近年、「マンガ」という文字をいたるところで目にするようになった。どちらかといえば、子供の頃だが、筆者も長らく親しんできたジャンルなので、取り立てて違和感はない。しかし、しばらく前から大書店などに設置されている「マンガ」コーナーの棚を探索することはない。ただ、長らく見慣れていた「漫画」をなぜ「マンガ」というカタカナ表示にしなければならないのかということには、多少疑問を感じたことはあった。しかし、その源にまで立ち入って調べたこともなかった。多分、それまでの「漫画」は漢字で、若い世代には覚えにくいので、「マンガ」という安易な表現が流行し始めたのだろうと思った程度であった。このほかにも、「アニメ」,「コミック」、「劇画」など、類似してはいるが微妙に異なる用語、とりわけカタカナが増えた。
しかし、ふとしたことで、辞書を繰ってみた。それによると「漫画」は、①単純・軽妙な手法で描かれた、滑稽と誇張を主とする絵、②特に、社会批評・風刺を主眼とした戯画、ポンチ絵、③絵を連ね、多くはセリフを添えて表現した物語、コミック。」(『広辞苑』第6版)などの説明がある。しかし、「マンガ」というカタカナの見出しはない。世の中で使われているからといって、長い歴史を持つ辞書に採用される訳ではないとことは、これまで『広辞苑』を含めて、いくつかの辞書編纂に関わったこともあるので、理解はできる。掲載用語の選定にはバランスのとれた微妙な社会感覚が必要とされる。流行語に近いものほど、短期間に忘却、使用されなくなってしまう。甚だしい場合には、辞書の企画から出版時までの間に忘れられてしまう言葉も稀ではない。
北斎の「漫画」
ブログのつながりで、今月27日閉幕したばかりの『北斎漫画の世界』(信州小布施「北斎館」開催)を訪れ、チラシを読んでいる時に、なるほどと考えさせられた記事に出会った。それによると「北斎漫画」の「漫画」の概念は、いわゆる現代のコミックや劇画とは根本的に異なっている。
江戸時代に「漫画」といえば「漫然と描くもの」、つまり筆のおもむくままに描いたものという意味だった。『北斎漫画』は、結果として、絵を学ぶ人々のために描かれた絵手本とういう"教科書"のような存在だった。当時の版木という印刷技術を使った印刷物を経由して北斎の弟子や関心を抱く画家たちが、絵の勉強をする手本だった。その一部はヨーロッパなどへの輸出品の充填材や包み紙として使われ、オランダを中心にフランスなど、ヨーロッパの各地へ広がり、それらに興味を見出した人々の関心を引き出した。まさにジャポニズムの源流となっていた。
北斎はその生涯に93回転居したといわれる「転居魔」であったことで知られている。生まれは現在の東京墨田区深川付近であることも分かっている。その波乱の多い生涯で、天保15年(1844年)、85歳の時に信州小布施の豪商で門人であった高井鴻山の招きで東町祭り屋台天井絵の『龍図』と『鳳凰図』の制作を依頼され、同地に赴いた。その翌年も上町祭り屋台図を描くために、再び小布施を訪れている。今日のように新幹線や長野電鉄などの交通手段がなく、ほとんど徒歩、せいぜい騎馬で往復していた時代であり、高齢であったにみ関わらず、その強靭な制作意欲にはひたすら感嘆する。
豪商:高井鴻山邸宅の一部。北斎が一時期滞在。
「栗と花と北斎の町」
今では「栗と花と北斎の町」として知られる小布施の環境は素晴らしかった。これまで、長野、湯田中、志賀高原など、付近の観光地や温泉地には度々出かけていたのだが、小布施には近年行ったことはなかった。久しぶりに訪れたこの小さな町は素晴らしく変身していた。「栗と花と北斎の町」をテーマに、小布施の町全体が一つの目的に向かって、それぞれ独自の努力をしており、それは見事な成果として実っていた。筆者は長らく地域の産業と雇用の創出の問題に関わってきたが、小布施のケースは見事な成功例と思われる。細部では、問題もあることは十分推定できるが、全体としては優れた創意が発揮されていた。外国人の訪問者も多数見かけた。今後の日本の課題でもある地域再生の素晴らしいモデルの例と言える。
美しい信濃の山々に囲まれた町には、豪商高井鴻山の素晴らしい屋敷内に設けられた北斎の工房や、当時の豪商、豪農の生活をしのばせる屋敷が、整備されて保存されている。北斎が描いた大作品が残る岩松院などの天井画も保存されており、人口約1万人の市ながら、国内のみならず海外からも集客できる吸引力を持つ、日本の美しさを継承する魅力的な観光地に生まれ変わっている。これからこの美しい町がいかに変化しているか、楽しみである。
紅葉の美しい岩松院付近の展望
北斎 『菊』
Reference
浦上 満『北斎漫画入門』文春新書、2017年10月
本書は筆者の浦上氏が家業の古美術商を経営する傍ら、『北斎漫画』の世界一のコレクターとして、その真価を世界に普及することに尽力してきたこれまでを記した魅力ある小著である。北斎漫画の全容、世界的な評価を知るにはきわめて優れた入門書である。こうした地道でややマニアックな努力が集積して、今日の「北斎ブーム」が生まれたと言える。今年、国立西洋美術館で開催された企画展カタログと併せて読むと、北斎という画家の偉大さを実感することができる。