時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

L.S.ラウリーの世界(14):産業化の影を描く

2014年10月30日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

「私は工業の風景を見て、それに影響を受けた。それをいつも描こうとした。自分の力のかぎり工業の光景を描こうと努めた。容易なことではなかった。確かに、カメラなら直裁にその光景を記録しえただろう。しかし、それは私にはなんの意味もなかった...... 私が目指していたことは地図の上に、それぞれの工業の光景を置いてみることだった。なぜかといえば,誰もそうしたことを試みたことはなかったし、真剣に考えたこともなかったからだ。」
L.S.ラウリー
Quoted from Howard, 2000, p.81



ボルトンのパーク社工場と労働者住宅街が
立ち並ぶ光景は、富と貧困の対比でもある。
Howard p.83

 現代イギリス絵画の中では異色の存在だが、イギリス人が最も好きな画家のひとりといわれるL.S.ラウリーの生き方について、これまで少し記してきた。長い間、北の方(マンチェスター)に住む「マッチ棒のような人を描く日曜画家」と揶揄され、偏見と差別の中にさらされてきた画家である。画題も画法も確かにユニークであり、煙突の煙、スモッグで汚れた空、決してきれいとはいえない工場の有様など、普通の画家ならば見向きもしないような光景を多数描いてきた。しかし、そのことによって、イギリスという世界の産業革命をリードし、長らく繁栄の礎を築いた産業社会の実像が、絵画という形で具象化され、見事に記録され今日に継承されることになった。産業革命は技術や産業の創生、発展という光の面にとどまらず、持てる者と持たざる者、環境破壊、労働災害など多くの影の側面を作り出した。ラウリーは誰も積極的に取り上げることのない、産業の影のさまざまな場面を描いた。それも単にイメージだけで描いたのではなく、彼が目指したことは地図上に存在したものを、できうる限り多数、当時の有様に近づいて描くことにあった。

 もちろん、ラウリーの生きた時代にモノクロ写真はあったが、写真では写しきれないあるいは写真家が気づかない日常のさまざまな次元が絵画として描かれることで、この画家の多数の作品は見る者に時代の空気を伝えている。管理人がこの画家を評価するのは、産業革命以来のイギリスがいかに変化し、工業化の光と影がなにをこの社会にもたらしたかを写真とは異なる姿で見事に伝えている点にある。そしてその中に生まれ、育ち、働き、喜びや悲しみを共にし、死んで行く人々のさまざまな姿が描かれている。これは美術の世界に限らず、現代史における重要な貢献でもある。単に対象の美しさだけを追求する静物画や風景画ではない。ラウリーが言うように、「産業化の段階」 industrial satages ともいうべき新たなジャンルを切り開いたといえる。

貧困を目のあたりにして
 実は、ラウリーが普通の画家ならば無視するような側面に着目したのは、画家個人の生い立ちやその後の生活環境にも関係するところが多い。その一部はすでに記したが、ラウリーは23歳の時、彼は人生で初めて職を失った。マンチェスターの保険会社の事務員として働いていたが、不況で解雇されたのだった。息子に期待していた両親は、愕然とした。

 ラウリー自身は15歳で義務教育を修了した時、会社などで働くつもりはなかった。もっと自分に適した仕事に就きたいと思っていた。しかし、

 「なにもしないでは生きてなんかゆけないわよ」と彼の母親は言った。
 「なにもしないで」とは、彼が画業に就くことだった。

 母親の意味する「仕事」とは、会社に雇われ、事務所や工場で働くことだった。両親は息子が画家で生きてゆくことなど、およそまともなことではないと考えていた。とりわけ母親の期待に逆らうことなく、ラウリーは数ヶ月の後に、地元の不動産会社に職を得た。それは家賃や時代の集金とその管理をすることだった。彼が育ったのはマンチェスターのヴィクトリア・パークであり、工業化とともに生まれた貧困な労働者街であった。そこは、上に掲げた写真のように、文字通り貧困と搾取が並び存在するような地域だった。

助け合って生きる人たち
 ラウリーが毎日、集金のために訪れると、決まって同じ顔に出会い、彼らの貧困な生活を否応なしに目にすることになった。そればかりでなく、毎週払う家賃の支払いをめぐって、いつもごたごたが起きていた。さらに当時の工場では、労働災害が頻発していた。とりわけ、炭鉱事故は一度起きると、多くの炭坑夫たちの命を奪い、地域に大きな悲惨をもたらした。なにかの事故が発生するたびに、人々はニュースを聞いて集まり、悲しみ、慰め合った。

A Sudden Illness, 1920, oil on board
29 ss 49cm
『突然の病気』


労働者たちの誰かが重篤な病気にでも罹患したのだろうか。
あるいは工場で事故にあったのかもしれない。近所の人たちが
いつも集まる場所に来て、様子を話し合っている。そこには
ある緊迫した空気が漂っている。夕刻の風景か、工場はまだ
操業しているようだ。

 
Unemployed, 1937, oil on panel, 52.1 x 41.9cm 
『失業者』 

この作品は画家が1910年ころにひとりの男を描いた作品を
もとに、後年新たな構想で描き直したものだ。地域の失業が
著しく悪化した地代。厳しい容貌の男が道路よりの鉄柵を背に座っている。
男の後ろの柵は、彼が働いていた雇用の場とを隔離する象徴的な存在だ。
そして、そのさらに背後には男たちが働く工場が描かれている。
男の容貌はラウリーが鬱病になった時の異様なまでの自画像にどこかで
通じるものがある。大不況という時代の異様さを暗示するといえるかもしれない。


 

Photo: Police in Manchester, 1922 

 この時代、不況による賃金など労働条件の切り下げ、失業などの悪化とともに、労働者の側も次第に集団、組織の力で経営者や資本家に対抗しようとしていた。この段階では服装は整ってはいるが同じような身なりの労働者たちが、街角に押し寄せている。後年、あのサッチャー首相の政権時代、政府によって厳しく抑圧された労働運動もこの時期すでに盛んに起きていた。なにかのプロテストがあると、騎馬警官などが出て集まった労働者を蹴散らしていた。 

 こうした光景が今日の世界から消え去ったわけではない。先の見えない不安な時代、世界のどこかで同じような光景が今も展開している。ラウリーの生きた時代は現代なのだ。


Sources
Michael Howard, Lawry A Visionary Artist,Salford, Lowry Place, 2000

続く 

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今はなき宮殿と「消えた画」

2014年10月22日 | 午後のティールーム

 

National Geographic 表紙「人口問題」特集&
展示会入場券 


 

 『ナショナル ジオグラフィック』 National Geographic 展という催しが行われていることを知って、出かけてみた。1,100万点を超えるコレクションから厳選した写真の展示という企画である。

 この雑誌と管理人のつき合いは、すでに半世紀を超える。読み始めたのは今も親しいアメリカ人の友人が、英語の勉強の一助にと、クリスマス・プレゼントに贈ってくれたことに端を発している。その後、渡米し自分で購読するようになり、今日まで毎月配送される雑誌を見ることが大きな楽しみになってきた。この雑誌の特徴はなんといっても、掲載されている写真の素晴らしさと時代感覚の鋭い充実した記事にある。今は日本語版も出ているようだが、長年の継続もあって英語版を読んでいる。この雑誌から触発されることは、あまりに多すぎて到底要約できない。今回はその小さな断片を材料に記してみたい。

 出展されていた写真は、いずれも興味深いものだったが、展示順番は1909年撮影年の「北極点到達競争」(撮影点カナダ)から始まり、1923年撮影の「今はなき宮殿」(撮影点フランス)で終わっていた。出品作品は「冒険・探検の記録」(41点)、「自然科学」(23点)、「野生の世界」(29点)、「岩合光昭作品」(12点)、「ティム・レイマン作品」(21点)、「町野和嘉作品」(20点)、「人類と文化」(46点)に区分されていた。これらの写真の中には動物写真で著名な岩合光昭氏やアフリカの写真で知られる野町和義氏などの日本人写真家の作品なども含まれており、その貢献度が大きいことが分かる。年代で最新の写真は2012年撮影のものもあった。

「いまはなき宮殿」をしのぶ  
 いずれも大変興味深く、長い時間見ていたいような写真もあったが、会期が短いためか、会場はかなり混んでいた。展示写真の中で、とりわけ一番最後に出会った写真「いまはなき宮殿」(撮影地フランス、撮影年1923年、撮影者ジュール・ジェルヴェ=クルチルモン)と題された一枚が目にとまった。このタイトルと情報で、展示写真が意味するものをご存知の方はかなりのフランス通だろう。

 展示されていた写真は、地下鉄トロカデロ駅に近い丘の上に立つシャイヨー宮のポーチから、エッフェル塔を眺望する方角が写されている。しかし、そこには現在の光景にはないものが写っていた。パリのエッフェル塔の間を通して、その向こう側にある宮殿を写したものだった。その宮殿の名はトロカデロ宮殿。1878年のパリ万国博覧会の時に建てられた。1937年のパリ万国博覧会にあわせて、取り壊されてしまった今は幻の宮殿であった。

 なぜ、この写真に惹きつけられたのか。少し事情を説明する必要がある。エッフェル塔が建造されたのは1889年のパリ万国博覧会のためであった。そして、この塔を展望するシャイヨー宮が建てられたのは1937年のパリ国際博覧会の時であった。以前のトロカデロ宮殿の基礎の上に建造された。

映画『消えた画』 への飛躍
 ここで話は「ナショナル・ジオグラフィック」展とさほど違わない時に見たひとつの映画、『消えた画:クメール・ルージュの眞実』 (リティ・パニュ監督、2013年制作、2013年カンヌ国際映画祭 ある視点部門グランプリ受賞、2014年アカデミー賞 外国映画賞ノミネート)に飛ぶ。

 カンボジアは1953年にカンボジア王国として独立した。しかし、その後この国がたどった道には、そのまま描くには見るに忍びない残虐、陰惨な部分が含まれている。歴史に存在しなかったように、抹消された時代があった。

 映画『消えた画』 の血塗られた手の持ち主クメール・ルージュ(Khmer Rouge)は、独立した国王に対する極左武装勢力(カンボジア共産党)の名前であった。長く続いた内戦の間の左翼勢力間の淘汰もあって、クメール・ルージュはポル・ポト派とほとんど同義語になった。映画には、同じアジアでありながら、日本人はあまり知ることのない光景が写されていた。

 1975-1979年、カンボジア、ポル・ポト支配下、クメール・ルージュにより闇に葬られた恐るべき虐殺の記録を、独特の手法で描いた作品である。あまりに残虐な実態の故に、実像は描写しがたい。そのため、監督は数百万人が命を落としたカンボジアの大地から、ひとつひとつ丁寧に作られたた土人形に、その悲惨きわまりない物語を語らせる。多くの人々が眠る大地の土で作られて、登場する人形の数、いったい何体を作ったのだろうか。驚くべき数としかいえない。まさに失われた命を取り戻そうとする思いがこもっている。そして、こうした発想はきわめて斬新で、この監督以外には思いつかなかっただろう。



映画『消えた画』の紹介ビラ

 カンボジアといえば、思い出すのはアンコール遺跡群であり、さらに私にとってはパリで最初にクメール美術を本格的に見た見たギメ美術館(国立アジア美術館) のことである。これまでの人生で抜群に訪問回数が多い外国の美術館である。なにしろ一時はイエナ広場で、この美術館と一本の道を隔てた正反対の一室の窓から、毎日その建物を眺めていたことがあった。最初に訪れた時に驚いたのは、美術館の中央展示室ともいうべき入口の所に置かれていた、カンボジアのアンコール遺跡群から出土したクメールの彫像、装飾品だった。その質の高さ、そして数にも圧倒された。クメール美術の特別展かと一瞬思ったほどだ。しかし、そうではなく、そこが常設の展示室だった。

 どうしてこれほど質の高いクメールの出土品が、これほど多数、しかも美術館の基軸展示品として展示されているのか。説明を読むうちに次第にその背景が少しずつ浮かび上がってきた。エミール・ギメ、ポール・ペリオ、アンリ・パルマンティエ、アンドレ・マルローなど多くの著名な人々の名前が記されていた。彼らはどういうつながりで、その名がここに記されているのか。その謎は、カンボジアが長い間フランスと特別な関係にあったということに遡る。

 カンボジアは長らくフランスの保護領であった。1863年フランスの保護国となり、1953年の立憲王国としての独立まで、フランスの強い影響を受けてきた。そして、1975年国名を民主カンボジアと改称。その後、78年以来血で血を洗うごとき激しい内戦、大量殺戮の時代が続き、ようやく93年にカンボジア王国が成立した。

植民地文化の背負った影
 その間にフランスはさまざまな形で、カンボジアの優れた文化の具象化された品々をフランスに移送した。移送といっても、実際には他国の文化の結晶を略奪したような形である。暗い影がよぎる。ギメ美術館、そしてそこに展示されているクメール美術の結晶の多くを保蔵、展示していた場所であったトロカデロ宮殿は、その保管庫でもあった。クメールの美しい彫像を見ることは、その背後にあった陰鬱な世界を見ることでもある。そのことを考えずして、クメール美術を語ることはできない。

 さて、トロカデロ宮殿(ナショナル・グラフィックの写真は、残念ながらお見せできない)には、実は今日のギメ美術館(1889年創立)が所蔵するクメール美術の彫像やレプリカの多くが保存、展示されていた場所なのだった。この美術館の創立者ピエール・ギメは1874年に日本、中国を含むアジアを旅し、大量の仏像を中心とする美術品を買い集め、フランスに送った。自らの国の歴史も未だほとんど整理がついていないカンボジアのような国、そこに存在する彫像などの遺跡出土品を現地で剥奪したり、二束三文で買い求め、フランスへ送る。その象徴的事件は1923年アンドレ・マルローと友人が、アンコールワットの近くの寺院パンテアイ・スレイの未登記の遺跡から壁面のレリーフなどをはぎ取り、フランスへ移送しようと試み、プノンペンで逮捕され、禁固刑に処せられた行動であった。若気の至りではすまされない植民地の文化財に対する冒涜であった。

 かつての宗主国フランス、そしてこの地の文化遺産に関心を持つフランス人収集家、研究者などがいなかったならば、こうした文化財はクメール・ルージュの時代などにほぼ間違いなく、破壊されるか、滅失していただろう。そのことは、映画『消えた画』を見れば、怖ろしいほどの迫力をもって伝わってくる。クメール・ルージュは「階級が消滅した完全な共産主義社会の建設」を標榜し、貨幣制度、宗教、私財保有、近代科学など、資本主義社会の特徴となるものをすべて滅失させるとしていた。しかし、それをもって、植民地文化遺産についての宗主国や文化人の行動を正当化することは到底できない。ギメ美術館に集められた美しい彫像、仏像、レリーフなどを見ていると、その背後に存在する暗い部分をどうしても思わざるをえなかった。その後、しばらくギメ美術館から足が遠のいた。しかし、この美術館の持つ魅力はあまりに大きく、また訪れることになる。
 
 その後、カンボジアにも新しい風が吹いている。目を背けるほどの残虐、思い出したくない大量殺戮の時代も、歴史から完全に抹消されることなく、新たな形で「消えてしまった歴史」を復元する試みがなされている。「今はなき宮殿」、「ギメ美術館」、「 失われた画」は、図らずもそこに厳然と存在する歴史の糸を認識させる結び目であった。

  




NATIONAL GEOGRAPHIC「ナショナル ジオグラッフィク展~写真で伝える地球の素顔~2014年10月1-6日

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国境の危機:遅きに失したアメリカ移民法改革

2014年10月16日 | 移民政策を追って




 アメリカの「国境危機」Border Crisis、このタイトルはこれまで何度メディアのトップを飾ったことだろう。最近のオバマ大統領には、就任当時のようなダイナミズムや新たな課題に立ち向かう積極性が感じられない。エボラ出血熱への対応でも、かなり手を焼いているようだ。これも人の移動、グローバル化の進展がもたらしたひとつの現象だ。人の移動に伴って命を脅かすような危険な感染症も国境を越えてしまう。17世紀30年戦争当時も、外国の軍隊がペストやチフスなど多くの疫病を侵攻先に持ち込んだことは、このブログでも取り上げたことがある。

 アメリカの外交政策面では、「イスラム国」、シリア、イスラエル・パレスティナ問題、さらにアメリカに代わって世界の覇権を奪取しようとする中国への対応など、どれをとっても決め手に欠ける。国内問題についても、大統領選当時からオバマ大統領側が掲げてきた移民法改革が未だに実現していない。実際に移民に対応する南部諸州などはしびれをきらしたようだ。かなり過激な動きが目立つようになった。最近のBS1が、その一端を伝える番組を放送していた。

決まっていた路線
 このブログでも再三にわたり記してきたが、アメリカの移民法改革の大綱は、かなり以前に定まっていた。共和党ブッシュ大統領が、レームダック化した任期末に、最後の功績として残したいと考え提示していたのが、包括的移民法改革だった。一時はケネディ・マッケインなど民主・共和両党の上院議員間でほぼ合意が成立した。しかし、ブッシュ政権下では実現することなく、アメリカ・メキシコ国境の障壁を少し延長、強化した程度だった。

 その後を継いだ民主党オバマ大統領としては、政治的立場は異なっていても、上下院で多数を占めていた当時の状況から、移民法改革はかなり早い時点で実現可能と思っていたのではないか。しかし、「包括的移民法改革」案は、その後下院で多数派を占めることになった共和党が、次々と上程される法案をかたくなに否定してきた。オバマ大統領としてはその頑迷と執拗さに辟易として、当初の情熱を失っているかに見える。

 ブッシュ大統領時代末期から、来たるべき包括的移民法案の骨子と想定されてきたのは、1)南部のアメリカ・メキシコ国境の管理体制の整備・強化、2)農業労働者など、アメリカ人労働者がやりたがらない季節的・低賃金分野の労働者の秩序ある受け入れシステムの構築、そして、3)国内にすでに居住・生活しているおよそ1100万人の不法滞在者について、段階的な審査の上で市民権付与への道筋をつけることの3本柱だった。しかし、少し踏み込んでみると、そのいずれもが一筋縄ではゆかない複雑さを露呈してきた。改革が遅滞している間に、現実は深刻化し、不法移民の数も増え、問題は困難の度を増した。議会審議を停滞させ、政争の場としかねない多くの問題が新たに生まれてきた。これらの主要点については、このブログでも何度か指摘してきた。

自らの尊厳をいかに確保するか:不法滞在者の声
 BS1で放映されていたテーマも、その複雑な問題の一端に触れたものだ。アメリカ移民法上、「不法移民」 illegal immigrant とされる実例を、ジャーナリストである本人が自らの裏面を明らかにすることで、彼らが抱える問題の核心に迫っている。

 次のごときストーリーである。5歳の時、フィリピンから母親と離れてアメリカへ偽造入国書類で不法入国した若者 ホセ・アントニオ・ヴァルガスは、移住したカリフォルニアでの地域・血縁社会からの支援と自らの努力で、全国的な知名度を持つジャーナリストとして成功した。
しかし、いまや32歳となった彼は、アメリカ国民としての法的地位、権利を保障する書類を一切持っていなかった。一般に「不法移民」undocumented, illegal immigrants といわれる存在である。

 全国的に知られるジャーナリストにまで社会的上昇の階段を上りながら、彼自身のアメリカ人としての法的地位を明らかにすることなく活動してきた。これでよいのだろうか。自分は国民を裏切っていないだろうか。移民法改革の実態を伝える記事を作りながら、ヴァルガスはこれまで自ら語ることのなかった、不法移民としての裏面を明らかにする決意をする。

 長年アメリカで生活し、活動を続け地位を築いたにもかかわらず、国民として合法的な入国手続きや書類を保持していない自らの背景と心情を語ることで、同様な状況にある1100万人の抱える問題を改めて社会に提起した。こうした立場の人たちの多くが、いつかその事実を発見されて強制送還される怖れを抱きながら、日々それぞれの仕事をし、税金を支払っている事実を、自らを例として、国民の前に提示するという勇敢な行為に出た。「アメリカ人」をどう定義するかという根本問題にチャレンジしたのだ。自らが現行移民法上では違法な地位にあることを明らかにし、同様な立場にある人々への救済の道を開こうとする大胆な行動だった。

 ホセ・アントニオ・ヴァルガスというこのジャーナリストは、自ら移民局に連絡し、アメリカ国民であることを証明する書類を保持しない自分は、どういうことになるのかという問いかけをし、自らを危険にさらすことまで行った。しかし、移民局も対応を決めかねているようだ。2013年には上院公聴会でヴァルガスはその立場を明らかにし、大きな共感を呼んだ。ヴァルガスは、こうした一連の経緯を自らひとつのドキュメンタリー番組にしてしまった。かくして、ヴァルガスは全米一有名な不法移民として知られる存在になった。

危険にさらされる子供たちの不法入国の試み
 他方、最近のブログでも記したが、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルヴァドールなどの中米諸国からメキシコを経由して、アメリカへ不法入国しようとする子供たちの問題が注目を集めている。この原因としては、これらの国々における経済停滞、犯罪、貧困による家庭崩壊などの社会的不安定化が存在する。子供たちだけでも、少しでも豊かな国で働き,生活し、故郷の家族へ送金してほしいとの親,兄弟などの思いがある。さらに、この動きを増長したのは、オバマ大統領が定めた16歳未満の入国者なら不法でも優遇するとの方針が誤解されて、未成年者の北へ向かう動きに拍車をかけたらしい。大統領府は急遽、未成年であることだけでは優遇しないと、その主旨を説明したが、一度動き出した子供の不法移民の波は、簡単には終息しない。こうした子供たちは、一枚の出生証明書だけを頼りに、所持金もほとんどなく、2000km近い危険な旅に出る。彼らの旅程をわずかに支えるのは、タパチュラといわれる私的な善意に支えられたシェルターだけだ。かれらはこうしたシェルターを頼りに、コヨーテといわれる人身売買業者や追いはぎ、強盗などの恐怖におびえながら旅を続ける。

 かろうじてアメリカ・メキシコ国境へたどり着いたとしても、そこには新たに設置された高いフェンスあるいは自然の要害となっているリオ・グランデ川が立ちはだかる。身代金を強奪するような舟の渡し業者を避け、なんとか自力で泳いで渡れそうなところを見出し、アメリカ側へ越境する。しかし、そこには無人探索装置などで強化されたアメリカ側の国境パトロールが待ち受けており、ほとんどは拘束され、本国に送還されてしまう。

 メキシコからアメリカに越境を試みて捕まった、親や保護者に同伴していない子供達の数は今年度は68,541人、昨年38,579人より77%増加したことをアメリカ税関・国境取締局(CBP)が発表した。

移民への反感と支持が生む「第3の国」
 このように、アメリカを目指す不法移民の流れは中南米に限らず、世界のいたるところからだが、減少する気配はない。特に多いのはアメリカ・メキシコ国境だが、ここは中南米諸国のみならず、世界各地からの合法・不法の移民の受け入れ口になっている。この長い国境線にはおよそ1100kmのフェンスが設置されているが、国境の3分の1くらいをカヴァーするにとどまっている。残りの部分は,リオグランデ川や砂漠などの自然の要害をもって障壁に代えている。

 この長い国境線上には、下図のように、いくつかの公式の移民受け入れ場所(ports of entry)が設置されている。これらの入国管理地点は、鉄道、トラック、自家用車、歩行者などの形態で、合法入国が認められている。従来は太平洋岸カリフォルニア州に近いSan Ysidro-Tijuana, Calexico-Mexicaliなどが入国者の多い地点だったが、近年は次第に中央部から東部へ比重が移り、Nogales, El-Paso-Ciudad Juarez, Eagle Pass-Piedras Negras, Laredo-Nuevo Laredo, Hildago-Reynosa, Brownsville-Matamoras などへ入国者が分散、移転している。ニューメキシコ、テキサス州と接する地域が重要度を増し、各州は対応に苦慮している。

 移民法改革が手間取っている間に、アメリカにとってきわめて困難な問題が国境隣接州に蔓延してしまった。合法、不法のいかんに関わらず、主として中南米からの移民が濃密に定着する地域が生まれた。カリフォルニア、アリゾナ、テキサスなどの諸州である。これらの州では以前から居住している州民と新たに加わった移住者の間にさまざまな摩擦、軋轢が生まれ、深刻な問題を生んでいる。

 その詳細は別の機会に待たねばならないが、たとえばテキサスなどでは、従来からの居住者が自ら新しい移住者(ほとんどは上記の入国管理事務所を回避して、砂漠や河川を通り抜けてアメリカへの入国を試みる不法移住者)の阻止に動き出している。たとえば、これらの州に多い牧場主たちは、自分の土地に鉄条網を張り巡らし、恒常的にパトロールし、不法な移住者の通過を監視し、発見すれば拘束したり、国境パトロールへ通報するなどの措置をとるようになった。時には自警団を組織して、不法入国者の阻止に当たっている。彼らにとって、こうした自衛策は、「ウサギを追う犬」のようだとさえいわれる。

 しかし、貧困と麻薬貿易などで、劣悪化する中南米諸国から、アメリカという少しでも豊かな土地を目指す人たちの流れは断ち切れない。アメリカ・メキシコ国境に近い諸州では、ヒスパニック系住民の比率が急増し、従来からの居住者との間で激しい対立も起きている。アメリカでもなく、メキシコでもない「第3の国」ともいうべき風土が形成されている。

 共和党側も反対ばかり続けることへのマイナス面を考慮し、年末までには法律を成立させるように努力すると述べてはいる。しかし、実際にどのような形で妥協が成立するか、未だ明らかではない。オバマ米大統領が最終的に大統領特権を発動してまでも、いかなる移民政策を打ちだすか、11月8日の中間選挙を目前に、決断の時が迫っている。


 
 

アメリカ・メキシコ国境合法入国管理所の所在地,2011年現在

Source: U.S. Department of Transportation,Bureau of Transportation Statistics.




 NHKBS1「BS世界のドキュメンタリー」で、去る10月8-9日に放映された作品は、ホセ・アントニオ・ヴァルガス自身が映画の監督として制作したものであり、2013年ハワイで開催された映画祭で、ドキュメンタリー部門観客賞を受賞した作品が元になっているといわれる。


Reference
 ”Migrant Hunters” NEWSWEEK,August1ー8,2014

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遅咲きでも大輪の花は開く:L.S.ラウリーの世界(13)

2014年10月09日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 

 
Adolphe Valette, Albert Square, Manchester,
152 x 114 cm, 1910

アドルフ・ヴァレット 『マンチェスター、アルバート広場』 
 


 ひとまずは大波乱にはならずに収まったスコットランド独立の動きだが、これから長い難しい時代が待ち構えている。イギリスにしばらく住んだ時、問題の根深さの一端をあちこちで見聞した。ケンブリッジにおられたスコットランド生まれのチェックランドさんからいくつかの話を聞いたこともあった。今回の選挙では、賛否がかなり近接したために、これで一件落着というわけには到底行かない。さまざまな形で、問題が燻り続けるだろう。


 この問題を考えながら、少し中断していた現代イギリスで最も愛される画家のひとり、L.S. Lowry L.S.ラウリーのことも考えた。 この画家については、すでに概略は記した。だが、ひとたび糸がほぐれ出すと、止めどもなく色々なことが思い浮かぶ。区切りの良い所まで、もう少し続けたい。ラ・トゥールもそうであったが、日本人がほとんど知らない画家なので、記しておきたいと思う。

 ラウリーは、イングランドの人ではあるが、ロンドンなどから見ると、北のスコットランド寄りに近い北西部サルフォード、マンチェスターで生まれ、育った画家であった。しかし、今回のスコットランド独立問題に伏在する南北間の根深い偏見に類した状況が、イングランドの北部とロンドンを中心とする南部の間にも存在している。ひとたび生まれた偏見は除去するには多大な努力と年月を必要とする。

根深い南北間の偏見の中で
 マンチェスターなど、かつては産業革命を担った主要地域であり、イギリスの繁栄、国威発揚に大きな貢献をしたのだが、そこに生まれた煙突の立ち並ぶ工場地帯、そして働く労働者やそれにまつわる文化について、ロンドンなどの上流階級、エスタブリッシュメントの間にはそれらを軽視する根深い偏見、スノビズムが存在してきた。ラウリーの作品が工場風景や労働者の生活など、それまでほとんど取り上げられることのなかった光景を画題とし、独特の筆致で描いたことについては、長らく<正規の>絵画制作の教育課程を経ていない、日曜画家程度などの評もあったようだ。しかし、実際にはこれらは偏見に根ざしたものであった。

 ラウリーは画家として外国、とりわけフランスに行ったことがなかった。20世紀に生きたイギリス人画家としては大変珍しいのではないだろうか。パリは印象派の興隆などもあって、画家や画家志望者にとっては必須の訪問先だった。しかし、ラウリーの作品には微かにフランスの影響が残っている。これについては、ラウリーが通ったマンチェスター公立美術学校で、1905-15年にかけて無名のアメリカ人の画家William Fitz と、いわば生涯学習のクラスで教師であったアドルフ・ヴァレット Adolph Valette(1876 Saint Ethienne-1942 Lyon)というフランス人の影響が知られている。

 特にヴァレットはラウリーよりも11歳くらい年上であったが、才能に恵まれた画家・教師であった。ヴァレットはフランスでは後期印象派に近い作品を描いていた。しかし、マンチェスターに赴任してきてからは、土地の空気に合ったもっと暗い都市と産業の光景を描き、ラウリーに多大な影響を与えたものと考えられている。ラウリーは幸い良い教師に出会えたのだった。人生の過程で、尊敬できる良い教師に出会えること、これは画家にかぎらず、とても大切なことだ。

フランス印象派の影響
 フランス印象派の画家モネは、ロンドンのスモッグを好んだといわれる。そして、スモッグが少なく、空気が澄んでいる日曜を嫌った。そういわれてみれば、初めてロンドンを訪れた1960年代半ばのロンドンは、いつもどんよりと曇った日が多かった。




Maurice Utrillo
La Porte Saint Martin
c.1910
Oil paint on board, 
69.2x80cm 

モーリス・ユトリロ
『サン・マルタン門』 


 ヴァレットが赴任したころのマンチェスターは、工業化がたけなわで工場の煙突から出る煙、排水などで都市としての環境はかなり悪かったようだ。しかし、ヴァネットはそれをさほど気にしなかったらしい。この画家はマンチェスターでは大変人気のある画家として受け入れられ、個展も何度も開き、作品もよく売れた。教育という点でも、マンチェスターとボルトンの画学校で教えていた。1928年にフランスへ戻ったが、マンチェスターには良い印象を抱いていたようだ。この年、ラウリーはすでに42歳に達していたが、不動産会社の集金掛というこの都市の空気のような退屈した仕事に就く傍ら、好きな画家の道を黙々と歩いていた。

 ラウリーはヴァレットの制作態度や作品に大きな影響を受け、教師としても尊敬していた。しかし、ラウリーは自分にはそうした印象派風の作品を描く能力がない。
したがって自分が住んでいるサルフォードやマンチェスターの<産業化の風景> Industrial Landscape を自己流で描くしかないと述べている。そして、いまやよく知られている「マッチ棒のような人々」など、この画家独特の表現手法をあみ出した。しかし、ラウリーの残した作品をつぶさに見ていると、とりわけ初期の作品には、フランス印象派の影響が根底に流れていることを感じる。

 上に掲げたヴァレットの『マンチェスター、アルバート広場』を見ると、20世紀初頭、イギリスの産業化の中心地であったマンチェスターの汚れた空気、スモッグの雰囲気が伝わってくる。そして、車を押す人、馬車の馬などにも、ラウリーの作品にしばしば見られるデフォルメされて、コミカルな描写が感じられる。
 
 ラウリーは印象派の流れを汲むヴァレットなどに師事したことに加え、ほぼ同時代のユトリロ Maurice Utrillo、スーラ Georges Seurat などの作品から手法を学んだものと思われる。ユトリロの『サン・マルタン門』 La Porte Saint Martin、c.1910、スーラの『ある地域』 The Zone (Outside the City Walls), 1882-83などのやや暗い画面の作品などには、ローリーのキャンヴァスにきわめて類似した色調を感じる。ラウリーに影響を与えたと思われる、これらの作品は、昨年のテート・ブリテンでの回顧展『ラウリーと現代生活を描いた作品』 Lowry and the Paintings of Modern Life にも併せて展示された。

 
 

L.S. Lowry, Barges on a Canal, 1941, oil on board, 39.8 x 53.2cm
『運河に浮かぶはしけ』
この運河はボルトン運河とベリー運河を結び、現存している。

 ラウリーという画家と作品については、かなり好き嫌いが分かれるだろう。現にテートに代表されるイギリス画壇を支配するエスタブリシュメントは、ながらくこの画家を軽視し、1976年の画家の死後初めて、やっとオマージュの意味も込めてか、昨年2013年にその回顧展を企画した。他方、ロンドンのロイヤル・アカデミーは画家の晩年ではあるが、1962年にメンバーに選出した。ラウリーはこれを大変喜び、アカデミーには強い親近感を抱いていたようだ。

地域の画家を愛する人たち
 ラウリーをロンドンのエスタブリシュメントたちが評価しなくとも、この画家の作品を熱狂的に愛する人たちは非常に多く、オークション価格はどんどん高くなっていった。そして、マンチェスターを中心とする地域では、知らない人がいないほどの人気画家である。かつてイギリス首相をつとめたハロルド・ウイルソンは、公的なクリスマス・カードにこの画家の作品を使った。

 ちなみに、香川真司が去ったマンチェスターは、日本では人気が薄れた感じだが、この地はサッカー発祥の地ともいうべき大サッカー・ファンを擁する地域である。あの『試合を見に行く』 Going to the Match はプロフェッショナル・フットボール協会 Professional Footballers' Association が1999年に190万ポンド(約3億円)
という破格な価格で購入、所有している。なんとしても、欲しかったのだろう。

 L.S.ラウリーは、非常に遅咲きの画家であった。しかし、いかに遅くとも立派に大輪の花を咲かせた。このことは、不安で先の見えない時代に生きる若い世代の人たちに、ぜひ知って欲しいことだ。不動産会社の集金掛りを定年まで勤め、雨の日も風の日も労働者街を歩き、さまざまな悩みで自ら鬱病も経験し、豊かになっても浪費もせず、公的栄誉も断り、若いころから自分のしたいことを最後まで貫き通したひとりの人間的画家がいたことを。ラウリーという画家の作品を見ることは、この希有な人間の一生を知ることにつながっている。


続く


  

 
Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner (2013)
 

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赤毛のアンとは関係ない話:セントローレンス川流域回顧

2014年10月04日 | 午後のティールーム

 

Taddoussac, Quebec

セントローレンス川左岸タドゥサック(ケベック)の朝 



 朝の連続TVドラマ『花子とアン』は、かなり話題となっていたようだが、一度も見ないうちに終わっていた。元来、こうした番組を一貫して見たことはほとんどない。とりわけ若いころは朝の忙しい時間帯に、連続している番組を見る余裕もなかった。朝早く目が覚め、時間は十分にある今でも、TVニュース程度しか見ない。始まったばかりの『マッサン』なる番組についても、この習慣は変わらない。御嶽山噴火の惨事などの緊急性のあるニュースなどの合間に偶然、一部を見た程度だ。

 しかし、放映が始まったばかりの『マッサン』についても、終了した『花子とアン』も、新聞記事などで筋書きは大体想像がついた。それ以前に、こうした番組が作られ、放映されるはるか以前に、背景となる話や土地は訪れ体験していた。しかし、現地へ行った動機や背景は番組のそれとはまったく異なっていた。たとえば、「ひげのウイスキー」については以前にも記したが、セントローレンス川河口のプリンス・エドワード島(P.E.I.)についても、『赤毛のアン』はさほど大きな関心事ではなかった。

 当時j興味を惹かれたのは、この大河にまつわる探検・開発の歴史、水力発電などエネルギー源の可能性、植民による地域文化の形成など、TV番組とは遠く離れていた。それらの断片は、ブログのあちこちに図らずも書き残している。カナダの歴史家ティモシー・ブルックの『フェルメールの帽子』 (最近邦訳も刊行されたようだ)への言及なども、こうした旅のストックの中から生まれた。

セントローレンス川に沿って
 アンの故郷ともいうべき P.E.I. (プリンス・エドワード島)もすでに半
世紀近く前に訪れている。TV化される話などまったくなかった時代だった。そのほんの一部は、このブログの「セントローレンス川の旅」のいくつかに記した。最初に訪れたのは1966年の夏だったから、遠い昔の話だ。この時はセントローレンス川を5大湖の流出地キングストン近くから大西洋まで下ってみたいという思いに支えられていた。夏休みも課題に追われ、日本に戻るなどの余裕などまったくなかった頃であった。そこで、しばしの休養を兼ねて、大学院生の友人と小さなキャンピング・カーを借り、旅行の間はほとんど車の中か、テントで過ごした。その後、さまざまな機会にモントリオール、ケベックなどを拠点に、この川の流域はかなりの回数、訪れる機会があった。

 最初の旅は、体力もあったこともあって、ニューヨーク州北西部のバッファローからトロントへ走り、湖岸に沿ってセントローレンス川の起点とみなされるキングストン、その後はカナダ側のモントリオール、ケベックなどに寄りながら、ひたすら大西洋を目指して走り続けた。時には車を置いて、船に乗った。今と違って、どこへ行っても人影が少なく、素晴らしい自然に圧倒された。

 セントローレンスの河口付近でどこから大西洋になるのか、もとより定かではないが、ガスペからセント・ローレンス湾を望み、その荒涼として雄大な大自然に深い感激を受けた。ここまで来たからにはとフェリーでノヴァ・スコティアまで行き、大西洋を視野に入れた。開拓者たちが残した足跡を見た。秘境や新天地が消滅した今では考えがたいほどの環境で、冒険心と野心を発揮した彼らの挑戦の素晴らしさを思った。

 ノヴァ・スコティアへの途上、P.E.I(プリンス・エドワード島)にも立ち寄ったが、当時はほとんど日本人の姿は見なかった。L.M.モンゴメリが住んでいた所であることは知っていたし、村岡花子のことも知っていた。しかし、こうした辺境ともいえる地域にまでやってくる日本人は皆無に近く、全般に大変人影が少ない旅であった。結局、この旅の行程では、日本人には一度も出会わなかった。ケベックからガスペまでの道路でも、1時間くらい走っている間に、数台の車に出会うくらいの時もあった。ガスペまでの漁村には、どの村落にも干した鱈(cod)が、あたかも洗濯物のようにつり下げられていたのを思い出す。干鱈は寒い時期が長いこの地の人々にとっては、重要な食べ物でもあった。

 P.E.I. は、Lucy Maud Montgomery ルーシー・モード・モンゴメリ(1874-1942)『赤毛のアン』(邦題)(L.M. Monntgomery, Anne of Green Gables、1908)の出版が世界でさまざまに話題を生み、その後北米有数の人気スポットとなり、当初の欧米の観光客向けばかりか、日本人経営の民宿 B&Bまであるようだ。





素晴らしい景勝の地
 最初の旅の時は真夏であったが、オンタリオのガテノウ州立公園内のキャンプ場でテントを張り野営した折、朝方厳しく冷え込んで眠れなかったことを思い出した。テントが朝露で重くなっていた。朝靄の中に大きなムース(ヘラジカ)が見えた。ハイウエーで「鹿に注意!」との道路標識の多さに驚かされた。

 ブログ読者の皆さんの中に、サラダ好きの方がおられるならば、多分サウザンド・アイランド・ドレッシング Thousand Islands Dressing をご存知だろう。サラダの中に刻み込まれた胡瓜の細片は、セントローレンス川の出発地点にある高級別荘地 Thousand Islands の島々のようだ。この地点の川の中には多数の大小の島々があり、美しい別荘が建ち並んでいる。このドレッシングはこの地のホテルのオウナーがヨットで航行中、昼食時にシェフになにか目新しいものを作ってくれと依頼し、シェフが船中にあったピクルス、野菜などを刻み、香りの高いソースでドレッシングに仕立て上げたものといわれる。

 このドレッシングを見ると、あの川中に散在する美しい島々、色とりどりの別荘が目に浮かぶ。アメリカやカナダと日本の格差の大きさを感じさせられた。 

 このセントローレンス川の流域は紅葉がきわめて美しいことでも知られる。このたびの御嶽山噴火では、多くの登山客が紅葉見物を兼ねて出かけられ、不幸にも惨事に出会われたことを知り、紅葉時の光景を思い出した。確かに日本の山々の紅葉は、赤色系が多く鮮やかで素晴らしい。他方、アメリカ・カナダ東北部の紅葉も全視界が目を奪う美しさだ。アメリカ側のアディロンダック山系なども大変美しい。どちらかというと黄色系が多い。「赤毛のアン」の舞台となったP.E.I.付近も美しいが、セントローレンス川の下流に向かって左岸をケベックのタドゥサックなどから西へ入り込むと、さらに美しい自然が待ち構えていた。

 
セントローレンス川流域は、今が紅葉のシーズンだ。日本からも多数の人々が旅をしていることだろう。しかし、今回の御嶽山の惨事で露呈したように、予想外のことが起こりうることを知らされた。降り積もる火山灰や雨、そして硫化水素などの有毒ガスが漂う中、行方不明者などの探索、救出に当たる人々の並大抵ではないご苦労は、TV画面からもひしひしと伝わってくる。美しさも危険と隣り合わせの世界なのだ。自然は時に人間の傲慢を打ちのめすような冷酷な力を突きつける。自然に対する畏怖と尊敬の念を忘れると、鉄槌が墜ちてくる。人間は決して自然に打ち克ったわけではないのだ。




追記(2014/10/08)


 

Le Mason du Saguenay
Arvida, Québec, Canada
(carte postale)

この流域で管理人の思い出に残るホテル
古いフランスの荘園風に建てられ、広大な
芝生と庭園があった。ここからはサガニ川
の壮大な光景を望むことができた。残念な
ことに近年、所有者であった地域の主要
企業の売却で、閉鎖されることになった。

 

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