時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

複雑きわまりない壁?:英北アイルランド・アイルランド問題

2019年02月24日 | 特別トピックス

北アイルランド(英国)とアイルランド国境地帯

 

世界の国境地帯は、近年、大荒れ状態といってよい。アメリカ・メキシコ国境、ヴェネズエラ・コロンビア国境、竹島・韓国、北方領土問題など、数限りない。

今日はその中で最も厳しい政治的・宗教的環境にあると見られるひとつの例を見てみよう。BREXITの成否を決する英・北アイルランド(Northern Ireland; 中心都市ベルファスト)とアイルランド国境問題である。これまで幾度となく緊迫した状況を呈してきた国境地帯である。

しかし、多くの日本人にとって、その実態を正しく理解することはきわめて難しい。ブログ筆者自身、半世紀近く見聞してきたが、心もとない点が多々ある。

後がないメイ首相
ついに政治的に崖縁まで追い詰められた英国のテリーザ・メイ首相だが、その強靭な意志と行動力には党派とか思想を超えて、ひたすら感嘆する。彼女の本意はEU残留であったと報じられている。しかし、国民投票に基づき、ひとたび与党がEU離脱の選択をした後は、あらゆる手段を駆使してその道を貫こうとしてきた。サッチャー首相やアンゲラ・メルケル首相などのしたたかさに通じるところもあるが、当然ながら彼女独自の個性による部分が多い。これまでの度々の危機にも関わらず、保守党党首として不信任案も切り抜けてきた。BREXITをめぐっては、与党のみならず野党労働党にも賛否両論があり、議論は混迷を極めてきた。傍目にもよく今日まで首相の座を維持してきたと思う。メイ首相は今でもなお、離脱協定の議会承認を獲得しなくてはならない。

イギリスの欧州連合(EU)離脱をめぐる交渉で鍵となったのは、英・北アイルランドとアイルランドの国境問題だ。イギリスとEUは11月に離脱協定をとりまとめ、この国境の扱いについても合意した。その過程で「バックストップ」(安全装置)なる措置が登場する。バックストップは、英国がBREXIT後の移行期間にEUと包括的な通商協定をまとめられなかった場合、アイルランド国境を開放しておくための最終手段だ。

現在、北アイルランドとアイルランドの間で取引されるモノやサービスには、ほとんど制限が設けられていない。現時点では英国もアイルランドもEUの単一市場および関税同盟の一員なので、製品の税関検査もない。しかしBREXIT以後は、これが変わるかもしれない。

EUは再交渉の可能性を否定しているが、「バックストップ」(安全装置)はあくまでも一時的なものだという主張を、より明確に提示するかもしれない。双方とも、BREXIT後にこの国境に検問所などを置く厳格な国境管理は避けたい考えだ。アイルランドと北アイルランドは別々の関税・規制体系となるため、製品は国境で検査を受ける必要が出てくる。英政府はこれを望んでいない。EUも、国境管理を厳しくしたくないと表明している。しかし、英国が関税同盟と単一市場からの撤退を固持している以上、これは非常に難しい。



避けたいハードな国境管理 
「バックストップ」は、いわばセーフティーネットだ。BREXIT後、包括的な協定や技術的な打開策で現行のような摩擦のない状態を保てない場合、アイルランド国境に適用される。EUは「バックストップ」の担保がないままでは、移行期間の設置も、中身のある通商交渉にも応じないはずだ。北アイルランド・アイルランド問題の複雑さは、並大抵のものではない。ブログ筆者も実態を十分理解しているとはいえない。国民投票のキャンペーン当時は、全く注目されていなかった問題が急遽浮上したのだから。

「北アイルランド」とは、カトリック中心のアイルランド島の南部が1920年代にイギリスから独立するに際し、プロテスタントが多数派だったためイギリスに留まった北部6州を指す。植民したプロテスタント系のイングランド住民の子孫が多い地域である。北アイルランド紛争は、アメリカでの黒人公民権運動の盛り上がりに刺激されて1960年代に火がついた。当時、筆者はアメリカにいて報道されるニュースを読んでいたが、まさに「対岸の火事」のような印象だった。友人のイギリス人も事態を読みきれないのか、あまり説明してくれなかった。

内戦と化した対立紛争
紛争の構図を単純化すれば、イギリスに忠誠を示す多数派のプロテスタント勢力(=支配勢力)と、アイルランドへの帰属を望む少数派のカトリック勢力(=抑圧されてきた勢力)の対立といえるだろう。対立はほとんど「内戦」と化し、30年間で3500人もの死者を出す悲惨な展開となった。その後、ブログ筆者が滞英中も爆弾テロ、銃撃戦など、激しい事件が報じられていた。アイルランドへの旅を企画し、ベルファストまで行ってみたいと思っていたが、大変危険だからやめるように強く説得され、ほとんど素通りでダブリンなどに旅の重点を移した。「ベルファスト合意」が翌年に成立する前夜だった。もっとも、ダブリンはかねて行きたいと思っていた地であり、別の意味で大変興味深かった。

ベルファスト合意
それまで憎悪の極みのような状態が続いていたにも関わらず、1998年4月10日、和平合意(ベルファスト合意)が達成された。驚くべき決断だった。和平プロセスはその後、エリザベス女王が2011年5月にイギリス国王として100年ぶりにアイルランドを訪問し、両国の歴史的和解へとつながったl。

EUも、アイルランド島の南北の統合を促進するために国境を越える投資を積極的に進めてきた。その統合は、「ダブリンーベルファスト経済回廊」とも呼ばれるほどに進んでいる。

今回のBREXITの交渉過程で、イギリスはこの問題で二つの提案をしている。一つは、イギリスとEUがモノの貿易で「共通のルール・ブック」を採用すれば国境検査は必要がなくなる。「モノの自由貿易圏」が創設される、という提案である。二つ目は、北アイルランドだけをEUの制度に残すことは認められないとし、そうするなら、イギリス全体を暫定的に関税同盟に残すか、離脱後の移行期間(2019年3月~2021年12月)を延長することで時間を稼ぎ、その間に本質的な解決策を探ろうというEU提案への逆提案である。

この中で、移行期間延長という解決策が注目を浴びているが、英保守党内の強硬派が断固反対する姿勢を示し、八方塞がりとなっているのが現在の状況と理解している。

イギリスが香港やマカオ返還で示したお得意の「一国二制度」は認めないという主張は実際面より、国家が二つの「法的領域」に分断されることにより、イギリス本土と北アイルランドの紐帯が弱まり、北アイルランドがアイルランドとの統合へ傾いていくことを警戒してのものとみられる。

これは、独立機運がすぶるスコットランド情勢も含め、連合王国としてイギリスの将来の「国の形」の屋台骨を定める道でもある。

また、メイ首相率いる少数与党政権が北アイルランドの地域政党「民主統一党(DUP)」の閣外協力で維持されているという事情もある。DUPはEU提案に反対しており、その声に耳を傾けざるを得ないのである。実に複雑な現実だ。

最終の姿がどうなるか、もはや英国政府自身も、国民も分からないのではないか。親しいケンブリッジの元副学長をしたWBが、ほとんど破滅的状態と形容したのもうなづける。それは、国内に強敵を抱え込んだ難交渉は、最終期限ぎりぎりまで事態を動かせないということだ。交渉期限を余して妥協すれば、軋轢は急拡大し合意案は潰される。メイ首相に残された唯一の成功へのシナリオは、最後まで合意のカードは切らず、粘りに粘って時間切れのタイミングで「譲歩を勝ち取った」と勝利宣言し、合意案を強制することだろう。

この国境は政治的および歴史的な象徴になっている。「トラブルズ」と呼ばれた北アイルランド紛争では約3500人が犠牲になり、98年のベルファスト合意でようやく終結。合意に基づいてアイルランドとイギリスの国境が開放され、物と人が自由に往来できるようになった。

「見えない国境」は実現するか
鋼板などで国境を遮断する「ハード・ボーダー」への逆行は、和平合意に反するだけではない。国境付近に監視塔や軍の検問所が乱立して美しい風景が破壊され、かつて民兵組織の攻撃で多くの血が流れた日々を思い出させるのだ。ハード・ボーダー(硬い壁)は、数世代に及んだ紛争の象徴だ。

北アイルランドの大半の人はEUに残りたいと言っている。2016年の国民投票の結果は、北アイルランドではBREXITへの反対票が圧倒的に多かった。彼らは間違いなく、ハード・ボーダーが復活することを警戒している。政治的な理由だけではない。国境管理を厳格化すれば、一般の旅行者の往来やアイルランドとの商取引が遅延して、コストもかさむだろう。

他方、国境復活を避けるために北アイルランドだけにバックストップを適用し、イギリス本土をEUの関税同盟のルールから離す道もある。

政党の民主統一党(DUP)はメイ政権を閣外協力で支えており、彼らの協力なしに保守党は政権を維持できない。彼らはこの地域がイギリスのほかの地域と違う扱いを受けることには断固反対だ。

電子システム化は国境の消滅を意味するか
長期的には、テクノロジーに期待する見方もある。例えば、貨物が倉庫を出る前に、税関申告ができるシステムが開発されるのではないか。そこでX線検査やスクリーニング審査、車両番号の自動認識などを組み合わせれば、国境で物理的に止める必要はなくなる。

とはいえ、短期的な見通しは暗い。EUとアイルランド政府が「バックストップ」条項に関して譲歩の意思を示せば、英議会は離脱協定案を承認するだろう。メイ首相はEUとの再交渉に臨む方針だが、EUとアイルランドは、現段階で再交渉はしないという立場を崩していない。このまま「合意なき離脱」に至ることは、全ての人が恐れる悪夢だ。解きほぐす糸口の所在も見いだしがたい状態が続いている。

 

References
アレクサンドラ・ノヴォスロフ・フランク・ネス(児玉しおり訳)『世界を分断する「壁」』原書房、2917年(Alexandra Novosseloff/Frank Neisse, DES MURSENTRE LES HOMMES)

’The invisible boundary’, The Economist, February 16th 2019

 

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セラピーとしてのアート

2019年02月16日 | 午後のティールーム
 

 


 人はなぜ美術館へ行くのか。美術館へ入る前と比較すると、帰りは自分の知的資産が多少なりとヴァージョン・アップ?したと思うだろうか。変な質問と思う人は多いだろう。しかし、人は何かの動機や衝動、期待にかられて、美術館の入り口をくぐるのではないだろうか。

 今,私たちが生きている世界は色々な意味でストレスを生み出す事象に満ちた社会だ。気候激変などの自然現象、戦争、災害、難民、格差、貧困、難病など天災、人災を含めて枚挙にいとまがない。しかし、それらに対処する有効な解決策はほとんど見えないことが多い。希望を失い、来るべき世界のあり方について不安を抱く人たちも少なくない。孤独や不安への救いを宗教に求める人もいる。

 そうした社会であっても、美術館や音楽会に出かける人も多い。ひと時、絵画を見たり、音楽を聴いた後の心に変化は生まれただろうか。絵画などの美術についてみると、ほとんどはなにかの具体的目的を持って制作されたわけではない。広告でない限り、作品は純粋に美的鑑賞のための作品として制作されている。
 
 しかし、近年、あまり気づかれていないが、美術・アートあるいは音楽などにセラピー (therapy: 緊張緩和、精神的安定の治療) 効果があるとして、人々の心に潜む緊張や不安を和らげ、解きほぐす効能を見出したり、期待する動きも現れている。

 人々が絵画作品を見ている時、気がつかない間に心の不安、心配ごとなどを忘れ、結果として癒され、安定感、充足感などを取り戻す。美術館で作品を鑑賞して館外へ出る時には、張りつめていた心の緊張が緩み、一種の幸福感が生まれている。作品を制作した画家たちは多くの場合、そうした効果まで意図してカンヴァスなどに対したわけではないのだが。
 
 それでも時代や環境によっては、作品を観る人たちが描かれたテーマに積極的に癒しを求めた場合も多い。宗教画は本質的にそうした要素を多分に含んでいる。

 分かりやすい例を挙げてみよう。これまで、このブログに記してきた17世紀の画家たちの作品の中でも、《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》の主題は、16-17世紀に大変好まれた。そのため、多数の異なったヴァージョンがある。瀕死の重傷を負った若者が聖女イレーヌと召使いたちの献身的な介抱で生き返るというストーリーは、明日をも知れぬ不安と危機の時代に生きた人たちには、大きな心の癒しとなり、さらには当時流行した疫病などに対する護符のような意味を持った。こうした底流の下、現代では音楽療法、「臨床美術」という認知症への対応という領域も生まれている。

 これほどまでに直接的な関連を感じなくとも、作品を見てある種の安心感を抱いたり、画家の意図を考え込まされたり、時には笑ってしまうような作品に出会うことは、よくあることだ。
 
 ここに紹介するアラン・ド・ボトン の『セラピーとしてのアート』 Art as Therapy はその点に着目した好著だ。興味深いのはセラピーの対象となるアート(絵画、彫刻、陶磁器、写真、建築、都市計画などを含む) を、「愛」、「自然」、「金銭」、「政治」という四つの領域から検討していることにある。例として取り上げられている作品は古典から現代までありとあらゆるジャンルに渡り、厳粛、静寂、神秘、自然、風景などから風刺的なものまで、多岐にわたる。現代人が抱える心身の悩みが千差万別であるように、人々はそれぞれの状況で癒されるらしい。

 カラヴァッジョの《ユダの断首》など、ブログ筆者は、リアル過ぎてグロテスクな感を受け、あまり見たくはないが、その恐るべき迫真力に驚き、現実以上に恐怖を覚える人もいるだろう。アドレナリンが沢山出て元気になる人もいるのかもしれない。このように、一枚の絵画も見る人によって受け取る印象、効果は大きく異なることもある。

 シャルダンの《お茶を飲む女》、《羽根を持つ少女》などは、見ているだけで、心が和んでくる思いがする。しかし、ド・ボダんの本書は、140点近い作品を取り上げ、一般に考えられている次元を超えて、セラピーとしてのアートを論じている。大変評判になった書籍である。邦訳がないのは残念だが、関心ある方にはおすすめしたい一冊だ。

 

Alain de Botton John Armstrong, Art as Therapy, London: Phaidon, 2013(HB), 2016(PB).pp.240

 

アラン・ド・ボトンは、スイス人、1969年、チューリッヒ生まれの哲学者、エッセイスト。イギリス、ロンドンに在住。父親は、スイスの投資家で美術収集家のギルバート・ド・ボトン。父親の美術熱がアランの人格に強く影響していることが分かる。邦訳がないのが惜しまれるが、英語PB版で容易に読めるので関心ある方にはお勧めの一冊である。共著者のジョン・アームストロンがは歴史家。
 


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里帰りしたカラヴァジェスティ

2019年02月03日 | 絵のある部屋

 

 


ヘンドリック・テル・ブルッヘン《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》
Hendrick ter Brugghen, St. Sebastian Tended by Irene, 1625
Canvas, 149 x 119.4cm
Allen Memorial Art Museum, Oberlin College, Oberlin, Ohio
R.T. Muller, Jr. Fund1953 inv.53.256

 

このブックレットのカヴァーに使われたタイトルとイメージを見て、何を目指した企画であるかを想起される方があれば、素晴らしい。使われている作品は、この小ブログにも何度か記したことがあるオランダ、ユトレヒト出身の画家ヘンドリック・テル・ブルッヘン(Hendrick ter Brugghen)の名品《イレーヌに介抱される聖セバスティアヌス》である。なぜ、この作品がオランダではなく、アメリカにあることの意味を考えるだけで、脳細胞はかなり活発化してくる。

近年、17世紀、オランダ、ユトレヒトに生まれ、ローマでカラヴァッジョなどの作品を対象とした修業・遍歴の年を過ごし、ふたたび故郷ユトレヒトへ戻った画家たち(ユトレヒト・カラヴァジェスティ)への関心が急速に高まった。およそ20年前、1997年から1998年にかけて、アメリカ、サンフランシスコ、ボルティモア、そしてイギリス、ロンドンで、これらの画家たちの作品と生涯に関する大規模な巡回展が開催された。

この表紙に使われている作者と作品は誰でしょう(答えは文末に)。


ブログ筆者が以前から注目してきた画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールもユトレヒトなど北方の都市を訪れたか、あるいはほぼ同世代の画家として、故郷に戻ってきたいわゆるカラヴァジェスティの作品・活動をどこかで見聞することを通して、カラバッジョの画風に接したのではないかという仮説にも関わっている。

里がえりしたユトレヒトの画家たち
昨年暮れから今年3月にかけて、そのユトレヒトの中央美術館で初めて、17世紀30年くらいまでの間に、ローマから帰ってきオランダ・カラヴァジェスティの展覧会が開催されている。今まで実現しなかったのが不思議なくらいだ。17世紀画壇に革新をもたらしたカラヴァッジョに代表される1600-1630年代のローマの光が、オランダ・ユトレヒト出身のカラヴァジェスティによって故郷ユトレヒトへもたらされるというテーマである。この特別展についても、いずれ記してみたい。

ローマでカラヴァッジョを見たオランダ画家たち
17世紀当時のローマは、世界の中心、永遠の都と言われていた。ヨーロッパ各地から多くの画家や画家志望者が押し寄せていた。そこに生まれたひとつの噂はカラヴァッジョというひとりの画家が、画壇に革命をもたらしているというものだった。新しいリアリズムでこれまで見たこともない劇的で迫真的な画風によって、大仰な身振りの人物たちが光の中に描かれている。時には目を背けるほど残酷なシーンもある。ローマへやってきた画家たちは皆それらの作品を自分の目で見たがった。その中にはユトレヒトからやってきたバブレン Dirck van Baburen, テル・ブルッヘン Hendrick ter Brugghen, ファン・ホントホルスト Gerard van Honthorst.の3人もいた。

ヨーロッパでカラヴァッジズムが盛期を迎えていた1600-1630年頃には、ローマにはおよそ2700人近い美術家がいたと推定されているが、実に572人は外国人であった。その中にラ・トゥールの名が見当たらないことも、ブログ筆者が推定してきたこと、すなわち、この画家は別の理由も含めてローマに行くことなく、北方カラヴァジェスティの影響を受けて制作をしていたのではないかとの仮説を側面で支持するかもしれない。

結実したユトレヒトでの企画展
3人のユトレヒト出身の画家は、ローマで修業を終えた後、それぞれ前後して故郷に戻り、制作活動を続けた。そして、ユトレヒト・カラヴァジェスティともいわれる独自の作風を生み出した。今回のユトレヒト展での呼び物は、彼らの作品に加えて、ヴァチカン絵画館が所蔵するカラヴァッジョ(1571-1610)の作品を初めてユトレヒトの中央博物館の企画展のために貸し出したことである。《キリストの埋葬はヴァチカン博物館所蔵のカラヴァッジョ作品で最も貴重なもののひとつであり、ユトレヒトでも開催日から4週間限定で展示された。かなり特別の配慮といえるだろう。出展作品70点のうち、60点はヴァチカン博物館を含むルーヴル(パリ)、ウフィツィ(フローレンス),、ロンドン国立美術館、ワシントン国立美術館、著名な教会などを含む所蔵者からの貸し出しであった。


 

ユトレヒト中央博物館
かつて修道院であった建物を改造し、2016年にリニューアルされ、オープン。


このユトレヒトの企画展はユトレヒト・カラヴァジェスティと並んで、ヨーロッパで同様に影響を受けたイタリア、フレミシュ、フランス、スパインなどの画家たち、バルトロメオ・マンフレディ、セッソ・ダ・カラヴァッジョ、ジョバンニ・ガリ、ジョバンニ・セロディネ、オラツィオ・ベルギアーニ、ジュセッペ・デ・リベラ、ニコラ・レグニエ、ニコラ・トゥルニエ、シモン・ヴーエ、ヴァレンタン・ド・ブーローニュなどの作品を含んでいる。

こうした企画展は、国際カラヴァッジョ・ムーヴメントというカラヴァッジョという革新的な異才とその影響を研究する国際的な活動の中から生まれた成果の一つだ。オランダの画家というとフェルメールしか語らない日本人が多いのはなぜと、オランダの友人は尋ねる。そこから離れ、レンブランドを含む17世紀オランダの画家たちの世界に浸ることは、とても楽しく時間を忘れる。作品との対面・対話を繰り返しながら、眺めていると、時は尽きない。今日まで生きていて良かったとの思いが深まってくる。

 


ゲラルド・ファン・ホントホルスト
《聖ペテロの否認》部分 

Gerard van Honthorst(1592-1650)
Denial of Saint Petro, ca.1620-25
oil on canvas, 110.5 x 144.8cm
The Minneapolis Institut of Arts, The Putnam Dana McMilan Fund.
Details 


 

 

 

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