時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​断片で見る危機の時代: 思い出すままに

2022年07月20日 | 特別トピックス


「戦争の混迷」ジャック・カロ《ロシェル島の包囲》部分

第26回参議院選挙の2日前、突如として安倍晋三元首相が凶弾に倒れた事件は、思想、信条の別を問わず、世界の誰もが驚くほど衝撃的な出来事であった。政治信条のいかんを問わず到底許すべきことではない。前首相に関わる政治的疑惑の数々は、全て消却されてしまった。他方、事件の背景を知るほどに、この惨劇を生むにいたった日本社会の深部に潜む病理の闇の深さに驚きを禁じ得ない。宗教の持つ異様で残酷な側面に、改めて戦慄を覚える。

これに先立ち、2019年末中国で発見されたコロナ・ウイルスが生み出した世界的なパンデミックの行方が不明な中で、突如として勃発したロシアのウクライナ侵攻は、グローバルな次元での混乱と動揺をもたらしている。

17世紀以来の危機の時代を自分なりに整理し、さらに20世紀以降の数多の危機を見聞、体験してきたブログ筆者にとっては、またも起きてしまったかという思い、そしてこうしたことを繰り返す人類に未来はあるのだろうかと、思わざるをえない。

ロシアのウクライナ侵攻に象徴される不条理な出来事の数々を見ていると、文明の近未来への危惧は強まるばかりだ。時代の複雑さと混迷の中に生まれ、社会に浸透・拡大していた狂気が、さまざまな形で異様な事件や社会環境として表面化する事態を見ていると、16-17世紀の魔女狩りや異端審問の拡大を思い浮かべる。

忘れがたい衝撃の数々
自分の人生に限っても、かなりの数の衝撃的な光景が深く脳裏に刻み込まれている。時々ふとしたことで瞼に浮かび上がってくる。今回の事件を機に、思いつくままにいくつかを記してみた:

  1942(昭和17年)年4月18日、当時東京市王子、飛鳥山で友達と遊んでいた子供の頭上を、見たことのない大きな軍用機が超低空で飛び去っていった。後日、それが「ドゥーリトル空襲」と呼ばれるアメリカ空軍の B-25双発爆撃機であったことを知った。なんのことかよく分からなかった子供心にも、あたりに鳴り響く空襲警報と遠くに見える火災の光景と共に、異様に恐ろしい記憶として残像が残った。太平洋のアメリカ艦船から離陸した爆撃機の多くは、その後中国本土などへ不時着したらしい。アメリカのF・D・ローズベルト大統領は記者会見の席上で記者団から爆撃機の発進地をたずねられた際に、「
シャングリラ」と答えて煙に巻いた。

  1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲の焼夷弾が東京の夜空を赤々と照らし出した光景。この日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えたといわれる。サーチライトと照明弾が赤々と夜空を照らす中、B29だろうか、アメリカの爆撃機と焼夷弾が光って見えた。

  終戦 1945年8月15日正午、突如聞こえてきた天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」、意味はよく分からなかったが、子供心に日本が戦争に負けたのだということは感じとっていた。周囲の大人たちは、皆泣いていた。しかし、なんとなく大きな重荷がとれたような気がした。

  朝鮮戦争(1950-53年)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の間で生じた、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争だったが、今日に続く米中対決の原型であったともいえる。戦況の展開が早く、朝鮮半島の全域に渡ったこともあって、その緊迫感は今でも時々思い出すことがある。その後、アメリカの大学院で友人となった
アメリカ人帰還兵は、この戦争での体験がトラウマとなって苦しんでいた。

  1963年11月22日にJ.F.ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。筆者が渡米するほぼ1年前であったが、インターネットは未発達であり、電話で話をしたアメリカの友人がひどく落胆していたことを思い出す。ケネディ大統領の颯爽としたイメージが印象的であっただけに、この衝撃も大きかった。

  1973年第一次オイルショック、銀座のネオンが一斉に消えた光景が脳裏に残っている。その後、(かつての)日本興業銀行・通産省のエネルギー・原料資源調査団の一員として訪れた
ウイーンのOPEC(設立当時)が雑居ビルの2階にあったことにも驚いた。ここに集まった数少ない産油国の決定次第で、世界のあり方が大きく揺らぐことに衝撃を受けた。

  1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒 阪神・淡路大震災
高速道路の倒壊したイメージは忘れられない。この前の年、ケンブリッジに滞在していた頃、友人となったイギリス人が神戸へ研究生として来日、滞在していたはずなのだが、音信が普通になり、今日まで消息不明のままだ。

   1995年( 平成7年 ) 3月20日
地下鉄サリン事件は、想像を絶した無差別テロ事件だった。同じ路線の地下鉄でその日も少し前の電車で大学へ通っていただけに、記憶から消えることはない。

ー  2001年9月11日、同時多発テロ
移民研究のためしばしば訪れたエリス島やシュタッテン・アイランドから見た
ワールド・トレード・センターが、2001年9月11日には大惨劇の標的となってしまった。あの映像は網膜に深く焼きついてしまった。日本で職場を共にした同期の知人Sさんの息子さんが犠牲者に含まれていた。彼の半生は、このことで大きく変わってしまった。

 2002年3月19日、友人であったモデナ大学の労働法担当教授の
マルコ・ビアッジ (Marco Biagi)が、ボローニャの自宅前で極左分子(赤い旅団)によって射殺された。長年、同じ研究領域で活動してきただけに、あまりに衝撃的だった。

 2011年3月11日 東日本大震災
子供の頃からしばしば訪れていた
吾妻山、一切経山など、美しい福島の山々のイメージは、予想もしなかった震災、なかでも未だ解決の行方が見えない原発事故で大きく損なわれた。一時は、東日本全域が居住不可能になるといわれたほどだった。その後上空を航空機で飛ぶたびに、思わず黙祷している。
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実は、次々と浮かんでくる出来事はここにに記したことに止まらない。時間をおいて書き記していたら、さらになにが浮かんでくるか。

ブログでも再三、取り上げてきたが、20世紀、そして21世紀も「危機の世紀」であることはもはや疑いない。戦争は歴史を通して大きな危機を生む最大の原因だ。しかし、グローバルな危機を生みかねない要因は戦争に限らず、あまりに多い。

すでに3年近くになるコロナ禍の時代、僅かな間に多くの友人、知人が世を去った。「見るべきものは見つ」の感が強まっている。ブログ閉幕の時も遠くはない。



「侵攻と占拠」ジャック・カロ《レ島の包囲》部分




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追悼 花見忠先生を偲んで 桑原靖夫『季刊労働法』277号、2022/夏




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苦難の時代(4):対比モデルとしてのラ・トゥール

2022年07月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《(リボンのついた)ヴィエル弾き》
c.1630-1632, プラド美術館、マドリッド

コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻と、世界は急速に危機の状況を深めている。いずれも当初の予想に反し、収束の兆しが見えてこない。危機を生んでいる要因は数多く、21世紀の人類はかつてなく深刻な事態に対決を迫られている。しかし、破壊的で非人道的な戦争が行われている地域からほど遠くない所では、ヴァカンスを楽しむ人々がいる。他方、スイスのルガーノでは、ウクライナ復興へ向けた国際会議が開催されつつある。

人類にとって戦争は業病ともいうべきなのか。絶えることがないばかりか、世界の動きに深く組み込まれてしまっているかのようだ。第3次世界大戦もいつ勃発してもおかしくない。既に戦いは始まっているとの見方もある。

遡って世界史で初めて「危機の世紀」として認識された17世紀前半のヨーロッパ社会も戦火が絶えることなく、市民の生活ばかりでなく画業などの芸術活動も大きな影響を受けていた。

ラ・トゥールという画家にブログ筆者がのめり込み始めた半世紀前、日本では話題としても名前や作品を知る人も少なく、関心の度も低かった。今でこそ、この画家の作品を好む日本人は大幅に増えたが、当時を振り返ると隔世の感がある。

《ヴィエル弾き》という画題
50点余りの作品しか残っていないラ・トゥールの作品の中で、やや特異な一角を占める画題がある。画家が好んで描いた《
ヴィエル弾き》The Hardy-Gurdy Playerと呼ばれる旅の老楽士をモデルとした作品群である。

ラ・トゥールは《ヴィエル弾き》の画題を構想を改めては、様々に描いた。同じ画題を多様に描くことは、ラ・トゥールの特徴でもある。ロレーヌという絶えず様々な不安や危険がつきまとう地では、多くの画題を追い求めることも困難であり、工房にこもって構想を巡らすことが画家としてできることの範囲だったのかもしれない。

描かれたのは、いずれも長い漂泊の旅路を過ごし、疲れ果て年老いた楽士の姿である。多くは目の見えない老人である。しかし、老楽士には疲労の色を超えて毅然とした雰囲気が漂っている。ラ・トゥールはヴィックやリュネヴィルの町を通り過ぎた旅の楽士たちをモデルに制作を続けたのだろう。


リアリズムの精華。ラ・トゥール《リボンのついたヴィエル弾き》部分
この画家は必要なものは徹底的に描いた。

これまでの漂泊の旅路で、楽士たちは幾多の迫害にもあったに違いない。描かれたのは、総じて当時の社会階層としては、低い下層に位置した人たちである。ラ・トゥールは宗教画を別にすれば、自分より上の社会階層の人たちを画題としていない。しかし《ヴィエル弾き》には、いずれの画面にも、凛とした風格、威厳のようなものが漂っている。物質的富とは縁遠いが、それを超越した強靭な精神の持ち主ともいうべきものが感じられる。戦乱、疫病、飢饉、迷信、魔術などに幾重にも縛られた時代、この画題には心の安らぎを感じ、魅了されるものがあったのだろうか。



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
《帽子のあるヴィエル弾き》
A HURDY-GURDY PLAYER, ca.1628-1630
油彩、162 x 105 cm
ナント美術館

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N.B.
代表的な1点を取り上げてみよう。上掲の作品は1810年、ナントの美術館入りをしたが、その前はフランソワ・カコー のコレクションであった。最初はムリリョ、その後は1931年、ラ・トゥール研究者で今や知らない者はいないヘルマン・フォスがラ・トゥールの作品と鑑定するまでは、17世紀のスペインの大画家リベラ、ヴェラスケス、ヘレラ兄、スルバラン、マイノなどの手になるものとされてきた。作品が1764年に発見された当時は、トゥールに近いコメルシーの城の侯爵の自室に架けられていた(Conisbee, 1997, p.63)。ヴィエル弾きが単に当時の社会で下層に置かれていた人々のひとりにすぎないならば、宗教画でもない世俗の楽士を描いたこうした作品が、社会の高い階層の人の身近にあったこと自体、理解に苦しむことでもある。
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現代人にとってはこの主題についての画家ラ・トゥール、あるいは17世紀当時の人々の道徳的な立ち位置を正しく理解することは容易なことではない。ヴィエル弾きの置かれた社会的立場についてさらに思索を深めることが必要だろう。

スペイン画壇との水脈
加えて、この主題が上述のようにスペインの画家に帰属されることが多かったこと、その後の作品所蔵についてのスペインの美術館の様々な執着を考える必要があるかもしれない。彼らは、ラ・トゥールのこのジャンルの作品に大きな関心を抱いてきた。

スペインとの関連では、たまたま終了したばかりの『国立スコットランド美術館展』に出展されたベラスケスの作品《卵を料理する老婆》に通じるものがあるとの指摘もなされている(Conisbbee, p.63)



ベラスケス Diego Velázquez(1599-1660)《卵を料理する老婆》
1618年、100.5×119.5cm、国立スコットランド美術館、エディンバラ

ベラスケスは言うまでもなく、17世紀スペイン画壇を代表する画家のひとりだが、才能と環境に恵まれ多くの作品を残した。スペイン王室の家族を描いた多くの肖像画、中でも代表作《ラス・メニーナス》Las Meninas(1656)は、よく知られている。さらに、ここに掲げた《卵を料理する老婆》に代表される初期のボデゴン(bodegones: 厨房の光景を静物画の観点で描く画法)は、そのリアリズムをもって、画壇に大きな影響を与えた。ベラスケスは社会の低層にある人々を制作対象としながらも、老婆を威厳のある人物として描いた。

ヴィエル弾きと老婆と、描かれた対象は異なるが、底に流れるリアリズムは共に瞠目に値する。画面には貧しいが、ある重々しさが漂っている。もっとも、ベラスケスにとっては描く対象は、下層の人たちに限らなかった。当時未だ若かった画家にとってみれば、描けるものは全て対象にすると思っていたのかもしれない。

ちなみに、この作品はベラスケスが18ないしは19歳の頃のものといわれる。 フランシスコ・パチェコ Francisco Pachecoといわれたセビーリャでは取り立てて著名ではない画家の工房で徒弟修業を終えた頃であった。

この作品について、記すべきことは多々あるが、ここでひとまず止めておこう。ただ一つ強調しておくことは、このブログの課題でもある「コンテンポラリーズ」contemporariesの概念と意義である。
この言葉が意味する二つの次元、すなわち

(1) 「事象が起きているのと同じ時期、時代にいる」
(2) 「現代と同じ時期、時代にいるか、起きている」

の意味と重要さをあらためて考え直してみたいということである。今日、私たちが美術館や美術展で目にし、なんとなく理解したように思われる内容は、作品が制作された時代に画家や見る人々が意図したり、受け取ったものと同じだろうか。とりわけ、ラ・トゥールの作品は多くの疑問を私たちに残している。《ヴィエル弾き》への旅もまだ終わりが見えない。



Reference
Philip Conisbee, GEORGES DE LA TOUR AND HIS WORLD, Yale University Press, 1997





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