴィル Lunevilleはロレーヌ公国にあり、ロレーヌ公の夏の居城が置かれていた。そのため、ラ・トゥールはロレーヌ公にヴィック(メッス司教区)から妻ネールの生地であるリュネヴィルに移住を希望する請願書を提出している。

当時、ロレーヌ公国の首都は近くのナンシーであったが、リュネヴィルにはロレーヌ公の夏の居城があった。




17世紀のロレーヌは、30年戦争の舞台となるなど、多くの波乱、激動を経験した地域であった。それにもかかわらず、この時代の美術界を代表する画家たちも生まれ、後世に残る大家も生まれ、シモン・ヴーエ(1590-1649)、ジャック・カロ(1592-1635)、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)などのように、画業の修行・遍歴をした後には主としてロレーヌで活動した。しかし、ニコラ・プッサン(1594-1665)、クロード・ロラン(ジュレ:1600-1682)などは、ロレーヌの生まれでありながら、イタリアへ赴き、その後ロレーヌに戻ることはなく、イタリアで画家としての活動を続けた。興味深いことは、こうしたフランスではほとんど活動しなかったプッサンやロランなども、フランスでは自国の美術界の巨匠に数えている。

前回取り上げた歴史旅行家のSimon Winderは、17世紀ロレーヌ生まれの画家についても記しているが、別の機会に紹介することにしたい。

参考:
リュネヴィルの城郭図




ナンシーの城郭図 旧市街と新市街の対象に注意!


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N.B.
ナンシーの誕生は、11世紀の ロレーヌ公 ゲラルト1世が建てた封建時代の城に遡る。その後彼の子孫によって ロレーヌ公国の首都になった。
1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世]によって町は放火され、徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。
1477年、ナンシー郊外で ブルゴーニュ戦争 最後の戦いである ナンシーの戦い が起こり、 シャルル突進公が敗北死した。
17世紀 フランス国王は宰相リシュリューの考えもあって、ロレーヌの領有を強く目指すようになった。 30年戦争により神聖ローマ皇帝の権威が低下する中、リシュリュー枢機卿は 1641年 にロレーヌの占領を強行した。 1648年 の ヴェストファーレン条約 でフランスはロレーヌの返却を余儀なくされたが、ロレーヌの東にある アルザス においていくつかの地点を獲得した。
1670年にフランスは再びロレーヌに侵略してロレーヌ公 シャルル4世を追放した。
18世紀、ロレーヌ公の地位にあった ポーランド王 スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国は フランス王国に併合されたが、ナンシーはそのまま州都になった。



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歴史の軸を遡る:「ヨーロッパの操縦席」の淵源

2021年02月13日 | ロレーヌ探訪

Simon Winder, LOTHARINGIA, Picador: London, 2019, cover

新型コロナウイルスがもたらした危機と混迷の世界を離れて、しばらく歴史の軸を遡ってみる。手がかりとしたのは、友人の紹介で知った上掲の一冊である。ヨーロッパの歴史と個人的な旅の経験を組み合わせたユニークな構成である。

ちなみに、本書はEdward Stanford Travel Writing Award 2020 を受賞している。

前回の記事(「世界の仕組みを理解する」)で提示した近代の始点となる17世紀ヨーロッパは、美術の世界では画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、レンブラント、プッサン、フェルメールなどが生まれ、活動した時代であった。それぞれ活動の地点は異なっていたが、このブログの中心テーマであるラ・トゥールについてみると、画家が生きたロレーヌといわれる地域は、17世紀当時フランスと神聖ローマ帝国に挟まれ、かなり複雑な政治地理的状況に置かれていた。その淵源を求めてさらに遡ってみる。

ロタリンギアが生まれるまで
非常に遠い昔、そして長い間、ヨーロッパに現在のフランスとドイツを含んだロタリンギアという今ではあまり知られなくなった地域があった。現在はフランス領であるロレーヌはその一部であった。ロタリンギアは、現在のヨーロッパでみると、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス東部、ドイツ西部、スイスなどいくつかの国からなっていた。この地域の一部は「バーガンディ」Burgundy (ブルゴーニュ)の名でも知られていた。

AD843年、シャルルマーニュ大帝の曽孫3人がヴェルダンに集まった。大帝の死後に残された広大な領地をめぐり、誰がそれを継承するか激しい争いが続いていた。ようやく決着がついたのは、領地を3つに分け、それぞれに統治するという解決だった。簡単に言えば、その後のフランス、ドイツに分割し、残されたのは両者の間にあるロタリンギアという第三の地域だった。その後のヨーロッパの歴史は、概して言えばこの大きな領地分配とその後の統治のあり方でそれぞれの運命が微妙に定まったといえるほどだった。



「ヨーロッパの操縦室」
とりわけ、この第三の地域は、現在のフランス東部、ソーヌ川流域を中心とする地方にほぼ相当し、9世紀に一時王国となったが、10~17世紀には公国、革命前にはフランス国内の一部であった。かつての支配者であったシャルルマーニュ Charlemagneの子孫に敬意を表して「ロタールの地」’Land of Lothar’として知られ、「ロタリンギア」LOTHARINGIA (ドイツ語でLothringen, フランス語でLorraine)と呼ばれていた。現代史では時に「ヨーロッパの操縦室」’cockpit of Europe’とも言われる重要な地域である。しかし、その背景を知る人は意外に少ない。

本書は著者サイモン・ウインダーの3部作 GERMANIA, DANUBIAに続く著作である。ゲルマニア GERMANIA, ダニュービア DANUBIAは実在しないが、ロタリンギア LOTHARINGIAは実在した地域である。著者が各地をめぐり蓄積した個人的な見聞資料を歴史の中に埋め込んだ本書はあまり例がなく、極めて興味深い。東西から虎視眈々と領地を狙う勢力に対抗した ロタリンギアの人々 Lotharingians は、究極的にはオランダ、ドイツ、ベルギー、フランス、ルクセンブルグ、そしてスイス人になっていった。数世紀にわたり、ロタリンギアはヨーロッパ屈指の美術家、発明家、 思想家などを生み出すとともに、多くの貧しく救いのない人たちの征服者に対抗してきたともいわれる。

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シャルルマーニュ(フランク王国カロリング朝の王。768年即位、800年ローマ皇帝から(西)ローマ皇帝の冠を受けた。カール大帝、チャールズ大帝(742~814年)

シャルルマーニュが支配した広大な領地は、West Francia (後のフランスの中心部分)、East Francia (神聖ローマ帝国の中心部分)、そしてMiddle Francia (中部フランシア)という地域に分かれていた。この中部フランシアは、最初はロタール I世に割り当てられ、後にロタールII世の支配下に置かれた。その後、中部フランシアは単なる地理的な名称となった。この地域は複雑な歴史があり、近代的な国家の概念で定義することはできなかったこともあって、しばしばロタリンギアの名で呼ばれてきた。このMiddle Franciaにはアーヘン Aachen (シャールマニュの居住地)や パヴィア Paviaなどの都市があったが、地理的にも、政治的にも重きをなさなかった。

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今日のフランスとドイツという顕著な国民性の差異がある両国が、厳しい分断、対決と協調を経験してきた歴史適時事情、多数の国の密接しての存在、地域共同体としてのEUの成立と今後など、多くのテーマを考える鍵がロタリンギアの誕生と歴史の中に秘められている。

ロタリンギアは、国際的な紛争、戦争が極めて激しかったことでも知られていた。問題山積で大変厄介な操縦室となっていた。時代は異なるが、ロンドン、パリ、ベルリン、マドリッド、ウイーンなどの都市は、相互に抗争する勢力の中核であったが、興味深いことに別の時期においては、さまざまに連帯、協力する関係が生まれていた。例えば、ルイXIV世、ナポレオンあるいはウイルヘルムII世、ヒトラーなど専制君主や独裁者でも、完全にこの地域を支配することはできなかった。

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N.B.
上記の「ロタリンギア」「ロートリンゲン」「ロレーヌ」と呼ばれるようになった領邦は、1766年まで存続した。

ロタリンギア分裂後、帰属を巡って抗争が起き、 10世紀に高(上)ロレーヌと低(下)ロレーヌの南北2公国に二分され、後者がやがて ブラバント公に帰属したため、前者が 11世紀以降は単にロレーヌと呼ばれるようになった。

13世紀前半まで 神聖ローマ帝国 の勢力下にあったが、13世紀後半より フランス王 の勢力が浸透し、 三十年戦争の際には事実上 フランス が占領していた。

その後も ロレーヌは17世紀末までフランスの支配下にあり、 ロレーヌ公国の公位は名目上にすぎなかったが、 1697年のレイスウェイク条約 で再び神聖ローマ帝国に帰属が戻り、 1736年まで ロートリンゲン公国 として 神聖ローマ帝国 の 領邦国家となっていた。

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EUの母体となったロタリンギア
ロタリンギアは多数言語、多数エスニックな地域でもあった。その形成、持続、そして消滅は、今日のEUの形成にもつながるものと考えられる。EUの最初のメンバー、ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ、フランス、オランダ、そしてイタリア(部分)は、元来ロタリンギアを構成した地域だった。

「ヨーロッパの操縦室」と言われたロタリンギア地域は、その後多くの変遷を経て今日に至っている。BREXITという大きな出来事も進行中であり、問題が解決したわけではない。EUの今後も波乱含みで予断を許さない。ロタリンギアというかつての「ヨーロッパの操縦室」の役割は、今はブラッセルのEU、そしてフランス、ドイツが担っている形だが、しばらく目を離せない。



追記:
この記事をアップしようと思っていた時(2月13日午後11時8分頃)、突如大きな地震があった。震源は福島沖でM7.3というかなり大きな規模であった。原発関連が現時点では大きなダメージを受けていないとのニュースにはやや安堵したが、建物など災害にあわれた方々には、心からお見舞い申し上げたい。図らずもこのブログの初めの頃に書いた寺田寅彦の随筆を思い出した。今回は2011年の東北大震災の余震とのこと。災害はコロナ禍の下でも待ってくれず、容赦なくやってくる。「日本の操縦室」は大丈夫だろうか。

参考追記:
本書と類似した試みとしては、先行して刊行されている。この作品も大変興味深い。
Graham Robb, The Discovery of Framce.Picador, London, 2007



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