時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

すでに見えている未来:ル・ナン兄弟の作品発見

2018年06月28日 | 絵のある部屋

 Le Nain, L’enfant Jesus blond méditant devant une croix, 1642-43
(c) Courtesy of Rouillacs, The Art News Paper 

ル・ナン兄弟《十字架を前に祈る幼きイエス》1642-43

 


長い白衣をまとった幼い子供が胸に手をあてて祈っている。頭上には光輪が描かれている。キリスト教についての知識があれば、ほぼ直ちに幼いイエスではないかと分かる。足下には大きな十字架が横たえられており、近くには小さな十字架も見える。あたりは薄暗く不穏な気配が漂っている。幼いイエスは自らの将来に待ち受ける運命を予知しているのだろうか、何事かを瞑想している。重く陰鬱な感じが観る人に伝わってくる。

この作品、フランスの70歳近い女性の家に所蔵されており、最近17世紀のオールド・マスター、ル・ナン兄弟の手になるものと判明した。1950年代に祖母から贈られたとのこと。この女性自身も晩年に差しかかり、資産の一部を処分しようとして作品を鑑定に出した。鑑定者は直ちにル・ナン兄弟の作品と推定し、確認のためルーヴル美術館所蔵の作品などとも、比較考察したという。その結果、ル・ナン兄弟の作品として本年6月、ニューヨークのクリスティで競売にかけられた。落札者などの詳細は不明だが、落札価格は300万ユーロから500万ユーロと推定されている。作品は現在、修復作業中であり、いずれ公開されるようだ。

《十字架を前に祈る幼きイエス》と題され、ル・ナン兄弟の手になるものと推定されている。胸に手を当て何事かを瞑想するイエスの前には、恐らくその後のキリスト磔刑の最終決定をした古代ユダヤの総督ピラトが使ったと思われる酒杯と手を洗ったタオルが置かれている。

ル・ナン兄弟 、日本では農民の家族などを描いた一部の風俗画ジャンルを別にすると、あまり知られていない。17世紀フランス、パリで活躍した3人兄弟の画家である。同時代のジョルジュ・ド・ラ・トゥールと並び、ブログ筆者ごひいきの画家たちである。ラ・トゥール同様、長らく忘れ去られていた”リアリズム”の画家のグループに入る。近年、新たな作品発見もあり、研究も進んでいる

筆者は、農民、鍛冶屋など、働く者たちを描いた世俗画で知られるル・ナン兄弟について、ラ・トゥールと同じ時期に格別な関心を抱き、機会があれば、できうる限り作品を見てきた。気づいてみると、半世紀近い長い付き合いとなった。

ルナン兄弟はパリに工房を構え、しばしば共同で制作活動に当たっていたようだ。そのため、署名もLe Nain として姓だけを記した作品がほとんどで、兄弟の誰が主として制作したのかは不明なことが多い。

この作品、概略を見ただけでは詳細な論及はできないが、一見してラ・トゥールの《大工聖ヨセフ》を類推させる。しかし、作品についての思索の深さ、洗練の程度においては、ラ・トゥールに一日の長がある。ラ・トゥールはが画題に必要最小限なものしか描かなかったが、ル・ナン兄弟の作品はより細部に立ち入って制作している。ル・ナン兄弟が工房を置いたパリとラ・トゥールの主たる活動地域であったロレーヌは近接していることもあり、お互いにその存在、活動は熟知していたと思われる。



 C. D. DICKERSON III AND ESTHER BELL, THE BOROTHERS LE NAIN: PAINTERS OF SEVENTEENTH-CENTURY FRANCE, New Haven and London:Yale University Press, 2016. KIMBELL ART MUSEUM, FORT WORTH, TEXAS, FINE ARTS MUSEUMS OF SAN FRANCISCO. 

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ライオンと闘う前に: ワールド・カップ管見

2018年06月23日 | 午後のティールーム

 

L.S.ラウリー《試合を見に行く》1953年


サッカー・ワールドカップがメディアを”独占”している。ブログ・筆者も’隠れマニア’なのだが、関心のありかは必ずしもサッカーの試合ではない。かつて産業・労働問題調査のためイギリスに滞在中、マンチェスター周辺に何度も出かけたが、「ユナイテッド」、「シティ」の2大ティームのファンの気性や行動にも驚かされたことがあった。社会階層の差や考えも反映して微妙に違うのだ。ご贔屓の画家L.S.ラウリーも「シティ」の熱心なファンだったが、以前に紹介したように、試合(match)を見に行く観衆の光景を描いている。

今回のワールド・カップの特徴は世界の2大政治経済大国アメリカと中国が出場していないことだ。この2国が出ていたら、メディアの世界はどんなことになっているだろうか。トランプ大統領がなんとツイートするか、考えて見ても面白い。もちろん、「アメリカ・ファースト」だろうが。開催国ロシアのプーチン大統領は大分得をしたようだ。

ニューヨーカーの反応
興味深いのは、ナショナル・ティームは出ていないが、移民大国のアメリカ市民の反応だ。TVを見ることは多くないブログ筆者だが毎朝楽しみに見ている数少ない番組はマイケル・マカティアさんの@nycliveだ。この人の当意即妙のユーモアとエスプリにはいつも感心させられる。

6 月23日朝の時間にはニューヨーク市民に、どの国を応援しているのかを尋ねていた。メキシコ、コスタリカなど中米出身者は、ほとんど出身国を応援する。アフリカ系の人たちは、それぞれのルーツである出身国を応援する。南米コロンビアからの移民は、日本・コロンビア戦では、当然母国コロンビアを応援したが、負けてしまった後では日本も好きだという人もいた。「アメリカ合衆国」United States of America (文字通りなら「合州国」)という異なった出身国あるいはルーツの人々を混然一体として束ねた国(今でも「サラダ・ボウル」といえるだろうか)であるだけに、その反応が面白い。一時は、サッカーは国家間の「代理戦争」という評価もあったが、スポーツだけに、終わってしまえば後に残らないのが救いだ。

アフリカの背景
そうした状況を背景に、もし中年のアルジェリア人にこれまでのワールドカップで最も印象に残る試合は何かと尋ねると、1982年、アルジェリアが西ドイツ(当時)に勝利した試合だと答えるという。試合前のプレスのインタビューで、あるドイツ選手が「7番目のゴールは妻に、8番目は犬にささげたい」と答えて、アルジェリア人に限らず多くのアフリカ出身者が屈辱感を抱いたという。サッカー・スタディアムは、植民地主義、経済格差、愛国主義、ナショナリズム、純粋のスポーツ愛好心など、あらゆるものが混然一体となる場でもある。

目前に迫った日本・ザンビア戦について一言。かつて1950年代以前、アフリカは列強の植民地として、独立した国などほとんど存在しなかった。アフリカを宗主国別に色分けしたら、何色いるだろうかと思わせたほどカラフルだった。アフリカという統一されたイメージは想定し難かった。

セネガルについてもワールドカップ登場への背景は複雑だった。2002年の日韓大会5月31日、当時のフランスはディフェンディング・チャンピオンだった。ソウルで行われた開幕戦で、初出場のセネガルは前回優勝国の フランスと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。

優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷した ジダンの抜けた穴を埋めることができず、 アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながら グループリーグ で1得点もあげられずに敗退した。文字通り、’想定外’のことが起こるのだ。

「ライオン」のその後
セネガルの首都ダカールは歓喜に沸く人々で埋め尽くされた。中心の「独立広場」Place de l’Independence の集まりには大統領まで参加した。セネガルは1960年フランスから独立したのだった。

この2002年、フランスに勝利した時のセネガル・ティームの監督はブルーノ・メッツ Bruno Metsu, なんとフランス人監督だった。彼はその後、イスラム教に改宗し、名前もAbdou Karimとなった。2013年死去の折にはセネガル国民がその死を悼んだ。そして、今回の代表ティーム監督はセネガル人のアリオー・シセ Aliou Cisscé が率いるまでになった。見ようによっては容貌、風采もライオンのようだ。

「ライオン」(セネガル・ティームの愛称)は、どこまで強くなっているか。「サムライブルー」はどう闘うか。両国ともに視聴率はどこまで上がるだろうか。両国民、そして世界のサッカー・ファンが熱狂する一線になるだろう。今回のワールドカップ注目の一戦であることは疑いない。


追記(2018年6月25日):
「サムライ 万歳! 勝って兜の緒を締めよ 」

 

 

 

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あらゆる障害を乗り越えて:マルクスとエンゲルスの妻たち

2018年06月12日 | 書棚の片隅から

 

トリーア、ポルタ・ネグラ


映画『マルクス・エンゲルス』を観る。今年はマルクス生誕200年に当たり、この世界に突出して大きな衝撃を与えた人物と思想を回顧するさまざまな試みがなされている。関連した出版物も多い。マルクスは1818年5月5日、ドイツ(プロイセン)のトリーアでユダヤ人家庭に生まれている。映画の原題は、The Young Karl Marx 。監督のラウル・ペック Raoul Peck については、ブログ筆者は知らなかったが、今回の作品は失われていた記憶を少し取り戻す効果はあった。2017年、フランス、ドイツ、ベルギーの合作である。日本語版タイトルは『若き日のカール・マルクス』とした方が原題と内容に近かったのではないか。

実は、マルクス、エンゲルスの生涯を通しての人物像、時代回顧が観たかった。例えば、マルクスの晩年はいかなるものだったか。エンド・クレジットに20世紀の劇的出来事と人物像が流れるが、全体に詰め込み過ぎで忙しい印象だった。映画というメディアの限界かもしれない。

確かめたかった問題
最近のThe Economist誌「マルクス再考」'Reconsidering Marx' と題した短いエッセイに、マルクスに関する伝記は数多いが、アイザイア・バーリン Isaiah Berlin(1929-1987)のKarl Marx(1939)が、依然としてベストだと記されている。実はこの哲学者、思想家についての研究者であるカナダ人の友人に推薦され、若い頃に読んだことはあった。小著の部類に入るが、マルクスという型破りの人物を自分なりに理解できたと思った。

1840年代、怪獣ビヒモスにたとえられる産業革命(ブログで一部連載中)が、発祥の地イギリスからヨーロッパ大陸へも拡大、本格的展開を始めた頃が舞台となっている。社会体制が大きく揺らぎ、それまでの貧困とは質を異にする資本主義の巨大な波が生み出した新たな貧困と差別が蔓延するようになった時代である。

映画は、若い時代のマルクスと妻のイェニー、そして終生の友となったエンゲルスとの出会いと交友関係が中心となっている。世界を揺るがせた人物だけに、今ではその人物像などもかなり明らかになっている。しかし、映画は字幕スーパーなので、ある程度の時代背景、人物についての予備知識がないと速度が早すぎ、分かりにくいところがある。映像を止めて見たい箇所がいくつかあった。

振幅の大きな人間
マルクスの生涯は彼が生きた時代環境も影響してか、かなり破天荒なところがあった。1949年トリーアを出て以降、無国籍者として放浪の人生だった。性格もかなり粗暴で自己中心的でもあり、飲酒、喫煙にふけり、家計も生涯を通してほとんど貧窮状態に近かった。盟友エンゲルスの多大な援助、妻イェニーの母の遺産相続などで、窮地を救われたりしていたらしい。それでも一時期家政婦との間に非嫡出子をつくるなど、放埓な生活を過ごしていた。こうしたひどい生活を送りながらも、主たる活動の場となったロンドンでは貧困地域のソーホーに住みながら、大英博物館図書館に日参する側面があったことも、興味深い点だ。

新たな知見もいくつかあった。そのひとつは、1836年トリーア時代に4歳年上のイェニー(イェニー・フォン・ヴェストファーレン)と婚約し、1843年に結婚したことだ。妻イェニーは名前から推定できるように貴族の娘であった。かつてトリーアのマルクスの生家を訪れた時、説明を読んだはずだが記憶になかった。最近のように中国人を中心に観光客がひしめく時代ではなかったから、マルクス・ハウスの展示も簡素であった。マルクスは弁護士だった父親の考えもあって、1836年ボン大学からベルリン大学へ転学している。乱脈な息子に危惧を感じたのだろう。その後、パリ、ブラッセル、ロンドンなど転々とする人生だった。

妻イェーニの存在
貧困な家庭のマルクスと貴族階級の娘という取り合わせは、経済的にも思想的にも正反対だが、結果としてはイェニーはマルクスを助け、歴史に残る人物を支え切った。マルクスは経済学者でもありながら、家計の管理能力は全くなく、生活は貧困を極め、一時は離婚の危機もあったようだ。マルクスがなんとか波乱の多かった生涯を全うしえたのは、妻イェニーの絶大な忍耐、献身と盟友エンゲルスからの経済的支援があったからではないだろうか。イェニー自身はその出自からも、家計の管理能力などはあまりなかったらしい。しかし、彼女は家庭の貧困や夫の人格的欠陥を補い、3人の娘を残し、1883年に世を去っている。「マルクスの妻」というテーマで映画化もできるかもしれない。

エンゲルスの妻は
他方、死後のマルクスの遺稿整理まで深く関わった盟友フリードリッヒ・エンゲルスは、マンチェスターの大紡績工場主の父の下で、裕福な家庭に生まれた。しかし、労働者としてエンゲルス(父親)の工場で働いていたリッジー(メアリー)・バーンズと出会い、相互に愛し合う関係になる。エンゲルスが彼女のいかなる点に惹かれたのかよく分からない。彼女は極貧のアイルランド系で教育もほとんど受けていなかった。彼女の人生については、これまでもほとんど知られていない。彼女がエンゲルス(父親)の工場を解雇された後は同棲生活に入った。イェニーについてはこれまでかなりのことが語られてきたが、メアリー・バーンズについては映画では比重が他の3人より一段低いのはこうした点にあるのかもしれない。エンゲルスはメアリーと生活をともにしながらも、他方では大紡績工場の経営者の嫡男ということもあって、女性関係はかなり乱脈でいい加減だったようだ。

しかし、1863年エンゲルスがマンチェスター近くのサルフォードへ工場経営のため移った年、20年近く連れ添った事実婚の伴侶リッジー・バーンズが亡くなった。それまでリッジーは、移住後のロンドンにおけるヴィクトリア社会に慣れることだけでも大変な苦労だったはずだ。それでも、国籍、階級、教育、宗教の違いにもかかわらず、二人の関係は続いた。興味深いことは、遊び人のエンゲルスにとって、リッジーは他の女性関係とは一線を画す存在であり、その死は大きな衝撃だったようだ。マルクスにもそのことを知らせている。これに対し、なんというべきか、マルクスは彼女の死を悼むことより、返信で金の無心をした。エンゲルスが激怒したことはいうまでもない。マルクスにはエンゲルスの悲しみもなかなか通じなかったようだ。マルクスの人間性を疑いたくなる一面だ。しかし、エンゲルスは最後まで人間として欠陥だらけのマルクスを支援した。マルクスは、資産家で脇の甘いエンゲルスにたかって('sponge off': The Economist) 生きてきたともいえる。マルクス、エンゲルスともに、当時の社会規範から見ても、放縦で逸脱した人間だった。その二人をつなぎとめていたのは、その判断の正否は別として、人間世界の悲惨な現実と将来への正義感であったといえるだろうか。

最近は、リッジー・バーンズについてもわずかに残る史料を手がかりに小説も生まれ、その輪郭が語られるようになった。リッジーは夫エンゲルスを助け、きわめつきの悪筆だったマルクスが残した断片的資料などを整理し、マルクスの思想体系をひとまず完結するに影の力となったと思われる。労働者としてまともな教育すら受けられなかったリッジーについても、もう少し知りたかった。エンゲルスは彼女の仕事にもかかわらず、妹のリディアと結婚した。

岩波ホールを出ると、そこは映画の世界から200年経った夕闇迫る世界だった。一時は足繁く通った界隈だが、最近は1年に数回になった。馴染みの店も大きく変わってしまった。


References

’Second time, farce’、The Economist May 5th 2018
ハンス ユルゲン クリスマンスキ(猪股 和夫訳)『マルクス最後の旅』太田出版社、2016年
 Gavin McCrea, Mrs. ENGELS: A Novel, Catapult, 2015

大繊維企業の経営者であったエンゲルスは、ロンドン市内にこうした住宅を複数所有していた。

 

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怪獣ビヒモスを追って(4): 靴磨きはどこへ行ってしまったのか

2018年06月06日 | 怪獣ヒモスを追って

 

*靴磨き The Independent Shoeblack, 1877 (クリックで拡大)

ディケンズは自らの経験から、幼い子供たちがロンドンの路上に放り出されたら、小さなひったくりや浮浪者になるしか生きる道がないことを知っていた。なんとか犠牲になる子供たちを救わねばならないとの思いがこの作家の作品には溢れているし、シャフツベリー卿 によって設立された The Schoeblack Society 靴磨き協会 などに寄付をしている。当時ロンドンには9つの靴磨き集団 brigades があったといわれるが、この少年は自分の仕事場 ‘pitch’ を選ぶため、どれにも属さなかった。(Werner and Williams, Dickens’s Victorian London, 1839-1901, Ebury Press, 2011, p.109)

日本でも終戦後はいたるところで、こうした路上で靴磨きを仕事とする人たちを多数見かけた(東京都内だけでも500人以上との推定もある)が、1960年代ごろから激減し、今日ではきわめて稀にしか見かけることがない。「東京シューシャインボーイ」などの歌が流行したこともあった。人々は、この頃はどこで靴を磨いているのだろう。靴修理のチェーン店などが一部を吸収したかもしれない。家庭がその機能を取り込んだかもしれない。そのほかにも多くのことが推定できる。都道府県や警察の「道路占用(使用)許可の厳格化などもあるかもしれない。開発途上の国へ行けば、今でもいたるところで見かける仕事だ。アメリカでも同様な光景が見られ、記録されている。

 

 

産業革命の展開に伴い、「工場制」という怪獣ビヒモスは、次第にその強大で残酷な力を見せ始めた。イギリスで始まった工場制は単に多くの人々が物珍しさで訪れ、驚嘆した工場という建屋と、そこで働く人々に止まらなかった。

壊される伝統のシステム
工場制システムという革新的な変化は、新しい生産様式、大量に動員される労働者、激しい労働条件の変化、そして彼等の生活、社会を大きく変容した。新たな工場制というシステムは社会の根幹に激しい変化をもたらしつつあった。その変化は瞬く間に多くの人々の想像の域を超え、これまで長きにわたって、総体としては安定した社会秩序を保ってきたメカニズムを破壊しつつあった。人びとが、新たに生まれた工場や蒸気機関車の走る鉄道を好奇心や遊覧の対象としている間に、怪獣はその巨大な足で既存の社会システムを踏み潰していたのだ。

産業革命期を生きた大作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)はご贔屓の作家なのだが、大作が多く全作品の3分の2くらいしか読んでいない。読み直すたびに新しい発見がある。200年近い年月を経ても、変わっていないと思う事も多い。この時期、ヴィクトリア時代のロンドンを知るには、この大文豪の作品を読むことが欠かせない。ディケンズの作品には当時の工場で働らく人たち、とりわけ貧困のどん底にあって虐待される子供たちの様子などが克明に描かれていて、もはやそこには牧歌的な農村の情景などはない。日没から夕暮れまで、自分のペースで日々を過ごしてきた農民や家内労働者たちはどこへ行ってしまったのだろう。

ディケンズも「靴磨き」をした
なぜ、ディケンズは貧民や児童労働に通じていたのか。この作家の生い立ちを調べてみて分かったのだが、ポーツマスに近いポートシーから家族がロンドンに出てきた翌年、父親が借金を返済できず収監されてしまう。働き手を失い、貧窮のどん底に追い込まれた家族のため、ディケンズは9歳で靴を黒く塗る工場 blacking factory で働らくことになった。ロンドンなどの大都市では、親方の縄張りの中で、町角などで靴を磨く「靴磨き」という職業も生まれていたが、靴工場で製品としての靴に色(多くは黒色)を塗り込む工員も増えていた。ディケンズはここで様々な体験をし、それは後々の作品に姿を変え登場する。父親が出所した後、ディケンズは学校へ戻ったが、当初志した上級の学校へ進学することはできず、中途で議会関係のレポーター(ジャーナリスト)として生きることになった。これらの経験は、彼の文才と相まってディケンズを世界的な小説家へと押し上げる。

ディケンズはその後次々と傑作を世に出し、イギリス、そして世界を代表する文豪にまでなった。しかし、ディケンズ自身は、自らが極貧ともいえる時期を過ごしたことを積極的に語ることはなかった。文豪の心理も複雑だった。

名作『オリヴァー・トウイスト』の主人公オリヴァーも、イギリスのとある町の救貧院で生まれた男の子で、生まれながらに孤児であった。その後、オリヴァーは苦難な日々を過ごし、ロンドンへ逃れたが、そこには凶暴な盗賊団が待ち受けていた。今日では、ディケンズの住んだ家のすぐ近くに救貧院があったことが判明していて、保存活動が進んでいる。

失われる職人の誇り
農村で十分に働く機会を得なかった農民たちは都市の工場へと駆り出された。彼等は新しい工場で課せられる様々な制約は、好きではなかった。さらにいままでとは違った技能の習得のあり方にも積極的ではなかった。これまで長らく職人の誇りでもあった親方に弟子入りして身についた熟練と、それを支える徒弟制は、次第に工場制へ取り込まれていった。

産業革命の中心であった木綿紡織工場では、従来家内工業といわれる場で継承されてきた糸を紡ぐ仕事は工場へ吸収され、機織り機は新しい紡織機械が取って代わった。そこでは、切れた糸をすぐに探し出し、腕力ではなく、か細い手指で手早く糸をつなぐ仕事が求められた。工場主たちは、若い、主として女子を労働者として雇用した。

劣悪な児童・女子の工場労働
1835年当時、イングランドでは木綿工場で働らく労働者のおよそ3分の1は、21歳以下だった。スコットランドではこの比率は2分の1近かった。彼女たちの中には7歳くらいの女の子もいた。工場主側は10-12歳くらいの子供たちを選んだことが多かった。工場によっては成人は監督者ただひとりだった。こうした状況は、ビヒモスがその足を北米に伸ばした時もそうだった。最初の頃は多くの工場主が昼夜一貫して操業してきた。勤務のシフトは12時間交代か13時間交代で、夜食の時間として1時間が割かれたに過ぎなかった。

工場は機械の騒音と綿糸の屑や埃で息苦しいほど汚染されていた。しかし、子供たちをこうした劣悪な工場労働に送り出さない限り、生活できない貧窮した家庭が、ロンドンやマンチェスターなどの都市には増加していた。これも産業革命が生み出した社会的・経済的変化の一面だった。

初期の工場は十分な数の労働者を集めることができず、貧窮院 Workhouses といわれる孤児など身寄りのない子供などを養育するきわめて劣悪な施設からも子供たちなどを受け入れて働かせた。この実態は、当面ディケンズなどを読んでいただくしかない。ロバート・オーウエンがラナークの経営を引き受ける前までは、工場で働いていた子供の中には5歳くらいの児童もいた。1823年の法律では雇い主の許可なく2-3ヶ月で工場を離れた者は3ヶ月も収監された。

綿工業の重要性と過酷な労働
この時代の工場はすでにかなり多岐にわたったが、圧倒的な重みを占めたのは木綿繊維工業だった。産業革命の柱だったといえる。綿工場での児童や女子労働の劣悪極まる労働は、まもなく多くの人々の注目するところとなる。

劣悪な労働という点では、伝統的な家内労働などの分野を含めて多岐にわたったが、注目を集めることは少なかった。良くも悪くも綿工業は産業革命の中心だった。

イギリス社会に広く知られるようになった綿工業のユニークな生産システムと劣悪な労働条件は間もなく議会でも大きな論争の的となり、「工場法」Factory Act として知られる一連の規制立法が制定された。当時のイギリスには多数の産業があったが、この立法が対象としたのは綿工業だった。それも劣悪な状況で働いていた子供たちが対象だった。他の多くのイギリスの労働者にとってはほとんど目立った改善の効果はなかった。木綿工業が当時のイギリスにとっていかに大きな存在であったことが分かる。

産業革命はさらに一段とその速度を増し、イギリスのみならず、新大陸アメリカでもさまざまな問題を生む。

 

続く

 

追記:
PCを修理に出した後、日本語変換システムが’反乱’を起こして、原因不明の誤作動、誤変換続出。入出力のポイントも大きくしていますが、ご迷惑をおかけしています。幕引きの時が近いようです。

 

 

 

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城門は開かれるべきか:外国人・単純労働に門戸開放? 

2018年06月01日 | 移民政策を追って

 

復元されたヴィク=シュル=セイユ(フランス、ロレーヌ)の城門
 

先日、東京山手線のある駅に隣接するコンビニ店に入ったところ、その前の月は4-5人の日本人ばかりだった店員の全てが外国人、それも東南アジア系の男性であることに気づき、一瞬目を疑った。キャッシュレス化したレジでは片言の日本語でも大きな問題はないが、現金のやりとり、商品の質問などについては、仲間に聞きに行ったり、心もとないところもある。他方、人手不足で閉店に追い込まれたコンビニも増えてきたようだ。いずれ、こうした事態が起きることは、かなり以前から予想されていたことではある。

そうしたなかで新たな外国人労働者受け入れ策として、日本語が苦手でも就労を認め、幅広い労働者を受け入れるのを特徴とするという訳の分からない理由の下に、新政策を導入するとの新聞記事を読んだ。2025年ごろまでに建設、農業、宿泊、介護、造船業などの5分野で50万人を越える就業を想定するという。今頃になって、なんとも気の抜けたビールのような感じと言ったら良いだろうか。「働き方改革」法案もそうだが、目先の問題にのみ目を奪われ、来るべき労働市場の構想が見えていないあるいは構想自体がほとんどないままに目前のことだけに対応しようとする政策が多い。上述の5分野にしても日本人が働かなくなった労働条件が厳しい職場がほとんどだ。しかも、仕事上危険が伴う可能性が高く、正確で、微妙な意思疏通が必要な領域だ。日本語での適切な情報伝達と理解なしに、安全で人間的な仕事環境は生まれない。

この国の政策には、成り行きまかせ、あるいはおざなりという印象を与えるものが多い。過去の経験から何も学んでいないとしか思えない。国際的にも悪評の高い「技能実習制度」はその代表だ。以前から労働条件の悪さに失踪するなどの問題が多発している。現代のような情報社会では技能実習生の名の下に、劣悪な労働条件で働く外国人労働者を他へ移動できないよう束縛することは人道的にも問題であり、失踪、逃亡などが発生することも不可避だ。

労働者送り出し国の産業育成のために、日本で習得した技能をもって貢献するという本来の目的は、当初から重視されることはなく、実態は単純労働者を受け入れの隠れ蓑になってきた。制度自体が形骸化してしまっていて、本来目的であるべきであった方向とは全く別のものになっている。

その点の反省もないままに、単純労働者の多数受け入れのために、名前だけはもっともらしい「特定技能評価試験」(仮称)を新設し、合格すれば就労資格が与えられるという。さらに、日本語についても「ややゆっくりとした会話がほぼ理解できる」水準ならよいという。これまで日本語の能力が改めて強調されていたことに、どう答えるのだろうか。受け入れ国の国語能力の向上は、ヨーロッパなどの外国人労働者受け入れに際して、社会的・文化的摩擦や犯罪を防ぐ上でも重要度は増している。そうした点を軽視して、ただ労働力として人手不足を軽減する手段とするのは、格差拡大が深刻化しているこの国の労働市場に、さらに下層の労働者層を作り出すことになる。外国人受け入れは専門性の高い労働者からというこれまでの発言とどう整合させるつもりか。「働き方改革」法案とほぼタイミングを併せての提案だけにその意図は見え透いている。

人口政策に失敗し、激しい労働力不足が避けがたい日本にとって、低熟練の外国人労働者を受け入れることも検討しなければならないことはかねて論じてきた。問題はその方法と時期である。この問題については筆者はかなり以前から可能性を示してきた。しかし、アメリカ、ヨーロッパなどの多くの国がどちらかというと閉鎖的方向にある時に日本がほとんど議論なしに、多数の不熟練労働者を受け入れる政策には疑念を抱かざるを得ない。高度なスキルを持った外国人を優先して受け入れるとのこれまでの政策とは、どう関連するのか。新たな低賃金労働者層が形成される可能性がきわめて高い。

これからの時代を見据えて政府が行うべきことは、現行の欺瞞的とも言える「技能実習制度」を解体し、未来のさらなる人口減少に対応しうる、受け入れ目的が透明な制度を再構築すべきだと思う。このままでは2020年以降の社会的な大混乱は避けがたい。オリンピック以後、訪日の「目的」や「期間」を越えて滞在する外国人は一段と増えるだろう。来日して日本が嫌いになる人もいれば、ここなら永住したいと思う外国人もいる。その中で「移民政策」の名を掲げなくとも、実質的に母国へ戻ろうとしない外国人の数が増加する可能性は高い。今日、EU諸国やアメリカが直面している難問だ。滞在許容年数を長期化するほど、熟練度は高まったとしても、社会的摩擦は増加することは確かめられている。

格差拡大が深刻な問題となっているこの国で、低賃金の外国人労働者を受け入れて、労働者の数だけは確保しようという制度の底はすでに割れているとしかいえない。

 

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「外国人、単純労働に門戸、建設や農業 25年に50万人超」『日本経済新聞』2018年5月30日

追記:2018年6月6日、TVなどのメディアは、日産自動車が自社の外国人技能実習生45人に、国へ届け出た計画とは異なる作業をさせていたことを報じている。5月には三菱自動車で同様に、実習計画とは異なる作業をさせていたことが分かっている。本来、スタッフなどが充実しているはずのこうした大企業ですら、「技能実習制度」を遵守していないという事実は、度々指摘されるように、いかにこの制度が欺瞞に満ちたものであることを示している。

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