国際会議の一こま
これまでの人生で、かなり多数の国際会議や学術会議に出る機会があった。自分が事務局や開催者になったこともある。長い年月の間には、会議の仕方や内容自体も大きく変化してきた。その変化を振り返ると、いろいろなことを考えさせられる。その中から比較的最近の例としてベルリンで開催された国際会議についてふれてみよう。この会議は3年に1度、世界中で会長国が持ち回りで実施する形式のものである。いままで、ジュネーブ、ロンドン、パリ、京都、ハンブルグ、ブラッセル、ワシントン、シドニー、ボローニャ、東京、ベルリンなどで開催されてきた。それぞれに懐かしい思い出もある。これらの会議の間には各地で、空白を埋めるように多数の地域会議が、それぞれのブロックで開催されてきた。昨年は韓流ブームに沸くソウルで開催された。
2003年に開催されたベルリン会議の前は東京で開催され、筆者はプログラム委員長を担当した。そうしたこともあって、各国で開催される会議には、多くの関心を持ってきた。お国柄もあって、会議の準備や開催のプロセスなどが、かなり顕著に異なり、それ自体が大変面白い考察の対象となる。日本は際だって面倒見のいい、準備にエネルギーをかける国として知られてきた。そのこともあって、全般に大変良い評判を残してきた。日本は例外、あのようには自分たちの場合はうまくやれないというのが、しばしば日本への讃辞であった。しかし、その他の国も独自の方式で工夫を凝らして実行し、それぞれに好評を博してきた。
今回の会議は、ベルリンの南西部に位置するベルリン自由大学(Freie Universitat、略称FU)で開催された。大学は郊外の広大な土地に現代的な建物が散在する大変美しいキャンパスだが、会議期間中、ベルリン中心部のホテルなどから通うにはやや不便であった。そのため、主催者は学会の名札をつけた者は期間中、地下鉄、バスなどベルリンの公的な交通機関は何回乗っても無料という措置をしてくれた。参加者の多くが利用した地下鉄U-Bahnにしても、東京都と違って郊外の駅はほとんど無人駅である。特に少し時間が遅くなると、駅員はだれもいない。改札も出口は回転ドアがあっても入り口はなにもない駅が多い。時々車掌が乗車券をチェックに来て、その時、無賃乗車をしていると高額の罰金を徴収する仕組みである。
会議のテーマや報告については、とうていここでは扱いきれないが、統一テーマはBeyond Traditional Employment: Industrial Relations in the Network Economyであり、会長演説で触れられたように2000年東京会議のテーマの延長線上に展開された諸問題が議論された。2000年に開催された東京会議までは、すべてのペーパーはあらかじめ印刷され、参加者に配布されたが、ベルリン会議では、地図、スポンサーの広告、若干の基礎的ペーパー以外は、すべてWEB上で閲覧、ダウンロードできるようになっており、小さなトートバッグに入れて軽い資料が渡されただけである。これは、遠い国から参加している者にとっては、大変有り難い方法であった。これまでの会議では、時には大きな段ボールボックスで、大量の資料を自国に送らねばならないというのが普通だったからである。初期の頃は、コンピューターでも入っているのではないかと思われる重い立派なバッグまで手渡してくれた会議もあった。バッグだけでも、かなりお金がかかっているのではないかと思わせるものもあった。しかし、中身のない買い物袋のようなものを手渡された参加者の中には、どうして論文が入っていないのだと文句を言っている人もいた。
帰国してしばらくすると、参加者への感謝のメールと併せて、会議の公式HP上で(http://www.fu-berlin.de/iira2003/)で、すべての主要なペーパーがダウンロードできるようになったとの知らせがあった。もうひとつ、会期中にカメラマンが記録写真を撮影していたが、そのうちのスナップ写真がHP上に掲載されていた。何の気なしに開いてみると、私の写真も数枚入っていた。会議で報告中の写真もあり、これでは居眠りもできないなと苦笑したほどである。
1983年の京都会議以来、世界会議のひとつのモデルとなっているのは、図らずも日本が主催した京都および東京での会議である。この二つの会議は日本人らしい面倒見のよさ、行き届いた運営で大変評判が良く、参加者も多かった。そのため、常に比較対象とされてきた。ベルリン会議は、主会場が郊外の大学キャンパスであったということもあり、参加者の満足度は高いとはいえなかった。プログラムのミス、近隣のレストランが少なく、昼時の長蛇の列なども目立った。しかし、これらはしかたのないことである。参加者はそれぞれの立場で、ベルリンを楽しんでいたようだ。私にとっては、ベルリンの美術館の充実は魅力であった。会議の合間に、好きな美術館を見て歩いた。特に、あのラ・トゥールへの再会は嬉しかった。
前回は主催国が日本だったということもあるが、日本人の参加者はきわめて少なく、日本的経営・労使関係が注目を集めた1980年代とは昔日の感があった。2004年にソウルでアジア地域の会議が開催されることもあって、韓国からの参加者が多かった。中国本土からの参加者も少数ではあるが、みかけるようになった。
次回は2003年にペルーのリマで開催されるが、2006年の開催国としてオーストラリアが決まり、IIRAの次期会長President Electとして家族ぐるみの親友のProf. Russell Lansburyが選ばれたことは大変うれしいことであった。20年以上前、初めて会った時は、少壮?の研究者であったが、いまや世界の学会での重鎮の一人である。年に一度くらいは世界のどこかで会う機会があるが、一緒に日光の山々やシドニー近郊の丘陵を歩いた記憶がよみがえってくる。
会議期間中にベルリン自由大学の学長主催のレセプションが、大学付属の植物園で開催された。広大な植物園の中で、ビュッフェと円卓を併せたディナーの夕べとなった。夜になると、さすがに暑さもやわらぎ、さわやかな空気が支配する。700人近い参加者とのことであったが、それほどの混雑観はない。漆黒の闇を巨大な温室や会場にあてられた建物の光がほのかに映し出す印象深い光景であった。しかし、FUの学長の話では日常は市民の憩いの場でもあるこの素晴らしい植物園も、大学財政の負担から、大学の手を離れるとのことである。どこの国も大学は厳しい競争時代に入ったことを痛感させられる。
座席が決められていないで自由に円卓に座る形式のビュッフェ・ディナーだが、偶然に座った10人くらいの円卓の隣人は、旧知の台湾国立中央大学の李誠教授夫妻とドイツのオスナブリュック大学のスゼル教授夫妻でお互いに驚いた。お互いに連絡しあってベルリンに来たわけではない。世界は小さいという経験はたびたびしている。まさにIt’s a small worldである。
こうした国際会議は世界の研究の先端や関心がどこにあるかを知るに欠かせない絶好の機会だが、同時に久しぶりに友人に会い、家族や友人・知人たちの動静を話し合う楽しい場でもある。しかし、別に書いたこともあるが、イタリア労使関係学会々長のマルコ・ビアッジ教授のように、その後テロの凶弾に倒れるという予想もしなかった悲劇で、会議が最後に会う機会になってしまったという悲劇もないわけではない。今回の開会式典でもヴァイス会長は、演説でその点に触れ追悼の意を表した。
FUの招宴の前夜は、はや20年近く前になるが、外国人労働者調査で訪れたクロイツベルクのイタリア・レストランで、友人のコーネル大のハリー・カッツ教授などと、私の学生時代の指導教授などについて話がはずんだ。多くの先生方が次々と世を去られているのは、大変悲しいことであり、自分自身もそうした年齢に近づいているのだということを改めて感じる。話にふけり、気づいてみると、深夜に近く窓の外は漆黒の闇であった。
東京を出る前に、10月16日に予定されるコーネル大学の新学長ジェフレイ・レーマン氏から就任式の招待状をいただいたが、残念ながら今の私の日程では出席ができない。お祝いの手紙だけを差し上げることにした。ちなみに、アメリカの著名な大学の学長就任式は、大変大規模で、世界中から多数の著名人や卒業生が招待されるため、はるか以前から近隣のホテルの借り上げ、大学施設の活用など、日本では想像できない準備が行われる。コーネルの場合も、大学町ということもあるが、大学ホテルスクール経営のシュタットラー・ヒルトン・ホテルのみならず、近隣の30近いホテルは式典参加者のためにすべて借り上げとのことである。初めて、私がキャンパスを訪れた時に視界を埋め尽くす黄や赤色の一大パノラマに大変感動したように、美しいニューイングランドの紅葉が参加者を待っているに違いない。ベルリン郊外、大学キャンパスの紅葉した光景を眺めながら、いつの間にかアメリカのことを考えていた。
ベルリンは短い滞在であったが、人生の来し方・行く末を考えさせる濃密な時間を与えてくれた(2003年9月14日記)
旧ホームページから一部加筆の上、転載。