時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

看護・介護労働の将来

2007年08月09日 | 会議の合間に

  ある会議の合間に、日本を代表する大病院の経営や臨床現場に携わっておられる医師の率直なお話をうかがう機会があった。図らずも話題は日本の看護士・介護士不足の実態に集中、とりわけ急速に進む看護士不足の深刻さが話題となった。地方のみならず大都市での不足の実態も深刻なようだ。

  有名大病院や看護士養成校を持っている所などは、なんとか対応しているようだが、予算制約が厳しい公立病院などは危機的状況で、このままではとても正常な医療は継続できないとの話である。院内の打ち合わせ会議には、毎回のように看護スタッフ確保の問題が出てくるとのこと。知らない人がないほどの有名病院のお話なので、かなり驚く。

  看護士の資格免許を保有していながら、現在は看護士として働いていない人々の職場復帰を促すなどの努力もなされているが、非現実的で対応策になっていないとの見方が圧倒的に強い。看護士自身も高齢化から無縁ではない。厳しい労働環境、医療・看護技術の急速な進歩などのために、再参入の道は険しく大きな期待は持てない。

  それどころか、交代勤務の厳しさ、報酬に比しての多忙な毎日、負わされる大きな責任などから、病院勤めを辞めて労働市場から退出してしまう看護士が増えているという。確かに患者として実際の医療・看護の場を経験してみると、厳しい条件の下で働いている方々の姿には頭が下がる。
  
  勤務態様などが柔軟な介護サービスなど、他の分野の仕事へ変わる人もいるようだ。町中のクリニックなどは、交代勤務もなく負担も少ないこともあって、看護士確保にさほど危機感はないらしい。

  医師の先生方のお話では、医療レヴェルも高度化し、スキルの高い看護士が欲しいが、とても無理な状況だとのこと。いまや数を確保するだけでも大変のようだ。なんだか暗い話ばかり。

  看護ばかりでなく、介護サービスに携わる人材の不足も、さらに輪をかけて厳しくなっている。厚生労働省は今頃になって団塊世代の高齢化に伴う介護ニーズをまかなうためには、2014年までに介護職員などを40-60万人増やす必要があるとの推計を公表した*。この問題に限ったことではないが、その場しのぎの対応しかしてこなかったことが、いまや破綻状態を招いている。

  長年、労働問題をウオッチしてきたが、数年でこれだけの数で、専門性を備えた人材を養成することは並大抵のことではない。一部には介護職員の熟練はそれほど高くなくてよいと考えている向きもあるようだが、事実誤認も甚だしいと思う。さまざまな問題を抱える患者、高齢者に適切に対応するには、言葉に尽くせない熟練、資質が必要とされる。ロボットと違って、こうした対人関係のスキルも体得した人材の教育・養成には多大な時間とコストを必要とする。看護・介護分野の生産性の向上が必要なことは明らかだが、最も人手を要するサービス分野であり、人間的な対話・交流がきわめて重要な職業分野である。

  福祉施設などで働く介護職員の労働条件は、長時間労働、低報酬で、介護職員を目指す若い人々へのインセンティブも薄れている。移動が激しい。人手不足で需給が逼迫しても、仕事は厳しくなるばかりで労働条件の改善にはつながらない。

  といっても外国人看護士・介護士の受け入れに大きく頼れる状況ではない。政府は2006年に介護分野でフィリピン人研修生を受け入れることを決めたが、総数はわずかに600人。それも継続的に働けるのは4年以内に介護福祉士の国家資格を取得した人に限られるため、焼け石に水の状態である。今回、お話いただいた医師の方々のフィリピン人看護士・介護士への評価は高い。職業意識に徹していて、日本人スタッフと組めば十分信頼できるとのこと。今後の日本にとって国際的な経験の蓄積はなににもまして重要な課題だ。医療・看護、教育も日本人だけでという時代はとうの昔の話となっている。

  参院選の結果の混迷は長く尾を引きそうで、厚生労働分野の事態改善は難航しよう。年金記録問題に時間をとられている間に、医療・看護・介護問題がさらに深刻化することが十分考えられる。その場限りではない、国家百年の計として、根本的検討が必要だ。政治の膠着にかまけて、こうした国民的問題への対応が先延ばしにならないよう願うばかりだ。

 

* 「介護職員「40万人増員必要」団塊ニーズ見据え厚労省推計」『日本経済新聞』2007年7月23日


  

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真冬の夜の夢

2006年01月14日 | 会議の合間に
  2月号の『中央公論』が「大学の失墜」というテーマを巻頭に掲げている。日本の大学の権威が低迷し、多くの大学が就職予備校化しているという。このこと自体は、はるか以前から指摘されてきたことで、いまさらという感じがする。テーマ設定が、時代の進行からかなり遅れている。 

  多くの問題が指摘されてはいるが、現在の議論の延長線上に光は見えてこない。この小さな島国に1,000近い大学を設置してしまい、入学人口が減少する今後は市場の淘汰に任せるというのは、高等教育政策としてかなり無責任なあり方といわざるをえない。大学もゴルフ場も同じような次元に置かれている。「就職に強い」、「学生に来ていただく」大学作りなどのスローガンが、大学当事者によって臆面もなく掲げられている。壮大な建物が作られ、キャンパスがきれいになる裏側で、大学の知的空洞化・衰亡が急速に進んでいる。

  かなりの大学が「入りやすく、出やすい」、単なる人生の通過期間の場所になっている。優勝劣敗の風が吹く社会へ出るまでのしばしの「モラトリアム」と化している。それなら、どうして4年間も必要なのだろうとさえ考えてしまう。

形骸化する大学  
  あまり議論されていない問題だが、近年のインターネットの発達が大学に与える衝撃がある。少なくも文科系に限ってみると、世俗的な目的のために大卒の資格が必要ならば別として、真に学問に関心を抱き、知的対象を追求するのであれば、高い授業料を払ってまで大学キャンパスに来る必要も少なくなっている。   
 
  世界のどこに求める対象があり、どの図書館、研究機関が必要な文献や研究を行っているかということは、以前とは比較にならないほど容易に分かるようになった。内容は別として、少なくも最先端の情報がどこにあるかを発見することはそれほど難しくはない。あとは、その場所へのアクセスをどう確保するかということになる。   

  インターネットは知的関心の対象とそれを求める人々の関係にも革命的な変化をもたらした。これまでの大学と学生の間に存在した距離の束縛をかなり切り離した。社会が真に実力のある人材を認めようとするのならば、大学卒の資格すら必要ない。   

  外からの批判がない密室状態の教室で、知的好奇心を呼び起こされない授業を惰性で聞いているよりは、はるかに魅力的でチャレンジングな世界が広がっている。真の大学は一定の場所と空間を占める物理的な存在ではなく、われわれの心の中にあるといってもよい。  

広がった知的世界
  もちろん、大学が必要とされる部分も十分あることは百も承知の上のことだが、大学に過大な期待を寄せる必要もない。「大学」の外に真の大学があるのだと思いたい。そう考えると、名ばかりで内容のない大学が淘汰されることはむしろ望ましいことであり、無駄に資源を投入して生き残り策を講じる必要もない。  

  粗末な黒板だけの教室だが、生き生きとした目をした学生に溢れ、夜間節電のために消灯になった後、裸電球がともった電柱の下で本を読んでいる学生がいる、ある国の大学を経験してふと思った。「真冬の夜の夢」である。
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高学歴社会の断面:台湾に見る光と影

2005年11月05日 | 会議の合間に
広大な台湾大学キャンパス

「超学歴社会」の台湾


  10月末から再び台北へ出張する。1ヶ月に2度同じ国へ行くことは、過去には何度かあったが、最近では珍しい。前回と同様、今回も国際会議(国際労働法・社会保障法会議)での報告のためだが、立て続けに英語・中国語だけの会議が続くと、かなり疲れる。しかし、この国は幸いなことに日本語が堪能な人も多く、ほっとすることも多い。朝から夕方まで会議の後は、さまざまにもてなしてくれる。その暖かい歓待ぶりには感謝の言葉もない。しかし、翌日の準備などもあり、夜11時過ぎに、ホテルに戻るとブログを書く余裕もなくなってしまう。

  会議の合間のティータイムや宴会の折に、この国について色々なことを教えてもらう。そのひとつに、初対面の人と交換する名刺のことがある。前から気づいていたことだが、台湾や韓国では名刺に自分が卒業した大学、大学院、学位、肩書きなどを記しているいる人が非常に多い。中には過去の職位や兼職、名誉職など、表裏にわたって白地の部分がなくなるほど記載している人もある。これだけ自己顕示しないといけないのだろうかという思いがする。他方、日本でも政治家などに、「--議員」という肩書きと氏名だけを特大の活字で記載している人が多い。事務所の住所さえ記されていない。これも別の意味での強い自己顕示の表れである。

「高学歴病」のもたらすもの
  この点を隣に座った台湾の友人に話したところ、彼は競争が激しい社会での生存競争の一面という解釈を示してくれた。台湾はいまや世界一の超学歴社会であり、国民中学から高級中学及び高級職業学校等への進学率は約95%、高級中学から大学(含専科学校)への進学率は約70%に達しているとのこと。

  結果は歓迎すべきことばかりではない。就職市場は大学卒業者で溢れかえり、大学院、それも外国の大学などの学位がないと、就職試験の時も優位に立てないと、「高学歴病」の弊害を冗談まじりに話してくれた。うんざりするほど自己顕示しないと、目だたないのだ。

  かなり以前に閣僚を経験したある友人から、台湾の閣僚は、世界一の高学歴だという話を聞いたことがあった。そこで閣僚名簿を見てみるとほとんどが国立台湾大学を始めとする有名な大学卒、かなりの閣僚が修士・博士号の保持者ばかりであるのに驚いたことがある。現与党の民進党内閣でも陳水扁総統を始め、高学歴、弁護士などの資格保持者が圧倒的に多い。台湾では博士号がないと、大臣にはなれないと冗談もある。

高い進学率の先に見えてくるもの
  進学率が高まり、ほとんどの若者が大学へ行く時代になっても、有名大学を目指す動きは変わらないようである。以前より少し減ったような印象もあるが、街中には中高生を対象とした「補習班」と呼ばれる塾の看板が目立つ。このままではタクシー運転手に応募するにも大卒の学歴が必要になるかもと、冗談のようで現実味を帯びた話になる。

  さらに、学歴の高さだけでは差がつかなくなり、男だとハンサム、女だと美人でないと目だないという風潮が生まれているとのこと。個人の真の実力ではなく、学歴、容貌など形式的な面で人間を判別することに向かっていることが話題となる。 こうした社会的風潮を意識して、台湾でも入試制度の改革や大学の特色を生み出す努力が行われている。そして、受験生が自らの責任で理想の大学を選択できるようにと新たな方向設定が始まった。しかし、人間の評価ということの難しさを改めて感じさせられる。

  話題はたまたま台湾の変化についてであったが、日本も無縁ではない。名刺の表記から始まった話題が教育制度、人間の評価ととめどなく広がってしまった。
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国際会議のひとこま(2)

2005年03月10日 | 会議の合間に

 世界には風光明媚といわれる所はきわめて多いが、スイスのモントルー・ヴェヴェイほど360度、どこを向いても絵になる場所は少ないだろう。町の後方は白壁の美しい民家やホテルがぶどう畑に点在し、アルプスに続く山々が町を支えるように展開している。全面は美しいレマン湖に面し、湖の背景には朝夕は荘厳なほどのアルプスの山々が屹立している。「スイスのリヴィエラ」ともいわれるが、観光地化が進んだリヴィエラよりはるかに美しいのではないかとさえ思われる。レマン湖の東の端に位置するこの地域は、古くはバイロン、リルケ、ディッケンズ、トルストイ、ワグナー、チャイコフスキー、そして新しいところではチャップリン、オードリー・ヘプバーンなど、数々の文人、音楽家、映画俳優などが長期に滞在し、晩年を過ごしている。
 ジュネーブ、ベルン、ローザンヌなどは、ILOの会議その他で何度か訪れたことがあるが、モントルー・ヴェヴェイは、ILOの会議でジュネーブを訪れ、レマン湖の遊覧船に乗った時に湖上から眺めたことはあったが、それ以外には機会がなかった。たまたま、2000年9月にスイス政府、国連諸機関などの共催する国際会議に講演者として招きたいという話があり、夏季休暇中ということもあって、あまり深く考えることもなく引き受けてしまった。モントルー・ヴェヴェイならばぜひ行ってみたいという潜在意識も強く働いていたようだ。

IAOS 国際会議
 会議のタイトルは、「統計、発展と人権」という一見すると、3題噺みたいなもので、いかなる関係を想定して設定したのか判然としなかった。しかし、正式なプログラムが送られてきて分かったことは、これが国際公式統計協会(International Association of Official Statistics: IAOS)の2000年記念会議ということである。この会議を組織したのはスイス連邦統計局およびスイス開発・協力局だが、共催機関はILO、UNICEF、EC共同体統計委員会、EUROSTAT、国連人権高等弁務官事務所、国連ヨーロッパ経済委員会など15を越える機関である。     
 会議は大変大規模なものであり、最近の通例としてインターネット上に事務局によるホームページが開かれ、公式招待者のペーパーは、会議前から公開されるという方式がとられた。これまでのように多数のペーパーをあらかじめ印刷して、会議開催の登録時に参加者全員に配布するという無駄の多い仕事が回避された。自分に関連する論文だけを参加者がそれぞれダウンロードするという方法である。
 こうした国際会議に出席すると、登録時に膨大な論文集を時には数冊も渡されるものだから、今回はそれがなくて良い企画と思ったのは早のみこみで、モントルー・ヴェヴェイの観光案内、会場やホテル、レストラン案内、参加者リスト、そして豪華な付帯プログラムの説明・招待状などが入った鞄を手渡されたが、ポータブルPCが入っているのではないかと思うくらいの重さであった。
 私に依頼があったテーマは、「移民とその社会・経済的影響の測定:アジアにおける労働力移動の主要課題」というものであった。課題が大きすぎるのでためらったが、選考委員会から日本は全招待者の中であなたひとりしか推薦していないのだからと告げられ、引き受けないわけには行かなくなった。
 本会議は9月4日からスタートしたが、成田からモントルーまでは1日で行ける適当な便がない。仕方なく、ロンドンに1泊してジュネーブまで飛び、列車で行くことになった。長い旅であったが、モントルーへ到着してみると、太陽は燦々と輝き、山も湖もたとえようもなく美しい。長旅の疲れもどこかに消え、着いたとたんにせわしない日本へは帰りたくなくなってしまった。世界的な保養地だけにホテルの数は多いが、今回の国際会議がそのほとんどを借り切っても、収容できず、近隣のホテルまで動員している。事務局の予想をはるかに上回る参加者があるためという。やはり、モントルーの魅力はすごいと感じた。しかし、事務局の悩みは環境があまりに素晴らしいので、会議を名目に登録し、どこかへ消えてしまう参加者が多いということであった。すべてのセッションに出たわけではないので、はっきりしたことは分からないが、大会議場などでの講演は6~7割の出席であった。事務局が用意してくれたホテルは、有名なシオン城にも歩いて行ける場所で、町中の豪華ホテルではないが、スイスらしい清潔さに満ちていた。

素晴らしい会議運営
 会議場は町の中心部の壮大な国際会議センターである。開会式場はストラヴィンスキー・ホールと名付けられている。ここは、いまや世界に知られた夏のモントルー・ヴェヴェイ音楽祭を始めとしてさまざまな催しが年間を通して行われている町なので、国際会議は慣れたものであり、諸事万端きわめて手際よく進行している。東京で同様な会議を開催した時には、会場探しに始まって随分苦労したが、ここでは、国際会議は日常行事なのである。開会式もスイス連邦政府の閣僚、主催者側の国際機関のお歴々が挨拶し、多彩なプログラムが展開した。  
 EUの成立に伴って加盟諸国の共同による行事は急速に増加しており、主催者が多国籍であるばかりか、使用言語も英語、フランス語、スペイン語、そしてアラビア語であった。国連諸機関が主催者側の一員であることもあって、アフリカ、中東諸国などからの参加者が非常に目立つ会議であった。これだけの規模の国際会議にしては日本人が少なく、会期中にお会いしたのは、立命館大学の先生ひとりだけという最近珍しい会議であった。テーマは人口、労働力、国際労働力移動、難民、戦争、飢饉など、きわめて広範な領域にわたる問題を、統計、経済発展と人権の関係で論じるものである。国際統計学会が主催者のひとつであるため、いずれのセッションも、統計との関わり合いを常に重視するという難しいテーマである。

国際色豊かなセッション
 ちなみに私のセッションは、国際統計学会の特別テーマとして設けられた2つのうちのひとつであった。座長はフィンランドの統計局長(女性)、発表者はアメリカ、スエーデン、モロッコ、日本、コメンテイターはEUの人権委員会委員、元厚生大臣( ポルトガル)であった。移民労働(外国人労働者)の問題は、世界的にも注目を集めているだけに、時間切れまで議論と質問が続いた。しかし、この問題は立場によって見解が大きく異なるだけに、論争は止まるところがない。たとえば、発表者の一人はモロッコの代表、コメンテイターはポルトガル出身で、送り出し国と受け入れ国という意味で対立した関係にある。通訳者から定刻も過ぎていることだから終わりにしてほしいという要求が出されて終止符を打った。
 学術会議としての中心的課題や議論の内容は別にして、若い世代の研究者のために、いくつかの感想を記しておこう。第一は、講演や発表がコンピュータ・ソフト、とりわけパワーポイントを使った視覚に訴えるものが非常に増加したことである。今回の会議も100本を越える発表があったが、半数近くはコンピュータからの投影あるいはOHPが使用されていた。これだけソフトウエアが発達しても、昔ながらのモノクロのOHP用紙に、読みにくい手書きで要点を記した発表も結構多い。他方、動画を含むソフトウエア技術の面では大変こったものもあるが、概してこうした発表は内容が伴っていないものが多く、評判はいまひとつなのは面白い。やはり、学会は発表論文の質で評価されていることを感じて安心する。 
 第二に、学問が専門化、細分化が進み、弊害も多い。学会での批判を回避しようと理論を精緻化し、標本抽出などの点で技術的な配慮が払われていることは認められるのだが、自分の設定した機能的に計測可能な理論に合致するようなケースだけが選定されているような発表が多く、かえって一般性を疑われるようなものが多くなっている。今回の会議でも、こうした発表がしばしば批判の集中砲火にあっていた。   
 第三に、今回の会議は統計学者ばかりでなく、経済学、政治学、法律学などの分野の参加者も多かったので、過度な専門化への批判、反省もみられた。なかでも、アメリカからの参加者の多くが上述の狭小な専門化へ傾斜している傾向が強いため、ヨーロッパその他の地域からの参加者は不満なようであった。 
 この国際会議に限らず、こうした会議は学会メンバーや関係者の再会の場でもある。今回の会議では、この点にも多大な配慮が払われていた。特に、注目したのは、インターネット・カフェという名前がつけられた一室に、20台くらいのコンピュータ端末が設置され、関連する論文をプリントアウトし、メールを交換することができる場が準備されていたことである。。中東諸国からの参加者と見られる黒いヴェールで身を包んだ女性の隣で、カラフルな衣装のアフリカ諸国からの参加者が、PC に向かっている姿は、世界が大きく変わっていることを強く印象づける光景であった(2000年9月9日記)。

旧ホームページから一部加筆の上、転載。

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国際会議のひとこま(1)

2005年03月03日 | 会議の合間に
国際会議の一こま
 
    これまでの人生で、かなり多数の国際会議や学術会議に出る機会があった。自分が事務局や開催者になったこともある。長い年月の間には、会議の仕方や内容自体も大きく変化してきた。その変化を振り返ると、いろいろなことを考えさせられる。その中から比較的最近の例としてベルリンで開催された国際会議についてふれてみよう。この会議は3年に1度、世界中で会長国が持ち回りで実施する形式のものである。いままで、ジュネーブ、ロンドン、パリ、京都、ハンブルグ、ブラッセル、ワシントン、シドニー、ボローニャ、東京、ベルリンなどで開催されてきた。それぞれに懐かしい思い出もある。これらの会議の間には各地で、空白を埋めるように多数の地域会議が、それぞれのブロックで開催されてきた。昨年は韓流ブームに沸くソウルで開催された。

2003年に開催されたベルリン会議の前は東京で開催され、筆者はプログラム委員長を担当した。そうしたこともあって、各国で開催される会議には、多くの関心を持ってきた。お国柄もあって、会議の準備や開催のプロセスなどが、かなり顕著に異なり、それ自体が大変面白い考察の対象となる。日本は際だって面倒見のいい、準備にエネルギーをかける国として知られてきた。そのこともあって、全般に大変良い評判を残してきた。日本は例外、あのようには自分たちの場合はうまくやれないというのが、しばしば日本への讃辞であった。しかし、その他の国も独自の方式で工夫を凝らして実行し、それぞれに好評を博してきた。

今回の会議は、ベルリンの南西部に位置するベルリン自由大学(Freie Universitat、略称FU)で開催された。大学は郊外の広大な土地に現代的な建物が散在する大変美しいキャンパスだが、会議期間中、ベルリン中心部のホテルなどから通うにはやや不便であった。そのため、主催者は学会の名札をつけた者は期間中、地下鉄、バスなどベルリンの公的な交通機関は何回乗っても無料という措置をしてくれた。参加者の多くが利用した地下鉄U-Bahnにしても、東京都と違って郊外の駅はほとんど無人駅である。特に少し時間が遅くなると、駅員はだれもいない。改札も出口は回転ドアがあっても入り口はなにもない駅が多い。時々車掌が乗車券をチェックに来て、その時、無賃乗車をしていると高額の罰金を徴収する仕組みである。
 
会議のテーマや報告については、とうていここでは扱いきれないが、統一テーマはBeyond Traditional Employment: Industrial Relations in the Network Economyであり、会長演説で触れられたように2000年東京会議のテーマの延長線上に展開された諸問題が議論された。2000年に開催された東京会議までは、すべてのペーパーはあらかじめ印刷され、参加者に配布されたが、ベルリン会議では、地図、スポンサーの広告、若干の基礎的ペーパー以外は、すべてWEB上で閲覧、ダウンロードできるようになっており、小さなトートバッグに入れて軽い資料が渡されただけである。これは、遠い国から参加している者にとっては、大変有り難い方法であった。これまでの会議では、時には大きな段ボールボックスで、大量の資料を自国に送らねばならないというのが普通だったからである。初期の頃は、コンピューターでも入っているのではないかと思われる重い立派なバッグまで手渡してくれた会議もあった。バッグだけでも、かなりお金がかかっているのではないかと思わせるものもあった。しかし、中身のない買い物袋のようなものを手渡された参加者の中には、どうして論文が入っていないのだと文句を言っている人もいた。
 
帰国してしばらくすると、参加者への感謝のメールと併せて、会議の公式HP上で(http://www.fu-berlin.de/iira2003/)で、すべての主要なペーパーがダウンロードできるようになったとの知らせがあった。もうひとつ、会期中にカメラマンが記録写真を撮影していたが、そのうちのスナップ写真がHP上に掲載されていた。何の気なしに開いてみると、私の写真も数枚入っていた。会議で報告中の写真もあり、これでは居眠りもできないなと苦笑したほどである。
 1983年の京都会議以来、世界会議のひとつのモデルとなっているのは、図らずも日本が主催した京都および東京での会議である。この二つの会議は日本人らしい面倒見のよさ、行き届いた運営で大変評判が良く、参加者も多かった。そのため、常に比較対象とされてきた。ベルリン会議は、主会場が郊外の大学キャンパスであったということもあり、参加者の満足度は高いとはいえなかった。プログラムのミス、近隣のレストランが少なく、昼時の長蛇の列なども目立った。しかし、これらはしかたのないことである。参加者はそれぞれの立場で、ベルリンを楽しんでいたようだ。私にとっては、ベルリンの美術館の充実は魅力であった。会議の合間に、好きな美術館を見て歩いた。特に、あのラ・トゥールへの再会は嬉しかった。
 
前回は主催国が日本だったということもあるが、日本人の参加者はきわめて少なく、日本的経営・労使関係が注目を集めた1980年代とは昔日の感があった。2004年にソウルでアジア地域の会議が開催されることもあって、韓国からの参加者が多かった。中国本土からの参加者も少数ではあるが、みかけるようになった。

 次回は2003年にペルーのリマで開催されるが、2006年の開催国としてオーストラリアが決まり、IIRAの次期会長President Electとして家族ぐるみの親友のProf. Russell Lansburyが選ばれたことは大変うれしいことであった。20年以上前、初めて会った時は、少壮?の研究者であったが、いまや世界の学会での重鎮の一人である。年に一度くらいは世界のどこかで会う機会があるが、一緒に日光の山々やシドニー近郊の丘陵を歩いた記憶がよみがえってくる。

会議期間中にベルリン自由大学の学長主催のレセプションが、大学付属の植物園で開催された。広大な植物園の中で、ビュッフェと円卓を併せたディナーの夕べとなった。夜になると、さすがに暑さもやわらぎ、さわやかな空気が支配する。700人近い参加者とのことであったが、それほどの混雑観はない。漆黒の闇を巨大な温室や会場にあてられた建物の光がほのかに映し出す印象深い光景であった。しかし、FUの学長の話では日常は市民の憩いの場でもあるこの素晴らしい植物園も、大学財政の負担から、大学の手を離れるとのことである。どこの国も大学は厳しい競争時代に入ったことを痛感させられる。

座席が決められていないで自由に円卓に座る形式のビュッフェ・ディナーだが、偶然に座った10人くらいの円卓の隣人は、旧知の台湾国立中央大学の李誠教授夫妻とドイツのオスナブリュック大学のスゼル教授夫妻でお互いに驚いた。お互いに連絡しあってベルリンに来たわけではない。世界は小さいという経験はたびたびしている。まさにIt’s a small worldである。

こうした国際会議は世界の研究の先端や関心がどこにあるかを知るに欠かせない絶好の機会だが、同時に久しぶりに友人に会い、家族や友人・知人たちの動静を話し合う楽しい場でもある。しかし、別に書いたこともあるが、イタリア労使関係学会々長のマルコ・ビアッジ教授のように、その後テロの凶弾に倒れるという予想もしなかった悲劇で、会議が最後に会う機会になってしまったという悲劇もないわけではない。今回の開会式典でもヴァイス会長は、演説でその点に触れ追悼の意を表した。

FUの招宴の前夜は、はや20年近く前になるが、外国人労働者調査で訪れたクロイツベルクのイタリア・レストランで、友人のコーネル大のハリー・カッツ教授などと、私の学生時代の指導教授などについて話がはずんだ。多くの先生方が次々と世を去られているのは、大変悲しいことであり、自分自身もそうした年齢に近づいているのだということを改めて感じる。話にふけり、気づいてみると、深夜に近く窓の外は漆黒の闇であった。

 東京を出る前に、10月16日に予定されるコーネル大学の新学長ジェフレイ・レーマン氏から就任式の招待状をいただいたが、残念ながら今の私の日程では出席ができない。お祝いの手紙だけを差し上げることにした。ちなみに、アメリカの著名な大学の学長就任式は、大変大規模で、世界中から多数の著名人や卒業生が招待されるため、はるか以前から近隣のホテルの借り上げ、大学施設の活用など、日本では想像できない準備が行われる。コーネルの場合も、大学町ということもあるが、大学ホテルスクール経営のシュタットラー・ヒルトン・ホテルのみならず、近隣の30近いホテルは式典参加者のためにすべて借り上げとのことである。初めて、私がキャンパスを訪れた時に視界を埋め尽くす黄や赤色の一大パノラマに大変感動したように、美しいニューイングランドの紅葉が参加者を待っているに違いない。ベルリン郊外、大学キャンパスの紅葉した光景を眺めながら、いつの間にかアメリカのことを考えていた。

ベルリンは短い滞在であったが、人生の来し方・行く末を考えさせる濃密な時間を与えてくれた(2003年9月14日記)

旧ホームページから一部加筆の上、転載。
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