時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

画家の見た17世紀階層社会(15):ジャック・カロの世界

2013年07月29日 | ジャック・カロの世界

 


ジャック・カロ「ヴィエル弾き」部分
クリックすると拡大(以下同様)

  ジャック・カロは自分で選び、描いた貧民たちを題材とした作品に、「貧民」シリーズという統一した表題をつけていたわけではない。こうした表題は、カロの死後、膨大な作品整理の上で、後世の美術史家などが付したものである。実際、カロはこの25点から成るシリーズ以外にも、当時の貧しい人たちの姿をさまざまに描いている。この25点は画家が自ら構想した路線上で描かれた作品群であるといえる。注目すべきことは、これらの作品のほとんどが、カロが1621年故郷の地ロレーヌへ戻った後、すでに紹介した「貴族」シリーズに引き続き、まもなく制作されたということにある。カロの優れた点は、宮廷や貴族たちをパトロンにしながらも、決して彼らにおもねるような作品だけを制作していたのではないことにある。広い視野で当時の世界を見つめ、その多様な側面を、時には大画面に、時には小さなスケッチのような形で描き残した。

 カロの描いた貧しき人々には、全般に画家の深い同情や憐憫の思いがこめられている。こうした人たちは、それぞれの生い立ちなどの違いはあるが、先天あるいは後天的な身体上のハンディキャップを抱えている人たちが多い。そして、ほとんどの人たちがその日暮らし hand to mouth に近い貧窮のどん底で生きていた。多くはなんらかの理由で、一人身で家庭とは縁がなく、放浪の途上であることを思わせ、家族のような例は少ない。わずかに母親と子供を共に描いた下掲のような作品があるにすぎない。下図は、母親と未だ幼い子供たちを描いた作品だが、こうした世の中のことをなにも知らない無垢な子供たちの前になにが待ち受けているのか、画家はそれを観る人に問いかけている。

ジャック・カロ「3人の子持ちの母親」
La Mere et ses trois enfants(Mother with Three Children)
クリックして拡大(以下、同様)

 この時代、こうした貧困者については、原則として彼らが生まれ育ち、居住している地域の町や村がわずかな救済の手をさしのべていた。さらに、教会、修道会などが慈善の観点からできるかぎり施しを行っていた。この時代のヨーロッパにおいては、「貧困者」と見なされたのは、身体的理由などで働くことができない、典型的には高齢者、不治の病に冒されている者、小さな子供たちを抱える単身の母親などであった。中世までは、教会なども彼らに救いの手を延べることは、慈善の現れとして積極的に活動した。

 しかし、16世紀に入り戦争や飢饉、悪疫の流行などがあると、地域の外から入ってくる貧民の数も増え、彼らに対する救済措置は次第に後退していった。住民の中には、貧民への反感や蔑視もみられるようになった。なかには物乞いは、罪深さに対する神の罰のしるしとして、慈善の対象であるべきでないと主張する者もいた。近世初期の貧民の実態は統計に表れないが、教会などの慈善行為では到底救いきれないものとなっていた。

 カロが選び、描いた貧しい人たちは、一見してそれと分かる服装をしている。職業という名に値する仕事についている人はいうまでもなく数少ない。しかし、彼がいかなることで、その日を生きているかということは、ほとんど想像がつく。とりわけ、当時の人にとっては、ひと目で見分けがついたのだろう。しかし、カロはこれらの社会の底辺の人たちをできうるかぎり見苦しくない身なりで描いている。そのためには、色数の少ない銅版画のような手法が適当であったかもしれない。

 描かれた貧しい人たちの着衣は、実際にはもっとみすぼらしく、汚れたものであったろう。これらの人物は当時の慣習であった帽子を被ったり、髪をスカーフで覆っており、いづれも靴を履いている。子供たちを描いた場合も帽子を被らせている。実際には衣服が破れ放題であったり、つぎはぎだらけのものであり、靴を履いていない者もいたらしい。しかし、カロはそれらの点にもきを配りながら、この時代の「貧困」というものが、いかなる様相を持っていたか、人々が考える材料としてさまざまな角度から描き出している。

 カロが貴族の多様さをあたかもスタイルブックのように描いてみせたように、貧しき人たちも現実にはきわめて多様な姿をとっていた。貧民にはスタイルブックなど無用のものであったが、カロは一定の尊敬をはらって社会の陰の側面の多様さを描いている。




ジャック・カロ 「ヴィエル弾き」
La Joueue se vuekke (Hardy-Gurdy Player) 

ジャック・カロ「犬を連れた盲目の旅人」
L'Aveugle et son chien (blind Man with dog)

 上に掲げた2枚は、カロと同時代のロレーヌの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが自らの作品制作に際して、発想の源としたことがほぼ想定できる作品である。このブログでも紹介したラ・トゥールが好んで描いた旅の音楽師、ヴィエル弾きである。哀愁を感じさせるヴィエル弾きの画題は、17世紀のヨーロッパの人々には強い共感を引き起こしたようだ。その後もこのテーマで小説や詩集まで創られている。これらの旅芸人たちは、多くは定住の地を持たず諸国を放浪して、町中などで演奏を聴いた人たちの喜捨などでわずかな生活の糧を得ていた。彼らは旅の途上で生活の窮迫、迫害など多くの苦難を常に背負っていた。しかし、カロやラ・トゥールが描いた音楽師たちは、身につけた衣装は粗末であっても、大地にしっかりと立っており、どこか孤高の人として毅然とした、威厳を感じさせる風貌を見せている。
 


Reference
Exhibition Catalogue: Princess & Paupers, Houston, 2013.

続く

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画家の見た17世紀階層社会(14):ジャック・カロの世界

2013年07月23日 | ジャック・カロの世界

 



ジャック・カロ「片目の女」
Jacques Callot, La Borgnesse (One Eyed Woman)


 イギリス王室の将来のプリンス誕生の騒ぎは、おめでたいことには違いないが、ちょっと騒ぎすぎではないかと思うところもある。イギリス王室の歴史を振り返ると、決して諸手をあげて喜べるとはいえないことも多々あった。もっとも、EU脱退の話まで取りざたされている昨今のイギリスの実情をみると、この機会に、空騒ぎでも慶祝ムードを盛り上げたいという気持ちは分からないでもない。とにかく、イギリスという国は、良きにつけ、悪しきにつけ、王室を話の種にしてきた。王室もこの国の栄枯盛衰をしっかりと受け止め、演出してきた。とりわけ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インドなどで、かつての大英帝国の威光を失うことなく、自陣内に留めていることはさすがだ。ふだんは表面に出ない巨大なサポーターを擁している。真のサポーターがないに等しい日本とは大きく異なる。いずれの国も衰退の時は来る。イギリスは幕の引き方が巧みな国である。どこかの国のように、「経済大国」に影が差すと、すべて浮き足立つということがない。

 閑話休題。今、このブログで取り上げている Princes and Paupers 「王女と貧民」という話題も、17世紀、イタリアやフランス、ロレーヌなどの宮廷と、その外にあって社会的底辺に追いやられていた人たちを対比させるという意味で、君主制を継承してきた国々の問題である。

 統計もITもなかった時代、当時の画家がリアルに描いた実態は、同時代の人々の目線で、社会を見ることを可能にしてくれる貴重な資料だ。近世前期と呼ばれるこの時代、君主などの為政者の側には、国民の厚生、福祉を維持・向上し、貧困を減少させるという意識は例外的にしか存在しなかった。基本的に個人の出自、そして能力と努力そして運がそれぞれの社会的位置を定めていた。


描かれること少なき人々
 
ジャック・カロはイタリアではメジチ家コジモII世の庇護の下で、そして故郷ロレーヌに戻ってからはロレーヌ公付きの画家であった。宮廷の後ろ盾なしには、いかに優れた腕の持ち主とはいえ、妻子を抱え生計を立てて行くことは、かなり難しい時代であった。そのため、この時代の多くの画家たちは競って君主の庇護を求めた。

 宮廷画家の多くは、自分を庇護してくれることになった君主や宮廷人など貴族階層の世界を描いていた。生涯、それ以外の対象を描かなかった画家も多い。彼らにとって、社会の大部分を占める貧しい人々は描く対象に入っていなかった。これは宮廷画家に限ったことではない。

 ジャック・カロもその画家としての生涯には、貴族たちが気に入るような作品を多数残している。宮廷行事などの劇場的光景、戦争における勝利、貴族たちの日常の断片、仮面劇の光景などである。しかし、カロには他の宮廷画家とかなり異なった点があった。それがなにに由来するのかは、分からないが、貴族の家に生まれ、親に自分の行く末まで束縛されることに反抗し、銅版画家を志し、イタリアの自由な空気を求めて、ほとんど家出同然の年月を過ごしたことに関係しているかもしれない。

 
1621年に故郷ナンシーへ戻った後は、かつては縁を切った旧来の関係と折り合いをつけねば生きられない事情もあった。それだけ若いころの角がとれて、大人になっていたのだろう。ロレーヌ公の宮殿へ出入りできるようさまざまに努力した。ロレーヌ公への奉仕と忠誠をもって、貴族になっていた実家の力も必要だった。

 他方、イタリアで修業していた頃から、カロの目には社会の底辺に生きる人々の姿が消え去ることはなく映っていた。そして、画家人生の最後の15年近くは、社会の下層・縁辺部に生きるさまざまな人々の姿を描いている。

 人々はそれぞれが置かれた階級の場所で、精一杯生きていた。彼らの正確な数などは到底不明である。当時の社会の大部分を占めた農民を含めると、恐らく人口の7割をはるかに越える人々が、貧しく、質素な日々を過ごしていた。このピラミッド型の社会階層で最も下の部分を占めるのが、カロが画題とした人々である。日々を過ごす蓄えや手立てもなく、人間としてかろうじてその日を生きているような人々である。カロの描いた他の作品を鑑賞しながら考えてみると、フローレンスでもナンシーでも、こうした人々は日常いたるところで目につく存在であったに違いない。宮廷に頼って生きる貴族たち、プリンス・プリンセスの社会とは、事実上断絶した別の社会で貧民たちは生きていた。

ジャック・カロ「ロザリオをかけた乞食」
Jacques Callot, Le Mendiant au rosaire (Begger with rosary)

カロの「貧民」シリーズの迫力
 
カロの描いたPaupers(貧民)と呼ばれる一連の作品は、大きな反響を呼び、かのレンブラントも刊行後10年経たずして、作品を入手していたという。それまでほとんど描かれる対象にはならなかった人々でもあり、たちまち当時の人々の関心の的となった。各地をさまよい歩くさすらいの人々、ジプシー、貧しい農民たち、戦いに敗れ雇い主から解雇された傭兵などのリアルな姿が描かれている。貴族社会の華やかな生活と違って、見て楽しいというイメージではないが、あまり正確に伝わっていない社会の陰の部分が克明に描き出されている。彼らを描くという画家の思い自体に、社会の底辺で必死に生きる人々への人間としての同情がこめられている。教会などのわずかな施しなどに頼るしかなかった時代の苛酷な現実が、観る人の心を打つ。 

 カロの「貧民」シリーズは、正確には分からないが、ほぼ1622-23年頃に制作され、現存するおよそ25枚から構成されているとみられる。その一枚、一枚を観察すると、この非凡な画家が対象とした人物の実に細かい点まで観ていることが伝わってくる。油彩ではなく、モノクロの銅版画でよくこれだけ描き込んだという感想も生まれる。カロの描いた貴族のさまざまなイメージが、彼らの「スタイルブック」として使われたような役割は、「貧民」シリーズにはない。ここに描かれた貧しい人たちが、カロの作品を観る機会など到底なかったろう。しかし、この画家は実にさまざまな貧しい人々の異なった姿を描き分けている。もちろん、この創造力溢れた画家でも、当時の貧民の全体像を描くなど、到底不可能であった。それほどに、貧民の数は多かったのだ。しかし、カロの作品によって、現代人は当時の社会の現実の有様がいかなるものであったかを、時を超える迫真力をもって知ることができる。

現代の白昼夢
 
カロの描いた貴族と貧民のさまざまな姿に接していると、白昼夢を見る思いをすることがある。かなり以前からのことである。タイム・マシンは現代に戻っている。しばらく前、「一億総中流」社会と自称していた国があった。それがいつの間にか「格差社会」といわれるようになっている。身につけている衣装からはしかと判別できないが、生への強い意志も失い、頼る寄る辺もなく、ただ老いと貧困の日々を過ごしている人々が、かなり増えてきたと感じている。


Reference
Exhibition Catalogue, Princes & Paupers: The Art of Jacques Callot, 2013.

 

続く

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画家が見た17世紀階層社会(13):ジャック・カロの世界

2013年07月23日 | ジャック・カロの世界




Jacques Callot, La Grande Chasse (The Stag Hunt), 1619, etching on laid paper, the MFAH, gift of Meredith J. Long in honor of Fayez Sarofim at “One Great Night in November, 1991.”, quoted from the exhibition catalogue "Princes & Paupers" held in Houston.

 

 ジャック・カロの時代、支配階級である貴族層の頂点にいたのは、領主である。同じ貴族であっても、上流、中流、下流、法服、帯剣と複雑に階層が分かれていた。彼らの頂点に立っていた領主にのみ許された楽しみがあった。それは多数の貴族、その家臣たち、そして馬や犬を動員し、鷹をあやつる「鷹匠 」 falconer を使って、鹿、猪、狐、雉などの鳥獣を狩る『大狩猟(大鷹狩り)』 La Grand Chasse (The Great Hunt or The Stag Hunt)と呼ばれる大規模な狩りであった。

  中世以来、狩りを題材とした作品は多いが、カロも優れた作品を残している。制作されたのは、カロがフローレンスに滞在していた頃である。ここに紹介する作品はその一枚、鹿狩りの光景を描いたものだ。馬に乗った貴族や槍などを持った家臣、従僕たち、多数の猟犬、そして鷹匠などが、牡鹿を追って動いている。獲物とされる牡鹿は画面中央部に追い詰められている。以前、ブログでとりあげたことのあるパオロ・ウッチェロの『森の中の狩』と同様に、おなじみの遠近法を駆使して描いている。この作品で左右に広がる大樹は、狩り場の光景に迫真力を持たせる効果がある。カロが遠近法を十分修得していることは改めて述べるまでもない。
 
 左前方で馬に乗り、指図をしているのが領主なのだろう。後ろには槍を肩にした家来、そして多数の猟犬を従えている。そして、貴族の前で今、鷹を空に放とうとしている鷹匠がいる。上空には2羽の鳥が争っているのがみえる。画面右側にもなにかの指図をしている騎馬の男、はやる犬たちを抑えている男などが描かれていて、臨場感を強めている。中央の大きな木の下には、落馬したラッパ手までいる。左手小高い丘の上には領主の館と思われる塔を備えた別荘 estate の一部が描かれている。



La Grancd Casse (details)

 カロは鹿狩りの光景を4ステートで描いており、これはその一部を構成している(Four Landscapes, 1617-18;L.
264-67)。カロはイタリア時代に共に仕事をしたアントニオ・テンペスタが多数制作した狩りの光景から多くを学んだようだ。テンペスタはおよそ200点に及ぶ狩りの光景を描いたといわれる。

 カロはそれに加えて、フローレンス滞在中にフェデリコ・ツッカロ Federico Zuccaroが、ヴェッキオ宮殿内に描いた大作『大狩猟』を手本にシリーズを作成したと推定されている。この作品はツッカロが1565年、メディチ家フランセスコI世とジオヴァンア・ドオーストリアとの結婚を祝して依頼され、作成された。

 現実には、こうした狩猟や鷹狩りは当初、戦争の準備・訓練のために行われたが、次第に貴族たちの主たるエンターテイメントとなっていった。あのカスティリオーネも「宮廷人に適当な身体の運動であり、武人にはふさわしい」と推奨している。

 「領主のように狩りをしていた」というと、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールを非難する地元農民の亡命中のロレーヌ公へ当てた抗議の手紙の一節が思い浮かぶが、ラ・トゥールはリュネヴィルの大地主にまでなっていたが、画才を認められて貴族となったたかだか中級貴族にすぎず、到底このような壮大な狩りを楽しんだわけではない。この点については、別に記す機会があるかもしれない。

 さて、カロが鋭く観察して描いたこの時代の貴族については、興味深い点が多々あるが、ひとまずこのくらいにして、カロの描いた他の社会階層へ視点を移すことにしたい。

 

 

続く

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画家の見た17世紀階層社会(12):ジャック・カロの世界

2013年07月11日 | ジャック・カロの世界

 

 

Jacques Callot
L'Éventail (The Fan), Florentine Fête
1620Etching with engraving
220 x 298mm
Albert A. Feldman Collection
ジャック・カロ、『扇』
毎年7月25日、聖(大)ヤコブの祝日に行われるフローレンスでの祝祭行事を描いた作品
カロが故郷ナンシーへ帰る直前に制作された。クリックして拡大。

 


  画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに多少なりと関心を持たれる読者は、この画家の配偶者となったディアヌ・ル・ネールが現在のフランス、ロレーヌ地方のリュネヴィルという地の貴族の娘であったことをご記憶と思う。1617年に結婚後、ラ・トゥール夫妻はこの地に移住し、戦乱や悪疫が蔓延した時期を除き、その生涯のほとんどをリュネヴィルで過ごした。

ヴェルサイユそっくり!
 今日、リュネヴィルを訪れてみると、そこには「プティ・ヴェルサイユ」といわれるヴェルサイユ宮殿をそっくり移したような大宮殿・庭園があることに驚かされる。今はとりたてて目立った産業もないリュネヴィル市は、お定まりの財政難で、2003年の大火災で焼失した宮殿部分の再建や広大な庭園の維持に大変なようで、管理状態は決して良くない。しかし、とにかくどうしてこの地に、こうした壮大な宮殿が造営されたのだろうかという疑問を持った。


 多少、由来を調べてみると、リュネヴィルは中世から水運を利用した塩の輸送などで栄え、最初のリュネヴィル城が築かれたのは10世紀であった。ドイツの諸侯が幾度か領有を繰り返した後、最終的にトゥール司教がリュネヴィル伯となったことで決着した。1243年、リュネヴィル伯位はロレーヌ公国のもとに移った。17世紀以降、歴代のロレーヌ公は好んでリュネヴィルに暮らし、町を美しく再建した (1611年ロレーヌ公アンリII世がそれまでに存在したリュネヴィル城を元に再構築した)。首都であるナンシーは行政上の首都として機能した。

 もっとも、17世紀、ラ・トゥール夫妻が住んでいた頃のリュネヴィル宮殿は、ナンシーの宮殿の離宮のような程度であった。それもフランスとの戦いで1638年、ほとんど全市が焼失してしまった。その後18世紀、ロレーヌ公レオポルド1世とスタニスラス・レシチンスキ公時代に宮殿の再建が進められた。今日残るのは、主としてこの時造営された建物である。

プティ・ヴェルサイユの流行 
 
実はこの時代、フランスブルボン朝のルイ14世が、ヴェルサイユに大宮殿を造営したことを模して、ヨーロッパ中でこうした宮殿を建設することが流行した。あまり有名でないプリンスまでもが、ブルボン朝の繁栄にならいたいと思ったようだ。かれらは自分たちの領地の中心から離れた場所へ競って王宮を造営した。

 フランスの影響下にあったロレーヌ公国のリュネヴィルはその代表例だった。そのほかには、ナポリ王国のカセルタ、プロシャのポツダム、ヴィエナ郊外のシェーンブルンなどがある。ルイ王朝の仇敵であったイギリスのウイリアム・アンド・メアリーまでもが、ロンドン郊外にテューダー風の豪華なハンプトン宮殿を建設した。宮殿を都市から引き離したことで、それまでなかった宮廷生活の世界が創り出され、ヨーロッパの王家の間に新たなファッションを生んだ。17世紀末から18世紀初めにかけて、こうした風潮はある意味で近世初期ヨーロッパの絶頂期となった。

宮廷文化の盛衰
 これらの君主たちは競って自分の王宮を華麗なものとし、そこにおける独自の文化を生みだそうとした。ひとたびそうした空間に慣れた貴族たちは、そこに定着し、もとの都市へ戻ろjうとしなかった。1634年、長年慣れ親しんだ宮廷から追放されたあるスペイン貴族の言葉が残されている。「宮殿を離れることは......世界の最果ての地に行くようなものだ。暖かさや光溢れる所から離れ、ひとが誰も住んでいない、荒れ果てた土地にひとり住むようなものだ。」*1 

 彼らにとって、宮廷の生活がいかに重要なものであるかを思わせる言葉だ。しかし、現実には時の経過とともに、宮殿生活には退廃やマンネリズムがはびこり、衰退の色が濃くなっていた場合が多かったようだ。これは革命前のヴェルサイユの状況からも推測できる。

 さて、ジャック・カロやラ・トゥールが生きていた17世紀前半の頃は、未だ宮廷文化が華やかであった。ロレーヌ公国のような小さな国でも、貴族たちはいかに装い、振る舞えば、貴族らしく見えるか、それぞれに努力していた。16世紀を代表する人文学者のひとりエラスムスの言葉が残っている。「最初はそれ(貴族)にふさわしい衣装でよい。しかしいずれ……[彼らは]その役割を演じなければならない。」*2

貴族層の分化
 
17世紀ロレーヌ公国でも貴族は社会生活で中心的役割を果たしていた。しかし、貴族の数が増えてくると、服装だけで彼(女)たちの階層を推定することはかなり困難になっていたらしい。カロの版画はいわばスタイルブックの役割も果たし、そうした際の判別にきわめて重宝されたようだ。

 この画家は分化し、複雑になった貴族層の微妙な差異を衣装の細部まで描き込むことで、見る人に判断材料を与えていた。カロは正確な観察の下に描写で知られた画家であった。そのため、描かれた服装は当時の貴族たちのさまざまな姿を今日に伝えている。しかし、カロと同時代の人にとっても、同じ貴族階層の中での上下関係を推定することはかなり困難であったようだ。そのために、画家は人物の背景に彼(女)たちの社会階層を暗示する邸宅や住宅地域などを描き込んだ。これを見ることで当時の人々は、宮廷都市ナンシーの町並みばかりでなく、描かれた人物の階層を知ることができた。さらに、ひとりひとりの衣装の詳細、装身具、武具などの細部を描いて、彼らの貴族階級あるいはブルジョワ層の内部における階層の上下を判断できるようにしていた。

 描かれた人物がしばしばコミカルな容貌をしているのは、該当する人物がナンシーでは著名であったこと、あるいは友人たちをモデルにしたためではないかと推定されている。さらに、カロは金銭的には裕福であるブルジョワたちがなんとか貴族階級へ入り込みたいと、あたかも貴族のように振る舞っていること、さらに貴族層の内部でもより昇進したいと、さまざまな試みがなされていることを、風刺をこめて描いている。もちろん、カロのような中層、下層の貴族たちもそれぞれに階層内での上方移動のために、できうるかぎりの努力をしていたことはいうまでもない。

 彼(女)らが社会における自分たちの地位を認識する機会はさまざまにあったが、そのひとつをカロの作品から紹介しておこう。上に掲げた作品は、フローレンスで、毎年、聖(大)ヤコブの祝日に、1日かぎり催される naumachia と呼ばれた盛大なスペクタクルである。これはフローレンス市内を流れるアルノ川で海戦の光景を再現し、人々がそれぞれに着飾り、自らの階層に対応した場所から見物している光景である。メディチ家が主催し、その権威と財力を誇示した行事のひとつであった。多数の人々が川の両岸、橋の上などから見物している光景から、この行事がきわめて盛大なものであったことがうかがわれる(今日だったら隅田川の花火見物のような光景か)。カロが描かなければ、その詳細は今日に伝わらなかったともいわれる。いわば、今日の写真に相当する意義を持っている。

 テーマは、アルノ川の中流に作られた人工島をめぐり、織物工と染色工のギルドが争奪の戦いをするという設定で、銃火器の代わりに水を打ち合うという形になっている。この作品は丈夫な紙に印刷され(裏側は説明文)、銀の持ち手がついた贅沢な扇(形状は今日の団扇に近い)であり、コジモII世の命で500枚だけ制作され、貴顕の人々に配布されたという。扇をもらえた人々は、自らの社会的地位をさぞや誇示したことだろう。中央右手の女性が左手に得意げに掲げている。

 華麗な馬車に乗ったり、遠めがね(望遠鏡)で眺める人(画面、左手)も描かれている。ブログのガリレオ・ガリレイの記事で記したが、望遠鏡はすでにこうした形で使われていた。ガリレオはほぼ同じ時期にコジモII世の庇護の下にあり、カロの友人であった。いうまでもなく、手前の見晴らしの良い場所に陣取っているのは、フローレンス貴族社会の上層に位置する人たちである。この時代の貴族とは、いかなる社会的地位を占めていたかが、如実に伝わってくる。

 このように、カロはフローレンス時代、そして故郷ナンシーへ戻ってからも、自らが貴族でありながらも、職人、商人など、そして社会の下層部に多数存在した貧民の状況をあたかも記録写真のように、写し取り、作品にしていった。 

 続く


 


*1
Jonathan Dewald, The European Nobility 1400-1800 (Cambridge: Cambridge University Press, 1999) に引用されている貴族の言葉(原典はR.A. Stradlimg, Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665, Cambridge, 1988, 156)。

*2
Exhibition Catalogue Jacques Callot (2013, 20) quoted from Erasmus’s Colloquy ”The False Knight” in Jackson, 1964

 


Reference: Exhibition Catalogue: Princes & Paupers, The Art of Jacques Callot, The Museum of Fine Arts, Houston, 2013.

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鯖の生き腐れ?:アメリカ移民法改革の行方

2013年07月07日 | 移民政策を追って

 

 このブログ、トピックスが17世紀になったり、現代に戻ったり、大方の読者の方には、思考が錯綜してなんのことかお分かりにならないだろう。ブログをトピックスで分ければと思われるかもしれないが、管理人としては、このブログなるものに手をつけたころから、異次元の時空を自由に往来して、混沌としている思考を整理することが大きな眼目であったから、それを理解してくださる方を対象に続けるしかない。幸い、当初毎日のように対面して話し相手であった若い世代も、時の経過とともに相応に成長して、こうした思考法に賛同してくれる方も増えてきた。しかし、ブログを訪れてくださる大多数の方と共有できる次元はきわめて少ない。

 こうした中で、世界の人の動き、とりわけ移民の動きをウオッチすることをひとつの目的にしているブログだが、このところきわめて多くの変化があり、しばらく書かずにいる間に、手元のメモはうずたかく山のようになってしまった。ブログに要点をお知らせする余裕もなくなっている。それでも、少しだけ記しておきたいこともある。

疲れた政権
 そのひとつ、最近のオバマ政権はかなりくたびれている。大統領自身は東奔西走はしているのだが、世界の事態の変化に追いつけなくなっている。国内に問題山積、友好国の機密情報まで収集・探索していたということまでリークされ、足下に火がついている。結果として、当然成立しているはずの法案までも野ざらし状態だ。その典型例が包括的移民法案である。このブログでも幾度となく定点観測の現状をお知らせしてきたが、このままではまた立ち消えになりかねない。

 最近のThe Economist誌が上院での法案審議の状況をジェフ・セッション議員の言葉を引用して、「鯖の生き腐れ」"The mackerel in the sunshine"*1と評していた。ブッシュ政権末期以降、折角ある程度形が整い、まとまりかけた包括的移民法案だったが、時間が経つほどに個別の問題が指摘され、その対応に手間取っている間に、本末転倒し、オバマ政権下では時間切れで成立しないのではとの観測まで生まれるようになった。このままでは、問題ばかり指摘されて動きがとれなくなり、廃案になってしまう。

 ブログでもかなり前から指摘しているように、難題は細部にある。1100万人といわれる不法移民の中で、どれだけが合法化への路線に乗せうるか、細部に入り、現実に対するほどに問題は難しくなる。複雑多岐な現実に対しての判定ルール作りが難航している。法案はいちおう上院は乗り切ったようだが、下院の審議は暗礁にに乗り上げかねない。

圧力に抗して
 保守的な調査機関 Heritage Foundation は現在国内に居住する不法移民を合法化するには今後50年間に6兆3百万ドルを要するとのレポートを公表した。ミシッシッピ州前知事など、このレポートがコストばかり強調し、移民のもたらす利点を軽視していることに猛反対しているグループも多い。今のところ、法案成立に向けて超党派のグループはなんとか働いているようだが、連携するということがいかに困難であるかが漏れ伝わってくる。

 超党派グループは共和党、民主党それぞれ4人合計8人から成るが、彼らには全米商工会議所、AFL-CIOなどの重圧がかかっている。上院案への修正案はきわめて多数にのぼるが、多くは共和党側から提出されている。上院案へ賛成している共和党議員でも、国境の警備はさらに強化し、不法移民の市民権獲得の道はもっと厳しく、狭めるよう要求している。

 法案の柱の中で、最も見解の対立が激しく、政策の具体化が困難な問題は上述の不法移民の合法化(アメリカ市民権の付与)にある。この問題の具体例のいくつかはすでにブログに記したことがある。曲がりなりにも法案が成立した場合、どのくらいの数の不法移民がアメリカ市民となることを認められるか。これについてはすでにいくつかの調査があるが、6月27日に公表されたPew Research Centerの調査では、2012年時点でヒスパニック系不法滞在者の93%以上が、できるならばアメリカ市民になりたいと回答している*2。しかし、実際に市民権が与えられる条件を備えている不法在住者は、きわめて少ない上に厳しい条件をクリアしなければならない。同じ調査によると、条件はヒスパニック系が最も厳しく、非ヒスパニック系の71%に対して、46%という推定が提示されている。ヒスパニック系、特にメキシコ系の場合、国境をなにも後日の証明となる書類を保持せず、越境入国後もアメリカの片隅で家族や同胞のつながりなどをたよりに、かろうじて生活してきた人たちが多い。そのためアメリカの生活で重要な移動手段である自動車の免許証も、不法移民の場合、ニューメキシコ、ユタ、ワシントン州など、限られた州でしか取得できなかった。そのため、多数の不法移民は運転教習、テストなども受けられず、免許証なしに運転してきた*3

 同性婚が合憲とされても、ゲイのアメリカ人がパートナーの外国人をアメリカ国民として受け入れる申請をして認められるだろうか。当面は難しいのではないかといわれている。多数の修正法案が、主として共和党側から提出されている。これらの多くをなんとか切り抜けて、上院を通過させても、共和党が多数の下院では再び難航することが明らかだ。

 上院、そして民主党は下院の共和党議員の見解がかなり割れていること、世論の移民への風当たりが2007年と比較すると、かなり弱まっている今が、法案成立の最後の時とみているようだ。そして、皮肉なことには、上院の超党派グループの一人であるマルコ・ルビオ議員(労働者階級出身で、キューバからの移民)が、この包括法案が両院を通過して成立しても、彼が上院議員になったような社会的上昇は、きわめて制限されるような内容になることが確実なことだ。

  すでに長年にわたり議論され、鮮度が落ちている包括的移民法案だが、
なんとか消費期限切れ前に成立にこぎつけられるか。オバマ政権の評価を左右する重要法案である。この猛暑に耐えうるだろうか。注目したい。
  

*1
”Immigration reform: Not so fast ” The Economist May11th 2013.

*2
”If they could, how many” unauthorized immigrants would become U.S. citizens? Pew Research Center, June 27, 2013.

*3
”Let them drive” The Economist June 15th 2013.
コネティカット州では2015年から不法移民も免許証を取得できることになっている。コロラド、ネヴァダ、オレゴン、メリーランド、イリノイなどの諸州も今年内には認可される予定。しかし、どの州も付与の条件について決してリベラルではない。不法移民の親たちに連れられて子供として入国した者に限定するなどの条件がついていることが多い。

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画家が見た17世紀階層社会(11):ジャック・カロの世界

2013年07月01日 | ジャック・カロの世界

 


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『宮廷人の本』
Baldesar Castiglione. The Book of Courtier,
Edited byDaniel Javitch
New York & London: W.W.Norton, 2002

上掲の書籍はイタリア人バルデサール・カスティリオーネ(1478-1529)によって書かれたイタリア語の原本を英語に翻訳・編纂したもの*。クリックすると拡大。


17世紀と20世紀の近さ
 ようやくシリーズのテーマに戻ることができそうだ。文学座の『ガリレイの生涯』について考えている間は、自分が現代にいるのか、17世紀にいるのか、一瞬戸惑うような錯覚に陥りそうだった。

 『ガリレイの生涯』を劇作化したベルトルト・ブレヒトは、1898年に生まれ、1956年に亡くなっている。管理人にとっては、現代史のある部分を共有したほとんど同時代人の思いがある。

  ブレヒトは1933年、ドイツ帝国ヒンデンブルグ大統領がヒトラーを首相に任命、その直後に起きた有名な国会議事堂放火事件の翌日(1933年2月28日)、入院中の病院を密かに抜け出て、ユダヤ人であった妻と長男を連れてプラハ行きの列車に乗り込んだ。そしてデンマークに5年間近く滞在した。

 しかし、1940年4月、ナチスがデンマーク、ストックホルムに侵攻したため、1941年ヘルシンキ、モスクワ、ウラジオストックを経由してアメリカ合衆国へ亡命のため入国した。しかし、共産主義者であったブレヒトは、1947年あの悪名高い非米活動委員会の審問を受ける(ガリレオの異端審問を思わせる)。恐怖に駆られたブレヒトはその翌日、パリ経由でチューリッヒへ逃亡、そして1949年東ドイツへ入国した。その後1956年8月14日、心臓発作でベルリンで死去するまで、自ら結成した劇団ベルリナー・アンサンブルを拠点にベルリンで活動した。その墓はヘーゲルとフィヒテの墓に向かい合っている。


 他方、ガリレオ・ガリレイが活動していた時代は、このブログに頻繁に現れるラ・トゥール、カロなどの生きた時代とまったく重なっている。17世紀が「危機の時代」ならば、現代はそれ以上の危機的状況をはらんだ時代といえるだろう。

カロと貴族社会
 
銅版画家ジャック・カロが当時の世界の最先進国イタリア、ローマから故郷のロレーヌへ戻ったが、しばらくはさしたる仕事がなかったことは前回記した。しかし、2年ほどしてナンシーの富裕なクッティンガー家の娘カトリーヌを妻に娶ったことと前後して、ロレーヌ公宮廷に関連する仕事が急増する。カロは自らの仕事を通して、貴族として生きることとはどういうことかという問題を考えていたようだ。

 カロにとどまらず、17世紀のヨーロッパ諸国の宮廷で君主に仕える宮廷人にとって座右の書となっていたのが、前回紹介したバルダッサーレ・カスティリオーネの著した『宮廷人』 Il libro del cortegiano, 1528 という書物だ。

 カスティリオーネ自身、外交官であり、作家でもあった。この書は決して現代社会に氾濫しているハウ・トゥ物ではない。君主に仕える宮廷人が自らの尊厳を保ちながら、一定の道徳律の範囲で、君主のために尽くすには、いかなることが必要であるかを説いている。1506年5月のウルビーノ宮廷の4日間を描いたという設定で、宮廷人が備えるべき条件、教養について記している。現実と理想の葛藤など、当然、多くの論争を引き起こす材料も多数含まれている。ラテン語を含め多数の言語に翻訳されたが、日本語訳もあり、今日読んでもきわめて興味深い。

 ノーブル(高貴)であるとは、なにを意味するのか。カロは貴族 La
Noblesse として生きる意味を画家の目を通して描いた。イタリアでもロレーヌでも、貴族たちは自ら肉体労働をすることを嫌い、そうした労働をする者を軽視していた。しかし、画家、建築家などの芸術家、金細工師、宝石商など高度な技能を持った職人は、評価していた。

 こうした環境で故郷に戻ったカロはイタリア風からロレーヌ風の版画家として、転換するためにさまざまな努力をしていた。今日に残る下絵のデッサンや作品では、イタリア風に描かれていても、銅版の段階ではロレーヌ風に描き直していたようだ。

 カロが描いた「貴族」のカテゴリーには、ブルジョワ・貴族 bourgois nobilityといわれた社会の中間階層のイメージも含まれている。ブルジョワは一般に貴族ではないが、服装や生活態度などで貴族化していた。彼らは裕福な商人、法律家、医師、会計係、大学教授などであった。ガリレオもこの中に含まれるだろう。彼らは平民よりも豊かであり「貴族のようにふるまい、生きる」ことを目指していた。裕福な商人や画家なども貴族のような出で立ちで現れ、血統は貴族の家系でなくとも「貴族授与状」letters of ennoblrment を授けられことは珍しくなかった。

 彼らにとって衣装は大変重要な意味を持っていた。衣装を貴族のように装うことで、中身より見かけを変えることが選択されるのは、昔も今も代わらない。17世紀初期にはイタリアでもフランスでも recueils de costumes と呼ばれた「衣装コレクション」、今日でいえばスタイルブックとでもいえる書籍が大変人気があった。これにはヨーロッパのみならず、当時知られていた外国の衣装まで入っていた。主として貴族の衣装がもてはやされたが、従者や高級娼婦などまで描かれていた。このブログにもとriあげたカロに先立つロレーヌの銅版画家ジャック・ベランジュの銅版画にも、いったいどこの国の人だろうと思わせるエキゾティックな人物が多数描かれている。

 

本書(英語版)の大変興味深い点は、カスティリオーネの原書の英語訳に続いて、彼が抱いていた貴族像について、10人のさまざまな観点からの批評が掲載されていることである。内容は非常に面白いのだが、今ここに紹介するだけの余裕がない。下記の邦訳もある。


カスティリオーネ・バルダッサッレ(清水純一、岩倉具忠、天野恵訳註)『カスティリオーネ宮廷人』東海大学出版会、1987年。

 
続く

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