前回に引き続いて、もう少し「幸せの計り方」について書いてみたい:
この時期に送られてくるカードの中で、昨年に続き、今年も印象に残った一枚は、カナダに住む友人夫妻と家族の消息であった。夫妻は現役を退き、世俗の意味では引退の過程に入っているが、地域のNPOその他で活発な活動を続けている。
長女はアフリカのボツワナで物資の輸送システムの充実のためにすでに3年働いてきた。次男はあの2005年のアジア太平洋の大津波の1ヶ月後から、ずっとバンダ・アチェで復興事業にに従事した後、レバノンで災害復旧に働いてる。そして、3男はアフリカのHIV減少のためにアフリカで1年の3分の1を過ごしている。
両親は子供がそろいもそろって発展途上国のために、奉仕活動のような仕事をするようになるとは思ってもいなかったというが、むしろ子供たちがそうした人生を選んだことを誇りに思っているようだ。
父親は今は歩行に困難な身体でありながら、地域の庭園の仕事に生きがいを見出し、つつじやしゃくなげの栽培、品種改良では専門家として知られるほどになっている。母親は病院の看護部長、教育部長の仕事を辞めて、91歳になった自分の母親の世話と介護に週3回片道40分の距離を通っている。それでも庭園整備を手伝い、今年はチューリップなど300株を植えたという。
感心するのは、家族の一人一人が独立心を持ち、自分の仕事に大きな誇りを持っていることである。長いつき合いだが、愚痴めいたことを聞いたことがない。まだ学生の頃からモントリオールを訪ねると、ホテルに泊まるのはつまらないからと、2室しかないアパートに泊めてくれた。現代の日本人の多くが感じているような不安の影もなく、積極的に人生を送ってきた。
最近は誰もやりたがらない仕事も、需給が逼迫すれば見直され、光が当たることがあるように、市場メカニズム(経済)と幸福(感)の関係を見直す動きもあるが*、人間の幸不幸を定める要因は複雑であり、そう簡単には見いだせない。「幸せ」の計り方は相変わらず難しい。
新年が良い年でありますように
*
イギリスの歴史家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 1795-1881)が、経済学は「楽しい科学ではない」(not a 'gay' science)と評したことから、しばしば「陰鬱な学問」と受け取られることもあるが、カーライルの真意は、経済学者が経済学を幸福という概念に結びつけすぎたことにあるようだ。19世紀半ばの経済学者は「最大多数の最大幸福」の実現を説いたジェレミー・ベンサム(Jeremy Benthan)に代表されるように、しばしば幸福、効用を計算できるものとした。人間をあたかも苦痛と快楽の差し引きとしての心理・物理的な機械のように考えたところがあった。
Reference
*
"Economics discover its feelings." The Economist December 23rd 2006.